日本ナザレン教団飯塚キリスト教会日本ナザレン教団飯塚キリスト教会

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今週のみ言葉

主日礼拝

2022.09.25
「十字架のキリスト」マルコによる福音書15章33~47節


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★おはようございます。聖書を通して牧師の口を使って、神が今日も皆さんに語られます。その言葉は、わたしたちの人生と言う道と、わたしたちの歩み方に光当て、正しい方向と、正しい歩み方を照らしてくれます。
 ★イエスが十字架につけられて3時間が経ち、昼の12時になりました。皆さん、お昼の12時、正午頃とはどの様な時でしょうか。サマリヤのシカルと言う町でイエスが旅に疲れて井戸のそばに座っておられたのも正午頃でした。その時、女がひとり水を汲みに来ただけでした。イエスが十字架につけられたゴルゴダの正午も、通りかかる人はいません。イエスを侮辱した祭司長や律法学者たちは、暫くは十字架を眺めていたでしょうが、早々退散して、今はいません。イエスの両側でののしった、十字架上の犯罪人ももはやそんな元気はなくなりました。
★お昼の12時とは、十字架のイエスひとりに注目する時となった、と言うことです。皆さんはイエスのどこに注目しますか。2004年の映画パッションや、フィリピンのクトゥド村で毎年聖金曜日に行われている、実際に十字架の苦痛を実体験する行事は、イエスの十字架の肉体的苦痛に注目しています。しかし、聖書はその苦痛に関して何も伝えていません。聖書が注目しているのは、全地は暗くなり、それが3時まで続いたことです。かつてアモスと言う預言者が神の裁かれる日、終わりの日に起こる現象のことを旧約聖書アモス書89節で伝えています。「その日が来ると、と主なる神は言われる。わたしは真昼に太陽を沈ませ、白昼に大地を闇にする」。
ですから、イエスは十字架で神の裁きを受けておられるのです。神の愛する独り子が神の裁きを受ける事はあり得ません。しかし、神は確かに裁いておられます。という事は、誰かが受ける裁きをイエスが代わりに受けておられる、という事になります。それは誰なのでしょうか。あなたではありませんか?これが第一のメッセージです。
 ★さて、それはどんな裁きなのでしょうか。もう少し詳しく聖書は語ります。12時から三時間立った時に、イエスが大声で叫びました。言ったのではありません。叫びました。今まで沈黙してこられたイエスが、もう我慢ならなくなりました。それが叫びです。皆さん、イエスは何が我慢ならなかったのでしょうか。十字架と言う刑は苦しんで死ぬ刑ですから、やはり苦しみに耐えられなかったのでしょうか。皆さん、私たちが礼拝で信仰告白する使徒信条では、十字架で苦しみ、となっていません。ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ死んだ、となっています。イエスが我慢ならない事は十字架の苦しみではないのです。
 ★イエスは大声で「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」、と叫ばれました。イエスが我慢できなかったのは、神に見捨てられることでした。死が近付いて来るのに神に見捨てられている。これが、イエスが根を上げてしまわれる程に最も苦しかったことでした。これは全ての人が経験することですね。人にとって最も重大問題のこの現実をイエスは実体験し、叫ばれたのでした。
 ★さて、ここで不思議なことがあります。3536節で言われている、イエスの十字架のそばに居合わすことのできる人は39節で登場するローマの百人隊長の部下ではないでしょうか。しかし、聖書はローマ兵と書かないで、イエスの十字架のそばに居合わせた人々、と書いています。この人たちは誰なのでしょうか。その言動から分かることは、イエスの十字架の一番側にいても、彼らの目は塞がれていた、という事ですね。ここに、あなたもイエスの十字架で何が起こっているのか、見えていないのではありませんか?という第二のメッセージがあります。イエスの言葉を思い出します。見えると言い張る所にあなた方の罪は残る。それから、十字架につけられるエルサレムを見上げて向かおうとした時に、非常に象徴的なことが起こりましたね。バルテマイという目の不自由な人が来てイエスに「何をしてほしいのか?」と問われ、「主よ見えるようになることです」と、答えた人がいました。皆さん、イエスのことは分かっている、知っている私たちですが、今日、新たな目でイエスの十字架に注目しましょう。そこで何が起こったのでしょうか?
 ★イエスは再び大声で叫ばれ息を引き取られました。その声の内容はもはや記されていません。きっと同じ叫びだったでしょう。38節、すると神殿である事件が起こり、イエスの十字架で何が起こったのかが明かされます。神殿とは神と人が会う所です。しかし、面と向かって会えません。神社でも神と面と向かえませんね、ご神体は一番奥に隠されています。その理由は人が穢れているからです。それでお祓いをしたり禊をしたりします。しかし、聖書は伝えています。それは穢れではない。人が神と和解できていないからです。人は神に背を向け、神の目から見て悪を行い続けているから、幾ら清めても神の罰は逃れられません。それで神殿で一番重要な所は、神の側と人の側を分けている分厚い垂れ幕でした。年一回、人の代表として大祭司は、必ず人の受ける罰を、動物に身代わりに受けさせ、その流された血を携えて垂れ幕を超えて神の側に入って行きます。
★イエスの十字架によって、この神殿の垂れ幕が上から下まで、まっ二つに裂けて無用になるとは、この様な神殿はもはやいらなくなったと言うことです。つまり、これからはイエスの十字架が神殿の役割を果たします。イエスが十字架で受けられた裁きは、私たち人間が受けるべき神の裁き、罰でした。私たちの代わりにイエスが裁かれたのは、私たちが神と和解して神の家族の交わりに入るためです。
 ★39節、イエスの十字架を一部始終見ていたローマ兵の百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と信仰を告白しました。彼は外国人です。聖書も知りません。イエスと会ったのも初めてです。ただ、イエスの十字架、その息の引き取られ方を見て、彼はすぐにこの信仰を告白しました。彼が考えて悟ってこの信仰告白をしたのではありません。不思議ですね。イエスが福音を伝え始めた開口一番の言葉114節「時は満ちた、神の国は近づいた」を思い出します。神の国が近づいたから、このローマ兵は神に導かれて信仰告白しました。今も、教会で同じことが起こっています。信仰は神からの賜物、恵みです。私たちはこれを幼子のようにただ受け取るだけでいいのです。イエスは十字架で皆さんに代わって神の裁きを受け、神との和解と、神の家族としての交わりに皆さんを招いておられます。今、神がこの私を招いておられる、そう信じるなら、応えましょう。そうでなくても神は、いつまでも招き続け、待っておられます。お祈りしましょう。

9月

2022.09.18
「ユダヤ人の王」マルコによる福音書15章1~32節


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★私たちが礼拝の中で、教会が受継いで来た信仰を告白する時に、使徒信条を告白しています。その中に人の名前が入っています。それは「おとめマリア」と「ポンテ・オピラト」です。マリアは名前ですがどこの町にもいる特定できない名前です。しかし、ポンテオ・ピラトは歴史的に特定できる人の名前です。福音書は四つありますが、神はその一つを医者であり、歴史家であり、信仰者でもあったギリシャ人ルカに綴らせました。彼にキリストの出来事を、歴史上の出来事として綴らせるためでした。
★ルカ福音書は伝えています。キリストが生まれた時は、皇帝アウグストゥスの住民登録勅令発布の時で、キリニウスがシリア州の総督でした。約20数年後、キリストに洗礼を授けたバプテスマのヨハネがヨルダン川で洗礼活動を始めた時は、皇帝ティベリウスの治世第十五年で、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督でした。また、当時書かれた歴史書や遺跡からの出土資料から、それまではシリア州の総督がユダヤを担当していたのですが、皇帝が特別にユダヤを直属の州と同等とみなし、総督を置くことになったことがわかります。
NHK2000年から9年間続いた「その時歴史は動いた」という番組がありました。まさに、キリストがポンテオ・ピラトのもとで十字架につけられるのに、歴史は動きました。歴史を支配する神がそうされました。その後のキリスト教会の歴史を振り返ると、それがひしひしと感じられます。今日はその話しをする時間はありませんので、いつかまたお話ししましょう。さて、今日、朗読された聖書の中に、ピラトという名が9回も出て来ます。そして、教会が正しい信仰を受継ぐために、信仰告白して来た使徒信条の中にも、『ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ』が入っています。ここに私たちに対するメッセージが示されています。
★聖書が伝えているキリストの十字架は、人が考えたり作ったり悟ったりした教えでも、夢物語でも、あるいは個人的に受けたお告げや特別な経験でもなく、歴史的事実です。ですから、皆さん、キリスト教信仰をするということは、何か雲の上の領域、この世の世界から離れた領域に入ることではありません。キリスト教信仰をするとは、キリストが立たれたこの大地に私たちも立ち、キリストが吸われたこの空気を私たちも吸って、神を見上げて、神と共に、日常の営みをこつこつ進め、人生を楽しみ、世の歴史の中に確り立って、生き抜くことです。これが要点①です。
 ★次に要点②ですが、キリストがピラトによって有罪判決を受け、十字架刑に処せられた時、ピラトはキリストの頭上に、「ユダヤ人の王」と書いた罪状書きの札を打ち付けました。マタイ福音書には、イエスの左右に強盗が十字架につけられたとありますから、彼らの罪状書きには「強盗」と書いてあったでしょう。皆さん、ピラトはなぜ「ユダヤ人の王」という不思議な罪状を書いたのでしょうか。
★ピラトに関する情報は少ないですが、彼は真相をあばく鋭い目の持ち主でした。彼は祭司長たちの訴えを聞いて、イエスが無実であり、祭司長たちの妬みの為に訴えられていることにすぐ気付きました。これはイエスに味方すると言うより、ローマ総督としてローマを代表して公正な裁判するという彼の任務を遂行しているだけでした。しかし、先導された群衆の叫びがますます激しくなる状況を前にして、彼は次に抜け目のない判断を下しました。このままでは暴動が起こる。この状況では公正な判決よりこの群衆を鎮めることを優先すべきである。こういう場合は群衆を満足させるしか方法はない。それでピラトは群衆の前でイエスを鞭打ち、十字架につける為に兵士に引き渡しました。時は早朝であり、十字架につけられたのは午前9時でした。約3時間の間に、ピラトは罪状書きの内容を決定しました。
 ★もう一つピラトの人柄が出ているのは「お前がユダヤ人の王なのか」というイエスに対する審問です。日頃は地中海に面するカイサリアにある総督官邸に居た彼は、祭りの度にエルサレムに来ていました。宗教的な共同体であるユダヤ人の監視のためでした。彼はここに赴任する前に、ユダヤのこれまでの情報を得ていたと思います。ローマ帝国の属州の中で統治するのが一番厄介な地域である、と聞いていたに違いありません。特に皇帝が任命したユダヤ人の王は、ローマの後ろ盾が無ければ立ち行かない立場にあるが、ローマからの総督と幾度も対立した経緯がありました。「お前がユダヤ人の王なのか」、というピラトの審問には侮辱の意味が込められていました。ピラトは最後までイエスのことを「ユダヤ人の王」と呼びました。総督の兵士たちも、イエスに王の格好をさせて、「ユダヤ人の王、万歳」と言って、侮辱的行為を繰り返しました。その後、彼らが官邸を出発する時に、ピラトが「ユダヤ人の王」と書いた罪状書きを彼らに渡したのなら、きっと彼らは「これはいい」と思ったでしょう。キリストは罪状書きによっても侮辱を受けられました。
 ★さて、ここで私たちはクリスマスに必ず話される、東方の博士の話を思い出しましょう。当時ローマ皇帝からユダヤの王として任命された、ヘロデ王のエルサレムの宮殿に来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と彼らは尋ねました。その時、ヘロデは祭司長と律法学者に調べさせ、預言者ミカがベツレヘムに指導者、牧者が現われると預言している、との報告を受けました。昔、ユダヤ人は神の民イスラエルと呼ばれ、王は神によって選ばれ、民の牧者とも言われていました。神が最初の王を選ぶ時に、反対する預言者サムエルに言われた言葉を聞きましょう。サムエル記上87節~9p,438参照。ここにユダヤ人にとっての王の意味が示されています。
 ★ユダヤ人の王とは本来神ご自身だったのです。神は民の声を聞き、人間の王を立てることを許しました。しかし、サムエル記から列王記、歴代誌、エズラ、ネヘミヤ、エステルと続く、王を立てた神の民の歴史は、神から離れて行く王と民と、それに寄り添う神の歴史が記されています。そして、神はその後、16の預言書を通して、神と民、いや、神とすべての人の和解と新たな計画を進める為に、神はその独り子イエス・キリストがユダヤ人の王として遣わされることを、お示しになっておられました。
★ピラトが侮辱するためにイエスの罪状に「ユダヤ人の王」と書かせて頭上に掲げさせました。沈黙されていた神は、後にその札を、全ての人に対する神との和解と、神の新しい計画が始まった印となさいました。イエスはユダヤ人の王、全ての人の救い主として来てくださいました。
 ★皆さん、私たちも、神に対して反抗する時があります。神に信頼しない、神に依り頼まない時があります。神のことは横に置いて、忘れて、無視する時があります。しかし、
そんな私たちを変えるために、キリストが私たちのために十字架で死んで下さったことによって、神は私たちに対する愛を示されました。この愛に応えて、神との和解に与かり、神の家族とされ、神の新しい計画に加わるよう、私たちは招かれています。共にお祈りしましょう。

2022.09.11
「ペテロの原点」マルコによる福音書14章53~72節


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★おはようございます。今日もこの礼拝で、神との関係をより深くさせていただき、自分自身を新たにしていただいて、希望を持って新しい一週間を歩ませていただきましょう。
 ★『子どもは天からの授かりもの』という、諺と言うのでしょうか、伝えられて来た言葉がありますが、それは『命を大切にする』という、倫理的な教えを伝える言葉で終わってしまっているのが残念です。しかし、子どもを産んだ方々は天から授かるという事を実際に経験なさって、それは単なる教えを伝える言葉ではなくて現実であると、感じたのではないでしょうか。しかし、母親はすぐに24時間待った無しの子育てに突入しますから、授かった命のこと、それを授けて下さった方のことを、それ以上深く追求しないままで人生を前に進めます。そういう方がほとんどですね。
 ★聖書は天から授かった私たちの命について、また天から命を授けたお方からのメッセージを伝えている大切な書です。ですから、子育て中の人も、子育てを終えた人も、これから将来子育てする人も、是非聖書を読んでいただきたいのです。しかし、独りでは読めませんね。だから教会に来て頂きたいのです。聖書を一年間で読む会の準備として、毎月第三日曜に学んでいます。聖書に出て来る、神が人間をお造りになった話は、私たち一人ひとりの命が天から授けられた命であるという現実を伝えています。そして、最初の人アダムとエバが、禁断の実を食べたので、神と共に幸いな生活をしていたエデンから出て行かなければならなくなった話も、私たちの現実を伝えています。神は神が用意している幸いな生活に、私たち人間をもう一度招こうと、エデンを出て行った人間を追い掛け、そして寄り添われました。それも具体的にひとりの人アブラハムを選び、その子孫ユダヤ人と寄り添われ、彼らを神の民として、彼らを通して全ての人を、神が用意している幸いな生活に招こうとされました。それが聖書の内容です。
 ★神は彼らと共に行動するために、彼らの生活の仕方を具体的に指導されました。そのために神は、今日の朗読箇所に出て来る、祭司長や長老や律法学者を、その指導者とされました。最高法院は神と共にする生活のことで、リーダーたちが集まって話し合う最高議会でした。その頂点に立てられていたのが大祭司でした。大祭司の一番の役目は、神が神の民と共に歩めるように、神と人間の間にある障害物、すなわち神への反抗や神への不信頼という、罪を取り除く儀式を、神の指示に従って行う事でした。
★ヘブライ514(.405)に大祭司の務めがまとめて記してあるので、ちょっと読んでみましょう。最後に、この光栄ある務めは、神から召されて受ける、とありましたが、イエスに審問するこの大祭司は、神が召したのではなくてローマ帝国が選んだ大祭司でした。つまり、彼らの目的は、神と人間の間にある障害物、すなわち神への反抗や神への不信頼という、罪を取り除く儀式を、神の指示に従って行い、神と共にする生活を指導する事ではなくて、ローマ帝国と上手に付き合って、大祭司をトップにするユダヤの宗教体制を維持して行く事でした。ですから、彼らを批判するイエスは非常に邪魔な存在だったことが分かりますね。
★最高法院という名前に恥じない裁判でなければなりません。それでイエスを手続きに従って裁こうと、数名がイエスを訴える証言をしましたが、それぞれが食い違っていて、二名以上証言が揃わないと訴えられないという規定のため、裁判は前に進みませんでした。この裁判は初めからイエスに死刑の判決を出すための形だけの裁判でしたのに、事が前に進まないのを見かねて、大祭司が立ち上がりイエスにただ二言だけ尋ね、衣を引き裂くというパフォーマンスを見せて、神冒瀆の罪で死刑、と言う強引なスピード判決を下しました。するとタガが外れたように、ある者がイエスに唾を吐き掛け、目隠しをしてこぶしで殴りつけ、「言い当ててみろ」と言い始めました。そしたら、その裁判の警備をしていた下役まで、イエスを平手で打ちました。
 ★神は神が用意している幸いな生活に、私たち人間をもう一度招こうと、エデンを出て行って以来、ずっーと人間を追い掛け、寄り添って来られました。その為に一つの民族を選び、彼らを神の民として、具体的に彼らと共に働いて来られましたが、彼らが大きくなって国を築き、富を得るにつれて、神の民としての道から外れ、神に反抗し、神を信頼しなくなり、彼ら自身も神との間に壁を積み上げて行きました。神は沢山の預言者を遣わして、その誤りを指摘しましたが聞く耳がありませんでした。とうとう神は彼らと共にいることが出来なくなりました。しかし、神のお考えは変わりません。そして、神は最後の計画を実行する決断をなさいました。
 ★神と人間の間にある壁、罪を、愛する独り子イエスにその全てを負わせて、神と人間の関係を回復させ、人が神と共に歩む生活をして、神が用意されている幸いを受けることのできる道を拓かせ、ユダヤ人だけではなく、誰もがイエスによってその道を進めるようにする。それが神の最後の計画、救いの計画です。大祭司とイエスの一対一のやり取りは、神の独り子と人間の代表との一対一のやり取りと言っても良いでしょう。そこでイエスはご自分がキリストであることを、すなわち、天に昇り全能の父なる神の右に座り、最後の審判者として世の終わりに来臨する救い主、審判者であることをハッキリ宣言されました。
 ★しかし、大祭司はイエスの宣言を死罪に値するとし、一同は死刑にすべきだと決議しました。そして、その議場でイエスへの侮辱が始まりました。また、その同じ大祭司の屋敷内で、大祭司に仕える女がペトロに、イエスの仲間であることを三度問い詰め、最後までイエスに着いて行こうとしたペトロは「そんな人は知らない」と三度否定して、イエスを見捨てました。後でペトロは後悔して泣きました。オリーブ山で弟子全員が逃げました。しかし、ペトロだけ引き返してイエスの後を追いました。結果、逃げるよりももっと悪い、自分の口で三度正式に否むという、人間の現実が現われました。
 ★神は天から、この日大祭司の家で起こったこれらのことを見られて、どう思われたでしょうか?イエスが沈黙されたように、神も沈黙されていました。今日の聖書は人間の現実を表しています。それは当時の宗教界での最高の場、最高法院の現実であり、最後まで何とかイエスに着いて行こうとした弟子の現実でした。後にペトロは教会の指導者になるのですが、教会はあえてこのペテロの失態を聖書に残しました。イエスに死刑を決議した、あの大祭司の同じ家で、同じ夜に三度イエスを知らないと言い切ったことが、自分の原点なんだ、と教会に言っていたからではないでしょうか。ペトロは弟子の中でリーダー格でしたが、使徒言行録を読むと、彼は教会の長としてエルサレム教会に居続けたのではなくて、教会から出て行って伝道しました。後輩の使徒パウロからの批判を受け止め、パウロがローマへ行った後、聖書には載っていませんが、ペトロは彼の後を追ってローマへ行き、同日に二人が殉教したとの伝承が教会に残っています。
★皆さん、私たちの原点もここではないでしょうか。神に反抗し、神を信頼せず、神との間に大きな壁が横たわる、それが私たちの原点ですね。そして、私たちは神に導かれ、信じました。ローマ58節「しかし、わたしたちがまだ罪人であった時、キリストが私たちの為に死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」。まだ罪人であった時にキリストが・・・、ここに私たちの原点があります。この上に、私たちの今があり、これから先の私たちがあります。謙って、篤き思いを持って、信仰の旅を続けましょう。新聖歌102番「主は命を与えませリ、主は血潮を流しませり、その死によりて我は生きぬ、我何を成して主に報いし」を歌いつつ歩みましょう。

2022.09.04
「見えるようにしてください」マルコによる福音書14章43~52節


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★おはようございます。今日も朗読されました聖書を通して語られることばを、神の言葉として受け入れ、神との関係を回復させていただきましょう。そして、自分自身を新たにしていただきましょう。そして、希望を持って新しい一週間へと向かわせていただきましょう。
 ★今日の聖書はユダがイエスを、祭司長と律法学者と長老たちが遣わした群衆に、引き渡した場面です。『裏切り者の代名詞』、とインターネット検索したら、そのトップにユダが出てきます。それ程に、ユダと言えば裏切り者の代名詞となっています。しかし、正確に言うと、ユダはイエスを引き渡した人です。その結果として裏切った人と言われるようになりました。その影響を受けたのでしょうか、聖書の翻訳も『引き渡す』という言葉を『裏切る』としてきた経緯があります。マルチン・ルターがその様に訳した影響もあるようです。
 ★わたしがこの様に細かいことに拘るのには理由があります。クリスマスの出来事、すなわち、神が愛する独り子イエスをマリアから生まれさせた事は、神が人間を信頼して、人間の手に愛する独り子を引き渡したという事です。人間は引き受けた神の愛する独り子イエスをどう扱ったのでしょうか。イエス自身がその事を『ブドウ園の主人と農夫たち』というたとえで話されました。マルコ12章です。こんなたとえ話でした。
 ★収穫時期になったので、収穫を受け取るために主人が僕を農夫たちの所へ遣わしましたが、農夫たちはその僕たちに対して袋叩きにしたり、殴ったり、侮辱したり、そしてとうとう殺してしまいました。残ったのは愛する息子一人だけとなりました。そこで主人は『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を遣わしました。そしたら農夫たちは息子を捕まえて殺し、ブドウ園の外にほうり出してしまいました。さて、このブドウ園の主人は、どうするだろうかは明らかですね。
 ★このたとえを話しをした後で、イエスは、最後に一言付け加え、その場でこの話を聞いていた祭司長、律法学者、長老、群衆、そして弟子たちの現実の姿を、それから、ここを聖書を通して聞く全ての人の現実の姿を、鏡に映すように示されました。その一言とは「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主のなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える」。見えていないという事ですね。
 ★ユダは有能な弟子でした。だからお金の管理を任されていました。彼はイエスを祭司長に引き渡しました。祭司長はきっとイエスを最高法院に連れて行き、大祭司のもとで裁判にかけるでしょう。しかし、有罪判決が下されるなんて、彼はちっとも考えていなかったようです。マタイ福音書は、イエスに有罪判決が下ったことをユダが知って、引き渡したことを後悔し自殺に至った経緯を伝えています。ユダは『最高法院に立たされても、イエスはいつもの様に、彼らを圧倒され、彼らは返す言葉を失うだろう』と思っていましたから、死刑の判決をイエスが受けられたと聞いて、驚きました。ユダは自分自身の行っている現実が全く見えていませんでした。そして、弟子たちもそうでした。先々週も読みましたね。弟子たちは皆、自分は躓かない、イエスのことを知らないなど決して言わない、イエスが逮捕されることを命を懸けて阻止する、そんな勢いでした。ところが我が身の危険を感じて、イエスを見捨てて逃げ去る自分自身の現実が全く見えていませんでした。この様に、人は見えているつもりなのですが、全く見えていません。
 ★もう10年前ぐらいになりますか、私はオレオレ詐欺の電話を受けた経験があります。低い声の見知らぬ男性からの声でした。「お宅の娘が、わしの車と接触事故を起こした。この落とし前どうしてくれるんや」。「ちょっと娘と代わる」「パパー、助けてー」。「あゆみちゃんか」「うん」「ケガは、大丈夫か」「うん」「それでどんな事故になったんや」「交差点で、出会い頭にぶつかった」。それは確かに娘の声でした。丁度その時は、息子が帰ってて、百合香牧師と三人で話をしていた時でした。息子がオレオレではないかと思い、すぐに娘に連絡を取り、娘が家に居て事故をしていない事を確認しました。「パパ、電話切って」「なんで、あゆみが大変や」「それオレオレや」。急いで受話器を置いて、息子から現状の説明を受け、娘と電話で話してやっとわたしの目が覚めました。自分は見えていると思っていたが、本当の現実が見えていなかった経験をしました。もう一つの例は、電車の運転手です。運転席には沢山の安全ランプがあります。ブレーキ、ドアの開閉、そして、前方に見えるのは信号機のランプです。これらを目で確認するのですが、必ず指差しと声で確認します。見ていると思っていても、現実見えていない。そんなことが起こる可能性があるからです。
 ★さて、イエスは剣と棒を持って捕らえられました。素手で無抵抗のイエスが彼らに問いかけていますね。48-49節です。イエスを捕らえる機会は今までに幾度もありましたが、なぜ今それも剣と棒を持って捕らえに来たのか。その理由を問われました。しかし、捕らえる者も、自分がなぜイエスを捕らえるのか分かっていません。だからイエス自身がその理由を答えられました。本当に人間と言うものは目えていない。今日の聖書はこの事を私たちに示しています。
 ★エルサレムは山の上にあります。最後の上り路に入る時でした。ひたすらエルサレムを目指して進まれる、そんなイエスに向かってバルテマイと言う名の目が見えない男が「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と、たとえ「うるさい、黙れ」と怒鳴られても、イエスが立ち止まるまで何回も何回も大声で叫び、立ち止まったイエスに駆け寄り告げます。「先生、目が見えるようになりたいのです」。こんなシーンがあります。10章の終わりです。彼の告げた言葉「目が見えるようになることです」は彼自身の願いですが、これは全ての人の願いではありませんか。そして、イエスは全ての人が見えるようになるためにエルサレムに行かれました。
 ★ヨハネ福音書は、生まれつき目が見えない人がイエスによって見えるようになり、その事件で騒動が起きた話を伝えています。その中でイエスは、ご自分がこの世に来た結果、「見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる」と言われました。それを聞いた律法学者たちがイエスに「我々も見えないということか」と尋ねると、イエスは「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなた方は言っている。だから、あなたたちの罪は残る」と、言われました。
★皆さん、私たちはこれから、私たちの為に十字架にかかって死に、復活して下さったキリストの食卓に与ろうとしています。バルテマイはそのキリストに向かって叫びました。ユダによって祭司長、律法学者、長老たちに引き渡されたキリストに向かって、弟子たち全員に見捨てられたキリストに向かって叫びました「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。そして願いました「先生、目が見えるようになりたいです」。あなたは今、キリストに何と叫びますか?あなたはキリストに何を願いますか?バルテマイの叫びは今私たちに問いかけています。お祈りいたしましょう。

8月

2022.08.28
「立て、さあ行こう」マルコによる福音書14章32~42節


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★このマルコ福音書は、イエスの弟子たちに対する最後の言葉を、今日の聖書朗読箇所の最後42節の「立て、行こう」としています。その時弟子たちは全員言っていました。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。「たとえ、ご一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」。しかし、彼らは全員躓き、イエスを見捨てて去って行きました。それで彼らは自分に失望し、挫折し、落ち込み、立ち上がれなくなります。それを見据えてイエスはこの言葉「立て、行こう」を最後の言葉となさいました。

★「立て」と、日本語に翻訳されていますが、原語はキリストが死人の中から甦った時の「甦る」と同じ言葉が使われています。ですからこれは単に足で立ち上がることではありません。人間が希望を持って立ち上がる、そう言う深―い意味が込められています。ヨハネ福音書にはゲッセマネの話は記されていませんが、最後の晩にイエスは弟子たちに福音を語られ、その中で「さあ立て、ここから出かけよう」と言われました。皆さん、このゲッセマネでの出来事には、私たちの立つべき確りした足場のことが、言い換えるなら、私たちが失望し、挫折し、落ち込み、立ち上がれなくなった時に、信仰へと再び出発させてくれる力が示されています。

★さて手皆さん、死が目前に迫ったゲッセマネで、イエスはひどく恐れ、悶え「わたしは死ぬばかりに悲しい」と言われました。それは死の苦しみであり、弟子たちから見捨てられるという悲しみでした。この様に死を前にしての人間のもろく弱い姿を弟子たちに顕わにされました。弟子たちは頼りにしていたイエスがそんな状態になられましたものですから、ちょっと驚いたのではないでしょうか。そしてイエスは大切な時にいつも側におらせられた三人の弟子、ペトロ、ヤコブ、ヨハネを、その時も一番側に居させ、彼らに目を覚まし続けるよう何度も命じられました。『眠らないでわたしと一緒に居続けてくれ、わたしを孤独にしないでくれ』と言うことでしょう。これも死を前にした私たち人間の現実と同じですね。

★また、イエスの祈りに「この杯をわたしから取り除けて下さい」とあります。私たちも受け入れがたい運命という杯を受け取らねばならない時に、それが取り除かれることを心から願いますね。この様に、母マリアから生まれ、肉体を持った人間になられた神の独り子イエスは、死を前にしてこのゲッセマネで、徹底的に私たちと同じ姿を、すなわち、「もう、これで終わり」と言うしかない、死を前にした時の私たちと同じ姿を、現されました。つまり、私たちと同じになって共におられるイエスに私たちが確り立ち上がる事の出来る、頼りになる不動の足場があります。私たちがどんな状況に陥りましょうとも再出発できる、頼りになる力があります。
 ★世の中には千差万別の宗教、信じる対象があり、人はそれに頼ります。仏教の教えは優れたものです。神道の神社は崇高で霊場と言われます。その他の宗教も優れています。人は自分より上にあるものを、さらに上を求め、それに頼ります。下なる人間が考えたり、修行をしたり、体験したりして、上なるものを、頼りに成るもの(これを神とか仏とか真理とか悟りとか色々言われます)を見出します。全ての宗教は下から上へ、と言う方向で追求されています。

 ★しかし、イエス・キリストは上から神の方から、下に、私たち人間の所に来られました。これは人間が考えたり悟ったり引き起こしたりしたことではありません。死人の中から甦ったキリストと出会い、天に帰られるまでの40日間で、弟子たちはイエスにおいて神が上から下に確かに降られたとの確信が与えられました。特にイエスが、私たちと同じく子宮の中から肉体を持って生まれ出て、その肉体で死に直面して、悲しみと孤独によって深く恐れ悶えられたゲッセマネでの姿は、神が本当に私たちと同じになられた、その様にして私たちと共におられる、という現実を表しています。これは、古事記の神話に出て来る、天照大神の孫が天から神として地に降りて来られたという天孫降臨と全く違います。神が人間イエスとなって上から下に降りて来られました。それも私たちと同じになられたという事実がこのゲッセマネで現わされました。それは私たちが希望を持って生きて行くためになされました。

 ★さてイエスがこの世に公に現れて最初に言われた言葉は「時は満ちた、神の国が近づいた(マルコ115)」でした。そして、今日の聖書1441節でイエスは「その時が来た」と具体的に言われました。イエスを通して神はゲッセマネで、人間に近づくというよりも、さらに近づくと言うか、人間に入られたと言った方がよいかもしれませんね。讃美歌90番「ここも神の御国なれば」は、それを信じる者の歌です。もはやどこででも、ここは神の御国である、神の御支配の中だ、という歌です。「よこしま、しばし時を得とも」、ここは神の御国なり、と歌います。

 ★十字架はゲッセマネから始まっています。神との和解の献ものとしてイエスは十字架で命をささげられるのですが、十字架は神が人間の一番奥深くに入って来られた、全く人間の一人になられた言ってもよいのです。だから、この世のいかなる時も所も神の御支配の中にあるのです。ここも神の御国になのです。だから、このイエスによって、皆さんは神が共におられるゆえ、安心して進んでください。それと同時に、皆さん、ここも神の御支配の中だ、神が共におられる、ゆえに畏れをもって進みましょう。

★私たちが失望し、挫折し、落ち込み、立ち上がれなくなった時に、信仰へと再び出発させてくれる力、確りと立つ不動の足場、それをイエスはこのゲッセマネで示しておられます。イエスは皆さんにも言われます。立て、さあ行こう、このわたしがいつもついている!

2022.08.21
「完全な解放へ導くキリスト」マルコによる福音書14章27~31節


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★「RE」や「リ」が頭に着く言葉が沢山あります。リクリエーション、リラックス、リホーム等・・・。リメイクはご存じでしょうか。昔から「仕立て直し、かけつぎ」と言う看板を掲げて来たお店が最近では、リメイクショップと言われています。ネットで検索して、服のリメイクをする作家のひとりが、ご自分のブログで「リメイクは新しい命を吹き込むようなもので、楽しくてやめられません」と言うような声を載せておられました。皆さん、わたしたちの神さまもこのリメイク作家と同じ思いを持っておられます。クリスチャンになるとは、神にリメイクされ続けられる事です。クリスチャンになるのを躊躇する理由の一つに、今の自分が否定される拒否される、と言う思いに駆られることが挙げられますが、神はそんなことなさいません。

★皆さん、リメイクショップでは、あなたが持って来た服を見て、拒否し、「捨てなさい」なんて決して言いませんよね。まず、その服を丁寧に受け取って、どの様な新たな命を吹き入れることが出来るのか、クリエイティブな目でその服を見つめられます。神の場合も同じです。あなたが神の前に来られたら、神はまず、そのままのあなたを受け入れられます。それから次に、十字架であなたの代わりに命を献られた愛する独り子イエスのゆえに、あなたを神の子どもとして受け入れて下さいます。あなたがまじめだから、正しいから、熱心だから、そうするのではありません。洗礼の準備とはこの神の前に立つ準備です。そして洗礼から神のリメイクが始まります。あなたに新しい命が吹き込まれるのです。それを聖書は「新たにされる」「新しく造られる」と言っています。教会は神のみ業を伝えていますが、特にこのリメイクの業を伝える教会として、神は私たちのナザレン教会を立てて下さいました。昔はこれを「きよめの業」と呼んでいました。

★今日朗読された聖書箇所は、神がイエスの弟子たちのリメイクに本格的に着手された時のことを伝えています。それは今までイエスに従って来た弟子たちがイエスに躓いて、もう従わなくなることから始まりました。この事は既に預言者ゼカリヤによって記されていました。27節の二重カギカッコで囲んだ所です。神は羊飼いであるイエスを打って、逮捕、裁判、十字架、死へと追いやります。その結果、羊である弟子たちは散らされ、イエスを見捨て、イエスを否定します。これがなぜ折角今まで従って来た弟子たちのリメイクになるのでしょうか?不思議ですね。

★ヒントがゼカリヤの続きの預言にあります。13891493ページです。三分の二は死に絶え、三分の一が残り、わたしはその三分の一を火に入れ、銀を精錬するように精錬し、金を試すように試す。彼が我が名を呼べば、わたしは彼に答えて「彼はわたしの民」と言い、彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。
★皆さん精錬とは、金属の中に含まれている不純物を取り除く作業ですね。火に入れ金属が溶けると共に不純物が現われます。それを取り除いて銀や金は精錬され純度が高められます。ゼカリヤはそれを例として、神が人を精錬される、と預言しました。しかし、神の精錬の目的は人間の純度を高め、浄化する事ではありません。ゼカリヤは最後に神の精錬の結果を次のように表現しています。「彼が我が名を呼べば、わたしは彼に答えて「彼はわたしの民」と言い、彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう。これは麗しい関係を表していますね。神の精錬の目的は、神と人間の関係回復にあります。神は人とエデンで共に住めなくなった原因、神を信頼しない心を人から取り除いて、その奴隷にならないように、それから完全に解放して、神との関係を回復される、そう言うことが将来必ず起こる、とゼカリヤは預言しました。

★先週、イエスは最後の晩餐の前に非常にキツイ言葉を弟子たちに言われた、と聞きましたね。皆さん覚えていますか。「人の子を裏切る者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」。なぜこんな言葉をおっしゃったのでしょうか。その時イエスは感づいておられました。エデン以来待ち望んで来られた、神と人間の関係が今や実現しようとしていました。ところがこの計画を破壊するのが裏切りです。だからこのようなキツイ言葉が口から出たのではないでしょうか。それ程に重要な時を迎えていました。金属の精錬で不純物が現われるよう、人の精錬ではこの裏切りがまず現われました。ユダはイエスを引き渡しましたが、「たといみんなが躓いても、わたしは躓きません。たといご一緒に死ななければならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と、言い切った弟子たちがイエスを見捨てて逃げました。残ったペトロも三度イエスのことを知らないと言って立ち去りました。羊飼いイエスの羊、弟子たち全員が散ってしまいました。

★しかし、精錬は続けられ、色々なものが現われます。裏切りの次は武器を使っての無防備なイエスの逮捕、不正な裁判、侮辱、十字架。先週紹介しましたシメオンの言葉通り、これらは皆多くの人の心にある思いの現れでした。そして最後に、そういう思いを起こさせて人間を支配するものが、人間を奴隷にするものが、神と人の関係を破壊するものが、今まで隠れていたものが、姿を見せませんが現れます。聖書はそれを罪といいますが、それが肉体を持つイエスを覆い、死をもたらします。
★神が愛する独り子イエスをマリアから人間として生まれさせたのは、まさにこの時を迎える為でした。この時イエスは叫ばれました「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」。罪はイエスの肉体を死に至らせ、三日目には腐敗に向かわせ、もはや手の届かない所、陰府へと連れて行きました。そして罪が人を死に至らせ、いつもしている様に勝利の宣言をした時でした。神は天より力を下し、イエスを覆う罪に致命傷を負わせ、イエスを復活させ、死人の中から引き揚げ、罪に支配されない完全に解放された新しい命に生きる道を開かれました。
★皆さんは全員母の胎から同じく生まれました。イエスも私たちと同じように母の胎より生まれて下さいました。その目的はわたしたちでも歩める、新しい命に生きる道を開くためでした。だから、イエスは28節でこれから散らされる弟子たちに言われました。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」。これはイエスが私たちを羊飼いの様に先導されるということです。イエスの十字架と復活によって開かれた、新しい命に生きる道を進みましょう。まず、神の前に立って下さい、神はそのあなたをまず喜んで受け入れてくださいます。イエス・キリストの十字架と復活によって開かれた道を進んでください。神のリメイクが始まります。服のリメイク作家と同じように、神も思っておられます。「リメイクは新しい命を吹き込むようなもので、楽しくてやめられません」。私たちの教会は、キリストの教会、神の教会です。教会には色々な楽しみがありますが、このリメイクの楽しみを忘れてはなりません。

2022.08.14
「必ず神の救いがある」マルコによる福音書14章12~26節


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 ★今年の19日よりマルコ福音書1章から語ってまいりましたこの福音書は、イエスが都エルサレムに向かって行かれることに焦点を当てて綴られました。11章でやっと都エルサレムを目前にしますが、その手前のベタニア村のシモンさんの家に泊まり、そこからエルサレムへ日帰りで何回か通われました。その最初の日と、最後の日にイエスは非常に意味深長なふるまいをなさって、都エルサレムでこれからご自分の身に何が起こるのかをデモンストレーションなさいました。まず最初の日のことからお話ししましょう。11111節を参照ください。その後で、今日の聖書箇所、最後の日のことをお話しします。
 ★イエスはベタニア村に入る前、二人の弟子を次のような指示を与えて使いに出されました。村に入るとすぐにつながれている子ロバを見つけるから、それをほどいて連れて来なさい。もし問われたら、「主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります」と言いなさい。イエスの言われた通り、二人は子ロバを連れてイエスの所に戻って来ました。不思議でした。イエスはその子ロバに乗ってエルサレムの町に入ろうとすると、多くの人が自分の服や、葉の付いた枝を切って来て、イエスが通る道を作り、そして、後ろから前から「ホサナ、ホサナ(今救いたまえ)」と大声で叫びました。まるで神殿の主を迎えるような光景でした。そして、イエスは神殿の中に入って行かれました。
 ★既に預言者は伝えていました。神が神殿から出て行かれたが、また将来必ず帰って来られる。また、高ぶることなくロバの子に乗ってエルサレムに来られると。エルサレムに来た最初の日、イエスがしたデモンストレーションは、神殿のあるじが帰って来られた、ということでした。それも跡継ぎの独り息子が、若様が代わりに来られたのです。しかし、イエスは侮辱され、その神殿の城壁の外に排斥され、十字架につけて殺されました。この最初のデモンストレーションのことをイエスは12章で、ブドウ園を農夫たちに貸して旅に出たある主人のたとえ話で再び取り上げておられますので、ちょっと読んでみましょう。
 ★収穫の時に成ったので、ブドウ園の収穫を受け取るために、僕を農夫たちの所に送った。だが、農夫たちは、この僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰した。そこでまた、他の僕を送ったが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱した。更に、もう一人を送ったが、今度は殺した。そのほかに多くに僕を送ったが、ある者は殴られ、ある者は殺された。まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』といって、最後に息子を送った。農夫たちは話し合った。『これは跡取りだ、さあ、殺してしまおう。そうすれば、相続財産は我々のものになる』。そして、息子を捕まえて殺し、ブドウ園の外に放り出してしまった。そしてイエスは旧約聖書の詩編118篇の2223節に書かれていること、『家を建てる者の退けた石が、隅の親石となった』が今、ご自分に於いて実現しようとしていることを示されました。実はロバの子に乗ってエルサレムに入った時に群衆が『ホサナ・・・』と叫んだ内容は、同じ詩編118篇の25-26節だったのです。不思議ですね。皆さん、イエス・キリストは親石です。あなたの人生と言う石造りの家の親石、すなわち隅の要石、キーストンです。
 ★さて、今日の聖書朗読は、イエスがエルサレムに来られた最後の日の所です。それは最初の日と非常に似た形になっています。ここでもイエスはある指示をして二人の弟子を使いに出されました。都エルサレムに入ったら、水瓶を運んでいる男に出会う。そして、その男が入って行く家の主人に次のように言いなさい。「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています」。すると、席が整って用意のできた二階の広間を見せてくれるから、そこに、わたしたちのために過越の食事の準備をしておきなさい。そしたら、イエスの言われた通りだったのです。不思議ですね。そして、過越の食事の中でイエスは、ある特別の行動を通して、これからエルサレムにおいてイエスの身に何が起こるのかをデモンストレーションされました。
 ★さて、その話をする前に、ここで過越の食事のことについて説明します。141節に過越祭と除酵祭とありますように、この祭りはセットで行われ、『必ず神の救いがある』という事を確認するのがこの祭りの目的です。この祭りは一つの体験から始まりました。神がエデンから出て行った人間を救う計画を立て、具体的にアブラハムというひとりの人を選んで、彼の子孫を通して救いの実現に向けて進まれた時に、その子孫がひどい飢饉に遭い難民になりました。神は彼らを導いてエジプト帝国に助けられました。神がエジプトで彼らを祝福されるので彼らの人口がどんどん増えたので、王は彼らの人口増加を恐れ、抹殺計画を立てました。手始めに奴隷として過酷な強制労働で彼らを苦しめ虐待しました。そしてとうとう、彼らに生まれた子が男子なら殺し、女子なら生かすという政策を実行に移しました。このままでは、神の救いの計画の担い手だった彼らが消滅させられ、その計画は途中で終わってしまいます。そこで、神はモーセを立てて、エジプト帝国から彼らを解放して、神の救いが必ずある事を明らかにされました。
 ★それを機に、神は救いの計画のギアを一段上げられました。エジプトから解放されて旅人となった彼らのテントと共に、神はご自分専用のテントを張らせて、彼らと共に旅をして、この旅人の集団を神の民とされ、彼らを通して全ての人に救いをもたらす計画に入られました。その時に神は今回彼らが体験した絶体絶命のエジプトの奴隷からの解放を再現する、過越祭と除酵祭を毎年開いて、『どのような時にも必ず神の救いがある、神に信頼せよ』という約束を子孫に伝え続けるように命じられました。
 ★ここで、彼らがどの様にして解放されたのか、もう少し詳しくお話しします。神はエジプトの全ての家、王の家も民の家も、全て家の初子の命を取り上げる使いを天から下され、王は奴隷だった彼らの解放を認めました。彼らは事前に各家で小羊を料理して食べ、その血を家の入り口の両柱と鴨居とに塗り、天の使いはその家の前を過越したので、彼らの初子の命は助かりました。その経験を再現するために過越祭では各家庭ごとに小羊を料理して食べました。また、奴隷から解放されてエジプトから旅立つのですが、急いでエジプトを離れなければならないので、食料としてのパンは酵母で発酵させる時間の余裕が無いので、酵母を除いた除酵のパンを焼いて出発しました。それで酵母を入れないパンを食べる除酵祭としました。出エジプトした人々の子孫は約1200年間この祭りを毎年守って来ました。イエスもその子孫の一人としてお生まれになりました。各家庭で家族全員集まり、年に一度、小羊料理という贅沢、しかしパンはいつものふわふわパンではありません。子どもたちは不思議に思い「なぜこんな食事をするのですか」と質問します。それに答えて家長がなぜ小羊の贅沢な料理と、美味しくないパンを食べるのかの説明をして、祭りの度に神の救いが必ずあることを家族みんなで思い起こしました。
 ★さて、使いに出された二人の弟子は、小羊の料理と、酵母を入れないパン、そして飲み物のワインを準備して、家族ではないのですがイエス一行の過越しの食事が始まりました。子どもがいたら、食事中「なぜこんな食事をするのですか」という質問から、家長のスピーチが始まりますが、それはありません。しかし、子どもの頃に家族と共にとった食事を思い起こす和やかな食卓だったでしょう。ところが突然イエスが、今過越の食事を共にしている弟子たちの一人の裏切りを予告され、雰囲気は一変しました。弟子たちは心を痛めて「まさかわたしのことでは」と、代わる代わる言い始めました。裏切ろうとしていたのはイスカリオテのユダなのに、なぜ全員がそう言ったのでしょうか。その可能性があるからです。
 ★クリスマスの後、マリアとヨセフがエルサレムの神殿に幼子イエスを連れて来た時に、シメオンというおじいさんが彼らを祝福して、イエスが、多くの人の心にある思いが露にされ、反対を受けるしるしとして定められていることを伝えました。従って来た十二弟子の心にも、イエスを裏切る可能性がありました。皆さん、人には自分の願い通りにならない不自由さ、何かに支配され奴隷状態である面があります。だから弟子たちは代わる代わるに「まさか・・・」と言い始めました。そして、イエスは最後に極めつけの言葉「生まれなかった方が、その者のために良かった」までその時におっしゃいました。神の救いは必ずある、ということを思い起こすはずの過越の食事でしたが、めちゃくちゃ、という感じになったでしょう。しかし、あえてその時をイエスは待っておられたようです。そんな状況の中でイエスはこれからエルサレムにおいて、ご自分イエスの身に何が起こるのかをデモンストレーションされました。
 ★食卓のパンを手に取って、祈りを唱え、それを裂いて弟子に与え、「取りなさい。これはわたしの体である」と言われました。これはご自分の体が裂かれ死ぬことです。それから、杯を取り、祈りを唱え、皆にそのワインを廻し飲ませて言われました。「これは、多くの人の為に流される、わたしの血、契約の血である」。これもご自分が血を流して死ぬことです。飯塚教会の聖餐式は、今皆さんに礼拝前に事前にパンと杯のセットを配っています。そして、司式者の私だけが大きなパンが用意されています。パンを縦に裂くのを皆さんに目立つよう、縦長に焼いてもらっています。本当はその裂いたパンを皆さんに配って、「これは、あなたのために裂かれたイエスの体、取りて食せよ」と言い、もっと色の赤いブドウ汁の入った杯を皆さんに配って「これは、あなたのために流されたイエスの血、取りて飲め」と言いたいところなのです。
 ★過越の食事の時に、体が裂かれ血が流されるのは小羊です。かつて小羊の命が献げられ、エジプトの奴隷からの解放が始まり、エジプトから離れシナイ山に着いて、神の民とされる契約に与り、神と共に歩む旅、信仰の旅が始まりました。
 ★これからエルサレムで、神の独り子イエスの命が多くの人のために献げられます。このパンと杯に与る者に、心を支配して奴隷状態にしているあらゆるものからの解放が始まります。そして神との新しい契約に与ります。『はっきり言っておく、私はもはや皆さんと一緒にこの様に杯から飲めません。死ぬからです。しかし、死んで復活して天の父なる神の右に座り、時至ってこの世が終わり、神の国をわたしがもたらす、その終わりの日には、皆さんと共に、新たな祝宴の杯として頂くのを楽しみにしている』。イエスはそんな思いをこの最後の夜の過越の食事の締めくくりの言葉となさいました。
 ★ユダの裏切りから始まって、他の弟子はイエスを見捨て、ペトロは逃げなかったが三度イエスを否むという、弟子だと言うが、実は罪の奴隷だった彼らでした。皆さん、私たちもこの弟子たちと同じですね。しかし、イエスは最後の夜の過越の食卓で、はっきり宣言なさいます。『たとい、あなたがわたしを裏切っても、それでも、あなたがたには神の救いは必ずある。わたしが来たのは正しい人を招くためではなく、は罪人を招くため、神の家族に招くために来たのである』と。お祈りしましょう。

2022.08.07
「天からの秤」マルコによる福音書14章1~11節


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★皆さんは目に見えないものを持って生きています。心でも、価値観でもありません。それは人間のもっと奥深くにあるものです。私はこんな体験をしました。ある教会に入って、聖堂の奥に進む途中、天秤を持った天使の像が壁に飾ってありました。それを眺めている時に、「あなたは今、どんな秤を持って生きていますか」、と問われているような気がいたしました。皆さん、実は人間のあゆみが始まる前に、この秤のことで一つの事件が起こりました。

★エデンという所で、人間が神と共に歩み始めた時に、神は食べてはいけない実がなる善悪の知識の木を一番目立つ中央に生えいでさせられました。それには理由がありました。神は人間を神と向き合って、真実に応答し合う、信頼し合う、すなわち愛し合う者に造られたからです。愛は強制しません。また強制もされません。色々な影響や誘惑を受けますが、その中で食べてはいけないと戒めた木の実を人間が食べるか、食べないか、それを選ぶ自由を神は人間に与えられました。食べたら死ぬと神は戒められたが、そんなことはない、目が開け神の様になれる、賢くなれるという誘惑に従って、人間はそれを食べて、自分で善悪を知る、すなわち自分の秤を持って生きて行く道を選びました。しかし思いも寄らない結果となりました。神と共に生活できなくなり、大地も呪われ、エデンから出て行かなければならなくなりました。エデンでの神と人間の生活は始まってすぐ、この様に中断してしまいました。

★この様にして私たち人間のあゆみは始まりました。自分の秤で歩み出した人間に色々と問題が起こり、ある時とうとう人間を造ったことを後悔し、この地上から洪水でぬぐい去ろうと思う程に、地上は人間によって悪が蔓延しました。しかし、神は今にも沈みそうなノアの箱舟を見て、思い直し、「こんなことは二度とすまい」と誓い、新たな思いで人間と寄り添って歩み続けてくださいました。神は一人の人アブラハムを選び、その子孫を祝福し、その子孫を神の民として特別に選び、エデンで中断した神と人間が共に生活することを再開されました。神は天からの秤を彼らにモーセや預言者を通して長年示し続けられました。しかし、彼らは天からの秤を受け入れず自分の秤で歩み続けました。そしてとうとう神の方が神殿から出て行かざるを得なくなり、神と共なる生活はまた中断してしまいました。

★そこで神は最後の手段を実行に移されました。それは神の愛する独り子イエス・キリストを彼らの子孫の一人の人間として生まれさせ、自ら天からの秤をもって彼らの只中で生きて、神がどんなに人間一人ひとりを愛しているか、祝福しようと願っておられるかを示す事でした。ところがキリストは苦しめられ、捨てられ、十字架につけて殺されます。今日読んでいただいた新約聖書のマルコ福音書14111節には、殺される二日前のことが書いてあります。12節では、時の宗教の指導者たちがイエスを捕らえて殺す計略を立てますが、捕らえる機会がなかなか確定しませんでした。しかし1011節で、彼らに思いも寄らない絶好の機会が与えられます。弟子の一人だったイスカリオテのユダがイエスを引き渡すと申し出たのです。
 
