日本ナザレン教団飯塚キリスト教会日本ナザレン教団飯塚キリスト教会

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先週のみ言葉

先週のみことば

2019.11.03
「私の生き方」詩篇23篇


 本日は召天者記念日の主日です。私どもも天に還る日が来ることを憶えながら、日々を過ごして行かなければなりません。
 詩編23編は多くの方々に愛されている詩ですが、日々の生活に対して安心感を与え、憩いを与える言葉によって成り立っているからだと推測しております。
 しかし今回、この詩を二つの面から読み、メッセージを聴いてまいります。
 一つは3節に書かれた「み名にふさわしく」という言葉です。牧者である主は、羊に対し、様々な良いこと(青草の原に休ませてくださる・憩いの水のほとりに導いてくださる・魂を生き返らせてくださる等々)を行ってくださいます。何故そうなさるのかを詩人は「み名にふさわしい」ことだからだ、と言っています。主が行われることのすべては「み名にふさわしい」ことであり、主の名に相応しくないことは、何一つ行わないお方である、と伝えます。主は主の名を惜しむ方なのです。
 しかし私たち人間は、神の思い、計画を知らないがゆえに、苦しみや困難、特に大震災や大きな自然災害等に出遭ったとき、それを「み名にふさわしい」と思うことは難しいのです。そのような時「主よ、何故?」と問い、「悲しみ・苦しみに出遭っている一人ひとりが起ち上がることができる助けをお与えください」と祈る方を与えられていることを憶えたいと思います。そのようなとき「み名にふさわしい」道が与えられることを信じております。そして私も祈ります。主は「み名にふさわしいことを行われるお方」だからです。
 詩編23篇においてもう一つ力強い言葉は6節に歌われます「命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う」という言葉です。6節の一部ではありますが、この内の「恵みと慈しみはいつもわたしを追う」という言葉です。この「追う」という言葉は「追いかける」と表現した方が良い言葉です。私たちは我がまま勝手に生きる者です。ルカ福音書は15章で羊飼いの前からいなくなる(失われる)存在です。神から離れ、背く存在です。しかし主は「恵みと慈しみを以てわたしを追いかける」お方だというのです。
 それだけではありません。やはりルカ15章は、いなくなっていた息子が帰ってくるのを待ち続ける父の姿を表して、主なる神は、離れ・背いた者が帰ることを待ち続けるお方だと伝えるのです。「帰れや 我が家に 帰れやと主は今呼び給う」と讃美歌作者は歌いました。
 み名に相応しいことを行い、追いかけてくださり、帰ることを待ち続けてくださる神のもとに私たちも帰る者として残された日々を歩んでまいりたいと願います。

10月

2019.10.20
「恵の神の心配り」イザヤ書40章21~26節


 お読みいただいた聖書の個所のどこに「神の心配り」を感じ取られるでしょうか。むしろ神が為さったこと、神の偉大さ、凄さ、そのようなことを感じさせる記述が続いています。確かに、天地創造における神の業、人に対する関わり方を知らせます。それは人間の小ささ、無力さを伝えることでもある、ということができます。
 それでもなお「神の心配り」を見出すならば、それは26節に伝えられた言葉の中にあると受け止めさせられます。「目を高く上げ、誰が天の万象を創造したかを見よ。それらを数えて、引き出された方 それぞれの名を呼ばれる方の力の強さ、激しい勢いから逃れうるものはない」と書かれます。
イザヤが伝えた「天の万象」とは具体的には何を意味しているかと申しますと、天文学的な数字で表す以外にない星のことを意味します(エレミヤ書82節参照)。天文学的な数の星々の一つひとつを数え、その名を神はご存じである、とイザヤをとおして語られて行く神、その方は私たち人間に対しても全くその通りである、ということができるのです。
 神の心遣いの一つとして、神はイザヤの時代から2600年に近い時を経た今日、私たちに新約聖書を、その中には福音書が含まれているのですが、それをお与えくださっています。その一つであるルカ福音書12章に書かれた記述をとおして、私たちはイザヤ書に見る神の心遣いと同じことを読むことができるのです。67節です。雀のことと髪の毛のことが書かれています。
雀に関しては「五羽の雀が二アサリオンで売られている」というイエスの言葉が書かれています。アサリオンとはイエスの時代のお金の単位であり、最も安価な単位であったと言われています。五羽で二アサリオンということは、一アサリオンですと単純計算では二・五羽の雀を買うことになりますが、二・五ということはあり得ませんので、二アサリオンで雀を買うことが自然なことになります。
 さらに神は、髪の毛の数まで数えることができる方だというのです。
これらの記述が伝えることは、軽んじられていると思っている人がいたとしても、神は関心を持っていてくださり、大切に思ってくださっているといことであり、大勢の中の一人ではなく「この人」という姿勢で一人ひとりと向き合ってくださるお方なのだ、と伝えているのです。神の心遣いとは、一人ひとりに対し、個々を対象にして表されているものなのです。神の心遣いに感謝いたします。

2019.10.13
「信仰者の在り方」箴言20章12節

今回の聖書は「聞く耳、見る目、両方を主が造られた」という言葉です。ただ単に「耳・目」というのではなく、「聞く耳」「見る目」と書かれています。このことが意味するのは、神は私たちに「聞いてほしい事柄」「見てほしい事柄」をお持ちだ、ということです。
 私たちの生活の場には聴覚に障害がある方や視覚に障害のある方がいます。この「障害のある方」には神の創造の業が及んでいないのか、と言うとそうではありません。そのことを前提として本日のメッセージに聞いてまいります。
 神はキリスト者に、何を聴いてほしいのでしょうか。サムエル記上3章に「お語りください。僕(しもべ)は聞いています」と書かれました。しかし神の言葉だけを聴くことを神は願ってはおられないでしょう。讃美歌第二編に「呼ばれています いつも 聞こえていますか いつも はるかな遠い声だから 良い耳を持たなければ」と歌います。「はるかな遠い声」とは距離的遠さではありません。訴えているのに誰も聞いてくれない言葉、言葉にしたいけれども言葉に出せない思い、そういう言葉です。そのような言葉を聴いてほしいと神が願っておられると思います。
 イエスはヨハネ福音書435節で「目を上げて畑を見なさい」と仰いました。農作物のできる畑ではなく、人間が営む生活の場を指すのです。そこには涙があり、痛みがあり、苦渋もあります。喜びや笑顔もあるでしょう。しかし偽りや不正もあります。そういう畑を見、それらに的確に対応することをイエスはキリスト者に求めています。とても難しく、不可能に近いことと感じます。しかしイエスはそれらのことに的確に応えるお方です。
 パウロはガラテヤの教会に「キリストがわたしの内にあって生きている」と書きました。
 私たちナザレン教会も聖化というとき「キリストが我が内に生きている」と語ります。しかし私たちの内にあるキリスは何を聴き、何を見ておられるでしょうか。「我が内にあるキリスト」が聴き、見ておられることに私たちは対応しているでしょうか。イエスの手が伸びているところに私の手があるでしょうか。私の足は向かっているでしょうか。イエスは涙している人の涙を理解しました。笑顔の人の笑顔を共に喜びました。そして不正に対しては遠慮会釈なく怒りました。激しく怒りました。我が内にあるキリストとはそういうお方です。しかし「我」はどうなのでしょう。イエスが聴いていることを聴き、イエスが見ていることを見て、同じように対応しているのでしょうか。「聞く耳・見る目」をお与えくださった神に応える日々を生きてまいりましょう。

2019.10.06
「メッセージのある食事」出エジプト記12章43~51節

本日の聖書は、出エジプト前夜の出来事についてです。イスラエル人はエジプトにおいて苦難の日々を過ごしていました。それと共に自由に神を礼拝できない悲しみを味わっていました。彼らは苦しみの訴えと共に、自由に礼拝できるようにと必死に祈りました。その祈りが神に届いたのです。
神はエジプトに対し災いを与えることで、イスラエル人を解放することを促します。しかしなかなか解放に至らず、10番目の災いが行われることになりました。それはエジプトの各家庭の長子と、家畜の初子の命を奪うということです。
イスラエル人に対し、小羊を屠り、その血を住居の出入り口の鴨居と柱の両脇に塗ることを命じ、血が塗られている家を天の使いが過ぎ越し、そうでない家の長子と初子の命を奪ったのです。それ以来、このことを「過越し」と言い、「過越し」の記念日として祝い、小羊の肉を食べ、イースト菌の入らないパンと苦菜を食べることになりました。「過越しの食事」です。神がイスラエル人をエジプトから導き出してくださった記念の感謝の食事です。その意味を子どもに伝えながら食事するのが習わしとなりました。
イエスの時代にも「過越しの食事」は守られていました。イエスが十字架にかかられる前の晩が「過越しの食事」を行う晩でした。その食事を今日は「最後の晩餐」と呼んでいます。イエスは弟子たちに「これからもこの食事を行いなさい」と命じました。食物はイースト菌の入らないパンと葡萄酒(ぶどう液)がそれです。それを今日、聖餐と呼び、イエス・キリストが再び地上に来られるまで続けられます。 パウロはコリントの教会への手紙の中で「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と書き送りました。
 過越しの食事が根源となり、イエス・キリストの十字架の死を知らせる聖餐まで、神のみ旨が一本の線でつながっています。その聖餐を教会は正しく行うこと、すなわちイエス・キリストの死を正しく伝え続けることが使命なのです。神のみ旨に応える教会とさせていただきましょう。

9月

2019.09.29
「キリスト者の務め」第2コリント信徒への手紙2章14~17節

14節は、前節とは違い、突然「神に感謝します」という言葉から書かれています。ずっと辛くて苦しい中に置かれていた、「それなのに」神に感謝しますと。感謝の理由は二つ。「勝利の行進に連なることなど出来なかった者が、連ならせていただいている」という事と、「私たちを通じて至る処にキリストの香りを漂わせてくださる」ということです。キリスト者の務めは、パウロが神様から使徒としての役割を与えられているように、神様から与えられている任務と言えます。たとえ現状が、辛く悲しく、先が見えないで、希望を見出すことが出来ないような時でも、キリストの勝利は揺るぐことはありません。神様がキリストの十字架の死を通して私たちを罪から贖ってくださって、このゆるがない勝利の行進に連なる者とさせてくださったのです。キリストが勝利されているから、私たちは主の御足跡に従って歩むことが許されている。それが感謝です。 
もう一つは知識の香りを漂わせてくださるということです。勝利の凱旋の行進の間、香をたくことを例に挙げています。私たちキリスト者は、み言葉を通して主に目を向けていくと、主の生き方を示され、現実にしっかりと向き合うようにと促されたり、真剣に祈るように導かれます。祈りつつ向き合う中で、本当に主が私の救い主だと確信できると、救い主を送って下さった神様に圧倒され、この方こそ礼拝すべきお方で、このお方が私の神様でいて下さることが喜べるようになります。すると、現実の苦難を乗り越える力がいつの間にか与えられ、逃れる道や祝福の道をも用意して下さることにも気づきます。香りを漂わせるという事は、主に贖われた喜びが溢れ、神を喜ぶ思いとなり、神を褒めたたえて生きていくという事ではないでしょうか。香を焚くということは、良い香りを神様に届けるという事で、香炉のような「道具」である私たちを、勝利の行進の間に焚かれる香のように、キリストの香りを漂わせて生きる者とさせてくださいます。香りは、いつの間にか気づかれない内に浸透していくように、福音の自由な働き、聖霊の豊かな広がりを信じて、神様を褒め称えて生きていく時に、キリストの香りは自然に漂っていくでしょう。
15節の「キリストによって奉げられる良い香りの「香り」は「ユーオーディア」という言葉で、神に奉げられた香しい香りという意味です。この香りは神に奉げられる犠牲の香りで、キリストが良い供え物として神に奉げられたことによって、私たちもキリストを通して良い香りを漂わせることが出来るように導かれていくということです。ですから、自分から香りを放つのではなく、キリストによってまず犠牲の香りが神に奉げられたから、この恵みを信じた私たちも、この香り(神に奉げられる香り)を漂わせる事が出来るようにしてくださいます。勝利の凱旋の行進で、捕虜を引き連れていくように、私たちも神に奉げられる神が喜ばれるいけにえだと例えています。信仰者にとって、キリストによる知識の香は、現実の社会の中で、私たちを力付けます。神様を喜ぶことを通して、キリストの香りを漂わせてくださるように神様がしてくださいます。神様が与えてくださった救いの御業を心から感謝し、神様が私の神様でいて下さることを喜ぶこと、それが私たちに与えられている務めであり、任務ではないでしょうか?今、生かされている私たちが、神様を喜び、どのように生きるか、またどのように歩むかが問われています。神様が罪ある私たちを贖い、キリストの犠牲の香りによって、神ご自身がわたしたちにキリストの良い香りを漂わせるために、神を喜んで生きることを任務として与えてくださったのです。パウロは自分こそ神様に召されて、遣わされた者だとして、使徒としての務めのすばらしさを心を込めてコリントの人々に語っています。私たちに与えてくださっている福音は、キリストの勝利の福音ですから、香りのようにいつの間にか気づかれずに、自由に、自在に広がっていくことを願って、神様が与えて下さっている私たちの務めを果たしていけたらと願います。

2019.09.22
「生きている神」イザヤ書18~20節

「生きている神」という題から、「生きていない神」がいるのではないかとも考えられるのです。
 パウロはフィリピの教会に宛てた手紙の中で「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです」と書き送っています。この考え方はパウロ独自の考えではなく、聖書全体がこのように伝えている、ということができます。ですから、神が「生きていない」とは、聖書は考えません。
そのことに関してイザヤ書40章は、人間が造った偶像のことを語り、その偶像は「生きているのか」と疑問を投げかけています。
その中の一つが18節に書かれている「お前たちは、神を誰に似せ、どのような像に仕立てようというのか」という言葉です。これは、神の独自性、あるいは自発性ということを偶像においては見ることができない、ということなのです。創世記126節は「神は言われた。『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう』」と書き、人が神を造り出したのではない、というメッセージを伝えます。しかも「人を神に似せて」ということにおいて、人は神と向き合い、対話する存在として造られている、と歴代の教会は信じ、伝えてきました。
顔・形が似ているのではなく、神が有しておられる「私」と同じように、人である私たちもそれぞれに「私」というものをもって存在しているということなのです。ここには、全能の神と、神に助けられなければ生きることが難しい人との間に、敢えて表現しなくても良いほどの歴然とした差がありながら、それでも神は人に対し「あなた」と呼びかけてくださる存在として人を存在させ、生かしてくださっているということができるのです。
 それに対し、「生きていない神」は人に呼びかけてもらうことはあるでしょう。けれども人は、人によって造られた神(偶像)から呼びかけられることはないのです。

 神に背いて刑罰を受けた民に対し、預言者は「あなた方の神は呼びかける神」「人を造り出した神であるから、あなた方が神を造り出す必要はまったくない」、それがあなた方の神というお方なのだ、と強く伝えたのです。これは預言者の時代だけのことではありません。今日の教会に対するメッセージでもあり、21世紀を生きる私たちに対するメッセージでもあります。見るこことはできないけれど、聖霊をとおして、また今日、聖書の言葉をとおして語りかけてくるお方の前に、心開く者でありたいと願うのです。

2019.09.15
「大いなる神」イザヤ書40章12~17節

 今回の聖書の個所が伝えるメッセージは、イスラエル人を愛する神が天地創造をなさったお方である、ということです。
 神の天地創造に関してイザヤ書が伝えるところによれば、神は天地創造に際して誰に相談することなく、誰かの手を借りることもなく、全く独自でその業を成し遂げられたというのです。
 旧約聖書創世記に、天地創造について二つの記事を掲載しています。一つ(①)は1章1節~2章3節まで、もう一つ(②)は2章4節~3章の終わりまでです。この創世記の記述は、天地創造においての神の思いをよく表した記述だと受け止めています。
①では、天地創造の最後の被造物は人である、と告げています。それと共に、人が地上で生活するために必要なすべてを順序だてて神は創造なさったことも告げています。
②では、野の木も草も生えていないとき、動物もまだ存在していない中に、土の塵から人が創造されたと伝えます。
そして神は、命の息を人の鼻から吹き入れ、人は生きたものとなった、と伝えるのです。そのようにして作られた人が神と共にエデンの園を歩き、神が土の塵で形作ったものに名を与えることを神は人に命じたと記述しています。ここには、地上に生きる人に対して、神は生きる目的・役割を与えられたことを伝えるのです。
 預言者イザヤはこのような天地創造の記事をまだ知らないのですが、しかし預言者イザヤのメッセージを含めて、どの天地創造の記事も、神は「大いなるお方」であることを伝えます。それと共に、天地創造の業の中に人間に対する神の愛がしっかりと根付いていることを知らされます。
 
 その天地創造の神は「あなた方の神なのだよ」と、預言者イザヤは神に背いた民に伝え、神に立ち返るにあたってまず知っておくべきことはそのことなのだ、とイスラエル人に語りました。
 しかしこのメッセージはイスラエル人だけが聴けばよいメッセージではありません。天地創造後に存在してきた、そしてこれから存在して行くすべての人が聴くべきメッセージであります。
 神が天地創造を行うにあたって思い巡らした思いは、言葉では表現できない深さであり、あまりにも深く広い愛なのです。イザヤの表現は決して大げさなものではなく、あまりの神の大きさを、やっと401217節の言葉を以て表現し、信仰として告白したのです。私たちもイザヤの言葉にアーメンと言いながら、新しく神を賛美したいと願います。

2019.09.08
「慰めの訪れ」イザヤ書40章1~11

イザヤ書40章は「慰めよ」という言葉で始まります。これは40章だけのことではなく、55章にまでいたる第二イザヤのメッセージを貫く言葉です。バビロンに連れて行かれて意気消沈している民を「立ち上がらせよ(慰めよ)」と、神は預言者に命じたのです。
 神はどのような方法で民を慰めようとなさるのでしょうか。神は三つのことを語りました。①神の言葉を語り告げることによって②生きることによって③神を賛美することによって、の三つです。
 神に背いた者たちに対し神は語ったのです。詩編の詩人は832節に「神よ、沈黙しないでください。黙していないでください。静まっていないでください」と語り、沈黙する神への不安と恐怖心を語ったのです。それに対し、イザヤ書においては神は預言者をとおして語ります。神は背いた民を言葉で励ますことを行います。
 その神はまた、背いた民らに対し、次の世代に神の道を開くために、困難であっても、厳しい状況であったとしても神を信じて生きていくことを命じました。荒野に道を開くような闘いをしながら、さらには谷のように落ち込むようなときにも、山を登るように険しいことがあっても「生きる」ことを役割として与えました。
 そして背いていた者を救い出してくださった神、背きを赦してくださり、生きることを使命とさせてくださる神を賛美しなさい、と命じたのです。
 神の与えてくださる慰めは「大変だったね。もう大丈夫だよ」という以上に、あなたがわたしの民ならば、わたしの命じることを生きて行きなさいと、民に命じ期待してくださるのです。
  そして神は羊飼いのように、主の民を集め、懐に抱いてくださるお方だと語ってくださいます。
 今日、主の腕が現れて私たちを抱きしめてくださる、ということは起こらないでしょう。しかし主は抱きしめてくださいます。どのように抱きしめてくださるのでしょうか。それは「神の言葉によって抱きしめてくださる」のです。神の言葉が一人ひとりに相応しく語られ、一人ひとりを励まし、慰めるために抱きしめるのです。聖霊によって直接神がお語りになることもあるかも知れません。しかし今日、多くの場合聖霊が働いてくださり、聖書の言葉をとおして神が語ってくださるのです。神が聖書の言葉をとおして主の民である私たちを抱きしめてくださるのです。
 神が与えてくださる「慰め」は現実のことなのです。主から来る「慰めの訪れ」を感謝し、期待し、待ち望んでまいりましょう。祝福を祈ります。

2019.09.01
「望みを置くところ」イザヤ書40章27~31  

 イザヤ書40章から55章までは、無名の預言者で第二イザヤと呼ばれる預言者集団が記述したと言われています。第二イザヤは「神の言葉」をとても大切なものと考えていたようです。408節には「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉が語られ、5511節には「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と書かれています。神の言葉で始まり、神の言葉がどのようなものなのかを伝えて終わっているのです。
 今回の2731節の中で、29節は「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」と主を讃えています。この力は「鷲のように翼を張って上る」力であり、「走っても弱ること」のない力であり、さらに「歩いても疲れない」力です。は若い人のように勢いのある姿を意味し、は壮年期の人の姿を現していると考えます。そしては老年期に入った人々を表しているでしょう。
 私たちはいつまでも若くいたいという思いがあるかも知れませんが、いつまでも若くいることは不可能です。しかし第二イザヤに語った神は「主に望みをおく人は新たな力を得る」と語っているのです。
 「主に望みをおく」というとき、私たちは主の何に望みをおくことができるのでしょうか。先ほど取り上げました「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ(立ち続ける)」という言葉、何があっても立ち続ける言葉に望みをおくことができるのです。
 身体的な事情で飛び上がる力を持つことができない人、走ることができない人、歩くことができない人は現実にいます。しかし身体に自信のある人もそうでない人に対しても、神の言葉は「生きていることの尊さ」「生きていることによって神の(立ち続ける)言葉が、一人ひとりの生きるべき指針を示してくれるのです。生きる指針がある、ということは「生きている喜び」にも繋がることでしょう。
 世に言う金言名句ではなく、聖霊をとおして私たちに語られていく神の言葉、それが私たちの生きる喜びをかき立てるのです。私たちの、そして世界中の人々に与えられている神の言葉こそが、私たちの生きる望みを置くところなのです。神の言葉は何ものにも繋がれていません。聖霊の自由さによって神の言葉と出会っていく日々であるように、と祈ります。

8月

2019.09.01
「望みを置くところ」イザヤ書40章27~31  

 イザヤ書40章から55章までは、無名の預言者で第二イザヤと呼ばれる預言者集団が記述したと言われています。第二イザヤは「神の言葉」をとても大切なものと考えていたようです。408節には「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」という言葉が語られ、5511節には「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」と書かれています。神の言葉で始まり、神の言葉がどのようなものなのかを伝えて終わっているのです。
 今回の2731節の中で、29節は「疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる」と主を讃えています。この力は「鷲のように翼を張って上る」力であり、「走っても弱ること」のない力であり、さらに「歩いても疲れない」力です。は若い人のように勢いのある姿を意味し、は壮年期の人の姿を現していると考えます。そしては老年期に入った人々を表しているでしょう。
 私たちはいつまでも若くいたいという思いがあるかも知れませんが、いつまでも若くいることは不可能です。しかし第二イザヤに語った神は「主に望みをおく人は新たな力を得る」と語っているのです。
 「主に望みをおく」というとき、私たちは主の何に望みをおくことができるのでしょうか。先ほど取り上げました「わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ(立ち続ける)」という言葉、何があっても立ち続ける言葉に望みをおくことができるのです。
 身体的な事情で飛び上がる力を持つことができない人、走ることができない人、歩くことができない人は現実にいます。しかし身体に自信のある人もそうでない人に対しても、神の言葉は「生きていることの尊さ」「生きていることによって神の(立ち続ける)言葉が、一人ひとりの生きるべき指針を示してくれるのです。生きる指針がある、ということは「生きている喜び」にも繋がることでしょう。
 世に言う金言名句ではなく、聖霊をとおして私たちに語られていく神の言葉、それが私たちの生きる喜びをかき立てるのです。私たちの、そして世界中の人々に与えられている神の言葉こそが、私たちの生きる望みを置くところなのです。神の言葉は何ものにも繋がれていません。聖霊の自由さによって神の言葉と出会っていく日々であるように、と祈ります。

