聖書の学びと祈り
【聖書ってどんな事が書かれているのかな?】
《音声メッセージ》
※「メッセージはこちら」をクリックすると直ぐに音声メッセージが再生されます。
音量にご注意ください。
2024年12月12日
レビ記27章「主よ、我がものは無し」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
主なる神は25章辺りから、エジプトの国からわたしが導き出した者は皆、わたしの奴隷である(42節)と言い出され、55節では「わたしの奴隷」と二度繰り返されています。最初、神は創世記26:24でアブラハムのことを「わたしの僕(奴隷と言う語を使っている)」と言われました。モーセも金の子牛事件が起こった時、神に「あなたの僕(奴隷)である、アブラハム、イサク、イスラエルを思い起こしてください」と祈りました。そして、聖書はモーセ自身のことを葦の海を渡った時、「民は主を畏れ、主とその僕(奴隷)モーセを信じた」と記しました。神の民を「主の奴隷である」と宣言される主に対して、民はどの様に応答したらよいのか、最終章の27章はそれを取り上げています。
新聖歌391番「皆献げまつり」の原歌詞はAll to Jesus I surrenderとなっています。Surrenderは、これから自分を支配される方の手に城を明け渡す、と言う意味の言葉です。しかもそこにAllが付いています。自分と言う城の全ての部屋を明け渡していないのではなかろうか。主に明け渡していない部屋が残っているなら、その部屋を案内して入って頂きましょう。見て頂きましょう。そして、神の指示を待って従いましょう。そういう歌がこの391番だそうです。レビ記27章は「全てを献げ、我がものは無し」という、民からの自由な応答を取り扱います。2節に「終身誓願に相当する代価を、満願の献げ物として主にささげる」とあるのが、それです。
献げ物に関しては、既にレビ記1-7章で詳しく記されていますが、それは神と民の関係を回復するためのもので、神と共に生活するのに必須の献げ物でした。しかし、27章で言われている献げ物は全く違います。それは神に対する民の自由な応答としての献げ物です。今までにも7章16節や22章18節以下で「満願の献げ物、随意の献げ物」のことが出ていましたが、それらを含めて、自由な応答としての献げ物について27章はまとめています。主なる神の奴隷となることは非常に大きな恵みである。それがレビ記の前提となっています。ですから、この恵みに今度はどう応えるたら良いのかを最後の章で取り扱うことは、非常に相応しいと言えるでしょう。
満願の献げ物や随意の献げ物とは違う終身誓願は、字のごとく、自分の身を人生の終わりの時まで献げる特別な誓願です。かつて神はアブラハムの息子イサクの全てを捧げる事を求められました。そんな神のことを知っているサムソンやサムエルの親は不妊でしたが与えられた子の全生涯を捧げる誓願をしました。士師エフタも誓願を立てて言いました。士師11章31節「私がアンモン人のところから無事に帰って来たとき、私の家の戸口から私を迎えに出て来る、その者を主のものといたします。わたしはその者を全焼のいけにえとしてささげます」。結果、彼は自分の娘を捧げる事となりました。これらの人々は証しています。神の奴隷とされた者に相応しい応答は、全てを捧げて「我がものは無し」とする事です。
来週から民数記に入りますが、神の計画は、エジプトから贖い出した民をこの世界に対する公の証し人として整える事でした。それで神は民数記で人口調査とグループ2分けとその配置と役割分担を決めて、一つの共同体として形を整えられます。それから、シナイを旅立ちました。全員が献身して祭司になるのではありません。現実に命が捧げられたのは士師エフタの娘だけです。レビ記が求めるのは我がものは無しとして、全てを捧げるのですが、それを神に用いていただくことです。
レビ記はレビ記は驚くべきことに民全員が終身誓願することを前提にしています。しかし、全員が聖職者として献身したら、一般の民はいなくなります。それで神は終身誓願の心だけ受け、全身を捧げる代わりに、銀で献げる、家畜、家屋、畑を捧げ、それを売って銀の代わりにしなさいと指示なさいました。3-7節で金額が定められています。1シェケル11.4グラムと聖書の巻末の表に載っています。50シェケルは570グラム。現在、銀は1グラム170.11円の相場だそうです。50シェケルは96962円だそうです。しかし、当時の1シェケルは一か月の賃金相当でした。ですから50シェケルは年収の4倍以上と非常に高額です。献身して祭司になった場合に年齢と性別ごとに可能な肉体労働が基準になって額が決められています。ここで注目して頂きたいことがあります。年収の差や身分の差は関係なく、神は一人ひとりと対峙して下さっています。それから生後一か月の赤ん坊から60歳以上の高齢者まで、全員が献身します。献身者が足りないと言っている現代の教会にとっては羨ましい話です。
祭司はこの献げ物に関して、貧しくて銀を払えない人には、その状況に応じて額を決めました。また、銀ではなくて家畜や家屋で、先祖伝来の畑や購入した畑で、献げたい人に対しても祭司が対応しました。また、買戻しにも対応しました。それぞれの人生に何が起こるか分かりませんので、それに対する神の配慮が伺われます。