★『イエスさま、シモンの家で食事をしている場合ではありませんよ』、という状況でした。そんな状況であることも知らないで、らい病人シモンはイエス一行を食事に迎えました。弟子たちも知りませんでした。もしかしたらユダはこの時イエスを引き渡す取り引きを祭司長たちから打診され、思案していたのかもしれません。ベタニアのシモンの家はイエスたちの集まる憩いの場所でした。最後の晩餐の前夜、最後の憩いのひと時において、忘れられない思い出となる事件が起こりました。一人の女が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った壺を持って来て、それを壊し、イエスの頭に注ぎかけました。同席していた人の何人かが彼女のしたことに対して憤慨し、その無駄遣いの行為を厳しく咎めました。そして、他の誰もがそれに反対しませんでした。

 ★イエスの頭に油を注ぐことは無駄使いである。それよりも300デナリオン以上で売って、そのお金を貧しい人に施すべきだ、との判断でした。神の民とされたことを記念する過越しの祭の前日に施しをすることは、神の民に与えられているモーセの律法で勧められています。彼らの言うことは正しいです。しかし律法とは、自分を正当化する為にあるのではありません。神は律法を通して、天からの秤、神がものごとをどう量るのかを示し、人が自分の持っている秤を捨てて、その天からの秤に取り換えるようになる事を、神の御心を追い求める者となることを求めて来られました。ところが、人はなかなか自分の持っている秤と神が示される天の秤を取り換えようとはしません。外でイエス殺害の計略を練る祭司長たちも、その計略に加担しようとするユダ、そして同じ食卓に着く弟子たち、皆、相変わらず自分の秤を手離そうとしません。最後の憩いの食事の席でしたが嫌な雰囲気でした。ところが、その部屋一杯にナルドの香りが広がり雰囲気が一変しました。

 ★9節「世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう」。皆さん、この福音が宣べ伝えられる所とは教会のことです。もちろん、私たちの飯塚ナザレン教会もそこに含まれています。皆さん教会が忘れてはならないこととして語り伝えているのは何でしょうか。聖餐式で私が毎回読んでいる1コリント112326節に答えがあります。26節「あなたがたは、このパンを食べこの杯から飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。
あるいは153節「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪の為に死んだこと」、これもヒントになります。

 ★この一人の女の行為はイエスの埋葬の準備、すなわちイエスの死を示しています。実は、イエスが埋葬された後、母マリアとサロメとマグダラのマリアが遺体に香油を塗りに墓へ行きますが、神がイエスを死人の中から甦らせ天に帰還させて、神の愛する独り子、神に遣わされたメシアであったことを明らかにされました。それで彼女たちは結局イエスに香油を塗れませんでした。だから、シモンの家でこの女はイエスを葬る時に塗る香油を前もって注いだことになりました。また、それは、イエスが油注がれたメシア、キリストであることも証ししたことになりました。神はこのイエスの死において最も重要なことを私たちに表されました。

 ★それは天からの秤です。棒の左右にお皿がつるされている秤を不思議ですが天秤と言いますね。神は一方の皿にあなたを載せられます。そしてもう一方の皿にイエス・キリストを載せられます。そしたら棒は真っすぐバランスを保ちました。あなたの重さは神の愛する独り子イエスと同じ重さです。これが天からの秤です。この女はこの天からの秤で量られる体験をした最初の人です。この女の人がナルドの香油を注いだのは、彼女の秤も変わったからです。この事は世界中の教会が忘れてはならない、語り続けなければならない事です。なぜなら、イエス・キリストの教会で起こることはこの事だからです。

★皆さん、私たちはここに集まり、何をするのですか。天からの秤で量られ続けることです。そしたら、私たちの持っている秤も変わって行きます。神がエデンで始めようと計画していた、神と共に生きる道、色々中断した歴史がありましたが、それが始まります。何が起こるのでしょうか。神は人の思いを遥かに超えた計画を皆さん一人一人にお持ちです。期待して神と共に歩んでまいりましょう。
  

7月

2022.07.31
「新たな命の萌芽」マルコによる福音書13章14~36節


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 7月に入り蝉が鳴き出しました。蝉は夏の風物詩と言われます。教会の花壇の中に抜け殻をよく見かけます。城陽では羽化の瞬間に出会いました。茶色い殻の中から白っぽい成虫が出てきます。しばらくすると羽に色が着き数時間後に体の色が出てきます。この羽化にはまるで全く新しい命が生まれたような、新たな命の萌芽を感じます。

 マルコ1313節までで、イエスの十字架の死と復活と昇天の後、弟子たちは大変な迫害に会いますが、神はその事によってあらゆる民族に救いの福音をもたらすご計画であることを語られました。

 今朝の14節以下イエスは、世界の終末へと話を進められます。
19節「それらの日には、神が天地を造られた創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が来るからである。」とあります。数年前の九州豪雨災害の時、「未だかつて経験の無いような災害の危険があります。厳重に注意をしてください。」と気象庁が発表しました。しかしその発表以前に、既に水位が危険な高さに達していたという報告がされていました。気象庁は膨大なデータを解析しているのですが、安全を確保できる間に危険を知らせることが出来ませんでした。終末とは、それに似ています。
14節に「憎むべき破壊者」とあるのは、終末にはしるしや事前の警告すらない事を言っています。

 21から27節の所で、終末には偽メシアや偽預言者の出現、また天の万象の異変が語られます。しかし、重要なのはそのことではありません。それよりも27節の「人の子は、御使いたちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」とある、このことが重要なのです。マルコは838節p78で、「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来る」とあります。これは、人の子が来られる時は、神の最後の審判の時だと言う事です。ですから、終末とは神の最後の審判の時です。そのとき、人の子はご自分の民を集められるのです。27節が伝えているのは、終末に天の万象や偽預言者の出現に心騒がせなくていい、イエスがご自分の民を集められることに信頼して、平安を得ていなさい、という励ましです。今朝、私たちはこの励ましに注目しましょう。
 
そして、28節「いちじくの木から教えを学びなさい」とあります。私たちはいちじくが葉を付けるともうすぐ夏だと知ります。この例えは、イエスを信じた者に救いの完成が近いことをしめしています。終末は目に見える現象に恐れおののく日ではなく、救いの完成が近い事を喜ぶ日なのです。
イエスに出会う前、この事を知りませんでした。歴史は終末に向かって確実に進んでいます。しかし、それは救いの完成に向かって進んでいるのです。この事を知って生きる者は、新しい命に生かされています。イエスの十字架と復活に救いがあると信じ、終末の救いの完成を見据えて生きる者は、新しい命の萌芽を経験しているのです。

終末が何時か?その時何が起こるか?に関心が行きがちですが、それが重要なのではありません。32節にあるように、それは神だけがご存知です。 大切なことは、3335節のことですね。終末がいつ来ても良いように、信仰の目をさまし、注意していることです。つまりキリスト者として忠実である事です。さてそれは具体的にどうする事でしょうか。
 それは10節です。「まず、福音があらゆる民にのべ伝えられなければなりません。」とあります。キリスト者として忠実であるとは、福音をのべ伝えることです。このことが終末に対する最大の備えです。36節「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」とあります。この主人の僕たちの仕事は、福音を伝えることです。眠っていると言うのは、それを怠っている所を見られるということです。

蝉の一生は短いと言われていますが、実は地上に出て1か月は生きているそうです。喧しいほどに鳴くのはオスの求愛だそうです。成虫のメスが木の幹に卵を産み、卵から7孵化(ふか)した幼虫は天敵から身を守る為に地中にもぐり、木の根から樹液を吸って成長するそうです。地中に潜っている期間は、短い種類で3年、長い種類で17年だそうです。全種類を平均すると7年になるので、一般的に7年間地中に潜っていると言われているようです。木の根の樹液は、幹の樹液より栄養が薄いそうです。ですから、蝉は成虫になるために随分長い時間地中にいるわけです。幼虫が羽化して完全な成虫になる様子は、救いの完成を連想させます。地中に潜っている期間(幼虫時代)は、他の昆虫と比べると遥かに長いです。その間、幼虫はひたすら樹液を吸って神の時を待ちます。それを怠れば、成虫になる日を迎えることが出来ません。
キリスト者は救いの完成の日を待ち望む者です。それまでの日々は、ひたすらキリスト者として証をする期間です。蝉の幼虫は地中で天敵から身を隠して、ひたすら成虫になる時を待ちますが、私たちは地上で福音をのべ伝えて、救いの完成の日を待ちます。天敵から身を隠すのではなくて、キリストの愛から引き離そうとする天敵と闘いながら、地上で生きます。でも福音をのべ伝えることは特別な事を意味しません。

マタイ25:21「忠実な良い僕だ。よくやった。おまえは、少しのものに忠実であったから。」とあります。福音をのべ伝えるとは、日々を忠実に生きると言う事でしょう。
使徒パウロはフィリピ3:13「私自身は既に捕らえたとは思っていません。・・神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」と言っています。また目標を目指して協議をする選手と同じです、とも言っていますね。陸上選手はゴールのテープを目指して走り抜けますね。コースの途中でやめると失格です。キリスト者は救いの完成の日がこの地上のゴールです。私たちは、救いの完成を目指しているのです。キリストを信頼して、ゴールのテープを切るまで忠実に生き抜きましょう。

2022.07.24
「人の目には小さい事」マルコによる福音書12章35~44節


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 35節以下でイエスはご自分のことを証されます。
「どうして律法学者たちは『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と、人々がキリストをダビデの子と呼んでいることを取り上げて、ご自分を証しておられます。「ダビデの子」という呼び方には、ローマ帝国からユダヤ民族を解放する人物、ユダヤ社会を、ダビデ王国として再興する人物という意味合いがあります。
また、民衆にとってイエスは病人を癒し、悪霊を追い出す権威を持つ方という意味合いもあったのでしょう。
しかし、イエスは37節まででそれを否定しておられます。「わたしはダビデの子という呼び名にある、ローマ帝国からユダヤ民族を解放するために来たのではない」と。イエスはご自分と出会うひとり一人に、それぞれに固有の関係を結んでくださる方だからです。先週はザアカイと固有の関係をもってくださいましたね。
しかし、そういう主となって下さるために成すべきことがあるのです。それは36節の「敵を足もとに屈服させる」という、最大の使命です。「敵を足もとに屈服させる」とは、どういうことでしょうか。それは、私たちの内にある罪とイエスが戦われるということです。この戦いは、パウロが言っている「罪の結果は死」、私たちを永遠の死に至らせる「死」との戦いです。そのために、キリストは来られたのです。しかしそれは、人の目には分からないことでした。

さて、38節から40節までの箇所をちょっと横に置きまして、4144節の箇所に、私たちは目を転じてみましょう。

イエスはご自分の戦いの険しさに思いを馳せられたのでしょうか。閉じた目を開けて、顔を上げてご覧になると、そこに献金箱に献金を入れている人たちが見えました。その視界には対照的な姿が入って来ました。金持ちたちと一人の貧しいやもめです。
貧しいやもめはレプトン銅貨を二つ入れました。皆さんのよく御存じのデナリオン銀貨1枚とレプトン銅貨128枚で同額です。1デナリオンは一日の賃金に相当しました。ということは、レプトンは100円ぐらいでしょうか。

一日の賃金の128分の二ほどのレプトンを捧げたやもめに、主は目を留められます。当時のユダヤで使われたお金の最小のお金であるレプトン銅貨。それを捧げる女に目を留められるイエス。

 神殿の献金箱は全部で13個あったそうです。それはラッパのような形をしていました。多く入れる人の献金は大きな音がしました。その音にやもめの献金はかき消されました。
そんな状況ですから、ユダヤのレプトン二枚は、イエスが目に留められなければ、誰の目にも留まらない出来事でした。
 レプトン二枚の献金は、人の目には小さな事です。この事は私たちに何を示しているのでしょうか。
 
イエスの十字架の死、それは大ローマ帝国の人々からみれば、無名の一人の男の死です。田舎町ナザレの大工ヨセフの息子です。処刑されたゴルゴダの丘は、城壁の外に有ります。レビ記によれば、奉げ物の中で罪を贖うために焼く部位以外は、城壁の外へ持って行きそこで焼くと決められていました。ゴルゴダの丘は城壁の外に有ります。ですから、ゴルゴダの丘での処刑は、捧げ物にもならない、全く見捨てられたものを示しています。イエスの十字架の死、これも人の目には小さな事でした。

レプトン二枚を投げ入れる女に、イエスはご自分を重ねておられたのではないでしょうか。

さて、英語の聖書は献金と言う言葉を、ギフト、と表現しています。贈り物、或いは、与えるものとも言えます。
44節に「あり余る中から」捧げた人と「乏しい中から」捧げた人と、金持ちとやもめの女を表現します。後者の方を、英語では「必要なものの中から」と言っています。そしてそれは「生活費の全てだった」とあります。シュバイツアーは「彼女は、この行為によって、自分自身および一切の保障を手放し、神の憐みの中に自己をすっかり明け渡した」と言っています。
それで、イエスは「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」と仰たのです。
献金が献身のしるしと言われるのは、神の憐みに依り頼むことを意味しているからです。

初めに、38節から40節を横に置きましたが、そこには律法学者たちの見せかけの上辺だけの信仰が示されています。徹底的に捧げた女と対比して、弟子たちに献身を促されます。

イエスは神の御子としての栄光を捨て、私たちのギフトとなられ、徹底的にご自分の命を捧げ、与え尽くしてくださいました。何のためでしょうか。
ヨハネ31617節、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」とあります。
 レプトン二枚を捧げた女の示すものは、私たちのためにご自分の命さえ惜しまずに捨てて下さった、イエスの愛の姿です。それは人の目には小さな事でした。しかし、神はその出来事を、地上の全てのいのちに救いを与える光り輝く希望とされました。

2022.07.17
「神のものとして生きよう」マルコによる福音書12章13~17節


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 イエスのところに、ユダヤ社会の権威者たちの下から数人の者たちが送られてきます。彼らは「皇帝に税金を納めることは律法にかなっているでしょうか。かなっていないでしょうか」と質問します。皇帝というのはローマ皇帝です。戦後、沖縄がアメリカの支配下に置かれていたのと同じように、ユダヤ社会はローマ帝国に支配されていました。ここで言われている税金は人頭税と言って、個人の能力に応じて要求されるものではなく、無職の人にも子どもにも課せられる税金のことです。ですから、ユダヤ人にとっては反感が大きかったのです。パリサイ派はこの立場になります。もう一方のヘロデ派の人がいます。ユダヤを治めるヘロデ王の家来です。相反する立場の人たちが来て、この質問をしたのです。イエスがこの税は「悪税だ」と答えるなら、ローマに対する反逆罪となり、「治めよ」と答えれば民衆を失望させることになります。この質問には、そういう背景があるのです。さて、イエスは何と答えるのでしょうか。
 
 15節「デナリオン銀貨を見せなさい」とイエスはおっしゃいます。デナリオン銀貨というのは、その当時ユダヤで使われていたローマ帝国の通貨です。
イエスが「デナリオン銀貨を見せなさい」と言われたことは、質問者には思いもよらない、想像を絶することでした。

 使徒パウロはこう言っています。ローマ137節「貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。」
イエスは持ってきた銀貨を見せて「これは誰の肖像と銘か」と尋ねられます。彼らは「皇帝のものです」と答えます。確かにそこには当時の皇帝ティベリウスの肖像とラテン語で皇帝ティベリウスと名前がはっきりとしるされてあります。そしてイエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、地上のルールと秩序は守るべきものであることを教えられました。質問した彼らは一言も言い返すことができませんでした。

 さて、「神のものは神に、返しなさい」、このことをもう少し考えてみたいと思います。
デナリオン銀貨には時の支配者である皇帝の肖像が入っています。これは、この通貨を使うものは、皇帝の支配下にあるということですね。
創世記127節は神が人を造られた時のことを伝えています。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって人を創造された。」とあります。
神にかたどってというのは、私たち人間には神の像が入っているということです。神の愛と保護を受ける存在、神と共に生きる存在として造られたのです。それが「神のもの」ということです。17節の「神のものは神に返しなさい」とは、「神のものとして生きよう」と言うことです。目の前にいる彼らに、屁理屈を言っていないで、あなたがたが神を愛していると言うのなら、神のものとして、善と愛を追い求める生活を送りなさい、と言われたのです。

 イエスに出会って、神のものとなった人がいます。それはザアカイです。彼は人々から税金を取る徴税人の頭でした。ある日、イエスが自分の街にやって来るというので、ザアカイもイエスに会いたいと考えました。しかし、背の低い彼は群衆の中に入ってしまうとチャンスがないと思い、いちじく桑の木に登ります。イエスはそのことを御見通しで、その木のところに来ると「ザアカイ」と彼の名前を呼び、その日は彼の家に泊まられたのです。イエスとの時間はどんなものだったのでしょうか。ザアカイは人々の嫌う徴税人ですから家族もなく友達もなく、孤独な人でした。希望の無い人生でした。ところが、その夜彼が変わったのです。善と愛を追い求める人に変えられたのです。自分に神のものとしての神のご計画があることを知ったからです。

ローマ1136節「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているからです」とあります。全ての人が神のかたちを刻まれて、いのちをいただいています。神のかたちを刻まれているというのは、善と愛を追い求めるためです。しかし、時に人はその道を外すことがあります。ザアカイも人生に失望する経験をしましたね。成りたくてなった訳ではない税金の取り立てという仕事でした。面白くない日々が続き、不当な税金の取り立てはエスカレートし、益々人々の憎しみを買い、不のスパイラルの中に閉じ込められていたのです。キリストは人の罪の身代わりとして、十字架による贖いのためにご自分が来たことを伝えられました。ザアカイの犯した罪の罰を身代わりに受け、キリストが彼を罪から解放すると知ったのです。キリストは彼に神に立ち返り、神のものとして生きるように、彼を導かれ、彼は変えられました。皆さんも、このような経験をしておられますね。罪の形は違うかもしれません。神のことなど全く考えたこともなかったとか、神を無視して生きてきたとか、ですね。しかし、キリストと出会って変えられましたね。

使徒パウロは神のものとしての生き方を次のように言っています「誰に対しても、悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うよう心掛けなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、わたしが報復する』と主は言われると書いてあります。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。」
私たちは、どのような状況の中に生きているとしても、この人生(いのち)は神から発し(神に与えられたものであり)、神によって成り(支えられており)、神に至る人生(いのち)なのです。
今朝もう一度、神のものとして生きるよう勧められています。私たちは、神のものにふさわしく善と愛を追い求めていきましょう。キリスト者になってからも、それにふさわしくない日があったかもしれません。今それを告白し許していただいて、癒していただきましょう。そして、今からの時を、神の中に生きていきましょう。私たちは水槽の中を生きる小さな魚です。この水槽は神の愛の水で満たされた水槽です。その水の中を泳ぐ魚です。そこにはいつも世話をする神の大きな愛の手が存在します。この神の愛を今朝もしっかりと受け取って、ここから出ていきましょう。

2022.07.10
「キリストは隅の親石」マルコによる福音書12章1~12節


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 私たちは、自分の人生は自分のもの、自分で築き上げたと考えますね。「私の人生、私の自由にして何が悪い」と考えます。しかし、そうでしょうか。自分のものである人生のはずなのに、自分の思い通りにならないのが人生ですね。

 私たちの人生は、このぶどう園の農夫の様に主人から貸し与えられたものです。「ある人」と言うのは神様の事です。この主人(ある人)はぶどう園を農夫たちに貸して、旅に出かけました。「旅に出かけた」というのは外国に出かけたという言葉が使われています。神様が外国に出かけるとは、地球以外の星にでも行かれたのでしょうか?かなり長い時間と言う事でしょうね。ですから、農夫は主人からぶどう園を借りている事自体を忘れてしまったのでしょう。

 聖書の中ではユダヤ人は特別です。主人は、旅先から彼らにだけは預言者と言う人を送って繋がっていて下さいました。にもかかわらず、預言者の忠告に耳を傾けませんでした。彼らは主人である神を知っていながら、神として崇めませんでした。それどころか、神からの借り物である人生を自分の物としました。

 この例えは実際のユダヤ人の歴史を伝えています。歴代下2419-21節では、神から遣わされた僕を殺しました。それでも、神は幾度も僕を遣わしました。ネヘミヤ930-31節。

 6節「まだ一人、愛する息子がいた。『わたしの息子なら敬ってくれるだろう』と言って、最後に息子を送った」ここはこういう歴史の後で、イエスが最後の使いとして遣わされた事を伝えています。神の最後の情けと憐れみ、それがイエス・キリストです。それなのに、殺してぶどう園の外にほうり出してしまいました。彼らは最後まで自分の都合の良いように行いました。 6節は主人の最後の情けと憐れみです。最後まで農夫たちを信じた主人を現しています。これは愛と言い換えられますね。それでも、農夫たちは自分たちの都合のいいようにします。そのようにして主人の愛を踏みにじります。

9節で、イエスは言われます。「このぶどう園の主人はどうするだろうか。戻ってきて農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」と。あなたがたこそ、まず自分がこのぶどう園の農夫だと言う事に気付くべきではありませんか、と仰います。
 イエスはユダヤ人の指導者たちを見捨てようとしておられるのではありません。また、ギャフンと言わせたいと思っておられるのでもありません。それどころか、しっかり神に繋がり直しなさい、神の愛に立返りなさい、と願っておられます。このことは既にクリスチャンになっている私たちにも、神に確り繋っていますか、神が求められることに的外れに成っている所はありませんか、自分を吟味することを忘れないようにしましょうと言われているのではないでしょうか。
みなさん、そんなイエスの言葉にもう一度注目して下さい。
10節「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」これは詩篇11822節の言葉です。詩篇118篇は神殿、神の家の歌です。ですから、家を建てる者とは神の家を建てる者の事です。

 熊本の地震で熊本城の石垣が崩れたのを見て、大変ショックでした。しかし、角の石が崩れなかったですね。角の石が残ったというのはそこが強いからです。この石によって他の石との力のバランスが取られて組み合わされているからではないでしょうか。石垣の角の部分を「隅石」と呼びます。江戸時代には算木積み(さんぎづみ)という積み方が考えられ角の強度が高められたそうです。「隅石」の強度が増せば、石垣の安定感が増します。熊本城の石垣は「武者帰り」という更に敵の攻めに強い構造にされています。
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」捨てられた石とは十字架につけられたキリストのことです。神は私達が捨てたキリストを復活させ、私達の救い主と定め『あなたが捨てた石を隅の親石(あなたの救いの石・希望の石)とした』と宣言されます。
親石とは、要石とも訳せますが、上に乗る建築物に対する重要な石です。つまりキリストは隅の親石です。私たちの人生をこの親石の上に建てると言う事は、最強ということです。

 初めに言いましたように、私たちは人生を自分の好きなようにしているようですが、しかし現実は思い通りになっているでしょうか。この世が与える平安は、無病息災、家内安全、商売繁盛という、人生の嵐や困難が無い状態です。しかし、嵐や困難なことが起こればその平安は失われます。それに対して、キリストが与える平安は外面的に嵐や困難が起こっても保たれる平安です。私たちの敵は沢山あります。病気、仕事の問題、家庭の問題、経済の問題、そして最も手ごわいのが私たちの内面にある罪の性質です。隅の石の組み方で石垣の強度が増しましたね。キリストという隅の親石に繋がることは、人生の難問を平安へと導かれるお方に繋がることです。最も手ごわい罪の性質から解放してくださるのもキリストです。 キリストをあなたの人生と言う家の隅の親石に据えて下さい。飯塚教会という神の家の隅の親石もキリストです。キリストによって人生も教会も完成します。キリストによって神としっかり繋がります。
 最後に隅の親石は全ての石と組み合されます。石垣の表面は大きめの石ですが、中は小さな砂利です。神のご計画は、色々な石を組み合わせて成長させ、聖なる宮である教会をまた私たちを形成する事です。詩篇11823節「これは主のなさったことだ。私たちの目には不思議な事である。」キリストを隅の親石としましょう。すると、神のなさる不思議なことが、この教会で、あなたの人生で起こります。

2022.07.03
「神の愛に目覚めよ」マルコによる福音書11章12~25節


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 実のなる季節ではないのに、実がついていないのを見て、イエスはその木を呪われています。不思議な箇所ですね。弟子たちは、不思議なことを言われたのでこのことが記憶に残ったのでした。
聖書の中でぶどう、いちじくと言うのは重要なフルーツです。なぜなら、神が愛された存在だからです。それを示している箇所があります。旧約聖書のホセア書です。910節「荒れ野でぶどうを見出すように、わたしはイスラエルを見出した。いちじくが初めてつけた実のように、お前たちの先祖を私は見た」。「荒れ野のぶどう」と「初なりの実」は大変貴重なものです。神はご自分の民を「高価で尊い存在」として見ておられるのです。もう一か所111,4節「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。エジプトから彼らを呼び出し、我が子とした。わたしは愛のきずなで彼らを導き、身をかがめて食べさせた」
出エジプトした民というのは、神の民として産声をあげたような民です。お乳から離乳食、だんだんと形のあるもの、普通食となりますね。そのように神は40年の荒野の旅路を養われました。彼らを大変愛されたのです。ところが、思春期を迎え何もなかったように、人は忘れ、反抗しますね。それと同じように、イスラエルは、王国となった後、神の恵みを忘れ、神の愛に応えることが出来ませんでした。実を付けていないいちじくの木はこのことを示しています。今私たちは荒野の旅路で養われた神に、同じように養われています。この世界は神が造られました。大地の恵み、海の恵み、空の恵みに生かされていますね。それだけではありません。マタイ44「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」とありますように、神の言葉によっても、慰められ、励まされ、癒され、希望が与えられて生きています。そして御言葉の通りに生きて下さったのが神の下から来られたイエス・キリストです。今朝、神の時に目を向けよ、神がイエスをこの地上に送られたこの恵みの時に目を止めよと言われています。

イエスは神殿に入り、売り買いしている人々を追い出し、両替人の台や椅子までひっくり返して、17節でこう言われます。「神殿を強盗の巣にしている」と。
これは、神の家で商売することを憤られたのでしょうか。そうでは無いようです。
15節をよく見てみましょう。売り買いしている人々を追い出しておられます。売る側の人だけでなく買う側の人、つまり巡礼に来た人までも追い出しておられます。
イエスは、捧げ物の通貨をイスラエルの通貨に限定することや、捧げ物の規定、日常の便利さのために神殿を使う事、これら全てを否定されます。この、宮清めというイエスの不思議な行動は、何を意味するのでしょうか。
エペソ21415節にこうあります。「実に、キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、ご自分の肉において敵意と言う隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」。神殿で捧げ物が売られるのは、年に一度の過越し際の時です。この祭りは、イスラエルの民がエジプトの奴隷の生活から救い出された神の救いの時を忘れないための礼拝です。しかし今イエスは、自分が来たのだから神殿で行われている祭りは、不要になったと言われます。つまり、クリスマスとイースター、キリストの誕生と十字架と復活をお祝いしましょう、と言われます。

ヨハネ福音書では宮清めの記事に続いて、イエスがエルサレム神殿を壊して三日で立て直すとあります。三日で立て直すとは、ご自分の十字架の死と、三日目に復活されることですね。これはイエスの十字架の死によって、人と神との間の敵意が取り除かれ、そこに「平和」と「和解」がもたらされることです。
人が神から離れ、神と人との間に敵意が生まれました。人は神を無視して生きるようになりました。宮清めの行為は、イエスが「平和」と「和解」を神と人との間にもたらすために来た救い主であることを伝えています。このようにイエスは、宮清めの行動を通して、神の愛に目覚めよと示されます。

17節はイザヤ書567節の言葉です。56章は神の救いが世界中の人々にももたらされることを言われている箇所です。ここを引用されたというのは、神の宮は「全世界の人々の祈りの家」だという宣言なのです。神と人との間を平和と和解に導くイエスは、全ての人を神の祈りの家に迎えたいのです。つまり、神は全世界の人々を愛しておられるということです。キリスト教の神は、外国の神ではありません。全世界の人々の神なのです。
バチカンのセント・ピーター寺院の中庭に世界中から巡礼の人々がやって来ます。スペインのサグラダ・ファミリアも世界中の人が訪れます。観光目的の人もとても多いですね。だからでしょうか、設計を担当したガウディは巡礼目的ではない人にもキリストの福音を伝えたくて、入り口を三か所設計し、イエスの誕生の場面、受難の場面、栄光の場面としています。現在、誕生と受難のファサードが完成しています。ここに来た全ての人が神に祈りをささげる人となって欲しかったのではないでしょうか。飯塚教会も様々な国籍の方々が祈りを捧げる教会になりたいですね。教会はこの救い主イエスがおられる祈りの家です。礼拝においてイエスの救いと癒しをいただいて、生活の場へと出ていく、祈りの家です。

20節、次の日、朝早くいちじくの木の横をイエス一行が通ると、いちじくは根っこまで枯れていました。イエスは、祈りが聞かれることを弟子たちに示されたのです。
そして、神はそのイスラエルを経由して、すべての人の祈りをも聞かれることとされました。
22節「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい『立ち上がって、海に飛び込め』と言いい、少しも疑わず、自分の言う通りになると信じるなら、そのとおりになる。・・祈り求めるものはすべて、すでに得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」。すべてを神に期待し、疑わず、ひたすら信頼する祈りの力は絶大です。疑わずというのは、本当に難しいですね。てんかんの子供が弟子たちの祈りで癒されなかったことがありましたね。ひたすら、イエスに信頼するようにと教えられました。
そして祈りは、私たちを愛の行為へと向かわせます。個人的な祈りから、他者をとりなす祈りへと導きます。1コリ132節にこうあります。「あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。」
初めに、人は神の愛の対象だということをお伝えしましたね。愛の神に押し出されて私たちが祈る時、愛の行為に導かれるのは自然なことではないでしょうか。

6月

2022.06.26
「父の願い」マルコによる福音書11章1~11節


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 イエス・キリストは、神に代わってエルサレムの町に入り、中央にある神殿に入られました。神はそれを天から感無量な思いを持って見守っておられました。岩淵まことさんの曲に「父の涙」があります。その歌詞に「父が静かに見つめていたのは、愛する独り子の傷ついた姿。十字架からあふれ流れる泉、それは父の涙。十字架からあふれ流れる泉、それはイエスの愛」とあります。父なる神が感無量だったのは、この日に向かっていくイエスだったからです。

 神は天地を創造された時から、私達人間を「神と共に」生きるように造られました。神のパートナーとして生きるという事です。神が手を差し伸べられ、その手を人間が握る、そういうパートナーとして歩む人間の歴史がエデンの園で始まりました。ミケランジェロはそれを絵で表現しています(バチカン・システィーナ礼拝堂天井画)。しかし、神が差し伸べられた手を人間が握れないという事件が起きました。これが良く知られているアダムとエバが禁断の実を食べた物語です。この様にして人間の歴史が始まりました。

 しかし「神のパートナー」という計画は頓挫したのではなく続行されます。ひとりの人アブラハムを選び、ひとつの民になるまでその子孫を祝福されます。しかし、エジプト帝国下で過酷な奴隷生活にあえぐ中から神はこの民を救い、新しい歩みを始めた彼らと共に、テント生活を40年続け、約束の地に導き、祝福され、国を築く程に豊かにされました。ダビデ王はその豊かさを使ってテントに代わって神の住まいとして、石造りの神殿を建設しました。神は大変喜ばれ、ダビデ王国を益々祝福されました。しかし、ダビデ王の後の王と民たちは、神の差し出される手を振り切り、神のパートナーとして歩まなくなって行きました。神に対する反抗と頑なさに対して、神は幾人もの預言者を遣わされ、幾度も幾度も愛と忍耐を持って正されたのですが、聞く耳はありませんでした。とうとう神ご自身がエルサレムの神殿から出て行かざるを得なくなります。

 旧約聖書はこの経緯を伝えています。かつて追い出された神殿に、今、神に代わって神の独り子が入られます。その時、イエスの噂を聞いて集まった人々は、エルサレムまでの通り道に自分の上着や葉の付いた枝を敷いて、叫びました。910節です。「ホサナ(これは「救いたまえ」の意)、主の名によって来られる方に、祝福があるように。われらの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高き所にホサナ。」これは神がエルサレムの神殿に戻って来られた、という喜びの叫びでした。

さて、かつて神を追い出したエルサレムですが、今度はどうするのでしょうか。結果から申しますと、神の独り子をも追い出します。それも町の城壁の外で十字架につけるという方法によってです。神はその様な結果になることをご存知でした。それなのに、イエスをエルサレムに遣わされたのです。なぜでしょうか。何があっても、徹底的に「人間と共に生きる」という強い願いがあったからです。
 ロバの子に乗ってエルサレムに入った事は、それを暗示しています。ロバの子に乗るというのは大人のする事ではありません。子どもがする事です。丁度、大人が三輪車に乗るようなものです。ちょっと恥ずかしい、かっこ悪い事です。神殿の家主、神の息子に相応しいのは大きく立派な白馬です。ロバの子に乗るというのは神の子キリストが自らを低く低くされた、と言うことです。また、ロバは荷物を運ぶ頑強さと、雑食なので飼いやすく、病気に強く、人間に仕える家畜として優れています。ロバに乗るキリストは、ご自分が仕えるために来た事を暗示しています。

ピリピ26-8節に「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」とあります。
 神殿から追い出され、町の城壁の外に追い出され、十字架につけられ殺されても、キリストは徹底的に人間と共に生きられました。もはやテントや神殿に住むのではなくて、私達人間と一つになる所まで、徹底的に共に生きる事を選ばれたのです。ここに神の願いが完成するための三つの新たな計画が始まりました。

 第一に、神は私達を神から引き離す全てのものから、買い戻されます。私たちは何に買い取られていますか。何かに捕らわれていませんか。嫉妬、コンプレックス、地位や名誉に代表される人の目、また、憎しみ、悲しみ、怒り、・・・。私たちはこれらに買い取られています。私たちを解放するための競りが始まりました。100万、200万、・・・・1000万、5000万、1億・・・と言う風に。最後に神が叫ばれます「私の独り子イエスの命」と。この競りはその後に続くものは誰も何もありません。
 今、あなたは何にとらわれていますか。神はその独り子キリストの命を十字架で捧げ、あなたを買い戻す代金とされました。イエスはその為にエルサレムに入って行かれたのです。神が差し伸べられる手を、拒否し続ける私たちの為に。キリストの十字架に神の私達人間に対する愛が溢れています。
 
 第二に、神は十字架で死んだキリストを、死人の中から復活させて、神の大いなる力を示されました。この復活の力は、もはや何者も死さえも神と人間を切り離せない事の保障です。クリスチャンも苦労があり、病気もしますし、悩みもあり、戦いもあり、最後は死を迎えます。しかし、私達を愛して下さったかたによって、私達は、これらすべての事において勝ち得て余りがあります(ローマ837)。なぜなら神がキリストを死人の中から復活させられた力に、希望が溢れているからです。その神の力がわたしたちを生かしてくださるからです(ローマ811)

 第三に、神は復活させたキリストを天に上げられ、その代わりに天から聖なる霊を信じる者に降し、信じる者のからだを神の住まい神殿とされます。これは私たちが神の様になることではありません。これは宝を土の器の中に持っている様なものです。年をとる程色々故障が出てきますし、原因は加齢ですと言われたりします。車なら部品を変えられます、家ならリフォームできます。コンピュータやゲームならリセットして一からやり直せます。しかし、私達のからだはそういう訳には行きません。この身体のどこに祝福がどこに救いがあるのですか、と途方に暮れる私達のからだです。それが、土の器と言う事ですね。ですが使徒パウロは希望があると力説しています。1コリント619-20節「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿です」つまり、聖霊という宝をいただいているのです。だから、あなたのそのからだは精一杯最後まで生きる希望があります。
神はあなたと共に、あなたとでなければ出来ないご計画を実現されます。どんなご計画なのでしょうか。期待しましょう。喜んで神のパートナーとしてこれからも歩ませていただきましょう。

最後まで神のパートナーとして歩む者に、天国が用意されています。天国とは、神と共に本格的に生活をするその始まりです。今は神を見る事はできません。天国では神と顔と顔を見合わせます。ですから、この地上の生活はその準備期間です。 神は今日もあなたに手を差し伸べられます。神はイエス・キリストをご自分に代わって遣わされました。イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れて下さい。全ての人が神のパートナーとして歩むこと、それが父なる神の願いです。

2022.06.19
「主よあわれみたまえ」マルコによる福音書10章46~52節


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イエスはエリコに着きました。ルカ福音書はイエスがその町でザアカイという男と出会い、彼を救われた話を伝えています。
 しかし、今日読んで頂きましたマルコ福音書はエリコでは何もなかった様に、イエスの一行がエリコを出発します。そして次は目の前の山の上にあるエルサレムです。そこでは十字架が待っています。さあー、ここからは登りです。きっとイエスは先頭を勢いよく登って行かれたと思います。

 その時です。後ろから『ダビデの子のイエスよ、わたしを憐れんで下さい』という叫び声がしました。テマイの子バルテマイです。かつて後ろからイエスの着物の裾を触った女性の様に彼も必死でした。イエスは立ち止って「あの男を呼んで来なさい」と言われました。この出会いに皆さんへのメッセージが隠されています。

 この出会いは道端で起こりました。道端とは川の流れに例えると、中央の勢い良く流れている所ではなくて、水際のことです。街道の真ん中を弟子達と、イエスの奇跡を見たり、話を聞いたりした大勢の群集が、ドドッと流れて行きます。

 教会生活をしていると、そういう流れに乗っている様な、みんなと一緒に流れているという感じの時がありますね。飯塚教会のいつもの流れに乗っている、そんな安心感、居心地の良さというものがありますね。ところが皆さん、エルサレムに向ってドドッと流れる弟子達と群集の中で、あることが起こります。
「イエスさまは、今そんな水際の事なんかに目を留めている場合ではない」。そんな思いを持って、大勢の人がバルテマイをたしなめ黙らせようとしていました。その時に突然イエスが立ち止られたのです。
 50年たっても100年たっても教会が見過ごしてはならないこと、私たちが立ち止まらなければならないこと、それがここにある、この道端で起こっている。これが今日のメッセージです。

 皆さん、何が起こっているのでしょうか。イエスの話も、恵みの御業も見たことの無い、今で言うなら教会に一度も来たことの無い人が、叫び出したのです。「ダビデの子のイエスよ、わたしを憐れんで下さい」。

キリスト教会は礼拝を通して2000年間信仰を伝えて来たと言って良いぐらい礼拝は重要です。しかし、それぞれが聖書を手元に置いて行う礼拝はつい最近まで出来ませんでした。つい最近と言いましても二、三百年ということです。その代わりに建物の形や絵や彫刻、ステンドグラスが聖書の代わりをしていました。目でみたり、手で触ったり、肌で感じたりしたのです。そして耳で聞く聖書として、音楽家にミサ曲を作らせました。ヘンデルとか、バッハとか、モーツアルトのミサ曲は有名です。楽器の演奏と歌で聖書のメッセージを表現します。聖書をミュージカルにした様なものです。

その中で必ず歌われる言葉があります。ラテン語で「キリエ、エレイソン」です。「キリエ、エレイソン」は礼拝の最初の方で歌われます。これは今日の説教題の「主よ、あわれみたまえ」という意味です。
 私たちは今礼拝を捧げていますが、ここに私が立てるのは、ただ神のあわれみによってです。この教会の流れの中に私がいるのは、ただ神のあわれみによってです。今日もまず『主よ、私を憐れんで下さい』。「キリエ、エレイソン」そうみんなで歌いたいですね。皆さんこれはバルテマイの叫びから始まりました。
  
キリストに従って来た群衆が、バルテマイを叱って黙らせようとしました。なんと言う事をするんだ、と思いますね。しかし、これと同じ事を今の私達もしていませんか?と問われている所でもあるのです。私達は神の憐みによって今ある事を忘れていないでしょうか。人間はそれを忘れがちなので毎週のミサで「キリエ、エレイソン」と教会は歌って来たのです。そう歌ってきた教会ですが、その歴史を振り返ると憐みの無い事も行って来た現実があります。歌うだけでは不十分なんですね。聖霊に導いて頂いて造り変えられる必要があるのです。

 さて、バルテマイの次はイエスの言葉に注目して下さい。「わたしに何をして欲しいのか」。今日この言葉は皆さんにも語られています。私達はその反対の事「わたしは何をしたらよいのですか」を考えてしまいますね。
 エリコに着く前、17節でイエスはひとりの人と出会っておられましたね。彼はバルテマイと正反対でした。イエスに走り寄り、つまり道端ではなくて道の真ん中で、御前にひざまづいて「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。バルテマイはイエスの後について行きましたが、彼は去って行きました。ショッキングな出来事でした。
 バルテマイと彼を比較してどこが違っていたのでしょうか。彼は素晴らしいものを沢山持っていました。バルテマイは物乞いでした。彼は信仰の事は何でも良く知っていましたね。バルテマイは無学でした。しかし、これらの違いは大した問題ではありません。重要なのは「主よ、このわたしをあわれんで下さい」と言う姿勢です。

最後にもう一度この言葉に注目して下さい。「主よ、あわれんで下さい」とバルテマイが言っているのに、イエスは「わたしに何をして欲しいのか」と聞き返されました。これは「あなたの思い願い、知って欲しいこと、分かって欲しいことは何ですか」と言う質問です。ここには、イエスの慈しみと憐みがありますね。寄り添ってくださる姿があります。彼は答えました「目が見える様になることです」。盲目のままで生きる事がどんなに辛いか、イエスさまこの私の事を分かって下さい、と言う思いがこの言葉の中に凝縮されています。そして、奇跡が起こります。すると彼はイエスに従いました。

皆さん、病気が癒された。障害が除かれた。そう言う奇跡を起こしてもらって御利益を受けた場合、お礼をしたり、その人を支援したり、教祖のごとく持ち上げたりはするかもしれませんが、従うと言う事は無いと思うのです。「私に従って来なさい」とも言われていないのにバルテマイはイエスに従って行ったのです。「ああ、昔、道端でイエスに叫んだ物乞いがいたなあ」で、この出来事は終わらなかったのです。イエスが天に帰られた後、教会によってこの福音書が綴られた時に、教会のメンバーは「テマイの子バルテマイ」と言えば「あっ、あのバルテマイさんね」とみんな知っていた。聖書に名前が載っているということはそういうことです。つまり、彼はずーとイエスに従い続けたのでした。

 彼をその様に変えたのは何でしょうか。最後に一か所紹介します。ローマ916節「従って、これは人の意志や努力ではなく、神の憐みによるものです」。『熱心な信者さんですね。立派な信者さんですね』とか言われても、バルテマイは常に自分の信仰の原点を忘れませんでした。主のあわれみを受ける事からすべてが始まります。

2022.06.12
「天国への道」マルコによる福音書10章13~31節


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 ハヤブサ2が小惑星から持ち帰った物質の中に20種類以上のアミノ酸が含まれていた、というニュースがありました。「生命の根源」にアミノ酸が深く関わっていて、それが地球以外のところで見つかった、ということで注目が集まっています。今朝のテーマの「永遠の命」これは全ての人にとって大変重要な事柄ですね。

 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」とイエスに尋ねた人がいました。彼は努力家で、優秀で、人からも信頼され、尊敬され、その結果高いポストについて金持ちになりました。彼は、能力や成績や功績、富の所有、つまり人間の資質を重要視する社会の価値観をもろに受けて生きている人間を象徴しています。
 それで彼は、人の努力と優秀さによって天国に入れるかどうかも決まる、という考えのもとで、一生懸命信仰に励んで来ました。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」イエスの答えられたこれらの戒めは、誰もが知っていて守っている基本的な戒めです。「先生、私はそういうことはみな、小さい時から守ってきました」とは、もっとハイレベルの行動が必要だと彼が考えていたからです。

 彼がイエスに会いに来る前に、人々に連れられた幼い子どもが来ていました。すると、弟子達は子どもたちを叱って追い払おうとしました。弟子達は、何も差し出せない、何の業績も功績もない人を横に追いやる、人間社会を象徴しています。
 さて、二つのイエスの言葉に注目して下さい。15節「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ」。21節「あなたに欠けているものが一つある」。この言葉には共通している事があります。それは、「あなたは神の恵みを忘れていませんか」ということです。「神の恵みに注目せよ!」と警笛を鳴らしておられるのです。
 「欠けているもの」、「子どものように神の国を受け入れる」とは、イエス・キリストの恵みに目を向けよということです。信仰をしているつもりでも、信仰以外から入ろうとしている時があります。それに気付かない時があるのです。私たちは大丈夫でしょうか?弟子達は道を見誤っていました。彼らの目を覚まさせるためにイエスはショッキングな事を語られます。

 23-27節までをもう一度読みます。ここで「財産のある者」「金持ち」とは、努力家であり、優秀な人で、信仰も熱心で、神の祝福を受けて、金持ちになっている人の事です。弟子達にとっては羨ましく思う人でした。「この人こそ天国に入る資格がある」と思っていました。ところが、らくだの例えでそれが不可能であるとのイエスの言葉に、驚きのあまり弟子たちの口から「それでは、だれが救われるのだろうか」とイエスに異議申し立ての言葉が飛び出しました。
 すると、イエスは彼らをじっと見つめられました。お怒りになるのではないか、と弟子達は思ったんじゃないでしょうか。ところが27節「人間にはできることではない」と、あなたがたの言う通りだと、ガッテンされたのでした。これにもちょっと驚いたでしょうね。
 しかし、次の言葉「神には出来る」。ここが今朝のキーワードですね。すなわち天国に入るのは、人の能力や努力や功績ではなく、神がなさる恵みの業なのです。

 ただ恵みによって、これが天国への道を歩む秘訣です。
 神の前から去って行った人の話しが福音書にもう一つありますね。それはルカによる福音書15章のイエスの譬え話に登場する放蕩息子です。彼は財産を持って立ち去りました。しかし、その財産を放蕩に使い果たして失ってしまいます。彼はそこで初めて神の恵みの大きさに気が付きます。そして、神の下に帰って行きました。彼は言いました。「自分には天国に入る資格は全くない。雇人としてでも結構ですから・・・」と、ただただ恵みに頼るしかないとすがりました。ところが、神は言われたのです。「息子が帰って来た」。

 もう一人忘れてはならない人がいます。それはイエスと一緒に十字架につけられた囚人の一人です。彼は自分を救えとは言いませんでした。その反対の自分は救われない者天国などに行けない者ですが、こんな者がいた事を思い出して下さいと、一滴の恵みの注ぎを求めました。すると、イエスは「あなたは今日わたしと一緒にパラダイスにいる」と言われたのです。
 この二人に共通している事に天国への道を歩む秘訣があります。自分は何も持っていない、ただイエス・キリストの恵みによってしか、天国への道を進めない者であるという信仰です。これが、天国への道を進む秘訣です。

29節でイエスは家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てる事について語られます。ルカによる福音書はここに妻を加えています。これらは、私たちに必要なものです。小さなものではありません。非常に大きなものです。
 それをイエスの為、福音の為に捨てる者とは誰の事なんでしょうか。30節、捨てたものが100倍になって帰って来ます。そして永遠の命を受ける。先のものが後になり後のものが先になる、この逆転は天国のしるしです。天国への道を歩む者の事を言っているのです。
 なぜ天国の道を歩む者に、イエス・キリストの恵みの為に、一番大切なものを捨てる事を命じられるのでしょうか。イエスは私たちに問われます。「ではイエス・キリストの恵みの大きさはどうなのか。これらのものと較べたらどうなのか。あなたは、キリストの恵みをどう見積もっているのか?イエスの救いの十字架と復活の恵みが、捨てよと言われるもの以上のものとなっているか」と。
 今既に、神の支配の中を歩んでいる。天国への道を歩んでいる。そう信じる皆さん。私達の目に色々な問題と、希望が見えない状態が見えてきますが、それはさなぎと同じです。私たちは次のステップの準備を着実に進めるべきです。落胆してはいけません。今週も主の御後に従って行きましょう。

2022.06.05
「神のおもてなし」マルコによる福音書9章33~37節


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 イエスは弟子になったペトロとアンデレからカファルナウムにある一軒家の提供を受けられました。これから始まる忙しい日々の中で、弟子たちの休憩場所、静まりの家とされました。神の家である教会もそれと同じです。前任の教会は山崎という場所にとても近い位置にあります。山崎の合戦で秀吉に茶のおもてなしをした千利休の事を聞きました。それは戦場に急遽造られた草庵で行われました。鎧も兜も刀も脱いで、狭い握り口より、二畳という空間に入ります。戦場とは思えない静まりの時でした。湯の音、茶箋の音、一人のいのちから、対面する一人のいのちへ、静かに一服の茶が出されました。利休はこれから戦に臨む秀吉に、何を語ったのでしょうか。これを最高のおもてなしと考えていました。

 教会という神の家で頂くおもてなしも、これとよく似ています。今の自分がまとっている立場とか身分とか責任とか重荷とか、色々なしがらみがあります。その全てを脱いで、幼子の様に、静まって、落ち着いて、ひとりのいのちになれる所、そのいのちを与えた方、すなわち神からの一言を頂く所、その様なおもてなしを頂く所が教会です。

 イエスは、33節で十二弟子に尋ねられた様に皆さんにも尋ねられます「人生の道中、どんな事を考えて歩んで来ましたか」と。弟子達は「だれが一番偉いか」と言う事を考えていたそうです。それはどう言うことでしょうか。例えば使いさしのクレパス12色セットのふたを開けると、それぞれ長さが違うクレパスが並んでいます。海の絵を描く時は青を、山の絵を描く時は緑を、人物を描く時は肌色を沢山使います。『よく使われるクレパスは優れていて、あまり使われないのは役に立たない、必要ないクレパスだ』。弟子達はその様に自分を、他人を見ていました。今の世の中でも、仕事の現場でも学校の現場でも家庭でも、そういう人間の見方が増えています。

ミレーの作品「落穂拾い」には沢山の種類の色が使われています。近づいて見ると色が重ねて塗られています。「私が一番偉いんだ。私の色があなたのと重なって隠れてちょっとしか見えない。それは困る。わたしが上だよ。私が一番偉いんだ」と色同士が張り合うなら「落穂拾い」と言う作品は生まれません。神様はこの世界という大作のアーティストです。まだ完成していません。皆さん一人ひとりが生まれて、こうして生きているとは、神様の絵具箱に加えられていると言う事です。今、神様が皆さんにまず伝えたい事は、また伝えてもらいたいと願われる事は、これです。『ここに集まったいのちに、無くてよいいのちは一人もいません!』。

次に神様が伝えたい事はこれです。『幸せを求めておられる皆さん、アーティストである私に用いられる人が幸せです』。なぜなら『神様の為さる事が時にかなって美しい』からです。神様がみなさんを美しくして下さるのです。その美しさに注目して欲しいのです。「誰が一番偉いか」弟子たちはこれを論じ合っていましたね。この視点から生まれる美しさはビューティーです。神様が創られる美しさはハーモニーです。例えば歌を例にとってその違いをお話しましょう。一人で歌うアイドル歌手はビューティーを目指します。他の歌手より力強い声が必要です。かっこよくなければなりません。魅力的でなければなりません。自分を100%アッピールしないと他の人に負けてしまいます。

それと違って大勢集まって歌う合唱、例えば賛美チームはハーモニーを目指します。自分の声をアッピールするのではなくて、他の人の声に合わせます。自己アッピールではなくて、反対に他の人の声をより美しく聞こえる様に自分の声を出すのです。35節「一番先になりたい者は、すべての人の後になり、全ての人に仕える者になりなさい」。これはイエスが皆さんに神様が目指す美しさ、ハーモニーを目指すよう勧めておられるのです。

36節イエスが一人の子供を連れて来て、大人が集まる真中に立たせて、抱き上げて言われました。37節「わたしの名のために、このような子どもの一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。誰が一番偉いかと言う視点、ビューティーを目指す弟子達にとって、子どもはうるさい邪魔な存在、役に立たない不用な存在です。しかしイエスはその子どもを御自分と同一視されました。それだけではなくて、ご自分を遣わされた神様とも同一視されました。これは、誰が一番か、誰がビューティーか、仕える事ではなくて、対立や、対抗や、張合いが絶えない、弟子達、また私達に対する強い抗議のデモンストレーションです。

では、どうすれば神様に用いられ、ハーモニーと言う美しさが生まれ、幸せになれるのでしょうか。ある日、我が子の幸せを願うヤコブとヨハネのお母さんがイエスに「うちの子をあなたの右と左の座に着かせてやって下さい」とお願いした時、イエスが言われた言葉にヒントがあります。