2019.08.25
「主の民のよろこび」歴代誌上16章23~36節

昨年422日に「私たちの信仰」という題でメッセージを聞きました。「私たち」とは代々のキリスト者、すべての地域のキリスト者、そしてこれからキリスト教信仰を告白する人々を意味しています。この「私たち」には教会、聖書、「私たち」に共通のメッセージ、「使徒信条」の4つのことが与えられています。
 そして昨年422日の礼拝以後、次週より教会歴に沿いながら、支障のない限り「使徒信条」の項目について一つずつ、聖書をとおしてメッセージを聴いてまいりました。
 その「使徒信条」からのメッセージを本日で一つの区切りといたします。「使徒信条」に関する説教を始めたときから本日まで、神の導きがあったことを深く感謝いたします。また教会の皆様の支えにも感謝いたします。
 本日は特に「アーメン」という言葉にこだわらされております。福音書の記述によりますと、イエスが「よくよくあなた方に言っておく」と語られたとき、いつも「アーメン」という言葉を使われました。イエスにとって「アーメン」とは気楽に語る言葉、祈りの最後の言葉といったような感覚で語ってはおられません。イエスにおいての「アーメン」は心の底からの、あるいは真剣な思いを以てという、非常に重い意味を持った言葉なのです。私たちは案外気楽に「アーメン」と言いますが、本来は「本当にこのことに命を懸けても良いのだろうか」という深い吟味をもって告白する言葉と言わなければなりません。
 歴代誌上をお読みいただきました。歴代誌は旧約聖書の一部ですからイエス以前の文書です。しかし神のなさったこと、神の被造物が神の秩序の中で保たれていること、また他国とイスラエルとの関わりの中で神は真実にイスラエルに関わってくださったこと、それらに対して「アーメンと答えよ」と命じたのです。イエスこそ存在していなくても神のみ業に、そして導きにイスラエルの民は「アーメン」と真剣な思いをもって応えました。
 そのような民と共に、後にお生まれになったイエスを救い主と信じる者たちも共に、すなわち「私たち」という思いを持って「アーメン」と心から賛美することを神が求めておられるのです。 
 代々の聖徒と共に、またすべての地域の同信の人たちと共に、真剣な思いをもって「使徒信条」を「私たちの信仰告白」として「アーメン」と賛美し、告白したいと願います。

2019.08.18
「イエスの愛の方向」マタイによる福音書5章43~48節 

先日は815日に、大戦の終結の74回目の日でした。私は戦争が終わってから生まれた者ですので、先の大戦に対し、何の責任もない、ということができるのでしょうか。

私自身が直接戦争に関わった者でないことは確かです。しかし日本人である私を見て、戦争時の悲惨な、あるいは憎んでも憎みきれないことを思い起こす方が現実におられます。そんなとき、戦争関係者ではない私も、戦争時の日本が他国の人に悲しみを与え、憎しみを思い起こさせるならば、私も戦争に関わっている存在だと考える日々であります。私に出遭ったために戦争時の憎しみを新たにすることは少なくないのだろうと感じています。
それは、彼らの中にある憎しみが癒されていない、取り除かれていない、ということです。

イエスは言われました。「しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(44節)と。この言葉はキリスト者の誰もが聞き、知っている言葉です。それと共にイエスは、この言葉の実例として「神は善人にも悪人にも陽を昇らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせておられる」と語り、あなた方もそのようにすれば良いのだよ、と言っておられるのです。この言葉に私は納得いたします。しかし納得したから実行できる訳ではない、いや、納得していても実行不可能な言葉だと悲しくなり、いやというほどに屈辱感に近いものを味わっています。しかしこのことをできるのが「天の父の子ども(キリスト者)」である、とイエスは厳しく語ります。
それほどに「敵を愛すること」はキリスト者にとっても、そしてすべての人にとって、とても難しいことなのです。しかし「難しくてできない」、「敵を愛するなんて」ということで済むのでしょうか。

私は今思わされています。私も「敵を愛すること」はできないのです。しかし「敵」や「憎しみを感じる人」の笑顔を想像し、その笑顔が生み出るように仕えることはどうでしょうか。「私はあの人を愛せない。でも主よ、あの人の笑顔のために祈ることができるように、私のできることで仕えることができるように」と祈ることはできないでしょうか。

最後に一つの歌を紹介いたします。皆様がよくご存じで、しかもお好きだと思う歌です。「君は愛されるため生まれた」という歌です。このことは確かなことです。しかし今、私は敢えてキリスト者の皆様に申し上げます。キリスト者は「他者(私以外のすべての人)を愛するために生かされている」と自覚したいのです。「君は愛するために生かされている」。このことを心に抱いて歩んでまいりましょう。

2019.08.11
「神の平和」マタイによる福音書5章9節

イエス様はよく山に登られました。主ご自身が、祈られるために登られることが多かったようですが、マタイは特別に大事な神様の教えを山に関連させています。この「平和を実現する人々」という言葉は、ここにしか出ていません。「神の国」は人びとの努力や運動によってもたらされるものではなく、「平和」というものも絶対に、武力によっては実現できません。聖戦という言葉を掲げて戦っても、平和の実現には至っていません。むしろ、混乱を招き、世界のあちこちでしわ寄せや悲劇が報道されています。自分たちだけが正しくて、他の人は間違っていると思い込んだり、決めてかかっています。
「平和」とは、どのようなものでしょう。私たちが「平和」、「平和」と叫び始めた時には、「一番平和を求めるのは自分だ」と誇示し、妬みや争いを起こしてしまう弱い者達です。人間が努力をしても、力を尽くしても、人間の側からは決して「平和」は実現できません。キリスト者は「シャローム」という挨拶を思い起こします。このヘブル語の「シャローム」はとても積極的な「和平」・「和解」・「繁栄」・「健康」・「満足」・「生きる意欲」・「知恵」・「暗闇から愛の支配への救い」・「平安や勝利」これらの完全な状態を全て含んだ言葉だそうです。ですから、「シャローム」という挨拶は、神様の完全な平和が含まれた挨拶であり、祈りです。コロサイの信徒への手紙119節「神はみ心のままに、満ちあふれるものを余すところなく御子の内に宿らせ、その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、ご自分と和解させられました」まことの平和・完全な平和は、これしかありません。神様がご自分と和解させるために御子をお遣わしになって、キリストの十字架の血によって平和を打ち立てられたからです。この和解の平和が、「私たちが平和を実現する」には欠かすことが出来ません。イエス・キリストだけが「平和の君」です。主の平和を心の内にいただいて、其々の力に応じて平和を実現するための行動をしていきましょう。人間の傲慢と、欲と自分だけが正しいと感じる自分中心の思いが蔓延していますから、生涯かかっても「平和の実現」は実感出来ないかも知れません。でも、実現に向けて祈りつつ前進し続けたいと思います。主は、「平和を実現する人々は幸いだ」と言われ「その人たちは神の子と呼ばれる」という栄誉を約束して下さっています。教会はこの和解の福音を宣べ伝え、この世で生きる事で、平和を実現する働きに加わっていきたいと思います。自分以外の人の思いを想像し、少しでも理解しようと努めることが大切です。神様が全ての人を愛してくださっていることを感じ、祈りつつ出来ることを行っていきたいと願っています。祈りをもって神様の与えてくださった平和を味わい、実現に向けて歩んでまいりましょう。

2019.08.04
「導く人」使徒の働き8章31節
説教者:鈴木龍生 師 


  
 私達が教会に導かれた経緯は人それぞれでしょう。神は人を通して真の救い主イエス・キリストのもとへと導かれます。フィリポは天の使いの命令により一人の宦官をイエスキリストの救いへと導いていきました。わたしたちも聖霊の助けをいただきながら置かれている持ち場立場、遣わされている職場、地域において導き手としての使命を自覚し、喜びを持って伝道活動が行えるようにと願っています。

証し:わたしは生まれた時から聾唖でした。酒乱だった父の言動により、母が苦労している様子を見ていました。しかしわたしに対しては、好きな映画に連れて行ってくれたり、欲しかったカメラを買ってくれたりしてくれる、やさしい父でもありました。        
社会人になってからのことです、生きる意味も目的も見出すことができずに死にたいという思いにとらわれていました。そんな時、ある女性から一緒に死んでほしいと頼まれ、互いにベルトで手首を縛って池に入っていき自殺を図ったことがありました。しかし体が沈み、息ができない状態になると、苦しさのあまり池から出てしまいました。「死ぬことさえできない…」心の暗闇は増すばかりでした。
19歳のある日、通勤電車で知り合った女性(高橋姉)から「直方教会に行きましょう」とのお誘いを受け、初めて教会を訪れました。聾唖の牧師は聖書から神の愛について教えて下さいました。私の罪のために十字架かかり、死んでよみがえって下さった救い主イエス・キリストがおられる。わたしはこの福音を信じ受け入れ、受洗の恵みにあずかることができました。
その後献身して牧師になるべく埼玉県の東洋ローアキリスト教会聖書学校に入学しました。そこですばらしい女性と出会いました。北海道出身の千恵子です。聖書の学びにおいて彼女から様々なことを教えてもらいました。赤いリンゴのほっぺがかわいくて…一目惚れしてしまいました。千恵子と結婚して月日は経ちましたが、現在も彼女のかわいらしさは変わっていません。
以前、私たちは聾啞者だけの教会でしたが、35年前、日本ナザレン教団飯塚教会に加入しました。合同礼拝をするようになり現在に至っています。
私の文章は間違いだらけで、文と文のつながりが時々わからないこともあります。また、意味もわからない所が多くあって、健聴者のクリスチャンに丁寧に直してもらったり、わかりやすく説明をしてもらったりしているうちに、だんだんとわかるようになりました。また関谷牧師の語る言葉は、通訳者が奉仕してくださっているので本当に心から感謝しています。
詩編1331「見よ、兄弟がともに座っている。なんという恵み、なんという喜び。」御言葉を聞くときに心は恵まれます。御言葉はあなたの心に素晴らしいものを届けてくれます。皆様の上に神の恵みがありますようにお祈りいたします。

7月

2019.07.28
「キリスト・イエスに基づく信仰」ヘブライ人への手紙11章1~3節  

「信仰」は、キリスト教以外でも使われますから、様々に捉えています。第Ⅱテモテ3:15に「この書物はキリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることが出来ます」とあります。「への」という言葉は「基づく」という言葉で、キリスト・イエスに基づく信仰を通して救いに至るということです。信仰していると、神様が私たちの味方をし、我々が望んでいる事柄を叶えて下さると思っておられませんか?聖書のいう「信仰」はどういうものでしょう。神の言葉を聞くことは私たち信仰者のすべきことですが、自分に都合の良い所や気に入っている所だけを聞くのは、聖書の真理から離れてしまいます。「信仰」とは「望んでいる事柄を確信し」ですが、実際は「望まれている」という受け身です。ですから、神様が自分たちに必ず良いことをして下さるということでも・自分たちの望むことをして下さると信じることでもありません。神様が望んでおられることは、キリスト・イエスの救いに預かった私たちが、神様にお従いして生きていくことです。信仰は、神様が望まれる一番大事な事を確信させて下さるという事です。苦闘の中に置かれると、希望を見失ってしまいそうな現実に立たされることがあります。そんな時、信仰を持って希望を失わないでいたいと願いながら、自分ではどうすることも出来ない事柄が突きつけられます。そんな時、「神様、あなたを見失うことのない様にさせて下さい」と必死に祈ります。自分たちの信じて来た確信が総て崩れて、ただ「神様!」と、祈る。そこに神が望まれることの一番大事なものを、明らかにして下さいます。「神様、あなたがなさることを私が受け入れることが出来るように、お助け下さい」と。神様にこの祈りをするように導いて下さるのが、希望そのものであるところの「私たちの真実の理解者」であり、「驚くべき慰め主」であるお方、キリスト・イエスです。最後まで神様に従うことが出来ない弱さを抱えている私たちにキリストがとりなしをして下さるのです。一番低くなられて私たちを下支えしてくださっている主によって私たちは立ち上がることが出来、神と私たちの間に立ち、また私たちの内側の思いを知って下さっているのです。だから、「真実の理解者」でいてくださる。ヘブライ書1章3節には「御子は神の栄光の反映(反映は反射して映るの反映です)であり、神の本質の完全な現われであって」と書かれている通りです。キリスト・イエスが神様の本質を完全に現したお方で、このキリストを救いの主と信じ、人間的な確信をすべて放棄し、明け渡した時に、神様の豊かな慰めや励ましや平安を心から確信することが出来る、それが信仰だと聖書は語ります。
「見えない事実を確認する」という言葉は、見えない神様の働きが、見えるものを支配している事を信じるということです。確認という言葉は、「証拠を出す」という意味の言葉で、その証拠こそ「慰め主」キリスト、「真実の理解者であるお方」キリストまた、イザヤ書9章にあるように「驚くべき指導者」また「驚くべき助言者」なのです。私たちが信じる神様を現した方だからこの方に基づく信仰こそ、わたしたちの信仰なのです。 自分の信仰だけが正しいと思い込むと、他の人の意見や考えを否定し、攻撃することに回ってしまう弱さを常に抱えています。だからこそ、人間の側の正しさではなく、神様が望まれる生き方、主に基づく信仰を求めて歩んでまいりたいと願います。

2019.07.21
「神の恵み」ルカによる福音書16章19~31節  

今回は使徒信条から「とこしえの命」という項目を、ルカ福音書をとおして聞いてまいります。順序が逆転いたしますが、次回「身体のよみがえり」の項目を聴いてまいります。
 今も申し上げましたように「とこしえの命」を聖書から聴いていくとき、神の二つの恵みを感謝と共に確認したいと願う者です。
 一つは、地上で生活している間に神を憶え、礼拝する者に対しては、地上での生活が終わった時に「天の国(神の国)」を神が備えてくださっているという約束です。
イエスは譬え話でラザロという名の人と、金持ちの人の話をなさいました。ラザロは地上にいる間、不遇な身の上でしたが神を信じて死んでいきました。彼は死後、天に昇り、人々から最も尊敬を受けていたアブラハムのそばに招かれました。
 裕福な人も地上の生涯を終えましたが、彼は天に昇ることはなく、陰府(よみ)に降ったのです。その陰府から見上げると、ラザロがアブラハムのそばで憩いを得ているのを見たのです。
神を愛する者には「天の国」において憩いを得る恵みが与えられるのです。
 二つ目の恵みは、地上に生きている者に対し、天の国に入るために神は道を備えてくださっていることを語っていることです。聖書の言葉によれば「もし、モーセと予言者に耳を傾けなるならばたとえ誰かが死者の中から復活しても、その言うことを聞き入れはしないであろう」(三十一節、聖書協会共同訳)と書かれています。このことは逆に、モーセが代表する律法に聞き、預言者が語ることを生きようとする者は「天の国」に招かれていくというメッセージであります。
 律法は人を縛りつけるものではなく、人が生きて行こうとするときの指針として与えられているものであります。
 預言者の言葉は生きる力や自信を失ったとき、「神がこう語っておられる」よ、と慰め、励ましてくれる言葉なのです。天に生きようとする者への神からの確かなメッセ―ジが与えられているのです。
 神からのメッセージに立って私たちも天に招かれて行く人となりたと願います。

2019.07.14
「神の赦し」ローマ信徒への手紙5章1~11節  

キリスト教信仰において「赦し」はとても大きな意味をもっています。神というお方は、悪や正しくないことを見逃すことができないお方です。ですから不義・不正を裁くお方なのです。それが聖書が証しする神であります。しかしこの神は、どのような方法でさばきを行われるのでしょうか。あるいは行われたのでしょうか。
神はその独り子イエスにおいてその裁きを行われました。パウロはローマの信徒への手紙5章6節にこう書いています。「実にキリストは、わたしたちがまだ弱かったころ、定められた時に、不信心な者のために死んでくださった」という言葉です。少し意訳しますと「義しい(ただしい)ことなど何もできない無力さと、神を神とも知らないで生きている者に対して、神は独り子イエスに十字架における罰を課してまで、不義な者を愛し、何かの行為を求めることもなく受け入れてくださった」と訳すことができます。そしてこれが、聖書が語る神の「赦し」の実態であるのです。
このことを語りますと、「それでは神は私たちが何をしても許してくださるのか」と問われます。このことに対して二つのことを申し上げる必要があります。
第一は、社会が施行している法律に違反したときには司法による裁きを受け、そこで課される刑罰を負うことからは逃れてはいけない、ということです。
二つ目のことは、人がどのような犯罪行為を行ったとしても、その人の存在を否定することはない、ということです。
一つの例を上げます。今から九年前、相撲界で野球賭博を行い、そのために二名の人が相撲界から追放されました。一人は親方であり、もう一人は現役の大関でした。二人は相撲界から追放されただけではなく、彼らが卒業した学校から、かつては英雄視されて学校に写真が掲示されていたのですが、相撲界から追放されたと同時に母校からは写真がはずされ、学校とは関係のない存在とされました。いわば存在の否定です。彼らは後々、どこに帰ることができるのでしょうか。その存在を否定され、しかも帰る場所を失ったということができます。
しかし神は違います。司法による罰を負うことは求めますが、存在は決して否定されることなく、「ここはあなたの帰ってくることができる場所」と神は語ってくださるのです。ここに神の赦しがあり、人がもう一度立ち上がる場があるのです。神のもとには赦しとともに、私たちの存在を肯定してくださるお方、招き入れてくださるお方がいてくださるのです。それが「神の赦し」の現実なのです。

2019.07.07
「教会を構成する枝」Ⅰコリント信徒への手紙12章11~26節  

 宣教者パウロは、「教会の働き」を体のいろいろな器官に例えて語りました。
私たちは、多くの場合体のどの部分も良く連携し、体の働きがなされていることを知っています。私はそれを意識もせず、当たり前のように受け止めています。
 体はそうですが、体に例えられている教会はそうではない、とパウロは感じていたようです。こう言っています。「目が手に向かって『お前は要らない』とも言えず、頭が足に向かって『お前たちは要らない』とも言えません」(21節)という言葉です。これは目と手の働き、あるいは関わる事柄は全く違っているために、目は手の働きを理解していない、という意味です。頭と足は、人間の体の中では一番遠い距離にあり、互いを理解したり関わり合うことも難しいことを意味しているのです。それと同じように、教会の中にいても関わり合うことがないと互いが理解できず、「あの人の存在は何なのだろう」と感じることが現実だ、ということでしょう。また、全く関わり合うことも理解もできないということだとも言えるでしょう。
しかし手には解らなくても目ならば解ることはたくさんあります。頭と足のようにお互いを全く知らなくても頭だから解ること、そして足だから体験できること等もたくさんあります。その一つひとつを体の働きのために活かすことは十分に可能です。そして大切なことです。
 それぞれがそれぞれの能力(賜物)をしっかりいただいて、互いに受け入れ合っていくことが求められているのがキリストの教会です。
 教会はよく「キリストに在って一つ」と言います。その「一つ」は同じことをし、同じことを見ることで一つとなる、ということではありません。上記したように、各器官がそれぞれの働きをし、かつ連携をすることによって体の働きがなされるように、教会に集まっている一人ひとりがそれぞれの得意分野で活躍し、他の分野で活動している方々を受け入れ合って関係をつくり上げていくことも、大切な主の業の一つなのです。
教会に集まっている者たちが互いに顔と顔とを合わせて語り合うことも尊いことですが、教会の周辺に目を向けて、そこで起こっている様々な問題に対し、関わる能力を持っている人が積極的に関わることも教会の役割です。そのことによって教会の働きは広がっていきます。
もしかして頭が足に向かって「お前はいらない」と感じるようなことがあるかも知れません。しかし実は、それぞれの働きは主にあってなされる大切な働きとして用いられ、教会につながる働きとなっていくのです。だからこそ体の器管がそうであるように、私たちは互いに祈りあう必要があり、受け入れ合う必要があるのです。良い交わりはそこにある、と切に祈る者であります。

6月

2019.06.30
「祈りと信仰」詩篇16章2節  

この詩編は祈りで始まり、神だけを信頼するという告白へと続きます。ダビデはいわれのない迫害や、友の裏切り、罪の誘惑、子供の反抗、大きな病気と言った厳しい試練を体験しました。彼はその戦いを通して、自分の幸せが友人や、子供、自分自身の中にないことを思い知ったのです。そして自分の幸いは、どこまでも自分を見捨てることなく、顧み続けていてくださる主にしかないと悟ったのです。私たちはそれを悟ったでしょうか。
私の喜びはすべて…(3,4,5)
教会の交わりとは、「自分を守ってくださるのは主だけだ」という信仰を同じくする人々とともに、その主を賛美することです。この「主を喜ぶ喜び」以外の喜びを求める人には、「失望」という痛みが増し加わるだけだと言っています。「杯」とは「人生」という意味でもあり、信仰者の人生は主が共におられる状態であるといえます。
2 私の好む所(6,9)
信仰の下でこそ、私たちは主の助言をいただくことができます。主を前に置くと主が右にきて力となってくださり、「喜び・楽しみ・平安」を与えてくださるのです。今日、全世界の人々の中にイエス・キリストを信じて神の民が起こされ、主はその教会のただ中に住んでくださっています。魂の救いを得た者は「キリスト・イエスを見たことはなくても愛しており、今見てはいないけれども信じており、言葉に尽くすことのできない、栄に満ちた喜びに踊っています。」(1ペテロ1:8~9)
3 命の道
10「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず」というみ言葉は、新約聖書で主イエス・キリストの復活を預言したものとして引用されています。また私たちも主と共に復活に与ることが約束されています。永遠に至る命の道を主は備えてくださいました。
4、恵みを数える
1031~5では、ダビデは、人々を賛美に招きつつ、主がよくしてくださったことを何一つ忘れるなと自分の魂に語ります。そして、主が自分にしてくださった恵みの御業を一つ一つ数え上げます。「すべての咎を赦してくださった、すべての病をいやしてくださった、滅びの穴から贖い、恵みと哀れみの冠をかぶらせてくださった、自分の一生をすべての良いもので満たし、鷲のような新しい力をくださった」と主の恵みの御業を一つ一つ証します。その証は感謝に満ち溢れています。
※祈りと信仰によりダニエルは獅子の穴から生還しました(ダニエル6:1025)。ダビデの告白「あなたは私の主。あなたのほかに私の幸いはありません。」を私たちの信仰告白としましょう。この世にあっては悩み多き一人ひとりの人生ではありますが、私たちの祈りに耳を傾け、最善をなしたもう生ける神に信頼して、信仰生活を歩んでまいりましょう。