9節以下、捧げられた家畜は聖なるものとなり、買戻しは出来ません。他のものと取り換えることもできません。ただし汚れた家畜は買戻しが出来ました。 14節以下、家屋を売って献げる場合は祭司が価格を評価する。祭司はその金額で売って銀に換える。家屋の場合買戻しは出来る。
16節以下、先祖伝来の畑の場合はその畑の収穫量で価格が評価される。買戻しは可能ですが転売された場合はその限りではない。ヨベルの年には祭司の先祖伝来の土地となる。先祖伝来の土地は買い戻さなければならない大切な土地だという事でしょう。
22節以下、他人の先祖伝来の土地を購入した人がそれを捧げる場合、それは買戻しは出来ない。ヨベルの年に、元の先祖伝来の土地所有者に戻る。
28節以下は永久に主のものとして奉納された奉納物のことです。ヨシュア記6章でエリコの町を七日間周り、七日目には七回周り、その後、鬨の声を挙げ、17節「町とその中にあるものは、ことごとく滅ぼし尽くして主にささげよ」とヨシュアは命じました。またサムエル記上15章3節で、エジプトを脱出した際に、アマレク人がイスラエルに戦いを挑んだ事に神は罰を加える為に、サウル王にアマレクに属するものを一切滅ぼし尽くすことを命じました。しかし、サウルはそれに従わず一部を戦利品として残したときがありました。その時にサムエルがサウルに言いました。「主が喜ばれるのは、焼き尽す献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことで3はないか。見よ、聞き従う事はいけにえにまさり、耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる」と言って、サムエルはアマレク人を滅ぼし尽くすことが主にささげる行為と捉えています。この永久に主のものとして奉納したすべての奉納物が29節では人の場合は必ず殺さねばならない、とあるのは、これらのことと関係していると思われます。これは終身誓願の献げ物とは違います。永久という言葉が使われているのはその為なのでしょう。新改訳は主に対して聖絶したもの、となっています。この聖絶が子から老人まで無差別に皆殺しするので、ここを読んで多くの読者が躓く所です。
また、献げる以前から主に属するものがあります。26節の家畜の初子、30節の大地からの収穫物の十分の一。その一部は買戻しが出来ました。牛や羊の家畜の群れの十分の一。家畜の場合、牧者はその良し悪しを知っているが、献げた後で取り換えてはならないことが10節でありました。家畜の十分の一を決めるのに良し悪しの判断や取り換えをさせないために、牧者の杖を通して家畜の数を数える同じ方法で10番目毎の家畜を主のものと定めました。ですからこれまで言われて来た献げ物は、この十分の一以外からしなければなりません。十分の一献金の奨励箇所として選ばれるマラキ書は、十分の一を神にお返しする事すら忘れられていた高慢な時代に書かれました。
イエス様が来られた時も同じでした。新約聖書ルカ18章9節で、イエスは決まり通り受ける者の十分の一を自分はささげている、と自慢して他人を見下す人ではなく、謙った取税人を称賛されました。その後で金持ちにも22節、持ち物全部を手放すことを命じられました。27節、人には自分を救う力はありません。神には何でもできる力がある。だから、神に全てを明け渡し、神に働いて頂くことをイエスは勧めました。同じくルカ21章、大勢の参拝者でごった返していた神殿で、イエスが生活費全部を捧げて、全てを神に返した貧しい一人のやもめを見逃さなかったのは、「我がものは無し」と言う事がいかに大切かを表しています。マタイ25章14節の「僕たちを呼んで自分の財産を預けた。」は私達の持っているものは全て神からの預かりものである事を伝えています。1コリント4章7節「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」ただで頂いた。
バプテスマのヨハネが、キリスト出現の折りに自身の衰退を目の当たりにしたが、彼は信仰に立って言った3章27節「人は、天から与えられるのでなければ、何も受ける事は出来ません」。
ヨブが全ての財産と子ども全員を失った時言いました、ヨブ1章21節「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
今日で終わるレビ記全体は礼拝の基本を示しました。「あなたはわたしのものである」という神からの福音に対する私達の応答「わたしはあなたのものです」。この二つが響くのが礼拝です。そして、信仰生活とはこの二つが行き来する、神とあなたのキャッチボールの連続です。
2024年12月5日
レビ記26章「神は契約済みとされる」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★神は契約済みとされる