マルコ1045節「人の子は仕えられるためではなく、仕えるために来たのである」。イエスがまずあなたに仕えてくださいます。ですから、あなたがまず神のおもてなしを受けて下さい。神のおもてなしは最初に話した千利休の極めたおもてなしと似ています。あなたが担っている全てのものを横に下ろして、幼子のごとく、ひとりのいのちとして神の前に、御言葉の前に立って下さい。イエス・キリストの十字架は、わたしたちが神の前に立つことを、御言葉の前に立つことを可能とする為に、ささげられたいのちです。後はアーティストの神様があなたを用いて美しい作品として下さいます。
神に愛された者が神と人を愛する者に変えられます。神に仕えられたものが神と人に仕える者に変えられます。神のおもてなしを受けた者が、おもてなしをする者に変えられるのです。
 

5月

2022.05.29
「キリストの許に」マルコによる福音書9章14~29節


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 ギリシャ正教会では、家庭で何か新しく購入した時、司祭さんを呼んで祝福のお祈りをしてもらう習慣があります。以前も聞かれたと思います。この習慣は、自分たちは生活のことごとにおいて、主のもとで生きるということです。それで、今朝は次の御言葉に注目しましょう。19節「その子をわたしのところに連れて来なさい」です。

 9章に入ってイエスは高い山に登り、御姿が変わり、モーセとエリヤと語り合い、雲の中から神の声がしました。その場に特別に立ち会ったペトロ・ヤコブ・ヨハネは将来、教会の指導的立場に就く人々ですね。彼らにとってそこはまるで天上にいる心地でした。遠方には山の上の町エルサレムが見えた事でしょう。御業を終えてこの地上を去る日を目指す覚悟をして、イエスはこの山を下りました。この箇所で強調されているのは、何でしょうか。それは、イエスが十字架と復活を通って天を目指される事です。つまり天と地を結ぶ事を目指されます。それで、モーセとエリヤがいるんですね。

 下山すると、そこには迷える群集と、論争に終始する律法学者、その対応で忙しくしている弟子たちがいました。ここで注目して欲しいのは、霊を追い出せないで面目を失って落ち込む様子の弟子達です。こういう流れの中での19節のイエスの言葉です。「なんと信仰のない時代なのか。いつまであなた方と共にいられようか。いつまであなたがたに我慢しなければならないのか。」という嘆きの言葉が、イエスの口から飛び出しました。

 この嘆きは、どのような思いからだったのでしょうか。同じように言って嘆かれた箇所が、もう一か所あります。それはルカ2425節です。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」とあります。復活した身体で一緒に道を歩き、同じ食卓に着き、パンを裂いて手渡されるまでイエスに気付かなかった二人の弟子たちを嘆かれました。(ここには教会の姿が象徴されている様に見えます)
ここでも、復活したイエスの身体の事よりも、イエスが天に帰られた後、天から送って下さるものの事、すなわち天と地が結ばれた事、が強調されています。

 霊を追い出すよう願ったが出来なかった結果、期待が外れて落胆する人々、力不足だったと落胆する弟子たち、その様子を律法学者たちは他人事のように見ていました。そういう地上の様子が、これから天を目指すイエスにとって、とても気がかりだったのです。

 イエスさまの思いはこうだったのではないでしょうか。「その子をわたしのところに連れて来なさい。あなたはわたしを誰だと思いますか。わたしはこの後十字架と復活を通して天と地を結ぶ者です。汚れた霊でさえ『いと高き神の子、イエスさま。いったい私に何をしようというのですか。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないで下さい』と叫んで、わたしの事を知っていていますよ(マルコ57)」。ところが、父親が「もし、おできになるものなら」と言ったものですから「できるものなら、と言うのか。信じる者には(イエスが天と地を結ぶお方と信じて、イエスのもとに連れて来る、イエスのもとに問題を持って来る、つまりイエスにおまかせする者には)、どんなことでもできるのです」。
 キリストが天に昇られた後の教会は、正に変貌の山から下りて来られた時のイエスが見られた状況、そういう中に置かれるからです。

28節、家に入って弟子たちがそっとイエスに尋ねました。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」。人目を避けた背景には、彼らの権威が関係していますね。十二弟子の任命は、悪霊を追い出す権威を持たせるものだったからです(315)。果たしてこの権威は何のために与えられたものでしょうか。イエスの答えは「祈りによらなければ」ということでした。

 6節に「弟子たちは非常に恐れていた」、10節には「死者の中から復活するとはどういうことか」と論じあった。またイエスがご自分の身に起こる十字架と復活のことを語られると32節で、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とあります。
弟子たちとイエスの関係は、どうなっているのと思いますね。先週、ペトロはイエスに「あなたはメシアです。救い主です。」と答えましたね。しかし、その信仰はイエスを嘆かせるものでした。「祈りによらなければ」とは、イエスの後について行くために、絶えず必要なのは祈りなのだ、とイエスは示されます。

 この祈りとは、熱狂的とか、霊的な雰囲気の祈りという、祈りのノウハウの事ではありません。イエスは祈るために山に登られました。独りで登られました。9章の変貌の山も祈るためだったと思います。しかし、この時は後の教会の指導的立場に就く三人の弟子を連れて行きました。祈りとは何なのかを彼らに教える為です。イエス・キリストによって天と地が結ばれている事に目を開かせて、気付かせ、その確かさを確認する、これが祈りです。

 祈りによるとは、イエス・キリストとの親しい交わり、深い交わり、とも言い換えられます。霊を追い出すのは、人間の霊力によってではありません。人間の権威によるのでもありません。天と地を結ばれたイエス・キリストによってそれは為されます。ですから、私たちの為すべきことは、イエス・キリストのもとに行くことです。問題を持って行く事です。あるいは連れて行く事です。今朝は父親が子どもを連れて来ましたね。生活の中の事々をキリストの許に持って行って、どんなことでもおできになるキリストにお任せする、それが祈りであり信じることです。「その子を、わたしのところに連れて来なさい」、私の許に来なさい、私の許に連れて来なさい、と主は求められます。教会に来るとはキリストの許に来る祈りの行為です。キリストの教会は、キリストの十字架と復活によって、天と地が結ばれている事に目覚め、気付き、生きる希望を頂く所です。

2022.05.22
「キリストとは誰なのか」マルコによる福音書8章27~9章7節


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 ★今から69年前の今日、この場所にキリスト教会が誕生しました。それが私たちの飯塚教会です。今日、キリストは私たちにも二つの質問をされます。第一は「人々はわたしのことを何者だと言っているか」。69年経った今、私たちの教会のことは、確かに地域に知られています。しかし、キリストご自身のことはどれだけ知られているのでしょうか。先週教会総会が終わって、私たちは来年の創立70年に向かって進みますが、「人々はわたしのことを何者だと言っているか」と、問われるキリストのことを心に留めて進みましょう。
 
 ★さてイエスさまは私たちに、もう一つの質問もされます。「それでは、あなたがたは、わたしを何者だ、と言うのか」。あまりにもストレートな質問だったので、弟子たちの口から言葉が出ませんでした。見かねてペトロが、あなたはメシアです、と答えました。キリストと言う意味です。しかしイエスは「その通りである」とも「いや違う」とも、おっしゃいませんでした。その代わりに、ペトロが答えた、イエスが誰であるかを、誰にも話してはならないと戒められました。なぜそんなことを言われたのでしょうか。

 ★マタイ福音書は、ペトロがそう答えられたのは、イエスさまを遣わされた天の神がその答えをペテロに現したからだ、と伝えています。クリスチャンの方はこのことを体験しておられますね。人は自分で信じてキリスト教を選ぶんだ、と思うのですが、そうではない事に気付かされます。イエスも最後の晩に弟子たちに言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」。クリスチャン作家の遠藤周作は、自分がクリスチャンになった事を、それまで和服を着ていた者が洋服を着せられた、と例えています。最初は窮屈さや違和感がありましたが、自分の体にピッタリ馴染んでもう脱ぎたくなくなった様なことを書いています。「あなたはキリストです」とペトロは答えましたが、それ口先だけではなくて生き方にまで関わります。イエスはピリポ・カイサリアで、キリストを信じる者の生き方を三つ教えられました。私たちの教会も、イエスはキリストであると信じます。この信仰を持つ私たちは、どのような生活に招かれているのでしょうか。三つの生活が勧められています。

 ★第一は、人間の思い、先入観を捨てる生活です。3133節で、イエスはご自分が必ず多くの苦しみを受け、指導者たちから排斥され、殺されることを弟子たちにはっきり話されました。『キリストは、ローマ帝国の支配から解放して、イスラエルの国を復興して下さる』、と言う先入観を持っていた彼らにとって、それは非常にガッカリする内容でした。三日目の復活のこと等耳に入らなかったようです。ペトロがイエスをわきへお連れして、「先生、そんな事を言ったら、もう誰もついて来なくなりますよ」と、いさめたのでしょう。するとイエスは叱られました。風や海や悪霊を叱られたことがありますが、弟子を叱ることは今までにない事でした。「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。これは、人の思いはどうでも良い、と言うのではありません。神の思いは人の思いを高く超えている、と預言者イザヤは伝えています。(5589)。私たちは日々の生活の中で、色々経験し、感じ思い考えますが、人知を遥かに超えた神の思い、万事を益となるように働かせて下さる神の思いに信頼を置いて、生活しましょう。旧約聖書の箴言35-6節もこの生活を勧めています。

 ★では第二番目に行きましょう。いつもは群衆の方からイエスの所に集って来ました。ところが34節ではイエスが群衆を弟子たちと共に呼び寄せられました。これは今までにない事でした。呼び寄せるとは集めると言うより、招くことです。ここでイエスは改めて弟子のクリスチャンの教会の基本を示しておられます。皆さん私たちの教会の礼拝が「招きの詞」で始まるのもそのためです。キリストの招く声が耳に聞こえるわけではありませんが、教会に行って見よう、と思わされたから皆さんは来ました。不思議です。そして、教会に来て次に起こるのは「私もキリストを信じて、ついて行きたい」と思うことです。これも不思議です。何か得する事があるからでしょうか。いいえ、キリストは言われます。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。

 ★殆どの宗教ではご利益を得ることが目的で入信します。しかし、キリストの後について行っても、ご利益は得られません。得るのではなくて捨てるのです。十字架を避けるのではなくて背負います。でも「キリストの後について行こう」という思いが起こされます。それは自分が持っている命に目が開かれるからです。35節以下はその事を伝えています。キリストの後について行く時に、自分の命のためになる、と思っていたことがそうではなく、ためにならないと思っていた事が、命のためになる事に、気付かされます。36節、命は掛け替えのないものですが、より強くその掛け替えのなさに気付かされます。それによって生き方が変わります。

 ★更に、38節が伝える、キリストが「父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき」と、91節の「神の国が力にあふれて現れるのを見るとき」は、この私たちの命が、今生きている時だけで終わらず、死んだ後、この世界の終わりの時、審判の時まで関わる命である事を伝えています。ですから、私たちの命は終わりの日の救いが必要な命なのです。ですから、私たちはこの世で生きている間の命のことだけではなくて、終わりの日の事を考えて、この命を生きさせていただきましょう。幸い、キリストがその最後の審判者です。これが第二の教えです。

 ★第三は、92節以下、高い山の上でのキリストの衣の白さと、エリヤとモーセが出現し、キリストと三人で話し合われた、と言う弟子たちの経験に秘められています。昔、旧約聖書の時代で、エジプトから解放されて神の民になった人達も同じような経験をしました。その時、彼らはシナイ山の麓に導かれ、選ばれた数名が山に登り、山頂付近でこれから神の民を、良い地まで、導いてくださる神を仰ぎ見ます。今回、高い山に登ってペトロとヤコブとヨハネが高い山で経験したことは、キリストの後について行く人々を、終わりの日まで導いて下さる神との出会いでした。7節その時に雲の中から声がありました。それは天地の造り主全能の父なる神の声です。「これは、わたしの愛する子。これに聞け」。今日、私たちにも、この天からの言葉が与えられています。「これは、わたしの愛する子、これに聞け」。神はエジプトを出た神の民を、昼は雲の柱、夜は火の柱によって約束の地まで導かれたように、御言葉と聖霊で私たちを最後まで導いて下さいます。

2022.05.15
「種を蒔く人」マルコによる福音書4章1~20節


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★皆さんも種蒔きの経験がおありだと思います。種を蒔く時の気持ちを漢字二文字で表すと何でしょうか。ヒントを出しましょう。小学生の時に朝顔の種を蒔きます。芽が出て、双葉が生えて、蔓が伸びて棒に巻きつき、蕾が出来て、花が咲き、その花びらが枯れた後、種ができます。朝顔の一生を観察する目的は、理科の知識を得るだけではありませんね。『あなたの人生も、この朝顔と同じだよ。あなたも花を咲かすのだよ。あなたには、漢字二文字があるんだよ』。答えは『希望』です。キリストが種を蒔く人のお話をしたのも、皆さんに生きる希望を持ってもらうためです。
 ★キリストが言う、種を蒔く人は道端や、石だらけの所や、茨の中にも、種を蒔きます。不思議ですね。実は、この種蒔く人とはキリストご自身のことです。キリストは「神からの言葉、み言葉」という種を私たちの心に蒔きます。
 ★道端とは、全く聞く気のない人です。石だらけの所とは、聞いている振りをしますが、心から聞かない人です。自分に都合が悪くなると聞かなかった事にする人です。茨の中とは、心から聞くが、心配や不安や誘惑に負けて聞いたことを忘れてしまう人です。しかし、キリストは私たちに良い土地に成る為に頑張りなさい、と言っておられるのではありません。
 ★私にも道端と、石だらけの所と、茨に覆われた所があります。先にクリスチャンに成った姉が、「貞雄君、教会に行こう・・・」と誘いました。聞く耳を持たない道端であった私は断りました。しかし、1972年札幌冬季オリンピックで「銀盤の妖精」と言われた、フィギャースケーターのジャネット・リンさんが出る、大阪中之島の公会堂で開かれた伝道会の誘いには応じました。聖書の話を聞きましたが、石だらけの私の心の中には入りませんでした。それよりもジャネット・リンさんの美しさに魅了されて帰って来ました。その後も姉から教会への誘いを受けていましたが、理由をつけて毎回断っていました。とうとう姉は私を誘わなくなりました。
 ★ところが、姉が私の20歳の誕生日のプレゼントに英語対訳の新約聖書をくれました。その表紙に伝道の書(コヘレトの言葉)12章1節の、み言葉「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ。悪しき日が来たり、年が寄って、『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」、が書いてありました。この言葉がグイグイと私に迫って来る体験をしました。丁度その頃、私は卒業後の長い人生を進むのに、何か私を根底から支えてくれるものがないか、捜していました。そして自分から教会に行くようになり、その年のクリスマスに洗礼を受け、クリスチャンになりました。姉を通してキリストが蒔いた種が芽を出したのです。しかし、クリスチャンになってから、茨に覆われる時もありました。
 ★それで気付きました。皆さん、私たちは、道端も、石だらけの所も、茨に覆われる所も、持っています。しかし、礼拝で祈り会で、また聖書に親しむ中で、キリストにみ言葉の種を蒔いて頂く時に、必ず良い土地に落ちて、芽を出し実を結ぶ時が来る、という希望を頂いて、この人生を歩ませていただけます。今日の中心聖句のマルコ福音書43節がそれを皆さんに伝えています。もう一回読みます。
 ★「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。次は方言で言います、「よく聞きんしゃい。種ば蒔く人が、種ば蒔きに出て行きんしゃった」。次は聖書の原典を読みますと、「よく聞きなさい」の後に「見よ」という、注意を促す言葉が入っています。さて何に注意するのでしょうか?今日、最初にお話ししましたね。小学生に朝顔の種を蒔かせるのは、彼らに希望がある事に気付かせるためだと。種を蒔く人、キリストが今日もまた、種を蒔きに出て行った。誰の所へ行かれたのでしょうか。皆さん一人ひとりの所です。あるいは他の人。まだ教会に来ていない人の所。聖書を読んだことのない人の所です。キリストには全ての人に知らせることがあります。それは「あなたには希望がある」、です。
★耳を傾けない道端や、心を閉ざし頑なな石だらけの所、欲望、誘惑、恐れ、嫉妬に支配されて理想を捨ててしまう、善を捨てて悪をしてしまう、茨が覆う所は、希望を持とうと思うのですが、それがかなわない私たち人間の愚かな現実を表しています。また、キリストを十字架につけてしまう、人間が持っている、キリストや神に対する反感と不信や、神を畏れないで悪を行う現実を表しています。それでもキリストは希望を持って私たちに、み言葉の種を蒔き続けられます。必ず良い地に落ちて実を結ぶという希望が私たちにあるからです。全ての人には希望がある、人から良い評価を得た一部の人ではない、そうでない人にも希望がある。キリストはそれを最後の最後まで言葉と行動で表されたから、十字架につけられ死にました。「人間には希望がある」。キリストはそう言われたが、それは単なる理想であった。キリストを取り巻く全ての人がそう思いました。しかし天の神はそのキリストを死人の中から甦らせて、『キリストは単なる理想を示したのではない、全ての人には本当に希望がある。人間だけではない、この星の全ての生き物に、確かな希望がある』と宣言されました。ですから、私たちはキリストの教会に来てこの希望を確認し、人生を希望を持って進みます。私たちも全ての人には希望がある事を、行動を持って表しましょう。
★さて2022年度の教会目標を「み言葉の種を蒔きに出て行こう①」としました。天に帰られたキリストは今、私たちを通して種を蒔かれます。①としたのは、キリストが蒔かれる種がどんな種なのかを確認する、準備段階の意味です。「聖書は物語る」という本をテキストにして、改めて確認しましょう。来週5/22は創立69周年を迎えます。創立100周年まであと31年あります。31年足すと私も98歳になります。虎は死して皮を留めます。私たちは何を残しますか。それよりも未来に繋がる種を蒔きましょう。み言葉はあなたがたの魂を救うことができます。(ヤコブ121節)。わたしの口から出るわたしの言葉も、空しくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす。(イザヤ5511節)。「見よ、種を蒔く人が種蒔きに出て行った」。希望に満ち溢れてキリストは出て行きました。未来に繋がる種には色々あるでしょう。しかし、み言葉の種蒔きは、私たち教会に託されています。
★最後に、その種は実を結ぶとあります。どんな実でしょうか。ガラテヤ52節に、九つの実が示されています。愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制。この九つの実は人間には希望があることを表す実です。私たち自身種を蒔くだけではなくて、この実も結ばせていただきたいですね。皆さん、実の中には種がいっぱい入っていますよ。「全ての人には希望がある」その事をこの結ぶ実で表したいですね。これも種を蒔くのと同じです。
★一昨日の夜「子どもたちの未来のために今できること」という講演を聞きました。その中で核のない戦争のない持続可能な地球になるのは22世紀か23世紀か分からないが、講演会に集まった人は誰もその時にはいません。その時にいるのは、今生まれた子、保育園、幼稚園、小学校にいる子どもです。と言われました。皆さんの周りにいる子どもに種を蒔いて下さい。皆さんの結ぶ実で「全ての人には希望がある」というメッセージを表して、種を子どもに蒔いて下さい。

2022.05.08
「異国の母親とイエス」マルコによる福音書7章24~30節


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 ★神さまが目指しておられるのは、全ての人を祝福することです。そのために一つの計画を立てられました。特別に神の民を選び、神が彼らと共に歩む中で、全ての人を祝福する計画です。その民の名はイスラエルです。しかし、イスラエルは神から離れて行きました。そしてユダヤ教と言う独自の宗教を作る道を進みました。神が彼らと共に歩む方法では、もはや計画が実現できません
。それで神は新しい計画を立てられました。
 ★愛する独り子イエス・キリストをイスラエルに遣わして、彼らを神に立ち返えらす計画です。しかし彼らはキリストを退け殺しました。今読まれました聖書のズーッと前、3章6節では、既に当時の宗教的指導者たちが、キリストをどのようにして殺そうかと相談し始めていました。キリストはその事を薄々感じておられましたが、十字架にかかって死ぬ最後まで、イスラエルに遣わされ
た者として、忠実に働かれました。
 ★しかしそんな中、キリストは一度だけティルスという外国に行かれたことがありました。その時、誰にも知られたくないと思っておられた、と24節にあります。お一人でのお忍びでした。自分はイスラエルのために遣わされました。そのためにイスラエルの一員として生まれたのに、彼らは私を受け入れようとしません。そんな悩みを持たれていたのだろうと思います。だからお一人でのお忍びで行って、家の中に閉じこもって、神に祈っておられたのか、気持ちを休めておられたのでしょうか。ところが、「病気を治したり、奇跡を行う、今イスラエルで大評判のキリストが、この町にも来られたぞ」と言う噂が広がりました。そして、一人の母親に出会います。この出会いは神の御計画だったのでは、と私は感じます。
 ★皆さん、今日は母の日です。お母さんに感謝する日ですが、お母さんの思いに注目する日です。この異国の母親はすぐにその噂を聞きつけました。娘は汚れた霊、悪霊に取りつかれていた、とありますから、お母さんは娘さんから目が離せない日々を過ごしておられたと思います。生まれ故郷のシリア・フェニキアではなくてティルスですから、そこには親族がいません。ですから普通
の子育てでも大変です。このままではお母さんの体がもちません。そういう大変な中でも、頭のアンテナをピピッと働かせながら、絶えず娘の救いを第一に考えていました。皆さんのお母さんもそうだったに違いありません。私の場合、牧師になってから母と会った最期の日まで、母は経済的な面を心配してくれたことを思い出します。
 ★娘から悪霊を追い出してくださいと頼む母親にキリストは答えられました。マタイ福音書もこの出会いのことを伝えていますが、ズバリ否定して、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか、遣わされていない」と言われています。27節の「まず、子どもたちに十分食べさせなければならない。子どもたちのパンを取って、子犬にやってはいけない」は、同じ内容のことを遠回しな表現を使って、キリストは彼女の願いを拒否されまし
た。
 ★ところが母親は同じ遠回しな表現で言い返して来ました。「主よ、しかし、食卓の下の子犬も、子どものパン屑はいただきます」。「助けてください。助けてください」と、娘の救いを求める強い感情を吐き出すのではなくて、冷静かつ、巧な言葉を言い返して、母親はキリストを見上げたのではないでしょうか。『イエスさま、何を躊躇なさっているのですか。イスラエルのために遣わされておられることは知っております。しかし、それだけでしょうか。この食卓の下でおこぼれを待つ子犬の様に、神の救いを求める母親がこの世界に無数にいます。あなたはその一人一人の救い主になられるお方ではないのですか』。
 ★聖書には沢山の母親が登場します。カインとアベルの母エバから始まって、箱舟に乗ったセムハムヤぺテの母、ソドムに残る娘家族を思って後ろを振り向いて塩の柱となった母、息子イシュマエルの死を見ていられないと言って泣いた母ハガル、・・・数えきれない母親が登場します。そして、現代の私たちの脳裏にも、戦死した子の遺骨を前にした母、災害で子が行方不明の母、子を拉致された母、ウクライナの母親たち、山梨道志村の山中で行方不明の子どもが今捜索されている母親。・・・・ティルスにお忍びで来られたキリストのもとに、ひれ伏した異国の母親の眼差しは、これらの全ての母親を代表しての眼差しだったのではないかと、私なりに察するのですが、ともかく、この出会いはキリストにとって大きかったと思います。
 ★実はこの後、8章でキリストは弟子たちに「あなたがたは、わたしを何者だというか」と質問し、十字架の苦しみと復活を預言し、9章で高い山に登られ、キリストの姿に変化か起こったことを告げています。そして、エルサレムへと、十字架へと向かわれました。その前のこの出会いは、キリストにとって大きな体験だったに違いありません。イスラエルの救いの為に来たキリストは退
けられ殺されましたが、復活して、今度はイスラエルだけではなくて、全てキリストを信じて助けを求める者を罪の支配から救って、神の支配という平安と祝福の中に入れる、神の新たな計画が進められています。
 ★ギリシャ人でシリア・フェニキアの生まれだった、この母親はキリストと全く関係のない所にいました。しかし、神はこの母親とキリストを出会わせられました。同様に皆さん、神によって今も、キリストとの出会いが起こっています。全く関係のない人がキリストと出会います。SOS、save our soul. キリストは、その叫びを聞いて今も働かれます。既にキリストと出会い結ばれた皆
さんもその叫びを聞き逃さず、キリストの働きに加わらせて頂きましょう。
 ★この母親の言葉のゆえに、キリストは彼女に宣言されました。「家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。皆さん、私たちも今、キリストの教会に集まり、そして、この後ここを去りますが、キリストは私たちにも言われます「家に帰りなさい」「安心して帰りなさい」「わたしはあなたのために働く」「信じて帰りなさい」。お祈りします。

2022.05.01
「外なる人と内なる人」マルコによる福音書7章1~23節


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 ★皆さん、私たちは外なる人であり、内なる人でもあります。肉体と精神とか、体と心あるいは魂、霊とか、色々と言われるのもそのためです。この両面を持っているから、他の生き物にはないものを持っています。それが宗教ですね。しかし、「わたしは無宗教です」と言われる方が増えています。殆どの人の理由は、既成宗教から受ける煩わしさ、つまり色々な決まりを守らなければならない、という制限を受けるからではないか、と私は思います。
 ★読まれましたマルコ福音書7章では、まさにその宗教の煩わしい制限のことで、宗教家たちが5節でイエスに質問をしました。イエスはその質問に答えるのではなくて、13節まで、そのような細かい煩わしい決まりを守る事に熱心な宗教家たちの偽善さを非難しました。外側のことばかりで、内側のことはそのままにして善人ぶっていたからです。
 ★その質問の答えは14節で、群衆に伝えられました。この群衆とは、イエスの奇跡や、教えには興味がありましたが、イエスに従うということになると、「うーー、着いて行けるかなー。12弟子を見ても、それぞれ個性の強い人のようだし、一緒にやって行けるかなー、ちょっと煩わしいかなー」、と躊躇する人々のことでした。つまり「わたしは無宗教です」と言う人が増えている現代の日本人と重なる人々です。特にイエスご自身がその様な人々を呼び寄せられました。その様な人々にぜひこの事を伝えたい、そう思われたからでしょう。
 ★15節「皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので、人を汚すことが出来るものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」。チョットなぞなぞの様な言葉ですね。結果、群衆も、イエスに従って来た弟子たちも悟れませんでした。
 ★それで18節「あなたがたも、そんなに物分かりが悪いのか」と嘆かれました。つまり、イエスがこれから話すことは、イエスに従うかどうか迷っている人にも、既にイエスに従っている人にも、非常に重要なことである、ということなのです。
 ★皆さん、私たち日本には穢れの文化があります。神道にはそれが色濃く出ています。穢れている場合、神と関われないのです。それで、お祓いをしたり、清水で身体を清めたりします。私は建築に関わる仕事をしていたので、地鎮祭の打ち合わせで神主とよく接する機会がありました。地鎮祭はお祓いをしてけがれを清め、神を呼び、神事を行い、神に帰って頂く内容でした。
 ★イエスが言われる人のけがれも、似ている所があります。人がけがれていると神は人に近づけません。人も神に近づけません。しかし、イエスは人の内側のけがれの事を言われます。アダムとエバが禁断の実を食べた時から、人は内側から悪い思いが出るようになりました。もはや神と顔を合わせられなくなり、エデンから出て行きました。神はそんな人間を見捨てることなく、天からでしたが常に関わるお方でした。ある時から神は、ひとりの人アブラハムを選び特別に関わられ、彼の子孫のエジプトでの苦しみの叫びを聞いて、居ても立ってもいれなくなり、モーセを通して彼らを救い、神専用のテントを張らせて彼らと共に歩む事を決心されました。その時に、けがれた彼らを清める十戒を中心とする律法を与えられました。その内容は人の外側と内側両方を清めるための決まりでした。
 ★今日の聖書に登場する宗教的指導者たちは、その律法以外の言い伝えに重きを置いて、人の内側のけがれをそのままにして、外側だけを整える偽善者となってしまいました。しかし偽善者になる危険は、彼らだけではなくて、イエスに従うことを決めかねている人や、既に従っている人にもあるのです。
 ★18節で、イエスはこの偽善的行為の最たる実例として、宗教が課する食事の制限を取り上げられています。19節、食べ物は口から人の中へ入り、お腹に入り、外に出て行きます。ですから何を食べても飲んでも人を汚すことはできません。人の内側に入らないのです。これは人の外側のことです。ですから皆さん、イエスは何を食べても飲んでもよい、と宣言なさいます。しかし、食べ過ぎ飲み過ぎ偏った食生活をして、神からいただいた体を乱暴に扱ってはなりません。この宣言を信じて食べたり飲んだりを感謝して楽しみましょう。イエスは、日用の糧の祈りを主の祈りの中に入れられたのは、私たちが外なる人としての食べたり飲んだりすることを、宗教上の理由で制限されるべきものという目ではなくて、人間として必須のものという目で、見ておられるということです。感謝していただきましょう。ただし、教会も食事制限する伝統があります。キリストの苦難を覚える為に受難節に肉を絶ったり、祈りに専念する時間を作る為に断食したり、人に躓きを与えないためにはあえて食事制限をします。
 ★さて、外なる人はいつか食べたり飲んだりできなくなります。その時「もう終わりだ、だめだ」と諦めるしかない私たちのために、イエスはベツレヘムの飼い葉桶の中に寝かされ、大工として汗を流し、苦しみを受け、捨てられ、殺され、葬られ、私たちと同じ外なる人を生き抜かれました。神はこのイエスを、衰え死んで行く外なる人の初穂として、死人の中から甦らせて、外なる人に希望があることを、明らかにされました。だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの外なる人は衰えていくとしても。
 ★次にイエスが皆さんに一番おっしゃりたいのは20節です。人の内側から出てくる悪い思いが人を汚し、神との間を遮断してしまいます。その原因は、内なる人を支配している罪です。神はこのけがれを無くして神と人の間を繋ぐために、外なる人であり内なる人である人としてイエスを遣わされました。神は私たちの内なる人を、代価を払って買い取って、罪の支配から神の支配に移すために、愛する独り子の命をその代価として献げて下さいました。だから、内なる人は神によって日々新たにされていきます。皆さん、イエスに従って与えられた人生を、希望を持って最後まで生き抜きましょう。お祈りいたします。
 

4月

2022.04.24
「主が共に」マルコによる福音書16章9‐20節


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 ★飯塚教会は1958年に木造の教会堂を建てた時に、そして、1981年に鉄骨の教会堂に建て替えた時に、それを神に献げる式、献堂式を行いました。教会の献堂式は、建てた教会堂で、これから何が始まるかを表しています。それは神に献げる、と言う行為です。礼拝を献げます。賛美、祈り、献金、聖書朗読、説教、奏楽、生け花、聖餐式のパンと杯、全て献げます。教会で集まるために、時間、移動する労力、を神に献げているのです。教会は2000年以上、神に献げることを第一として来ました。飯塚市役所の隣で、神に献げる場として、私たちの教会は10年、50年、100年、200年、とあり続けるのです。いまここにいらっしゃる全員が眠りについた後も、ということです。サステナブル持続可能な、という言葉が今世界中で使われ出していますが、教会こそ持続可能なかたちに変革して行かなければなりません。私たちは今日の聖書から、その最初の経緯を、キリストと弟子たちとの最後のお別れの場面を通して聞こうとしています。
 ★そのお別れの場面ですが「イエスさま、さようならー。」「みんな、元気でなあー。」という感動の場面ではありませんでした。残された十一人の弟子が、復活のキリストを目撃したマグダラのマリアと二人の弟子の証言を最後まで信じなかったため、彼らの不信仰とかたくなさをとがめ、伝道の命令を伝えて、キリストは天に帰られました。これは良いお別れに見えません。彼らの良いスタートにも見えません。新しい宗教を興して、発展させるためには、まず優れた弟子を養成しなければなりません。しかし、キリストは不信仰でかたくなな心の弟子たちに、15節「全世界に行って、すべての造られたものに福音を伝えなさい。」と派遣を命じ、16-18節でその説明を加えて、天に帰られました。
★「全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を伝えよ」。この言葉を私は毎週の礼拝の最後、皆さんに派遣の言葉として伝えてから、祝福の祈りをしています。しかし、私たちは礼拝後、全世界に行くのではありません。そこで会うのは家族や知人や友人です。全ての造られたものに会うのではありません。『イエスさま、話しが大き過ぎませんか』と、思いますよね。弟子たちもそう思ったでしょう。
 ★16節「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。これは厳しい言葉ですね。私たちが伝道をして、もし相手が信じなかったら、その人は滅びの宣告を受ける、そういう責任を、私たちは負い切れるでしょうか。負いきれませんね。
 ★17-18節「悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、手で蛇をつかみ、毒を飲んでも害を受けず、病人に手を置けば治る」。新しい言葉というのは何のことでしょうか。それを横に置いても、私はこれらのしるしを伴う経験を、今までにしたことがありません。と言うことは、私は信じない者なのでしょうか。自信を失いますね。
 ★イエス・キリストはなぜ、この様な言葉を最後に残して、天に上げられ、神の右の座につかれたのでしょうか。20節、弟子たちは出かけて行きました。「よーし、やったるぞー」と意気込んで出かけたのでしょうか。そうじゃないと思います。しかし、至るところで宣教したとあります。不思議ですね、弟子たちに何があったのでしょうか。
 ★今日の説教題は「主が共に」です。20節の後半にある「主は彼らと共に働き」から採りました。不信仰と、心の頑なさの指摘と、自分とはかけ離れた、信じる者に伴うしるし、これらのキリストの最後の言葉は、弟子たちの目を自分自身の現実に向けさせました。
 キリストが話された放蕩息子の譬え話で、放蕩に身を持ち崩した弟が、ある日我に返る場面があります。キリストの最後の言葉を聞いて、弟子たちは我に返えりました。
 ★皆さん、私たちは生まれた時は裸でした。そして、成長する中で色々な自分の考えや、信念を培い、それによって自分を覆って生きています。我に返るとは、その覆いが取り除かれて、神の前にある裸の自分に目を止めさせられることです。弟子たちは、キリストの最後の言葉によって我に返り、自分は罪びとの一人に過ぎない、神の憐れみが必要な者に過ぎないことに、目を止めさせられました。
 ★ですから、「よーし、キリスト教を大きくするために頑張るぞー!」と言って、弟子たちは出かけて行ったのではありません。「主よ、私を用いてください。私を使ってあなたが働いてください。あなたに私を委ねます。献げます。」と言う思いで出かけました。つまり、自分の主導権を主にお譲りして出かけました。そしたら、主は彼らと共に働かれたのでした。この体験をした弟子たちによってスタートした教会は、為すべき第一のことを、献げることといたしました。この伝統を私たちは受け継いでいます。
 ★皆さん、主に用いていただくために自らを主に献げましょう。人の人生は手袋のようなものです。大きい手袋、かわいい手袋、丈夫な手袋、便利な手袋と、色々あります。若い方々はこれからそれを作られます。もう出来上がった人もいます。だいぶ使い古した手袋になった、とうとう指先に穴が開いてしまったと、お思いの人もおられるでしょう。しかし、どんな手袋であるかは、問題ではありません。それを誰にはめてもらうかです。私は親指の先に穴が開いたが、捨てないで人差し指の先も切って、スマホ用にはめ、重宝しました。「どんな手袋も必要です。私の働きは多種多様だから」、と神は言われます。 
★あなたの人生はこの手袋のようなものです。どんな手袋であるかは重要ではありません。誰にはめてもらうかが重要なのです。自分の手袋だから自分がはめる、そう思って来られた方が多いと思います。ここで新約聖書エフェソの信徒への手紙にある祈りを紹介します。「わたしたちの内に働くみ力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることの、おできになる方に教会により、またキリスト・イエスによって、栄光が世々限りなくありますように、アーメン。」。わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることの、おできになる方にはめていただきませんか。
★そのお方は天地の造り主全能の神です。このお方はご自分のことを父と呼べ、と言われ、人の命のために愛する独り子を十字架につけ、死にて葬られ三日目に復活させて、愛と希望を注いでくださった神です。あなたの人生の主導権をこのお方に握っていただきましょう。その機会は、今、生きている今しかありません。旧約聖書の箴言35節はそれを、「心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け」と説明しています。常に主を覚えて歩く、その為にみ言葉を心に植え付けていただくのです。その心に余裕がなくどうにもならない時に、十字を切ってキリストを覚えた、そんな歴史があったんじゃないでしょうか。皆さん、心を尽くして主に信頼し、自分の分別に頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩きましょう。その為にみ言葉を心に植え付けていただきましょう。礼拝に来て、祈り会に来て、自宅でも聖書に親しみましょう。お祈りしましょう。

2022.04.17
「死に勝利せしキリストが先立つ希望」マルコによる福音書15章40‐6章8節


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 イースターおめでとうございます。教会に与えられている希望は、順調でない所に与えられる希望です。キリストがそれを皆さんに下さった日、それがイースターです。マルコ福音書は、希望のない所にキリストが希望を下さったことを、皆さんに伝えています。

 皆さん、人は共に生きて来た人に、例えば家族や友達に見守られて、最期を迎えたいですね。しかし、キリストは十字架の上でひとり、最期を迎えられました。昨夜まで生活を共にした弟子たちは全員逃げてしまいました。傍にいるのはローマ兵です。彼らはキリストを見守ったのではなくて、槍を持ってキリストが死ぬのを監視していました。40節、かろうじて女性たちがキリストを遠くから見守っていました。それもキリストの十字架という重要な場面の、一番最後に「また、婦人たちも遠くから見守っていた」と、付け足された感じで伝えられています。これらの女性たちのことは、今まで一切語られて来ませんでした。ここに来て初めて、彼女たちが、キリストと弟子たちの食事等のお世話を、ガリラヤにおられた時から、つまり殆ど最初からしていたことが明らかになります。それなのに、キリストが死んだ後に、付け足すように伝えられています。非常に女性が軽視されているのが、気になりますが、もっと重要なことがここに示されています。

 思い出してください、5000人の人々にパンと魚を配った時も、女性の人数は数えられていませんでした。約二千年前の話です。性別で人を分ける事自体おかしいのではないか。と、言われている現代と、当然違います。公の人の数を数える時に、女性の数は入りませんでした。男性中心の社会でした。残された彼女たちには、キリストの遺体を引き取る交渉権がありませんでした。埋葬する資格もありません。そのような女性たちだけによって、それも遠くから見守られていたキリスト。このキリストには希望がないと言うことを、この光景は表しています。

 キリストを裁いた最高法院に出席していた議員のひとりが、キリストを埋葬しました。彼はキリストの死刑に反対だったが、議場では発言する勇気がありませんでした。しかし、彼は勇気を出してピラトの所へ行きます。この様な人が突然登場します。不思議ですね。日本人的な考えなんでしょうが、私は彼の名が「ヨセフ」であると聞いて、思い出しました。母マリアの夫ヨセフ、キリストを育てた大工の職人の父の名がヨセフだったからです。家族が立ち会えずに葬られる光景は希望がありませんね。

 以上のように見ている間、私たちは思い出しますね。津波や地震で、戦火の中にあるウクライナで、一人で亡くなられた方々を思い出しますね。

 先程、聖歌隊によって特別賛美された、新聖歌127番の三番の歌詞は「封印 固き」で始まりました。最高法院でキリストを裁いた人たちは、万が一、弟子たちがキリストの遺体を盗んで、『キリストが復活した』と、デマを流してはいけない、ということで墓の入り口を塞いだ石に、さらに封印をして、かつ番兵に見張らせました。キリストに対する希望を徹底的に絶ったのです。マタイ福音書がこのことを書き加えています。このように十字架につけられて死に、葬られたキリストには希望がありませんでした。

 しかし、ここで三人の闊達な女性トリオが登場します。ここまで真っ暗闇のような内容だったのですが、希望の光が差す前兆のような、ちょっと和む不思議な三人のように、私は想像します。昔、トリオ漫才をして人気を博しました、小路歌江・花江・敏江の三人姉妹のような、闊達な女性を想像します。早速、ヨセフが埋葬するという情報が彼女たちに届きました。そして三人が動き出します。姉貴分だったと思うマグダラのマリアが口火を開きます。「何やらヨセフさんがイエスさまを引き取り、亜麻布を買いはったようやで。日が暮れて安息日に入る前に、埋葬しなあかんから、とりあえず遺体を布で巻いて、香油を塗らないで葬るつもり見たいやで」。「そんなん、あかん、あかん。イエスさま、かわいそうや!」「あんたらもそう思うか。うちもそう思う。そしたら安息日が明けたら、すぐにお店に行って香油を買って、次の日の早朝に、墓に行って、うちらでイエスさまの体に香油を塗ろ!」「そうしよ、そうしよ」。マグダラのマリアとヨセの母マリアはヨセフの後を追い掛けて、墓の場所を確認に行きました。サロメは、母マリアの傍に残ったのでしょう。

 さて皆さん、日の出と共に墓へ向かう彼女たちが、墓の塞いでいる石をどうするのか、話し合います。「今頃、何を言うてんねん」とズッコケるはなしですね。どういうことなのでしょうか?私は想像します。「あっ、そうや、墓の入り口が大きな石で塞がれていたわ」。「えー、それ、はよう言わんかいな」。「ええがな、ええがな、ここまで来たんやから、行こ、行こ、神さまがなんとかしてくれはる」。「そう思うやろ?」。「うん、そう思う」。「うちは、はじめから、うすうすそう思てた」。「ほんまは、うちも、そう思てた」。「なんやみんな、そう思てたんや」。墓に向かいながら、墓を塞いでいる石をどうするか、このズッコケる話が、キリストの復活前にあるのは、意味深長です。

 皆さん、希望がない中で「神さまが、なんとかしてくれはる」と、信じて前に進む、この神に期待する、この神にお任せする、どうなるのかわかりませんがそう信じて進む信仰を、あなたも持ってみませんか。幼子のようにならなければ(頼って任せるのでなければ)、神の国(神の働き)を見ることが出来ない、と以前キリストが話しておられましたことが、ここに実現します。神は入り口の非常に大きな石を、脇へころがし、墓の中に天使を待機させ、入って来た彼女たちに、神からのお告げを伝えさせました。神はこの三人の女性を、キリストの復活、キリストが死に打ち勝たれたことの生き証人第一号として、選ばれました。

 しかし、三人は震え上がり、正気を失い、逃げ去ります。そして、恐ろしさのあまり、この朝の事を、誰にも何も言いませんでした。折角、神から希望を与えられたのに、これからどうなるんでしょうか。教会はキリスト教は生まれるのでしょうか。最後の最後、また希望が確かでないかたちに戻ります。実は、はじめマルコ福音書は、ここで終わっていました。皆さん、聖書をよくご覧になって下さい。9節から20節まで〔〕で囲われています。実は、このマルコ福音書は神が三人の女性に働かれたが、無駄に終わってしまった、というまことに希望のない形で終わる不思議な書だったのです。しかし、後に教会が誕生し、著者のマルコは使徒言行録でパウロやバルナバと一緒に、教会に与えられた希望を伝える伝道旅行をしています。ですから、その後弟子たちは、彼女たちが天使から命じられたお告げを聞き、希望のない所に与えられる希望を受け取ったのでありました。

 皆さん、天使が伝えたお告げの中の、弟子たちとペトロに告げるよう命じられた所に注目してください。7節『あのかたは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われた通り、そこでお目にかかれる』。キリストは死ですべての希望を奪い取られている私たちに希望を与えるために、死に打ち勝って復活してくださいました。しかし、それだけではありませんでした。キリストがあなたがたより先に・・・行かれる、ようになりました。丁度羊に先立って羊飼いが道を進まれるように、キリストは希望のない人に先立つ、羊飼になられました。皆さん、私たちに必要なのは、この先立って下さる方ではありませんか。詩編23編を思い出します。皆さん、たとえ皆さんの現実が、死の陰の谷間の様な希望の無い所であっても、死に打ち勝ったキリストが、皆さんに先立って下さいます。ここに、希望があります。

 あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。ガリラヤは、彼女達や弟子たちやペトロの帰って行く所、生活の場です。キリストはいつまでも、この聖堂にいません。聖書の学びの中や、厳粛な祈りの中にいつまでもおられません。キリストは皆さんの生活の場へ先立たれます。そして「そこで、お目にかかる」とあります。しかし、私達はキリストに会うのではなくて、人に会います。お目にかかるとは、この目で見る事だけではありません。キリストの事を、キリストを遣わされた神の事を思い起こす、という形でキリストとお目にかかります。それで教会で一番大切にしているのは、皆さんに、聖書からみ言葉を伝えること、肉体となったみ言葉であるキリストのパンと杯を、皆さんに配って、み言葉を皆さんの心に植え付けることです。

 丁度、一年前の復活祭の礼拝で皆さんとお会いし、一年が経ちました。その最初の礼拝の週報の表紙に載せる聖句に、新約聖書ヤコブの手紙1章21節「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます。」を選びました。その聖句の直前に「心に植え付けられた御言葉を受け取りなさい。」とあります。旧約聖書の詩編には「あなたのみ言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯」(119105)ともあります。キリストは私たちの前に先立たれるから、私たちの歩む道を照らすことができます。私たちの希望は、常に、終わりの日まで、私たちに先立って下さるキリストです。この礼拝を終えて教会のお墓「栄光の家」で祈りの時を持ちます。栄光の家に納骨されている人々は、生前、この希望を持って歩まれた方々です。今日、ご遺族の方々もここにおられます。どうか皆さんも同じ希望を持って歩んでください。お祈りの時といたしましょう。

2022.04.10
「神との隔で無し」マルコによる福音書15章25‐39節


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 ★先週のはじめ、飯塚は湿度17%で乾燥注意報が出ていました。教会の花壇の花にジョウロで水のシャワーを掛けてあげました。水がスーッと土の中にしみ込んでゆきました。神さまの愛も皆さんの上に注がれています。スーッと皆さんの中にしみ込んでゆきますように。
 ★皆さん、キリストの十字架の周りを取り囲む人々に注目してください。それによって、神の愛が一番明らかにされるからです。最後の晩餐の後、キリストは捕らえられ、最高法院に連れて行かれました。大祭司、祭司長、長老、律法学者たちに囲まれ、戸が閉められ裁きが始まりました。その密室の中で、民衆などの前では決して見せなかったことが行なわれました。無抵抗のキリストに対して彼等は、偽りの証言を堂々として、不当な判決を下しました。その後、唾を吐きかけ、目隠しをして殴って侮辱を加えました。彼らに仕えていた下役までイエスを平手で打ちました。そして、彼らは下役のなすままにさせました。指導者たちの内面にあったものがここに一気に吐き出されました。
 ★夜が明け、彼らは政治的な支配者、ローマ帝国総督ポンテオピラトの下にキリストを連れて行き、裁判にかける様言い寄ります。ピラトは事態を冷静に的確に判断する優秀なローマの役人でした。キリストを取り調べ無実であると判断し、ユダヤ人が訴えたのは彼らの妬みによると見抜きました。無言で無抵抗だったキリストを見て、ピラトは初めキリストを助けようとしました。過ぎ越しの祭りにピラトは群衆の前に出て、人々が願う囚人を一人釈放していたので、キリストの釈放を群衆が求めると思いました。ところが、祭司長たちが群衆を扇動し、囚人バラバを釈放し、キリストを十字架に付ける事を要求させました。
 ★その声が激しさを増して来た時に、ピラトの内面から一つの思いが浮かびました。『待てよ、ここは正義に立つより、扇動させられた群集の機嫌を取る方が得策である』。ピラトは群集のご機嫌を取る為に、バラバのお釈放を宣言し、皆の前でキリストを鞭打ち、十字架刑担当の兵士に引き渡しました。ところが兵士たちは、キリストを外へ引き出す前に、総督官邸内に連れて行きました。エルサレムに駐屯していた部隊の全員を呼び集め、侮辱を加えました。茨の冠は彼らが編んでキリストにかぶらせました。何度も棒で頭をたたき、唾を吐きかけました。従軍中の兵士の心の中にあったストレスと共に、無抵抗な人間を前にした時に人が考える恐ろしい行為も、ここで外に出ています。これが起こるのが戦争です。
 ★今日読んでいただいた聖書は十字架につけられてからの所です。後で通りかかった人々の事をお話ししますが、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。と短く伝えています。その苦痛のゆえに、自制する余裕も無い彼らのののしりとは、彼らの内側にあるものが抑えられず溢れ返った内容だったのでしょう。詳しく綴れない程の非常に恐ろしい人間の姿だったのではないかと思います。
 ★キリストのお宮参りの時に、シメオンという老人が母マリアに近づいて来て、「あなた自身も剣で心を刺しぬかれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と、キリストの将来の事を予言しました。ルカ234-35節。この「多くの人」とは、今まで見て来ました、大祭司や祭司長や長老、律法学者、ピラト、兵士、十字架刑の囚人たちなのですが、それだけでしょうか?というのが今日の聖書の問い掛けなのです。
 ★皆さん、最後に注目して頂きたい人々がいます。キリストが十字架に磔にさられていた時に、たまたまそこを通り掛かった人々が、祭司長や律法学者たちよりも先にキリストをののしります。不思議ですね。
 ★皆さんは日本にいます。今は2022年です。皆さんも十字架のキリストと無関係です。この通り掛かりの人々と同じです。その人々が一番にキリストをののしりました。ちょっと考えさせられませんか?
 ★この時、全ての人の心にある思い、神に対する不信、反抗、すなわち罪が、十字架のキリストを取り囲みました。そして37節、大声を出して息を引き取られます。これも不思議です。皆さん、最後は大声が出ない、出したくないですね。静かに息を引き取りたいですね。私は思います。まるで、誕生して以来、この時が来るのを待っておられたがごとくに、キリストは感極まって大声を出して息を引き取られました。では、何に対して感極まられたのでしょうか。
 ★39節にその答えがあります。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。この幕は神様の部屋と礼拝場所とを隔てる緞帳の様なしっかりした幕です。罪ある人間は神様と直接会えません。そんな事をしたら神様は罪ある人間を罰するしかないからです。それで隔ての幕が必要でした。ところがキリストの命が亡くなった時に、神様が「今からはこの幕はいらない」と言って真っ二つに裂かれました。十字架のキリストを取り囲む皆さんの罪の罰を全てキリストが身代わりに負って下さったからです。
 ★皆さん、私たちは内側からどうしても悪いものが出て来ます。これが私たちの罪と言う現実です。しかし、神はキリストの十字架の死によって、隔ての壁を取り除き、あなたに向かって愛のシャワーを注がれ、言われます。「あなたの罪は赦された。すべてを私に任せなさい。これからはわたしと共に歩みましょう」。この招きに応えましょう。すでに答えてクリスチャンになった人も。新たな思いで応えてください。手を挙げて意思表示しましょう。肉体の手でも、心の手、魂の手でもよろしい、今、神さまに意思表示しましょう。

★私は小学校3年の時に一年間書道教室に通いました。私は十歳。堤 春光先生は三十歳後半。先生が私の後ろから覆いかぶさって、筆を握る私の手の上から握って「はい、末吉君、力を抜いて」と教えて下さいました。神様を信じるとはそれとよく似ています。命と言う筆を握るあなたの手の上から神様に握って頂くのです。聖書の言葉に心開いて接する時、神に信頼して祈る時、こうして礼拝で神からのサービスを受ける時は、力を抜いて神に任せましょう。先程の書道教室の体験を思い出してください。これは練習の時ですね。この聖堂のベンチに座った時は力を抜いて下さい。その時は負っている重荷を降ろすのです。この練習が終わって、聖堂を去った後が本番です。人生の書を日々思い切って神の導きを祈って描きましょう。2022年度も、コロナ禍ですが、この練習を、怠りなくいたしましょう。では、皆さん、祈って本番に向かいましょう。