2019.06.23
「神の家族としての教会」エフェソの信徒への手紙2章11~22節  

「神の家族としての教会」と題が与えられました。「神の家族」というとき、私たちの教会に集まっている方々を「神の家族」と受け止めることが多くあります。しかし「神の家族」には、もう一つの受け止め方もあります。
どのような「神の家族」かと申しますと、世界中にある教会、日曜日にイエス・キリストの復活を記念して礼拝、あるいはミサが行われている教会を「神の家族」の教会として受け止めるということです。ただし「使徒信条」を信仰として告白し、「三位一体の神」を神として信じる教会であることも条件の一つです。         
これらの教会は聖書が語っている「救い」を語り続けてきました。またイエス・キリストが制定なさった洗礼と聖餐を受け継ぎ、行ってきました。更に、再びおいでになるイエス・キリストを待ち望む信仰をもつ教会でもあります。
礼拝様式、賛美の方法、聖礼典の形等は違うこともあります。しかし上記したことを大切に守り、次の時代へ託していく教会はどの教会も「主に在る教会」なのです。
 私たちが属している日本ナザレン教団は小さな組織です。けれども救いを宣べ伝えてまいりました。聖礼典(洗礼・聖餐)を行ってまいりました。主が再びおいでになることを待ち望んでいます。私たちの教会も「主に在って神の家族の一員」として存在しています。それだけでなく、ナザレン教会だからキリスト教信仰に出遭えた方は少なくありません。もちろん他の教派(教会)だからキリスト教信仰に出遭えた方は、さらに多くおられるでしょう。そのように、各教会
に対し神から託さされている使命が各教会にあります。世界に置かれている教会一つひとつは、その役割・働きが違っていても良いのです。その働きが神から託されている事柄であるならば、むしろ力を注いでその業に励む必要がある、と申し上げなければなりません。
 視点を換えますが、人間が作り生活している「家族」では、何が行われているでしょうか。「家族」と言いつつも、誰か一人の人が困難や苦難に出遭ったとき、家族同士が心を掛け合っている、とは言えない場合も起こっています。それを支え、励ますのが家族の形であったと思います。そのような姿を見ることのできない「家族」も存在するようになりました。とても悲しいことです。
 「神の家族」は、自分の教会だけではなく、自分の属する教派だけではなく、「神の家族としての教会」のために祈ることが求められます。そのことによってこそ「福音宣教」がどの地域においても確かな働きになるからです。私たちの教会は祈られています。私たちも他の教会のために祈る教会として歩んでまいりましょう。

2019.06.16
「神あらわす神」Ⅱコリント信徒への手紙13章13節 

 三位一体(さんみいったい)主日です。先週、聖霊降臨日の主日を喜びの内に過ごした教会は、本日、三位一体主日を迎えています。本日の聖書は「父なる神・子なる神(イエス・キリスト)・聖霊なる神」の三つの形で私たち人間に関わってくださる神を伝える箇所です。今日、教会の祝祷にもなっている言葉です。
 「父なる神」とはどのようなお方なのか、知ることはできません。解っていることは「在ってある者(あり続ける者)」として存在しておられるということと、人間に必要な助けや導きを確かにお与えくださるお方ということです。それでも「父なる神」がどのようなお方か知ることができないのです。
 ヨハネ福音書は118節に「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と伝えました。ヨハネは「父なる神を見た者はいない」と伝えましたが、これは、神の側としては人に見てもらう必要も見せる必要もない、ということなのでしょう。
 18節後半では「父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」と伝えました。「父のふところにいる独り子である神」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストが神(神の愛・神の性質・神の思いを余すところなく、そして欠かすことなく)示したというのです。神をあらわし得るのは全く神と同じ大きさを持っているお方でなければなりません。その意味でイエス・キリストは全く神の大きさ・高さ・広さ・深さを持って地上にお生まれになり、神でありながら人の世界に住み、生活されたった方ということができます。
 聖霊はどうでしょう。聖霊も神であります。弱さを抱え、小さなことに一喜一憂する人間に対し、確かな神を執り成しの形で示してくださったのが聖霊です。全く小さな者が、あの大きく、高く、広く、深い神を信じることができるように完全な執り成しは聖霊によって為されたのです。さらに、私たちのつたない祈り、時には意味不明の祈りですらも聖霊が神に執り成してくださって、私たちの祈りを神に届ける働きをしてくださるのです。確かなお方である神が、弱く小さき者たちのために完全な形で執り成しをしてくださるのは、真に神を知るお方でなければ為しえません。聖霊は神の働きとして、完全なる執り成しの形で人間に関わってくださる神なのです。
 神が三位一体であること自体が、人間に対する神の愛の表れだと言うことができます。神は、人間のためにご自身をあらわすことを意として、三位一体の神でおられるのです。感謝したいと願います。

2019.06.09
「聖霊による言葉」使徒言行録2章1~4節  

 聖霊降臨日の礼拝です。イエスは天に還られるとき、弟子たちに「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:49)と言われました。使徒言行録1章でも「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(8節)と語っておられます。この2つの言葉だけでも、福音宣教は聖霊の助けによって行われる必要があることが解ります。
 その聖霊は「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人ひとりの上にとどまった」と表現されています(2:3)。この聖句は、福音宣教に必要な「言葉」を与える働きを聖霊がしていることを明らかにしています。
 聖霊が降ることによって気持ちの高揚が起こることを願ったり、躍り出したくなるような現象を求めることがあります。そのようなことが全くないとは言えないでしょう。しかし聖霊の働きはそのことに勝って、語るべき言葉、しかも聞き手にとって解る言葉を与えてくださる働きがあることを聖書は証しています。
 このことから言えるのは、聖霊の働きによって行われる福音宣教の業は、静かな中で、一つひとつの言葉を大切にしながら行われる業であり、それが必要なことだと言うことなのです。
 箴言の記者は161節においてこのように書いています。「人間は心構えをする。主が舌に答えるべきことを与えてくださる」という言葉です。ここに、今日的には「聖霊の働き」と言い得るメッセージがあります。教会は「福音を伝えたい」という願いと祈りを持っています。当然そのことのために祈ります。そのような思いと姿勢に対して、神ご自身が聖霊の働きをとおして「語るべき言葉」をお与えくださるのです。
 私たちの教会も福音を宣教するがゆえに「語るべき言葉をお与えください。聖霊がそのことを行ってください」と心を合わせて祈り、立ち上がらせていただくことを願って歩み出したいと心から願います。そのことが神様の御旨に適うことであることを信じます。

2019.06.02
「主イエスに繋がる」 ヨハネによる福音書15章1~10節 


 本日は、3月3日で中断しました使徒信条の続きを「まことのぶどうの木」という言葉と聖書の箇所をとおして聞いてまいります。3月3日には「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審き給わん」という項目でした。このことをマタイ福音書13章の「良い種と毒麦」の譬えによって聞いたのですが、そのときには「かしこより来たりて」に重きが置かれました。本日は「生ける者と死ねる者とを審き給わん」に重さを置いて聞きたいと願っています。
 ヨハネ15章1節はイエスが「まことのぶどうの木」と語られた言葉に重きを置いています。このことについてイエスが「まことの」と言われたということは、「まことではない」ぶどうの木もあったのだろう、と考えています。
 そして「まことのぶどうの木」と「そうではないぶどうの木」の違いを、実を結ぶか否かで見分けることをイエスは語り、ヨハネは記しています。そして私自身がイエスに繋がっていると思っていること、それ故に「実」を結んでいると思い、願っているのですが、実際にはどのような実を結んでいるのかを確認することはできません。
 しかしイエスは10節でこのように語られました。「わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる」という言葉です。1334節においては「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というイエスの言葉が書き記されています。
 「愛」という言葉は教会が度々語る言葉ですが、具体的にはどのような姿を表わす言葉かが、とても掴みづらい言葉の一つです。私は「愛されている」ということを「受け入れていただいている」と語ります。「受け入れられた経験のある人が、人を受け入れる者となれる」とも考えています。
 イエスが願い、語った「実」は、「人を受け入れる思いと実体」、そして「受け入れられる喜び」だということができます。社会は人を見捨てることができても、受け入れることに対して困難さを抱えています。それは「まことのぶどうの木」であるイエスに繋がることによってこそ穣(みの)るのです。教会はそのことをイエスから求められています。そのような在り方が「生ける者」の姿でもあるのです。祈りつつ励んでまいりましょう。

5月

2019.05.26
「生ける神が住まわれる」 Ⅱコリント614節~17章1節 

異教の中心都市コリントにも教会が出来、信仰を持って歩み出したのですが、数年の後には教会内部の分裂で、仲間割れが起き、党派を作って争い、混乱が生じ、本質的な信仰が揺らいでしまいました。私たち人間は、どんなに清い生活をしようとしても、いつの間にか周囲の環境に引きずられて、元の生活に戻ってしまいやすいのです。パウロはコリントの人々に使徒として間違いを指摘し、問題解決の道を示す為、励ましの手紙を書きました。が、この14節からは厳しさが表されています。5つの対立したものを列挙し、信仰者と信仰を持たない人の信仰の根本の違いを示しました。「正義と不法」、「光と闇」「キリストとべリアル」「信仰と不信仰」「神の神殿と偶像」は全てが「どんな関わり」も「何のつながり」も「どんな調和」も「何の関係」も「どんな一致」もないんだと強調しています。信仰者でない人達と共に生きる事を禁じているのでなく、信仰の根本に於いての妥協をしないようにということです。「神様に召されて、神様を信じる者とされ、聖なる者とされたわたしたちこそ生ける神の神殿だ」というほど、力を込めています。「巡り歩く」とは「歩まれる」の意味で、神様を信じる者となった私たちが、日々の生活の中で、生ける神様の自由な働きを実感して生きるようにされたということです。だから絶えずキリスト者としての自覚と信仰者であることを確認し、異教の中に埋没してしまわないで、この世に根付いている悪から離れなさいと言われました。この世は自己中心、自己保身、自己満足が蔓延しています。これらに陥るのはとても簡単で、キリストを信じる者とされた私たちも、自分は良いことをしている、自分は神様の為にやっていることだから自己満足でも自分中心でもないと勘違いしてしまいます。主は御自分の身を捧げてそんな人間を大切にする生き方を選ばれました。「聖なる者とされる」というのは、「誇れる者でないことを知らされた」という事です。誇れる者ではない私たちをよくご存知である神様が、私たちの間に住まわれると云われています。イエスご自身が約束して下さった聖霊によって「わたしは彼らの神」となり「彼らはわたしの民」となると言われた言葉を実感して生きる私たちとされたのです。生ける神様の神殿にしていただくために、「この世は罪深いから離れなければならない」と自らが必死になるのではなく、まず、神様が救いを与えて下さったことを、信じることです。そして自分が罪深い者であることを認め、悔い改めて神様に従い続ける、神様の御許に居続けることによって、この世との不釣り合いな軛から離れさせていただけるのです。そして「正義」「光」「キリスト」「信仰」の内に歩めるようにしていただけるのです。自分が罪深い者だと気づかせて、悔い改めに導いて下さるのも、救いを信じるように導かれるのも、悲しみの中から立ち上がらせて下さるのも、辛く苦しい時に思いを受け止めて下さるのも、心が傷つきさまよう時、豊かな慰めをくださるのも、神様に従い続けるように導いてくださるのも、絶えず神様の御許に居続けるようにして下さるのも、全て生ける神様(聖霊様)の働きです。聖霊が私たちの内に住み、歩んでくださるということは、そのような様々な聖霊の働きがあることを実感させてくださるということです。神様を畏れかしこみ、自己の全てをかけてキリストの福音を生きていきたいと願います。

2019.05.19
「見えたことに応える教会」ヨハネによる福音書4章31~38節

 先週は教会総会が行われました。その総会において本年度の教会の主題聖句が決定しました。ヨハネ福音書4章35節です。改めて記してまいります。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ4か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている。」と書かれています。
 人々の常識では刈り入れまで4か月ある収穫物を、イエスは「色づいて刈り入れを待っている」と仰いました。農業に勤しむ方には考えられない言葉でしょう。特別な方法を用いない限り、畑の収穫物を4か月も早く刈り入れることはできないはずです。イエスの弟子たちも、そして私たちも見えていないものをイエスは見ておられたとしか考えられません。それは何かというと「永遠の命に至る実」(36節)だということができます。これはイエスにしか見ることができない収穫物です。
 それでは私たちには全く見ることや気づくことはできないのでしょうか。そうは思いません。マタイ福音書をとおしてイエスは「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(5章13節)と語られました。よく知られた言葉です。「塩」の味を発揮しなければ「塩」の働きができません。つまり「塩」は溶けることによってはじめて「塩」と呼ぶことができます。イエスは弟子たちに「あなた方は地の塩」と仰ったとき、町や村で生活している人々の中に入って行って、人々の生活を知りながら、そこで「塩」として生きなさい、と命じたのです。「塩」として生きるとき、町や村の中で起こっていることを知ることができます。かつ「塩」の働き、すなわち「福音」の働きが人々に届けられるのです。あるいは人々と生き方を共有できるのです。
 ヨハネ福音書でイエスが「畑を見なさい」と言われたことが、マタイでは「塩として生きること」と言われているのです。しかも「福音を携えて町や村に行くこと」こそがそれだと語り、弟子たち、また私たちに願っておられるのです。
 飯塚教会に与えられた主題聖句、それは人々を見ること、すなわち人々と生活を共有することです。人が教会に来ることではなく、イエスが私たちに求められのは福音を携えて出ていくことなのです。イエスによって町や村へと招かれていることなのです。祈りつつ応えて行く教会とさせていただきましょう。

2019.05.12
「教えを生きる」箴言23章22~26節

 皆様は「自分は見られている」という思いを持って、日々、生活しておられるでしょうか。
 私自身が「誰かに見られている」という思いがなくても、私は「私の日頃の姿を見られていた」と自覚したことがあります。それは私どもの息子を通してです。
あるとき、来客がありました。来客のときはいつも、妻か私がお茶を出すことをしていました。しかしその日は二人ともお客さんと話しを始めていました。そのとき、息子がお盆に湯呑みを乗せて運んできたのです。一度も教えたことはありません。そのことを頼んだ訳でもありません。しかし息子は通常私たちがしていることをしてくれたのです。明らかに私たちは見られていたのです。普段私たちがしていることを息子は見て、学んでいたのです。
お読みいただいた箴言2326節を、昨年秋に刊行された聖書協会の新しい訳では「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ。そうすればあなたの目はわたしの道を喜ぶ。」と訳しました。この言葉は親が自分の子に対して語った言葉です。単純に言い換えますと「子よ、あなたがわたしと同じ生き方をするとき、あなたはわたしの生き方を喜びを持って見ることができ、生きることができる」ということです。
 子どもたちが私たちの生き方を見ていると意識したら、その生活は不自由で不自然なものになりかねません。しかし通常に生活し、見られていることを忘れているとき、つまり自然体で生活しているとき、その生き方は子どもたちに、あるいは他者にとって、反面教師も含めて学ぶべき在り方を見られて生きていると言えます。
 日本の社会の中でのキリスト者が、とても少数であることは誰もが知っています。それだけに事があるたびに「キリスト者はどうするだろうか」ということを見て知るかも知れません。逆に全く関心を払わないかも知れません。どちらでも私たちは構わないのです。なぜならば私の生き方の主人公は私でなければならないからです。
 その私、すなわちキリスト者である私は通常どのような生活をするのでしょうか。おそらく祈りながら、聖書の言葉を味わいながら生活しているのだろうと思います。そのことを私たちは敢えて子どもたちに教えることをしなくても、子どもやキリスト教信仰に関心を抱いている方たちは見て学んでいるのです。
 「母の日」です。しかし「母」だけの課題ではなく、キリスト者の生き方が子どもたちの生き方を自然に育てていることを憶えたいと思い、願います。箴言2326節を、もう一度読み、心の内で味わいたいと願います。

2019.05.05
「聖書の言葉を語る」ルカによる福音書24章28~35節

 イースターから2週目の主日です。今回もイエスの復活の日に起こった出来事から聴いてまいります。
 復活の日の夕方、二人の人がエルサレムから約12キロ離れたエマオに向かっている途上で、イエスの十字架の死のことや、朝早く起こったイエスの復活のこと等について話し合っていました。そこにもう一人の人が、話に加わってきました。二人はそれが誰かを気づかぬまま話を続けています。
途中から同行した人が「何を話していますか」と尋ねました。二人はエルサレムで起こったことについて語り始めたようです。しかし逆に、同行者のほうからその日に起こったことと聖書の言葉について話し始めました。
二人は話を聞きながらも同行者に、夕方になったので一緒に泊まることを勧め、一軒の家で語りあいつつ食事を始めようとしました。そこで同行者がパンを裂こうとしたとき、二人の人は同行者が誰であるかということ、しかも復活なさったイエスであることに気づいたのです。
気づいたそのときイエスの姿が見えなくなっていました。しかし二人はあの方が「聖書を解き明かしをしてくださっていたとき、心が燃えていた」ことにも気づきました。
 ここに信仰者としての真の在り方が告げられています。それはイエスをこの目で見ることではありません。イエスがなさった驚くべき業を見ることでもありません。そうではなく聖書の言葉をとおして語られていること、しかも聖霊によって届けられる聖書の言葉によってこそ、信仰の喜びと確信は得られていく、と伝えているのです。
ルカは「心が燃えていたではないか」と伝えています。ルカが書く「燃える」という語は「燃え尽きることがない」という意味を持っています。意訳をしますと「消そうとしても消すことができないような燃え方」と言えるでしょう。これは驚くべき業を見て興奮したり、イエスの姿を見て喜ぶことに遥かに勝った事柄です。
ヨハネ福音書でイエスは「しるしを見てイエスを信じた人たちを信用しない」(223)と語り、「わたしの言葉に留まる(言葉が根を張る)人が本当のわたしの弟子」(831節)と語っておられます。
 信仰者である私たちが求めるべきことは「聖書の言葉が聖霊の働きをとおして届けられ」何があっても消すことができないほどに私たちの心を燃やすことなのです。
 見ること、驚くべきことに感動する信仰者ではなく、み言葉に感動する信仰者として歩みたいと願います。

4月

2019.04.28
「キリストの体なる教会」エフェソ信徒への手紙1章15~23節 

教会というと殆どの方が建物の教会堂を思い起こしますが、「教会」という言葉の意味は、神の国の建設の為に「呼び出す」という言葉が元で「神に召し集められた者たち」で、建物ではありません。
建物としての教会堂は、神様の御用の為に用いられますから大事にしたいですが、次世代の人々に残すべきは、建物でも伝統でもなく、一番大事な信仰です。信仰は、主イエスの甦られたことを記念して行われる日曜日毎の礼拝で、神のみ言葉を頂いて、そのみ言葉を生きていかなければ、保たれません。
礼拝で神を讃え、神の御前に進みでて自己を反省し、新たにみ言葉を頂いて、社会の中に再び出て行きます。神様が神の国の建設の為に呼び出し、集めて下さっている教会から、み言葉を携えて普段の生活の場へ戻ります。なぜなら、私たちは、教会へ来るために、日々の生活をしているのではなく、日々の生活をするために教会へ来ているからです。礼拝出席者が「再び立ち上がる力を与える主の真理」に出会うことを願って、牧師は託されたメッセージを語ります。最後の祝祷は、今日頂いたみ言葉をしっかり味わって、(神様を信じて生きる)信仰の生活が出来るようにとの祈りです。また、社会の荒波の中に出て行く一人一人が守られるようにとの祈りでもあります。教会は、主にある共同体として、置かれている場所は違っていても、闘っている一人一人の為に、祈っていることを憶えていたいと思います。
キリストによる真理の言葉を聞き、福音によって救われ、神様を信じる者となったにもかかわらず、エフェソの教会のように現代の教会にも様々な問題が起こっています。「教会はこうでなければならない」とか、「教会はこうあるべきだ」とか「自分たちはこのようにして来たから」などと思い過ぎると、教会の本来の意味から離れてしまいます。教会はキリストの体であって、キリストは教会の頭(かしら)と聖書は語ります。体の部分の働きが違う様に、様々な違った考えの人々を神様は神の国の建設の為にキリストの下に集められます。
神様は罪ある私たちを、キリストにおいて「聖なる者」「清い者」とするために、キリストによる贖いによって我々を救い、「神の子」にしようとして、選ばれました。間違いだらけの人間がキリストによって死に、新たに生まれ変わらせていただいて、日々の生活の中で神の国を求めて生きる者となりました。礼拝において、しっかり神様からの福音のメッセージを聞き、「神様、私たちに主の生き方を学ばせてください」と祈る者に、神様は聖霊の働きによって大切な奥義を教えて下さいます。
神様は、どのような時も、あらゆる場面ですべてを豊かに満たしてくださるお方です。教会は、集められたすべての人が、その豊かな神様の働きを感じ、共に神様を仰ぎ見て神様の聖名は誉むべきかなと賛美できる場でありたいものです。また、心も体も安んじていられる場でもありたい。それは、教会に来ている時だけでなく、普段の生活の場もそのようでありたいと願います。キリストの体なる教会の一人一人がみ言葉を携えて普段の生活に戻り、総てを満たしてくださるお方を信じて信仰生活を送るのですから。

2019.04.21
「新しい力」ルカによる福音書24章1~12節 

2019年のイースター主日を迎えました。キリストの教会では、主イエス・キリストが死人の内よりよみ返ったことを記念する日曜日をイースターと呼びます。    この復活は、昔から今日に至るまで、なかなか信じる事が難しいこととされてきています。キリスト者の中にも「いろいろなことを信じるけれど、復活だけは信じられない」という人は少なくありません。
私は復活を信じています。その信じ方は「どのように復活なさったのか」とか、「どんな事が起こっているのか」ということではなく、「復活」は神のみが行われる事柄であることを信じている、という信じ方です。
イエスの誕生(クリスマス)も、イエスの十字架の苦難(ヨハネ1223節参照)も、神のご計画によって、神が「よし」と決めたときに起こった出来事でした。     同じように「復活」も神の主体性の中で、全くの神の自由によって起こる出来事である、と私は信じているのです。神は主体性をもってイエスの「復活」を行った、そして今後においても神の定めたときに復活が起きると信じているのです。
 ルカ福音書24書において、週の初めの日の明け方早く、幾人かの女性たちはイエスが葬られている墓に出向きました。しかしその墓には輝いた衣を着た人がいて「あの方はここにはおられない。復活なさったのだ」告げたのです。マタイ福音書は287節において「あなた方より先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」と書いています。このガリラヤの町は、イエスが葬られている墓に行った女性たちが、以前初めてイエスと出会った場所です。人間の弱さ、痛み、病、不正、人間不信等々が蠢いている町です。そのガリラヤはイエスの死後も全く変わっていなかったでしょう。そのガリラヤに復活のイエスは戻られたのです。
このガリラヤで復活のイエスは女性たちだけでなく、弟子たちに会うことを告げました。そしてこのガリラヤで弟子たちに対し、福音を伝えるために出かけることを命じました。イエスの復活は、そして復活の主に出会うということは、福音宣教に遣わされて行くということです。
聖書に4つの福音書がありますが、どの福音書も「復活」と「福音宣教」はしっかりと結びつけられています。復活の出来事こそが信仰者に福音宣教の原動力、新しい力を与えることなのです。それだけでなく、福音宣教の大切なメッセージそのものなのです。私たちの教会も「復活」を信じ、信仰の根拠をそこに置く教会として歩んでまいりたいと願います。

2019.04.14
「十字架の重さを知る」マルコによる福音書15章21~22節 

 受難週を迎えました。今回は「わたしに従いたいと思う者は自分の十字架を負ってわたしに従ってきなさい」と仰ったイエスの言葉を思い、聴いてまいります。皆様には「自分の十字架」がおありでしょうか。基本的には、自分で背負いきれることを聖
 シモンにとってこの体験は「たまたまのこと」です。これを「強いられた恩寵」と教会は言っています。しかしシモンには迷惑なことだったと推測します(後々、シモンと2人の息子はこれがきっかけでイエスを信じます)。
 自分の十字架を背負えなかったイエスに対し、人々は罵倒や唾をかけました。イエスは負うべき十字架を「負えなかった」屈辱も味わったのです。疲労困憊であったことは確かですが、それでも十字架を「負えなかった」思いは忘れられなかったでしょう。
 私に十字架があるとしたら、それは、私も負いきれません。そのようなとき皆さんはどうされますか。これに対する希望は「十字架を背負いきれなかったイエス」にあります。「わたしも自分の十字架を負いきれなかったんだよ」とイエスは言ってくださり、負えない辛さを知ってくださるのです。イエスは身体的理由でしたが、私たちは内面的理由で負いきれないのだと思います。イエスは十字架を負えない者の辛さを、体験の中から解ってくださるのです。そしてイエスは、最後は十字架で死なれました。十字架から逃げることなく死なれました。人々が負っている十字架の重さを解ったからです。十字架の上からの叫びを通して、ここから逃げたら人々に対する神からの罪の赦しが実現しないことを知ったのです。イエスはご自身では負えなかった十字架につけられたことにより、神の、人に対する熱心と愛を知らされたのです。その故に、十字架の死を受け入れることができたお方なのです。