26章46節「以上は、主がシナイ山においてモーセを通して」。27章34節「以上は、主がシナイ山においてモーセを通して」とあり、主なる神から伝えられた言葉の結びとなります。やっとここまで来ましたね!結びですからやはり重要な内容になっています。26章は主なる神が、ご自分とイスラエルの人々との間で、何を行われたのかにポイント置いています。それは契約です。主はその契約の具体的な内容を、掟と法と律法(46節)で示されました。
1-2節はその最初を振り返ります。それはシナイに到着して最初に示された十戒です。出エジプト記20章3節一戒「わたしをおいて他に神があってはならない」と、四戒「安息日を心に留め、これを聖別せよ」です。そして、レビ記25章まで掟と法と律法を示して来られました。この契約は一般的な双務契約ではなくて、一方的に主が契約なさる恵みでした。つまり契約済となさったのです。それに対して神の民はどう答えるのか、それによって道は二つに分かれます。3節以下で最後の締め括りの言葉として語られました。
使徒は主イエスが聖餐を制定された言葉を、コリント一11章23-26で伝えています。今も私たちの教会で行われている聖餐式の中で読まれています。その中にも契約という言葉が入っています。「・・・この杯はわたしの血によって立てられる新しい契約である・・・」。これも契約済ということです。イエスさまによって救われるとは、神によって「私とあなたは契約済みです」と宣言を受けることです。エフェソ2章5節は私たちクリスチャンが受けている救いを「事実、あなたがたは、恵みによって、信仰によって救われました。このことは、自分の力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません」、と振り返り、そして、神からの力を受けて、新しい生き方に変えられ、神の豊かさのすべてに与ることを勧めています。
★祝福の道
レビ記もまず、3-13節で神の祝福を受ける道、すなわち掟に従って歩み、戒めを忠実に守ることを勧めます。そして、その時に受ける祝福を列記し、9節で今一度「あなたたちとわたしの契約を立てる」と宣言されています。
★呪いの道
しかし、その反対の従わず不忠実な場合のことが14節から39節まで語られます。注意して頂きたいのは、以下の繰り返しの言葉です。
14節「しかし、わたしの言葉を聞かず・・・わたしの契約を破るならば」。
18節「このような目に遭ってもまだ、わたしの言葉を聞かないならば」。
23節「それでも、まだわたしの懲らしめが分からず、反抗するならば」。
27節「それでも、まだわたしの言葉を聞かず、反抗するならば」。
『これからあなたたちは契約の民としての歩みをはじめるのだが、その前に言っておく。わたしは徹底的に何度でもあなたがたと関わり続ける』、と言う神の篤き思いが感じられますね。子を教育する親のごとくです。
主は40節以下の「しかし、もし・・・」が起こる日を待ち続けられます。キーワードは40節の「罪を告白するならば」、41節「かたくなな心が打ち砕かれ、罪の罰を心から受け入れるならば」です。レビ記の最初に神と人との共同生活でまず欠かせない献げ物の規定がありました。しかし、その献げ物が規定通り献げられていても、神は心を見られます。ダビデを召される時にサムエルにおっしゃった言葉「容姿や背の高さに目を向けるな。わたしは彼を退ける。人間が見るように見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」を思い出します。ダビデ王はバト・シェバに姦淫を行って、それを預言者ナタンが裁いた時に、ダビデは詩編51編を歌った、とあります。その中の一節を思い出します。「もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽す献げ物が御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、神の求めるいけにえは、打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。18-19節」。34:19と147:3とイザヤ57:15と66:2も参考。
43節、実際に彼らの罪の罰は下され、バビロン捕囚、エルサレム神殿崩壊がなされますが、44節それにもかかわらず、主は敵国の中で彼らを見捨てず、退けず、滅ぼし尽くさず、契約を破られませんでした。その理由は、わたしが彼らの神となったからであり、わたしが彼らの主だからである、と強く宣言されています。
祝福と呪いの二つの道は私たちクリスチャンの前にもあります。主は私たちを救われたのは祝福の道を歩ませるためです。心に刻み付けましょう。
2024年11月21日
レビ記25章「すべては主のもの」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★時も主のもの
「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。」 ローマ11章36節。「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もし、いただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」 1 コリント4章7節。「わたしたちは主のもの」詩編100編3節。