2022.04.03
「五つのパンと二匹の魚」マルコによる福音書6章34~44節


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 ★先週のはじめ、飯塚は湿度17%で乾燥注意報が出ていました。教会の花壇の花にジョウロで水のシャワーを掛けてあげました。水がスーッと土の中にしみ込んでゆきました。神さまの愛も皆さんの上に注がれています。スーッと皆さんの中にしみ込んでゆきますように。
 ★皆さん、キリストの十字架の周りを取り囲む人々に注目してください。それによって、神の愛が一番明らかにされるからです。最後の晩餐の後、キリストは捕らえられ、最高法院に連れて行かれました。大祭司、祭司長、長老、律法学者たちに囲まれ、戸が閉められ裁きが始まりました。その密室の中で、民衆などの前では決して見せなかったことが行なわれました。無抵抗のキリストに対して彼等は、偽りの証言を堂々として、不当な判決を下しました。その後、唾を吐きかけ、目隠しをして殴って侮辱を加えました。彼らに仕えていた下役までイエスを平手で打ちました。そして、彼らは下役のなすままにさせました。指導者たちの内面にあったものがここに一気に吐き出されました。
 ★夜が明け、彼らは政治的な支配者、ローマ帝国総督ポンテオピラトの下にキリストを連れて行き、裁判にかける様言い寄ります。ピラトは事態を冷静に的確に判断する優秀なローマの役人でした。キリストを取り調べ無実であると判断し、ユダヤ人が訴えたのは彼らの妬みによると見抜きました。無言で無抵抗だったキリストを見て、ピラトは初めキリストを助けようとしました。過ぎ越しの祭りにピラトは群衆の前に出て、人々が願う囚人を一人釈放していたので、キリストの釈放を群衆が求めると思いました。ところが、祭司長たちが群衆を扇動し、囚人バラバを釈放し、キリストを十字架に付ける事を要求させました。
 ★その声が激しさを増して来た時に、ピラトの内面から一つの思いが浮かびました。『待てよ、ここは正義に立つより、扇動させられた群集の機嫌を取る方が得策である』。ピラトは群集のご機嫌を取る為に、バラバのお釈放を宣言し、皆の前でキリストを鞭打ち、十字架刑担当の兵士に引き渡しました。ところが兵士たちは、キリストを外へ引き出す前に、総督官邸内に連れて行きました。エルサレムに駐屯していた部隊の全員を呼び集め、侮辱を加えました。茨の冠は彼らが編んでキリストにかぶらせました。何度も棒で頭をたたき、唾を吐きかけました。従軍中の兵士の心の中にあったストレスと共に、無抵抗な人間を前にした時に人が考える恐ろしい行為も、ここで外に出ています。これが起こるのが戦争です。
 ★今日読んでいただいた聖書は十字架につけられてからの所です。後で通りかかった人々の事をお話ししますが、一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。と短く伝えています。その苦痛のゆえに、自制する余裕も無い彼らのののしりとは、彼らの内側にあるものが抑えられず溢れ返った内容だったのでしょう。詳しく綴れない程の非常に恐ろしい人間の姿だったのではないかと思います。
 ★キリストのお宮参りの時に、シメオンという老人が母マリアに近づいて来て、「あなた自身も剣で心を刺しぬかれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」と、キリストの将来の事を予言しました。ルカ234-35節。この「多くの人」とは、今まで見て来ました、大祭司や祭司長や長老、律法学者、ピラト、兵士、十字架刑の囚人たちなのですが、それだけでしょうか?というのが今日の聖書の問い掛けなのです。
 ★皆さん、最後に注目して頂きたい人々がいます。キリストが十字架に磔にさられていた時に、たまたまそこを通り掛かった人々が、祭司長や律法学者たちよりも先にキリストをののしります。不思議ですね。
 ★皆さんは日本にいます。今は2022年です。皆さんも十字架のキリストと無関係です。この通り掛かりの人々と同じです。その人々が一番にキリストをののしりました。ちょっと考えさせられませんか?
 ★この時、全ての人の心にある思い、神に対する不信、反抗、すなわち罪が、十字架のキリストを取り囲みました。そして37節、大声を出して息を引き取られます。これも不思議です。皆さん、最後は大声が出ない、出したくないですね。静かに息を引き取りたいですね。私は思います。まるで、誕生して以来、この時が来るのを待っておられたがごとくに、キリストは感極まって大声を出して息を引き取られました。では、何に対して感極まられたのでしょうか。
 ★39節にその答えがあります。「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」。この幕は神様の部屋と礼拝場所とを隔てる緞帳の様なしっかりした幕です。罪ある人間は神様と直接会えません。そんな事をしたら神様は罪ある人間を罰するしかないからです。それで隔ての幕が必要でした。ところがキリストの命が亡くなった時に、神様が「今からはこの幕はいらない」と言って真っ二つに裂かれました。十字架のキリストを取り囲む皆さんの罪の罰を全てキリストが身代わりに負って下さったからです。
 ★皆さん、私たちは内側からどうしても悪いものが出て来ます。これが私たちの罪と言う現実です。しかし、神はキリストの十字架の死によって、隔ての壁を取り除き、あなたに向かって愛のシャワーを注がれ、言われます。「あなたの罪は赦された。すべてを私に任せなさい。これからはわたしと共に歩みましょう」。この招きに応えましょう。すでに答えてクリスチャンになった人も。新たな思いで応えてください。手を挙げて意思表示しましょう。肉体の手でも、心の手、魂の手でもよろしい、今、神さまに意思表示しましょう。

★私は小学校3年の時に一年間書道教室に通いました。私は十歳。堤 春光先生は三十歳後半。先生が私の後ろから覆いかぶさって、筆を握る私の手の上から握って「はい、末吉君、力を抜いて」と教えて下さいました。神様を信じるとはそれとよく似ています。命と言う筆を握るあなたの手の上から神様に握って頂くのです。聖書の言葉に心開いて接する時、神に信頼して祈る時、こうして礼拝で神からのサービスを受ける時は、力を抜いて神に任せましょう。先程の書道教室の体験を思い出してください。これは練習の時ですね。この聖堂のベンチに座った時は力を抜いて下さい。その時は負っている重荷を降ろすのです。この練習が終わって、聖堂を去った後が本番です。人生の書を日々思い切って神の導きを祈って描きましょう。2022年度も、コロナ禍ですが、この練習を、怠りなくいたしましょう。では、皆さん、祈って本番に向かいましょう。

3月

2022.03.27
「世の力からの救い」マルコによる福音書5章21~43節


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「恐れることはない。ただ信じなさい」イエス様は今朝、私たちにこう言われます。
25節と26節をもう一度お読みいたします。短い文章ですが、ここにはひとりの女の苦悩が凝縮されています。彼女は12年間病気で苦しみました。その間多くの医者にかかったとあります。でも、医療保険の無い時代に12年間もお医者さまにかかり続けられたというのですから、彼女にはそれなりの財産があって、恵まれた状況であったと考えられます。彼女は自分に与えられた試練に対して、積極的に考えられる限りのあらゆる手を尽くします。古代バビロニアでは薬草の研究が大変進んでいたそうです。ですから、薬も色々試したでしょう。また彼女は医者だけではなく占いや魔術的なものにも、評判が良いと聞けばどこにでも行きました。しかし、何の希望の光も差し込みません。もう、どん底です。人間の知恵と力のあらゆる手だてを尽くしても改善しなかったのです。
彼女には、人の無力さに対する怒りと悲しみが溢れていました。

そんなある日、イエスさまのうわさを聞きます。それは一筋の光のように思えました。彼女は後ろから着物にそっとさわります。何故でしょうか。ここにはこの時代の背景があります。ユダヤの社会では、女性の出血の期間は汚れているとされました。ですから、その間は会堂に行って礼拝をすることはできません。それどころか、人々の中に入っていく事も禁じられていました。出血している者が他の者に触れると汚れると考えられていたからです。つまり、彼女は社会の様々な関係から12年間も締め出されていたのです。しかし、イエスさまが来られると聞いた彼女はそんなことに構っておれません。人々の中に紛れ込んでゆきます。この女のポジティブな様子が想像できますね。彼女は恐れず、信じて、イエスの服に触りました。
28節を注目して下さい。彼女は「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである、とあります。
この12年間、治療のために全財産を費やして、ありとあらゆることをやり尽くしてきた彼女です。その人がイエスの着物にさわることで、きっと直ると信じました。この信頼は、驚くべき態度です。
彼女は人生のどん底に落ちていながら、人生の敗北者でいながら、絶望しませんでした。何故でしょうか。気付かされたことがあったからです。それは、この地上のものには救いがないということです。そんなときに聞いたイエスさまに関するうわさは、彼女の希望の光になりました。この光は、世の力に対する恐れを吹き飛ばしました。そして、イエスの内にある神の力を信じたのです。すると、彼女の信頼したとおりの出来事が起こりました。

28節の「いやす」という言葉は、34節の「救う、救い」と同じ言葉が使われています。
つまり、彼女に起こった出来事は、病気の癒しを強調していません。イエスさまは彼女のご自分に対する信頼に答えられたのです。このことを伝えたいのです。彼女には家族がいたでしょう。そこに帰って行くことができます。また様々なこれまで遮断されていた社会との関係が回復されます。つまり、人間性の回復です。イエスの救いは、全人格的救いです。その人を不自由にしている、この世の力からの救いです。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」というイエスの宣言は、その人を不自由にしている、この世の力からの救いを言っています。

36節で、イエスは会堂長に「恐れることなく、ただ信じなさい」と言われていますが、後ろからそっと触った女の態度は、まさにそういうものでした。皆さん、私たちの態度はどうでしょうか。今朝私たちも、恐れることなく信じる信仰を頂きましょう。

 さて、このときイエスさまの横で会堂長ヤイロが、今にも娘が死にそうになって迎えに来た所だという状況でしたね。弟子たちやヤイロは気がきではなかったはずです。しかし、イエスさまにはこの女にもう一つしなければならないことがありました。それは彼女に寄り添う事です。そして、彼女に「あなたは神の救いに与った」と宣言することです。それで、「わたしの服に触れたのはだれか」と大声で叫ばれたのです。
33節を見てください。自分のことを知ろうとしてくださるイエスさまの前に、女はひれ伏し、「すべてをありのまま話した」とあります。彼女は、これまでの深い苦しみ悲しみ失望の思いを打ち明けました。彼女は心の奥深くにある思いを打ち明けました。イエスさまはご自分との深い交わりを彼女に求められたのです。イエスとの人格的交わり、そこに救いがあるからです。病気が治ることが、イエスさまの最終目的ではありません。その人が神の救いに与って、イエスとの深い交わりに入ること、それによってイエスにある平安がその人の支えになること、それが、イエスがこの地上に来られた目的です。このことは、私たちが神の御思いを知るために欠かせないことだからです。
 この12年間患った女とは、まさしく、私たちです。私たちの人生も問題が山積みです。私たちを不自由にしている、この世の力が様々ありますね。
わたしの問題は、この地上の問題は、イエスでも解決できませんと思っていませんか、と今朝主は尋ねられます。旧約聖書にイスラエルの神の民の不信仰に対して、神が嘆いておられる箇所があります。それは、イザヤ502節です。「なぜ、わたしが来ても、だれもいないのか。呼んでも答えないのか。わたしの手は短かすぎて贖う事ができず、わたしには救い出す力がないと言うのか」

イエスさまは皆さんが神の救いに与って、イエスとの深い交わりに入り、それによってイエスにある平安がその人の支えになって欲しいとお考えです。そして、今朝、皆さんに祝福の宣言をされたいのです。「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と。
 
さて、弟子たちの心配が的中し、ヤイロの娘が亡くなった知らせが届きます。でも、イエスさまは「恐れないで、信じていなさい」と仰います。
ヤイロの娘の復活は、先にある主イエスの復活の希望を予告しています。

2022.03.20
「嵐の中の安らぎ」マルコによる福音書1章35~41節


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 神の祝福は信仰の成長であり、そこに伝道する希望があることを示す、種まきの例えの秘密を弟子たちに明かされた、その日の夕方のことです。湖での嵐の体験も、弟子たちが教会を建て上げて行くときの希望となりました。

 35節の「向こう岸に渡ろう」という言葉には、「もちろんわたしも一緒だよ」という主の思いが含まれています。向こう岸に渡る舟とは、あなたの人生のことです。イエス・キリストに乗っていただいて、あなたはクリスチャンになりました。また、向こう岸に渡る舟とは、伝道する教会のことです。教会はイエス・キリストの教会です。しかし、イエス・キリストが共におられることが忘れられたり、イエス・キリストが共におられることに期待しなくなったりしていないでしょうか。

 嵐の中、舟が沈没寸前で、弟子たちが舟の中で忙しくしていた時に、キリストは舳の方で眠っておられました。この光景は、キリストに目を向けていない人間の姿を映し出しているように思えます。38節「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか。」とあります。私たちもこの弟子たちと同じように、「神さま、こんな事になっているのに、おかまいにならないのですか」と、思う時があります。世界的なコロナの現実や、今起こっているウクライナの戦争。神さま、こんなことになっています、あなたはおかまいにならないのですか、と思いますよね。
 また、眠っておられるキリスト、それは人の目には何の役にも立たないように見えます。眠っておられるキリスト、それは現代私たちが経験していることです。

しかし、皆さん「舳」というのは、船尾で舵のある所です。舵は舟の航路を正しく進ませる舟の要となるものです。「まくら」は頭をのせますね。枕は、頭という人間の重要な部分を乗せるものです。つまり、キリストはとても重要なところにおられるのです。嵐というのは、全てが右往左往するしか無い時ですね。しかし、キリストだけは静かに沈黙して、決して動揺なさらないで、舟の舵をしっかり握っておられるのです。そこで、あなたの人生の舵をしっかり握っておられるのです。キリストは舟が沈まないように水を汲みだすことや、他の対処することに手を貸しませんでした。それは、きっと私たちに与えられた役割なのでしょう。眠っておられるキリストは、向こう岸まで乗船者全員を支える方として、どんな嵐にも動ぜずに、一緒に居続けてくださるお方なのです。このキリストに信頼して歩んでいきましょう。

 私たちの生活は舟の中で日々忙しくしています。しかし、舳に退く時が必要です。人生という舟の舵を握ってくださっているお方、風を叱りつけ「黙れ、沈まれ」と湖に言われるお方との出会いは、どんなに激しい人生の嵐の中でも、安らぎと癒しと希望と力とを受ける大切な時です。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と、言われたのは「向こう岸まであなたと一緒に渡ろう」と言う、最初の約束の言葉をどうして信じないのか、と言うことなのです。

 「向こう岸に渡ろう」と、キリストは日々あなたを誘っておられます。キリストをお乗せして、沖へ、向こう岸へ、明日へ、未来へ、漕ぎ出しましょう。そして、日々、舳の方に退いて、わたしたちを根底から支えて下さる救い主キリストとの交わりを持ちましょう。具体的には、礼拝出席、キリストの食卓である聖餐式に与ること、諸集会の出席、そして聖書に親しみ祈る時をもつことですね。

人生の舟は、個人としての舟であり、また、共同体としての舟でもあります。
 例えば、家族という舟があります。家族に一人クリスチャンがいるなら、その家族の舟にキリストがおられます。嵐が来て、うろたえる時クリスチャンはその舟でキリストを証しすることになります。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」とは、そういうことではないでしょうか。
 飯塚教会では、関谷牧師からの引き継ぎで八幡教会での月一回の説教奉仕をしています。1月に私が担当で行きました時に、一人の兄弟からお証を聞きました。彼は、県外のナザレン教会からご両親の介護のために、地元に帰ってこられました。奥さまは教会にはまだ来ておられません。それである日から、彼は毎朝食事の時に中川牧師のメッセージテープを聞くことを始められました。奥さまもやめてほしいと言うようなことはおっしゃらず、黙って一緒に食事をされているそうです。数か月続いたころ、奥様が、「あなたの葬儀を教会でするなら、その時は私も教会に行くわ」というようなことを、ぽつんと、言われたそうです。私は、主が中川先生の語られる御言葉を通して、彼女の心に語りかけてくださっているんだな、と思いました。兄弟が祈りをもって、なさっている行動は、将来の嵐に備えた行動ではないかと思います。

 人生に嵐のない人生はありません。小さな嵐、大きな嵐が必ずあります。「イエスは舳の方で枕をして眠っておられた。」この御言葉は、嵐がやってくる前から備えをしておくようにと言っているのではないでしょうか。日ごろから備えをしておくなら、嵐が来た時に、主に全てをお任せでき、主の平安が私たちを支えていることに気づかせてくれます。

2022.03.13
「御言葉のチョコをあなたに」マルコによる福音書4章1~21節

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 明日314日は何の日でしょうか。ホワイトデーですね。2月のバレンタインデーも明日のホワイトデーも、愛のしるしとしてチョコをプレゼントしますね。14節に「種をまく人は、神の言葉を蒔くのである」とありますように、イエスが語られる種というのは、御言葉のことです。御言葉の種とはイエスの愛のしるしです。ですから、おいしいチョコを味わうように、神の愛のしるしである御言葉を今朝も味わいたいと思います。

 イエスはおびただしい群衆に種の例えを話されました。その後、10節から弟子たちだけになります。11節を注目してください。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてが例えで示される。」とあります。ここでも3章で聞いたように、イエスはご自分の身近にいる人、つまり、ご自分と人生を共に歩む人に心を向けておられるのが分かります。人生をイエスと共に歩む者には、「神の国の秘密が」知らされるのです。

 さて、今朝の神の国の秘密とは何でしょうか。それは「御言葉の種」です。蒔かれた種はどこに落ちましたか。道端、石地、いばらの中、良い地、に落ちました。皆さん、ここを読まれるときに、何だか不思議だと思いませんか。種を蒔く人が種を蒔きに行きました。皆さんが種を蒔くとしたら、何処に蒔きますか。道端や石地やいばらの中に蒔くでしょうか。蒔きませんよね。誰でも、良い地にだけ蒔きますよね。でも、この種を蒔く人は本当に気前よく、どこにでも蒔いたのです。道端、石地、いばらの中、そんなところにまで蒔いたのです。

 ここで、注目していただきたいのは、種は「どんな土地にも落ちた」ということです。道端に落ち、石地に落ち、いばらの中に落ち、良い土地に落ちました。つまり、どんな土地にも、分け隔てなく、落ちました。「大変な土地は面倒だなあ。良い土地にだけ落ちよう」種はそう思いませんでした。種は境界線を考えません。どこにでも落ちました。種は苦難を承知で冒険の旅に出たのです。この種とは、誰のことでしょうか。神の国から蒔かれた種です。神のところからこの世界に落ちて来たみことばの種です。すなわち、イエス・キリストです。

 種がどんなところにも落ちたというのは、大きな希望ですね。私たちがどんなに暗い失望の中に落ちても、そこに、キリストがいてくださいます。道端とは辺境の地でしょうか。或いは孤独でしょうか。石だらけの道は、足が痛くなって前に進めなくなります。前進できなくて立ち止まっているときでしょうか。茨は大変な勢いで覆ってしまいますね。もう身動きが取れません。しかし、そこに、キリストはいてくださいます。人の力ではどうにもならないところに、キリストは落ちてきて、自分に依り頼むように、と言われます。つまり、御言葉に依り頼むようにと言われます。依り頼むなら、キリストは道端や石地や茨の地を、良い土地に耕してくださいます。その時に、私たちもキリストと共に生きるのです。一人では立ち向かえないことにも、キリストの暖かさと愛が、私たちに立ち向かう力をくださいます。
 皆さん、そこには労苦があります。しかし、キリストは言われます。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」ヨハネ1633節。
 
そして、確かな約束があります。それは、「実を結ぶ」という約束です。元々、神様は私たちを「良い土」に造られました。創世記はそのことを伝えています。神様は全てのものを造り、それは、極めて良かったのです。人は御言葉を聞いて、受け入れるように造られました。それが、極めて良いということです。神様は人をご自分と共に生きるものとして造られたからです。
 しかし、人は御言葉に従順ではなくなりました。でも、今日の例えをよく聞いてください。無くなったのは何でしたか。種ですね。道端や石地や茨の中に落ちた、種が無くなってしまったのです。これは、土が罰せられたのではないということです。御言葉の種であるキリストが罰を受けてくださったのです。キリストが来てくださった今、不従順な私たちの罪を、キリストが受けてくださった十字架によって赦され、人は「良い地」として神に受け入れられたのです。これは、何という大きな恵みでしょうか。

 この恵みを従順に受け入れる者の人生を、神様は30倍、60倍、100倍にも祝福してくださいます。今朝は読みませんでしたが、26節以下の成長する種の例え、30節以下の小さなからし種が、空の鳥の巣をつくれるほど大きく成長する例えも、同じように、神様の祝福の大きさを表しています。30倍、60倍、100倍の祝福とはというのは何でしょうか。それは、地上での成功ということではなくて、私たちの信仰の成長のことではないでしょうか。
御言葉の種であるイエス様は、バレンタインやホワイトデーのチョコのように、私たちへの神の愛のしるしです。今は自分へのご褒美に高級チョコを求めて味わう人が多くなっていますが、私たちは、神の祝福に通じる、神の愛のいっぱい詰まった、キリストという御言葉の広さ深さ高さを、これからも味わい続けていきましょう。
説教要旨
今朝の「種を蒔く人の例え」の主人公は、「種」です。道端、石地、いばらの地、良い地、という土ではありません。神は天から「キリストという御言葉の種」を蒔かれたのです。種は土地を選ばず、全ての土に落ちました。それは希望が無いところに、希望となるためです。この種は、神への不従順、つまり御言葉への不従順という、人の罪に対する罰を代わりに十字架で受けるために落ちてきました。種であるキリストを信じ受け入れる者に、そして神の愛のしるしである御言葉を、おいしいチョコを味わうのと同じように味わう者に、神は祝福し、その人の結ぶ実を30倍、60倍、100倍にもしてくださいます。これは、信仰の成長のことでしょう。ですから、これからも励んで、御言葉を味わい続けていきましょう。

2022.03.06
「主の民の成長」マルコによる福音書3章20~35節


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 先週イエスは十二弟子を任命されました。任命というのは、選ぶという事の他に、創造する、建てるという意味がありました。神様の働きをするために新しく創造され、神の教会を建て上げるために選ばれたのです。イエスは選んだ者たちを身近に置いて育てたかったのです。そこには大きな期待があります。この十二弟子の選びを、私たちの事として聞きましたね。私たちもまた、イエスに大変期待されて選ばれたのです。
 
さて十二弟子たちのところには「食事をする暇もない」程に沢山の人達が押し寄せてきました。それで、もう断食状態です。彼らは、イエスの期待を知って何とかお役にたちたいと張り切っています。イエスと一緒にいる彼らは、イエスのしておられることを理解しようと努力しました。218節でイエスと弟子たちが断食しないことが批判されました。断食は信仰深く見せるためではなく、こういうことを言うんだよと言われているようです。

しかし、弟子たちと対照的な人たちがいます。イエスの身内である母マリアと兄弟たちです。彼らは、イエスの行動は「気が変になっている」と憤って連れ戻そうとします。また、律法学者と言われる人たちも同じでした。イエスの事を悪霊に取りつかれていると批判したのです。
イエスは何をしておられたでしょうか。病気の人を治し、また生まれつき歩けない人、目の見えない人、手の不自由な人という身体の障碍を取りのぞいてあげたのです。悪霊のすることはこの逆ですね。人を困らせることを悪霊はします。
また、11節で、悪霊がこう言っていますよ。「あなたこそ神の子です」。
これは驚きですね。悪霊でさえも、イエスが神の子であることが分かっています。
にもかかわらず、イエスの家族や律法学者たちは無理解です。

家族でありながら何故理解できないのでしょうか。ヒントが31節にあります。「イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち」とあります。彼らは、この時イエスのしておられる神の子としての働きを遠く外から見ているのです。それには確かに理由がありました。イエスの家族は父ヨセフを早く亡くし、長男のイエスは家族を養う立場にありました。でも、イエスは家を出て弟子をつくり、神の子としての働きを始められたからです。家族にしてみれば、自分たちの生活をどう考えているのか、と思いますよね。彼らは、まだイエスの傍にいないのです。物理的にも精神的にもすごく離れていたのです。

律法学者は神の言葉である聖書(旧約)を教える立場にあるにもかかわらず、どうしてイエスが理解できないのでしょうか。彼らはイエスが汚れた霊に取りつかれている(30)と批判します。しかし、イエスは28節で人と人との間の罪、神を冒涜する言葉、つまり神と人との不和の関係にある罪、それは赦されると言われます。何故なら、それらを赦すためにご自分が来られたからです。しかし、聖霊を冒涜するものは赦されないと仰います。つまり、イエスを認めないものは赦されないと仰います。その理由は、贖い主であるイエスを認めない者には、他に贖い主となってくださる方がいないからです。だから聖霊を汚すものは赦されないと言われるのです。イエスには聖なる霊が共におられるからです。
28節、「はっきり言っておく」と、律法学者たちに、神の真理を悟りなさいと熱く語られます。

 私は、イエスの前にパリサイ人や律法学者が敵対者として出てくるのは、何故なんだろうと思ってきました。この対立関係から聖書は何を伝えたいのかなあ、と思ってきました。
イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と言われましたね。また、十字架の上では「父よ(私を十字架につける)彼らを赦して下さい」と祈られました。
先週、任命の目的はご自分のお選びになった者たちをご自分のお側に置くためでした。そばに置いて、父なる神の意思を知る者となって欲しかったのですね。イエスはパリサイ人や律法学者にも自分の側に来て、父なる神さまの意思を知る者になって欲しいと願われていたのです。

 3435節はこのイエスの思いが良く分かる箇所です。「自分の回りにすわっている人たち(自分の側にいる人たちのこと)を見まわして言われた。『見なさい。わたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ』」。35節のみこころを「行う」という言葉は、先週使われていた「任命」と同じ言葉が使われています。イエスから離れない人は、イエスの働きを共に行う人につくり変えられるのですね。

 イエスの家族も、後にイエスに従う者になります。エルサレム教会に最後まで留まったのはイエスの実の兄弟ヤコブでした。親族だからではなく、外に立っている人でもなく、イエスの傍にいる人として行動するようになります。幼子が一つのことに成功した時に、できた、できた、と一緒に喜ぶと、幼子はもっと喜ばせたいと感じます。それと同じように、イエスと共に歩むとき、イエスに倣う者となりたいという思いが与えられ、神の意思に自分の歩むべき道を一致させようと願う者とされていきます。神はご自分の民にこのことを願われています。432節、小さなからし種が大きく成長するという言葉にも「任命」と同じ言葉が使われていました。イエスの側に行くことでスタートした主の民の信仰は、共に歩み続けることで、大きく成長させてくださるのです。イエスと共に歩むというのは、具体的には集会に出ること、聖書を読むこと、賛美すること、祈ること、信仰の友との交わり等ですね。今は本の形の聖書以外にも、聖書アプリとか漫画聖書とか、聞くドラマ聖書とか、みことばを聞く方法は色々ありますので、お一人お一人に適した方法で御言葉に養われて、成長させていただきましょう。
最後にヨハネ155節をお読み下さい。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」

2月

2022.02.27
「新しい神の民」マルコによる福音書3章13~19節


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 異教の人アブラハムが神に選ばれ、その子イサク、イサクの子ヤコブと神の選びは続き、ヤコブの子孫がエジプトの奴隷の生活から救い出され、12部族として神の民とされました。その後、士師が立てられ、王の時代が続きましたが、神への従順を忘れた民は周辺の大国に侵略され、バビロン帝国の捕囚の民となりました。その後、カナンの地に帰還しますが、ついにユダヤの国はローマの支配下に置かれることになります。神の民は離散し、世界中に散り散りばらばらになります。しかし、神の民の歴史は神の子イエスが人となって来られた時、新しい時代が始まったのです。神の子イエスを生活の中で受け入れるという、イエスにある感謝と喜びという、新しい信仰を頂いたイエスの弟子たちでした。

 まずイエスさまは十二人の弟子を任命されます。十二というのは、12部族にちなんだ数です。ですから、彼らは「新しい神の民」として選ばれたのです。彼らはイエスと共に宣教し、初代教会を建て上げて行きます。さて、イエスさまは、どんな思いで十二人を選ばれたのでしょうか。13節を注目して下さい。「これと思う人々を呼び寄せ」とあります。他の訳では「ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せ」(新改訳)「みこころにかなった人たちを呼び」(口語訳)とあります。この人たちを弟子の代表者と考えることもできますが、今朝は、ここを、私たちのこととして受け取りたいと思います。
イエスさまは今朝、皆さんを「これと思う人」「ご自身のお望みになる者」「みこころにかなった人」として、礼拝に招かれているのです。これは、とても嬉しいことですね。

 「これと思う」十二人をお呼びになり、彼らを任命されます。この「任命する」と訳されている言葉は、ポイエオーという言葉が使われています。これは、「創造する」とか「建てる」という言葉が使われています。後に教会が誕生して行きますが、彼らはその創始者となりますね。十二人が任命されたのは、後の教会を創造するためであり、建て上げるために、まず彼らが選ばれたのです。つまり、皆さんも、そのことのために選ばれたということです。
 
 また、同じ言葉が432節に使われています。良くご存じの四つの種の例えの箇所です。32節では種が大きく成長する、という意味で使われています。任命されたのは大きく成長することを願われているということです。これは、神様が飯塚教会に期待しておられるということですね。この期待に応えるには、全員の祈りと協力が必要です。思いを一つにすることが必要ですね。私たちは、イエスさまから飯塚教会ならできると望まれて期待されてここに導かれている、このことを確りと自覚して、感謝して歩んで行きたいと思います。
 さて、そのような期待の下お選びになった十二人ですが、その最大の目的は何だったのでしょうか。ここが今日の御言葉のポイントです。
14節、「彼らを自分のそばに置くため」とありますね。
お選びになった最大の理由、それは彼らをご自分の直ぐそばに置くためです。

 私の子育ての中でこんなことを思い出します。長男が生まれた時、お祝いに頂いたものにスヌーピーの枕がありました。それは、いつも彼のベットの中にありました。そして、彼はそれが傍にないと眠れない程でした。歩きはじめる頃になると、それを何時もわきに抱きかかえていました。外泊する時にもそのスヌーピーが必ず一緒でした。その枕は彼の安心に繋がっていたのです。
 イエスさまが彼らをそばに置かれた最大の理由は、彼らに安心を与えるためです。また、イエスさまと共に歩む生活を身に付けさせるためです。幼子がスヌーピーの枕がいつも傍らになければならなかったように、イエスさまといつも共にあることが本当に自然なことであり、無くてならない事であり、喜びとなる為に、彼らをそばに置かれたのです。

 そして、そばに置かれたことに、もう一つ理由があります。それは、神の愛を深く知るためです。ある年の休暇にスペイン旅行を計画しました。私たちの旅はほとんど教会巡りです。それで出かける前に、バルセロナにある世界遺産のサグラダ・ファミリアの主任建築家となった「ガウディの伝言」という本を読みました。この教会は1882年から建築がはじまり今も建築中です。ガウディの建築は神さまがお造りになった自然界を構造の手本としているのが大きな特徴です。この本の著者の外尾悦郎さんはサグラダ・ファミリアの専任彫刻家として働いておられる方です。サグラダ・ファミリアというのは聖家族という意味で、現在完成しているのが生誕の門です。その中央に「救世主イエスさま」と書かれており、その上に糸杉のモニュメントの上に「白いペリカンの親子」が刻まれています。それで、外尾さんがそのことについて聖トーマスの伝言を紹介しておられます。
「母ペリカンは食べ物がなく、子ペリカンが飢え死にしそうになると、自分のお腹を口ばしで裂いて血を飲ませた。」つまり、このペリカン親子の像は、母と子の愛情のシンボル。それが、生誕の門の非常に重要な場所に置かれている。親子の絆は何よりも強い。犠牲を犠牲と思わせない力がある。それを象徴するペリカンを最も上に置いた。つまり、イエスという存在を生み出したのが神の愛の力であることをガウディは表現したかったのではないか。サグラダ・ファミリアの大きなテーマの一つだ、と書いておられました。 この教会は、主のご愛を、教会堂全体で表現しています。私たちの教会にはそのようなモニュメントはありませんが、私たち自身が主のご愛を表すものとなりましょう。そのために、まず、主のご愛を深く知る者となりましょう。

十二人を新しい神の民としてお選びになった神には、彼らに安心を与え、主イエスの十字架と復活に表される神の愛を深く知る者となって欲しいという願いがあります。そのために彼らをそばに置かれました。新しい神の民のスタートは、ここにあります。教会とは神の民の集まりのことです。建物を指すのではありません。その教会を建て上げるときに、このことは基礎となることだからです。私たちも、み側に置いていただいた者の一人として選ばれていることに、深く感謝を捧げたいと思います。神の愛を深く知る者となりましょう。

2022.02.20
「キリストとの新生活」マルコによる福音書2章18~22節


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 ここに、度々断食し、祈りをしていたヨハネの弟子たちやファリサイ派の弟子たちと、宴会で食べたり飲んだりしていたイエスの弟子たちがいます。どちらが信仰的かと聞かれれば、断食や祈りに熱心な人の方が信仰的だと答えるのではないでしょうか。しかし、イエスの答えは違っていました。これが今日の話しの筋です。わたしたちの信仰について、この話しは問い掛けています。自分には信仰があると思っている人だけではなくて、信仰がないと思っている人にも今日の話しは聞いて欲しいのです。ないと思っている信仰とは何の事なのかを考えさせられる話しが、今日の話しです。

 信仰とは神に近付くことだと思います。そして、神は聖なるお方ですから、俗なることから離れることが神に近付くことだと、まず考えますね。イエスの弟子たちが宴会で食べたり飲んだりしました。これは俗なることです。肉体的な欲求を満たす事は俗なることです。それで神に近付くことと禁欲することが関係してくるわけです。断食もその一つでした。俗なる世界から離れてするものに祈りもあります。信仰しない人の殆どは、俗なる自分には、信仰は関係のないことだ、と考えるのですね。
また、信仰している人は、日常から離れているときの信仰的生活と、日常に戻った俗なる生活という二重生活をすることになります。二重生活という信仰生活は、不自然で窮屈ですね。教会の中でもこういう信仰の捉え方が伺われる時があります。

今日の箇所は、前の13節以下の話しと関連しています。そこでは、盛大な宴会にイエスの一行が招待され、飲食を楽しんでいるのを見て、当時の信仰の指導者であったファリサイ派の人々や、その派の律法学者たちが不平を言っています。彼らも俗なるものから離れて神に近付くことが信仰だと捉えていたのです。
信仰者の生活は一つ
「イエスさま、あなたは神のことを語る者だと言いながら、飲んだり食べたりして楽しんでいて良いのですか。断食しなくて良いのですか。」そういう問いに対してイエスが答えられました。19節『結婚式は断食すべきときではなく、喜ぶときです。それと同じで、今は断食すべきときではなくて喜ぶときだから、わたし達は飲んだり食べたりする事を楽しんでいるのです。なぜなら、花婿であるわたしが一緒にいるからです。』と。
 信仰とは人間が神に近付くことです。確かに神はそのことを願っておられます。しかし、そこには問題があります。人間が努力して自分の行動を抑制しても、心の中まで清く出来ません。 聖書も宗教的に厳格でまじめなファリサイ派の人々と律法学者の、愛の無さ、自己中心な心を指摘しています。
それで、神の方から人間に近付いてこられたのです。いいえ、もっと究極的なことが起こりました。神であられた独り子イエス・キリストが人間になられたのです。俗なる人間になられたのです。俗生活の中に一緒におられるのです。これはどういうことでしょうか。聖なる生活と俗なる生活というように二つに分ける必要はないということです。信仰者の生活は一つなのです。
キリストとの新生活
ここを読んである牧師が注目すべき事を言っていますので紹介します。「当時宗教的に実に厳格でまじめな人々が、見ていて腹立たしく思うほどに、主イエスとその弟子たちが、食事を楽しんでいました。これは私どもの信仰に関る大切なことであります。」と。
神の子イエスによって、信仰を新しく捉える時代に入りました。生活の中で神を受け入れるのが信仰なのです。レビの家の食卓に神の子イエスがおられます。そして、イエスと共に食卓を囲んで、みんなで飲食を楽しんでいます。ここに新しいことが始まりました。
 しかし、ちょっと誤解のないようにお話しておかなくてはならない事があります。飲食を楽しむといいましても、色々な目的があります。ただ欲を満たすだけの飲食というのもあります。車のガソリンを満タンにするように、お腹を満タンにするようなものですね。それでは何だか寂しいですね。
もう一つ憂さ晴らしというのがあります。『憂さ晴らし』、憂いを晴らすと書きます。憂いとは嘆き悲しみ悩みのことです。人生には憂いがあります。それを飲食で晴らすのです。殆どの宴会はお酒で憂いを晴らします。最近は酔払えば良いというのではなくて、グルメを満喫して憂さ晴らしをする、というのも増えているそうです。
 
 レビの家での宴会は『憂さ晴らし』でも『欲を満たす』でもありません。嘆き悲しみ悩みは人生に付き物です。それは無くなるものではありません。しかし、讃美歌121番はイエスの事を「人となりて、貧しき憂い、生くる悩み、つぶさになめし」神の子と表現しています。そのイエスがレビの食卓にはおられるのです。それによってレビの食卓に喜びが生まれました。今まで憂さ晴らしに飲んでいたお酒を、感謝と喜びを持って飲んだのです。出された料理も、感謝と喜びを持っていただきました。ですから、イエスは19節でレビの食卓を婚礼の食卓に例えられたのでした。

 信仰とは、人が俗なるものから離れて神に近づくことではありません。生活の中に既におられる神、キリストを受け入れることです。しかし、このキリストを2000年前、人は追い出しました。十字架につけて殺したのです。これこそ断食をして悲しまねばならないことです。しかし、神は追い出されたキリストを死人の中から復活させて、永遠に人と共にいるようにしてくださったのです。このことは今も起っています。キリストは追い出されているのです。しかし、キリストは追い出されても、追い出されても共におられるのです。私たちが受け入れるのを待っておられるのです。

 2コリント417節に「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」とあります。
 キリストの後について行って、キリストと食事をしたレビ達は、キリストから新しい布、新しいぶどう酒を受け取りました。つまり、新しい信仰を頂きました。彼らは新しくなったのです。すなわち新しい皮袋です。キリストとの新生活が始まりました。私たちも古い信仰を捨てて、新しい信仰をキリストから頂きましょう。キリストはみなさんの食卓に着いておられます。まず、あなたの食卓に回復が必要です。まずキリストを心に迎えましょう。そして、あなたの生活の中にキリストを迎えましょう。これが、キリストを信じるということです。食前の感謝の祈りはこの具体的な一つの例ですね。キリストのおられない所はありません。

2022.02.13
「罪人を招く主」マルコによる福音書2章13~17節


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偽りと言う病気を直す医者イエス
わたしはノートを整理していて分かった事があります。最初のページの字は必ず丁寧に書いてあります。しかし、ページをめくって行くと、だんだん雑になります。そして、とうとう途中で何も書いていないページになります。聖書も新品の時には隅の所が折れないように注意します。開け方も丁寧にします。しかし、時が経てば汚れてきますし、隅が折れたり、破れたりもします。すると、最初の様な丁寧さが無くなってしまうのです。
 人生もよく似ています。 新成人、新婚さん、誰もが感動して、期待して、丁寧に、大切に自分の人生を歩み始めます。しかし、何時までも新品の様にきれいな人生であることは不可能です。振り返るとそうですね。汚れたり、傷ついたり、破れたりします。人生は自分の期待通りのものではありません。それで、自分の人生に対して感動したり、丁寧に扱ったり、大切にしなくなるのです。
アルファイの子レビもそんな人生を歩んでいたのだと思います。取税人という職業は、もうどうにも取り返しがつかない人が生きて行くために就く仕事でした。それは通行人から国に代わって通行税を取り立てる仕事でした。今の税務署と根本的に違うのは、その国が国民の国ではなくて、侵略者の国であるということです。ですから、この仕事は世の中から憎まれる仕事でした。
 レビの友達はみな同じ様な人生を歩んで来た人たちでした。盗人、詐欺師、売春婦などです。しかし、彼らも思っていました。「もう一度新しく人生をやり直せるならやり直したい。感動を持って、期待を持って、丁寧に、大切に人生を歩み始めたい。でも、そんなことはこの世ではありえません。自分達は世の中から落伍者と言うレッテルを既に貼られている。だから、どこへ行っても相手にされない。でも本当はこんな歩みをしたくない。しかし、そんな弱さを、そんな悩みを外に出してはいけないのです。大きな顔をして人々から恐がられていないと、この仕事はできません。
 その日も隣の国に通じる国境の道に設置された収税所にレビは座って通行人の来るのを待っていました。すると近くを通られたキリストが彼に声を掛けられたのです。「わたしに従いなさい。」。1章で、四人の漁師には「人間を捕る漁師にするから、わたしについて来なさい」と言われました。また、金持ちの青年には「天に富を積んでわたしに従いなさい」と言われました。しかし、レビには「わたしに従いなさい」と一言だけでした。今のレビには声を掛けてもらうだけで十分だったのです。わたしに従いなさい、この原語のギリシャ語は「一緒に」と言う言葉と「人生の道」と言う言葉が合わさって出来ています。「わたしと一緒に人生を歩みましょう」この様に言って、自分を本気で相手にしてくれる方と、レビは出会ったのでした。
 恐い顔をして収税所に座っていたレビは、沢山儲けていたでしょう。しかし、その姿は自分が望む姿ではありませんでした。レビにとって今日までの人生は、自分の本当の気持ちを誰にも打ち明けられず、何時も自分に偽って「これでいいんだ」と言い聞かせて、歩んで来た人生でした。レビは偽りの人生から脱出したかったのです。「わたしと一緒にいきましょう」と声を掛けられ、彼は立ち上がってイエスに従いました。そして、彼の多くの仲間もイエスに従いました。
食事の席で彼らはキリストに心の内を話しました。キリストはその一人一人に「偽りの人生と別れて、これからはわたしが一緒だよ。わたしと一緒に残された道を真実に進みましょう」と言って下さいました。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなくて病人である。」キリストは偽りと言う病気を治す医者なのです。偽りこそ人間の深い悲しい病いなのです。真実でありたい、これが人の一番の願いなのです。
的外れという病気を直すイエス
さて、その様子を見ていた人達がいました。それはファリサイ派の律法学者です。彼らはエリートでした。他人からの良い評価を受けていました。誰からも後ろ指をさされることの無い、落ち度の無い、正しい者である事で自分を満足させていました。ノートに例えるなら、最後まで綺麗に整った字で書き終えられたノートと言えます。しかし、彼らにとっても医者が必要でした。
 彼らは神から与えられた律法に、覚えきれない程の生活の細々とした細則を作って、それを守る事に終始していました。それが神に喜ばれる事だと信じていたのです。ですから、律法を守らない、守れない人々を神の救いから外れている人と考えました。イエスはそんな人たちと交わっていると批判したのです。しかし、彼らは「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」ということが、「隣人を自分のように愛する」(マタイ22:37-39)ことだという、律法の精神を見失っていたのです。彼らも的を外して生きていたのです。キリストはそれを治してくださる医者なのです。
 「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」これは「自分は的を外していない」と言い張る正しい者に対する挑戦の言葉でもあります。「義人はいない。一人もいない」(ロマ3:10)と聖書にあります。
3章の6節では、とうとう彼らはキリストをどのようにして殺そうかと相談し始めます。自分達が信じてその教えを守っていると言う神様から遣わされた神の独り子を殺そうと相談し始める事こそ、的の外れている証拠です。しかし、残念ながら彼らの目は閉ざされてそれが見えませんでした。そして、キリストを十字架に磔にします。彼らもまた罪人の一人なのです。
 
 さて、私たちは今日二とおりの人の有りようを聞きました。私たちはどうなのでしょうか。1ヨハネの手紙110節にこうあります。「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽りものとすることであり、神の言葉はわたしたちのうちにありません」。キリストが十字架で命を捨てられたとは、偽り、的外れという私たちの罪を担ってくださったということです。この恵みを今朝も覚えましょう。キリストは今も、私たちを真実な人生へ出発させて下さる方です。そして、今日もみなさんを招いて言われます。「わたしと一緒に行こう、ついて来なさい。」と。偽り、的外れと言う病気を直す事のできる医者であるイエス・キリストに、従って行きましょう。

2022.02.06
「罪を許す権威」マルコによる福音書2章1~12節


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【屋根に穴を開けてまで】
中風と言う病気は一刻を争う急病ではありません。しかし、3.4節の屋根に穴を開けて彼の寝ている床を釣り降ろしたという所を読みますと、何か急病人を運んで来た様に思えます。おびただしい群衆が病気をいやしてもらう為に詰め掛けていました。順番があったはずです。急病人だったら話が解ります。どうして屋根に穴を開けてまで急いでイエスの前に行かなければならなかったのでしょうか。
 ここで癒し以外のことを伝えたかったからだと思います。そうでなければきちんと順番を待って、中風さえ治ればそれでよいですね。病気が治ればそれで問題は解決ですよね。他にどんな問題があるのでしょうか。聖書は私たちにも問い掛けています。
【床にのせたまま】
床にのせたまま連れて来られたというのですから、全身が動かせない一番ひどい寝たきり状態だった様です。彼にとって、この床が生きる場でした。この床ごとイエス様に彼の現実を見ていただきたかったのです。「イエス様、神はどうして私達にこの現実をお与えになったのですか。」
皆さん、私達も同じ質問を、人生の中で持ちます。そして、多くの場合その原因は何なのかと言う答を求めます。何か悪いことを自分がしたのか、先祖がしたのか、そのバチが当たったのか。あるいは、方角が悪い、名前が悪い、先祖の供養の仕方が悪い、と言う風にです。
しかし、つれて来た男たちが求めたのは原因ではありませんでした。詩篇38篇が歌う思いをこの男たちは持っていました。それはこういう思いです。「主よ、わたしはなお、あなたを待ち望みます。わたしの主よ、わたしの神よ、ご自身でわたしに答えてください。原因ではなくて、神はこの現実をどう思っておられるのか、この病気の本人、その病気を共に担って看病している家族を神はどう思っておられるのか。その答えをズーッと待ち望んで来ました。その答えが一番大切なんです。それが私の人生を根底から支えるんです」、詩篇38篇は詩人のこの信仰をうたっています。
 男たちはこの詩篇を口ずさみながら、神から遣わされた方が来られたならきっと答えていただける、と信じて何年も何年も待っていたのではないでしょうか。待ちに待った今日その方イエス・キリストが来られたと聞いて、待ちきれなかった思いが、屋根に穴を開けさせたのではないでしょうか。自分の人生を根底から支えるお方が来られた、と言う信仰です。5節で、イエスはその彼らの信仰を見て、神に代わって答えられました。「子よ、あなたの罪は赦される。」
【罪の赦しを信じる】
 皆さん、私たちも今日この屋根に穴が開けられた家にいるといたしましょう。その真ん中にイエス・キリストがおられます。群集でイエス・キリストの姿は見えません。入り口の所でしょうか、まだ入り口には達していないでしょうか。しかし、その家に集まって来ました。私たちもイエスの声を聞きましょう。「子よ、あなたの罪は赦される。」
 罪の赦しとは、罪を取り除くという事です。イエス様は言われます「あなたの罪を私が取り除きました」。罪って何でしょうか、またそれをイエス様はどうやって取り除くのでしょうか。       
私が頂いた結婚祝いに綺麗な刺繍の入ったテーブルクロスがありました。とても気に入ったのですが子育てが始まると汚すので、子育てを終えてからと大切に置いておきました。その時が来たので出してみましたら、何と手の染みでしょうかあちこちに薄茶色の染みが出来ていました。皆さんもこんな経験があるのではないでしょうか。罪ある人間の人生は染みのあるテーブルクロスに似ています。その染みは何で洗っても取れません。また、どんなに素晴らしい料理をテーブルに並べ人の気を引いても、その食器で染みを覆っても、染みはそこにあるのです。どんなに素晴らしいテーブルに変えても、そのテーブルは染みのあるテーブルクロスを敷いたテーブルなのです。このテーブルクロスは人にはどうすることもできないものなのです。私達は人生をテーブルの上にものを並べる事と考えます。そこに何を並べるか、何が並んでいるか、平凡な一人の人生か、多くの栄光に輝いた人生か、人はテーブルの上にあるものに注目します。しかし、そのテーブルクロスは染みがついたままです。
「子よ、あなたの罪は赦される。」と言われるイエス・キリストは、私達の染みのあるテーブルクロスをご自分の真っ白なものと取り代え、ご自分のテーブルに私達の染みのあるテーブルクロスを敷かれます。これによってはじめて罪が取り除かれ赦されるのです。
 9節の「起きて歩け」と言うのは、中風と言う病気と健康とを取り替える事です。しかし、染みのついたテーブルクロスは変わりません。罪はそのままです。「あなたの罪は赦された」と言うのは、テーブルクロスをイエス・キリストの真っ白なものと取り替える事です。どちらが易しいか。これは私達への問いです。「あなたの罪は赦された」と言う方が難しいのです。今朝のみ言葉は「人は人生のテーブルの上に並べるものの事ばかりに気をとられて生きている。しかし、汚れたテーブルクロスの事をちっとも考えない。忘れている。気付いていない。」と、指摘しています。皆さん自分のテーブルクロスの染みに目を向け、キリストの罪の赦しを信じましょう。
【十字架と復活】
 屋根に穴を開けた人たちが問い掛けた「イエス様、神はどうして私達にこの現実をお与えになったのですか。」と言う問いは「神はどうして私達を見捨てられたのですか」という問いでもあります。イエス・キリストは十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」15:34と叫ばれました。これは、わたしたちの染みの入ったテーブルクロスをご自分のものとされた、という事です。死んで三日の後、神は死人の中からキリストを復活させ「わたしは、決して見捨てたのではない」と答えられました。
 あなたの罪はイエス・キリストによって取り除かれたのです。あなたの人生のテーブルで最も問題なのは汚れたテーブルクロスです。それをキリストが真っ白なものと取り替えて下さったのです。十字架の上で罪のない神の子のいのちが捧げられたことによって、すべての人の罪が取りのぞかれたのです。信じてイエス・キリストの前に行きましょう。この中風の人と同じようにキリストの前に行きましょう。
 そして、キリストのテーブルを見て下さい。そこにはあなたの汚れたテーブルクロスが敷かれています。キリストは神から与えられた権威によって宣言されます。「あなたのテーブルクロスは真っ白です。
汚れは取り除かれました。子よ、あなたの罪は赦された。安心して帰りなさい。」「神はあなたを決して見捨てておられません」。

 本来でしたら今朝は聖餐式が行われる予定ですね。しかし、オミクロン株の急増の為行えません。聖餐とはキリストの食卓に着くことです。聖餐式でキリストのテーブルに着く時、覚えましょう。キリストのテーブルクロスと取り替えていただいた恵を。人生というあなたのテーブルに何が置かれようとも、キリストの真っ白のテーブルクロスという恵の上である事を。それは神の子だけが持つ罪を赦す権威を示すテーブルクロスです。その上にわたし達はどんな人生を並べましょうか。罪赦された恵みをこの一年も深く受け止めて、賛美と感謝をもって歩んで行きましょう。

1月

2022.01.30
「キリストの手」マルコによる福音書1章40~45節


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 ★キリストは、ユダヤ人の会堂や野外で、神と人の和解の福音を、のべ伝えられると共に、病気や障害を負う人々と会い、癒されました。その評判がガリラヤ中の町に広がった時に、かつて、知らずにキリストに洗礼を授けたヨハネが、その噂を荒れ野で聞いて、弟子をキリストの所へ派遣して尋ねさせました。「来たるべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。するとキリストは、次のように答えられました。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ・・」。

 ★ヨハネは、弟子たちの報告を聞いて、約500年前になされたイザヤの預言を思い出したことでしょう。「神は来て、あなたたちを救われる。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が、喜び歌う。3545節」。しかし、聞いた報告には、一つ重要な言葉が加わっていました。それは、重い皮膚病を患っている人が清くなる、という言葉でした。

 ★「重い皮膚病」という言葉が、初めて聖書に出てくるのは、モーセがエジプトで苦しんでいる神の民イスラエルの所へ、神から派遣を命じられた時でした。その時、神は断るモーセに対して、彼らの神が確かにモーセに現れ、エジプトに遣わされた事が、本当であると示す、しるしをモーセに見せられました。杖が蛇に、その蛇が元の杖に変わる軌跡と、もう一つは、手が重い皮膚病に、そして元の手に戻る奇跡。そして言われました。「たとえ、彼らがあなたを信用せず、最初のしるしが告げることを、聞かないとしても、後のしるしが告げることは、信じる」。皆さん、後のしるしは彼らに告げました。「重い皮膚病を御支配する、あなたがたの神、主である私がこのモーセを遣わす」。

 ★神の民は信じて、モーセに従いました。民はエジプトから脱出し、神の山、シナイ山まで導かれ、十戒を中心にした、これから始まる神との生活の心得を教えられ、神と共に進む、信仰の旅に出掛けました。男だけで60万人もの人々の旅を、モーセ一人が指導するのは至難の業でした。民からは、神の憤りを起こさせる不満の声が続々と上がりました。モーセは民と神の間に立って、心身ともに疲弊し、悲鳴を上げました。その時、神は70人の補佐を増やし、続けてモーセを通じて、信仰の旅を導かれました。

 ★ところが、エジプトに遣わされる時から、モーセの一番の補佐役に選ばれ、モーセを助け、民の模範となるべきアロンとミリアムが、モーセを非難して、分裂分派が生まれようとした時がありました。これは非常に大きな罪でした。それで神は神の民から、初めて去って行かれました。と同時に、ミリアムが重い皮膚病にかかり、七日間、民の外に締め出されました。民は七日間、重い皮膚病になったミリアムを遠くから眺め、荒れ野の真ん中に取り残され、神が去って行かれたという、事態の深刻さを体験しました。