2019.04.07
「躓いた者への言葉」ルカによる福音書22章31~34節

受難節の第5週を過ごしています。この時も祈りの内に日々を過ごしてまいりたいと願っています。今回は「信仰者の躓き」について三つの面から考え、聖書の言葉を聞きたいと願っています。

 一つ目は「あの人の信仰は恵まれている」、あるいは「あなたの信仰はもう少しですね」と言われることがある、ということです。これは信仰を「評価する」行為です。キリスト教信仰の場合、信仰は、神あるいはキリストとの結びつきであり、人が神を礼拝し賛美することであります。それを誰かが評価して「恵まれている」「恵まれていない」ということはあり得ませんし、そのようなことは人と人との信仰を比較する行為から生まれることであり、信仰の在り方としても間違っています。

 二つ目は、イエスがルカ188節で言っておられますが、イエスが再び地上に来られる時(教会は「再臨の時・終末の時」と呼んでいます)、地上に信仰が見られるだろうか、と語りました。8年前の大震災のとき、教会の中でも「神がおられるのに何故」「神は愛の神ではないのか」という言葉が飛び交いました。
そのような思いを否定する必要はないでしょうが、しかし神はそのときにも神であった(今も神でいたもう)という信仰が揺らいだのではないかと感じています。ましてや終末の時、今まで経験したこともないような天変地異が起こる可能性があります。そのときに「地上に信仰があるだろうか」とイエスが心配なさるのは当然かも知れません。

 三つ目はペトロの信仰をイエスは心配なさいました。「あなたの信仰が無くならないように祈った」と語り、さらに「三度わたしを知らないと言うだろう」と予告なさったのです。イエスの最初の弟子であり、筆頭の立場も与えられていたペトロです。しかしイエスの予告が実現してしまいました。ペトロは躓いたのです。実はペトロだけでなく、すべての弟子が躓きました。イエスは躓いた者たちに何と言い、どのような言葉を投げかけたのでしょう。イエスはこう仰いました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです」と祈り、語ったのです。

 私たちも躓きます。弱さを抱えています。道をあやまることもあります。ペトロの躓きは取返しのつかないようなことでした。しかしイエスは十字架の上からペトロや他の人たちの過ちへの赦しを神に請いました。ペトロたちには見捨てることは決してしない、というメッセージを叫んだのです。それこそが躓いた者たちに投げかけられた言葉なのです。十字架のイエスを仰ぐ者とさせていただきましょう。

2018年度下半期

2018年10月~2019年3月

3月

2019.03.31
「働き人の評価」Ⅰコリント3章10~15節
鈴木龍生 師

クリスチャンは「神の建物」(9節)と表現されている。神の働き人としての評価、その真価が問われるのは終末の時である。神の建物にふさわしい生き方、信仰生活の在り方を聖書から学びたい。
①隣人となられたイエス 主イエスは「親切なサマリヤ人」(ルカ10:30~37)のお話をされた。ある旅人が、エルサレムからエリコに行く途中、強盗に襲われた。彼は持ち物全部を奪われ、傷を負わされ、半殺しにされて倒れた。祭司とレビ人とも被害者を見て、見て見ぬふりをして避けて通った。この人と関わりたくないという気持ちで、向こう側を通った。サマリヤ人は旅人を見て哀れに思って助ける。その人と関わることによって自分の時間を犠牲にする必要があった。また、お金をも犠牲にした。主イエスはサマリヤ人を憐れみの模範として選ばれた。愛をもって実際に行動し隣人となったのである。主イエスは、十字架の犠牲を通して私たちの隣人になってくださった。そのキリストを送ってくださった神を私たちは愛さずにおれない。又、その神を愛する時、キリストが私たちの隣人になってくださったように、私たちも「行って、同じように」、すべての人の隣人にならずにおれない。
②キリストを土台として生きる マタイ7:24~27の二つの家のたとえでは共に自分の家を建て、嵐にあった。雨も洪水も風もみな同じである。しかし、それでいて結末が全く異なる。一方は嵐にあっても平気だが、他方は壊滅的な打撃を受ける。それは土台(岩地と砂地)が違っていたからである。
パウロは、この神の評価を火によるテストの比喩で語る。パウロは自分の力ではなく、神の恵みによって賢い建築家のように基礎を据えた。その基礎は、すなわちイエス・キリストである。
キリストを土台としていても良い材料を用いて建てる人、普通の材料で建てる人では大いなる違いが生じる。一つは永久に朽ちないものであり、もう一つは消滅していくものである。ある人のわざが永久に朽ちないものであれば、その人は報いを受けるが、わざが消滅するものならば、その人は損害(受けるべき報酬の没収)を受ける。
③働き人の使命 働き人の仕事は霊的教会建設である。各人の働きの真価は、残るか、焼けるかの二通りの方法で現わされる。火は、燃えるものを焼き尽くすが、金属と石は焼き尽くさない。焼けないで残るなら、建てた人は報いを受ける。キリストを土台とする限り、働きは至らなくても救いは与えられるのである。ロトがソドムの滅亡の火からかろうじて逃れ得たのと同じである。
④生きた石 1ペテロ2:4~5においてキリストは生きた石として表現されている。また生きた石としての主イエスを信頼する者も、生きた石そのものとなり、神殿である霊的な家に造り上げられる。キリストは、死からよみがえって永遠に生き、また信じる者に命を与える人格的存在なので、生ける石と呼ばれる。主イエスばかりでなく、あなたがたも生きた石であると力を込めて強調し、一人一人が生きた石として、霊の家に築き上げられなさいと勧告する。イエスキリストを遣わし人々の隣人となることによって証明された神の愛。この真実なお方の愛を実感しながら、主にある兄姉と力を合わせて神の美しい家を建て上げるために働きを進めよう。

2019.03.24
「主への裏切り」ヨハネによる福音13章21~30節

受難節を祈りの内に過ごしています。イエスの苦難を思いつつ、み言葉に聞いてまいります。
 イエスが十字架の死を受けたとき、そこには12弟子の一人である「イスカリオテのシモンの子ユダ」と呼ばれる人が関わっています。イエスの時代、ユダヤを支配していたローマですが、ユダはそのローマにイエスを売りとばしました。    それについて福音書記者ヨハネは「イエスは、『わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ』と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。」と記述しています。「サタンが彼(ユダ)の中に入った」というのです。ユダはイエスを裏切った人だと言われ続けていますが、サタンこそが裏切りの主人公であるわけです。
 ではなぜサタンはユダに目を付けたのでしょうか。それは「イスカリオテ」ということに依っていると考えます。「イスカリオテ」(またはシカリウス派)とは純粋な愛国主義者のグループの名称でした。ローマの力からの解放こそがイスカリオテ派の強い願望です。サタンはユダにあるその望みを利用し、反ローマの指導者としてイエスが蜂起する機会を提供しようと図ったのだと考えます。
サタンは「私がサタンだ」というような形で人に関わってくるはずはありません。全く反対で、「あなたのその思いを神様は喜んでくださいますよ」「あなたは信仰深い人ですね」というようなことを語りながら近づくのがサタンです。 
イエスには「あなたは王国の王に相応しい人だ」と声を掛けます(マタイ4章参照)。イエスを苦境に追い込むことによってイエスをローマの力からの解放の指導者として蜂起させよう、その時機を狙って「イエスを支配下に置こう」とサタンは考え、愛国者であるユダを選び、イエスを追い込んだのです。しかしユダもサタンも計画は失敗でした。
 12弟子の中でも優秀な存在だったユダは死んだのです。ユダを利用しようとしたサタンは生き延びました。
 サタンとユダの、あるいはサタンの計り事が失敗したのは、イエスという方は地上において王となることを求めていなかったからです。イエスご自身が語られたのは「わたしは仕えるために来た」という使命です。その信仰と言葉に確固として立っていたからです。
 サタンは私たち人間に夢を抱かせます。私たちはイエスに倣い、福音の確かさと豊かさをもって社会に、時代に、そして人に仕えることこそがキリスト者のつとめなのです。聖霊がお一人ひとりを守ってくださるよう祈ります。

2019.03.17
「イエスの視線の先」ルカによる福音書9章51~56節


 3月6日より受難節に入りました。本年の復活節主日は421日ですので、413日までの受難節の日々を祈りの内に過ごしてまいりたいと願っています。

 本日の聖書箇所には、イエスがエルサレムへ行くことを「固く決意した」ときのことが書かれています。イエスご自身が行くと決意なさったエルサレムは嘲りや罵り、苦難、死、復活等がイエスを待ち受けている町でした(18章参照)。このことは9章の2122節でも触れている内容です。エルサレムに行くイエスの視線の中にはこのようなことが入っていました。それでも「固く決意」なさったのです。

 イエスのこの決意を思うとき、預言者ヨナのことも思い出されます。預言者は基本的には神によって遣わされた所へ、神の言葉をもって出かけることが求められていました。預言者ヨナは「ニネベ」という町へ行くようにと命じられました。しかしヨナはそれを拒否し、ニネベとは反対方向のタルシシュに向かったのです。ヨナの視線には、ニネベは好ましい町ではなく、信仰的にも神の言葉に素直に従う人など一人もいないように映っていたのです。もしニネベに行けば、ヨナ自身の命が危ない、と感じていたのだと思います。

 ヨナの場合と似たようなことは私たちの周辺でも起こります。「ここ」に行かなければならないけれど、行けば激しく批判され、口論が起こるであろう所には、奮い立っていくことは難しく、行けば歓迎されるだろう所には必要もそれほどないけれども出かけて行く、ということがあります。
 その結果、ある人の視線には批判と口論が見えるため行くことを避け、混乱が生じたりするのです。このことは私が知っている現実のこととして起こりました。

 ヨナは神によって、行きたくなかったニネベに行かされました。その結果、ニネベに神の祝福の業が起こったのです。
 イエスがエルサレムへ行くことでイエスご自身は苦しみを受け、殺されましたが、そこに罪人への神からの赦しと、イエスの名によって祈るとき、その祈りが神に聞かれる、という幸いなことが起こったのです。

 私たちの視線で見えることがあっても、視線の先は見えていません。ヨナも視線で見えることはあっても視線の先は見えませんでした。しかしイエス・キリストには、そして神様には視線の先が見えているのです。そのお方が、私たちが生活する場に招いてくださり、押し出してくださるのです。私たちの視線で見えることで私たちは決断し、視線の先を見ておられるお方を信じ、祈りながら生活をする者でありたいと願います。

2019.03.10
「耐え忍ぶ神」マタイ4章1~11節

 今回、2か所の誘惑の記述の所から、神様の耐え忍んでおられることを学びたいと思います。創世記の蛇の誘惑では、神様が「園の全ての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と言われたことに対して、蛇は「本当に神様はそう言われたのか?」と言いました。すると、女は勝手に神様の言われたことを歪めたり、付け加えたりして答えます。
狡猾な蛇は「決して死ぬことは無い」と断定し、「それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神は御存じなのだ」と言いました。人間にとって「神様のようになるということが」一番引き付ける言葉だと知っていたのでしょう。結局、人は神様の信頼を裏切り、自ら死を招く結果になりました。この時神様は、「何ということをしたのか」と言われました。この言葉には、神様の人間に対する憐みを感じます。聖書では誘惑と試練とは同じ言葉が使われています。
「試練」は、私たちが神様に忠実にお従いし、神様の御前に真実な信仰かどうかが試される時に使われます。「誘惑」は、最初は試練だと思っていても気がつかない内に誘惑に変り、自分は大丈夫という傲慢な思いの時に陥ります。本日の箇所で、イエスは洗礼を受けた直ぐ後で荒野に導かれ、悪魔から誘惑を受けます。悪魔にとっては絶好のチャンスで、イエスが救い主として相応しいかどうかを見極めてやろうとしました。
3つの誘惑の最初は、「生きるということ」についてです。人間の弱さをその身に負うておられた主は、「神様によって応答する存在として造られた人間は、神のみ言葉によって生きることが大切だ」とみ言葉で打ち負かしました。
次の誘惑は神様の信頼を「しるし」によって試しています。悪魔は、「聖書に書いてあることを信じないのか?」と問いました。私たちは、聖書から聞こうとするのではなく、聖書に書かれているそのままを「しるし」と思い、自分に当てはめようとします。主イエスは「あなたの神である主を試してはならないと書いてある」とまたみ言葉で答えています。
最後の誘惑は、悪魔が「もしひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」でした。イエスは「退け、サタン。」と激怒しています。そして、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよと書いてある」とまた、み言葉で答えました。
私たちを生きる者として下さった神様に対する私たちの生き方を、主が示してくださいました。蛇の誘惑の時も、主が悪魔に誘惑されている時も、神様はどう思われていたでしょう。私たちが誘惑の罠に陥りそうになっている時、どう思われているでしょう。
使徒言行録1318「神はおよそ40年の間、荒野で彼らの行いを耐え忍び」とあります。イスラエルの人々の行いをずっと見続け、耐え忍んで下さった神様は、勿論、御子イエスが洗礼を受けられて以降ずっと、救い主として全うできるようにとイエスを見守り、耐え忍んでおられたはずです。私たちが誘惑の罠に陥りそうな時も、同じです。聖書の神様は御自分も苦しみ、耐え忍んで下さるのです。主権は神様にありますが、全てを思いのままに私たちを操るわけではありません。耐え忍ぶという言葉は育むという言葉にも訳されます。私たちの弱さを思い、忍びつつ育てて下さっています。私たちが誘惑に陥りそうな時も、神様に助けの叫びを上げている時も、神様は私たちの祈りも思いも受け止め、再び立ち上がることが出来るように忍びつつ私たちを育てて下さっています。ヘブライ人への手紙218にあるように主イエスは「事実、ご自身試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがお出来になるのです」。耐え忍んで下さる神様に感謝しつつ、主イエスに倣ってまいりましょう。

2019.03.03
「主が来られる」マタイによる福音書13章24~30節


使徒信条の「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審きたまわん」からのメッセージをマタイ福音書をとおして聞いてまいります。

 今回の項目は、主イエスの再臨に関する事柄です。キリストの教会はクリスマスの度に、主イエスが地上に来られたことを喜び祝います。それは主イエスの初降臨です。そして時を経てもう一度地上に来られることを再臨と呼んでいます。

主イエスの降臨には目的があります。それは「天の国(神の国)」の建設です。権威ある教えを語り、癒しに代表される驚くべき業を行い、十字架に死なれ、復活なさり、復活の40日後に天に還られたことの一つひとつは、天の国建設の手段であり、一環なのです。では天の国の建設のために主イエスは、具体的には何をなさるのでしょうか。そして初降臨から再臨までのとき、何が行われ、起こっていくのでしょうか。

 マタイは譬え話をとおして「良い種」と「毒麦」の種まきと選別と刈り取りがなされると伝えています。良い種は人の子(主イエス)が蒔き、毒麦は悪魔が蒔いたと書いています。良い種も毒麦も同じ畑に蒔かれました。両方とも同じ肥料によって、同じように育っていくのです。畑を耕す農夫は「毒麦」を引き抜きましょうか、と主人厭いました。しかし良い麦も一緒に抜いてしまう可能性があるので、刈り入れのときが来るまで待つことを命じました。「良い麦」と「毒麦」が難しいからです。

 使徒信条は「生ける者と死ねる者を審く」のは再臨の主がおいでになったときになさることと謳(うた)います。私たちもそのことを信じ、告白するのです。再臨の主が来られるとき、再臨の主の使命である天の国は完成するのです。そして、再臨の主による「良い麦」と「毒麦」の選別が終わるのです。
 これは教会に対する厳しい警告のメッセージです。教会の中で時々聞かれる言葉は「あの人の信仰は祝福されている」、「私は神様から愛の業を行う力をいただいている」等々の言葉です。しかし確認したいのは、「良い麦」も「毒麦」も同じ畑で、同じ肥料で、同じように育っていることです。上記の「あの人の信仰は・・・・」、「私は神から愛の業を行う力を・・・・」ということが、実は思い込みであったり、悪魔の願うことであったりすることがあるのです。

 そのような私たちは、悪魔が最も嫌う聖霊の働きを求める必要があります。どうぞ聖霊が憐れみをもって教会を、また私を導き、お守りください、と祈りながら歩ませていただきたいと願います。


2月

2019.02.24
「福音の力」ローマ信徒への手紙1章16節~17節

聖書は、神様がどういうお方であるかを信仰を持って書き記した書物です。神様がイスラエルの歴史を通して(歴史の中に)ご自身を明らかにしておられます。イザヤ書には「わたしは主・あなたの神」と宣言され、創世記には「わたしは全能の神である。あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」と、イスラエルの人々と契約を結びます。しかし、人々は約束を破り、度々神様を怒らせました。その度に悔い改めるのですが、直ぐに神様の思いを裏切ってしまいます。このような罪深い私たち人間を救うことが、聖書の内側に現わされている神様の思いです。それは、私たちの全存在を受け入れ、私たちを決して見捨てないという神ご自身の約束を守ろうとされるゆえでした。神の御子イエスを救い主と信じることが出来るのは、今、この時代にも与えられている聖書が福音を示しているからです。でも、神様は、強引に私たちが信じる様にはなさいません。神様は、私たちの自由な意思で「信じることと」してくださっています。「様々なことを証明をして確信が持てたら信じたい」と願うことの多い私たちですが、神様は、ただ「信じる」ことを求められます。神様に招かれ、キリスト者となった者は、十字架に架かられた主に出会い、主の十字架は私の為であったと心から悟り、自分は罪を犯してしまう弱い人間だと自覚している者です。ですから神様を信じて完璧になったのではなく、キリスト者としての生き方を日々問われている者です。パウロは「福音を恥としない」と言いました。信仰者は、常に福音を恥とする危険性があることを知っていたからでしょう。現代のような自分中心の価値観が大切だと、最後まで神様に従い続けることは、おそらく愚かなことに思えます。福音を恥とする危険性が至る処に存在しているこの世の中に、神様は福音をお与えくださいました。福音というのは、「神様が私たちに約束して下さった救いを確実に行って下さった。それは罪ある私たち人間の贖いであった」ということ。そしてさらに、「その贖いを通して私たちが罪から離れ、神様の方からご自分との正しい関係に招き入れてくださった」ということです。義なる神様が御子を通して罪ある人間を贖い、和解の道をお与えくださいました。そして、主の復活によって、贖われた私たちは、死んで終わりではなく、み国が約束されています。私たちの功績によってではなく「神様からの賜物」として与えられたのが福音です。この恵みを信じることで、救いがもたらされました。17節の他の訳を見ますと「人を救うのは神の義であり、それはひとえに信仰を通して与えられることが、福音に現れています」となっています。説教者は、福音が信仰者にとっては生きる力となることを信じて語ります。聞く者も信仰を持って神の言葉として聞く必要があります。福音の力は神様の力ですから、悲しんでいる人を慰め、憎しみを取り除いて柔和を与え、自分中心を悔い改めに導き、他の人を赦す思いを起こさせます。福音の力はダイナマイトの語源になっているほどの力で、人を生かす力です。福音の内容を知ったからそれで良いのではないのです。神様は、憎しみが和解に変り、悲しんでいる人に慰めが与えられ、意気消沈している人がみ言葉によって立ち上がることが出来るようにと、キリスト者を社会の中に遣わしてくださいます。義なる神様が、弱き者を義として下さる福音の力を信じ、普段の生活の中で福音を証して生きる者となるように祈りつつ歩んでまいりましょう。

2019.02.17
「神に向き合う民」ヨシュア記24章1~28節

日本のキリスト教界では、「信教の自由を守る日」を意識しながら二月を過ごしています。理由は、国家権力が211日を「建国記念の日」と定めたからです。この日を国家権力は特定の宗教の信仰内容に沿って国の成り立ちの日と考え、かつ一宗教法人を国が護ること(国家護持)を目指したのです。
幸い今のところ一宗教法人への国家護持はなっておりませんが、特定政党の「憲法改定草案」によれば、日本国憲法九条を変更するのみでなく、信教の自由に関する項目も改定対象にしています。そのため、キリスト教界はもちろん、大多数の宗教法人は一宗教法人に対する国家護持には反対声明を出し、反対の行動を起こしています。
私たちの教会が属する日本ナザレン教団もこのことへの国の姿勢と方針に反対し続けています。ただ闇雲に反対している訳ではありません。教会は聖書的根拠をもって反対をしているのです。
旧約聖書に登場するヌンの子ヨシュアは、イスラエルのために「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」と語りました。
ヨシュアが仕えると言った「主」とはどのような神かと言いますと、ヨシュアの指導者でありイスラエル人の指導者であったモーセを選び出し、出エジプトさせた神であり、出エジプトした民が荒野を放浪したときには天から食物(マナ)を降らせ、岩から水を噴出させて民を守り通し、新天地であるカナンに導き入れた神のことであります。
この神の恵みの業に与かったのは出エジプトしたすべての人々であり、その子孫たちでした。彼らはヨシュアが「主」と呼んだ神を知っている民です。その恵みに与かった民です。その神をヨシュアは「わたしとわたしの家は主に仕えます。」と告げると共に、心の中では「あなた方も神の恵みの中で生きて来た民ですよ」と言いたかったと思います。
しかしヨシュアが語ったのは「あなたたちが・・・・仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい」という言葉でした。信仰を押し付けることはせず、個々人に信仰の選択を委ねたのです。まさに「信教の自由」を与えたのです。
今、日本の国においては「信仰の自由」が揺れ動く可能性の中にあります。そのようなとき、キリスト者である私たちは聖書を根拠として「信教の自由」を守る民の一人であるよう願い祈ることが求められています。神の守りを祈ります。

2019.02.10
「神の右に座す主」ヘブライ人への手紙10章11~14節

使徒信条は天に還られた主イエスは「全能の父なる神の右に座し給えり」と伝え、私たちもそれを信じ「アーメン」と告白します。
 なぜ「右」に座しておられるのかについては、「右」側は神の祝福の業が行われるからだ、ということができます。その「祝福の業」の最大のことは、神に背く罪を犯していた者が神を礼拝し、神に受け入れていただける者に変えられたということです。それを「救い」と言います。そしてその救いは主イエスの十字架の死によって実現しました。その救いの業(祝福)をもたらしたからこそ、祝福を与える方が座するに相応しい「神の右」に座すお方となられたのです。
 では「神の右に座す」主イエスは、神の右にあって何をなさる、あるいはなさっておられるのでしょうか。使徒言行録の記者は7章でこのように記述しています。「ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、『天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える』と言った。」(5556節)という言葉です。これは最初のキリストの教会の役員であったステファノが、ローマからの迫害に遭い死にかかっているときの言葉であります。まさに死に逝くステファノの目に入ったのは「神の右に立っている主イエス」だったのです。通常は「座しておられるお方」が「立っておられる」と叫びました。何故主イエスは立ち上がっておられるのでしょうか。二つのことを考えます。
 一つは天において、そして「神の右」にあってなお、神を愛する者たちを見続けてくださる、ということです。見続けてくださっているからこそ「いざ!!」というとき、思わず立ち上がってしまわれたのだろう、と思うのです。
 二つ目は、神を愛する者が死に直面しているとき主イエスは、ただそれを見ているだけではなく、心が動いて思わず手を伸ばし天に迎え入れようとして、思わず立ち上がってしまったのではないか、と思わされることです。
 主イエスは天において安息なさっている、あるいは安堵なさっている、というよりは、地上で生活しているキリスト者たちに対して心をかけ続けてくださっており、だからこそキリスト者に何かがあるとき思わず立ち上がってくださるお方なのだ、と思わずにはおれません。
 もちろん私たち人間には天の事柄を見ること・知ることは困難です。しかしステファノが天を仰いで目にしたこと、このことを今日は目で確認することができなくても聖霊が思わず働いてくださる、ということができます。
主というお方は、どんな時にも人に対して思いをかけ続けてくださっていることを知らされます。その神に心から感謝し、新しく賛美したいと願います。