全てのものが主のものである、とする信仰は旧新約聖書を貫いています。レビ記23章から25章までは、時間に関することがまとめられています。安息日は一週間の中で、諸祭日は一年間の中で聖別された時とされました。そして、今回は7年目の安息年と50年目のヨベルの年を時の流れの中で聖別しています。時は止められず永遠に流れて行くと言われていますが、聖書はその時を聖別してそれを初めた方と、それを終りにする方、すなわち時の支配者である主なる神を伝えています。時も主のものなのです。
人間はこの支配者を畏れなければなりません。安息日も安息の年も主のためとあります。ヨベルの年も聖なる年、すなわち主のためのヨベルの年なのです。何か人間にとってためになるからこれらの時が定められているのではありません。主のため、つまりその時に主を覚えるために定められました。神は人が土地を持ち産業(この場合は農業)をし出すと、主を忘れてしまうことを知っておられました。
★主を覚える年の設定
1節から7節までに命じられている7年ごとの安息年は、当時の農業という産業を一年間ストップしなさい、という命令です(4-5節)。今の社会はストップできない社会です。災害は強制的に社会をストップさせ、私たちの社会がストップしては成り立たない社会であることを明らかにしています。神は流浪の民である神の民に将来土地を与えられるのですが、その前に7年に一度のストップを命じられた理由は、この大地も収穫物も主から与えられたものであることを心と身体に刻み付ける為でした。
6-7節は、土地(畑)や食糧の所有権を無効にします。沢山の食料を持っている人にとっては困った事でしょう。食糧は大地に住む人間全員、動物や生きもの全体の食糧となります。それが一部の人間だけの所有物ではないことが一年間掛けて、心と身体に刻み付けます。
★犠牲によって生かされている人間
また、このストップは大地の休息の時でもあります。休閑は地力の回復をはかる農業の知恵です。しかし、それは大地のためにするのではありません。人間が沢山の収穫を得る為にする休閑です。7年目の安息年の休閑は大地のために一年間の安息を大地に与えることです。神は、人間が大地と共に生きることに気付かせるためにこの命令をなさいました。現代の大地は至るところで悲鳴を上げているのかもしれませんね。人間が生は、大から少なかれ他の生き物の犠牲の上に築かれている、弱肉強食という現実があります。あるいは大地との闘い、という厳しい中を人間は生きて来ました。
アダムとエバが禁断の実を食べた時に、神は「大地が呪われるものとなった」と言われました。人間には罪から解放されて神との和解が必要になりました。そして大地との和解をもたらす解放も必要なのでしょう。今は実現できないが将来においての実現を目指すものなのでしょう。そのために神はヨベルの年を定められました。
★人間に必要な解放
8節から12節のヨベルの年は、この7年ごとの安息年の集大成、7回目安息年の次の年50年目ということで、究極的安息年と言えるでしょう。10節でこの年は全住民にとって解放の年と言われています。ということは、何かの奴隷だと言うことになります。何の奴隷なのでしょうか。
7節までで、薄っすら見えていたのは、弱肉強食と言う現実からの解放でした。ヨベルの年ではもっと具体的に詳しく語られて行きます。10節「あなたたちはおのおのその先祖伝来の所有地に帰り、家族のもとに帰る。」とあります。先祖伝来の所有地とは神が十二部族に嗣業として賜った土地のことです。2節参照。ということはその土地を手放さざるを得ない現実があることになります。貧困に襲われることや、災いを受けることが考えられます。家族のもとに帰るとは、家族から離れてどこかへ奴隷として働かなければならない貧困が考えられます。41節参照。沢山の所有地を手に入れている富豪は、その土地を返さなければなりません。人間の社会の中でも弱肉強食が生じます。ヨベルの年は、それが生まれる前に戻ることになります。人間が何を目指すべきなのか、今一度問われる年がヨベルの年です。
11節12節は49年目の安息年と50年目のヨベルの年のまる二年間の食物が6節や12節のごとく、産業や経済や富や地位に関係なく、被造物全体で分けて得ることになります。20節、49年目の安息年に種を蒔いてはならない、収穫もしてはならない。それでは次の50年目は例年の収穫は見込めないだろう。そして51年目もすぐに収穫を得られないでしょう。すると、どうして食べていけるのだろうか、という心配が起ってきます。しかし、18節から22節は、48年目にこの三年間に必要な糧を余分に与えて、主が必ず養われることを約束しています。
私たちはマタイ6章25節以下で空の鳥と野の花を見よと言われたイエスの言葉を思い出します。そして、天の父に「日曜の糧を今日も与え給え」と祈ることを名知られたイエスのことを思い出します。人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いに過ぎない、とモーセも歌った私たちの人生にも解放が必要です。安息は解放の時。黙示録21:4目から涙がぬぐい取られ、もはや死も悲しみも永木も労苦もない、新しい天と新しい地が来る時です。私たちもそこを目指しています。