 ★しかし神は七日後に戻られ、旅は再開しました。神が共に歩まれた神の民の歴史は、それ以後約800年続きます。その間、神は憤りを覚えながらも、憐れみの心をもって民に接したことは幾度もありました。しかし、民はそんな神の思いを無視して離れて行き、とうとう、神の都と言われたエルサレムが陥落し、神殿が破壊され、祭司たちが捕虜になって外国へ連れて行かれる窮地に陥ります。その中にいた祭司ブジに、息子エゼキエルがいました。神はそのような中で、彼を預言者に立て、エルサレムの神殿から、神が去られた事を告げました。これで二度目ですね。しかし、神は約70年後に祭司たちが帰り、神殿が再興されるように導かれますが、アレキサンダー大王やローマ帝国という、大国の支配が相次ぎ、去って行かれた神が、戻られる気配は、まだありませんでした。そういう中でイエス・キリストが生まれました。

 ★マルコ福音書は、キリストが、けがれた霊や悪い霊を追い出したり、病人、中風の人、手の萎えた人をいやしたり、耳の聞こえない人や、口の利けない人や、目の見えない人の障害を、取り除いたりされたことを、沢山伝えています。その中で、今日読まれました140節以下にある、キリストが手を差し伸べて、触れられると、たちまち重い皮膚病が去ったと言う出来事は、去っておられた神が戻って来られた、それも神に代わって、その愛する独り子が来られた、という決定的なしるしでした。

 ★ところが神が、神の民の所に戻って来られたと言うのに、神の民はそのキリストを十字架にかけました。キリストの手は、無理やり伸ばされて、太い釘が打ち込まれました。キリストは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈られ、身体の痛みと、嘲りによる心の痛みをも受け、そして、息を引き取られました。

 ★天で見守っておられた神の憤りは、いかばかりか。ところが、神は、墓に葬られて三日たったキリストを、死人の中から甦らせて、師を見捨てて逃げ去り隠れていた、弟子たちの真ん中に立たせて、「あなたがたに平和があるように」と、和解の手を差し伸べさせられました。その手には大きく深い釘の跡がありました。神はキリストの祈りを聞いてくださり、本当に戻って来て下さったのです。キリストは神と人の和解のしるしです。そして、神は、神の民とだけではなくて、皆さん、お一人おひとりとの和解をも、含めてのしるしであることを、公言なさいました。それで教会では、毎週の礼拝の最後、出席者に向かって「全世界に出て行って、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい」と、派遣の言葉が告げられます。

 ★キリストは今から約2000年前に、天に帰られました。しかし、去って行かれたのではありません。代わりに地上には聖なる霊を遣わし、教会を導かれます。キリストは、天に皆さんを迎える準備が整い次第、必ず戻られます。今は、皆さんがキリストに繋がる手、足、目、耳、口となって、キリストのからだなる、教会を形成し、よき働きをさせていただく時です。しっかりと、キリストに繋がりましょう。神との和解をまだ、なさっておられない方は、是非、このキリストによって示された神との和解の招きに、お応えしましょう。

★お祈り
天の父なる神様、あなたのみ名をあがめ、賛美します。
コロナ感染防止のため、愛する兄弟姉妹が、相集っての礼拝ではありませんが、それぞれが可能な方法で、お献げしております。
どうか、平常の礼拝が早く再開できるようにしてください。

キリストの手を、神と人の和解のしるしとされた父なる神、天に帰られたキリストの後、この地上で私たちのこの手も、同じ働きをする手としてください。
人と人、民族と民族、国と国との和解の実現は、非常に困難ですが、どうか、この私たちの手をそのために用いてください。
最も小さき者のひとりに、気付く目と、仕える手と、してください。

感染された方々、感染防止のために働く方々、感染のために仕事に影響を受けている方々、を支えお守り導いてください。
指導者に立てられている人に、正しい判断を下す知恵を与えてください。
高齢者の体調をお支え下さい。
子どもたちを、お守りください。妊婦さんたちをお守りください。

イエス・キリストのお名前によって、お祈りします。

2022.01.23
「新しい命に生きる」マルコによる福音書1章16~20節


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 ★「あなたは神と和解できます」これがキリストが宣べ伝えて下さった神から皆さんへの福音です。信仰の出発点は、神と和解させいただくことです。
 ★皆さんの手元にある聖書は、旧約1502ページ、新約480ページ、合せて1982ページです。その最初の10ページで、禁断の実を食べて、エデンから追放され、二度とエデンに戻れなくなった、人の先祖アダムとエバの物語があります。それから、神が人を造ったことを後悔され、大地にいる息のあるもの全てが、洪水によってぬぐい去られ、箱舟の中にいた、ノアの家族と、それぞれの動物のつがいたちが、かろうじて生き残り、世界が再出発できた物語があります。この二つの物語が、これから始まる1982ページにも及ぶ長大な物語の前提のように綴られています。
 ★「神との和解を人は諦めている」これが私たちの一番根底にある問題だからです。この問題がある為にどうしても不安が残ります。その不安を和らげる為に、人は色々な宗教を作って来ました。ですから教会は他宗教の存在を否定しません。人間の現実と受け止めます。また、教会は優越感を持つべきではありません。神と和解して救われるのは、全く神の憐みによる、恵みによる、神主導の出来事だからです。
 ★今日読まれました、キリストが仕事中の漁師4人を最初に弟子とした物語は、彼らの信仰心のあるなしが全く語られていません。神主導です。信仰の出発点、神との和解のために皆さんは何もしなくて良いのです。神が為さる事です。しかし、神は私たちを、ロボット扱いされるのではありません。それで神は招かれます。キリストは神に代わって彼らを招いて言われました「わたしについてきなさい」。彼らは躊躇することなくキリストの後について行きました。
 ★それだけではありません、シモンとアンデレは、網を握っていた手を放して、湖に捨てて、ついて行きました。ヤコブとヨハネは、その日の漁を早く終え舟の中で、父と雇人たちと網の手入れをしていました。その仕事を残して、ついて行きました。漁師のいのちと言われる網を失ったシモンとアンデレの家は、これから先どうやって食べて行くのでしょうか。雇い人もいたヤコブとヨハネの家の漁業は大がかりでした。父ゼべタイは息子たちに跡継ぎとして期待していたでしょう。色々詮索すると、常識では考えられない事がここに書いてあります。しかし、聖書は「そのような詮索をされると誤解を招く恐れがある」と、言うような心配を全くしないで、ここを綴っています。
 ★また、皆さんは早合点して、信仰によってクリスチャンは非常識で良いと思ったりはしないで下さいね。では、どういうことなのでしょうか。聖書はただ、「わたしについて来なさい」とのキリストの招きが、人間にとって、皆さんにとって、あなたにとって、天地がひっくり返る位の、人生最大の出来事であることを、ただそれだけを皆さんに伝えようとしています。
 ★キリストが天に帰られた後、この漁師たちはキリストに代わって「神と和解させていただきなさい」と招く教会を形成して行きました。2コリント519-21「神は、キリストによって、世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉を私たちに委ねられたのです。ですから、神が私たちを通して、勧めておられるので、私たちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。私たちはその方によって、神の義を得る事ができたのです。」
 ★さて、神と和解させていただいた後、私たちがすることは一つだけです。キリストの後について行く、キリストのうしろに行くことです。前でも横でも斜めでもなく、真後ろです。そこは列車のように、連結部があるところです。つまりキリストとしっかり繋がる事です。その結果としてキリストが歩まれる道を歩む事になります。皆さんは、羊が羊飼いについて行くように、ついて行くだけで良いのです。羊飼いについて行くのは難しい、と言う羊はいません。なぜなら羊飼いの声を知っているからです。ですから、皆さんも羊飼いキリストの御声である、聖書のみ言葉を心に納め、受け入れて下さい。
 ★さて、招きに応えて、キリストの後について行くだけで良いのです、あとはキリストが事を進められます。「人間をとる漁師にしよう」。これを読んで、教会はちょっと危険な所では、と思う方もおられるのではないでしょうか。原語は単に人間の漁師となっています。それでは何のことか分からないので、人間をとる漁師と翻訳されました。ルカ福音書は原語でも、人間をとる漁師、となっていますので、参考になります。そこで使われている原語は、「生け捕る」です。
 ★それは水族館の魚に似ています。出来るだけ自然のままに、傷付けず、弱らさず、最高の注意を払って、最高の環境に設定した水槽に入れます。キリストは私たちを水槽の中ではなくて、神様の御支配の中、御手の中、神の家族の中、羊飼いイエス・キリストの群れの中、キリストと言う葡萄の木に繋げられた枝々の中、という最高の環境の中に入れて下さいます。教会は、それを新しい命に入ることだ、と伝えてきました。参考に一つ聖句を紹介します。
 ★だれでも、キリストの内にあるならば、その人は新しく造られた者です。古いものが過ぎ去って、すべてが新しくなりました。2コリント517節。
 ★クリスチャンになったら、今の自分はどうなるのだろうか?と心配しますが、この生け捕りの事を思い出して下さい。人間をとるキリストは絶対に、人をだめにしません。キリストは人を新たに生かします。そして、神はおお喜びなさいます。そして、その人を今度は、神の和解の使者としての働きに、与らせて下さいます。その神のおお喜びに共に与らせて頂きます。これは素晴らしいことです。
 ★既にキリストの招きを受けて、その後について来られている皆さん、あの招きが、どんなに大きな出来事であったか、「あなたの測り方はまだ小さい」と言われています。「わたしの後についてきなさい」今もキリストは招かれます。この招きを今、私も受けている、そう思われる方、心配することなく答えて下さい。神と和解し、その御支配の中に入れていただき、新しい命に生きて下さい。
お祈りしましょう。

2022.01.16
「時は満ちた」マルコによる福音書1章14~15節


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 ★私たちは天に向かって地を歩む中で、色々な生活をして来ました。そして、今、しています。そして、これから先どんな生活になるのかは分かりません。振り返ると、学校生活、就職して職業人としての生活、結婚生活、子育て生活、長期の闘病療養生活・・・色々あります。それぞれの生活に入る前に、私たちは急いで出来るだけの準備をします。しかし、後から考えると、これをしといたら良かったのに、あれをしといたら良かったのに、と、後悔の連続です。大切なのは、日々の営みの中で、コツコツと、準備することですね。天での、父なる神とイエス・キリストとの、生活の準備もコツコツですね。私たちのために何をして下さったのか、まずこの事を知る、そして、それを知った者として相応しい生活を、コツコツ進めましょう。
 ★キリストは、私たちのために、何をして下さったのか?ズバリ、神さまが伝えようとしておられる、福音を、宣べ伝えました。「宣べ伝える」それは宣言する事です。学校の教室でも講演会場でも講師は正面中央に立ちます。ヨーロッパの古い教会では説教壇が礼拝堂の前より後ろへ下がった会衆の横にあります。周り階段を2メートル以上登って説教します。説教が講義でも、講演でもなく、神の福音の宣言だからです。だから、聖堂は教室や講演会場の様な明るさはいりませんでした。大人も子どもも、神の福音の宣言を聞きました。
 ★では、神の福音とは何でしょうか。福音と翻訳されていますが、原語は、良いと、知らせの、この二つの言葉が合わさった形になっています。神が私たちに、良い知らせを宣言したいのです。と言うことは、私たちは、何かが良くない状態だ、と言うことになります。
 ★昨年、飯塚教会に赴任して、4/8木曜の朝10時の集会アパルームで、聖書を第一ページから、コツコツ読み始める事といたしました。今週は19ページになります。皆さん、是非このコツコツに加わって下さい。集会に来れない方は、ネットで、あるいは印刷物を受け取って加わって下さい。宣伝はここまでにいたします。
 ★さて聖書を読み始めてすぐに感じる事は、神と私たちの関係がどうも良くない、と言うことです。神の方は、何とか良くしようと、私たち人間に働きかけてくださるのですが、私たちの方は全く無視し続けました。神は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ、洪水で天の下にある高い山は全て覆われ、水は勢いを増して、更にその上15アンマ(7.7m)に達し、山々を覆い、地上の肉なるもの全ての息を絶されました。最悪の結果となりました。ですから、神の福音とは、「わたしとあなたがたの関係が良くなったぞ」と神がなさった、和解の宣言です。キリストはそれを神に代わって私たちに宣言して下さるお方です。
 ★さて、神の和解の計画は既に大昔から始まっていました。人間としての希望が見いだせないひとりの人アブラムを選び、彼から一つの民族を興し、彼らと共に歩む中で、「わたしはあなた方の神である」「あなたは私たちの神である」という関係を作り、彼らを神と人の和解の印、その目に見える形としての祝福を取り次ぐ者、とする計画を立てられました。神が彼らと共に歩まれたので彼らは神の民と呼ばれました。ところが、彼ら自身が神に背を向け、他の神々に向かって行ったので、神は彼らから離れざるを得ませんでした。神は預言者を遣わし、立ち帰るよう勧めました。しかし、彼らは聞く耳を持たず、とうとう預言者の命を奪いました。そんな事が繰り返されましたが、それでも神は、預言者を、御自分の思いを伝える使者として、遣わし続けられました。
 ★この様に神は神と人の和解の計画に、長い長い時間を積み重ね、惜しみなく手間と暇を、掛けられました。このように、神と人のバトルを通して、増々露わになって行く人間の問題に対して、神は増々その愛を燃やされました。そして、神は神と人との和解の計画に最終決断を下されました。キリストの第一声である「時は満ちた」は、天地創造以来の、神の人に対する愛の充満の限界をも表しています。
 ★第二の声の「神の国は近づいた」は、観念の神ではなくて現実の神が人間に大接近して和解を実現させることです。それも、御自分ではなくて、愛する独り息子のイエスを、人として生まれさせる、と言う究極の形をとられました。一般に宗教の救いとは、神でしょうか、仏でしょうか、真理でしょうか、悟りでしょうか、人間が下から上へ向上して行く行為です。しかし、神がイエス・キリストによって、上から下に、人間の方に近付かれました。神は神と人との和解の実現の為に、かつての預言者の命を奪った、人間の罪深さを承知の上で、むしろ、愛する独り子が苦しみを受け、侮られ、捨てられ、十字架と言う罰を受けても良い、罪の長の死に勝利され、葬られ、陰府に下っても良い、全ての人の罪を代わりに背負わせて良いと決断なさいました。後に神はその無残な姿になった我が子に全ての力を注いで復活させ、罪の長である死を打ち破り、罪からの解放と、復活したキリストの差し伸べた手によって、神と人の和解の道を実現されました。「あなたは神と和解できる」これが良い知らせです。
 ★第三の声は悔い改めと信じる事の勧めです。ユダヤ人からは「神と無関係の人々」と言われ、自分でもそうだと思っていた、ガリラヤの人々に、キリストが一番にこの勧めをしたのは、この喜びの知らせに、無関係な人は一人もいないからです。それを聞いて「わたしも神と関係しているんだ」と、少しでも感じるなら、何でもいいです、神に応答して下さい、それが悔い改めて福音を信じる事の始まりです。皆さん、今日から何か始めて下さい。最後にもう一度、わたしからキリストに代わって皆さんに宣言します。「あなたは神と和解できる」。
お祈りしましょう。
天の父なる神さま、あなたの御名をあがめ、感謝いたします。
イエス・キリストによって、神と和解できる、この良い知らせを
今一度聞き、悔い改めて信じます。

時が満ちるまで、神の愛が人に、繰り返し繰り返し、注ぎ続けられたかに、今日改めて驚いております。

また、私たち一人ひとりに取りましても、時の満ちるに及び、神との出会いの時、決心の時、神に向きを変える時を与え、キリストによって神がこの私に接近して下さり、あなたとの交わりに与らせて下さいました、その恵みに感謝いたします。

その恵みの応答として、何をお献げしたら良いのでしょうか。この地上にある間、礼拝、賛美、祈り、献金、時間、能力、わたしに与えられたもので精一杯献げ続けさせて下さい。それが天に於いて、あなたとお会いする、良き備えとなりますように。

今週も私たちと、愛する家族を守り導いて下さい。オミクロン株のウィルスからお守り下さい。
また、私たちの全ての営みを祝福して下さい。

神の福音を宣べ伝える為に、飯塚教会を用いて下さい。その為に教会を整える必要があります。その為に相応しく、より良い教会の組織を考える必要があります。どうか、良き知恵をお与えください。

教会に集えない人の上に、神さまの導きをお願いします。

病や障碍を負いつつ歩まれる方々を支え助けて下さい。
悲しみの中にある方々を、失望落胆している方々を、そこから立ち上がらせて下さい。
この星の環境が保たれ、子ども達の笑顔を絶やすことのない世界、戦争が必要ない日が、来ますように。その為にも教会を用いて下さい。
キリストの御名によって祈ります。

2022.01.09
「天に向かって地を歩め」マルコによる福音書1章1~13節


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 2022年はもう既に九日目に入り、皆さんのいつもの生活が動き出しました。新幹線が動き出したら、車掌が入って来て言います。「本日は新幹線の御乗車、誠にありがとうございます。ただ今から皆さまの切符を拝見させて頂きます」、そして一人ひとりの切符を、チェックしますね。皆さんがお母さんのお腹から生まれ出た後、人生という乗り物に乗り、動き出します。目には見えない人生の切符もちゃんと神さまから貰っています。貰っていない人は一人もいません。この場合車掌は来ません。その代わりに聖書はみなさんに言います。「皆さん、ただ今から人生の切符をご欄に成って行き先を確認して下さい」。

 朗読された聖書にそのヒントがあります。3節、荒れ野で叫ぶ者の声がする。荒れ野とは人間も動物も植物もない、風の音以外は何も聞こえないシーンとした所です。緑豊かな日本では考えられない所ですが、私たちの身近な所にも、荒れ野があります。例えば病院のベッドの上も、それまで日々の生活に追われていた者にとっては、シーンとした荒れ野です。荒れ野は自分を見つめ、自分の人生の行き先のことを考えさせられる所です。その荒野でヨハネは「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」と主の道を進めと、叫びました。

 今日コスモスコモンで午後1時飯塚市の成人式が行われます。子どもが親の手から離れて、一人の大人として責任を持って、自分の人生の道を自分の好きな様に歩み出す、その様な時だと、祝辞されたなら「いいえ、うちの子はもっと前から、親の言う事を聞かないで、自分の好きなように歩んでいますよ」。「いいえ、僕の場合は大学を出たら次はどこだと、もう親が決めています。いつになったら自分の人生を自分の好きな様に歩めるのでしょうか」。なんて色々な声も聞こえますが、全員、自分の人生は自分の好きな様に進む「自分の道」だと思っています。しかしヨハネは、そうじゃない「主の道だ」と叫びます。「主の道」それは主イエス・キリストがおられる所、父なる神がおられる天国へ向う道です。ヨハネは叫びます「私達の人生の行き先は天国だ。しかし今反対に向かっている。180度方向転換が必要だ」。その通りだ、と信じた人はヨルダン川で、罪を告白して、悔い改めの洗礼をヨハネから受けました。

 しかし、人間がするこの180度の方向転換というのは、いい加減なもので、また180度回ったら簡単に元に戻れます。方向転換した後が肝腎です。そのままではいけないのです。天国に向かって進まなければなりません。しかし、ヨハネは天国への道とは具体的にどんな道で、どの様にしてその道を作って、真っ直ぐ進めるのか、一切答えませんでした。皆さん、ちょっとヨハネさん無責任の様に思いませんか。しかし、そうじゃありませんでした。わたしの後から必ず来られる私より優れた方イエス・キリストが責任を持って、180度方向転換したあなたの為に、天国への道を作り真っ直ぐに切り開かれます。ヨハネが確信を持って180度の方向転換をするよう叫んだ拠り所は、ただただこのイエス・キリストによっていました。行き先が天国と書かれた、目には見えませんが神さまから頂いている行き先が天国の人生の切符を、ここにいる皆さんが、いえ全ての人が持っています。

 皆さん、私達の今の信仰も、このヨハネの立場と似ています。ヨハネは「わたしは、かがんでその方の靴の紐を解く値打もない」と言いましたが、私たちは靴の紐を解く以前に、その靴の裏の泥を取り除く値打もありません。私たちの後から必ず来られるイエス・キリストは、2000年前にこの地から天へまっすぐに道を通したお方です。ですから私たちもひたすら、天国に向けてこの地を歩みましょう。私たちの拠り所は再臨のイエス・キリストです。更にキリストはプラスして再臨の日まで聖霊の助けを約束して下さいました。これは特別です。

 キリストが確かな拠り所である事を例えを持って話してみましょう。皆さん吊橋で最も重要なのはワイヤーを大地に固定する所ですね。アンカーレイジといいます。明石大橋のアンカーレイジは70m×40mの広さで高さは30メートルをこえるでしょう。そのコンクリートの塊が地中にドッシリと据えられています。深く掘れないのでこの重さと摩擦力で吊橋を支えます。キリストが真っ直ぐ通された天と地を結ぶ道も、この吊橋と似ています。天の側のアンカーレイジは問題ありません。問題は地の側です。ワイヤーを深く深く据えなければなりません。つまり地面ではなくて、私たち人間の現実の深い深い所まで、ワイヤーを持って行って、絶対に抜けない様にされました。具体的にどうされたかと言いますと。

 キリストは方向転換する必要がありませんが、群衆に紛れてヨハネから洗礼を受けました。洗礼を受けても誘惑の多い中にいる私たちと同じように誘惑を受けました。全世界に広がる教会の使徒として田舎の漁師を選びました。汚れた霊に取りつかれた男、多くの病人、婦人病の人、思い皮膚病、中風の人、手や足や耳や目に障碍のある人、徴税人、罪人と呼ばれた人、最後は死刑囚と共に十字架につけられました。当時これらの人は天国へは行けないと言われ、自分でも諦めていた人々でした。十字架の苦しみ、死に、葬られ、そして三日後には陰府と呼ばれていた天国とは正反対の極みにまで低く低く、ワイヤーを持って行かれたのでありました。
 神は、それを確認してキリストを甦らせ天にまで帰らせ、ワイヤーが天と地で確りつながれ、天国の道、橋を完成させられました。この工事は神とキリストの愛の工事でした。ローマ8章35-39節参照。天に向かって地を歩みましょう。

 さて、皆さん天に向かうとは、天の父と御子イエス・キリストとに会う事を大前提にして、この地上で、何事についても、対応する、歩むという事ですね。そのために、今日からマルコ福音書を通して毎週、キリストが地上に残された、言葉に耳を傾け、行動に目を注ぎましょう。どう歩めばよいのか教えて頂きましょう。特にキリストがその命を献げられた事に応えて皆さんも献げて下さい。礼拝、賛美、祈り、献金、時間、能力、知恵・・・・色々なものを誠実に献げて下さい。

お祈りします
天の父なる神さま、み名をあがめます。
過ぎました一週間の御導きを感謝します。
引続き今日からの一週間の御導きをよろしくお願いします。
天に真っ直ぐ向けて方向を修正いたします。
方向転換だけで終わらず、一歩、この大地を天に向けて一歩、前進いたします。
洗礼者ヨハネのごとく、天からキリストが必ず来られる約束に、拠り所を置いて、天に向かって地上を歩ませて下さい。何がありましても、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、私たちを引き離すことはできません。
全ての人が天国に向かって進めますように、願います。
この約束、拠り所、確信を、この後のパンと杯を味わい、このからだに刻み付けて下さい。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

2022.01.02
「神に導かれて」マタイによる福音書2章1~12節


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 東の方からやって来た占星術の学者達は、毎晩、星を見ていました。それが彼らの仕事でした。星の動きを見て、これから何が起こるのかを占います。今ならテレビやインターネットで、一週間分のお天気がわかります。だから台風が三日後には近づくから注意が必要と、分かります。でも2000年以上前のお話ですから、分かりません。それで星を見て占いました。どこの国の王も星占いの学者さんを雇っていました。今読んでもらった聖書に出てくる学者も王に雇われていました。大切な仕事でしたから給料も沢山もらっていました。

 イエス・キリストが生まれる頃にこんなことがあったようなのです。いつものように星を見てると、一人が言いました「皆さん、あの星とこの星がだんだん近づいて何だか大きな光になって来ているようです」「なに、どれどれ、ほんとうだ。さっそく占い大辞典で調べてみよう」。東京大学の教授であった歴史学者の弓削 達(とおる)さんによれば、キリストが生まれる前、紀元前7年の春には木星と金星が、夏と秋には魚座の中で木星と土星が度々大接近したそうです。この天体現象は794年に一度起こるそうです。星占いの人が気付いたのはこのことではないかと、言っておられます。

当時の殆ど全ての星占い師は、ローマ皇帝アウグストォスの支配が黄金時代に入り、彼がとうとう世界の支配者となった、と占いました。それでそれぞれお仕えしている王に「王様、ローマの皇帝アウグストォスと、もっと仲良くしてください。きっと将来のためになります」と進言していたでしょう。
ところが、彼らだけが、世界を支配する王がユダヤ人の王としてお生まれになった、と占いました。それでその事を王様に報告するのではなくて、「王様、ちょっと長い旅に出てまいります。それで他の星占いの学者を私たちの代わりに雇ってください」と言って、ユダヤの王のお城があるエルサレムに向かいました。約2000キロの長旅です。一日20キロで100日かかります。旅を終えて帰ったら、自分たちの仕事場は無くなっているでしょう。それでも旅立ちました。不思議ですねえー。

 皆さん、私達がこうして教会に来ているのも不思議ですねえー。私は牧師をしていますから、あちこちの教会で「あなたは、どのようにして教会に来るようになったのですか」と聞いてきました。一人ひとり違うますが、全員不思議な導きによって教会に来ていました。皆さんとこの星占いの学者は重なります。

 当時、ユダヤのお城にはヘロデと言う王がいました。実は、この人はユダヤ人ではなく、ローマ帝国からユダヤ地方の王としての地位を得た人でした。ですから、ユダヤ人の王として生まれた人ではありませんでした。ヘロデ王は自分の努力、世渡りの巧さ、運などでやっと手に入れた王の地位を、守るためにはどんなことでもする、という王でした。彼らはユダヤに着いてから、まずそんな王に「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは、東の方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」と告げに行きました。どうしてヘロデの所に行ったのでしょうか?。大阪のおばちゃん方がこの話を聞いたら『そんなことヘロデ王さんに言うたら、きーわるしはるで、やめとき、やめとき』と言うでしょうね。「無礼者、王がわしじゃ」なんて叱られるかも知れません。しかし、不思義なんですねえー。ヘロデ王は不安を抱き、エルサレム中の人も同様であった。

 『人間を救い、神との関係を正しくしてくださる、キリスト、メシア、救い主がユダヤ人の王として生まれる、と言う事は聞いたことがある。聖書に書いてあることなぞ、言い伝えであってこの現実とは関係ない、自分とは関係ない、そんな事は起こらない』と、ヘロデは考えていました。実はエルサレムに住んでいる人々も「キリストの事は知っているが言い伝えであって、今の自分たちの生活にも、自分の人生にも関係ない」という考えでした。
 『しかし、沢山の給料をもらって心配いらない生活を捨てて、2000キロもの命がけの旅をして、この事をわしに告げに来た、と言う事は尋常ではない。もし本当なら、わしの身が危ない』と思ったヘロデの顔は、一瞬不安顔になりました。『いや、待てよ。相手はまだ幼子、今のうちに殺せばいいのだ』、と不安顔から大きな顔になり、キリスト抹殺計画を考えました。

 学者達はこれらのようすを見て、キリストは王にもエルサレムの住民にも歓迎されないのは何故なんだろうか?と思うとともに、自分はどうなのかと問われる思いにもなりました。キリストは世界の王ですが、私たち一人ひとりの人生や日々の生活と関わられる主人、私たちの心の王座にお迎えする王なのです。彼らがキリストの所に行くのに、黄金、乳香、没薬の入った宝の箱だけでは不足していました。謙る心が必要だったのです。彼らがそれに気付いた時に、事態に変化が起こりました。9節、東方で見た星が動き出したのです。そして、彼らを先導し幼子のいる場所の真上に止まりました。

 皆さん、信仰している私達も先の事は分かりません。しかし、謙ってキリストを人生の主人、心の王座にお迎えして、物事や人の背後に常にキリストを思い起こして謙るなら、神はその人を必ず導いて下さいます。学者達を先導した星の話は、私たちにもその事を約束しています。神は謙る者を導かれる時に喜びにあふれさせてくださいます。星が留まった家に母マリアと共におられる幼子を発見しました。詳しい事は書いていませんが、ちょっと不気味な姿の外国人達の突然の訪問ですから、驚いたでしょうし、歓迎されなかったことは確かです。献げものを携えて世界で最初のキリスト礼拝が彼らによって行われました。私達の今の礼拝と比べると礼拝環境は全く整っていません。しかし、礼拝に無くてはならない一つの事が整っていました。キリストの前での彼らの謙りでした。
 2022年の年、私達も物事と人の背後にキリストを認めて、謙る者とならせていただき、神に導かれてまいりましょう。祈りましょう。
祈り
天の父なる神様、み名をあがめます。過ぎました2021年の導きを思いお越し、心から感謝します。

謙って、あなたが遣わされたキリストを私の主人としてお迎えします。どうか新年の私の歩みを、星占いの学者たちのように、導いてください。

私達の飯塚教会の群れの大牧者として、キリストをお迎えします。教会の群れを守り、緑の牧場で養い、憩いの水際で安らわせ下さい。

私達は間もなくもう一つ年を重ねようとしています。自分の日を正しく数えることを教えて、知恵の心を得させて下さい。

病を負う者に癒しの御手を、死を前にする者にあなたが共におられる平安を、新しい命に希望をお与えください。

この年末年始、愛する者との挨拶、会話、お便り、全ての交わりを祝福して下さい。
主の御名によって祈ります。アーメン

聖書って、どんな事が書いてあるのかな?

祈り会・アパルームより(音声メッセージ)

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音量にご注意ください。


★2022年9月28日(祈り会)
 創世記36章「神の広大な視点」

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★「エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである」、と1節を読んで、『また系図が出て来た!名前ばっかりで、舌が嚙みそうです』、そして36章の最後まで目を向けて、『ここは系図だらけや。先生、ここを飛ばして37章から始まるヨセフ物語に入りましょう』、と思われるのではないでしょうか。確かに、興味を引かず、建徳的なものが見当たりません。また、後に神の民の宿敵となる、エサウの子孫のエドム人やエドムの王たちのみを扱っています。しかし、ヴェスターマンという旧約聖書神学者は『それでもなお、この章は旧約聖書内部で、或る本質的な意味を持っている』と書いています。その一端を今日は皆さんにお示しできればと、願っています。
 ★神は聖書を一瞬のうちに不思議な力で生み出したのではありません。長い年月を掛けて、まず多くの人が生きて行く中で、神の導きによって、この事は次世代に伝えなければならない、と判断した多くの内容がありました。ですから、聖書の内容の出どころは、この大地で生きた人間の現実体験なのです。フィクションではありません。7月から始めた礼拝後の例会の学びで、テキストとして選びました「聖書は語る」の著者の大頭眞一先生は、ドキュメンタリーに近いと言われています。単なるノンフィクションではなく、意図や表現(それにはその人が神から与えられた信仰が影響します)が加わります。そう言う伝えられたものを、受け取った人が神に導かれて少しずつ繋げるという編集をし始め、それを次の人が更に編集し、それが長い年月を掛けて繰り返され、一つのものに成って行きました。それを各言語に翻訳され、私たちの手元に届いた。これが聖書なのです。
 ★系図の原語はトーレドートで、歴史、由来、記録など、翻訳するのに難解な言葉です。このトーレドートは聖書の編集の初期段階からあり、色々な文章が間に挿入されてその初期の形が見つけにくいのですが、最後まで残された、言わば聖書の骨格の部分に属すると言えます。最初に紹介した神学者が系図だらけの36章を『それでもなお、この章は旧約聖書内部で、或る本質的な意味を持っている』と書いているのはそのためです。創世記5169101111027251219361372、民31
 ★新約聖書の冒頭に、アブラハムからイエス・キリストまで続く系図が載せられています。人間の救いの為に、神に選ばれた人たちの流れを聖書は重要視しますが、この流れから外れた流れはどうなるのでしょうか。キリスト教から離れたキリスト教系新興宗教と言われる人たちは外れた流れを切り捨てます。確かに聖書のある部分ではそれを強調する所がありますが、それはその人たちを切り捨てる為に記されているのでしょうか。今日、読みました36章は、神の広大な視点を示しています。
 ★6-8節にエサウがなぜセイルの山地に住むようになったかの言伝えがあります。24節に生活の必需である泉をアナが発見した言伝えがあります。35節にミディアン人を撃退したハダトの言伝えがあります。この三つの言伝え以外は妻と子の名前、首長の名前、そして3139節は王の名とその出所血縁、治めた町の名が載る歴代王の名簿となっています。内容的にはエサウの子孫が家長から首長、そして王、それも世襲ではないという、高度な社会を形成していったことを伝えています。
 ★イスラエルがまだ放浪の旅をしていた頃に、エサウの子孫はエドム王国を築き、敵対していた様子が、民数記2014-21節、士師記1116-17節から伺えます。後にイスラエルが王国を築き、外国に侵略され危機的な状況に陥った時、隣国だった彼らは助けるのではなくて、反対に侵略に加わりました(オバデヤ書参照)。アブラハム、イサク、ヤコブという選ばれた者の側から外れた者であり、上記のように敵対したエサウの子孫の系図を、神はなぜ36章全部を持って聖書に載せられているのでしょうか。
 ★神はアバムの系図の前に、アベルを殺したカインの系図を載せています。洪水物語の後の10章で、アブラハムが生まれるセムの子孫以外の、ハムとヤフェトの子孫の系図を載せられ、25章のアブラハムの物語の締めくくりの所でも、アブラハム・イサク・ヤコブの流れから外れて行った、イシュマエルの子孫の系図が載せています。そして、イサクが死んだ後、二人の息子の系図が載せられます。まず36章で長男エサウの子孫の系図、372節以下は次男ヤコブの系図を載せられます。神は長子の権よりも腹を満たす方を優先したエサウの子孫を軽視しません。イスラエル王国ができる以前でした。申命記26節で、セイルの山地は既にエサウの領地として神が与えた、と言われます。申命記238節では、掟として神が「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である」と言われます。エサウの子孫は神の民に選ばれなかったけれども、神が関わり続けられた事が分かります。神の視点は広大です。
★神は信仰の共同体(神の民)を選ばれます。かつてのイスラエルがそれであり、現代の教会もそれです。それは神との特別な関係です。しかし、神が私たちとこの特別な関係を持たれる目的は、最初にアブラハムを選んだ時から、祝福の源となるように。地上の氏族すべて、あなたによって祝福に入る(122-3)ことであり、それはヤコブにも受け継がれました(2814)
★キリストはクリスチャンの羊飼いであることを語られた時に「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。(ヨハネ1016)」と言われました。クリスチャンだけが主が関わりを持たれる唯一の者ではありません。クリスチャンはノンクリスチャンや世俗世界を否定したり、見下してもいけません。クリスチャンには優れた所はありません。ただ神が選ばれた、これだけがクリスチャンの優れた所です。神は選ばなかった他の者にも関わっておられます。
★神の視点は広大です。神の視点はこの世界にあります。神は、実に、その独りをお与えになったほどに、何を愛されましたか。ヨハネ316節は「世」と伝えています。「あなたがたは地の塩、世の光である」ここにも神の視点が地と世にあることが分かります。神はこの世にそのみ業を展開しようとされます。そのみ業を一人でするのではなくて、神の民クリスチャンを選んで、そのみ業に参与させて展開されるのです。だから、私たちは、神様との関わりと共に、この地とこの世との関わりを大切にしましょう。これは車の両輪のようです。あなたもこの神に用いられて、祝福の源としていただきましょう。では、お祈りのときといたしましょう。

9月

★2022年9月21日(祈り会)
 創世記35章16~29節「全能の神の右の手」

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★父の家を出てラバンの家に行ったヤコブが、やっと父イサクのいるキリヤト・アルバ、すなわちヘブロンへ帰って来ました。これでヤコブ物語は終わります。振り返ると、ベテル→エフラタ(ベツレヘム)→ミグダル・エダル→キリヤト・アルバ(ヘブロン)という旅程の中で、ヤコブは3人の人と死別します。8節、母リベカの乳母デボラ、19節、ヤコブの妻ラケル、29節、父ヤコブ。もしかすると4人かもしれません。ヤコブが帰って来たのに母リベカの姿がありません。もしいたのなら、彼女こそ最初に出迎えたのではないでしょうか。しかし聖書は母リベカのことは何も語りません。ただ、4931節でヤコブが死ぬ前に、息子たちに自分の葬り場所として指示した所に、父イサクと母リベカも葬られていることを告げています。リベカの乳母の葬りのことが記されているのですから、当然母とも会っていたと考えるのが普通でしょう。きっと今回の父イサクの葬り同様、兄エサウと共に母を葬ったことでしょう。とするとヤコブは四人の人と死別する経験をしたことになります。
 ★しかし、一人の新しい命の誕生にも立ち会いました。それから、もう一つ長男ルベンの事件がありました。このように35章でヤコブは多くの経験をしました。そういう中でヤコブを支えたのが、11節で神が現れ、語られた言葉、「わたしは全能の神である」でした。私たちが「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と、告白するのは、私たちもその神に支えられているからですね。
★シェケムで始めた定住生活は、一つの事件から思わぬ展開となり、町を出て行かなければ成らなくなったが、その時に神はヤコブに声を掛けて下さり、ベテルへの巡礼の旅を通して、ヤコブは自分の原点に立ち返る機会を頂きました。その後で、彼は愛する妻ラケルの死と直面しました。その頃、ラケルは丁度身重で、ベツレヘムへ向かう途中で産気づいた様です。皆さん、身重での旅を強いられた女性、それもベツレヘムへ向かう道と言えば、イエスの母マリアを思い出しますね。マリアの旅はナザレからベツレヘムでした。マリアたちもヤコブたちが通った道を通ったと思います。そして、ベツレヘムに着く前に、道の傍らにあったラケルの墓の横を通過したのではないでしょうか。という事は、キリストもお腹の中でしたがそこを通られました。
 ★ラケルはかつてヨセフを産んだ後、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように」、という意味でヨセフと名付けました(3024節)。今回の出産もその時と同じ助産婦だったのでしょう。17節「心配ありません。今度も男の子ですよ」と言いました。しかし、子を産んだ後、ラケルはもう自分は精魂を尽くし切って死んで行くと察しました。助産婦も母体が危険な状態であることを知ったでしょうね。「あなたが昔願った通りに、今、神は実現して下さったのよ」、と彼女はラケルを慰めたでしょう。しかし、ラケルはその慰めを受け取れませんでした。母にとって出産の苦しみも苦しいですが、産んだ子どもと別れることの方がもっと苦しいですね。それでラケルはその子の名を「わたしの苦しみの子」ベン・オニと名付けて、最後の息を引き取りました。
★夫ヤコブは母のいない赤子を連れて旅を続けなければなりません。また、愛する妻ラケルを正式な墓に葬れず、道端に埋めて立ち去らなければなりません。20節のラケルの墓に建てられた石柱は、今でも残っているとあります。墓は現在、5世紀ごろの建物が建っており、観光名所ともなっています。この碑は神の民の間で苦しみの象徴となりました。後に預言者エレミヤは、神の民が異国に征服され、息子たちが連れ去られることになる(エレミヤ1020)、その時、我が子と離別する母の叫びは、ラケルの叫びと同じだ、母は慰めを拒む(エレミヤ3115)、と書いています。またマタイ福音書もベツレヘム付近一帯の幼児が、ヘロデ王によって皆殺しにされた際の、母親の離別の叫びをラケルの叫びと同じとしています(マタイ218)。子を亡くすとは、母が嘆き悲しみ、慰めを拒むことです。だからラケルは産んだ子を「わたしの苦しみの子」と名付けて嘆き悲しみ、慰められることを拒んで死んで行きました。しかし、この母ラケルの嘆き叫びは今も聖地で、イスラエルとパレスチナの間で起こっていますし、ウクライナでも起こっています。聖書が伝えている事は昔の事であり今の事でもあります。
 ★さて、ヤコブはラケルの付けた名を変更して「幸いの子」ベニヤミンとします。これは意訳で、直訳は「右手の側の子」です。右側とは幸運の方向です。なぜヤコブは名を変えたのでしょうか。人間には「苦しみの子」としか言えない現実があります。単なる慰めは拒まれます。しかし、ヤコブは「わたしは全能の神である」と言われた方に目を注いで、この苦しみは苦しみで終わるのではないと信じたのです。ヘロデ王によって殺された幼児たちの様な、苦しみの子をわたしたちも知っています。ヤコブは私たちにも言います。これらの子は苦しみの子に見えるが、彼らは全能の神の右の手の中にある、右手の側の子、ベニヤミンなのである。神の右の手による救いに対する信仰は詩編でも何回も歌われています。また、イザヤ4110節「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」は力強い言葉です。
 ★ヤコブは後に、自らの死期を迎えた時に、ヨセフと二人の子を前にして、全能の神が自分に現れて下さった359節以下の体験を伝えた時に、妻ラケルをベツレヘムへ向かう道中で亡くし、道端に葬った話を加えています。その一番つらい時に全能の神に支えられたからです。21節、ヤコブは12人の息子を連れて旅を続けます。22節のルベンの姦淫は父に対する反抗であり、次のヨセフ物語の予告の様です。さて、ヤコブの旅のゴールは神が命じられた父イサクの寄留地ヘブロンでした(12)。ここは285節でイサクに祝福されて出発した旅からの帰還と言えます。
★ヤコブはイサクに、ラバン叔父さんの家であった事、嫁と12人の孫と祝福された財産の事、ラケルの話もしたでしょう。そして何よりも、おじいちゃんとお父ちゃんの神、アブラハム、イサクの神、全能の神との出会いと導きのことも話したでしょう。このヤコブとイサクの対面は大変重要だと思います。イサクは一度献げて死に、神によって生かされた人だ、と言われても同然の人でした(創世記229節以下)。後にヘブライ1112節は、父イサクも死んだも同然のアブラハムから生まれた事を伝えています。ヤコブはこの父イサクと最後に会い、励まされたことでしょう。アブラハムを兄イシュマエルと弟イサクが共に葬った様に、イサクを兄エサウと弟ヤコブが葬りました。
 ★創世記3511節「わたしは全能の神である」と言われたお方とは、早く死のうが、苦しんで死のうが、道端に葬られようが、日が満ちてちゃんとした墓に葬られようが、その者の神でいてくださるお方です。いみじくも先日行われた英国女王の葬儀の中心は、カンタベリー大主教の言葉、「全能の父なる神に、女王を委ねましょう」でした。イサクの葬儀を終えヤコブは末の子の名を「この全能の神の右手の側の子」ベニヤミン「幸いの子」と改めて良かった、と確信を強めたでしょう。私たちもこの神に望みを置くのです。この神が失望に終わる事がない希望を与えられるのです。ローマ55節「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」私たちはその証人です。終わりの日まで全能の神の右の手に支えられ平安のうちを歩ませていただきましょう。お祈りの時といたしましょう。 

★2022年9月14日(祈り会)
 創世記34章1~35章15節「原点に立ち返る」

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罪に対する盲目
 ヤコブはシェケムで土地を買いました(33章19節)。シェケムに定住する計画だったようです。自分の子どもが町に友達を持つようになったというのは今までに無い定住と思われます。だから町の長老ハモルの口から本格的な定住の勧めも出ました。その定住生活で事件が起こります。しかし信仰者は世に埋もれるのではなくて、世の旅人であるとしてヤコブの定住は失敗だったと判断するのは性急です。
 私たちの人生の歩みも成功であれ、失敗であれ、そこにも神様の導きがあると信じましょう。神様がシェケムでの長期定住生活をヤコブに許されました。その体験があって次の35章以下の神との出会いがあるのです。物語はヤコブの家族に起こった事件からヤコブ自身の問題を取り扱つかおうとしています。そして、それは私たち自身の問題でもあると思います。
 3節、いくら後から求婚したとは言え、ハモルの息子シェケムは強姦罪を犯しました。この34章で問題にされているのはこの罪に対するそれぞれの対応です。シェケム本人は罪の自覚が全くありません。求婚が欲望からの自己中心的なものであるにもかかわらず、辱められ傷つけられたディナの事は考えられていません。
 レビ記18章は当時ヤコブ達がいた地域のいとうべき性関係を伝えます。話し合うために来た父ハモルも息子の罪の事には触れないで、結婚の話に、それも、本人たちの結婚ではなくて、シェケムの町とヤコブの家との将来の結びつきの話に転換させています。ハモルは23節で町の人々にこの結婚が町にとって有益だと話しています。町の人には息子の一件は話していませんし、町の人も気付いていません。
 さて、ヤコブはどうでしょうか。この件に関してあまりにも沈黙しています。ハマンやシェケムに対する罪の追求をぼやかしています。ヤコブはそれが自分たちにとってどういうことなのかを知っているはずです。しかし、30節によると、はっきりさせたらこれから定住しようと考えている自分にとって都合が悪いかのようです。ここに昔ながらの自己保全に抜け目のないヤコブの姿が残っています。ディナの母レアが娘のことで登場しないのもおかしいです。この様に、シェケムにいる者全ての目が罪に対して盲目と成っています。
罪に対する無力
 これに対してヤコブの息子達の目は違っていました。強姦は単なる道徳的な罪だけではなくて、宗教共同体であるイスラエルにとって大きな問題として捉えています。「辱める」を5節では「汚される」7節では「イスラエルの中で恥ずべき事をした」と言い換えられ罪の大きさを見抜いています。申命記7章1-5節は異邦の民との姻戚関係の禁止を伝えています。しかし、息子たちも大きな罪を重ねます。彼らはハモンやシェケムの話し合いをきっぱりと断って娘を返してもらい、償いものでも要求してそれで事を済せられたのですが、13節彼らはシェケムとその父ハモンをだまします。27章12節かつてヤコブは父をだましました。今度は自分の息子が自分よりもえげつないだまし方をします。
 割礼とは17章11節で神が契約のしるしとして与えられた行為です。息子たちはそれを使ってだましたのです。そして、27-29節はその復讐が略奪に変わったことを伝えます。4章のレメクの復讐の歌を思い出します。ヤコブにとってこれは大きなショックだったと思います。そして、31節はそんなヤコブに対しての駄目押しの問い掛けとなります。つまり、この問い掛けにはっきり答えられない罪に対して無力な自分を突きつけられたヤコブはこの日最高に落ち込んだことでしょう。
原点に戻る
 丁度その時に神はヤコブに声を掛けられます。1節「立ってベテルに上り、・・神のために祭壇を築きなさい」。2-3節の外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えるのは、このベテルへの旅が巡礼の旅であることを示しています。詩編130編の都もうでの歌が参考になります。日本ではお遍路さんが巡礼の旅をしています。それは単なる修行ではありません。お遍路さんに注がれる人の温かみ、大地と自然に足で接する、そういうものが自分の姿を発見させてくれる、それがお遍路の旅ではないでしょうか。ベテルへの巡礼は定住生活で自分を見失ったヤコブの自分発見の旅と言えましょう。そこはヤコブが最初に神と出会った所、原点です。
 10-12節で神は、ヤコブをイスラエルと命名する神(今の自分は、神によって始まった。召命。お前はわたしのもの、わたしはお前の神)、全能の神(人をどこからでもたとえ罪の中からでも贖い取られる、その意味で神は全能)として現れて下さいました。そのことによってヤコブは自分が誰であるかを確認しました。祭壇を築くとは自分の原点に戻る為だったのです。

 私たちの生活も巡礼に譬えられます。私たちもヤコブのように罪に対して盲目であり無力な自分の姿を知らされます。しかし、その中で神はヤコブにしたように私たちにも現われ語って下さいます。祭壇を築く、これは現代でいうなら教会を形成することになるでしょう。教会の中心がこの祭壇でもあります。そこに命を献げられた十字架の主が立っておられる。その主が語られる、それが教会で起こるのです。そういう教会形成をするのです。5節彼らが信仰を持って神に従っていで立つと「神からの恐怖が回りの町々に下ったので」、30節でヤコブが心配していた事は起こりませんでした。神が働いてその様にして下さったのです。この事は現代の私たちにも「恐れるな」という神様に従う事に対するメッセージを伝えています。

★2022年9月7日(祈り会)
 創世記33章1~20節「和解と負い目」

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★ラバンとの和解を終え、家族とその荷物がヤボク川の渡しを渡った後、独り居残ったヤコブが神から与えられた特別の体験をし、足を引きずりながら家族のもとに戻ったのは、夜明け頃でしたから、みんなはまだ眠っていたでしょうね。ヤコブも一睡もしていませんから疲れて一息ついたことでしょう。ところが起き上がって目を上げると、こちらに向かってくるエサウの隊列が見えました。とうとうエサウとの再会の時がやってきました。
 ★13節、「ただいま」「どうしたの、その足は」「いいから、いいから」。「みんな元気か。お父さんの所に集まりなさーい」。「はい、今から言うことをよく聞きなさい。お父さんのお兄さんのエサウ兄さんが間もなく到着します。お母さんの言うことをよく聞いて、急いでお迎えの身支度をしなさい。身支度を終えたら今から言う順番で、お父さんの後に並びます。ジルパ、ガド、アシェル。ビルハ、ダン、ナフタリ。レア、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン。ラケル、ヨセフ」。万一報復を受けた時にラケルとヨセフだけでも逃げられるように、ヤコブは彼らを最後尾に着かせました。
 ★4節、長旅だったのでエサウはラクダに乗って来たでしょう。彼はそこから降りてヤコブ目がけて走って来ました。抱きしめ、首を抱え口づけしました。エサウは泣いていました。ヤコブも共に泣きました。ここを読んで私たちはあるシーンを思い出します。新約聖書でイエスがたとえで話されたルカ福音書15章の通称『放蕩息子のたとえ話』の中で、帰ってくる放蕩息子の所に走り寄って抱擁した父の姿と重なるからです。これはヤコブにとって予想外のことでした。そして私たちが不思議に思うのは、エサウの方がヤコブに和解の手を差し伸べた経緯が不明だからです。ヤコブがエサウの祝福を奪った件についてエサウは一言も語りませんでした。もしかすると、我が子のことをよく知っている母リベカが言った通り、あの当時は恨み怒り憤っていたが、時が経って忘れてしまったのでしょうか。聖書はこの件に関して答えはありません。それよりも聖書は負い目を負うヤコブに視線を向けるように綴ります。
 ★創世記はこのヤコブ物語が終わった後、もう一度最後にヨセフ物語で、この兄弟の物語を扱います。比較してみましょう。ヨセフ物語では、兄弟たちとの再会で和解の手を差し伸べたヨセフが、なぜ兄たちの負い目を赦すことになったのか、その経緯を詳しく説明しています(4548)。ここが今回のエサウの場合と違う所です。しかし、共通する注目点があります。それは和解の手を差し伸べられた側の負い目のことです。
 ★ヤコブはエサウに会う前に七度ひれ伏し、妻、側女、その子どもたちも全員ひれ伏しました。ヤコブは自分の事を5節「僕」と呼び、兄エサウのことを81314節「御主人様」と呼んでいます。10節「あなたの顔は、わたしには神の御顔のように見えます」とヤコブは兄エサウをたたえます。自分に負い目があるからでした。結局ヤコブは最後までエサウを「お兄ちゃん」と心から呼ぶことは出来ませんでした。断るエサウに対して贈り物の家畜を受け取るよう、ヤコブがしきりに勧めたのも自分に負い目があるからでした。しかし、ヤコブはその負い目から解放されて、兄エサウと仲良くなれませんでした。実はヨセフ物語でも、兄弟たちがヨセフに対する負い目からなかなか解放されない現実を伝えています。5015節「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると、自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しするのではないかと思った」。このように、和解の手が差し伸べられたにもかかわらず、人の負い目はなくならない、人間の奥深くに刻まれる、そんなことを思わされる物語です。
★主イエスが弟子たちに唯一教えられた祈り、主の祈りが教会に伝えられています。その祈りの中に「私たちの負い目を赦してください」があります。主イエスは人間の負い目の問題をよくご存じだからこの祈りを教えられました。人に対する負い目は、その人を創造された天の父に対する負い目でもあります。だから、その天の父に祈りなさいと教えられました。主イエスは父の命に従い、このなくならない負い目を身代わりに背負い、私たちに完全な和解を、完全な解放を実現して下さいます。この恵みを信じて受入れる者に、主は宣言して下さいます。「あなたの罪は赦された」「安心して、行きなさい」。
 ★さて、ヤコブが執拗に勧めた家畜の贈り物を受け取ったエサウは、それに応えるかのごとく、これから兄弟として共に歩む思いを、自分が先導するから自分の家まで来てくれという提案をしました。しかし、ヤコブはそれを丁重に断りました。13節、そこには兄(狩猟民)と弟(小家畜遊牧民)との違いがありました。どんなに和解し仲良くなっても、二人は一緒には行動できません。14節、それでヤコブは、後からエサウの所へ行く約束をしました。そして15節のエサウの好意的な申し出も、ヤコブにとっては困った申し出でした。ヤコブは初めから兄のいるセイルに行くつもりはありませんでした。16節、エサウはこの日の為に400人の家来を連れ、長距離を旅して来たのですが、残念ながら自分の家にヤコブ一家を連れて帰れませんでした。きっとエサウの家では宴会の準備もされていたかも知れませんね。ヤコブの態度に憤慨したとはありません、お互いの違いを認め合い平和のうちに別れました。
 ★17節以下から、物語はエサウヤコブ物語から、一遊牧民アブラハムの子孫が、神の約束された土地取得を目指して進む旅の物語に戻ります。そしてカナンでの土地の購入によって旅が終わり、土地定着の生活が始まりだします。実はこの土地は後にヨセフの骨がヨシュアによって葬られる所となります。ヨシュア記2432節参照。
★エサウとヤコブの兄弟は再会しましたが、また別れました。それは分裂ではありません。お互いの違いを認め尊重し合って、この星に共に住む、そして平和を保ちました。「統一」という考えは、この共に生きる視点がありません。共に生きるとは多様性を認めて生きることです。創世記で神が多様な生き物、多様な人間を創造されたのは統一するためではなくて、シャローム、平和、ハーモニーを実現するためです。預言者イザヤは、その神が平和を実現する預言をイザヤ書11章でしています。その内容は多様な生き物、全く異なる立場の生きものが共に生きる世界を描いています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう。・・・」
★今日のポイントは、①負い目からの全き解放はキリストに於いて実現する。②平和は統一に生まれない、多様性の尊重の中で生まれる。お祈りいたしましょう。