2019.02.03
「主イエスの昇天」ヨハネによる福音書12章1~3節

ヨハネによる福音書1413節は、昨年114日の召天者記念礼拝においても読み、語らせていただいた個所です。今回は「主イエスの昇天」ということをメッセージとして聞いてまいります。
 主イエスの昇天には二つの目的があります。
 一つは、天に昇って、主に在って逝く者たちのための場所を用意してくださる、という目的です。しかも場所が準備できたときには主に在る者を迎えに来てくださり、共に天に還ってくださる、そのことまでも加えた目的です。
 二つ目の目的は、主に在る者たちが逝ったとき、主イエスも共にそこにいてくださるということです。主イエスの言葉を読みますと「わたしのいる所にあなたがたもおらせるため」と語っておられるのです。
 以上二つのことが主イエスの昇天において起こることだと、主イエスご自身が語っておられます。
 通常、昇天したとき、人は安息に入ったと考えます。日本で行われている告別式の中で、亡くなった方の亡骸あるいは遺影に向かって、弔辞を述べる人が「ゆっくりお休みください、お眠りください」と語ることに出会ってきました。しかし主イエスの昇天は「ゆっくり休む、安息する」といったものではなく、昇天に際しても役割を負っているのです。
詩編の詩人は121編において「イスラエルを守るものは、まどろむことがない」と詩っていますが、全く同じように、神と同じ性質を持っておられる主イエスも、死に際して、そして昇天に際しても役割を与えられているお方です。主イエスのその役割は、上記しましたように、主イエスに在る者たちのための昇天ですが、少し言葉を換えますと、主イエスに在る者たちの死は決して孤独なものではない、ということなのです。
 私たちは使徒信条の項目のうち「天に昇り」という項目に対して「信じます」と告白いたします。しかし主イエスの昇天の「何を」信じているのでしょうか。ただ単に昇天なさったことを信じるのでしょうか。そうではなく主イエスは私たちのために、私たちが天に還るときに伴ってくださるためもに、また天においては共にいるために場所を用意しに行かれた、そのことを信じるのです。主イエスの昇天は私たちのためであり、私たちの死が孤独な事とはならないことを主イエスが実現なさるために天に昇られたのです。死んでなお、天に還られてなお、私たちのために道を備えてくださる主に感謝して、新しく賛美をささげたいと願います。

1月

2019.01.27
「神の恵みを受け継ぐ」ガラテヤの信徒への手紙3章26~29節

本日の聖書箇所の最後に「約束による相続人」と書かれています。相続人という言葉は、「恵みを受け継ぐもの」と同じ言葉が使われています。「あなたがたは、神の恵みを受け継ぐものとされている」ということです。では「神の恵み」とは何でしょう。3章18節の終わりに「神は約束によって、アブラハムにその恵みをお与えになった」と。また17・18節には「モーセに律法が与えられるよりも遡って430年も前に、神は約束によってアブラハムに恵みをお与えになった」と書かれています。神様はアブラハムとの間に契約を結ばれました。
契約というのは互いに相手を束縛するということが含まれます。神様は意志と感情を持った人間を、ご自分と応答する関係として造られました。「わたしはあなたの神である。あなたはわたしの民である」という関係だと言われます。「わたしはあなたの神だから、あなたを守る」だからあなたは「神であるわたしに従いなさい」と言われています。神様がわたしの全存在を引き受けて下さるから、わたしは自分の全存在をかけて神様に従っていくということです。
「わたしの全存在を守り、引き受けて下さる神様が、わたしの神様でいて下さる」のです。「神様の恵み」はここにあります。だから全存在をかけて神様にお従いしたいという思いにされるのです。神様のアブラハムとの契約は、今やイエス・キリストによって新しい契約になりました。自己中心で、自己保身、神様に背く罪深い私たちを救う為には、御子の贖いによらなければならなかったのです。神の御子が罪あるものとして十字架に架かり、神様に見捨てられなければ成しえなかった。そのことを信じることによって救われるということ。これも神様の恵みです。それほどに神様は私達を愛してくださっていたのです。この神様の恵みは全ての人に与えられていることを知った私たちは、この恵みを受け継ぐ者として神様が召してくださいます。この恵みを信仰をもって受け止めていくときに、神様は私たちを恵みを受け継ぐ者にしてくださいます。
私たちは神様を信じたらそれでいいのではありません。信じる人が増え、教会に来る人が多くなればそれでいいのでもありません。神様に招かれて相続人とされているのですから、神の恵みを受け継いでいきたいですね。ではどうすれば受け継ぐことができるでしょう。27節にキリストを着るという言い方がされています。それは、主イエス・キリストの生き方を私たちの生き方として歩むということです。主は、立場の弱い人々、見過ごされて声を上げることが出来ない人々、苦しんでいる人々、罪ある人々に近づいて、押し付けではなく人々の思いをくみ取り、神様の愛を示されました。主の生き方を私たちの生き方としたいと願えば、困難が立ちはだかります。その時、私たちには「神様が私の神様でいて下さる」というこの大いなる恵みが与えられています。この恵みが与えられているから困難に立ち向かうことが出来ます。恵みを受け継ぐものとされていることを心に留めて、一人一人がキリストの生き方を私たちの生き方としたいと願って、祈りつつ歩みましょう。

2019.01.20
「大切なこと」第一コリントの信徒への手紙15章1~5節

本日の聖書箇所は先週と一緒ですが、与えられた題は「大切なこと」です。「大切なこと」とは主イエスの「復活」のことです。福音宣教者パウロは主イエスの「復活」を「最も大切なこと」と手紙に書き、伝えました。しかも主イエスの「復活」が無ければ「あなた方(キリスト者たち)の信仰は虚しい」とまで言っています。それは、キリスト者たちの信仰は主イエスの復活があるからなりたっている、という言い方になります。
 このことをパウロは「生活のよりどころ」という言葉で表現していますが、私たちにとって主イエスの「復活」は生活のよりどころになっているでしょうか。パウロが「よりどころ」と表現した言葉、そして日本語に訳された言葉がもともと持っている意味は「このことが無かったら生活が成り立たない」という意味なのです。
 今回はこの「よりどころ」という言葉から2つのことを聞いてまいります。
 1つは「復活」という言葉です。新約聖書の原語のギリシャ語では「復活」は「起ち上がる」と同じ単語が使われています。毎日、目覚めて起ち上がる、ということです。そして私の、またお一人ひとりの最後の目覚めと起きあがりは、主にあって「復活」させていただくときであるということができます。ですから毎日の眠り・目覚め・起きあがりこそが、私たちの「復活」の先取り、あるいはひな形ということができます。そのことなしに、私たちの生活は成り立たないのです。
 2つ目は「復活」の主に結ばれて行われて行く主の業は、決して無駄にはならないというパウロの言葉に根拠を置いています。私たちが行う主の業はどれもこれも良い実を結んだり、良い結果を得るわけではないと体験しておられるのではないでしょうか。しかし「復活」の主から託されたと信じて行う業は、決して徒労に終わるものではないのです。ただ、ここで気を付ける必要があることは「信じること」と「思いこむこと」の違いです。その違いは「主よ、これで良いのですよね」と問いかけながら業を行うか、問いかけないまま自己目的のために行うかにあります。心して行う主の業は無駄に終わることがなく、喜びであり、大いなる慰めです。
 眠り・目覚め・起きあがることの幸い、しかも最後の目覚めと起きあがりは「復活」のときです。これが喜びであり、かつ生活のよりどころです。
 主の業に励む時、徒労となる業は一つもないことの喜び、それは証し人であることの手応えそのものです。やはり「生活のよりどころ」です。
 「復活」を信じ待ち望む者とされたいと願います。

2019.01.13
「三日目の出来事」第一コリント信徒への手紙15章1~5節

昨年10月をもって中断していた「使徒信条」から聴くメッセージを、本日より再開してまいります。
 本日は「三日目」という言葉から聴いてまいります。「三日目」とは、主イエスが十字架の上で死なれてから「三日目」のこと、すなわち「復活」された日を意味します。新約聖書ペトロの手紙は、十字架で死なれた主イエスは「復活」までの三日間の間に陰府(よみ)に降り、ノアの時代に死んだ人たちに福音を伝えたと書いています。十字架の死後の主イエスには陰府においてしなければならない働きがあったと告げているのです。
 本日は「三日目の出来事」という題ですが、この「三日」について聖書にはたくさんの記述がありますが、今回はアブラハムの三日間、また預言者ヨナの「三日三晩」のことを読んでまいります。
 アブラハムは、神の約束によってやっと与えられた愛息イサクを、アブラハムの信仰告白として完全に焼き尽くす献げ物として献げるよう命じられました。命じられてから実行までに「三日間」という時間がありました。その「三日間」、アブラハムは神の命に従うか、それとも理不尽なことを命じる神から離れようか、揺れ動いた「三日間」だったと思います。揺れ動いただろうと思わされます。その結果としてアブラハムが行き着いたのは「神は(神を愛する者を)見ていてくださる」という信仰でした。それだけでなく、神の愛を「見せてくださる」お方だ、と告白しました。
 預言者ヨナは神の命に逆らった人でした。その結果、聖書には彼が巨大な魚に飲み込まれ「三日三晩」悩み、最後には祈らざるを得ないところに立たされたことを書いています。ヨナの「三日三晩」の中で、神は神に敵対する者たちにも確かな愛をお持ちの方だと知らされたのでしょう。ヨナは「三日三晩」の中で、神の絶対的な愛を知らされ、神に逆らったヨナの祈りも聞いてくださる、と確信したのです。アブラハムもヨナも「三日」という時間の中で神の確かさと愛を心の奥深く知り、味わったと思われます。
 揺れ動くのはアブラハムとヨナだけではありません。私たちも「三日間」というよりは、どれだけ続くか解りません。そのような中で思わされることは、十字架で死なれた主イエスの「三日間」は、信仰的に揺れ動き、神を信じるかやめるか、と迷う私たちのための「三日間」でもあったのではないか、ということです。神というお方は、信仰に対して、悩む私たちのためにもイエス・キリストをお遣わしくださったことを知らされます。神に感謝いたします。

2019.01.06
「行くべきところはある」創世記12章1~9節

2019年を迎えました。この一年間も、神の国の建設に私たちが招かれていることを憶えて歩んでまいりたいと願っています。神様の祝福が皆様方に、また教会にあることを祈ります。
 本日は、新約聖書が「信仰の父」と呼んだアブラハム(アブラム)と神の関わりを見てまいりたいと願っています。
 アブラハムはある日突然、「わたしの示す地に行きなさい」と神から命じられました。その命に従って、行く先も知らないまま旅立ちました。神の言葉だけが旅の頼りです。アブラハムの旅と生涯は、順風満帆ではありませんでした。

 キリスト教以外の信仰の創始者たち、教祖たちも若いときには苦難の中を歩み、必ずしも順風満帆ではなかったと言われ、伝えられているようです。
しかしその生涯の最後において、教会用語で語らせていただきますと、とても祝福された生涯となっていたということのようです。

 それに比して「信仰の父」と呼ばれたアブラハムの生涯は、旅立った時から生涯を閉じるときまで闘いの日々であり、苦渋の日々であったことを聖書は伝えます。聖書が伝えるのは、神を信じることによって喜ばしいことや良いこと、あるいは苦しみや戦いの日々から解放されるだけでなく、生涯闘い続けることにも出遭っていくと伝えています。闘いの日々の中で殉教の死がある、そして、あったと語らなければならない信仰でもあります。
 しかし神は聖書を通して「人の生涯は地上で終わるのではなく、天に招かれることが神のみ旨である」と約束してくださっています。地上での苦しみをはるかに超える喜びが待ち受ける天に招かれていくことを信じる信仰、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれる根拠はそのような信仰者であったことだと言えます。

 アブラハムが地上で出遭った最も苦渋の出来事は、息子イサクを神への「完全に焼き尽くす供え物として献げなさい」(創世記22)という神からの命令だったと思われます。そのような中で、アブラハムは神の命じたことに従うことを選びました。最も苦しく、揺れ動くような中でなお、神を神としたアブラハムでした。

 そのアブラハムは信仰者としては孤独な闘いだったと考えます。しかし私たちは違います。私たちには教会に仲間が与えられています。アブラハムと同じように神の言葉が与えられていますが、それと共に「教会」、また信仰の仲間と一緒に歩むことができるのです。神の言葉・教会・信仰の仲間と共に私たちは信仰の道を歩み出していける幸いを感謝しながら歩み出してまいりましょう。

2019.01.01(元旦礼拝)
「神の言葉に立つ教会」イザヤ書55章8~11節


 
 2019年を迎えました。新年を迎える思いは一様ではないと思います。しかし神様がお一人ひとりを導いてくださることを信じて歩みだしてまいりたいと願っております。
元旦を迎えますと、私は一人の方を思い起こします。この方は大雪の降っている元旦の午後でしたが、私がいる教会を訪ねてくださいました。彼から「聖書の言葉って古いですよね」と問われました。確かに聖書の言葉は古いものです。しかしその聖書は今の時代の私たちの「生き方」に密接に関わっていること、私たちを生かす言葉であることを伝えました。具体的には、ヨハネ福音書8章から、過ちを犯した女性とその裁きのこと、また天地創造のことを語りました。それを聴いて彼は「聖書の言葉は古いけれども、ある信仰では、今の時代に即したことを語ってくれる人たちがいます。今の時代に起こっていることに対して、必要なことを語っているのです。」と言われました。「その時代にふさわしいということは、時代が変わるとその言葉は古くなる、ということですか。」と私は問いました。そして時代が今と変われば語られる内容が変わり、今と全く反対の状況になれば、今とは全く反対のことが語られるということですね」と問わずにはおれませんでした。
聖書はどうでしょうか。時代とともに聖書の言葉が変わることは決してありません。先ほど例にあげましたヨハネ福音書8章の「誰が人を裁く可能性を持っているか」という問題、また創世記1章のように創造をなさったのか、さらには2章のようなことを人に命じたのかを聞かなければなりません。
ヨハネ福音書の記事も天地創造の記事も現代の私たちも聞かなければなりません。そして感謝へと導かれて行くのです。古いはずの聖書の言葉は今も生きて私たちに届けられています。
イザヤ書の記者はこう伝えました。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げわたしが与えた使命を必ず果たす。」という言葉です。神ご自身の言葉を一言で伝えることを控えたいのですが、敢えて申し上げますと「神は言いっ放しのお方ではない」ということです。神の言葉は今も生きています。人を導きます。この神の言葉は、まずイスラエルの民に与えられました。その後、第二のイスラエルと呼ばれる教会に与えられています。私たちの教会にも与えられています。この神の言葉に立つ教会として歩み出したいと願います。神の言葉に立つキリスト者として歩み出そうではありませんか。祝福を祈ります。

12月

2018.12.30
「ベツレヘムに生まれた方」ルカによる福音書2章1~7節

クリスマスの諸集会が終わりました。しかしクリスマスは終わったのではなく、クリスマスのメッセージを生きることを託されているのです。本日は主イエスの居場所について聞いてまいります。
 主イエスは「パン屋さん」と呼ばれる町、ベツレヘムにお生まれになりました。そして飼い葉桶に寝かされました。言い方を換えますと「パン屋さんの町で、食器の上に主イエスは寝かされている」と言えるでしょう。このことから、主イエスが語られた「わたしは命のパン」という言葉を思い起こされるのではないでしょうか。まさにその通りで、主イエスはベツレヘムの町で生まれ、飼い葉桶に寝かされたのです。このパンを、私たちは聖餐式のたびに十字架にかかられたお方の記念として食しております。ヨハネ福音書はイエスご自身の言葉として「十字架はわたしの栄光の時」と語っておられます。「栄光」とは「最もよく似合っている事柄」「最も似合っている時」という意味です。十字架こそが主イエスに最も似合っている、という意味において十字架こそが、そして「命のパン」として飼い葉桶に寝かされたことこそが主イエスの居場所であったのです。それは神の愛と聖霊の支えによってこそ確かな出来事となっています。神の深い計画のもとでなされた出来事を思い、神に感謝し、賛美を献げたいと願います。

2018.12/24キャンドル礼拝説教要旨
「イエスの愛の生き方」 ヨハネ福音書151217

 キャンドル・サービスを行うことができ感謝いたしております。教会はローソクの灯りのもとで礼拝を行いますが、それは大切なことだと思います。ローソクは灯りが点いている間中、周りを明るくします。明るさを提供しながら、ローソクの寿命が尽きてまいります。
 主イエスの生き方はどうでしょうか。主イエスの「生」は他者にすべてを献げ尽くしてその生涯を終わりました。主イエスの自分のための祈りを神は受け入れず、他者のために祈った祈りを神は受け入れました。他者のために時間を献げました。賛美の言葉に「すべての物を与えし末、死のほか何も報いられで、十字架の上にあげられつつ敵を赦しし、この人を見よ」という歌があります。主イエスの生涯を歌った歌です。主イエスという方の生涯はローソクに似て、周りに命を、生きる喜びを与えたのですが、ご自身は死に追いやられて行ったということなのです。そのゆえに教会は、主イエスの生き方を偲んでキャンドル・サービスを行っているのです。今、教会が主イエスの生き方を受け継ぐことを神が求めておられることを知り、応えてまいりたいと願っています。

2018.12.23
「クリスマスのプレゼント」ルカによる福音書2章8~20節

クリスマス礼拝を共に献げることができ、感謝いたします。クリスマスは「救い主」イエスの誕生を記念し、感謝するときであります。「救い主」の誕生を当時のユダヤの民は長い間、心から待っていました。その「救い主がお生まれになる」という大切な知らせは、まず羊飼いたちに伝えられました。このことはユダヤの民にとっては驚きであり、何故?と首を傾げることでした。その理由は、羊飼いたちはイエス誕生のころには「ならず者」と呼ばれ「嘘つき」と呼ばれていたからです。なぜ彼らにクリスマスの第一報が届けられたのでしょうか。
本日の説教題は「クリスマスのプレゼント」です。「プレゼント」と言いますと、イエス・キリストが神からのプレゼントと考えるかも知れません。しかしそれを超えて「プレゼント」はプレゼンス(存在する)という言葉から派生していることに思いを向けていきたいのです。羊飼いは社会から排除された存在でした。神を礼拝する機会も奪われていました。その羊飼いたちに「あなた方のために救い主がお生まれになった」と天の使いは伝えています。その後、天の使いと天の軍勢は天上において大いなる喜びを賛美と共に表しています。
ルカ15章の譬え話を思い起こしてください。100匹の内の1匹が居なくなり、羊飼いはその1匹を見つけ出しました。その時のことを福音書記者は「友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない99人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」と記述されています。10の銀貨の内1枚を失った人がその1枚を見つけたときのことも「銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」と書いています。
羊飼いたちに戻ります。彼らに救い主の誕生が知らされたとき、やはり天上で大いなる喜びと賛美が起こりました。1匹の羊の存在の回復、1枚の銀貨の存在の回復、そして羊飼いたちの存在の回復、そのすべてについて「天での喜び」がある、とルカは書き、後のイエス・キリストは語っておられます。クリスマスはプレゼンス(存在)の回復を神がもたらしてくださったことのメッセージなのです。神を賛美いたしましょう。

2018.12.16
「世に来た光」ヨハネによる福音書1章9節

ヨハネ11節“はじめに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神であった。”という言葉を「初めにキリストがあった。キリストは神と共にあった。キリストは神であった。」と読み直すと、キリストが「永遠の存在」であることがわかる。天地万物の創造主である神が、御子をこの地上に送られた。マリヤがイエスを身ごもった時、神の御子は肉体を持つ「人」となられた。これがクリスマスの出来事である。
ヨハネ1章9節“その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。”が示す「光」について学ぶ。
①まことの光 
キリストは暗黒の世界に輝く唯一のまことの光である。主イエスは自らを「世の光」であると宣言された。人生に絶望し悲しみの中(闇)にいた私(鈴木牧師当時20歳)はヨハネ316節 “神は、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。ひとり子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。”とのみ言葉が示すイエスの光によって希望と喜びを与えていただいた。
②すべての人を照らす 
イエスは、すべての人を照らすまことの光として、この世に、ご自分の民のところに来られた。神であられるイエスには、本当の命があり、この命の光が人間の歩む道を照らすのである。イエスの命の光は闇の世界に輝いており、闇の世界は、決してこれに打ち勝つことは出来ない。使徒93節ダマスコ途中においてキリストの顔に輝く神の栄光は、パウロの不信仰という心の闇を照らした。その光は死を生に、罪を義に切り替える力がある。新しい命を与えられたパウロは、世界福音宣教の先駆けとなったのである。
③世に来た
1246節“ わたしを信じる者が、だれも暗やみの中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。”「来た」という表現は、使命感と目的を強く表している。それは救いと永遠の命を人間に与えるため、創造主なる神の存在を知らせるためであった。たとい選民でなくても、このキリストを受け入れる人は誰でも、神の子供となり、救っていただくことができる。神があたらしく生まれ変わらせて下さるのである。
*「世に来た光」であるイエスキリストを、人々に告げ知らせることをわたしたちの喜びとしよう。わたしたちにはキリストを指し示す使命が与えられているのだから。

2018.12.09
「主イエスの対応力」マルコによる福音書5章26~34節

待降節第二主日を迎えています。クリスマスへの備えの時ですが、今回もイエスと会った一人の女性を取り上げてまいります。
この女性は12年間、病気で悩まされていた人です。その病気は血にかかわる病気で、イエスの属していた社会と時代には「汚れた病気」と評価されていました。ですからこの女性は社会から排除されていた女性です。それは、この女性が存在することを知っていたとしても、関わろうとする人は一人もいない、ということを意味します。
この聖書の記述から私は、アンデルセンが書いた『マッチ売りの少女』を思い起こしました。この少女の生活はとても貧しく、街頭に立ってマッチを売って生活のための費用を得ようとします。しかし誰も彼女に関心を示しません。大みそかのその日、各家庭では部屋が暖められ、おいしい料理が準備されています。しかしそれらは少女には全くの無縁でした。彼女は自分が売らなければならないマッチに火を灯して自分の手を温めることしかできません。誰も彼女に関心を示すことのないまま、彼女は次の日の朝、街角で寒さのあまりに凍え死んでいました。 
物語でありますが、彼女は体だけでなく、心もさみしさと寒さの中で死んで逝ったのでしょう。私は、他者への無関心の重さをこの物語から知らされます。
聖書の記述に戻ります。長い間病気に悩まされ、全財産を医療を受けるために費やしながら癒えることのなかった女性は、あらゆる病気を癒したというイエスに関しての噂を聞き、最後の頼りのような思いで、通常、入ることのできない場に忍び込み、イエスの衣の裾に触った、と聖書は書いています。そのとたん、イエスから力が流れ出てこの女性の病気が癒えた、と述べています。
この女性にとっては病気が癒えたことに大きな喜びを感じたことでしょう。しかしイエスにとって大切だったのは、見も知らぬ女性が一方的にイエスに癒しを求めたことであります。イエスは周囲を見て「わたしの衣に触ったのは誰か」と問いました。それは怒りからの問いではなく、「よくぞわたしに癒しを求めた」という、受け入れを表す思いからの問いでした。
『マッチ売りの少女』の主人公は人々に声をかけても無視されるだけでした。イエスはそうではなく、見も知らぬ人の突然の、しかも一方的な要求でも、求める人の求めに応じて向き合ってくださるお方だ、と聖書は伝えています。一人として人を無視なさらないお方、そのような方がお生まれになったのです。そのイエス・キリストを礼拝する者として私たちは招かれています。

2018.12.02
「神の思いの現れ」による福音書2章1~12節

待降節にはいりました。心において、また見える形においてクリスマスを迎える備えを、より良く行ってまいりたいと願っています。礼拝においても神の思いを聞いてまいります。
 今回はマタイ福音書から、東方で活動していた占星術の学者たちをとおして、神の思いに出遭いたいと願います。
 神は占星術を含む占いを、決して認めたり評価したりなさらないお方です。イザヤ書44章に「むなしいしるしを告げる者を混乱させ、占い師を狂わせ 知者を退けてその知識を愚かなものとする。」と書かれているとおりです。占星術の学者たちも、当然占いに携わる人たちです。一言で言ってしまえば、神が望まないことを職としていた人たちです。その人たちに救い主誕生の知らせとなる星を見せ、ベツヘム、すなわち救い主がお生まれになった町への道を示しました。これは、神が占星術の学者たちを救い主の元へ招き、導かれたということです。
 占星術の学者たちは先ほども書きましたように東方で活動していた人たちです。東方が具体的には何処を指しているかは解りません。しかし聖書の中で「東」というのは、天地創造の後、聖書が伝える最初の人アダムとエバが、神の命じたことに逆らった結果追放されたところがエデンの東であったことと関わる事柄だと思わされます。神への反逆のために神の守りから外され、神からの光も届かない所へ追放され、エデンの東に住むことになった人たちへの神の思い、それは神に反逆した人々への、神からの赦しの思いの現れということができるのです。
 神の思いは以上二つのことからよく現されています。一つは旧約の時代には決して神との関わりの機会を得なかった占星術の学者たち、二つ目は神への反逆()の結果、神の守り・祝福から遠ざけられた人たちに、救い主との出遭いの恵み(神との交わりの回復)を、神ご自身が与えようとしておられることです。
 神は、東方で活動する占星術の学者たちの事柄をとおして、救い主に出遭う道が、今日の私たちも含めたすべての人に開かれ、救い主のおられるところへ招いておられることをマタイの福音書によって伝えるのです。まさにそれは神の思いの現れであり、メッセージなのです。教会は、すべての人がまず「救い主」への徴を見ることができるように、教会にこそ救い主がおられることを知ることができるよう祈りたいと願っています。

11月

2018.11.25
「神が必要とするもの」ヨハネによる福音書6章1~14節

教会の暦は待降節から始まります。そして収穫感謝の週で一年が終わります。神様からいただいた沢山の喜びの出来事を感謝する日として、収穫感謝の日を迎えました。
 旧約聖書の中に、畑を耕す人カインと、その弟で羊を飼うアベルという人のことが描かれています。彼らは収穫の季節に、神に収穫感謝の献げ物をしました。その後については、今回は割愛いたします。私たちも感謝の献げ物をしたいと願います。
 本日は、一人の少年が持っていた5つのパンと2匹の魚が献げられた内容です。少年は、パンと魚を喜んで献げたとは考えられません。
 ヨハネ福音書6章において語られる「パン」は十字架で裂かれた主イエスの体を意味し、「魚」は、主イエスという方の実態を表わし、伝えようとしたものです。「パン」も「魚」も、十字架の出来事を思い起こさせるものなのです。
 主イエスは十字架で死なれたとき、出来ればこのことから逃れたいと、強く願いました。そこには喜びはありません。
 少年も「パンと魚」の提供を求められたとき、喜んでそれをしたとは考えられません。主イエスも少年も、共に渋々の献げ物となったのです。
 私たちも献げ物をします。多くの場合「献金」という形で献げられます。それとともに、神の国のための働きは献金によって支えられ、進められてきました。その献金は有り余る中から献げられているかも知れません。あるいは「やっとの思い」で献げられているかも知れません。
少年の献げ物、主イエスの十字架による死、いずれも苦渋の中での出来事でした。私たちの献げ物はどうなのでしょうか。献げ方に正式な決まりはありません。しかし旧約聖書の預言者マラキは、私たちの収入の十分の一は「わたしのもの」と神が命じておられる言葉を書いています。このことは私たちの生活にとって痛みを伴うものだろうと思います。
しかし主イエスは命を人々のために献げてくださいました。少年は渋々献げましたが、その献げ物は大いに祝福され、5000人以上の人が心から喜ぶ食物となり、食事となりました。神に献げるとは、そういうことが起こっていく、ということです。
 神は神の国の業のために献金を必要としています。それを献げるのが私たちの役割であることを憶えたいと願います。実際には痛みを感じるでしょう。しかしその故に神の国は進展し、祝福が与えられていくことを感謝をもって受け止めたいと願います。祝福を祈ります。

2018.11.18
「神が望まれること」Ⅰテサロニケの信徒への手紙5章16~22節

キリスト者は、神様が望む生き方をしたいと願って生きています。けれども、自己中心の私たちは、「自分の思う神様に喜ばれること」が、「神様の望まれること」だと勘違いしてしまいます。神様と、人の評価を気にし、何を望んで生きることが大切な事なのかを見失います。そして自分と他の人とを比較してしまいます。
神様が私達に望んでおられることは「いつも喜んでいること・絶えず祈ること・全てのことに感謝すること」と書かれています。何故これらなのでしょう?礼拝を守ること、献金をすること、奉仕をすること、宣教の働きをすること等が大切だと教えられてきました。でも、これらに固執すると、礼拝で語られるメッセージを受け取って、生きることよりも、礼拝欠席の理由や、奉仕や伝道の有無や熱心さが問われかねません。喜びが湧き上がってこないような状況に立たされている時にも、神様は喜びなさいといわれます。喜びは無理やり見つけるものでも、比較して喜ぶことでもありません。心の底から湧き上がるものです。
聖書には「キリスト・イエスにおいて」という言葉が使われています。これは、「主に結ばれたものとして」と訳されます。私たちは、「十字架に架かられて、罪を贖って下さった主に結ばれた」のです。この贖いの主が、現実に苦しい時や辛い時に、心の叫びを、正直に祈ることが出来るようにして下さいました。憐みに満ちた神さまが、救いの恵みを主によって成してくださったのです。たとえ喜べない中に置かれたとしても、「主にある」ことの喜びを私たちの心の内に起こさせて下さいます。だから喜べるのです。主にある喜びを忘れずにいることが大事なのです。
また、主に結ばれた私たちは、主によって「神様」と祈ることが出来るようになりました。祈りは全ての基です。祈りによって私たちの信仰は支えられています。しかも、主ご自身が「祈り」を教えてくださいました。「主の祈り」にまさるものはありません。祈るべき全てを網羅しています。もちろん自分の言葉であらゆる時に祈ることも出来ます。でも、私たちは弱さを抱えています。祈れないほど辛い時に、神様は私たちの呻きさえも知って下さっています。祈りを通して神様に心の思いを吐露し、神様と応答することが許されています。私たちは思いや願いを祈りますが、主が祈られたように、最後は神様のみ心が成ることを信じて祈ることが大切です。私たちは、生かされ、召し出され、主に結ばれました。これほど幸いなことはありません。
聖霊の働きによって、神様が私のようなものの神様でいて下さることを信じることができました。その恵みに感謝して、礼拝を捧げ、献金をし、賛美をし、奉仕を喜んでいたしましょう。テサロニケの人々は、当時、キリストの来臨が近いという信仰が強くなり、日常の生活よりも終末のことばかりに陶酔し、熱心でした。パウロは信仰生活の具体的な勧告を祈りをもって進めています。「まず落ち着いた生活をして、自分の仕事に励むように」それこそが神に喜ばれる生活だと語っています。
私たちも、神様が望み喜ばれる生き方が出来るように、聖霊の助けによって祈りつつ歩んでまいりましょう。

2018.11.11
「主イエスの憤り」マルコによる福音書10章13~16節

今回は「主イエスの憤り」という題で語ってまいります。皆様方はどう思っておられるか解りませんが、福音書の中には主イエスの憤りが、幾つか書かれています。主イエスは優しく、穏やかな方という思いがおありと思いますが、時には激しく憤ることがあったお方です。その一つが今回の聖書箇所です。
 主イエスのもとに子どもたちを連れてきた人たちを見たとき、主イエスは喜びを感じたのだろうと思います。しかし弟子たちは子どもが主イエスに近づかないように阻んだと書かれています。何故阻んだのか理由は解りません。けれども主イエスは激しく憤りました。子どものことがお好きだったからかも知れません。そうだとしても、何故憤ったのかを考える必要があるでしょう。理由は二つ考えられます。
 一つは子どもたちを連れて来たのは大人たちです。しかし子どもたちも主イエスに近づきたかったのだと思うのです。その子どもたちを弟子たちが阻んだことに憤りを感じたのでしょう。
 もう一つは、子どもたちに主イエスの手を置いていただきたい(それは祝福を受けたいということの表れ)という願いを拒んだことにあります。
 これらのことを見ていた子どもたちは、どのような感想を持ったでしょうか。自分たちが受け入れられなかった、という心の傷(トラウマ)として心にとどまり、主イエスへの思いも嬉しくないものになるかもしれません。
子どもの「どのようにしてもらったか」という体験とその影響は大きいと言わざるを得ないのです。
 教会はどうでしょうか。礼拝における大人と子どもの分離の中で子どもの心にとどまるものは何でしょうか。大人と共に礼拝の場にいることで、礼拝の意味を体で感じ、大人と共に賛美し、祈りを聞きながら祈りを学ぶこと、そのような機会から引き離されていく可能性を無視できません。牧場で親牛と子牛が共存することで子牛は生活の術を学びます。大人と子どもが共に礼拝の場にいることで、子どもは礼拝を体で覚えていくのです。
 子どもは元気な子が多くいます。遠慮や配慮を知っているわけでもないでしょう。しかし共に礼拝の場にいることで、礼拝に参加している自分は「何をすべきか」を学んでいくのです。
 主イエスが「わたしのもとに来させなさい。引き離してはならない」と語られた言葉を受け止めつつ歩む教会でありたいと願います。

2018.11.04
「二つの場所」ヨハネによる福音書14章1~3節

召天者記念日礼拝です。「二つの場所」という題ですが、それは地上と天上を意味しています。地上は人と人が出会う場所であり、喜怒哀楽を体験する場所であり、別れる場所であります。
映画を一つ紹介いたします。題名は『プレイス・イン・ザ ハート』(私たちの二つの場所)です。映画の始まりは、主人公の連れ合いである夫が、黒人少年の不注意によって拳銃で撃たれ、死ぬところから始まります。そのことで主人公は経済的なこと、子育て等に困難を来します。
 そのようなとき、主人公が若干の差別意識を持っている黒人の青年や視覚障害者に出会い、主人公の姉を含めた彼らが主人公の家族を支えます。しかし彼らは様々な理由で別れて行かなければなりません。そして最後の場面を迎えます。その場面は聖餐式が行われているところです。
この聖餐には主人公と2人の子どもたち、姉夫婦、友人たち、そして別れて行った視覚障害の青年と黒人青年、この青年を町から追い出した白人主義者たちが共に聖餐に与っています。それだけでなく不注意で主人公の連れ合いを銃殺してしまった少年、その隣には銃で撃たれて死んだ主人公の連れ合いが座り、聖餐に与っています。地上で別れた人々が天において再会している場面です。
 先ほど申しましたように地上は出会いの場であり、喜怒哀楽を体験する場であり、別れなければならない場であります。
 天上はどうでしょうか。地上で別れた者たちが「主イエスに在って再会する場」だと、この映画はメッセージを送っています。
 ヨハネ福音書は「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。」という、主イエスの言葉を伝えています。主イエスが一人ひとりを天に招いてくださる、と語っています。そこで起こることは主イエスの執り成しによる神と私たちとの出会いです。すでに天に還られた信仰の先輩たち、家族、親しい人たちも神と出会っておられるのです。私たちが天に還ったとき、家族や知人に会いたい、と願っているかも知れません。しかし天においては、何よりも神と眼のあたり相まみえることに勝る喜びはないのです。その喜びのために主イエスが私たちを天に招いてくださるのです。地には神の守りがあり、天には神の祝福があるのです。このことを信じ、天に招かれることを待ち望みながら、地上での生活に励む信仰者でありたいと願います。

10月

2018.10.28
「神の器として生きる」ヨハネによる福音書21章20~23節

イエスを主と信じ告白する人たちは「神の器」として日々を過ごすようにと、イエスから招かれています。イエスの12人の弟子の内、筆頭弟子と言われているペトロも「神の器」として招かれ「わたしの(イエスの)羊を飼いなさい」と言われました。
このことはペトロにとってつらいことだったと思います。と言うのは、イエスが十字架にかかられる前の晩に「私はイエスを知らない。彼の弟子ではない」と言い、自らの命を守り、イエスを十字架に追いやることを選んでしまったからです。そのペトロを「わたしの羊を飼いなさい」と言ってイエスが招いたのです。
ペトロはイエスの招きに応えようとしましたが、気になることがありました。それは「イエスの愛した弟子」の存在があったからです。ペトロがイエスの招きに応えたとき、イエスが愛していた弟子はどのようなことに招かれるのかがペトロの気がかりだったのでしょう。ペトロのそのような思いに対してイエスは「彼のことは気にするな」と告げました。それはペトロにはペトロ独自の役割があることを伝えていることなのです。
今から501年前の1031日、神様はマルティン・ルターを宗教改革者として選びました。彼はとても臆病な人だったと言われています。彼は当時の教会の信仰と、聖書のメッセージには大きな隔たりがある、と感じていました。けれどもそのことを教会に訴える勇気を持っていなかったようです。そのようなルターを神は選びました。彼は聖霊に心を動かされて立ち上がり、質問状をとおして教会に対し抗議したのです。
彼自身の意識は「自分はそのようなことができる器ではない」と思っていました。しかし神は彼に、み言葉(詩編46編)を、宗教改革の拠って立つ言葉としてお与えになりました。またいつまでもどこまでも彼を支え続ける友をお与えになりました。彼は「神の器」とされていったのです。
ルターやペトロと同じように、私たちも「神の器」としてこの時代に生かされています。そして、「神の器」としての私たちのために、神は聖書の言葉、聖霊の働き、信仰の仲間を与えてくださっているのです。
「あの弟子はどうなのですか」「あの人はどうなんだろう」ということではなく、「あなたも神の器になってほしい」と招いてくださっているお方に応えて生きていきたいと願います。祝福を祈ります。

2018.10.21
「神からの関わり」第2ペテロの手紙2章4~10節

今回は使徒信条の「陰府(よみ)にくだり」という項目を、み言葉から聞いてまいります。
 「陰府」という言葉は聖書の中の独自の言葉ではないだろうかと思っていますが、聖書の中でもそれほど多く使われている訳ではありません。
その理由は「陰府」は神の領域であって人間が関わることはないからだと判断しています。その「陰府」ですが、聖書の言葉としてはペトロⅡ書と、ペトロⅠ書3章に記述されていることがよく知られています。
しかしこの2か所の記述内容は、だいぶ違った口調で書かれています。いずれにも共通するのは、神のみが関われる領域であるということです。ですから「陰府」で何が行われるか、何が起こっているかを、人間である私たちは知る術はありません。それと共に「陰府」とは死者が留まっている(捕われている)所との理解がⅠ書とⅡ書の文書に共通しています。
Ⅰ書とⅡ書には違いがあります。Ⅰ書はキリストが霊によって「陰府」にくだり福音を宣教した、と書かれています。Ⅱ書はそうではなく、厳しい神のさばきとの関わりで記されています。
聖書の中の一部分を取り上げて「聖書には矛盾がある」と感じることがあるかも知れません。あるいは「聖書の記述に違いがある」と思われるかもしれません。それら一部を取り上げて「違いや「矛盾」を無理やり解こうとすると、聖書全体が伝えようとするメッセージを見失うことがよくあり、実際にメッセージが曲解されて語られてきた歴史があります。それは、自分の都合のよいように聖書を解釈してきたということでもあります。
 ですからこの度の「陰府」に関するメッセージはどこにあるかを、私たちは注意深く聞かなければなりません。  
 それは上にも記しましたが「陰府」は神のみが関わり得る領域であること、そして「陰府」に置かれている人々(地上での生涯を終えて「陰府」に招かれた人々)に、神のみが関わって行かれる術をお持ちだということです。
ですからⅠ書が記した「宣教した」ときの神ご自身の思いと在り方を、人間である私たちは「あぁだ、こうだ」とするものではないと受けとめる必要があります。そしてすべての人の死と死の後の事柄は神の手に委ねることも求められます。
その神は愛の神であるがゆえに、私たちの悲しみを引き起こすお方ではなく、愛によって必要なことを行ってくださるお方であると信じさせていただきたいと願うのです。そして「陰府」に関わってくださる神を告白させていただきたいと願います。

2018.10.14
「一たび伝えられた信仰」ユダの手紙1~4節

10月第二主日は、ナザレン教会が設立されたことを記念する「ナザレン日」と世界中のナザレン教会は呼んでいます。私たちの教会もナザレン教会の一つとしてこの日を喜び、使命を確認してまいりたいと願います。
 今、飯塚教会に集まっておられる方々の内、何人の方が「ナザレン教会だからこの教会に出席している」と言われるでしょうか。私は、今ここにおられるすべての方のうち、ナザレン教会だから来ている、という方は一人もおられないと思っています。そしてすべての方が神によってこの教会に招かれている、と申し上げたいと思っています。
 しかしナザレン教会には、ナザレン教会としての使命があることを忘れてはなりません。その使命とは、聖化(イエス・キリストに倣う生き方)を求めて生きることです。
 あるときまで「聖化」とは「キリストが我が内に生きていること」と語られていました。しかしキリストがわたくしの内に生きている、とは具体的にはどういうことなのか語られてきませんでした。しかし今日、世界中のナザレン教会は「キリストに倣う生き方をする」ことを信仰課題として、また使命としていくことを確認したのです。この「キリストに倣う生き方をする」ことこそが「聖化」の姿そのものであります。そしてそれをなお具体的な聖書の記述の中で見ますと、キリストが重い皮膚病の人に「手を伸ばし、触れた」(ルカ51112節)ことの中に一つの例を見ることができるのです。
主イエスの時代、重い皮膚病の人は他の人に近づくことが許されていませんでした。それは皮膚病の本人も主イエスも知っておられました。にもかかわらず皮膚病の人は主イエスに近づき、主イエスも避けることなく、反対に手を伸ばして触れたのです。この「触れた」という言葉はともしびを「ともす」(ルカ816節)という言葉と原語において全く同じ言葉です。訳し方としては、闇の中にいる人の心の内にひかりを「ともす」という訳になります。主イエスの生き方はそのような生き方でした。そのような生き方を求め、実際に生きていくことがナザレン教会の信仰です。
 ユダの手紙の記者は、主イエスが弟子達に求めたのはそのような生き方であり、他のことではない、と「一たび伝えられた信仰」という言葉をとおして明らかにしているのです。私たちの教会も、一たび伝えられた信仰を生きる教会を目指してまいりましょう。ナザレン教会に属する教会なのですから。

2018.10.07
「主が裂かれたパン」ルカによる福音書24章28~35節

世界聖餐日の主日です。世界中の教会がイエス・キリストの十字架の死を記念して聖餐式を行ってまいります。
 私たちの教会では洗礼を受けておられる方に聖餐が開かれています。イエス・キリストが「私」のために十字架で死なれたことを信じ、告白していることが求められるからです。それは、パウロが言いましたように、聖餐は「主の死を告げ知らせる」出来事であるからです。言葉による福音宣教と共に聖餐は、キリストの教会が在る限り、どの時代にも、どの地域においても行われてまいりました。それが教会にとって全くの不遇の時であっても、あるいは命を懸けなければならないことが起こっても変わりなく続けられて来ました。そのような苦難に対し、イエスが救い主という告白をしていない方々に、その苦難を押し付けることを教会はしてこなかったのです。むしろ一人でも多くの方が聖餐に与かってくださることを願って福音宣教が続けられて来ました。
 そして聖餐の根拠は「最後の晩餐」と呼んでいる食事にあります。ユダヤ最大の祭り(過越しの祭り)のときの、主イエスが地上で摂った最後の食事のことであります。主イエスはパンを裂き「(十字架で裂かれる)わたしの肉」とおっしゃいました。葡萄酒の杯を取り上げ「(あなた方のために流される)わたしの血」とおっしゃいました。それと共に、この食事を繰り返すことも命じられました。それが今日、聖餐式という形で教会が受け継ぎ、行っている業なのです。
 ルカ福音書24章にも主イエスがパンを裂かれたことが書かれています。この時には他に2人おりましたが、聖餐式という形ではなかったでしょう。しかし主イエスがパンを裂いたとき、ともにいた2人の人の目(心)が開かれ、主イエスが復活なさったことを知り、受け入れました。それと共に、主イエスが語られた一つひとつの聖書の言葉に神の真実さを知り、味わったのです。
 2人の人と同じように、教会も聖餐を通してイエス・キリストをはっきりと捉え、神の言葉の真実さに向き合わされることが起こっていくのです。主イエスが「私」のために命を懸けて向き合ってくださっていることを思い起こさせられるのです。そのことが求められない聖餐はありません。聖霊によって、教会で行われる聖餐のうちに主が臨んでいてくださること、聖書と聖霊が明らかにする主イエスの福音、それらのことを証する教会として、この時代に、この地域で歩んで行く教会とさせていただきたいと願います。

2018年度上半期

2018年4月~9月

9月

2018.09.30
「天の国」マタイによる福音書13章44~50節
鈴木龍生師

天の国とは、神の国のことです。神の国とは、神のご支配のことです。
ルカ4:43 イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」
主イエスの行動は神の国を告げ知らせるものである。
今日は三つのたとえは、隠された宝、真珠商、地引網のたとえという題でお話をしたいと思います。です。

①隠された宝  44
天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠されている。
喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
たとえはある農夫が宝を掘り当てた喜びを描く。
「宝」と訳されている言葉は「積み上げた物、貯えた物」という意味をもっています。
タラントのたとえの不忠実なしもべは、与えられたタラントを失わないように地の中に隠した。
ラビは、「金を貯える唯一の安全な場所は大地である」と言った。
天の国は畑に隠された宝のようなものである。宝を盗まれないよう地中に埋めることはよくあることであり、所有者が旅先で死ぬとか、戦いに巻き込まれて死ぬということもあった。
それをだれが発見すれば、まず畑を買う。
第一の教訓は宝が偶然に見つかったのではなく、毎日の仕事をしている間に見つかったということである。
第二の教訓は天の国に入るためにはどんな犠牲を払ってもよいということである。
コロサイ2:3 知恵と知識の宝はすべて、キリストのうちに隠れています。
パウロは、キリストのうちには知恵と知識との宝がいっさい隠れされている、と述べている。
あらゆる形のあらゆる宝は、死において取り去られてしまう。
取り去られることのない唯一の宝は、天の国である。