8月

★2022年8月31日(祈り会)
 創世記32章2~33節「和解と聖別」

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31章で神は、ヤコブを苦しめた叔父ラバンとの和解の場を備えて下さいました。そして32章からは、ヤコブが兄エサウとの和解を求める旅に出ます。どうなる事でしょうか。実はこちらがヤコブ物語の本筋です。ドローンで上空高くから眺める様に、ヤコブ物語の全体をちょっと見てみましょう。ヤコブ物語の始まりは27章でしょう。父が用意していた兄エサウに対する祝福を、ヤコブがだまし取り、エサウが憎しみを抱いてヤコブ殺害を決意する、と言う事件でした。イサクとリベカに与えられた息子エサウとヤコブの和解はこの物語のテーマです。そして、もう少し高い所から眺めると、このテーマはアダムとイブの息子カインとアベルが和解できなかった問題を引きずった形になっています。そして、目を反対側に向けると、37章から始まるヨセフ物語もそれを受継いでいることが分かります。神が如何に人と人の和解を願っておられるかが分かりますね。

★ラバンとの和解後、やっと故郷に帰れるわけですが、もう一つの問題、兄エサウとの和解が残っていましたから、ヤコブの足取りは軽いものではありませんでした。特に兄に関する情報が彼には全く与えられていませんでした。「そのうちに、兄さんの憤りも治まり、お前のしたことを忘れてくれるだろうから、そのときには人をやってお前を呼び戻します」と言う、母の約束を信じて叔父ラバンの所に向かったヤコブでしたが、今回その母からの連絡ではありませんでした。神が「さあ今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」と指示なさいました。そしてその時神はエサウに関して何の情報もお与えになりませんでした。ただ、「わたしはあなたと共にいる(313)。わたしはべテルの神である(3113)・・・」との、み言葉だけでした。皆さん、私たちの信仰生活もこれとよく似ていますね。神を信じたら、神は私たちを特別扱いして、私たちの未来に対する情報をお与えになるのではありません。ただ、大きな違いは、肉体となって私たちの間に宿られたみ言葉、救い主イエス・キリストが羊飼いが羊を先導するように、私たちの信仰の旅を導いて下さっています。

4節からヤコブの行動が始まります。その前に2節で神は突然、天使の群れを彼に見させました。3節に、この天使の群れを見たヤコブの反応が記されます。「ここは神の陣営だ」。そして、その場所をマナハイム(二組の陣営)と名付けました。ここを読んで、ヤコブが故郷を後にして旅立った最初の晩を思い出します。あの時、ヤコブは天と地を結ぶ階段を天使たちが上り下りするのを見て、その場所を神の家だ、天の門だと言って、べテル(神の家)と名付けました。また、その時に主がヤコブの傍らに立たれ、ヤコブに対する祝福と、叔父ラバンの家に逃れる旅を守り導く約束をされました。

★今回ヤコブは10節の祈りの中で「かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りました」と故郷を旅だった時のことに触れていますし、その祈りの冒頭で「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ」と呼び掛けていますが、この神名はかつてべテルで傍らに立った神ご自身から教えられた神名です。この様に見ると分かりますね。神は今回もマナハイムでヤコブに対して「おまえは、いつでも、どこにいても、この神の陣営の中にいるんだよ」と励まされました。

★さて、この様にヤコブは聖なる体験をしたのですが、その後のヤコブはいつものヤコブで、策略家としてまず使者を兄の所に遣わして様子を伺いました。すると使者から6節「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、400人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告を受けました。迎え撃つ為の400人だ、と受け取ったヤコブの心は恐れと心配で溢れ、エサウの攻撃に備えて8-9節で奴隷や家畜などの財産を二組に分けました。それはどちらか一方でも助かるようにする策でした。そして14-22節では兄エサウの怒りを宥めるための贈り物を選びました。その家畜の数は550を超えました。それを種類ごとの群れに分け、各群れ毎に距離を置いて行かせました。それも各群れのリーダーに「これは僕ヤコブが主人エサウに差し上げる贈り物で、この後に本人が参ります」と言うように命じました。これは巧妙な策で、次の群れがヤコブの一団だと思って迎えたら、それも贈り物だった。それが繰り返されます。9種類の家畜ですから九回繰り返されて、贈り物の多さを強調させ、兄に快く迎えてもらう策でした。また、兄の反応を遠くで観察して、事が起こった時に対応できる時間を稼ぐという、用心深い策でもあったのではないでしょうか。「神様、私の出来る事はこれまでです。あとは宜しくお願いします」ということでした。
★しかし、策略家のヤコブに新たな一面を1013節で発見します。この様な祈りは初めてではないでしょうか。アブラハムもイサクもしていません。神への呼びかけ、謙り、恵みの確認、救いの懇願、約束の想起。これは模範的な祈りだ、と言われる方が多いです。10-13節は無くても、491422節で、いつもの策略家ヤコブが描写されれば良い所なのですが、あえてこの祈りが間に挟まっている理由はなんでしょうか。23節以下で経験する神との格闘と、その中で自分の名が改名されるという神から一方的に与えられる経験へと繋がる、ヤコブの内面を表しているのではないかと思われます。
 
★贈り物を先頭にし、二組の奴隷と家畜もその後に行かせたのでしょう。そして、その日家族だけは野営地に残ってテントを張ったようです。しかし、その夜ヤコブは起きて、どう思ったのかテントをたたんで「全員移動するぞ」と言い出しました。家族は驚いたでしょうね。それも自分独りは後に残ると言いのです。「お父さんどうしたんですか」。「俺のことは心配するな、先に行け!」。なんでや!なんでや!と、皆は思いました。不思議でした。神はヤコブの準備した策にではなくて、ヤコブ自身に働くつもりでした。それでヤコブにそんな行動をとらせたのでしょう。皆さん、私たちも「神様、ここに働いて下さい。あそこにも働いて下さい」と祈ります。しかし神が「ここでもあそこでもない、わたしはあなたに働きかけたいのだ」、と言われる時がある事を覚えておいて下さい。

 ★25節から31節は、神のヤコブに対する働きを「ある男との格闘」と表現しています。ですから25節で言われている「何者かが」とは神であると考えて良いでしょう。これは喧嘩ではありません。決闘でもありません。これはスポーツに近いと言えましょう。どちらかと言えばボクシングではなくレスリングです。31節で「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに」と、ヤコブはこの格闘を振り返っています。神と人の体と体、裸のぶつかり合いが起こったのでしょう。この様な神と人の密接さは今だかつてありません。創世記の最初、神が人を造られる時以来ではないでしょうか。ここで何が起こったのでしょうか。このぺヌエルでの格闘の背景には、色々な伝承が含まれていますが、最終的にこの文書を綴った聖書記者は、聖霊に導かれ、アブラハムとイサクの物語で語ったように、以下の創世記50章までの族長たちの物語から出エジプトしてシナイで神の民となり、放浪の後、土地を取得し、王国を築いたイスラエルの民との繋がりを念頭に置いて、その繋がりの中でヤコブに何が起こり、それが読者にとってどんなメッセージなのかを伝えているのではないでしょうか。

 ★そこで29節で神がヤコブの名前を改めるよう命じられた事がヒントになります。今までに神の指示で名前が変更された人はアブラムとサライでした。その変更は彼らの人生が大きく変わる、イサク誕生を前提とした契約を神が彼らとされた時でした。今回の場合もヤコブの人生が大きく変わるようなのです。28節のイスラエルという名前は地名でも国の名前でもありません。召されて神の民とされた者の名です。35章でもう一度ヤコブの改名が神の民イスラエルにとって大切な場所べテルで、取り上げられますが、ここでは神がヤコブに対して今までにない非常に接近されたことを伝え、聖とする、聖別する、聖化する、新たに創造されるという、神のもう一つの働きを感じる所です。

★使徒ペテロは離散した教会に宛てた手紙の中で、あなたがたは『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」、と記しました(1ペテロ210)。使徒パウロはガラテヤ教会に「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです。このような原理に従って生きて行く人の上に、つまり、神のイスラエルの上に、平安と憐れみがあるように」、と記しました(615-16)。ですから、皆さん神の民である私たちは第一に神に救われます。しかし、第二に神によって新しく造り変えられます。その為に神は接近なさいます。私たちの場合は、み言葉と聖餐と洗礼の時、神は接近されます。神はヤコブに対して二度接近なさいました。一度目は兄エサウから逃げる時でした。そして、二度目は兄エサウと和解しに行く時でした。そして、彼は生涯足を引きずって歩くという障碍をお与えになりました。神はヤコブの体に、この様に神が働かれる旨を、障碍でもって刻まれました。召されて神の民イスラエルになった者が、この事を決して忘れないように、腿の関節の上にある腰の筋、すなわち坐骨神経を食べないことにしました。これはモーセ律法には記されていませんが、その様にして実生活の中で想起する方法で信仰の継承がなされました。これはイスラエル特有の信仰継承の方法ですね。教会は神様と和解できる場です。だから「教会に来たら、もう大丈夫」と伝えましょう。そして、教会は新しく創造される所です。だから「教会に来たら、希望があります」と伝えましょう。

★2022年8月24日(祈り会)
 創世記31章14~32章1節「未来に突破口を開く神」

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★ヤコブの物語は二つの物語が組み合わされています。ヤコブとエサウという兄弟の物語の中に、ヤコブと叔父ラバンの物語が組み込まれている形になっています。今日の所でヤコブと叔父ラバンの物語は終わり、次回からヤコブとエサウの兄弟物語に戻ります。これらの物語は人の未来に対する不安を取り上げています。取り出してみると、四つあります。
①母リベカの不安 2741-45
近い将来においてヤコブの命が危険だと察した母リベカはラバン叔父の所への逃亡を計画しました。
②妻ラケルとレアの不安 2931-3024
ラバンの娘レアとラケルの出産合戦は妻としての未来への不安から、安泰を求めての戦いでした。
③ヤコブの不安 3030
ヤコブは自分の未来について嘆いて叫びました。「しかし今のままでは、い つになったらわたしは自分の家を持つことができるでしょうか」。
④ラバンの不安 3027
ヤコブを自分の手から放したくないラバンにも、ヤコブのいない未来への不安がありました。
★この様な中で大きな転換点が生まれました。313節主がヤコブに故郷へ帰るように命じられました。それも「わたしはあなたと共にいる」という言葉が添えられました。それでヤコブは決意し、ラケルとレアに打ち明けます。513節ヤコブはこれまでの自分の歩みの総括的な内容を、特に神がヤコブと共にいて導いて下さった事を告げ、彼女たちに「この神に導かれて私と共に私の故郷へ帰ってくれるか?」と、打診をしました。
★ラケルとレアたちは嗣業の割り当てのことや、結婚の為にヤコブがただ働きした事で父の家にもたらした富のことや、神が父から取り上げられた財産のことばかり話しました。ヤコブが聞きたかったのは、自分についてくるかどうかでした。しかし最後に「神があなたに告げたとおりになさって下さい」との返事でした。結婚して20年が経っていました。「あなたとご一緒なら、どこへでもまいります」なんて返事はヤコブも期待していなかったのかも知れませんね。この事はさて置き、ヤコブがあらためて彼女たちの気持ちを確かめたのにはもう一つ理由があった様なのです。
★ヤコブの妻なんだからヤコブに着いて行くのは当たり前なのですが、皆さんここで、以前イサクの嫁探しに、ラバンの父ベトエルの所に来たアブラハムの僕の話を思い出してください。24章です。僕は家に入り歓迎の食事受ける前に、リベカをイサクの嫁として連れて帰ってよいのか悪いのかをハッキリさせるという、先手を打ちました。そして翌日は、十日程娘を手元に置きたいという親の願いをも、キッパリ断って連れ帰りました。また主人アブラハムもその僕に、決して息子を連れて行ってはならないと、きつく念を押していました。これらは全て、ラバンの家の結婚観の得意さを知っていたからだと思います。言わば養子縁組的な結婚観で、娘が結婚しても父の家との関係が非常に強かったようです。ヤコブは返事をもらって早速事を前に進めました。
★さて、ここで一つ面白い話が入ります。ラケルが父の家の嗣業の持ち分が無いゆえに、父が持っていた守り神を盗みました。これはテラピムといって家の所有権者が持つ守り神で、それは代々家の主としてのしるしで受け継がれていました。ラバンの妻や彼の息子などの情報を、聖書は一切提供しないのでラケルが盗んだ理由は不明です。しかし、このテラピムの件が引き金になって、これから先のものごとが展開されて行きます。この件はまたあとでお話ししましょう。
 ★財産である家畜と二人の妻と子どもたちを連れての逃亡は、ラバンが羊の毛を刈る時期という、ラバンが一番忙しい時、その目を盗んで逃亡するのに絶好の時に行われました。それで三日間悟られることがありませんでした。しかし、この逃亡の未来は必ずしも開かれたものではありませんでした。23節七日間の追跡でラバンは追い着きました。この一族を率いて追跡するラバンの姿は、葦の海を背に行き詰っていた、モーセ一行に追い着いたエジプトの王パロの軍勢と重なります。危機一髪の所です。聖書って、こういう場面がいくつも登場します。だから、スぺクタル映画としてとりあげられています。
★ヤコブの知らない所で神が働いておられました。追い着いた夜に、神が夢でラバンのもとに来て言われました。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。24節」。追付いたラバンは26節以下でヤコブを非難しますが、その中でこの神の話もしました。ヤコブはそれを聞いて驚いた事でしょう。しかし、一つの問題をラバンが問います。彼が持っていた守り神は誰が盗んだのか。盗んだラケルは冷や冷やでしたでしょうね。もし見つかったらヤコブの面子は丸つぶれで、この脱出は一時中止になったかも知れません。
★白黒をはっきりさせましょう、と言うことでラバンはヤコブ一行を検査しました。しかし、盗まれたものは見つけられませんでした。36節、そこでヤコブに今までにない事が起こります。彼は初めてラバンに対して怒りと責めを表しました。3637節です。ところがヤコブは続けて38節から20年間黙っていた事、心の中に溜まっていた事を、全てはきだしました。「この二十年間というもの、・・・・」で始まる内容を40節まで読んで、皆さんも知らなかったことをヤコブはここでブッチャケていますね。しかし、42節でヤコブは彼の信仰を告白しました。ラバンには責められる面がこの様に多々ありました。しかしヤコブは結果としてラバンを責めるのではなくて、神が約束通りに、ヤコブの悩みと労苦に目を留められ、共におられた事を証しました。神は不安の多い未来に突破口を開けて導いて下さるお方です。聖書はこの事を皆さんにも伝えたいのです。
★さて、最後になりましたが、守り神テラピムはどうなったのでしょうか。生理中だったラケルのお尻の下に敷かれていました。それで誰も見つけられませんでした。聖書はここで一言申したいのです。読者の皆さん、これが守り神なのでしょうか?実はこのテラピムはなかなか無くなりません。大雑把ですが約500年後の紀元前620年のユダの王ヨシアによる改革の時(列王記下2324節)に、ヨシュアは他の偶像などと共にこのテラピムをエルサレムから一掃しています。いつの時代も、人は不安から偶像を生み出します。しかし、神は言われるのです。それは全く頼りにならない。
★一つ紹介しましょう。預言者イザヤの書4614節です。偶像は人や動物によって担われ、背負われなければならない。しかし私は違う、と神は言いたいのです。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われて来た。同じように、わたしはあなたがたの年老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
★最後に付け加えますが、ラバンは夢で神と出会ってから、変わったのか、本来秘めていた娘たちに対する思いが口から出ましたね。50節「もし、お前がわたしの娘たちを苦しめ、わたしの娘たち以外にほかの女性をめとったりするなら、たとえ、ほかにだれもいなくても、神ご自身がお前とわたしの証人であることを忘れるな」。ラバンパパ、よく言った!娘だけじゃなくて孫もみんな聞いたよ!321節の別れの場面、去って行くラバンの姿、感動しますね。色々付け加えたら、いつもよりちょっと長くなりました。では次回は322節ヤコブとエソウの兄弟の和解、どうなるでしょうね。ご期待ください。

★2022年8月17日(祈り会)
 創世記30章25~31章13節「神様、出番です」

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 ★信仰者が日常生活の中で、あるいは礼拝で音楽に合わせて口ずさむ詩が、旧約聖書の詩編に150編纂されています。その中の第23編の出だしは「主は羊飼い」で始まります。この羊飼いという言葉は、実際に羊を飼う羊飼いに対して使う言葉ですが、特に預言者たちは人を守り導き養う牧者に対して使いました。つまり人間には飼い主的な、主人の様な存在、この世界、人生の全て、いのち、を支配される方にたいして預言者たちは羊飼いという言葉を使いました。その時は牧者と翻訳されています。詩編23編は羊飼いが野外で羊を飼う様子を通して、自分の人生を導く羊飼いの様な神のことを詩っています。日本語の聖書翻訳でヤハウェという神の名を主と翻訳されているのは、非常に的を得た翻訳です。

 ★沢山の人が飼い主、主人抜きで生きてらっしゃいます。あるいは、頼りにならない主人を主人と為さって生きてらっしゃいます。教会が伝えている神は、100%頼れる主なるお方です。イエスは十字架の上で死ぬ直前、詩編22篇を口ずさもうとされました。しかし、声が出たのは最初の出だしだけでした。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」。後は言葉になりませんでした。それ程苦しかったのです。しかし、死んで葬られて三日経って身体も壊れ始めました。もうどうしようもありません。絶望、どん底です。イエスが頼られた神は全く頼りにならない神である。絶対に人間が頼るべき主人ではない。この世の全てがこの判定を下しました。ところが、神がイエスを死人の中から甦らせて、その判定が全くの誤りであるとされました。教会が伝えているイエス・キリストの神は、100%頼れる主人、牧者、主なる神です。ですから、この神を信じるとは、神の僕になるとも言えます。

 ★では、神の僕になるとは具体的にどうする事なのでしょうか。弟子たちは5000人に夕食を食べさせた時にイエスから教えられた事が参考になります。弟子の手元には5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。その時にイエスが「それをここに持って来なさい」と言われ、彼らは持っているもの全てをイエスの手に渡しました。これが僕になる事です。ヤコブも持っているものを主なる神の手に渡しました。彼は兄エサウの様に狩りはできませんでしたが、家族のために料理をすることが出来ました。ある日、狩りから空腹をかかえて帰って来た兄が、料理中の煮豆を今食べたいと、無理を言って来ました。困りましたが、その時にヤコブの頭に、煮豆と兄の長子の特権を取り替える、という策が思い浮かびました。しかし、良く考えるとそんなことはあり得ません。そんなことをしたら反対に「お前は何ということを言うのだ」と叱られるでしょう。しかし、ヤコブは言ってみたんです。

 ★「それをここに持って来なさい」。ヤコブにはその様な策しか立てられませんでした。しかし、それを主の手にお渡しして、後は主にお任せしました。そしたら兄が誓いました。
 父イサクから長子の祝福を頂く時に、母リベカと一緒に策を立てました。第一の兄が狩りに行って留守中に、父の好物料理を作る策は、彼らの得意な策でした。しかしもう一つの策、ヤコブの扮装はなかなか無理がありました。しかし、それが彼らのできる全てでした。「それをここに持って来なさい」。彼らの出来ることを主の手に渡し、後をお任せしました。そしたらイサクは不思議にヤコブを見わけることができませんでした。神が働いて下さいました。

 ★今回の場合も同じことが言えます。羊と山羊の大部分は単色の毛をした動物だそうです。その中のブチのものや、まだらなもの、黒色を帯びたものは、普通は稀にしか生まれないそうです。これはヤコブの策略で、ラバンもヤコブの条件に対してすぐ良い返事をしました。しかし、どうやって色の混じった家畜を殖やすのでしょうか。ラバンは今いるブチ、まだら、黒を帯びたものを全部取り上げ、ヤコブには単色の家畜を残して、ヤコブから文句の届かない三日の道程の距離のところへ去って行きました(35‐36節)。今や単色の家畜しか残っていません。ヤコブはさぞ落胆したでしょう。しかし、ヤコブができることはまだ残っていました。イエスの弟子たちが「五つにパンと二匹の魚しかない」と、言ったのと同じで、ヤコブが行うことは大したことではありませんでした。

 ★ポプラやアーモンド、プラタナスの若枝の皮を剥いで中の白いところをむき出しにして家畜の前に置く行為は「胎教」のようなものなのかはっきりしません。根拠が無く、まじない的です。しかし、自分のやれることをやりました。そのまじないの様な事、それから強い家畜と掛け合す事もやりました。後は神に任せるしかありません。つまり、ヤコブは自分のできることを行って、それを神の手に渡し、神に働いて頂く場として、神様の出番を作りました。ヤコブは神の僕としてやるべきことをし、神が御業を進められました。43節「こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになった」。それを見てラバンの息子やラバンがヤコブに対して敵意を持つようになった。神はヤコブが旅に出た最初の夜に現れて以後、現れませんでした。ですからこれまでのヤコブの歩みは手探りでした。しかし、この時に至って神はヤコブに現れ、ラバンの家を出て故郷に帰るよう指示し、「わたしはあなたと共にいる」と最後に彼の手探り信仰を強めてくださいました。

 ★ヤコブは家族全員と財産を携えて帰る時、ラケルとレアにラバンの家での今までの総括を話しています。31章5-13節、特に7-9節でヤコブは「・・・神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ」と締めくくりました。

 ★飯塚教会の活動、信徒一人ひとり日常生活、これ全て「神様の出番作り」の一言に尽きます。出来る事で良いのです。持ち合わせているもので良いのです。それを主のところに持って行って、主に用いて頂きましょう。まずは、手持ち札を、手持ち駒を知る事です。教会も信徒もちょっと整理してみる必要がありますね。十字架でキリストが語られた言葉に、「成し遂げられた」というのがあります。キリストはご自分のできることを全て成し遂げ息を引き取られたのですが、十字架は、この意味で「この後は、神様、あなたの出番です」ということですね。神はそれに答えて働かれ、キリストを死人の中から甦らされました。皆さん、私たちも、日常の中で僕の為すべき事をして「後は神様、あなたの出番です」、と言って神を待ち望む生活をいたしましょう。

★2022年8月3日(祈り会)
 創世記29章31~30章24節「御心に留められる神」

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★エサウは2634節で妻を二人迎えました。そして、289節でその二人の妻を父イサクが気に入らないことを知って、もう一人妻を迎え、彼には三人の妻がいました。今回ラバンがヤコブに姉と妹の二人を妻として与えました。かなり先になりますが、サムエル記上1章ではエルカナにはペニンナとハンナの二人の妻がいました。皆さんは、神に選ばれたアブラハムの子孫が一夫多妻を行うのを読んでどう思われたでしょうか。後に神はアブラハム・イサク・ヤコブの子孫をエジプトの奴隷から解放して、神の民となさる時に、出エジプト記の20章にある十戒から始まって、レビ記、申命記に渡って、モーセを通して神と共にする生活の仕方を戒めや律法で指示なさいました。
 ★その中の申命記2115-17(新共同訳p313)で言われている長子権の戒めは、夫が二人の妻を持つことを前提にして書かれています。それを推奨しているのではありません。そこにある夫の限界、すなわちどうしても一方を愛し他方を疎んじることが起こることと、妻の限界、すなわち二人の妻が仲良くできないことを取り上げています。この様なリスクがあるわけです。それから夫は二人の妻に対して夫としての責任、務めを果たさなければなりません。また夫は二人の妻の子ども、それぞれに父としての責任と務めを果たさなければなりません。しかし、一夫多妻が行われました。
 ★その背景には医療が無い現実がありました。不妊治療の無い時代ですから、アブラハムの妻サラが不妊の為、奴隷のハガルを側女としてアブラハムの子を産ませることも行われました。また、かなりの経済力が無ければ一夫多妻はできませんでした。その日を暮らすのに精一杯の男は妻を迎えられません。ですから当時、結婚はこの様な社会的な状況から大きく影響を受けて行われることがありました。アブラハムの子孫が一夫多妻を行えたのは、神に祝福されて経済的に豊かだった、ということでもありました。
 ★そこでレアの様な自分の思いではない人生を歩まされる女性も生まれました。妻であるレアが31節「疎んじられる」とは何という矛盾でしょうか。愛されていない妻、これは大いなる苦しみです。私たちも人生で自分が選んだのではない不本意な立場に立たされます。そんな私たちとレアは重なりますね。それで注目すべきは31節で、主がそんなレアをご覧になられた、というところです。産んだ子に対してレアは命名する時に、32節「主がわたしの悩みを顧みてくださった」、33節「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ」と言いました。これとよく似た事が聖書に出てきます。
 ★創世記81節「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜をみ心に留め」。創世記2117節「神は子どもの泣き声を聞かれ、天から神のみ使いがハガルに呼びかけて言った」。出エジプト記37節「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」とあります。このように聖書は私たちの問題が解決されることよりも、私たちの問題を神さまがご覧になり、聞かれ、知っておられ、み心に留め、神のみ手の中に私たちがあることをまず伝えます。
 ★神はレアに四人の子どもを与えられました。しかし、それで問題解決ではありませんでした。神が望まれたのは、レアに「何が起こりましょうとも、神は決して自分のことを忘れておられるのではない」、というメッセージを知らせることでした。このメッセージは聖書に一貫して示されています。一か所紹介します。それは詩編629節です。「民よ、どのような時にも神に信頼し、み前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」。その後、神はレアの胎を閉ざされました。それで彼女は不妊の苦しみを味わいました。
★さて、301節でラケルはヤコブに不妊の苦しみを訴えます。あなたが子どもを与えないなら、わたしは死ぬと、彼女はヤコブの責任を訴えました。ここで不妊という大きな問題を真正面から取り上げることになります。ヤコブは激しく怒って、不妊という問題が妊娠すれば解決する問題ではないことを示しました。2節「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子どもを宿らせないのは神ご自身なのだ」。この問題はあなたと神の関係にあります。ここで聖書は人がエデン以来、棚上にして来た根本的な問題「あなたと神の関係はどうなっていますか」を、一時浮上させますが、出産合戦によって姿を消します。
 ★さて、14節の恋なすびの発見によって事態に変化が起こりました。恋なすびは媚薬とか言われる不思議な茄子で、不妊であった彼女たち自身が出産に向けて再チャレンジする機会となりました。しかし、決定的なことは、17節「神がレアの願いを聞き入れられたので、レアは身ごもって」と、22節「神はラケルもみ心に留め、彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれた」、所にありました。神の計画はレアとラケル、それぞれの側女から12人の子を産み出し、その下から二番目としてヨセフが生まれることでした。このヨセフによって後にヤコブの家族は大飢饉から逃れ、大国エジプトで生活することになります。
 ★ヤコブの妻たちは不本意な人生を歩みましたが、神は彼らをみ心に留めておられました。この様な神との関係に目を留め、信頼しその関係に生かされ支えられ生きて行く、私たちはその様に造られています。お祈りしましょう。

7月

★2022年7月20日(祈り会)
 創世記29章1~30節「欠けた所、弱さを覚える所に働く神」

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★一人旅の最初の晩に、神と出会ったヤコブは2022節で神に誓願をいたしましたが、「神が・・・してくださり、主がわたしの神となられるなら」と、条件を付けてそれがクリアしたら信仰しますという不十分な内容でしたが、神は黙って寄り添われます。東方の人々の土地は彼にとって未知の世界です。旅の道中が守られ、一息つける井戸にまでたどり着きます。皆さん、井戸には三つの大切な面があります。
①井戸は命溢れる場です。
人も家畜も、生きる為に水は必須です。
②井戸は人と人が出会う場です。
アブラハムの僕がイサクの妻リベカと出会ったのも井戸でした(2411節以下)。また、モーセが妻ツィッポラと出会ったのも井戸でした(出エジプト215節以下)。ヤコブも彼の妻になるリベカとこの井戸で出会います。「人が独りでいるのは良くない。218節」と言われた主なる神は井戸を人と人の出会いの場とされました。
③井戸は生活共同体が生まれる場です。
井戸の口の上にある大きな石のことが23節で説明されます。井戸の周りには既に三つの羊の群れがいました。7節でヤコブは三人の羊飼いたちに、まだ日も高いのになぜ三人が石を転がして羊に水を飲ませて、もう少し放牧して青草を食べさせないのか質問しました。しかし、三人はその石を転がせないと答えました。力が足りないからそう言うのではありません。仲間のもう一人が来て全員揃ってからでないと井戸の水を使ってはならない決まりだったからでした。面倒な事に見えますが、井戸によって幾つもの生活共同体は密接に関係を保っていました。
★命溢れる場、出会いの場、生活共同体の場、この三つが重なっている井戸は人間関係が形成される大切な場所でした。この光景を見て私たちは考えさせられますね。井戸より便利で衛生的な水道に変わった現代の、人と人の出会いや関係は希薄に成っています。文明の利器を使って便利になりましたが、この様な生活共同体に関わらない、より面倒のかからない浅い関係、その意味で希薄な出会いが横行しています。
6節のヤコブと羊飼いたちのやり取り、「元気でしょうか」「元気です」の原語は皆さんも知っておられるヘブル語シャロームです。これは平和で調和の保たれた共同体の状況を表す言葉です。ラバンの娘ラケルが羊の群れを飼えるという環境は、平和そのものを表しています。しかし、そこにヤコブが加わる事でその調和が乱れますが、新たなことが生まれようとしています。丁度火山が噴火して新たな地形が出来るようなものです。
10節11節、親族のラケルと出会うことが出来た感激や、ラケルに一目惚れしての舞上り、若いヤコブの力、それらが相重なって重い石が動かされました。それに答えてラケルが急いで父に知らせ、父が走って来て、ヤコブを抱きしめ、自宅へ案内したとする、感動的な対面の場面となっていますが、聖書はこれから、叔父と甥という新たな関係を取り扱おうとしています。ヤコブの母リベカをイサクの嫁に迎えた時に、ラバンは父ベトエルに代わって中心になって対応していたことから、ラバンは長男で早くから父の家を切り盛りしていた活動的な男でした。ですからヤコブと立場が違います。長男ラバンは強く、富める、牧畜経営をする男でした。次男ヤコブは弱く、富もなく、穏やかな天幕の周りから出て行かない男でした。特に長男と次男の違いが浮き彫りとなっています。皆さん、叔父ラバンの息子が登場しませんね。と言うことはラバンには跡取りがいなかった可能性があります。ラバンは自分の優位な立場を使ってヤコブを欺き、何とか彼の跡取りにしたかったようなのです。エサウを欺いた罰がヤコブに下ったのではありません。ラバンの欺きとヤコブのそれとは基本的に違います。いつの時代も行われる自分の優位な立場を使って悪がなされる、その人間関係を聖書はこれから取り扱います。
★皆さん、思い出してください。長男イサクの嫁探しでラバンの所に行くのに、アブラハムの僕は2453節で金銀の装身具や衣装や高価な品物という贈り物を準備していました。ヤコブの嫁探しの場合、父イサクは彼を手ぶらで行かせています。それでヤコブはラケルを嫁として連れ帰る為に7年間の労働を提供しました。次男の宿命といいますか、ちょっと暗い人生なのですが、2920節「ヤコブはラケルの為に七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」とあります。神が合わせられたこのカップルは、その熱々さでこの困難を乗り越えさせてくださいました。
★しかし、ラバンヤコブを欺いて姉のレアと結婚させました。25節でヤコブはラバンに抗議していますが、その抗議は全く受け止められず、ラバンからの提案を受け入れさせられます。それはレアとの婚礼を最後まで終えたら、ラケルも妻として与え、なおかつあと七年ラバンの為に働くという提案で、結果として14年間の労働が課せられました。ここには強い者富める者の労働観が現れています。それは利益を得る為の労働です。しかし、ヤコブの労働観は20節と30節にあるように、愛する者のための労働です。
 ★さて、17節でレアは優しい目をしていた、と訳されていますが、「くすんだ」「輝きの無い」そんな言葉が使われています。エジプトの発掘物を見ても、また中東の女性の目を見ても察します。目がはっきりしていない女性は好まれなかったのでしょう。ラケルのように野で羊を飼う元気な体ではなかったのかもしれません。実際彼女は羊を飼っていませんでした。ヤコブの好みはラケルでした。レアは愛されませんでした。ラケルは愛されましたが後に不妊という問題をかかえます。次回読みます31節以下に続く物語は、そういう彼女たちの問題に神が働かれる物語です。
★私たちの主イエス・キリストの神は弱者ヤコブの神となられました。また、ヤコブの子孫がエジプトで奴隷という一番身分の低い者であった時に、彼らを救い、彼らの神となられました。そして、彼らが約束の地に住む前に、荒れ野の旅を40年間させて、彼らを訓練なさいました。その旅の終わりに神は彼らに命じられました。寄留者や孤児や寡婦のような弱い立場の人たちの権利をゆがめてはならない。その時に「あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのです」、と言われました。神は聖書を通して皆さんに伝えておられます。わたしは、あなたの欠けた所、弱さを覚える所に働く神である。お祈りいたしましょう。

★2022年7月13日(祈り会)
 創世記28章10~16節「ここにも天と繋がっている」

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★ヤコブはお母さんの言われた通りに従うママっ子でした。お父さんから思わぬ祝福を受ける事が出来たのもママのお陰でした。しかしその結果エソウ兄さんから恨みを買うことになり、家を出なければならなくなりました。「ラバン叔父所へ逃げなさい」ママの言われる通りに旅立ちました。ヤコブはどんな思いで家を出たのでしょうね。

 ★ラバン叔父さんって、どんな人なのだろうか?そこでの生活はどうなるのだろうか?。ママから離れて初めて「ひとり」に成ったヤコブを、神は天で見ておれなくなったのでしょう。11節、ヤコブがとある所に着きました。そこは名前がありません。特別の場所ではありませんでした。時間も特別に決めたものではありませんでした。たまたま丁度その場所に着いた時に日が沈み、旅の足を止めて休む時となりました。ヤコブはその所にあった石一つを取って枕にしました。これもたまたま足元にあった石の中から枕に成りそうなのを一つ選んだのです。例えば皆さんも、スーパーで大根を買う時に、ある一本を手に取るのと同じです。

 ★12節今日も一日疲れました。横になりそのうちに眠りに入り、夢を見ます。これも、私たちがしていることですね。そこは、いつもの特別でない本当に日常生活の場です。聖なる、恐れ多い、厳粛な、神聖な、そう言う場ではなくて、この日常生活の場が天と繫がり、そこに主がおられたのです。そこで神と出会いました。これから未来に向かって出発するヤコブに。そして、あなたにも神はこの事を話しておきたいのです。

 ★「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」。日常の一つひとつの場面、そこも天と繋がっています。つまり15節、「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、・・・決してあなたを捨てない。」ということです。明日に向かってこれから進もうとするヤコブに神はこの約束を確認させ、「いってらっしゃい。あなたのクリスチャンライフを進めなさい」、とおっしゃりたかったのです。それは、あなたに対してもです。讃美歌90番「ここも神の御国なれば」は、悪魔の力が世に満ちても、ここも天と繋がっているんだから、主こそがこの世を治められるのだから、我が心には迷い無しと、元気を出してクリスチャンライフを進めようじゃありませんか、と歌います。原詩はThis is my father’s world、となっています。ヤコブがこの讃美歌を知ったらきっと愛唱歌にしたでしょうね。

★船に乗って向こう岸へ渡る途中、激しい風の為に波をかぶって船が沈みかけ、弟子たちが死にそうになった時に、イエスが一緒におられる事を弟子たちは思い出して「先生、起きて下さい。助けて下さい。溺れそうです。おぼれてもかまわないのですか」と言いました。イエスが湖を叱りつけ、すっかり凪になって「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と言われました(マルコ435-41節)。わたしがいるじゃないか。この沈みそうな船、ここも天と繫がっているんだよ、怖がる必要はないじゃないか。

 ★生粋のユダヤ人と言っていたナタナエルは、今日のヤコブ物語を子どもの頃から聞いていました。そんな彼を弟子にする時イエスは言われました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。イエスはご自分が天と地を繋ぐ生きた梯子、階段となる、ということですね。

★「イエス様、こんな汚い穢れた所と天を繋ぐのですか。」「そうだ、どうしても繋ぐんだ」。そのためにイエスは苦しみを受け、十字架にかかり、死んで、葬られて、陰府にまで下られました。この世の一番低い所まで下ったイエスを、神は死人の中から甦らせ、天に昇らせ神の右に座らせ、イエス自信を天と地を繋ぐ梯子、階段となさいました。イエスが復活して弟子たちに現れたのは、人間が死で終わりではなくて、永遠の命に与る、その道を伝えるためでしたが、それだけではなくて、天と繋がらない所はもはやどこにも無い、と言うことを伝えるためでもありました。教会は今日まで約2000年に渡って、この事を代わりに宣言して来ましたし、これからもしていく使命を持っています。

★私達がこのイエス様と繋がるなら、そこは天と繋がっています。みなさん、私のカーナビの自宅ボタンを押せば、今いる所と自宅と繋がる線が道路に現れます。北海道に居ようが飯塚教会まで線が繋がって帰り道が分かります。それと同じです。皆さん、信仰のナビを今日頂いて帰って下さい。そこにイエスボタンが付いています。パニクッタラ、それを押すんです。そしたら、そこと天が繋がっていることが分かります。

★それからもう一つ大切なことがあります。ヤコブは天と地を繋ぐ階段を神の天使が上ったり下りたりしているのを見ました。イエスは「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。つまり、天と繋がっていると言うことは、神の働く場である、ということです。
 
★世界陸上男子100メートル走選手のボルトさんは、位置について走る前に十字を切ります。しかしフライングをして失格となった時がありました。あの十字には御利益がなかった、と多くの人は思ったでしょう。しかし、ボルトはその後も十字を切りました。ご利益じゃなかった、ということです。ここも天と繫がっている。このレースを神の働く場として提供します。そう言う思いを込めての十字だったと、私は思います。
 ★1コリント1031節。コロサイ317節。食べるにしろ飲むにしろ話すにしろ何を行うにしろ、全ての日常は天と繫がっている、イエスが命を懸けて繋げて下さった、この日常生活に相応しいのは、神の栄光を表す事、感謝を表す事だ、と言うことです。天と繋がっていると、ありがとうの生活に変えられて行きます。これは神様のきよめと言う働きです。あなたも天と地が繋がっている事の証人になって下さい。お祈りしましよう。

祈り会・アパルームより(音声メッセージ)

★2022年7月6日(祈り会)
 創世記27章39~28章9節「親と子の物語」

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★大の大人のエサウがイサクの前で大声をあげて泣きました。しかし、イサクは慰める言葉を持ち合わせていませんでした。祝福は一つしかないからです。3940節でイサクは父として息子エサウに、彼がこれから迎える現実をはっきり伝えました。それは28節でヤコブが受けた祝福とは真逆の現実でした。しかし、『剣に頼ってでもお前は生きて行くのだよ。そしてついにいつの日かお前は弟の支配から解放される時が来る』と、生きる希望を語りました。当時、イサクの家族はそれぞれテントを張っていたのなら、その日四人の家族はそれぞれのテントで、どんな思いで過ごしたのでしょうか。聖書は何も綴りませんが、その日の家族四人の雰囲気は決して良くはなかったでしょう。皆さんの家族もそんな日を過ごされた経験がおありでしょう。今回の題を「親と子の物語partⅡ」といたしました。
 
★神はなぜアダムとエバの息子アベルの献が物だけに目を留められ、イサクとリベカの息子ヤコブに、長男エサウが受け継ぐことになっていた祝福を与えて、それぞれの家族に波風を絶たせられたのでしょうか。それが無くてもイサクとリベカは長男エサウの嫁のことで悩まされていました。既に2634節で親の悩みの種とまで言われていました。また、今日読みました2746節でリベカは「嫁のことで、生きているのが嫌になります」とイサクに愚痴っています。また、エサウも288節でそのことを知って、母公認の父の側女ハガルの子イシュマエルの娘を妻として迎え、両親の好意を得ようと努めました。これらの兄弟、嫁舅、嫁姑の関係は今も起こっている現実です。神は人間の家族と関わり、そこに介入し、心痛む問題とも寄り添って、取り上げ続けられるのは、人間にとって家族が大切だからです。

 ★41節はカインとアベルの事件が、また発覚するのではないかと、思わしめるエサウの言葉です。今回神はエサウの心の内を母リベカが見抜ける様にして下さいました。これは恵みですね。早速42-45節でリベカはヤコブを一時エサウから離すためラバン叔父さんの所へ行くよう命じました。「一日のうちに、お前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう」兄が弟を殺すとは母にとって「ふたりを失う」ことを意味します。エサウをカインの道に歩ませてはなりません。ヤコブを愛し策略の大本だったリベカでしたが、自分のお腹を痛めた二人の息子に対する母の思いがここに現れています。一日の内に二人を失った母エバは辛かったでしょうね。

 ★41節は、父を敬うことも敬わないことも、弟を愛することも憎むことも出来るエサウの心を明かします。エソウは自分で決めます。父を敬わず、弟を憎むと。禁断の実を食べることも出来るし、食べないことも出来る、そんなアダムとエバの時と同じです。ここには蛇もサタンも登場しませんが、神のもとから離れた人間が罪の支配を受けている様子が明らかに描かれている所です。そんな人間と寄り添ってくださっている神が、心の中で言ったエソウの言葉を母リベカの耳に入れて下さったのでしょう。エソウはカインの道から救われます。

 ★リベカは一つの策を立てました。自分の生まれ故郷のハランにいる兄ラバンの所へヤコブを逃がすために、今夫婦の悩みの種になっているエサウの嫁との関係を取り上げて、ヤコブにはリベカの故郷、すなわちアブラハムの弟の孫にあたるラバンの所から、嫁を迎える事を夫イサクに提案しました。このイサクとリベカ夫婦と息子たちの関係には、以前、ヤコブはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した、と問題があったことを取り上げていました。今回もリベカは兄が弟を殺して、カインとアベルのようなことになってはいけない、とイサクに相談しヤコブとエサウを離す提案をしないで、故郷での嫁探しという理由にすり替えている所から、「ちょっとこの夫婦、おかしいのでは」と考えるわけです。この家族には色々と破れがありましたが、神は寄り添い彼らを導かれました。

 ★この46節の言葉を受けてイサクがどう行動するか、それを彼女はイサクに任せました。それはつまり「兄は弟に仕えるであろう」と約束された神に任せた事でもありました。あるいは神のみ心であるならリベカが言わずともその様になると、み心を問うたのでありました。28章イサクはリベカの考えていた通りの行動をします。私たちもここを読んで驚きます。神は信仰者リベカを用いて下さいました。ここから彼女は聖書から姿を消し、その後の生涯のことは分かりません。2745節で、エサウの憤りが解け今回の一件の事を忘れる、その時期が来たらリベカが知らせるとの事でしたが、神は違う方法でヤコブを帰郷させ、兄弟は仲直りします。聖書はただヤコブ帰郷後358節でリベカの乳母デボラの死を告げ、4931節でイサクと共にリベカが墓に葬られている事を告げます。

★「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。ヨシュア記2314節」。これは、ヤコブの子孫たちが神の民として約束の地にたどり着いた、その時に指導者として立てられたヨシュアが、この世を去る前に民に聞かせた言葉です。リベカは285節でイサクの後ろからヤコブを見送ったのではないかと、想像します。しかしリベカはその後聖書から姿を消します。兄と弟の和解の姿も、父の祝福を受けて、ヤコブが多くの孫たちを連れて帰ってきた姿も、神の約束の実現を、リベカは見ずに死んだのでしょう。聖書は詳しく何も綴りません。不思議です。私たちもいずれは見ないで死んで行きます。しかし、神の約束は何一つたがわないと、信じて進みましょう。

6月

★2022年6月29日(祈り会)
 創世記27章1~38節「神の計画を信じて・・・リベカの信仰」

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11節でヤコブは、その母リベカに言った「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れれば、だましているのが分かります。そしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます」。13節、母は言った。「わたしの子よ、そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに行って取って来なさい」。この強いお母さんリベカの信仰の原点は、かつて主にみ心を尋ねるために出かけた時に、明かされた主の双子出産に対する計画、すなわち「兄が弟に仕えるようになる」でした。

 ★リベカはこの計画を持っておられる神と二人三脚で歩みました。確かにリベカの片方の足は、出産の痛みに耐えられるだろうか、生まれて来る子はどんな子なのだろうか、高齢での出産は無事終えられるのだろうか、子育てはどうなるのか、と色々な心配の上に立っていました。しかし、もう片方の足は神と繋がっていその足を神が、グイッグイッと、心配の上に立っている足を前へ進ませて下さいます。皆さん、私たちが神を信じるってことは、神と片足を繋いで二人三脚で人生を進むことです。リベカはまず第一に、神と繋がっている足から伝わる神からの力を受けて前へ進み、その勢いで自分のもう片方の足も前へと進みます。「わたしの子よ、そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます」、という母の強い言葉はこのような所から生まれました。

 ★このリベカのように、皆さんの人生にも神の計画があります。神は皆さんと二人三脚でその計画を進めたいと願っておられます。あなたの片足を神と繋げていただきましょう。そして、なにはともあれ、まず第一にその足に重心を置いて下さい。そしたら神が働かれます。新約聖書でイエスは弟子たちに、自分のいのちのことや、体のことでで、思い悩むな、と言ってから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われました。神と繋がった方の足から伝わってくる神の働きをまず受けることから始めなさい、ということです。ベタニヤ村のマリアはイエスの足もとに座って御言葉に聞き入る事を第一としたのも、そのためでした。

★さて、ヤコブは母リベカに強いられてイサクのもとへ行きました。自分には父をだまし切る自信はありません。母の信仰によって押し出されたのでありましたが、ヤコブは早速疑われました。20節「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」。そして次から次へと父は問いかけて来ました。21節「本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい」。22節「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」24節「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。(嘘ついてないよね)」。これらのイサクの言葉から、もうばれていると判断してもおかしくありませんでした。それでヤコブは言いました。20節「あなたの神、主が私のために計らってくださったからです」。神の計画にお任せするしかありませんでした。ヤコブも神との二人三脚で、神と結ばれた足に頼りました。そこに重心を置いたのです。

 ★ヘブライ121617節はエサウの様になってはならない、と私たちに勧めています。彼は長子の特権という神の賜物を軽んじました。それを後悔して二つの質問を父にしています。36節「あなたは私のために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」38節「祝福はたった一つしかないのですか。」そうです、ただ一つなのです。みなさんのは、イエス・キリストを通して、神と繋がれ二人三脚で生きる恵みが用意されています。しかし、私達はそれを安価なものに誤算してませんでしょうか。これは皆さんにとって高価な高価なただ一つの宝です。ヤコブの母ラケルの様に、マルタの妹マリアの様に、この宝を逃さないで下さい。

★2022年6月22日(祈り会)
 創世記26章1~33節「神とつながる」

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★神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言って、神と人とが関係が持てるように造らました。例えるなら、それは皆さん一人一人に神のアンテナがついている、ということです。キリスト教というアンテナを新設しなければならない、と多くの人は誤解し、結果「わたしにはキリスト教は無理」となってしまいます。既にあるそのアンテナを神の方に向けるだけでよいのです。更に例えると、それは、神がこの地上で皆さんと二人三脚で歩みたい、と願っておられる、ということです。
 ★信仰はこの世から離れることだ、と誤解しないで下さい。皆さんの片方の足はこの大地、この世にしっかり立たなければ二人三脚はできません。この片方の足には弱さや不完全さがあります。イサクはゲラルの人々を恐れて、妻リベカを妹だと、偽りました。世の中を渡るのに多少の嘘は必要悪である、との認識でした。ところが、その偽りによって後にアビメレク王から非難されます。王はイサクの偽りは、自分の民に人妻と寝て罪を犯させる、やってはならない神を畏れない行為である、と認識していたのでした。父アブラハムも20章で同じことをしています。今回もイサクよりもアビメレク王の方が神を畏れて罪を犯してはならない罪を犯させてはならない、という認識を持っていたという結果になっています。皆さん私たち信仰者がこの大地に、この世に据えている片方の足には、この様な弱さ不完全さがあることを忘れてはなりません。あえて言うなら、あって良いのです。それよりも、この足を確りこの大地にこの世に立つ、それが大切です。
 ★さて、二人三脚ですから、私たちのもう片方の足と神の片方の足と結びます。そして、神はもう片方の足でこの大地にこの世にしっかり立たれます。この二人三脚で人生を進める、それが父アブラハムからイサクが受け継いだ信仰の歩みでした。そして、私たちもその信仰を受け継いでいます。私たちの場合はイエス・キリストの片足と結ばれます。キリストのもう一方の足は、具体的のこの歴史の中で肉体を持って生き、苦しみ、死に、葬られた、しかし三日目に甦って天の神の右の座に着かれた足です。これは最強の二人三脚ですね。
★さて、この二人三脚には掛け声が必要です。神は「イチ、ニ、イチ、ニ」「右。左。止まれ。進め。ゆっくり。早く」と声を掛けられます。主がイサクに現れて言われた2625節と24節の言葉は、その掛け声です。神の方に向いていたアンテナで、イサクはその掛け声をキャッチしました。私達の場合は、教会で御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)に与る時に、それが行われます。
★8節以下で神様が動かれます。王アビメレクは窓から覗き見をする悪い習慣があったのでしょうか。そんな事をしていたら家来はガッカリするでしょう。この時どうしてそんなことをしたのか不思議です。それもその覗き見た場所がイサクの家でした。これも不思議です。また、10節でイサクは王から呼ばれ「あなたは何ということをしたのだ」と、非難された時、彼は『これからどうなるのだろう』と心配したでしょう。ところが11節で王は「この人、またその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる」と、全ての民に言って、イサク一行を受け入れるよう命じました。これも不思議ですね。この結果イサクは恐れることなくゲラルに腰を据えて生活する事が出来る様になりました。早速、穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍の収穫を得、多くの家畜と召し使いを持つという祝福を神から受けました。イサクが神と二人三脚であったから、この事が起こりました。
★しかし、神と二人三脚と言う信仰生活で、信仰しているのにどうしてこんな事になるの、と言う現実に立たされる時があります。イサクは神との二人三脚の歩みの中で、ペリシテの国民からねたみを受け、父アブラハムが掘った井戸をことごとくふさがれ、土で埋められてしまいました。これはいじめですね。好意的だった王もイサク達を追い出す事になりました。それで町から下って谷間に住みました。何処に住むにいたしましても井戸を掘らなければ生きて行けません。すると、その谷間に、埋められてしまった昔父アブラハムが掘った井戸を発見しました。父の足跡を辿りながら、イサクは神と二人三脚で歩む信仰者の厳しい現実を目の当たりにしました。その時に、早合点して信仰から離れる人がいます。しかし、早合点は禁物です。詩篇42・43編は、その様な時に「神を待ち望め」と歌う信仰の詩です。イサクは父の井戸を掘り直しそこに同じ名を付けました。
 ★しかし、イサクがせっかく掘り直した井戸を、ゲラルの羊飼いたちは「それは我々のものだ」、と争って来ました。しかし、イサクは彼らと争うのではなくて、ひたすら視線を神に向けて、つまりアンテナの向きを調整しながら神を待ち望みました。そして三つ目に掘った井戸に対してはもはや争って来る人はいませんでした。この体験によってイサクの信仰が強められました。彼は何を思ったのか、掘り起こした三つ目の井戸を後にして、べエル・シェバへ上りました。その井戸も既にペリシテ人に埋められていました。25節そこをもう一度掘り返して、父アブラハムの信仰を受け継いで行こう、そう言う覚悟だったのでしょう。
 ★そこはかつて父アブラハムが神と二人三脚で歩んだ時に、その姿を見てアビメレク王が「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます」と言って友好の契約締結を求めて来た時に、井戸の所有契約を結び、ぎょりゅうの木を植えた記念の場所、信仰の証の場でした。2133節参照。24節そんなイサクの信仰に、神は黙っていられませんでした。「恐れてはならない。わたしはあなたとともにいる」。イサクは礼拝をして井戸掘りをしもべたちに命じて、ゲラルへ帰りました。
 ★すると、アビメレク王と、参謀のアフザトと、軍隊の長ピコルがやってきます。イサクが訪問理由を問うと、彼らは父アブラハムとその子イサクと言う二世代の信仰者を見て来た結論を告げました。「主があなたと共におられることがよく分かったからです」。そして、友好の契約締結を求めました。32節、契約を終えて彼らが帰って行った後、その日にベエル・シェバで井戸を掘っていたイサクのしもべたちが帰ってきて「水が出ました」と報告しました。ベエル・シェバは神を信じる者にとって忘れられない場所となりました。
 ★教会はこのべエル・シェバの様な所、証の場、信仰が受け継がれる場です。皆さんの信仰の歩みは井戸堀りに例えられます。皆さんのベエル・シェバを次世代の為に残しましょう。こうして教会に集った皆さんにも今日神は黙っていられません。言いたくてしょうがないのです。「恐れてはならない。わたしはあなたとともにいる。」この宣言は空言ではありません。私達の十字架のキリストが死人の中から甦って、この宣言が確かである事が明確になりました。神に視線を合わせましょう。アンテナを神の方に向けましょう。神に導いて頂く為、神の計画を進めて頂く為、み言葉(説教)と聖礼典(洗礼と聖餐)に与って神と二人三脚と言う信仰生活に入りましょう。まだの人はまず洗礼を受けて片足はキリストと結ばれましょう。もう片方は大地に、この社会にしっかり立ちましょう。誤解して世を離れないで下さい。何が起こっても、早合点して信仰を離れないで下さい。神が働かれるのを待ち望みましょう。皆さんの信仰の歩みによって、神の祝福が広がりますように。お祈りの時といたしましょう。