②真珠商 45~46
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
たとえは、素晴らしい真珠を探し当てた商人の喜びを中心にしている。
前の畑に隠された宝の場合、偶然に発見したという印象を受けるが、今度の場合は苦労して捜し回った結果である。
古代において真珠はきわめて貴重で高価であり、エジプトでは真珠を礼拝するほどであった。
昔の人にとって真珠はすべての持ち物の中で最も美しいものであった。
そのことは、天の国が世界中で一番美しいという意味である。

③地引き網 47~50
また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ下ろされ、いろいろな魚を集める。
網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
網のたとえは、毒麦のたとえと似ている。ただ、毒麦が敵によって巻かれるのに対し、網はあらゆる者を招く神の国の招きを表現している。
世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。
教会には多様な信徒がいることを認めたうえで、終末には厳しい選別がなされるという警告を語った。
天の国は、主イエスの言葉を受け入れるか、入れないかによって、器に入れるか、外へ捨てるかが分かれる。
キリストは世の終わりに神の国からふさわしくない者らを追い出し、国を清めた後で、すべてのものを父なる神にお渡しになります。
天の国のことを学んだ学者  13:51~32
主イエスはこれらのたとえの意味が分かったかどうか、弟子たちに質問している。そして、主イエスのたとえの意味が分かった者は神の国の奥義を学んだ「学者」なのである。
良い知らせを告げる四人の重い皮膚病を患っている者たちが町の人々に伝える。
イスラエル王国がスリヤ軍に包囲されて、都の中では自分の子を殺して食べるほどの危機が訪れていた。しかし、町の外にいた四人の重い皮膚病を患っている者たちがスリヤ軍の陣地に忍び込んでみると、スリヤ軍は、神が奇跡的に聞かせた戦車、軍馬の音に驚いて、食糧を残したまま逃げ去った後でした。
重い皮膚病を患っている者たちは敵の天幕を巡り、食べて腹を満たし、残りを隠したあとで、気が付いた。
彼らは互いに言い合った。「私たちはこのようなことをしていてはならない。この日は良い知らせの日だ。私たちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」(2列王7:9)。
良い訪れを学びながら、黙っている私たちのしていることは良くない。私たちの学んだ天国の奥義を倉から豊かに取り出して、語り伝えましょう。

2018.09.23
「命がけの信仰」ヨハネによる福音書19章38~42節

信仰者にとって「命がけ」という言葉が連想させる形は幾つもあると思っています。日本の歴史の中には、キリスト者であるために生活を、あるいは命を脅かされた人がたくさんいます。それ以上に、命を奪われたキリスト者もたくさんおられました。信仰のために命を懸けた人々です。

伝道者たちの中に「命がけの伝道」という言葉を好んで使う伝道者がいます。また説教者たちは、現実に説教を命を懸けて準備し、語ろうとしています。日曜日ごとに語っていく説教が、聴取するお一人ひとりの一週間の生活を支え、励まし、あるいは慰めるものでなければなりません。

そのためにはどうしても説教のために心血を注ぐという意味で「命がけ」である必要があります。そして、キリスト者である皆様も日曜日の午前の貴重な時間、社会では様々なことが行われている時間に、教会において礼拝を献げておられます。それもまた「命がけ」の信仰の姿であると申し上げたいと思います。

まだまだ様々な形がありますが、命がけの信仰には様々な姿があることを思わされます。そのようなことを思う中で、聖書に登場しているアリマタヤのヨセフは信仰者として命がけの人であったでしょうか。

聖書はこのようにヨセフを紹介しています。「その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。」と記述されています。

彼は信仰のために命を懸ける勇気に欠けていたのだろうと思わされます。ヨセフは弱い人でした。しかし彼はあるときから「弱くても良い」という思いに変わったのです。それは主イエスの十字架における姿を見たからです。

十字架の主イエスは「弱さの極み」に居ましたが、強くなることを少しも求めませんでした。弱さに徹しし続けた主イエスの姿を見たヨセフは、強くなることを求めるのではなく、神のために活かされること、用いられることを求めたのです。

 そのためだったら弱くても良いと感じ、弱さを弱さとして心から受け入れることが出来たヨセフの信仰もまた命がけであったと言うことが出来ます。
 信仰の弱さにおいても主イエスに倣う者とされたいと願います。

2018.09.16
「光の中を歩む」詩篇119篇105~112節

「光」あるいは「明るさ」を感じさせてくれることや、ものを見つけることが困難になっているように感じられます。そういう意味で「暗さ・闇」の中に生活している、と言っても言い過ぎとはならないと感じています。そして「光」の中で日々の歩みをしたい、と願っているのが私たちの実情ではないか、とも感じます。

詩篇119編の作者は「あなたの御言葉は、わたしの道の光。わたしの歩みを照らす灯」と歌いました。「光」や「灯」は暗さの中でこそ意味があります。この詩人も日々の生活の中で「闇」を感じる日々だったのでしょう。しかし神の「言葉」が「光」となり「灯」となっていることを証しているのです。そこで皆様方に問いますが、神の「言葉」を厳しい規則・戒律という言葉に置き換えたらいかがでしょうか。厳しいと思える規則・戒律を聖書は「律法」と呼んでいます。キリスト者である私たちは「律法」と聞くと、どうしても厳しいものと感じてしまいます。しかし119105節は、実は「律法」を指し示す言葉として詩人は歌っているのです。105節だけではありません。詩編119編は全部で176の節で成り立っていますが、全ての節において「律法」に関した言葉が使われ、そのすべてにおいて「律法」は良いものだと歌っています。111,112節でも「あなたの定めはとこしえにわたしの嗣業です。それはわたしの心の喜びです。あなたの掟を行うことに心を傾けわたしはとこしえに従って行きます」とうたわれています。一言で言えば「何と律法は素晴らしいのだろう」ということです。そのように言わせるほど「律法」は素晴らしいのでしょうか。それとも「そう思えない私」が間違っているのでしょうか。その答えは「間違っている」ということが真の答えです。
「律法」が私たちに伝えているのは、「神に愛されている者がどのように神の愛に応えたら良いのだろうか」、「神に従う者の在り方」を「律法」が示してくれているのです。しかし私たちは「律法」の文字にこだわり、「律法」が伝えるメッセージを聴くことを忘れてしまったのだと気づく必要があります。
詩人は信仰者として躓いたとき、「律法」を指針としたのです。決して義務的に「律法」を受け止めたのではありません。生き方が闇の中に入ってしまったとき、迷路に入ってしまったとき「どうしたら良いだろうか」ということを「律法」にたずねたのです。そこから「光」を見いだし、喜びと平安とを得たのです。神の律法(み言葉)が光となったのです。そのみ言葉が私たちにも与えられています。このことを喜び、感謝いたしましょう。

2018.09.09
「主イエスの死」ヨハネによる福音書19章28~33節

新約聖書にある福音書は、どの福音書も主イエスの十字架の死を伝えています。福音書だけではなく、パウロも主イエスの十字架にこそ福音の根拠があることを伝えています。コリントの教会にあてた手紙の中で「主イエスの死は福音の最も大切なこと」と書いています。

 ヨハネ福音書の記者は「成し遂げられた」(31)という、主イエスの十字架上での叫びの言葉を書いています。この言葉の文型は完成形で、事が完全に終了したこととその効果は永遠に続くことを意味している文型なのです。
そのことが伝えることは、主イエスの十字架においての死は完全な死であり、その死がもたらしたことには何の修正も付加も必要としない、ということを伝えています。そこまでいう主イエスの死は何をもたらしているのでしょうか。パウロはローマの教会にあてた手紙の中で「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました。」(58節)と書きました。このパウロの言葉と主イエスの叫びからわかることは、主イエスの死は、神の愛が何一つ欠けることなく、あるいは修正する必要もない形であらわされている、ということです。「神のわたしたちに対する愛」とは具体的にはどのような愛のことでしょう。

 神は天の国をすべての人のために準備されています。しかし天の国は誰もが入ることができる、というものではありません。天の国に入る基準は神のみが持っておられます。それは主イエスの十字架の死を我が事として受け入れる人に開かれている道なのです。

 世の中に「信仰はどれも同じです。登り口は違っても頂上は一緒なのだから」という言葉があります。しかし聖書はそのことには全く同意しません。神は、神を悲しませること()しかできない人間にも関わらず、十字架の死によってその罪を赦し、代わりに御子イエスを十字架の死において見捨てたお方です。神の子イエスの十字架の死を抜きにして救いは起こらないのです。ですから「登り口は違い、進む道は違い、けれど頂上は同じ」ということは、聖書においては決してあり得ないのです。ただ主イエスの十字架の死によってのみ人は救いを受け、天の国において神と出遭う時を迎えるのです。主イエスの死を通して神が与えてくださった道を歩む幸いを祈ります。

2018.09.02
「十字架にかかられた主」マルコによる福音書15章23~32節

使徒信条の「十字架につけられ」という項目です。主イエスは十字架において地上での生涯を終わりました。十字架の死とは、重い罪を犯した者が受ける死罪の方法です。その罪の重さがどのくらいかと申しますと、神もお赦しにならないほど重い罪、それが十字架に掛かるにふさわしい罪の重さです。その十字架刑を主イエスは受け、死なれました。
 当時、絶対的権力者であったローマからの総督ピラトは、主イエスの在り方の中に何の罪も見いだせないと明らかにしました。にもかかわらず主イエスは十字架に掛かりました。皆様はどう思われるでしょうか。

 罪を犯した人に関する記述が聖書にはいくつもありますが、その内の2つのことを思い起こしてまいります。一つは、エデンの園の中央にある木の実を「食べてはならない」と命じられたアダムことです。彼は、神から「その実を食べると死ぬかもしれない」と言われました。

 もう一つはカインとアベルという兄弟に関する記述です。兄のカインは嫉妬からアベルを殺してしまいました。カインは「弟を殺してしまった」という責めを心の内に感じたのでしょう。神にどうしたらよいか訴えます。
この2つの記述を聖書の中で読むとき、何を感じるでしょうか。神は、カインを「守る」と約束なさいました。アダムは、木の実を食べましたが死にませんでした。聖書の世界で申し上げれば、アダムもカインも十字架の刑に相応しいことを行ったにもかかわらず、罰を受けることはありませんでした。ピラトが語った「この人に何の罪も見いだせない」と言われた主イエスが十字架で死にました。
主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見棄てになるのですか」と叫びました。しかし神は主イエスの叫びに耳を貸しませんでした。アダムが「わたしのせいではありません」と弁解しました。カインは「どうしたらいいでしょうか」と神に訴えました。しかし主イエスには弁解の機会も訴えることも神が与えませんでした。主イエスは叫んでも聞かれず、訴えても顔すらも神から向けてもらえず死んで行かれました。神はみ子イエスを捨ててでも罪の在る者たちの救い・赦しを選ばれたのです。そのために主イエスが十字架にかけられたのです。
神がなさった選びの重さを心の内にしっかりと受け止めて、感謝の内に日々を歩む者、神を賛美する者とさせていただきましょう。

8月

2018.08.26
「歴史の中を生きた主」ルカによる福音書23章1~5節

使徒信条の項目の一つは、おとめマリアより生まれた主イエスが「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け」という言葉です。これは、主イエスはローマからエルサレムに総督として送られてきたポンテオ・ピラトの時代に十字架にかけられて死なれたことは史実であることを伝えるために聖書が記述していることに根拠を置いています。
ローマから送られた総督は、当時のローマの権力のすべてをエルサレムにおいて発揮することを許され、託された立場の人のことです。ですからポンテオ・ピラトにも絶対的権力が与えられていました。そのピラトは、エルサレムにいる群衆から「イエスを十字架につけよ」と申し出を受けたのです。
そこで主イエスのどこに十字架という死刑にふさわしい罪があるのかを調べた結果「どこにも死罪に当たるようなことがない」とピラトは申し渡しました。しかし群衆はそれを受け入れず、あくまでも十字架刑を求めたとき、群衆に負けて十字架刑を認めたのがピラトであります。かれはローマからの総督でありながら正しいことを正しいと言うことが出来なかったのです。或いは群衆が間違っていると言うことも出来ませんでした。

 これと同じようなことを私たちは見せ付けられています。一部の権力者のために公的文書が書き換えられたり、保存・管理されているのに廃棄したと言って、国民に対して真実を明らかにしない人たちが幾人もいたと言うことです。本来ならば正しいことは正しいことと明らかにし、間違っているならば間違っていると指摘しなければならない立場の人たちが、そのことを意思を持って拒否したという出来事です。そして創世記はアダムとエバもそうであったと伝えます。アダムはエバに「それは神様の御心ではない」と伝え、誤りをとどめるべきでしたがそれをせず、他者に責任を押しつけ(それは最終的には神に責任をなすりつける行為でもあります)ました。エバも同じです。そしてアダムとエバの姿、それは私たちの現実の姿だと言えるのではないでしょうか。
ポンテオ・ピラト、日本社会の国家公務員の姿、そして私たちの在り方に対して苦しんだのは誰なのでしょうか。使徒信条は「ポンテオ・ピラトの元に苦しみを受け」たのは主イエスだと伝えます。

 主イエスは歴史の中で生きたお方であり、今日の社会に生きるお方なのです。わたくしたちは悔い改めの中で生きていくために、今招かれています。

2018.08.19
「神の選び人」イザヤ書42章1~9節

主イエスの誕生に関し、主イエスの両親となったマリアとヨセフ、バプテスマのヨハネの両親となったザカリアとエリサベト、そしてシメオンと女預言者アンナらが、ルカ福音書に登場しています。ルカの記述を読む時に、彼らはすべて神によって選ばれた人たちであることを知ることができます。その彼らの中で、雄弁に語ったと思わせるのはシメオンだけのように思います。神は周到に彼らをお選びになりました。しかしマリアには「何故わたしが」という思いがあったでしょう。他の人たちも「何故マリアが」と思っただろうと思わされます。唯一雄弁であったと評されるシメオンも「救いをもたらすお方に神が遭わせてくださった」という信仰から外れてはおりません。主イエスの誕生前後に関わり、聖書に記述された人たちは、基本的に言葉の人ではなかったのだろと思われます。イザヤはこう記しています。「彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする」という言葉です。これを言換えるとすれば、神の選び人はよく吟味する人であり、細心に至るまで配慮する者である、ということでしょう。彼らは彼ら自身の名が残ることに関心はなく、ただただ神のみ旨の中で生かされていると実感していたと感じます。

 現代、自分の名を残したい、と願っている人が少なくないように感じます。キリスト者の中にもそのように願う人は少なくないと思います。反対に、著名な伝道者や説教者を好きな信仰者の方も時々見受けます。神様によって用いられた結果が著名な伝道者に育ったことは確かでしょう。しかしその背後には、いつも祈りによって支えてくれる人がいたこと、祈り手が与えられていたことなしに著名の伝道者も、そうでない場合も育つことはありえません。その彼らもまた神の選び人として「呼ばず、叫ばず、声を巷に響かせること」に思いを寄せなかったと思わされます。

 モーセもその一人でした。彼は出エジプトの指折りのリーダーでしたが、その生涯の終わりのときには目指したカナンに入ることができず、もっぱら祈りの人として選ばれていました。

 主イエスは「おとめマリア」から生まれました。また誕生をめぐる中に置かれた一人ひとりも神に選ばれましたが、彼ら自身が何かをなしたのではなく、ただ主イエスの誕生に際して神から選ばれた人たちです。私たちが果たして神のどの業に当たらせていただくか解りませんが、神が選んでくださっている一人ひとりであることを信じ、まず祈りによって神の選びに応えてまいりましょう。

2018.08.12
「信仰者の課題」ルカによる福音書9章37~43節


 815日を迎え、日本人でキリスト者にとっては重いときを迎えています。
 主イエスは弟子たちに「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」と告げておられます。これは少年の病気を弟子たちが癒すことができず、親から聞かされたときの主イエスの反応の言葉です。何と厳しい言葉でしょうか。この言葉は、キリスト者である私たちにも語られる言葉だと受け止めています。

 主イエスは各時代の、また各地のキリスト者たちを平和の使者としました。しかし現実はどの地域に於いても平和は実現しておりません。主イエスが誕生なさった時、天の使いが伝えたのは「「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」という言葉(ルカ214)でした。神が約束なさったことは必ず実現します。人が見たときに良いことも、悪いことも、神の約束であれば必ず実現します。

 創世記18章はソドムの滅びについて記しています。ソドムにはロトとその家族が住んでいました。ロトの叔父であるアブラハムはソドムが滅びることは避けたいと強く願いました。そこで彼は神と取引をします。「ソドムの町に神に従う人が50人いたら滅ぼさないでください」、神はその願いを受け入れました。しかしアブラハムは45人なら、40人なら、30人なら、20人なら、10人ならと、人数を減らして行きます。神はアブラハムの願いを聞き入れ、10人いればソドムを滅ぼさない、と語りました。

 繰り返し繰り返し、そして信仰による応答の基準を、信仰の父とまで呼ばれたアブラハムがどんどんと下げていきました。人はそれほどまでに神に逆らう存在であると聖書は伝えるのです。しかも信仰の父アブラハムも、神への応答の人数を減らさなければならないほどに、自身の説得力の弱さを実感していたのでしょう。

 しかしこれはアブラハムの現実というよりも、キリスト者である私の現実であり、教会の現実です。「いつまで」と嘆かれる主イエスですが、私たちも「仰せのとおりですが、あなたにしか頼る方はおりません」と告白し、許しを請いつつ平和の主を証する者として立てるよう、と強く願います。

2018.08.05
「モーセの選んだ道」ヘブライ人への手紙11章23~27節


モーセは出エジプトしたヘブライ人のリーダーとして生きて行く決心をしました。神が与えてくださるカナンの地への道のりは、本来ならば2週間程度のものでしたが、ヘブライ人の神への信頼(信仰)の欠如により、思ってもみない40年間という時間を費やしました。
神への不信仰に、モーセはいつも直面しています。彼はエジプトと対決する道を自分の道と選び、覚悟しました。

モーセは、神が与える地カナンへの40年間の中で、ヘブライ人の呟きにも向き合わなければなりませんでした。40年間の日々は、いつもいつも目に見える大国エジプトとの闘いだけではなかったのです。モーセはなぜそのような闘いのリーダーの道を選んだのだろうか、と考えます。

ヘブライ書の記者は「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからです。信仰によって、モーセは成人したとき、ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました。与えられる報いに目を向けていたからです。」(112326節)と記しています。モーセとヘブライ人は、真に必要なことは神から「与えられる報い」を得ることであると知っていたからです。この「報い」は、ヘブライ人がヘブライ人であることの自由、ということです。

 神を離れることもできたモーセとヘブライ人でしたが、信仰には苦しみや闘いを経ることは意味があると信じ、その道を選びました。
苦難の道であり、一歩一歩踏みしめるような歩みこそが、信仰者にとって「信仰」を知る道であると信じていたからです。ルンルン気分で歩むものではなく、「主よ、憐みたまえ」と祈り、「主よ、お守りください」と願いつつ歩む中に信仰の本来の姿があるのです。「神よ、お助けください」という道こそがモーセが選んだ道であり、私たち信仰者の道でもあるのです。神に祈りつつ歩んでまいりたいと願います。

7月

2018.07.29
「種をまく人」マタイによる福音書13章3~9節
鈴木龍生 師


イエスは「種をまく人」のたとえを語られました。まかれる「種」は神の国の福音です。しかも生きた神のみ言葉です。その福音をどのような心で受け止めるべきか?「信仰」へと結び付ける心とは?について学んでまいりましょう。

①4種類の土地(心)
「道端」に落ちた種は根が生える前に鳥に食べられてしまいました。み言葉に対して開かれた心がないために、み言葉は語られても信仰へと育たないのです。み言葉を聞きそれを受け入れないうちに、悪魔によりその心からみことばが奪い取られる人たちのことです。
「岩の上」に落ちた種はすぐに芽を出しましたが水分がなかったので、枯れてしまいました。一度は喜んで御言葉を聞き、しばらくは信じていても、試練の時には、すぐに信仰を捨てる人たちのことです。
「いばらの間」に落ちた種は成長はしましたが、いばらにふさがれ、実を結ぶに至りませんでした。み言葉も大切だが、あれも大事、これも大事と、あれこれ抱え込もうとすると、結局はみ言葉に聞くことが出来なくなってしまうのです。
「良い地」に落ちた種は成長し、百倍もの実を結びました。一粒の小さな種にはそれだけの力が隠されているのです。正しい良い心でみ言葉を聞くと、しっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせる人たちのことです。み言葉の種を蒔く主イエスが、私たち一人一人に働きかけ、聖霊により心を開いて下さるときにこそ、私たちは良い土地になることが出来るのです。

②「種をまく人」「刈り入れる人」
種をまく人とは、神の言葉を伝える人のこと。刈り入れる人とは、イエスを信じるように導く人のことです。主イエスは十字架と復活の出来事において、「神の愛と力」の種を蒔かれました。その結果、弟子たちが異邦人から回心者を刈り入れることが可能になりました。

③わたしたちの使命
1ペテロ1:23には 「あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。」とあります。先に救われた私たちは、主のみ言葉によってなお深く広く心を耕していただき、新生した「刈り入れ人」としての喜びの使命を果たしてまいりましょう。

2018.07.22
「神の救いの微」イザヤ書7章3~17節


神は、ご自身の救いの業を行おうとなさるとき、そのことを行う以前に、「徴」をとおして救いを行われることを示そうとしておられました。

 預言者イザヤの時代、ユダヤがアッシリアとの戦いに直面しているとき、神はユダヤの王アハズに「神からの徴」を求めるように、と命じました。しかしアハズは神の「徴」を求めませんでした。神はそのときから、神の業を人間が担うことを拒絶し、神ご自身で担われることを決意なさいました。それがイザヤ書七章に書かれ、今日「インマヌエル預言」と呼ばれている事柄であります。一人の男の子が生まれること、それは神からユダヤへの一つの徴となりました。この約束が実現したとき、ユダヤはアッシリアとの戦いに勝利し、神の約束によって生まれた男の子は神からの「徴」となったのです。

 新約聖書にも(とくにヨハネ福音書において)たくさんの「徴」を見ることが出来ます。イエス・キリストが十字架において神の小羊として死なれることを、様々な形の徴によってヨハネ福音書の記者は語り、明らかにしています。
しかしその「徴」を、私たちは知るだけの力も信仰もないのだと思います。それと共に「徴」を「徴」として認めることも難しいと思わされています。

●では私たちは「徴」を知らなくてはいけないのでしょうか。パウロはロマ書828節において「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」と語っています。拙訳になりますが「万事はそれで良かったと言わせてくださる」という訳になりますし、意味はそういうことです。「徴」を受け入れることが出来なかったとしても、神がなさり、信仰を持ってそのことを受け入れることが出来る者とさせていただくことが、神への賛美をより高らかなものにしてくださるのです。

2018.07.15
「その名はイエス」マタイによる福音書1章24~28節


神はナザレに住むヨセフとマリアに、生れ出てくる子の名を「イエス」と名付けなさい、と命じました。「イエス」とは「民を救う」という意味です。神がお与えになった名前ということで解ることは、イエスは「民を救う」ことこそがご自身の使命である、と自覚しただろうということです。その自覚について、二つのことをマタイ福音書から聞くことができます。