★2022年6月15日(祈り会)
 創世記25章19~34節「神に計画あり」

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★神との関係が崩れたことによって、人間同士の関係も崩れ出しました。その人間同士の関係の基礎を築く家族のことを、創世記は物語ります。アダムの家族、アブラハムの家族、今日の聖書はイサクの家族、37章からはヤコブの家族の物語です。エデンを出た後、アダムとエバの家族は、兄が弟を殺すというショッキングな事件を経験しました。神はそんな人間と関わり続けられます。エデンを出たこの人間に何とか希望の光を照らしたい、そんな神の思いが創世記の背後にあります。
 ★さて、イサクはリベカと40歳で結婚しましたが、すぐに子どもが与えられませんでした。それで彼は妻のために主に祈ります。しかし20年間待たなければなりませんでした。子どもは自分が作るもの、自分の思い通りになるものではありません。イサクは結婚してまずそれを体験しました。皆さん『子どもは天からの授かりもの』と私たちも聞きます。しかし、子どもだけではありません。私たちの人生も天からの授かりものです。自分の思い通りになるものではありません。箴言は伝えています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」169節。「人の一歩一歩を定めるのは主である」2024節。信仰とは、神の計画を信じて人生を進めることですね。
 ★初めての出産を前にリベカは、自分のお腹の中で子どもたちが押し合うので、双子と気付いたようです。「これでは、わたしはどうなるのでしょう」。これは初産が双子出産というリスクのあるものなので、難産を心配しての不安とも取れる言葉ですね。しかし、実家から付き添って来た乳母のデボラがリベカの出産を助けたでしょう。リベカは出産自体のことではなくて、双子の子どもに対する神の計画を知りたいために、「主の御心(すなわち、主の計画)を尋ねるために出かけた」。
 ★このリベカの行動は不思議です。どこへ行ったのか分かりません。後にサウルが父に頼まれてロバを捜しに行ったがどうしても見つからない時に、神の人の所へ尋ねに行ったことがあります。サムエル記上99節で、「昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた」、とあります。預言者は神の御心を伝える人でした。それでキリストも預言者と人々から思われていました。新約聖書ヨハネによる福音書923節で弟子たちが、生まれつき目が見えない人の原因を、本人の罪なのか両親の罪なのか、と尋ねました。するとキリストは、目が見えない原因ではなくて、その目的を示されました。それは彼に神の業が現れるため、という神の目的でした。
 ★皆さん、今それぞれ違った立場と環境の中に立たされている私たちは、『もっと良い時代に生まれたかったなあ。違う立場、違う環境だったら良かったのになあ』、と思う時がありますね。しかし、キリストはハッキリと宣言されます。『あなたが今立っている立場や環境に対して、神には計画があります』。23節で告げられるリベカの家族に対する神の計画に注目しましょう。それは何百年もの先に起こる内容でした。今生まれようとしている二人の子どもは、それぞれ二つの国民の先祖になります。これは父アブラハムが受けた神の約束の成就で、イサクとリベカ夫妻にとっても心から願うことでした。しかし、最後の一言は想定外でした。「兄は弟に仕える」。この言葉に神の計画、神の御心全般に通じる基本が現われています。皆さんに対する神の計画に通じる内容です。
 ★弟が兄に仕えるのが世の常です。29節以下の兄弟エサウとヤコブのやり取りの中で、話題にされる長子の特権がそれですね。長男として生まれる事自体が既に有利な立場です。なぜ長男が優位にされるのでしょうか。日本でも家督相続や本家と分家というのがありました。法律では子どもは生まれた順番に関わらず、同党の相続権を有していますが、長男という特別な位置づけは今も残っています。長い長い人間社会の歩みの中で築かれて来た柵のようなものです。エデンで起こった神と人間の活計の崩壊によって、人間の本来の流れに障害物が生じました。神の計画はその障害物から解放して、一人一人が伸び伸びと流れて行って神の祝福に与る、そういう計画の様です。
 ★神はそういう人間の障害物に「否」と挑戦されます。神は兄カインではなくて弟アベルとその献げ物に目を留められました。その時はハッキリしませんでしたが、今回「兄は弟に仕える」、とハッキリ宣言なさいました。ヤコブの子どもたちにおきましては、神はヨセフと共におられました。神は彼らの子孫が大国を築く前に、彼らがエジプトで奴隷であった時に旧約聖書中、最も親しく交わられました。それを振り返って申命記77節で「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・・」とモーセはエジプトから救われた民の子孫に語りました。
 ★サムエル記上16章で神はエッサイの七人の息子を退け、まだ少年だった末っ子のダビデに油を注ぎました。神がイエス・キリストをマリアより生まれさせ、ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られて三日目に甦り、天に昇られ神の右の座に着かれた事には、この神の計画が最もよく表しています。心の貧しい者は幸いである。後のものが先になり、先のものが後になる。家造りらの捨てた石が隅のかしら石となった。権力ある者をその座から引き落とし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのである。わたしが弱いときにこそ私は強いからである。これらのキリストの言葉や新約聖書の言葉も、この神の計画をよく表しています。
 ★さて皆さん、2427節の誕生と成長の様子と2934節の事件をよく読むと、二人の子どもの姿や性質や生活が余りにも違っているので驚かれたでしょう。そもそも28節の彼らの両親イサクとリベカが違っていました。神はなぜ彼らの二人の子どもの違いをこのように極端にされたのでしょうか。言葉の違いや人種の違い、生活習慣文化の違いによって、多くの衝突と不理解という悲劇が起こります。神はどうしてすべての人を同じに造らなかったのでしょうか。その考えに対して神は挑戦しておられます。神は一人ひとりの命に対してオンリーワンな計画を、かけがえの無さを持っておられます。聖書が弟ヤコブに焦点を合わせて綴られているのは、人と比較して自分に希望が持てない者に、希望を与えるためです。弱い立場にある者、小さき者、希望を見出だせない者に、『あなたにもオンリーワンな計画があります』と、神は伝えておられます。お祈りの時といたしましょう。

★2022年6月8日(祈り会)
 創世記25章1~18節「祝福の鎖」

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★アブラハム物語は、息子イサクの結婚物語で閉じられ、2519節からイサク物語が始まります。その間に、誰が誰を生んで何歳で死んだ、という系図的な文章が挿入されています。以前お話ししましたが、創世記は神が人を創造し、祝福され、アダム、カイン、セト・・・と言う風に、その祝福が鎖のように未来に向かってつながって行く希望を、系図というかたちで表現しています。ですから私たち日本人が考える、先祖代々の血のつながりを示す系図とは違います。系図は創世記の骨組みのようになっています。それに色々な物語という、身がつけられています。24章のイサクの結婚物語は、その身の部分で、しもべが嫁リベカを連れて帰って来た時に、アブラハムは亡くなっていた様子でした。しかし、25章に入って「アブラハムは、再び妻をめとった」とあるので、皆さんは驚いたと思います。251節から18節は身が薄くなって骨が現れている所、と言えます。
 ★長年連れ添ったサラを葬り、しもべにイサクの嫁探しを命じた頃、アブラハムは再婚していたようです。老人アブラハムとケトラとの間に六人の子が産まれました。これはもう、神がアブラハムから更に別の子孫を興された、と言うしかありませんね。この再婚によって系図に大変重要な内容が入って来ました。ケトラが産んだ子の名前が、アラブの地名や民族に関係しているのだそうです。ケトラの子孫はイスラームです。イサクの子孫、イシマエルの子孫、ケトラの子孫によって神は、「わたしはあなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう(2217節)」、と言われた約束を履行しておられます。
 ★6節、アブラハムが他の子どもたちをイサクから遠ざけ、イサクの子孫がアブラハムの後継ぎとして選ばれ、財産を受け継ぎます。側女の子どもたちにはアブラハムの財産は与えられませんでしたが、贈り物が与えられます。これらは神が選んだ者だけの神ではなくて、また、一部の民族だけに関わる神でもなくて、この世全体に関わられる神である事を伝えています。
 ★さて、710節のアブラハムの死についての報告に注目しましょう。アブラハムは75歳から信仰の旅に出て(124)、丁度100年でそれを終えて眠りに就きました。彼は死んだのですが、それを8節で色々な言葉を使って表現されています。原文に従って読んで行くと、次のようになります。
★アブラハムは「息絶え」。これは空になるという語源を持つ言葉です。27節で神はアダムの「鼻に命の息を吹き入れ、人は生きた者となった」とありました。脳死というのは最近の事で、何千年もの間、人の死とは息を引き取る事でした。神が吹き入れられた息を取り上げられ、空っぽにされ時が死でした。ヨブが「主は与え主は奪う」と祈ったのを想い起します。
★「平安な老年を迎え、長寿を全うして」とは、神が見て「良し」とされた齢、生きる長さと言うより天寿とでも言えるでしょう。「老人となり、年満ち足りて」とも翻訳しています。老いて満ち足りる、これは素晴らしいことです。この老いの秘訣は神への信頼であると、アブラハムは証ししています。
★「自分の民に加えられた」サラ、テラ、ナホル、セム、ノア、・・・アダムと遡る系図で示されてきた鎖の列に彼も加えられます。系図は神の祝福の力が受け継がれて行く証しでもありました。生涯を閉じて先祖の列に加わるとは、神の祝福の力、人を生かす力を証する列に加わることです。ここには先祖を供養するという考えは全く生まれません。先祖とは神が生かされる力が以前から今に至るまで働いてきた証です。自分が死んでその先祖に加わるとは、その力が自分の代を通って次の代へと働くという証しです。アブラハムの死によって、創世記の骨組み、系図と言う祝福の鎖に、彼の輪が加えられました。
9節イサクとイシュマエルが一緒に父アブラハムを葬りました。お互いに排斥しなかったのです。10節アブラハムは妻サラと同じ所にイサクとイシュマエルによって葬られました。二人は墓の前で父母の信仰者としての歩みを思い起こしたことでしょう。そして、信仰を受け継いだのではないでしょうか。17節イシュマエルもアブラハムと同じく先祖の列に加えられます。彼は137歳まで生き、祝福されました。彼の子孫が互いに敵対しつつ生活していた、という陰の部分がありますが、神はそれでも彼を顧みられました。
★ケトラの子孫もイシュマエルの子孫も救いの担い手であるイサクからは離れた所にいますが、アブラハムが受け継いだ祝福を受けました。アブラハムは、祝福の源となりました。私達クリスチャンもアブラハムのように祝福の源となるようにと、招かれています。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。ガラテヤ39節」。ローマ416節も参照しましょう。私たちの人生の覆いによって、祝福の鎖は見えませんが、私たちはそこに繋ぐれることになる、一つ一つの輪である。そのことを覚えて歩みましょう。お祈りの時といたしましょう。

★2022年6月1日(祈り会)
 創世記24章「神の御支配の中を行く」

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 皆さん創世記は50章あります。その真ん中257節でアブラハムは死にます。12章から始まったアブラハム物語の締め括り、24章はイサクの結婚を取り上げます。それは創世記の中で一番長い67節に及ぶ美しい物語です。内容は三つです。①アブラハムの指示19節、②しもべの旅1061(旅の道中10-27節、旅の完成28-61)、③イサクとリベカ結婚6267節。
 しもべがイサクの嫁を探す時に祈ります。創世記でここ程祈りが強調されている所は他にありません。祈りがこの物語のテーマです。

 2節、アブラハムが家の全財産を任せている年寄りのしもべは、イサクが生まれる前に家を継がせる予定にしていた152節のダマスコのエリエゼルではないかと言われています。主人に子どもが生まれない時、しもべである奴隷が生んだ子どもを養子にすることが昔行われていたそうです。アブラハムには沢山の奴隷がいました。全財産を管理させる程に一番信頼を置いていた奴隷は、一番古い、年寄りの、昔からアブラハムに仕えていた奴隷であったと思います。34-36節で彼は自分の主人の事を詳しく紹介しています。もしかすると、テラの時代から代々仕えて来た奴隷だったのかもしれません。

 ここで注目していただきたいのは、彼がアブラハムの神に祈ったことです。12-14節と27節の祈りに注目しましょう。そして52節、イサクの嫁を連れ帰る承諾を得られた時に彼は地に伏して主を拝しました。彼がアブラハムの信仰を受け継いでいる事が分かります。1節は、「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになった」と、改めて彼の人生を締めくくっています。そして、34節は裕福さと子が与えられた事をその祝福としていますが、アブラハムの知らぬ所で、彼のしもべが主人の信仰を受け継いでいるという祝福が含まれていました。信仰の継承というのは、私たちの知らない所で、繰り広げられています。神に期待いたしましょう。

 アブラハムは29節「手を腿の間に入れて誓う」ことをしもべに求めました。創世記4729節でヤコブもヨセフにこの特別な誓い方を求めています。誓約内容は①、イサクの妻は今住んでいるカナンの娘からではなくて、アブラハム一族のいる故郷の娘の中から連れて来ること。②、その為に息子を故郷に行かせてはならないことです。この二つはアブラハムの信仰に関わる内容でした。神はアブラハムと彼の子孫を寄留者として召されました。カナンの娘と結婚してこの地に根を下ろしては、その召しからそれてしまいます。

新約聖書ヘブライ1115節に次のようあります。「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのによい機会もあったかもしれません」。嫁探しにイサク本人も連れて行くというのは、この「戻るのによい機会」になります。「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」と、ヘブライ1116節は続けています。ですから、この特別の誓約はアブラハムの信仰に関わる内容でした。この誓約に「召しにふさわしく歩む」というアブラハムの生涯の最後のメッセージが込められています。新約聖書エペソ41節では「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と、クリスチャンにも勧めています。

 このしもべは大きな責任を負わされ、5節「もしかすると、その娘が・・・」と彼は心配しました。しかし、アブラハムは7節で主が彼にみ使いを遣わされ、息子に嫁を連れて来ることが出来るようにして下さる、との約束を告げます。そして、このしもべは37-41節でその約束が実際に成就すたことを証言します。

 彼は、自分は何もしないで奇跡が起こることを祈ったのではありません。自分の旅の目的をはっきりと認識し、その目的遂行を求めて、娘が集まる泉に行きました。親切で優しく、家畜の面倒見の良い娘を捜すという自分なりの条件として「どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう」と答えた娘、という具体的な条件まで決めました。この様な行動の後、彼は祈りました。そして、主が何をなされるのかをじっと見ていました。

 皆さん、祈りとは、私たちの日々の事々に主の御支配を求めて行動し、その後を主にお任せする、じっと見守ることです。僕が帰った時にはアブラハムは既に死んでいたようです。65節でしもべはイサクを主人と呼び、66節アブラハムにではなくイサクに全てを報告します。イサクの心にしもべの信仰の証言が刻まれました。67節「母のなきあと、慰めを得た」とあります。母の死によってイサクにポッカリ開いた穴を神がリベカとの出会いをもって埋められました。神は私たちの人生にも同じ様に働かれ、厳しい人生に慰めを与えられるお方です。

5月

★2022年5月25日(祈り会)
 創世記23章「サラの埋葬」
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★サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。サラはカナン地方のキリヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。1132節のテラの死で終わっていた系図は、テラの長男、アブラハムへと続くのですが、その前に妻サラの記録が加えられています。男性中心の系図なのに女性サラの名と、生きた年数と、死んだ場所の記録があるのは今までに無い事です。アダムもノアも妻がありました、しかし何の記録もありませんでした。短いですが妻に先立たれた夫の悲嘆する姿がここに描かれています。
サラの死によって初めて人間の葬りのことも取り上げられています。聖書は私たち人間の姿を網羅するように綴られている書でもありますね。

★サラの死によって、アブラハムに一つの仕事が与えられます。それは墓です。早速4節で、寄留者として滞在しているアブラハムが、ヘトの住民に墓地購入を打診します。10節を読むとその交渉の様子が明らかになります。町の門の広場で住民が見守る中で交渉が始まりました。そこには、今回アブラハムが購入を希望した墓地の地主エフロンだけではなくて、町の住民と長老もいたでしょう。10節に彼らは座っていたとあります。ルツ記412節によく似た光景が記録されていますので紹介します。「ボアズは町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。『引き返してここにお座りください』と言うと、その人は引き返してきて座った。ボアズは町の長老のうちから十人を選び、ここに座って下さいと頼んだので、彼らも座った」。アブラハムの場合も、このようにして交渉が始まりました。

★サラ、お前の墓地をこれから探すが、どこにしようか。ロトと別れて二人で生活を始めたマムレがいい。神からの約束を信じて歩んだしるしとして、その墓地を買い取って所有するんだ、お前もきっとそう思うに違いない。神さま、私たちの願いを聞いて下さい。祈り心でアブラハムは交渉に臨んだのではないでしょうか。
 
4節は、この町の墓地を所有する事自体に対する同意を得る交渉です。すると5-6節で町の人は、彼らの墓地を提供し、彼らの墓地に葬ることを誰も拒まないと、丁寧な尊敬の念を忍ばせる言い方で同意を表しました。しかし、譲るとはっきり答えませんでした。次に8節でアブラハムは購入希望場所と、支払方法と所有権購入の三点をハッキリ提示して、交渉を進めました。すると11節で、土地所有者エフロンが非常に気前の良い返事をします。三回「差し上げます」と申し出ます。「え、ただでいただけるのですか」と言いたくなる内容です。当時の世界でどのような交渉がされていたのでしょうか。現代の私たちの感覚とはきっと違っていたでしょう。ですから、理解に苦しみます。15節でエフロンが提示した売値から推察してみましょう。

 ★銀400シェケルとは?1シェケルは銀11.4gですから、×400シェケル=銀4560gです。4.56kgです。1kgの延べ棒四つ半です。ヘブロンの田舎でしょう。マムレの前のマクペラにある洞窟と畑と敷地内の雑木の値段としては非常に高額です。
 
★エフロンは駆け引きしたのでしょう。無料の話を出して、買い手の購入意識を試したのでしょうか。13節の「どうか、畑の代金を払わせて下さい。どうぞ、受け取ってください」。とのアブラハムの返事を待っていたのでしょう。15節「それがあなたとわたしの間で、どれほどのものでしょう」、という言い方はエフロンの売値交渉の巧みさを感じます。しかし、アブラハムは買値交渉をするつもりはありませんでした。彼は正式に土地の所有権を得ることのみを考えていました。20節までの文章は、妻サラの葬りよりも、土地を所有した事の方が強調される内容となっています。

 ★アブラハムが選んだ墓地は19節、ヘブロンにあるマムレのマクぺラの畑の端にある洞穴でした(エフロン所有)。ヘブロンのマムレはアブラハムとサラにとって記念の場所でした。13章それはロトと別れた後のことでした。ロトと反対方向に向かう二人の前には荒れた地が広がっていたに違いありません。「あなたは人が好いんだから、どうしてロトに選ばせたの?」とサラは前を進むアブラハムに文句を言って、夫婦喧嘩をしたのかもしれません。彼らは自分達に残された地に到着して失望落胆していたのかもしれません。しかし、主はその時に約束されました。131415節「目を上げてあなたがいる所から東西南北を見渡しなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。」この約束をいただいて最初に住んだ所がヘブロンのマムレの樫の木のかたわらでした。

 ★この場所は土地の取得という神の約束(131415)を信じて二人で生活を始めた記念の場所です。いまだ、その約束を見ていませんが、今回、この小さな墓地を取得したことは約束が確かであるしるしです。後に、この墓にアブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブとレアが葬られます。彼らはすべて約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが約束を目指して旅する、地上では仮住まいの者、寄留者であったことを言い表しました。私たちの場合は、天に用意されている住まいに迎えられる約束を与えられています。この事は、この地上では叶いませんが、それを目指して私たちもこの地上を旅する者です。最後に新聖歌8番の1番の歌詞を紹介します。七日の旅路、安けく過ぎて、御前に集い、かしこみ仰ぐ、今日こそ天の 休みのしるし。日曜礼拝は信仰の旅人に与えられたしるしです。お祈りの時といたしましょう。

祈り会・アパルームより(音声メッセージ)

★2022年5月18日(祈り会)
 創世記22章15~24節「神と人、男と女」

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★アブラハムが献げ物をささげ、その場所を記念して命名し、19節、二人の若者に約束したように、彼らのもとに戻って来て、そして共にベエル・シェバに帰る、本来そういう物語で終わって良いところなのですが、再び主の使いが天からアブラハムに呼び掛け、16節から18節まで追加されています。その内容は神の約束の再確認でした。この約束はかつて語られたものでした。①豊かな祝福を与える。具体的に子孫を天の星のように増やすという約束は15章で言われたものでした。海辺の砂のように増やすという約束は、13章でロトと別れたアブラハムに言われた「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」、との約束と同じです。そして、②今回「敵の城門を勝ち取る」という約束も新たに加えられています。これは24章でイサクの妻としてリベカをアブラハムの僕が連れ帰る時に、彼女の兄たちの祝福の言葉の中にも含まれています。子孫が強い民になる事が祝福と一般的に言われていたそうです。そして、③地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
 ★今まで、アブラハムには何の功績も無く、神は無条件で彼を召し、この恵みの約束をされて来ました。この事は私たちクリスチャンも同じです。新約聖書のガラテヤ28-9節を思い出します。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自分の力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです」。
 ★神は自分の独り子である息子すら惜しまなかった、アブラハムの今回の行為のゆえに、あらためて三つの約束を伝えました。新共同訳では「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる」と翻訳されていますが、原典は預言者の言い回し「わたしは自らにかけて誓う。主の託宣である。」となっています。(エレミヤ書225節参照)。人はただ恵みによって救われます。しかし、その恵みに応えることも出来ます。神はその応答を心から喜ばれます。本来、神はこの双方向の人との関係を持つために、人を神のかたちに神に似せて造られました。預言者とは、人がこの神への応答に対して無関心になり、その代わりに罪の誘惑に支配されて、神から離れ、神以外のものを神とし出した時代に遣わされ人たちでした。ですから、この15節以下での、主のみ使いの再呼び掛けは、人との双方向の関係を願う神の思いを表している所だと思います。
 ★さて、神は応答してくれたアブラハムに対して、今回は自らにかけて誓うと、約束の確かさを、さらに強調されました。きっと神は嬉しかったのでしょうね。新約聖書にヘブライ人への手紙という書があります。迫害の中、神の約束を目指す者の希望の確かさを伝えている書です。その中で、今日のアブラハムの話を例に出して、「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものである」(619節)、と書いています。余談ですが、ローマ郊外にあるカタコンベと言われる地下墓地に迫害を逃れたローマのクリスチャンたちがいました。イエス・キリスト・神・の子・救い主魚の頭文字を合わせると魚と言う文字になったので、クリスチャンを証するマークとされ、その墓には魚のマークがあちこちに彫られています。それと共に錨のマークもあちこちに彫られています。神の約束の確かさを証するマークです。
 ★さて、23章のサラの死を前にして、テラの息子ナホルが妻として迎えたミルカと、側女として迎えたレウマの消息の知らせが、突然アブラハムに届きました。ミルカは8人の子どもを産みました。レウマは4人子どもを産みました。ここに1127節の系図に関わった、嫁に来たサラとミルカ、側女のハガルとレウマが並べられます。その内のひとり、サラが生涯を閉じようとする前に、この様に私たちを4人の女性に、聖書は注目させようとします。なぜなのでしょうか。
 ★今まで聖書は、系図の中に女性の名を入れず、子は生まれた、と記して男性中心の内容でした。しかし、我々は神が人間を造られた時の事を今一度思い出さなければなりません。神の人間に対する第一の命令は何だったでしょうか。128節「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」です。サラはイサクを産み、ミルカは後にイサクの妻となるリベカの父ベトエルを産みます。女性たちは着実にこの神の命令を忠実に果たしました。産むだけではなくて、養育、教育、社会でのあらゆることがそこに加わります。人の基本の基です。
 ★また、アダムから始まる系図に出て来る男性の死や葬りについて、聖書は詳しく記して来ませんでしたが、アブラハムの妻サラにおいて、初めてその死と葬りのことを綴ります。そして、その前にアブラハムの親族に加わった女性たちの事を取り上げ、ここは非常に女性中心に綴っています。父テラがナホルミルカ夫婦と別れてアブラハム夫婦とロトを連れてウルを出た背景には、ミルカと不妊のサラの関係もあったのかなあ。サラと側女のハガルの対立がありました。ナホルが側女をめとった理由は分かりませんが、ミルカと側女レウマの関係にも色々あったでしょうね。詮索は尽きません。20-24節女性が・・・を産んだという、特別な系図を、神はここに挿入し、人の基本「産む」という事に、その位置役を担う女性に目を止めさせ、はたして今の社会構造はこの基本から外れていないか、と問うておられる気がします。祈りの時といたします。

★2022年5月11日(祈り会)
 創世記22章1~19節「真実なお方です」

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 ★1節「アブラハムよ」という神の呼びかけと、アブラハムの「はい」という応答での始まりは、今までに無い物語の始まりを予告しています。それは、神とアブラハムとの関係の根底を探り、そこを確り整える、そんな物語です。私たちもここを読んで、「わたしと神さま」の関係の根底部分はどうなっているのか、探られます。そして、そこを神に確り整えていただきましょう。
 ★2節の神の命令は余りにも唐突で、何の準備もなく、予想外のことでした。それは私たちにとっても同じです。21章でイサクが生まれたばかりなのですから。私たちも、同じようなことを人生で体験します。その時に、悲しみ、苦しみ、悩み、嘆き、落胆が、アブラハムにも襲いました。しかし、聖書はその事に一切触れません。いきなり34節「次の朝早く、アブラハムは、ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた・・・」と、淡々と事を進めるアブラハムの姿を綴ります。妻のサラ、二人の若者、イサク、彼らに対して今回の神の命令を、どのように話したのかも、分かりません。三日の道程の間、どんな会話をしたのかも、分かりません。丁度映画でカメラが、アブラハムの周りのものを全てぼやかせて、彼だけに焦点を合わせる、そのような表現となっています。
 ★さて神が命じる焼き尽くす献げ物は、今までに一回だけ出て来ました。創世記820節で、ノアの家族が無事箱舟から出た時に献げられました。その時の焼肉の香りを、主が嗅がれる宥めの香り、と献げ物について説明されています。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われた神と、こうして生き残った私たちとの関係は、その根底部分はどうなっているのだろうか。今、神はどう思われているのだろうか。「神さま、これから再出発する人間を、これからも憐れ顧みたまえ」との祈りが込められた、焼き肉の美味しい匂いを、天に届かせる行為でした。主は宥めの香りをかいで、み心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい・・・」。
 ★5節「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」8節「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。このアブラハムの言葉を繰り返し読むとき、彼が一つのことだけに注目しているのに気付かされます。「神は真実な方です。」という一点です。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。コリントの信徒への手紙一、1013節」という神に集中しています。私達も試練を受けます。そのとき色々と心騒ぐと思います。しかし問題は何か。全ては神の真実に懸かっているということです。
キリストが捕らえられ弟子たちが逃げる、これは予想外の事でした。しかし、最後の夕食の中でキリストは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。神を信じるとは、神が真実なお方である、最後まで、あなた方をしっかり支えてくださるお方である、と信じることですね。
★当然アブラハムは息子イサクに神の命令が何であったのかを伝えられませんでした。しかし、イサクはなんか変だなと気付いていました。だから7節で献げ物の小羊について質問しました。そして、9節、縛られて祭壇のたきぎの上に載せられた時、彼は絶対に変だと思ったでしょう。しかし、イサクの抵抗について何も書かれていません。「これは絶対におかしい、しかし、お父さんは真実である。そしてお父さんの神様も真実なお方である。」このイサクの姿は、神の前のアブラハムの姿を鏡のように映しています。子の親に対する信頼関係がなかったら、子も親が信じる神は真実なお方であると、思わなかったでしょう。信仰の継承は、信頼関係を抜きにしては考えられない事ですね。
10節、アブラハムは刃物を執ってイサクを殺そうとします。神はなぜアブラハムにここまでさせたのでしょうか。12節、「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」と主は言われました。「神を恐れる」とは自分の今持っているものを支えとしないで、全く神の真実にまかせることです。旧約聖書の箴言357節を思い出します。「心を尽くして主に信頼せよ、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」。クリスチャン自身の信仰は弱く、小さい。しかし、確かな一点、「神は真実である」に私たちは支えられます。神はかつて神の民が試練の連続だった荒れ野の旅を終える時に、「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを(申命記79)」と、信仰の要を告げられました。
★最後に、愛する独り子、焼き尽くす献げ物の小羊とキリストが重なります。神は刃物を握ったアブラハムの手を止められたが、キリストの十字架は止められませんでした。「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでキリストは息を引き取り墓に葬られ陰府に下られました。神に敵対する罪は勝利宣言をしました。それを神はお許しになられました。なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。罪に支配され、人の最悪の状態にあるキリストを神は、死人の中から復活させ、『私たちの人生に何が起こっても、神は真実なお方となってくださる。信頼すべきお方である』と、私たちと神との関係が根底において確かなものとされている、という福音を示すためであった。皆さん、あなたと神の関係は、イエス・キリストによって確かなものとされています。だから、これからも神に信頼をおいて、与えられた人生を最後まで生抜かせていただきましょう。お祈りの時といたしましょう。

4月

★2022年4月27日(祈り会)
 創世記21章22~34節「神が試される」

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 ★221節「これらのことの後で、神はアブラハムを試された」。22章で神がアブラハムに「イサクをささげよ」と試されたのは、21章でアブラハムが三つの幸せを与えられた後のことでした。
 ★第一はイサクの誕生です。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開きました。そして、アブラハムを非常に苦しめた家庭の不和も、神がイシュマエルをも顧みて下さったので無くなり、家庭円満となりました。
 ★第二はアビメレク王から一目を置かれる身分を与えられたことです。22節アビメレク王と軍隊の長ピコルが「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」と、ただの寄留者であったアブラハムを賞賛し、23節「どうか今ここで、わたしとわたしの子、わたしの孫を欺かないと、神にかけて誓ってください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください」。と懇願しました。アビメレクの支配地ゲラルに入った時アブラハムは不安のあまり、サラを妹と偽っていました。しかし、今は全く状況が好転しました。
 ★第三は自分の井戸を獲得したことです。生きて行くためには水の確保が必須でした。寄留者は地元の人から水の利用権をもらって生活するか、自分で井戸を掘らなければなりませんでした。しかし、25節から井戸の権利争いが絶えず起こり、弱い者は泣き寝入りするしかないと言う状況が浮かんできます。その様な中でアブラハムは井戸の所有権を獲得しました。
 ★33節でアブラハムは、その井戸にギョリュウの木を目印として植樹し、ベエルシェバと命名しました。その場所はイスラエルの領土の南端として、その後の聖書に幾度も出て来る有名な場所となります。ベエルシェバと聞けば、皆が「先祖アブラハムが最初に所有した土地」と思い出す場所となりました。
 ★また、その場所で彼は主のみ名を「永遠(とこしえ)の神」と呼びました。この神名は後に預言者イザヤが4028節で、「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主はとこしえにいます神」と伝え、詩篇902節は「山々が生まれる前から、大地が人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。」と伝えています。アブラハムがその神名を最初に読んだことになります。

 ★この様に神はアブラハムに三つの幸せを与えられました。そして、彼も神への信仰も表明しました。私たちはここに理想的な信仰者像を思います。しかし、神の思いは違っていました。神の思いとは? 特に一番の幸いを取り上げられる神の思いは、理解に苦しみますね。アブラハムの後の子孫が築いた国が、神から離れ滅ばされる事態になった時に、神はそれでも預言者イザヤを遣わして、立ち返る道を示され、ご自分の神の民に対する思いを明かされたことがありました。イザヤ5589節「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」。
 ★皆さん、神は信仰のハードルを高く上げておられるのではありません。神は私たちの想像を超えて、私たちに対して期待しておられ、私たちの将来のことを考えておられるのです。丁度、親が子どもにそうするのと似ています。アブラハムは12章で、全ての人の祝福の基となる為と共に、父が子を鍛え試練を与える、そのような関係を神と持つためにも召されました。神は後に、アブラハムを試された様に、エジプトから彼の子孫を救って神の民として、共に歩まれた時にも、彼らを試されたことを、申命記は伝えています。それは申命記82-10節です。大切な箇所なので全文紹介します。
 ★「あなたの神、主が導かれた四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあることを、すなわちご自身の戒めを守るかどうかを知ろうとされました。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、
小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。
不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。
 ★最初に、神は戒めを守るかどうかを知るために試すとありましたが、それだけではなかったことが分かりますね。人が何によって生きるのかを知らせるためでした。子を訓練するように訓練なさる神である認識を持つためでした。また、将来良い所に導くためでもありました。この様な理由によって、神は試されます。この神に信頼して進みましょう。
★新約聖書のヘブライ人への手紙も、この神の事を次のように伝えています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。お祈りとしましょう。

2022年4月20日(祈り会)
★創世記21章1~21節「約束通りに」
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①神は約束通りに実現なさるお方です。
 ★創世記13節で、神は、昼も夜も、大空も大地も、まだ出来ていない時に、まず「光あれ」と言われました。この「光あれ」は何のことなのでしょうか。そんな疑問を抱きつつ、ここまで私たちは創世記を読んで来ました。21章までを要約すると、人間は暗闇の中にいる、希望が見えない中にいる、ということではありませんでしょうか。『わたしは、その暗闇に光をもたらす、希望をもたらす神である!』。この神の叫びが「光あれ」だったのではありませんか。そんなことを感じます。「神は言われた『光あれ』。こうして光があった」。皆さん、この「光あれ」は、暗闇の中にいる者に対して、この様に必ず光があるようになる、希望を与えられるようになる、だから、あなたは与えられた人生を希望を持って生き抜きなさい、という神の約束の言葉ですね。皆さん、聖書って読み進む中で、このように「あそこで言われていたことは、こういうことだったのか」と、後から気づかされることが多々あります。

 ★21章のイサクの誕生物語は、100歳と90歳の老夫婦が子を産んだという神の奇跡を伝えているのではなくて、この神の約束が実現したことを伝えています。それで物語の冒頭に、211節「約束された通りサラを顧み」、2節「それは神が約束されていた時期であった」と、あります。新約聖書もこのイサク誕生物語を思い起こす時に、神の約束のことを取り上げています。いくつか紹介しましょう。

 ★ローマ421節では、アブラハムは「神は約束されたことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」と、あります。ヘブライ1111節、サラは約束なさった方が真実な方であると、信じていたからです」と、あります。ヨハネによる福音書15節は、キリストにおいて光は暗闇の中で輝いていると伝えます。ルカ福音書は不妊の女エリサベツの出産物語を付け加え、その中で、天使のお告げを信じない夫ザカリアに対して、天使は「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」と言っています。

 ★その後、ガブリエルは処女マリアにもお告げを伝え、マリアが「お言葉通り、この身になりますように」と、答えたのは皆さんもよくご存じの話ですね。マリアは急いでエリサベツを訪問しました。その時にエリサベツが聖霊に満たされて声高らかに言いました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる方は、なんと幸いでしょう」。この様に、新約聖書でも創世記21章が伝える、神の約束の実現と、それを信じる信仰を伝えています。

②神は我々に回復を生じさせるお方です。
★さて、イサク誕生の約束が実現して、アブラハムたちはどうなったのでしょうか。6節でサラが言いました。「神は、わたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」。一年前、神からイサク誕生の約束を頂いた時に、サラは神を嘲ける笑いをしました。神はその嘲笑いという人間の暗闇の部分に、喜びの笑いという希望を回復して下さいました。6節以下は回復を受けたサラの神を讃える賛歌です。ここで私たちはキリストのことも思い出します。十字架のキリストは嘲笑を浴びましたが、復活のキリストは弟子達から喜びの笑いを受けられました。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」1コリント29節。

③神は約束以上のことをなさるお方です。
★さて、9節から具体的に二人の兄弟の問題が取り上げられます。それはカインとアベルから始まって、イシュマエルとイサク、エソウとヤコブと続きます。兄が弟をからかうのは子どもの日常茶飯事のことなのに、サラは自分の気持ちを抑えることが出来ませんでした。自分が産んだ子に対する母親の思いが爆発しました。母親は、そういう我が子に対する強い思いが無いと、子育てできませんね。その強い思いを持つようにしたのは神です。父親には分からない思いですね。しかし、父親にとっては二人とも我が子です。こういうすれ違いが人間関係にはありますね。それがアブラハムを非常に苦しめました。しかし、サラさん、ハガルにアブラハムの子を産ませることは、最初あなたが提案したのではありませんか。人って非常に身勝手なのですが、神はそれを受け止めて下さり、サラの言うとおりにせよと、アブラハムに命じました。12節「あの子供と、あの女のことで苦しまなくてよい」。わたしに任せなさい、ということでした。結果、ハガルとイシュマエルはアブラハムの家から追い出されます。

14節でアブラハムが旅の準備をし、その荷物をハガルの背に負わせ、荒れ野の中へ消えて行く姿を、「ハガル、イシュマエル、すまんな」。「主よ、彼らを約束通り(12節)守り導いて下さい」と、彼は見送ったでしょうね。彼にはどうすることも出来ませんでした。だから非常に苦しみました。荒れ野に追い出されるということは、いずれパンも水も尽きてハガルとイシュマエルは死を待つしかありません。神の約束に委ねるしかありません。

 ★お母さんハガルが声をあげて泣きます。大泣きするママを見て、子も泣きます。こんな光景がこの星で何回起こるのでしょうか。数えきれない程でしょうね。特に戦争はこのことが起こります。私たちの知らないところで、泣き声が起こっています。しかし、神はその子どもの声を聞かれます。神はアブラハムに約束された通りに、この家族の命を救い彼らから一つの国民を生み出されます。それだけではなくて、20節「神がその子と共におられた」とあります。創世記で神が共におられると記されているのは、2815節のヤコブと392節のヨセフとこのイシュマエルの三人だけです。神はここで約束以上のことをなさって下さいました。神は選ばれたアブラハムの子孫だけではなくて、このイシュマエルとも共におられたのです。ハガルママ、良かったね!

④神は先行して、私たちと共におられるお方です。
 ★キリストが生まれる前に、天使が夢でヨセフに、その誕生は以前預言者を通して神が約束されていた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」がキリスト誕生によって実現することを告げています。そして、この名は「神は我々と共におられる」と言う意味である、とマタイ福音書は解説を加えています。イシュマエルと共におられた神は、将来イエス・キリストを通して、全ての人と共におられる神になられました。しかし、それは強制ではありません。この恵みを受け入れる人もいるし、そうでない人もいます。しかし、神は全ての人のためにキリストの命を犠牲にして、全ての人と共におれるように、この恵みを先行されました。このように神は人をとことん愛する神さまです。ここでハガルとイシュマエルは、聖書から姿を消します。ハガルママと幼児イシュマエルの事を忘れないで下さい。では、お祈りの時といたしましょう。

★2022年4月13日(祈り会)
 創世記20章「ゲラルの王アビメレクとの出会い」
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 ★アブラハムは、メソポタミアのハランで神に声を掛けられ、旅立ちました。カナンとネゲブ地方、飢饉のため一時エジプトに避難、ロトと別れてカナンに戻り、ヘブロンにあるマムレの樫の木の傍で長らく定住、ソドムの滅亡後、今回、ネゲブに戻って来ました。そして22章でアブラハムの神に対する信頼が非常に深くなったことが告げられます。私たちも神に声を掛けられ、クリスチャンとして信仰の旅に出ました。その旅で神は私たちの神に対する信頼をも、深めて下さいます。

 ★旅人アブラハムが恐れたのは、今日読んだ2011節、神を畏れることが全くない土地に入ることでした。飢饉のためにエジプトに避難する時も、1212節、エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない、と言っていました。自分は神を畏れるが彼らはそうではない。信仰生活の中で、私たちもこのように区別することがあります。

 ★12章で、エジプトの王ファラオは言いました、「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『私の妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしは妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」どうやらファラオも神のお告げを受けたようでした。アビメレクの場合は夢で神とやり取りをした後、「あなたは我々に何ということをしたのですか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に、大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。どういうつもりで、こんなことをしたのか。」と、神を畏れる者のごとく、姦淫してはならないことと、その切っ掛けを造ったアブラハムに対する非難を、告げています。しかし、アブラハムは王を恐れて嘘をついて、結果、王たちに罪を犯させる機会を与え、非難を受けています。ここに立場の逆転が起こっています。

 ★私事ですが、大学二年で洗礼を受け、礼拝を守るために、日曜が休日という条件で不動産会社の建築部に就職しました。その時にこんな経験をしました。半年後に営業部応援のため、休日が水曜に代わりました。それで私は『日曜夜の伝道会に出席すれば良いだろう』と考えていました。ところが、朝礼を終え、住宅分譲現場販売センターに向かう途中で、先輩が「末吉君は、教会の礼拝に出なあかんやろが」と言って、教会前で「昼飯食べてからでええから、現場事務所に来いや」と言って降ろしてくれました。その時、自分の礼拝に対するいい加減さを恥ずかしく感じました。感激の涙を拭いて教会に入った思い出があります。

 ★神を畏れぬ者だ、とアブラハムが見ていたエジプトのファラオと、ゲラルの王アビメレクから、「あなたは私に何ということをしたのか」と非難された時、彼も自分を恥じたのではないでしょうか。そして、「この土地には、神を畏れることが全くない」と言っていた自分の信仰が問われました。皆さん、神に声を掛けられ、信仰の旅を続ける者も、その旅中で色々な事件に出会います。神はその事件を通して信仰者を鍛錬されます。

 ★この件で、アビメレクと、その妻と、侍女たちに神が病を与えられた事を聞いてアブラハムは驚いたでしょうね。17節アブラハムは神に何と祈ったのでしょうか。彼らの癒しを執成す前に、自らの信仰の高慢さ、神に対する不信頼を悔い改める祈りを捧げたのではないでしょうか。

 ★新約聖書ヘブライ人への手紙12章は神が信仰の旅を通して鍛錬されることを伝えています。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる」126節。18章でアブラハムはイサク誕生の予告を受け、21章でイサクが誕生します。その間に19章のソドムの滅亡、20章のアビメレクとの出会い、という経験をしてアブラハムの信仰は試され鍛えられます。それは21章で一番大きな試練に遭う時のための備えの時でもありました。神は私たちを鍛えられます。その真の目的をヘブライ1210節が伝えているので見ておきましょう。霊の父は、ご自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられます。昔、シナイの麓で、神の民に「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい」と繰り返し言われました。神と人がひとつになることを、神は願っておられます。

 ★皆さん、イエス・キリストによって神と和解し、神と共にこの世を旅する信仰者として、歩みましょう。この旅は一人旅ではありません。一人の羊飼いイエス・キリストに導かれる羊の群れのように進む、神の民です。飯塚教会の群れに入って下さい。今キリストは天におられ、聖霊が導かれます。目には見えませんが、その導きによって綴られた聖書が与えられています。その言葉は私たちの足元を照らし、進むべき道を照らす灯です。祈りの時といたしましょう。

★2022年4月7日(アパルーム)
 創世記19章30~38節「命を未来につなぐ」

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 ★ここでアブラハムの群れとは別の群れであるロトの物語は終わります。神はアブラハムの群れとロトの群れを区別されます。たとえば、時を経て、彼らの何代も後の子孫の時代に、アブラハムの子孫が荒れ野の旅を終える時に、神は再び彼らと契約を結ばれます。そして、契約前に掟も今一度、モーセを通して伝えられました。その中で、ロトの子孫を神の民の会衆に一切加えてはならない掟が含まれています。その理由として、神の民が荒れ野放浪中、ロトの子孫の土地を通過する時に、彼らが占い師バラムによって、呪いを掛けようとした、民数記22章の事件を取り上げています。(申命記234節)
 ★しかし、その掟を告げる前に、モーセは荒れ野の旅を振り返る話で、エソウやロトの子孫に神が目を止められたことも告げています。申命記29節で、ロトの子孫モアブの領地を通る時に、彼らに対して戦いを挑んではならない。15節で、ロトの子孫アンモン領地に対しても、同じように命じています。

 ★ですから、神はアブラハムによって、世界のすべての国民が祝福に入ることを繰り返し約束されます(123節、1818節、2218)。ですから、神に選ばれた、という事で選民の優位性だけを言うのは間違っています。選ばれたのは他の民のために選ばれました。ですから1929節で、神はロトを救われたのであるが、神に選ばれたアブラハムをみ心に留め、ロトを救ったと告げ、神が選ばれた人を通して救いの業を行われた、と聖書は綴るのです。

 ★皆さん、イエス・キリストによって、新しく神の民にされた私たちも、神によって同じように用いられるために、選ばれました。塩も光も、自分のためではなくて、他のものに影響を与える存在ですね。だから、私たちは、地の塩、世の光だと主から言われています。この神の救いの御計画が、今日の第一ポイントです。

 ★ロトの娘たちの行為は理解に苦しみます。現代の道徳と倫理の面から見るとこの近親相姦は受け入れられませんね。旧約聖書の他の所でもそう言う所が多々あります。聖書を人間の道徳と倫理の価値観と言う眼鏡をかけて読む時、理解出来ない事に直面します。その眼鏡を外して、聖書と生身で向かい合ってみましょう。それを、キリストがおっしゃる、幼子のようにとは、そういう自分の既成概念を横に置いて、聖書と向き合う事なのではないでしょうか。
 ★前回19章は69章の洪水物語と関係あると聞きました。新約聖書ルカ福音書17272829節もそう見ています。洪水物語とソドムとゴモラの滅亡を、世の終わりに、最後の審判者として、キリストが再び来られる日の前例として、取り上げられています。ソドムの全員が滅ぼされ、そこから救われたのは二人の娘とロトの3人だけでした。まるでノア一家8人のようです。箱舟の動物が大地に去って行った後、アララテ山にノアの家族8人だけが生き残りました。ロトたちも、誰もいない山中に3人生き残りました。このように、聖書は天地が創造されたが、終わりの時に向かっていることを初めから伝えています。
 ★31節、姉は妹に言った。「父は年おいてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、私たちの所に来てくれる男の人はいません」。32節「さあ、父にブドウ酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう」。洪水物語では、神がはじめから洪水後の事を考慮して、動物はつがい、人間は4カップルとして救われました。ところがソドムの滅亡の場合は、生き残ったのは娘二人と父一人です。「産めよ、増えよ」と神が彼らを祝福された9章と、正反対の状況に彼らは置かれました。ノア一家もロト一家もこの世の終わりを体験したわけですが、生き残って置かれた状況が違っていました。洪水物語では語らなかったことを今回聖書は語ろうとしています。それは何でしょうか。それは、世の終わりを体験した二人の娘が、現実をどう生きたかです。
 ★新約聖書のルカ福音書16章で、キリストが話された「金持ちとラザロ」のたとえは、この二人が死んで、人生の終わりを体験し、金持ちに変化が起こります。もはや彼は生き直すことはできませんから、生き残っている兄弟たちの悔い改めを望んだのでした。ロトの二人の娘も、ソドムの滅亡で、終わりを経験しました。しかし、彼女たちには生きる場が与えられていました。終わりを体験したものがどう生きるのか、それに注目せよと、今日の聖書は伝えています。
 ★彼女達は未来の為にこの決断をしました。神のみ心は、アブラハムによってロトの子孫も滅びから救い、祝福する事でした。生き残った彼女たちは「産めよ、増えよ」という神の祝福を受け取りませんでしたが、神の備えられる未来を信じて、この決断を下し、未来に向かったのでした。

 ★未来に生きる事に関して社会や政治の問題、環境問題の山積する現代に、私たちは生きています。ロトの娘たちの行為から、神が救い祝福しようとされる人の命を、私たちも未来につなぐ使命が与えられています。命のために彼女たちのとった行動に、たくましさを感じます。私たちも命を未来につなぐために、たくましくありたいですね。祈りの時としましょう。