 一つは「共にいる」ことです。もう一つは「言葉をもって支える」ことです。
●一つ目のことは、イエスの誕生のときに「インマヌエル(神、我らと共にいます)」と語られています。また、福音書の終わりには「いつまでもあなたがたと共にいる」と弟子たちに伝えた言葉が記されています。このことを通して、マタイにおいてのイエスの役割がはっきりと示されていることが分かります。具体的な記述としては1820節に書かれている「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」という言葉、また1130節においての「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」という言葉に「共にいる」ことがよく表されています。「くびき(軛)はいつも二頭立ての家畜によって引かれて行くものですが、イエスが与える軛は、イエスと私(たち)とで負って行くものなのです。イエスと共に負うことによって、私の息遣いをイエスは知り、私の現実を理解してくださるのです。

●二つ目は「言葉」に関することです。人が行き詰まったとき、あるいは進むべき道を見失ったとき、イエスの言葉(聖書を通しての)が語られ、示され、歩むべきところを歩ませてくださいます。道を失っているとき、選択に困っているとき、何が人にとって大切かを聖書の言葉を通してイエスは語ってくださるのです。

 イエスの与えてくださる「救い」は揺れ動くことはありません。そしてその救いは、神が人に与えようと切に願っている救いです。その救いがイエスによって確かにもたらされたことを感謝し、イエスの御名を賛美したいと願っています。

2018.07.08
「神の覚悟」ヨハネによる福音書1章14~18節

使徒信条は「その(神の)独り子を信ず」と語っています。神の独り子とは、イエス・キリストのことです。この独り子は父なる神の思い・計画をすべてご存じであり、すべてを承知しているお方です(ヨハネ1章18節)。それとともに、この独り子は「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」とヘブライ書4章15節に信仰として告白されています。

 取り上げた二つの聖句を通して、イエス・キリストというお方は神の思いのすべてを知り、人間の思いも知り、人間の生活の中で感じ取る喜怒哀楽をあらゆる場面で知っておられる、と語ることができます。

そのイエス・キリストは神ご自身から「『これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け』と言う声が雲の中から聞こえた」とも書かれ、宣言もされています。これら一連の言葉から受け止めることは、神は愛してやまない独り子イエス・キリストを、地上に人として送った、ということです。それだけではなく、神は地上に人を造り存在させたことも聖書は記述しています(創世記1章)。

その「人」も、神にとってははなはだ良い存在で、神ご自身が満足できるものでした。しかしこの「人」は神のロボットではなく、自由意志を持って生きるものでしたので、神に背く生き方を選びました。それは神の悲しみであります。

聖書はこのようなことも記述しています。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(ルカ福音書1613節)という言葉です。「神と富」という形ではありませんが、この言葉は神ご自身に返っていく言葉なのです。それは、神は「独り子なるイエス・キリスト」と「神に背く人間」のどちらをも、共に愛することはできない、ということです。そして神は「人」を愛することを選び、「独り子」であるイエス・キリストを十字架の死に追いやったのです。実にこれは「神の覚悟」そのものです。イエス・キリストも苦しみの中で「神よ、何故?」と叫びながらも十字架の死から逃げることをなさらなかったのです。この「独り子」が私たちの救い主として神から選ばれたお方、イエス・キリストなのです。

これからの日々、私たちは神とイエス・キリストの御名を賛美しつつ歩んでまいりましょう。

2018.07.01
「私たちの主」マタイによる福音書7章21~23節


今回は、使徒信条の「我らの主」という項目を聞いてまいります。ここに言う「主」は、イエス・キリストを意味します。その「主」を「天の国」というメッセージを中心に聞いてまいります。

 まず皆様にとってイエス・キリストは紹介したいと思うお方でしょうか。思っておられるとすればイエス・キリストの何を、そしてどのように紹介なさるでしょうか。2123節を読みますと、イエス・キリストのとても厳しい言葉が書かれています。「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」と弟子たちにお語りになりました。「主よ、主よ」と祈るばかりではなく、イエス・キリストが心を掛けている人々や事柄に、目を注ぎ、力を尽くして関わっていくことがキリストの弟子として相応しいあり方である、と語られたのです。

 しかしそれらの業をしようと思わせる動機について、それが自らを誇るため、「神様、私はすばらしいことをしているでしょう?」と自己評価するような業であるとすれば、それはイエス・キリストが全く相手にもしない業である、と語っておられます。そこにはイエス・キリストが喜んでくださるような「愛の業」はありません。
社会にはいわれないことで差別を受けている人、平和を力づくで壊そうとしている人、貧困や飢餓で苦しんでいる人、家庭にも社会にも居場所をもてない人、自死しか自分の道はないと考えている人等々が沢山います。その人たちが笑顔になる為に仕える人、心を尽くす人たちになってほしい、とイエス・キリストは弟子たちを育て、願っておられます。私が(個々人が)評価されることを求めるのではなく、「悲しみが喜びに、涙が笑顔に」されていくこと、それが「天の国」が実現していく姿です。そのための働きを弟子たちに求めています。

 「主よ、主よ」と祈りを献げるとともに、聖霊の力をいただいてキリストの願いを生きようとする人が「天の国」に相応しいのだ、と語られました。
 キリスト教を信じる人が増えることを第一の使命とする人が求められているのではなく、キリストの思いを実現するようにと生活していく人、そのような人がイエス・キリストの弟子なのです。

 その様な生き方を求めるお方がイエス・キリストです。その方を紹介しつつ、その様な生き方(「主の御心」)を、聖霊の助けをいただいて歩んでまいりたいと願います。そのために祈ります。

6月

2018.06.24
「証が生まれる信仰」ペトロの第一の手紙3章13~15節

ペトロの手紙の記者は15節において「心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。」と書いています。「弁明」という語の持つ意味は「言葉で明らかにする」ということで、キリストの教会では「証」という言い方をします。この「証」は漢字で書くと「言葉」ということと関わりがあることがわかります。しかし教会が「証」というとき、別の意味でその言葉を使うことがあります。それは「生活態度」で証しする、ということです。言葉ではうまく伝えられなくても、日常の生活の中で信仰者が抱いている信仰を明らかにしたい、と願う在り方です。普段、教会とは関わりのない方でも、だれかキリスト者と出遭ったとき「キリスト者(クリスチャン)らしい」と評価することも少なくありません。それは「言葉によらない、キリスト者としての証」がなされているということです。

◆ペトロの手紙の記者は「あなたがたの抱いている希望について」と言っていますが、この言葉から推測させられるのは、「希望を抱いている人」は、その希望を言葉にして表してはいない、ということです。しかし「希望を抱いている人」の生活や在り方を知ったとき「あなたの抱いている希望について」聞かせてほしい(弁明してほしい)」と求めているのです。弁明を求める人は、この人が希望を抱いているのを知ることがどうしてできたのでしょうか。聖書はそのことには触れていませんが、私は、希望を抱いている人の背中が「希望を抱いていること」を表していた、と想像します。

◆「背中」は、人間の体の中では無防備な場と言ってもかまわない所だと思います。そして意志を発揮しようとしても、そのことが難しい場所だと思います。そんな「背中」ですから、操作しようとしてもしづらい場所でもあると考えています。しかし、いや、だからこそ「心の内」を隠すことが出来ないほどに語る場でもあると思います。

◆「父の背中(おやじの背中)」という言葉があります。子どもたちは「父親の背中を見て育つ」ということも言われます。無防備であり、雄弁でもない「背中」ですが、その背中こそが、心の在りようをしっかりと語っている、と言えます。子どもだけではなく、人々はその背中を見て、心の内に抱いている希望について聞きたい思いにさせられていくのです。それはとても光栄なことです。そして 聖書の記述は、背中が語ることについて「いつでも弁明できるように備えていなさい」と書き、期待しています。ただ、言葉で明らかにすることを苦手とする方も現実にはおられます。聖書の期待に応えられない、ことでもあるでしょう。

◆一つの歌を紹介いたします。「罪の重さを抱えて心が傷ついていても、またペトロのようにしっかりと語れなくても、さらにはパウロのように祈れなくても、私にできることが一つある。それは、イエス・キリストが私のために十字架で死んでくださった、ということです。そのことを聖霊が語らせてくださいます」という歌です。

◆私たちがしたいと願う「弁明」も聖霊がそれを行ってくださいます。聖霊こそが私たちを「証する者」としてくださるのです。聖霊の働きを求め、感謝いたしましょう。

2018.06.17
「神様に向き合う」ヘブライ人への手紙11章1~3節

人は、神様を信じていても信じていなくても、様々な問題を抱えて生きています。でも、キリスト者は神様を信じています。神様を信じていれば自分の望んでいる事は必ず叶うと信じているのではなく、「聖書の神様は、生きて、力強い働きを行われるお方であるということを、どの様な時にも確信している」のです。「希望していることを保証し」という訳は「責任を負う」と言う意味で、信仰とは私たちに与えられた希望を、神ご自身が実現させて下さる事を確信して生きていく事だと語っています。また、見えているものに左右されている日々の中で、気が付かない所にも、神様のみ業は絶え間なく行われており、見えない神の業に信頼し、見えるものは神のみ業によって意味が与えられていることを確認することが大切だと語っています。私たちキリスト者は、苦しむものに向き合ってくださる神様のみ言葉が唯一の慰めとなることを知っているから、信仰の弱さを卑下することなく、自らが大事に抱えている物(自己保身や自己中心)を脱ぎ捨て、真剣に神様に向き合う者とされたい。主イエス・キリストによって、私たち人間が神様に向き合える者とされたのですから、信仰の判断は神様に委ね、神様を仰いで神様が望まれていることを確信して生きていきましょう。神様は、耐える力を与え、闘う力を与え、立ち向かう勇気と知恵を与え、踏ん張り続ける力を与えて下さいます。信仰によって神様に向き合わせて頂いて、日々の生活を精一杯歩んでまいりましょう。

2018.06.10
「神に呼びかける喜び」ルカによる福音書11章11~13節


ルカによる音書十一章十一~十三節 「神に呼びかける幸い」
 皆さまにとっての神とはどんなお方でしょう。宗教改革者のルターは「父なる神」と呼ぶことを拒んだと言われています。作家の遠藤周作氏も「母なる神」と呼びたかった方の一人です。それは「父」という言葉には「恐ろしい」という思いがあったからのようです。果たして聖書が伝える神は、実際はどうなのでしょうか。
 ルカの福音書のなかでキリストは、「魚を求めるのに蛇を与える父親がいるだろうか」と、弟子たちに問いかけ、「神」の譬えとしてこの父を語っておられます。また、「放蕩(ほうとう)息子の話」に登場する父親も神を譬えていますが、この父親は、放蕩に身を持ち崩して「父」のもとに帰ってきた息子に走り寄った、と書かれています。イエス・キリストにとって神は怖い存在ではなく、一人ひとりを思う思いを強くもったお方だというのです。
 しかしまた神は、人が正しく育つことを求めているお方でもあり、聖書を通して、私たちの生き方・在り方を問いかけてこられます。神は人が正しく生きていくための道と力を、イエス・キリストと聖霊を通して与えてくださっています。創造主として、人が正しく生きることを強く求め、人に対して愛を持って関わることを選ばれました。それは、人がしなければならないこと・守るべきことについてはしっかりと伝える、ということです。
 四十数年前、カトリック司祭のグスタフ・フォスという方が「日本人の父へ」という題名の本を書きました。その中で、日本社会には人間の生き方をしっかりと伝える役割を持った人が欠けている、と警告を鳴らしました。その結果、「人間としての正義」に欠ける社会になってしまいました。
教会には聖書が与えられ、メッセージが与えられています。 社会に対して「父性」を果たす役割が与えられています。。
神は抱きしめてくださるお方であり、人の生き方を示し、導くお方です。そのお方がいてくださることを感謝し、この時代にあって、神の求めておられる「父性」を教会がしっかりと果たせるように祈り、ともに歩んでまいりたいと願っています。

2018.06.03
「心の中の戦い」ローマ信徒への手紙7章13~20節


使徒信条の「全能の神を信じる」という項目を聴いてまいります。
 時々「本当に神は全能か」と時々質問を受けます。そのとき、二つのことを答えます。一つは「神は歴史の神」ということ、もう一つが「心の中の戦い」ということです。最初の「歴史の神」というとき、今の時代にはまだ「神の歴史は終わっていない」と語る必要があります。地上での神の歴史が終わり、新しい天と新しい地とが生じるとき、神を知る者たちも知らない者たちも、神は「全能の神」と知ることになるのです(黙示録二十一章)。ですから、歴史が終わっていない今、神は全能ではない、というにはまだまだ早い、ということが出来ます。
 二つ目の「心の中の戦い」とは、私たちが日々抱えている戦いです。つまりそれは「したい善が行えない」「したくない悪を行ってしまう」という現実です。この現実は私たち人間が抱いている悩み・戦いです。神がお造りになったすべてのものは、造られたときのままの秩序を保っています。しかし、人間は神がお造りくださった時と違い、自己の思いを中心にして生きています。その結果自己中心に陥り、自分がしたくない悪を行い、したいと願う善が出来なくなってしまいました。
 しかし神は違います。神は「しなくてよい悪をしないままでいることが出来るお方、しなければならない善は確実に、欠けるところもなく完全に行われるお方」です。そこに全能者としての力が表されています。そのような全能の神が、不完全な人間を愛し続けてくださっています。感謝なことと申し上げるほかにありません。

5月

2018.05.27
「民を背負われるお方」イザヤ書36章3~4節
説教:鈴木龍生 師


①偶像と真の神の対比
バビロンにおいて「ベル」「ネボ」と名付けられ金銀で造られた偶像は自分で動くことも、話すこともできない。ましてや人を救うこともできない。
一方、真の神は天地万物の創造者である。人を造られた神は母の胎内にいるときからその人生に責任を持ち、この世に生まれ白髪に至るその生涯にわたり私たちを担い続けて下さるお方である。

②主イエスの「くびき」
農耕作業に使われる「くびき」は服従・辛い仕事を象徴するものである。救いを得るため律法をパリサイ人のように守ることは重荷であった。主イエスの福音は「くびき」の理解を一変させた。それは負いやすく、荷は軽い。なぜなら主イエスご自身が共に担ってくださるからである。キリストの福音を信じ生きる(キリストとつながる)とき私たちは安らぎを得る。

③神の小羊イエスが担ったもの
ヨハネ129においてヨハネは主イエスを「世の罪を取り除く神の小羊」と表現した。出エジプト記12章(主の過越し)において目印となった小羊の血によって主の裁きが通り過ぎていった。本来なら罪人は裁きを受けなければならないが、キリストが身代わりとなり犠牲となられた。神の御子が担った罪の重荷は、十字架上で解決され私たちは罪なき者、きよい者とされている。キリストを信じる共同体としての教会は、この救いの恵みを与えてくださった主を喜びとして福音を伝え続けるのである。

2018.05.20
「聖霊の働き」ヨハネによる福音書7章37~39節


主イエスは”霊“(聖霊)について、祭り(仮り庵の祭り)の終わりの日に語られました。この祭りは七日間におよぶイスラエル人にとっては、とても大切な祭りでした。その最後の日に聖霊について語ったことには、大きな意味があります。祭りの間の七日間はイスラエル人としての在り方を、歴史を通して、特に神がイスラエル人をどのようにして守ってくださったかをしっかりと語り、聴くときでした。祭りが終わったということは、イスラエル人の自覚をしっかり抱いて、日常の生活に戻って行くときであります。その終わりの日に主イエスが聖霊について語られたのは、日常の生活において聖霊の働きが大切である、というメッセージを伝える必要があったからです。

 私たちが生活する場はパウロの言葉を借りると「肉の欲」に満ち満ちているところであります。自己本位・各種差別・いじめ・憎しみ・欺瞞等がうごめいています。その様な場所にキリスト者も生活をしています。逃げることは出来ませんし、逃げてもいけない場所です。それではどのようにしてキリスト者として生活することができるのでしょうか。パウロがガラテヤの人たちに書いた手紙の中に「(聖)霊の結ぶ実」という言葉があります。「霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。」と書き送りました。パウロが書いた一つ一つの項目は、人間関係の中に実を結ぶものだという事がわかります。

 聖霊は神と人との関係を確立することに重きが置かれて語られていますが、パウロは人対人の中にこそ聖霊の働きが必要だとしっかりと伝えました。いまの時代にこそ、聖霊の働きを求めたいと願っています。

2018.05.13
「主の教会の役割」詩篇128篇


母の日を迎えました。「母」という言葉から「母性」ということを思い起こします。この「母性」は女性特有のものでしょうか。強弱の違いはあるでしょうが、男性にもあってしかるべき、と思います。そういう状況が現実に起きています。

 詩篇128編3節に「妻は家の奥にいて」と書かれています。これは「女性は外で働くな」ということではなく、子どもを守ることを意味しています。詩篇が書かれた時代の子どもを守る手段は、子どもを抱きしめて守る、というのが手段のようです。子どもが抱きしめられるとき、母親の「温もり・匂い・声と言葉」が、何よりも子どもの心を平安に満たします。

 そして今日、大人たちも平安を求めています。いのちの電話に電話がかかるのは夜が明ける前が多いと聞いています。人は寂しく、不安に満ちていて、朝が明けてしまうと自分の行く所・することが無い、と不安になるのです。人は誰もが、人間の言葉で慰められ、励まされることを心から願っています。神の子主イエスが肉体を持って地上にお生まれになったのは、人の言葉で語り、言葉で一人ひとりを抱きしめるためでもありました。今の時代は教会がその役割をになうのです。私たちの教会も言葉で一人ひとりを抱きしめることを役割としたいのです。教会ができる「母性」がそこにあることを憶えたいと思います。

2018.05.06
「その業を主に委ねよ」箴言16章13節


教会総会において年間主題聖句「箴言16章3節」と、主題「その業を主にゆだねよ」を設定いたしました。「ゆだねる」ということばを通して二つのことを、今回は聴いてまいります。一つは「(主のように)主の業に励む」ことであり、もう一つは「祈り」です。

一つ目は、私たちが向き合う方々を中心にして、神の働きを求めながら、押し付けではなく対話をする思いで主の業を行う、ということです。主の業は、心を込めて行っただけ、喜びと実が行った者に還ってくる、という意味で「ゆだねる」という言葉の語源となっています。「ゆだねる」ことは、何もしないことでも放棄することでもなく、「力いっぱい励みますから、足りないところを補ってください」という意味なのです。

二つ目の「祈り」とは、ゆだねること自体が、私のなすべき事をあなたが行ってください、ということですから、私の思い・願いが実現しないこともある、ということです。ただ神の思い・計画だけが実現していく、そのことを受け入れることです。それは私の思いと全く相反することも起こるかも知れず、祈りが聴かれていないかのようなことも起こり得ます。 主イエスが十字架にかけられる前の晩、その祈りは神に聴き入れられませんでした。神の計画が実行されたのです。しかし主イエスは「神のみ心がなるのなら、そのことを受け入れる信仰と力をお与えください」と祈られたのではないでしょうか。
「ゆだねる」とき、その主権はすべて神に帰することと、「御心を受け入れる信仰と力をお与ください、と祈る者にされたいです。

4月

2018.04.29
「神のなさった事」出エジプト記31章12~18節


これから暫くの間、使徒信条の項目を一つずつ、聖書から聴いていく予定です。
 今回は「天地の創り主を信ず」です。「天」とは「在るけれども見ることができないもの・こと」を意味します。「地」は「見えるもの・こと」を意味します。
 「心」「愛」「人間誕生の際の驚くほどの神秘な事柄」等が「天」の代表がでしょう。
。聖書は「永遠を思う心を人に与えられる。」(コヘレトの書)と伝え「愛は神から出るもの」(ヨハネの手紙一)と伝えます。「心」も「愛」も神の業によるのです。
 「地」には神がお創りになったものだけでなく、人間が作り出したものもあります。しかしパウロは、神の働きがそこにあると「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである」(口語訳)ピリピ書で明らかにし、人間が作り出す「見える物」も神の計画の中で行われていると伝えました。ただ、人間は、神がお創りになったものと人間が作り出したものを壊してしまっているのが現状でもあります。その理由は「神がお創りになったもの・こと」は神の栄光を表していますが、その栄光を人間は忘れてしまっているからです。神の栄光のために(それは人の喜びと感謝を生み出すことでもありますが)「天地」をお創りになったのです。そのことを私たちは信じる信仰を与えられているのです。

2018.04.22
「私たちの信仰」へブル書11章1~2節


信仰において「私たち」というのは、二十一世紀に生活する私たちだけを意味してはいません。イエス・キリストの死と復活後に生まれたキリストの教会に集まっていた人たちから、始まって、これからイエス・キリストを信じる方たちまでのすべてのキリスト者を意味しています。それと共に国を超え、地域を超えて同じ信仰を告白している一人ひとりをも意味しています。 時代を超え地域を越えているにも関らず同じ信仰を告白することができたのには四つの根拠があります。
1 信仰者が互いに励ましあう教会があった                   
  こと
2 どの時代にも地域にも必要で変わること 
  のないメッセージがあること
3 聖書があること
4 教会が始められたときから今日に至るま で、すべてのキリスト者が告白してきた使徒信条があることです。

 「私たち」の信仰は、次の時代の人たちの信仰でもあります。正しく伝える役割があることを憶え、聖霊の助けによって、そのことを果たしていけるようにと願い、祈ります。

2018.04.15
「ありのままの私」ヨハネによる福音書20章23~29節


聖書の中で「ディディモと呼ばれたトマス」という人がいました。「ディディモ」は「二面性」と訳されます。トマスには、信じられないことは「信じられない」と言ってしまう性格と、「信じられると悟ったときには、先ほどまで「信じない」と言っていたのも忘れて「信じます」と、堂々と言える性格が同居していました。まさに「二面性」を持っていたのです。
 主イエスはトマスの性格をよく知っておられた方です。けれどもトマスに対し、その性格を換えてほしいとは願っておられなかったと思われます。「トマスはトマスのままで良い」と受け止めておられたようです。彼の性格を含めてトマスをトマスとして認め、トマスをトマスとして神の働きのために招いたのです。私たちもトマスと同じように、私が私だから神の業に招かれ、神の救いに与からせていただけるのです。

2018.04.08
「遣わされる私たち」ヨハネによる福音書20章19~23節


復活なさった主イエスが弟子たちと会われた時に語られた言葉が三つあります。「平和があるように」「あなた方を遣わす」「聖霊を受けよ」でした。これらの言葉は今でも大切な言葉です。「平和があるように」は、今日において祝祷というかたちで受け継がれています。
「遣わす」ということは、主イエスに出遭った人(信じた人)が、その喜びをもって日常の生活を過ごして行くようにと主イエスが願っておられる、ということです。
聖霊は、喜びをもって生活の場に出ていく人にこそ必要であり、与えられるものであることを「聖霊を受けよ」と語られた主イエスは明らかにしています。
 主イエスの恵み・父なる神の愛・聖霊の豊かな励ましと交わりに支えられて生活の場に出て行きたいと願います。

2018.04.01
「キリストに在る生と死」ルカによる福音書18章18~30節


「恐れている顔」「悲しんでいる顔」「喜んでいる顔」を思い浮かべてみてください。恐れている顔、悲しんでいる顔は、笑顔の顔ではありません。聖書に紹介されているザアカイの顔は笑顔だったと思われます(ルカ19・8)。ザアカイは多くの人たちから嫌われ、のけ者にされていた人ですが、イエス・キリストに出遭って、笑顔に変わった人です。キリストの教会ではこのようなことを「キリストによって(在って)生きるものとなった」と表現します。
 復活は死んだ者にのみ起こることです。主イエスに遭ったザアカイは、孤立から笑顔に変わりました。ザアカイの心と生き方が新しくなったのです。ザアカイはキリストに在って今までの生き方に「死に」、キリストに在って「生きる」者へと復活したのです。