3月

★2022年3月31日(アパルーム)
 創世記19章1~29節「破滅の中から救われたロト」

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 ★1822節から1929節までに、「滅びる」という言葉が14回も使われています。61節から917節の、洪水物語では5回使われています。そこでは他に、地からぬぐい去る、全ての肉なるものを終わらせる、大地を呪う、等の言葉もあり、それを含めると同じぐらいの回数になります。
 ★神は天と地を創造されました。それは極めて良かった、という評価で創造を終えられました。しかし、人が神から離れて行ったので、全てが狂ってしまいました。それ程に神にとって人の存在は重要だった、と言えましょう。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する(67節)」と、神が言われた後に、ノアが登場し、洪水が始まりました。およそ天の下にある高い山は全て水で覆われ、なお水面は更に7メートル増え、水は約100日間減りませんでした。これで終わり、と言う時に、神に変化が起きました。「神は、ノアと彼と共に箱舟にいた、すべての獣とすべての家畜を、み心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた(81節)」。これによって、この世界をスタートさせ、また終わらせる神は、私たちをみ心に留めてくださるお方でもあることが、示されました。
 ★今日の聖書もその事を示しています。この世界をスタートさせた神は、アブラハムを選んで、彼を通して全ての人を祝福する計画を立てられましたが、ソドムとゴモラの町と低地一帯を、非常に重い罪のゆえに、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼす、すなわち終わりにする事とされました。しかし神に変化が起きました。「正しい人を悪い人と一緒に滅ぼされるのですか」と、何とかその滅びを留まってくださるように頼むアブラハムをみ心に留め、神はロトを破滅の只中から救い出されました。神は祝福する神であるが、罪を犯す者に対しては厳しく裁かれるお方である。しかし、み心に留められるお方でもあります。
 ★このように聖書の第一巻目の創世記は、スタートの書ですが、既にゴールを見据えた内容になっています。新約聖書の最後の書、黙示録2213節「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者。初めであり、終わりである」、を見据えた内容になっています。それによって、神を信じる者も、このゴール、すなわち終末を見据えて歩む事を勧めています。
 ★皆さん、ロトが9節で町の男から「よそ者」と言われていますね。ここを読んで思い出すのが、新約聖書のヘブライ1113節にある信仰者の姿です。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であること公に言い表したのです」。ロトはその様な信仰者として描かれています。2ペトロ26-8節も参照。ロトに注目しましょう。
★ノアは箱舟建造を命じられ、それに従いましたが、ロトたちは町から山へ逃げなさいと命じられましたが、ためらいました。婿たちが冗談だと言って、救いの招きを退けたからでした。せきたてるみ使いにロトたちは悩みました。『家族を置いて自分たちだけ逃げるわけにはいかない』。娘夫婦と、もしかしたら孫もいたかもしれませんね。ヒューマニズムとの葛藤です。新約聖書の十人の乙女というキリストの譬えでも、灯用の油を愚かな乙女に、少しでも分けてやらなかった賢い乙女に対して、ヒューマニズムは疑問を抱かせます。
★人は自分の救いすら自分で解決できないのに、他人の救いをとやかく言えない存在であることを忘れて、ヒューマニズムに心が惹かれます。人にはそういう盲目さがあります。16節に「主は憐れんで」という言葉が挟まれているのは、神が人のこの盲目さを憐れまれたことを言っています。15節で夜が明ける頃とあります。23節、太陽が地上に昇った時にソドムは滅ぼされます。私なら「何を言っているんだ」と言って強制的に脱出させるでしょう。こんな時に主は憐れんで、二人の客に彼らの手を取らせて町の外へ避難するようにされました。手を引っ張って無理やりと言う感じではありませんね。実は原文はロトの手と、妻の手と、二人に娘の手を取った、と丁寧に書かれています。一人ひとりの手を取って、神への信頼を促しておられるような感じがします。礼拝で歌う聖歌474番「主がわたしの手を取って下さいます」を思い出すシーンです。
17節、町外れに連れ出して、最後は主が彼らに指示を与えるために登場されます。気がかりだったんでしょうか、ロトたちにくぎを刺すように言われました。「命がけで逃れよ。後ろを振り向いてはいけない。・・・とどまるな。・・・逃げなさい。さもないと、滅びることになる」。ところがロトがこの場に及んで「主よ、できません」と言いました。映画でしたら、ここは時限爆弾の時計の音がカチカチと流れる、そんな切羽詰まったシーンでしょう。ロトは高齢のため、山登りは無理と判断したのでしょう。21節、ここも「主は憐れんで」が入ると思いませんか。
★天で硫黄の火を降らせるのを待っておられた主なる神でありましたが、グズグズしているロトたちを、天で見ていられなかったのでしょうか。この時に神に変化が起こったのだと思います。わざわざ降りて来て、17-21節でロト救出の最後を見届けられました。皆さん、私たちの神は、ソドムとゴモラの町を滅された以上に、ロトたちを最後まで憐れまれた、救いの神です。祈りの時としましょう。

★2022年3月23日(祈り会)
 創世記18章16~33節「罪人を救う神」

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 飯塚は山に囲まれていますが、こちらに来て、私たちはまだ山には登っていません。気候の良い時に、手頃なハイキングコースを歩いてみたいです。整備されたハイキングコースには、眺めの良い所に、休憩用のベンチなどが設置されています。私たちもちょっとここらで眺めてみましょう。振り返ると、18章のはじめ、マムレの樫の木の所は、男子イサクが誕生するという、夢のようなニュースを正式に告知された所でした。先を眺めると、19章はソドムとゴモラの滅亡という暗闇の様な所です。その暗闇を見届けたアブラハムは20章でゲラルに滞在することになりました。そこは、女性を見つけたら召し抱える、神を畏れない王アビメレクが支配する危険な所です。

 19章も20章も早く通り過ぎたい所ですね。そして、21章で告知されたイサクが誕生します。暗闇から、パッと明るい所に出る、という感じですね。このように創世記は、イサク誕生という明るいニュースを、暗闇の中に輝く光として描いています。新約聖書の福音書が、イエスという男子の誕生を、同じ様に描いているのと重なる所がありますね。

 この創世記を綴り終えたのは、キリストが生まれる約五百数十年前に、アブラハムの子孫である神の民が築いた国の首都、エルサレムが陥落し、外国での捕虜生活を強いられ、信仰生活の拠り所であった、礼拝をささげる神殿が破壊される、と言う暗闇の中を歩んでいた時であった、と言われています。祭司たちが中心になって、そのような暗闇の中で、神に導かれて今まで綴られてきた創世記を、ひとまとまりの書として綴ったと、言われています。神の救いは暗闇の中に輝く光以外の、何ものでもないことを、彼らはこの時に気付かされました。それで18章と21章の男子誕生という光の間に、神に裁かれても仕方のない人間の物語、19章と20章が挿入されたのでしょう。神はお一人で、聖なる筆によって、聖書を書かれたのではありません。それを罪ある、不完全な、破れをまとう、人間と共に綴られました。神はそのようなお方なのです。

さて、注目すべき所は二つです。①17-19節の神の独り言、②2333節で行われるアブラハムと神の問答。
以前にも神が独り言を言われた時がありました。それは洪水物語の直前でした。主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」(65-7節)。神の独り言と言うより、神がご自分の心内を、打ち明けられるところ、と言い換えた方が良いですね。今まではそれを打ち明ける相手がいませんでした。ところが17節「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」と、アブラハムこそ、その打ち明ける相手だと、ここでおっしゃいました。そして1819節で詳しくその理由も語られます。そして、アブラハムに対して、神の期待が非常に大きいことも、この言葉から分かりますね。

この言葉を一緒にいたアブラハムは聞いて、もちろん光栄に思ったでしょうが、期待の大きさにプレッシャーを感じたでしょうね。その期待に沿えなかった子孫が、ここを綴る時、どんな思いで綴ったでしょうか。期待できない者にも期待し続ける神の愛をひしひしと感じたでしょうね。また神はその愛を、神の民が神からどんどん離れて行くのに対して、後に「お前を見捨てることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と、預言者ホセアに伝えています。

 さて次に第二の注目点、23節以下のアブラハムと神の問答のお話しをしましょう。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」この問いから始まり、正しい者の人数が取り上げられ、問いの核心へと迫って行きます。最後は十人で終わっています。「滅ぼすまい。その十人のために。」と言い残して主は去って行かれました。「ではそこに五人いたら?」そして、最後に「一人いたら?」と続くはずの問いは、後の聖書が引き継ぎます。

 例えば詩編142-3節「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに汚れている。善を行うものはいない、ひとりもいない」。神が人に近づけば近づく程、この事がはっきりして来る、これが私たちの現実です。聖書はそれを隠さず伝えます。

 預言者イザヤは53章で、神が「見よ、わたしのしもべ」と呼ぶ、ひとりの人のことを伝えました。このひとりの人こそ、イエス・キリストです。キリストは天から「あなたはわたしの心にかなう者である」と声を受けた唯一正しい人です。神の御計画は、このひとりの正しい者を立てて、その者にだけ神の怒りを受けさせ、反対に私たちに対しては、信じて神に大胆に近づく事を求められました。これが神の計画です。エペソ39節はそれを「すべてのものをお造りになった神の内に、世の初めから隠されていた、秘められた計画」と伝えています。

 神よ、正しい者と悪い者とを一緒に滅ぼして良いのですか?この神に対する高慢な問いをするアブラハムに対して、神は何と忍耐を持って対応されたことでしょうか。正しい者は一人もいないという現実を、神は知り、その人間の救いを考えておられたのです。十字架に磔にされるためにエルサレムへ登ろうとした時に「主よ、わたしを憐れんでください」と、大声で叫び続けた目の見えない人がいました。私たちが救われたのは、自分の正しさでは決してありません。私たちもこの目の見えない人の叫びを忘れてはならない。ミサ曲の最初はキリエ・エレイソン「主よ、憐れみたまえ」で始まります。神の憐れみに寄らなければ礼拝できません。教会はこの叫びが響くところです。お祈りの時といたしましょう。

★2022年3月16日(祈り会)
 創世記8章9~15節「イサク」

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 今日は、アブラハムの妻サラが男子誕生のお告げを受ける物語です。毎年、教会ではクリスマス(降臨祭)の前に四週間のアドベント(待降節)の期間を定め、キリスト誕生までにあった出来事を振り返ります。その中にも老人ザカリアと、処女マリアが、天使から男子誕生のお告げを受けています。この三人を比較することによって、今日の聖書のポイントが、よりはっきりしてくるでしょう。特に二つの言葉に注目してください。一つは14節の「主に不可能なことがあろうか」です。もう一つは15節の「いや、あなたは確かに笑った」です。

 天使からお告を受けた後、ザカリアは言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。マリアは言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。そして、天使はそれぞれに重要な言葉を告げました。ザカリヤには「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。マリアには「神にできないことは何一つない」。

 サラの場合はどうでしょうか。彼女はお告げを聞いて、ひそかに笑い、自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思いました。そして主は「主に不可能なことがあろうか」と彼女に問われました。

 それぞれの結果はどうでしょうか。信じなかったザカリアは、ことが実現するまで口が利けなくなりました。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」、と言って自分の全ての主導権を主に開け渡して、お任せしました。そして、天使は去っていきました。

 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした」。ここを読んで、捕らえられたキリストの後を、隠れながら追いかけたペトロのことを思い出します。「確かにこの人も一緒だった」と周りにいる人から言われた時に、彼も「わたしは知らない」と、三回打ち消しました。そして、彼はそこから出て行って、激しく泣きました。ここに人間の現実の姿が表れていますね。その時にキリストが振り向いてペトロを見つめられました(ルカ福音書2261節)。
 
皆さん、サラが言った「わたしが笑いませんでした」という言葉にも、人間の現実が表れていますね。それに対して主なる神が「いや、あなたは確かに笑った」と返されました。これは、サラの嘘を問い詰めるために、言われたのではありません。キリストが振り向いて、ペトロを見つめられた時と同じ思いで、主なる神はこの言葉を返されました。「サラ、嘘をつかなくていいのだよ。自分を隠したり、否定しなくていいんだよ。私の前では、あなたは、そのあなたのままでいいんだよ」。神を信じるとは、神の存在を信じる事ではありません。神に自分の全て明け渡す、お任せすることです。17章で、主なる神が二人の名前を改名されたのは、彼らにこの信仰を与え、彼らの未来に対する絶望を、希望に変え、彼らの人生を新たにするためでした。

 私の想像ですが、アブラハムはサラに言いました。「サラ、実は私もお告げを聞いて笑ったんだよ、そして、その時に生まれて来る子の名も告げられたんだ。その名はイサク(彼は笑う)だよ」。「えっ、イサク(笑う)!」。二人は顔を見合したのではないでしょうか。私はここを読んで、神のこんな声が聞こえて来るように感じます。『案ずるな。わたしの言うことを、笑ったアブラハムとサラよ。今はそれでいいのだ。そんなあなたがたの信仰を、わたしが導くのだからから。』

さて14節の「主に不可能なことがあろうか」も私たちの心に響きますね。実にこれは聖書全体に響いている言葉です。遥かな将来、その答えが明らかにされます。十字架に処せられる直前、キリストはゲッセマネで祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。しかし、神はキリストから十字架という杯を取りのけられませんでした。それができなかったのではありません。あえて不可能となさいました。神の御心が、キリストを十字架の苦しみと死という、絶望の頂点に立たせることだったからです。

最後にキリストは「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫ばれました。人が立つ絶望の頂点にあなたからの希望を期待します!と、私たちに代わって叫んでくださいました。神はその叫びにこたえ、キリスト死者の中から甦らされたのです。「人間には希望がある。どんなに深い絶望にも、わたしが希望を与える。主に不可能なことはないのである」。最後に聖歌を紹介します。「主に任せよ 汝が身を 主は喜び 助けまさん 忍びて 春を待て 雪は解けて 花は咲かん 嵐にも 闇にも ただ任せよ 汝が見を」。祈りの時といたしましょう。

★2022年3月9日(祈り会)
 創世記8章1~8節「旅人をもてなす」
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 ★アブラハムが、三人の見知らぬ旅人をもてなし、会話を交わすのですが、その三人の内、二人がみ使いで、一人は主なる神ご自身だった、と言う物語が、この18章です。『アニメ日本の昔話』でしたら、「旅人には親切にしなさい」という善行の教えとなるでしょう。しかし、聖書が伝える旅人には、深い深い意味が込められています。その一端を、今日は皆さんに、お伝えできれば、と思っています。私がそこに居合わせたら、「アブラハムさん、暑い真昼ですから、熱中症にならないよう、天幕の入り口ではなくて、中の涼しい所でお休みください」と言うでしょう。なにせ九十九歳なんですから。

 しかし、アブラハムのような、旅人として放浪する、遊牧民や半定住民にとって、この行為は重要なのです。1127節から彼の家族のことが紹介されました。父テラは、故郷のカルデアのウル(現代のイラクのバグダット南東約300キロ付近、今は遺跡となっている)から旅立ちました。故郷を離れるという背景には、生きる悩み、厳しい生活事情が伺われますね。アブラハムの家族だけではなくて、当時はどこへ行っても、そのような立場の旅人がいたようです。今ウクラエルの人が戦争から避難して難民となっていますが、複雑なわけがあって難民となっている人々が現代沢山います。アブラハムの物語はその人たちのことを思い出す物語でもありますね。

 この旅人をもてなす行為は、そういう環境で育った人々から生まれました。普通は涼しい時間に旅をします。しかし、暑い真昼に旅をする、と言うのは、わけのある人のすることです。ですから、一家の主人であるアブラハムは、暑い真昼でありましたが、テントの入り口に座って、そういう人をもてなそうとしたのでしょう。

 テラの子アブラハムは父亡き後、こう思ったかも知れませんね。「私は父のような旅人ではない、定住した落ち着いた生活をしたい」。ちょうどその時、天地創造以来、人とこの世界に住む、生きとし生けるものの救いの為に、共に歩んで来られた主なる神が、新たな計画を始めるために、人を探しておられました。アブラハムを見つけ『旅人のアブラム、父を亡くし、死んだ弟の子を引き取り、妻には子宝が授からない、悲しみ、苦悩、辛さ、矛盾、絶望、を背負った、この人こそ、それに相応しい』と思われ、声を掛けられた、のが12章でしょう。神は救いの計画を表すのに、相応しいスタイルを発見しました。それが旅人でした。

★さて、新約聖書では、神に従う者の姿として、このスタイルを受け継いでいます。幾つかの聖句を紹介しましょう。「わたしたちの本国は、天にあります」ピリピ320節。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを、手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て、喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり(口語訳や新改訳は旅人であり)、仮住まいの者である(口語訳や新改訳では寄留者である)ことを公に言い表したのです」へブライ1113節。また、ヘブライ132節では、キリスト者に相応しい生活のすすめの中で、愛し合うことと、旅人をもてなすことを並べています。そして、旅人のスタイルをした天使を気付かずにもてなしたアブラハムのことを思い起こしています。

 ローマ1213節は旅人をもてなすことが、聖なる者の貧しさを自分のものとして助けるとと並べて書いています。ベツレヘムの客間には、ヨセフとマリアと体内のキリストのいる余地がありませんでした。旅人を拒絶した事がキリストを拒絶したことになりました。マタイ2535節では、終末にキリストが再臨される事を念頭に置いて、旅人をもてなすのではなくて、より以上に宿を貸すことに変えています。ここではもはや旅人ではなくて、その日のねぐらがない、最も小さな者と言い変えています。救いが完成する終わりの日、最も小さいものがキリストであったことが明かされ、今をどう生きるかという倫理が問われます。このように、神は、その救いの計画を表すのに『旅人』というスタイルを選ばれました。皆さんは、天を目指す旅人ですね。

★さて、現代の事情は違っています。自分の玄関に見知らぬ人が立っていたら、アブラハムとは正反対の事をするでしょう。ホームレスが訪れた時、わたしたちはどうするでしょうか。天の使いはもう今はいないのでしょうか。極端に、自分の家がホームレスの溜まり場にしなければ聖書に従っていない、というのでもありません。天の使いを信じることが大切です。すなわち、人との出会いを大切にすべきです。神は今も人を遣わされる方だからです。その人自身は遣わされていることを認識していないで、そういうことが起こっている、そういう中に私たちがいることを信じなさい、ということなのでしょう。私たちも天を目指す旅人なんですから。さてみ使いは何の用なのでしょうか。では、お祈りの時としましょう。

2月

★2022年2月23日(祈祷会)
 創世記17章3~27節「契約と割礼」
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 ★アニメ「千と千寿の神隠し」で、日本各地から、八百萬の神々が、日々の疲れを癒すために、湯屋に集るシーンがあります。日本人の神観をよく表しています。非常に身近な神ですから、大阪では誰かを呼ぶように、例えば石切神社の神を「石切さん」、キリスト教会の神は「キリストさん」と呼んでいます。そう言う人に「キリスト教の神は契約の神である」なんて言ったら「堅苦しそうやなあー」、と言って敬遠されるでしょう。それでも、教会は、人と契約をなさる神を伝えています。なぜでしょうか。一つ、たとえを話しましょう。トイレに手摺を付ける家が増えて来ました。いざという時、手摺に全体重が掛かりますから、それを支えるために頑丈に造られています。神は体重ではなくて、皆さんの命を支えるお方です。最後まで責任を持ち、たよれるお方です。ですから、契約を抜きには人との関係が考えられない、誠実で真実なお方なのです。
 ★また、神はロマンチストなお方です。アブラムを満天の星空のもとに連れ出されて話しをされました。神の猛烈なアタックを受け、彼は神を信じる者となりました。その後で神は初めて契約を結ばれました。聖書は、神は契約を切られた、と綴っています。それが命のかかった正式な契約だったからです。その内容は、子孫の増大と、子孫が土地を所有することでした。
 今回も神はアブラムにアタックされます。初めて彼に現れ、「わたしは全能の神である」と、力強い言葉を掛けられました。前回お話した所ですね。その時に、神は再び契約を結ばれました。内容は前回と同じ子孫の増大と、子孫の土地の所有ですが、プラスされている内容になっています。例えて言うなら、以前は裸眼で、ざっと見ていましたが、今回はメガネをつけて見えなかった所もハッキリ見えるようになった、という感じです。
 ★子孫の増大に関して、アブラムの子孫が国民となります。すなわち王がその中から出て国が興されます。アブラムとサライから生まれる子どもから、その国民が生まれる、という意味で、アブラムはその国民の父、サライは母となります。彼らがその国だけではなくて、諸国民の父母と呼ばれる程に、その国は繁栄します。神が二人に改名を命じられます。この契約を彼らの記憶に、また、その子孫の記憶に、刻み付けるためなのでしょう。というのは、この後で、神は身体への刻み付けのことも命じられるからです。そして、今回アブラムだけではなくて、神は、彼の子孫との間の永遠の契約とされます。そして、神は土地の所有も、子孫に対して永久の所有地として、与えることを約束されます。この様に、神がなさる契約のことが、今回より詳しく見えて来ました。
 ★しかし、ここで一番注目して欲しい、新たに見えている所があります。7節と8節の後半です。この契約の目的を、神御自身が明かされます。要約すると「わたしは、あなたの、神となる」です。これは非常に重要な言葉です。聖書を団子に例えると、この言葉は一つひとつの団子を刺し貫く、一本の串のようなものです。神は、時代の中を生きる、生身の編集者を用いて、沢山の文書という団子を作成させ、その団子を並べ組み合わせる、編集作業をさせ、串団子のような聖書をつくられました。
 ★創世記を読み始めた時に、想定される編集者を紹介しました。アブラムの子孫が興した国が外国に滅ぼされ、戦勝国の捕虜として、異国で生活した祭司達です。彼らは神の民と言われていましたが、今や民は離散し、国土は奪われ、神殿も破壊され、神との関わりを示すものは一切無くなり、失望の中にいました。その時に、この二回目の神とアブラムの契約を彼らが綴るよう、神は導かれ、この串になる言葉を入れました。後に「あなたはわたしの民となる」が付け加えられます。「わたしが、あなたの神となり、あなたはわたしの民となる」この言葉は、聖書が伝える神の福音の真髄です。
 ★さて、この様な流れの中で、神は「あなたも、わたしの契約を守りなさい」と言われます。一見、神と人の双務契約の、人の為すべきつとめのようですが、内容は、この神がなさる契約の永遠の確かさを、人が忘れないために、神が与えたしるしのことです。神は男子の包皮を切り取る割礼を、そのしるしとされました。家族だけではなくて、国籍に関係なく、その家にいる奴隷も含めて、一家全員の男子が行ないました。行なわない者は、契約を破ったから、民の間から絶たれる(すなわち、それは生きて行けないということ)、そういう厳しさが14節に含まれています。この背景に、先程話しました編集者の祭司が経験した、神との関わりが一切無くなってしまった現実があったから、こういう厳しい面があると思います。割礼はしるしであって、大切なのは神のなさる契約です。
 ★さて、神のイサク誕生の計画に対してアブラムが笑い、反対意見を述べたが、神は、笑ったという意味のイサクの命名と、契約の再確認と、イシュマエルへの好意と言う、ユーモアと愛溢れる対応をされました。憐み深く、恵みの富、忍耐強く、慈しみと、まことに満ちる神ですね。アブラハムはこのような神との交わりを通して、22章のイサク奉献の信仰へと、造り変えられて行きます。後に使徒パウロも、割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです、と綴ります。私たちも続けて聖書に親しみ、神との交わりを深め、造り変えられたいですね。次回をお楽しみに。それでは、祈りの時といたしましょう。

★2022年2月16日(祈祷会)
 創世記17章1~2節「神のものとされる恵」
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 皆さん、昨年4月から創世記を読んで、10か月が経過しました。神のこと、自分のこと、この世界のことに、何かピピっと、来ましたでしょか。来たという人も、まだボヤーッとした感じの人も、続けて読んで行きましょう。これは旅のようなものです。信仰の旅は、昔から羊飼いが羊を連れて、ゆっくりゆっくり進む様なもの、と言われて来ました。アブラムが神から声を掛けられて、信仰の旅に出てから、24年目の99歳になった時に、今までに無く、神のことを明確に示された経験をしました。私たちも信仰の旅を続けている中で、同じ様な経験をします。17章のアブラムの経験に注目しましょう。
★神は救いに関して全能です。1節「わたしは全能の神である」。神はどんなことでも出来る、と思うでしょうが、救いの業を行なう上で、神は全能なのです。神は、100歳のアブラムと90歳の妻サライとの間に子が生まれ、その子孫を通して、神の救いのわざを進める計画を立てられました。18章で、サライはその計画を聞いて笑いました。その時におっしゃったのです。「主に不可能なことがあろうか」。神は救いの業においてのみ、ご自分が全能である、と言われます。

 大ざっぱですが2000年後、この救いの計画が大詰めになります。おとめマリアが神の力によって、神の子キリストを産む事を、天使ガブリエルが告げますが、マリアは信じられません。それで祭司ザカリアの妻エリサベツが、高齢の中、ヨハネを既に身ごもっていることを告げて、最後に言います。「神にできないことは何一つない」。これも、救いの業に関しての神の全能のことです。

 弟子達が「この人こそ救われるべき人だ」と、思っていた金持ちの人に対して、キリストが「金持ちが救われるより、らくだが針の穴の中を通る方が易しい」とまで言われたので、「それでは、誰が救われるのだろうか」と非常に驚いた時がありました(マタイ1925-26節)。その時にキリストが言われました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と、救いに関しての神の全能を話されました。礼拝の中でする毎週告白します使徒信条に、我は全能の神を信ず、が含まれています。その時に思い出して下さい。救いに関して全能である神を我は信じる、すなわち、我は救いの神を信じる、と言う告白なんです。
★神の前を歩む者であれ
 「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」。神が自らを人間に明かすとは、神が人と関係を持つために、近付かれる時です。神が命じ、人がそれに従う、そう言う自然な関係が、ここに築かれようとしています。アブラムが最初に主なる神の言葉を聞いて、信仰の旅に出発した12章を思い返すと、あの時は行先も知らないが、神御自身がどなたなのかも知らないで、信仰の旅に出発しました。皆さんも、躊躇なさらず、キリスト教のこと、聖書のこと、詳しく分らなくても、良いのです。早く腰を上げて、まずは出発して下さい。

 さて、原文は「あなたはわたしの前を歩み」となっています。アブラムが最初に聞いた神の言葉は121節「わたしが示す地に行きなさい」でした。神が先だって「こっちだよ」と示されるので、神の後について行くことになります。以前、ノアは神と共に歩んだとありました(創世記69)。しかし、17章では神の前を歩めと言われます。これこそ、最も神への信頼を必要とする歩き方です。
★全き者であれ
 この神への信頼を持って歩む為に、「全き者となりなさい」と言う命令が加えられています。「全き」とは「完全」。完全は、人にはあり得ない事です。全面的に神に由来しなければ完全ではありません。ですから、人が完全な者になり得る可能性はただ一つです。神に属している、神のものであることです。全き者である事は、全く神に属し、神のものである、と言う所に立つことになります。

 礼拝の招きの言葉として、代表的なものに詩編100編があります。「全地よ、主に向って喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」。礼拝は神の前に出る時です。そして、その時に何をするのかを続けて歌います。第一に神を知ることです。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた」。第二はその神を礼拝する自分を知ることです。「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」。自分は主なる神に買取られ、その所有となっている。この神さまとの関係の確かさに立って、全き者でありなさい。そして、わたしの前を歩みなさい。アブラムの新たな歩みが始まりました。

 皆さんは、誰のものですか。「私は私のものだ」と思うのですが、現実は自分の思い通りなりませんね。他のものの支配下にあるからです。皆さんは誰の支配下に入りたいですか。人に命を与え、その人生と、死後のことも全て、最善に導き救う事のお出来になる、全能の神は、独り子キリストの命を捧げて、色々な支配下にある皆さんを、神のもの、神の支配の中に入れ、全き者として下さいます。さあ、私たちも旅を続けましょう。では、祈りの時を持って下さい。

★2022年2月10日(アパルーム)
 創世記16章7~16節「顧みられる神」
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★百合香牧師と結婚することを決める前に、わたしは主に祈りました。「神さま、わたしは、この人と結婚すべきでしょうか、すべきでないでしょうか?教えてください」。そしたら・・・皆さん興味津々ですね。残念ながら、何の答えもありませんでした。それは自分で決めなさい、ということだったのでしょう。
 ★数え切れない、子孫に恵まれる約束を、主から頂いたアブラムが、15章で、子どもが与えられないので、跡継ぎをダマスコのエリエゼルに決めた時も、祈ったでしょう。しかし、何の答えもなかったようです。決めた後から、主は「その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が、跡を継ぐ」と、答えられました。
 ★また16章ではサライから代理出産の提案が出されました。「サライ、この件、主に祈ってから返事をする」なんて、かっこ良く答えた、とは書いていませんが、即答したのではなくて、「主よ、このサライの提案はどうなのでしょうか?教えてください」と祈ったんじゃないでしょうか。これも答えを頂けない中、彼はサライの願いを聞き入れる決断をしました。その答えは17章で、すなわち13年後の、アブラム99歳の時に、与えられます。
 ★皆さん、祈りって、答えが返ってきた、返ってこなかった、ではなくて、神とのホットラインを持ち続ける事ではないでしょうか。アブラムが主の言葉を聞き逃さず、また素直に聞いたのは、主とのホットライン、すなわち、信頼関係を持ち続けていたからですね。主は私たちの祈りや願いを聞いておられます。しかし、答える時と方法は、主がお決めになります。新約聖書のフィリピ46節の言葉も、この信頼に立っています。
 ★さて、エジプト人である奴隷ハガルに、アブラムの子を代理に宿らせ、サライの子とする計画が、想定外のハガル逃亡のゆえに頓挫してしまった事件は、これから旧約聖書1502ページにわたって綴られる、アブラハム、イサク、ヤコブの神の救いの歴史という、メインテーマからは外れた内容です。世の王の跡継ぎ計画から外された者は、用なしと見なされます。世の法則から考えると、逃亡者ハガルには、もはや目を留める必要はありません。ところが、主なる神はハガルを、モーセ以前に、主の御使いと初めて会う人物に、そして、神を見たことを初めて告げる人物に選んで、目を留められたのです。
 ★8節「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。見知らぬ人なのに、自分の素性を言い当てたので、驚いたでしょうね。少女ハガルは正直に答えます。しかし、二番目の質問、どこへ行こうとしているのかには、答えられませんでした。逃亡奴隷であり、未婚の母であり、奴隷として売られた彼女には、エジプトの実家や親戚のような、帰る場所がありませんでした。ハガル、お前の帰る所は女主人サライの所だ。そこで従順に仕えることだ、そこしかないのだよ、と主は諭されました。
 ★さて、私たちは逃亡中の奴隷ではありませんが、この主の使いの質問に、ドキッとされる方がおられます。「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。あなたの命は、どこから来て、どこへ行くのですか、と自分の存在が問われる質問に聞こえるからです。同じ事を取り上げている新約聖書を紹介します。ローマ1136節、コリント第一86節、ヘブライ210節。
 ★9節主の使いは言った「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」。ハガルは言った「お言葉を返すようですが、その女主人が私につらく当たるので、どうしようもなく逃げて来たのです」。「主人サライは、お前に軽んじられたと、嘆いている。お前はどんな態度で主人と接したのか」。「いいえ、そんなことをした覚えがありません」。と言うようなやり取りはありません。ただハガルが女主人のもとに帰り、無事出産した結果だけを伝えています。何がハガルに、180度の変化を起こさせたのでしょうか。御使いが伝えた三つの事に注目してください。
 ★第一は、彼女の子孫を、数えられないほど多く増やす約束です。これはアブラムが頂いた約束と同じです。第二は、宿している子が男子で、神が命名されます。アブラムは息子イサクを自分で命名しています。第三はその子の将来の運命です。和を好む日本人にはこの運命は受け入れがたい内容ですが、町の人と共に生きるのではなくて、野を移動して生きる遊牧民になることだそうです。み使いが多くの事を伝えましたが、ハガルは大丈夫でしょうか。しかし、ハガルはちゃんと要点だけはしっかり受け取ったようです。未婚の母になるのですが、ちゃんと子育てして、子孫も残るが、要点は、息子の名が、主があなたの悩みを聞かれる、の意味であるイシュマエルと神が命名されたことです。ハガルが生涯、息子の名を呼ぶ毎に、主が彼女の悩みを聞かれる神である事を、思い起こすようにと、神の配慮が注がれた名でした。
 ★ハガル自身、御使いとのこの出会いを、どう受け止めたのでしょうか。13節でそれが明かされます。主の御名を呼ぶことは、426節でアダムの三男セトが最初で、次にアブラムが128節でしているのですが、どう呼んだのかは記されていませんでした。ところがハガルが「わたしを顧みられる神」と呼びました。顧みるとは、見るという語です。
今までにない特別な体験をしたのでしょう。そして、不思議な一文が加えられています。「それは、彼女が、『神がわたしを顧みられたのちもなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである。」です。旧約の原語ヘブル語の翻訳は難解で、ここもその一つです。まず神がハガルを見られました。そのあと、ハガルは神を見続けた。神の後姿を見送った。そう読める所のようです。ハガルの体験と似ている例を紹介します。
 ★神の裁きつかさとして、選ばれる士師サムソンが生まれる前に、父マノアとその妻が天に帰る御使いを見送った後、マノアが妻に「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばならない」と言いました(士師記132122節)。ハガルも神の後ろ姿を見送ったが死ななかった経験をしたのでしょう。そして、そこが記念の場所と定められました。ハガルから始まるイシュマエル族にとっては、聖なる場所でしょうね。
 ★主なる神は、アブラムの家系から外れてしまった、イシュマエル族の先祖ハガルに、耳を傾け、目を留められました。私たちの主イエス・キリストも、神から外れてしまった、神に見捨てられた、と思っている人々の所へ行って、耳を傾け、目を留め、手で触り、そうでないことを伝え、それから十字架にまで、死にて葬られ陰府にまで、完全に神に見捨てられた所まで行かれました。その時に神はキリストを復活させて、全くそうではないことを宣言されました。サライのもとに戻ったハガルのように、主に信頼して歩みましょう。

2022年1月

祈り会・アパルームより(音声メッセージ)

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★2022年1月26日(祈祷会)
 創世記15章7~21節「遥かに望む約束」
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 7節にあるように、神は御自分を紹介するのに「わたしは あなたをカルデアのウルから 導き出した主である。」と具体的に言われました。例えば十戒をお授けになる時に、神は「わたしは主、あなたの神であって、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言われました。出エジプト202節。ですから、私たちの神は非常に個人的な関係を持たれる神です。すべてのクリスチャンは、ある時ある所から神によって導かれた、と言う特別の体験を持っています。これを神の召しと言います。

 クリスチャンは神に関する生き証人です。立派なあかしよりも、確かな証言が優れています。証人は自慢しません。ヨハネ福音書1516節に「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしが、あなたがたを選んだのである。」というキリストの言葉があります。証人は、すべてが神の憐れみと恵みによっていることを、心に留めます。

 さて、神は人を召して約束を与えられます。アブラムから出た者を跡継ぎにする約束は、後に神がイサクを与え果たされました。もう一つは土地を与え、それを受け継がせる約束でした。皆さん、神の約束には、私たちが生きている間に、見ることができない部分があります。13節以下、アブラムの場合は400年以上先の子孫において約束が果たされます。聖書ではヨシュア記でアブラムの子孫たちが、どのようにして土地を得たかが記されています。

 15節、アブラムは約束の実現を見ないで安らかに永眠します。しかし決して不幸なことではありません。新約聖書のヘブライ人への手紙は1113節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを、手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て、喜びの声をあげ、・・・天の故郷を熱望していたのです」と、16節まで綴り、アブラムの事を追憶しています。
 
 さて、後に、信仰の模範とされるアブラムは8節で、約束の実現を保証するしるしを神に求めました。神を信じているのなら、保証するしるしはいらないのではないか、と言われる方は、非常に強い立派な信仰をお持ちの方でしょう。しかし、神は、その方から見たら、信仰の弱い者を切り捨てず、むしろ気に掛けて下さるお方です。9節以下に注目しましょう。人を信じさせる、手っ取り早い方法は、驚くような不思議な奇跡を起こすことです。しかし、神はそのような方法を取られませんでした。

 11節までの、血生臭い内容は、昔その地方で行われていた、公式の誓約方法だったそうです。エレミヤ3418から19節が参考になります。「わたしの契約を破り、わたしの前で、自ら結んだ、契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際し、真二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。ユダとエルサレムの貴族、役人、祭司、および国の民のすべてが、二つの切り裂いた、子牛の間を通った」。つまり、契約を破った場合、この動物の様に裂かれても構わない、という誓約なのです。神を見た者は死ななければなりません。それで神は、17節の煙を吐く炉、燃えるたいまつ、となって二つに裂かれた動物の間を通られ、神ご自身が誓約される、という驚きの行動を、とられました。
 
 18節で初めて契約と言う言葉が出て来ました。神は契約する神です。旧約聖書と新約聖書は、旧契約聖書と新契約聖書のことです。主はアブラムと契約を結ばれましたが、原文は「契約を切る」となっています。契約と聞いて皆さんの頭に浮かぶのは、署名捺印する行為ですね。しかし、主がなさった契約は、命あるものを切って血が流される、命を懸けた契約なのです。

 神は後にキリストを遣わして、この契約の血を流されます。最後の晩餐の時、キリストは杯を取り、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される、わたしの血、契約の血である」と言われました。マタイ2627-28節。このように、弱い私達に対して神は最高の対応をされます。ですから、私たちは、この神の行為に 心燃やされます。弱さを担いながらで、よいのです。神はあなたにも言われます「わたしは、あなたを、あの時、あのところから召し出した主、あなたの神である。信仰の旅を続けなさい」。

 コロナウィルス感染の猛威が振るっている中ですが、皆さん、進みましょう。
詩編462-4を贈ります「神は わたしたちの 避けどころ、わたしたちの砦。苦難の時、必ず そこにいまして 助けてくださる。わたしたちは 決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで 海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに 山々が震えるとも」。 お祈りの時といたしましょう。

★2022年1月19日(祈祷会)
 創世記15章2~6節「信仰は恵み」
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 ★121節で、初めて主から「わたしが示す地に行きなさい」、との言葉を頂いたアブラムは、その言葉に従って旅立ちました。そして、カナンのシケムに到着した時、主から7節の「あなたの子孫にこの土地を与える」、との言葉を頂いた時、彼はその頂いた言葉に対する反応として、主の為に祭壇を築きました。しかし、カナンを後にして山地へ、そしてネゲブの荒れ野へ、祭壇を築きながらですが進みました。13章でロトと別れて、カナンに戻る時に、主は「見える限りの土地をすべて、わたしは永久に、あなたとあなたの子孫に与える」と言われました。アブラムはその言葉に答えて、カナンのヘブロンにあるマムレの樫の木のところに行って住み、引続き主の為に祭壇を築きました。このようにアブラムは主の言葉に対して黙ってですが、何らかの応答をしながら、手探りで信仰の旅を続けて来ました。

 ★ところが14章に入って、アブラムは思いも寄らない戦いを経験しました。その結果、旅人のアブラムは、地域にしっかり根ざすアブラムになりました。その辺りを先週は、私の想像を交えてお話しをしました。このアブラムの立場の変化に対して、神は素早く反応され、二つの力強いメッセージを送られました。あまりに力強いメッセージだったので、わたくし、張り切ってしまいまして、1節だけでお話を終えてしまった、という次第でした。

 ★さて、このアブラムの立場の変化は彼自身にも変化を与えました。今までしたことがなかった、神の言葉に対して彼は初めて言葉で返します。「わたしに何をして下さると言うのですか」。皆さん、これは単なる質問ではありませんね。神の言葉に言葉で返すこと自体、神への冒涜である、とココを読んで解説する方がおられる程です。私たちも23節を読んで、神の約束と自分が今立っている現実との、隔たりの大きさ(ギャップ)、矛盾をアブラムは訴えているのだ、と察しますね。なぜなら、信仰の旅路を歩んでいる私たちも、これを経験しているからです。「神さま、今日は、ちょっと、言わせてもらいます・・・・」と、アブラムが私たちに代わって言っている、と言う思いで読んでみて下さい。

 ★さて、神の反応は?4節「見よ、主の言葉があった」。その内容は、叱責の言葉ではなく、優しく諭す言葉でした。あなたの後継ぎは、世の中の習わしで定められるエリエゼルではない。あなたから生まれる者が後継ぎである。これはわたしが定める事である。あなたは、まだわたしの事を分かっていない。さあ、アブラム、外に出て天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして、わたしが誰であるのかに気付きなさい。

 ★星の数は人間には数えられません。分かりません。なぜなら、全ての星は見えないからです。雲に隠れていたり、都会だったら、他の光が強いために見えません。私たちは見えていないのです。それなのに見えているかのごとくに、神さまの言う事と、この現実はかけ離れてはいませんか、なんて思ってしまいます。天地創造の神は、星の数をすべて数えることがお出来になるお方です。

 ★この神とアブラムのやり取りを読んで、私はヨブ記を思い出しました。無垢な正しい、神を畏れ、悪を避けて生きていたヨブに、災難が振りかかりました。それを神がお許しになりました。この矛盾した神の対応について3章から37章まで、丁度アブラムがひとこと申したように、語り尽くされます。すると、その後で、神は、星の数の事どころではなくて、この世界のあらゆる現象や仕組みについての、「ヨブ、お前はそれを知っているのか、お前に出来るのか」と、あらゆる質問攻めをされました。そして、神がどなたであるのか、ヨブの目を開かれました。

 ★神は以前、1316節でロトと別れたアブラムに、天を仰ぐのではなくて、地を見渡すように命じられました。その時、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」と同じ様な事を言われました。しかし、その時「大地の砂粒の数を数えることができるなら、数えてみるがよい」とは、おっしゃいませんでした。ですから、今日読みました155節の「天を仰いで、星の数を数えることができるなら、数えてみるがよい」という神の言葉は、神が今までに語った言葉でない言葉を持って、特別にアブラムに近付かれた事を示しています。そうしましたら、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という、今までにない信仰者アブラムの姿が突如として登場する事からも、神の御取り扱いを受けたと思われます。
 ★皆さん、私たちの信仰も、御言葉を通して、神が近付かれ、神の御取り扱いを受けた結果与えられた恵みですね。聖書と祈りの時、続けてまいりましょうね。今日はここまで。次回は7節から最後まで行けるでしょうか。お楽しみに。では、お祈りの時といたしましょう。

★2022年1月12日(祈祷会)
 創世記15章「主の宣言二つ」
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 四つの王国の精兵を相手に夜襲をもって追撃し、親族ロトを含めて奪われたものを全て取り返えしたアブラムはどんな思いだったでしょうか。出迎えてくれた二人の王と別れた後、その夜のマレム兄弟との打ち上げの宴席でコンなやり取りがあったのではないでしょうか。「なあ、アブラムさん、わしらとズーットここで暮らさんかのー。あんたが居たら鬼に金棒じゃ」と言う声も上がったのではないでしょうか。「いやー、そんなことありませんよ。皆さんの加勢があったからロトを救出できました。こちらがお礼を言わなければなりません」。「わしらは四兄弟みたいなもんじゃ。なあ、みんなそう思うじゃろ?」。「わしらも皆そう思うとる」。「そう言ってくださるだけで、うれしいです。ただ、その返事は今はまだできません」。

 すると15章の冒頭の「これらの事の後で」という言葉が重要になります。神はすぐに御言葉をアブラムに与えました。地の塩、世の光として、孤立でも融通でもなく、共に生きて行く中で、神は御言葉をもって私たちを導かれます。

 「わたしはあなたの盾である」「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」この二つの主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。盾という言葉は詩編の作者がよく使う言葉です。例えば3編4節「主よ、それでも あなたはわたしの盾。」18編31節「すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる」。また皆さんは新約聖書のエフェソの信徒への手紙で、クリスチャンが身に着ける神の武具の中で、信仰を盾として取ることによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる、とあるのを思い出すでしょう。これらの盾が守るのは,弓によって射られた矢ではありません。私たちが信仰を持つ時に飛んで来る「神のことは考えなくていいじゃないか。信仰のことはちょっと横に置いとけばいいじゃないか」と、外から内から、信仰する事を妨害する矢のことです。

 中高生キャンプが終わった後、子どもたちに手渡す日々の聖書と祈りの時のガイドブックにこの箇所を選んだことがあります。子どもたちはクラブ活動に、受験勉強に、夏休みの宿題の追い込みに、それぞれの日常に戻った時にその矢が飛んで来ます。「聖書を続けて読みなさい、教会の礼拝に出なさい、信仰を持つようにと勧められたけれど、そのメリットは何ですか?他のことの方がメリットが大きいよ」。「わたしはあなたの盾である」は、「アブラム、矢が飛んで来ているぞ、目を覚ませ」と言う言葉でもあります。
 さて皆さん、神御自身が「わたしはあなたの盾である」とはっきり宣言しておられる所は他にあるでしょうか。詩編の作者たちは信仰を失いそうになる中で、このアブラムに語られた言葉を思い出して歌ったのでしょう。今日、この聖句を読んでいる皆さんにも神御自身が「わたしはあなたの盾である」と宣言なさいます。このお言葉が私に対する言葉でもあると、信じる信仰が皆さんの盾になり、悪い者が放つ火の矢を、ことごとく消すことが出来るとエフェソ書は伝えているのです。

 さて、二つ目のみ言葉は「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」です。一般に迫害の時に信仰を支える希望として、取り上げられるのが報いです。しかし、ここでアブラムは迫害を受けていません。私たちの神は御利益を飴にして信仰を進めるお方でもありません。ということは、アブラムはここで外からの迫害ではなくて、自分の内から来る迫害、すなわち「神の召しのことなんか当てにならない。そんなこと忘れてしまえ」という誘惑を受けていることになります。その時に必要なのが神の確かな約束です。神御自身が言われたのではありませんが、「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と創世記1章31節にありました。この「極めて」は同じ「非常に」という語が使われています。神が非常に大きいと言われるのですから、私たちの想像や思いや知識を遥かに超えて非常に大きいと言うことです。

 先週、私たちは天に向かって地を歩むように勧められました。それにプラスして今日、主なる神御自身が宣言なさいます。「天でのあなたの受ける報いは非常に大きいであろう」。新改訳は「大きいであろう」と翻訳せず、神の宣言の力強さを表現する為に「大きい」としています。わたしもその翻訳が良いと思います。信仰告白する使徒信条の最後に、私たちが信じる報い、永遠の命があります。永遠の命とは、どんな命でしょうか。今のこの命は死にますが永遠の命は不死の命、そう考えます。もちろんその通りなのですが、今日のみ言葉から、私たちが想像する不死の命を越えた内容の命、非常に素晴らしい命であると言う事になります。

 この二つの主の言葉に対して3節以下で、アブラムは尋ねます。こんなことは初めてです。しかし、アブラムは私たち信仰者の叫びを代表して神にぶつけてくれているのです。15章の残りは次回のお楽しみです。祈りましょう。

★2022年1月6日(アパルーム)
 創世記14章「地の塩アブラム」
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ここでアブラムの前に初めて王が登場します。現在のイラク付近にあるチ グリス川、ユーフラテス川流域は、ナイル川流域同様古代から大国が出現しました。その中の4つの大国の下で、12年間支配されて来たパレスチナ地方 の5人の王が、同盟を結んで13年目に反旗を翻し、戦争が始まりました。1-11 節はこのような歴史が渦巻く中にいる、小さなアブラムを表しています。現代に於いて、皆さん一人ひとりも教会も、このアブラムと同じです。世の中の諸々 の支配(権力や富の力や組織力等)は今日に至るまで、私たちを囲み、時には大きく立ちはだかって来ました。そのような中でアブラムがどのように行動したのか注目して、今の私たちの在り方を探りましょう。
マムレは土地の名前かと思っていましたら、アモリ人のマムレさんの事でした。彼にはエシュコルとアネルという兄弟がいました。そのマムレが自分の住ん でいる所にある木の傍らに、アブラムを迎えました。以前はテレビンの木と翻訳されていたこの木は、樫の木なのかウルシ科の木なのかはっきりしません。ア ブラムが最初にカナン地方に入った時に、シケムの聖所にやって来ました。そ こで主が現れ、最初の祭壇を築きました。その聖所には、モレの樫の木がありました。ですから樫の木のある所は聖所だったようです。また、リべカの乳母デボラやサウル王が樫の木の下に葬られていますから、墓地でもありました。
いずれにしましても、そのような大切な土地の傍に、マムレは旅人アブラム の為に場所を提供しました。また、マムレの兄弟とアブラムは同盟関係を結び、危機に対処するために共同訓練をしていました。この様な友好的な対応から、彼等は家族ぐるみで生活を共にしていたのかも知れません。アブラムは甥の
ロトが捕虜になった時に、戦うことの出来る318人を立てることができました。ま た24節によるとアネルとエシュコルとマムレがその救出作戦に加勢しています。
このようにアブラムが宗教や思想等の多くの違いを越えて、共に生きた事は私たちにとっても重要です。キリストは「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と、勧められました(マタイ543-48)。皆さん、これはお互いの違いを越えて共に生きることの勧めです。その続きでキリストはその理由として、悪 人か善人か、正しい人か正しくない人かに関わらず、天の父なる神は太陽の
光と、雨の恵みを注ぎ、違いを越えて行動される事を挙げておられます。また、自分を愛してくれる人にだけ愛したり、自分の兄弟にだけ挨拶をしたりして、相
手を限定する事に対して、信仰者の希望である神からの報いが与えられない事も指摘して、孤立するのではなくて、共に生きることが信仰者に相応しい生

き方であることをお示しになりました。
出陣するアブラムの姿は、弱肉強食の世界の中に置かれている信仰者の姿を表しています。戦いの内容はあくまでも家族と財産を取り戻すための追跡でした。そして、真昼に一騎打ちの殺し合いではなくて、夜襲によって幾つかに分かれ襲い、不意を衝いて追跡する戦術を用いました。弱肉強食の中で知恵を用いました。蛇のように聡く鳩のように素直であれ、とキリストが遣わす1 2使徒たちに諭された、マタイ10章を思い出しますね。チコちゃんに『ぼーとしてたらアカンで』と言われないように、皆さん私たちも知恵を用いましょう。
さて戦いを終えて取り戻した財産や人を携え、王の谷にやって来たアブラムを、まずソドムの王が出迎え、次にサレムの祭司であり王であるメルキゼデクが戦勝祝いにパンとぶどう酒を持って出迎えに来ました。サレムはヘブル語シ ャロームのことです。エルサレムはエル・シャロームのことです。このサレムは後 のエルサレムのこととするのが多くの学者の解釈です。またメルキゼデクは王と正しい《義》がくっついた言葉です。「天地に造り主、いと高き神」と神名を唱 えるメルキゼデクはカナンの異教の祭司でした。
アブラムは、このメルキゼデクの出迎えをまず第一に受けました。この選択は私たちに非常に重要な事を象徴しています。後にダビデがエルサレムの王 になり、詩編110篇で主から賜った御言葉を伝えています。その中に、「わたしの言葉に従って、あなたはとこしえの祭司メルキゼデクわたしの正しい王」と 主が誓い、思い返されることはない、とあります。この言葉はダビデ王自身を 越え、また1節の「わたしの右の座に就くがよい」から、将来ユダヤ人の王とし てお生まれになるキリストを預言する内容と成っています。(使徒234-35、ヘブライは7-10章にかけて取り上げています)。重要なのは、ここでアブラム・ダビデ・キリストという繋がりを垣間見る事であり、それに異教のエルサレムの祭司であり王であったメルキゼデクが関わったいることです。
★21節、ソドムの王が言います。「人はわたしにお返しください。しかし、財産はお取りください」。戦いで勝ち取ったものは、それが元々誰のものであれ、自分のものにして良い、という慣わしでした。しかし、アブラムの戦いの目的は親 族の救出でした。彼は23節以下で、世の王と同じではない対応をして、自分 の富は人ではなくて神によっている事を証ししたいと願っていました。これは彼の信仰に基づいていました。また、24節の戦った若者が食糧として食べた物と、同行したエラム人の友人達への戦利品は別であるとそれぞれの立場を尊重 しました。信仰生活には、排他的に成って孤立する事と、融通的に成って消

えてしまう事という、両極端な姿があります。私達は日本という特異な宗教環境の中でどう対処すればよいのでしょうか。アブラハムは孤立でもなく融通でもない道を私達に示しています。
参考聖句:詩編1463-5、ローマ122、マタイ513
「君主たちにたよってはならない。救いのない人間の子に。霊が出て行くと、 人はおのおの土に帰り、その日のうちに彼のもろもろの計画は滅びうせる。幸 いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は。詩篇1463
-5節」

「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。ローマ122節」

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけである。マタイ513節」

2021年8月~12月

祈り会・アパルームより(音声メッセージ)

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★2021年12月16日(アパルーム)
 創世記13章1~18節「さあ、目を上げて」
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★2021年12月9日(アパルーム)
 創世記12章10~13章2節「見えない所で働かれる神」
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★2021年12月2日(アパルーム)
 創世記12章1~9節「人を召す神」
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★2021年11月25日(アパルーム)
 創世記11章10~32節「救いの御業の始まり」
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★2021年11月17日(祈り会)
 創世記11章1~9節「信頼による絆を結ぶ集団」
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★2021年11月11日(アパルーム)
 創世記10章1~32節「アダムと繋がっている」
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★2021年11月4日(アパルーム)
 創世記9章18~29節「あなたの父母を敬え」
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★2021年10月27日(祈り会)
 創世記9章1~17節「再創造の時に据えられた基礎」
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★2021年10月20日(祈り会)
 創世記7章17~8章22「忍耐深い神」
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★2021年10月13日(祈り会)
 創世記6章13~7章16「再創造される神」
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★2021106日(祈り会)
 創世記6912「神に受け入れられる幸」
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★2021年929日(祈り会)
 創世記61~4「限界と配慮」
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★2021年922日(祈り会)
 創世記51~32節「信仰によって書かれた系図」
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★2021年915日(祈り会)
 創世記41024節「まず自分を低くし謙ろう」
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★2021年98日(祈り会)
 創世記449節「あなたはどの戸を開けますか」
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★2021年91日(祈り会)
 創世記415節「神様どうして、から、きっと神様が」
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★2021年825日(祈り会)
 創世記31424節「人と伴走する神」
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★2021年819日(アパルーム)
 創世記3章6~13節「愛に満ちた神の対応」
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★2021年812日(アパルーム)
 創世記3章1~5節「誘惑に会わせないでください」
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★2021年85日アパルーム
 創世記21825節「人は完成を目指す」