2024年11月07日
レビ記24章「共におられる主なる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
イスラエルの人々にとって幕屋へ行って主の御前に立つ時、1章から7章までに命じられている献げ物を携えなければなりませんでした。祭司はそれらを祭壇で燃やし煙にして天におられる主のもとに宥めの香りとして届け、その血で贖いの儀式を行いました。この献げ物によって主は罪人である人間と和解し、御前に立つことを許し、共に歩んで下さいました。今、私たちが神の御前に礼拝を献げられるのは、十字架でイエス・キリストの命が献げられ、その血による贖いによって、神との和解が約束されているからです。
これとは別にイスラエルの人々は毎日、純粋なオリーブ油を幕屋にいる祭司アロンの所へ持って行きました。それから毎週安息日には、上等の小麦で作ったパン12個(計算すると、1エファは23リットルですから0.2エファは4.6リットルです。小麦4.6リットルは強力粉1リットルが680グラムに従うと、3.1キロになります。ですから、食パン12斤以上の大きなパン12個になります)を幕屋にいる祭司アロンの所へ持って行きました。
さて、幕屋で祭司アロンに手渡されるこのオリーブ油と小麦は、燃やして煙にして天におられる主に献げるのではなくて、幕屋におられる主に直接献げました。しかし主は真っ暗な夜、何も見えなくなるのでオリーブ油の明かりを必要とされる方ではありません。また、お腹を満たすためにパンを必要とされる方でもありません。
なぜ、こんな定めがあるのでしょうか。聖書が伝える神からのメッセージを一言で言うなら、私たちが住んでいるこの世界で主なる神が共におられることです。祭司の存在はこのメッセージを示す為でした。イスラエルの人々が主の御前に差し出したオリーブ油とパンもこのメッセージをこの世界に証するために用いられました。
オリーブ油は主なる神が共におられるしるしとしての灯火になりました。サムエル記上3章は神殿の祭司が堕落し、主の言葉や幻の示される事がまれであったが、3節の「まだ神のともし火は消えておらず」と言って、主が彼らと共におられたことを伝えています。また、備えられた小麦のパンは、糧のいらぬ方が糧を受け取られる、ということです。主なる神が積極的に関わって下さっている事を表しています。
ここに現代の献金の原型があります。主は不足だから献金を集めておられるのではありません。ですから献金は寄付金でも会費でも募金でもありません。献金は主なる神が私のこの人生と共に関わって下さっておられることを証しする行為です。献金は神のメッセージをこの世界に証しする行為、今しかできない恵みの業ですね。
主なる神は受け取ったパンを全て祭司アロンとその子孫の糧としてお与えになりました。神は神の民に生活の糧を得る土地を与えましたが、祭司の家系には与えられませんでした。彼らを直接養う事とされました。ですから、このパンは9節で神聖なものと言われています。ここにはどんな神のお考えがあるのでしょうか。40年間の荒れ野の旅では民全体が天からのパンによって直接養われた経験をしました。しかし、その旅を終えて神から与えられた土地で生活を始める民には、もうその直接的な養いはなくなります。
詩編95:7や100:3で「わたしたちは主に養われる羊の群れ」と長年礼拝の中で歌われています。主に養われている、これは神の民がどの様な形態になろうとも忘れてはならない事とされています。主なる神は一番身近で奉仕する祭司たちに、それを最後まで証しさせるお考えなのでしょう。
10節から、がらりと内容が変わります。主の御名を冒瀆するとはどういうことでしょうか。名前に対する感覚は私たちとイスラエルの人たちとではだいぶ違うようです。後に彼らは主なる神の名前を人間が呼んだり唱えたり表したりすることを禁じました。出エジプト3章13-14節でモーセは神に名前のことで尋ねました。「彼らは、『その名は一体何か』と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。」神はモーセに「わたしはあるという者だ」と言われ、また、。「イスラエル人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方が私をあなたがたに遣わされた』と。」
主の御名は「わたしはあなたと共に存在する」という名でした。ですからその名を冒瀆するとは、人間と被造物全体を救う為にこの世で共におられる神を真っ向から否定する行為になります。ですから、神はそれに対して極刑で臨まざるを得ませんでした。生粋のイスラエル人以外の混血の男、一時的に寄留する者、土地で生まれた者にも、つまり、イスラエルの血統ではなくて共同体の一員であるならば、誰でも死刑でした。主なる神とは、この共同体と共に歩まれる神だったからです。
死刑の判決を下すのは人間ではなくて主ご自身であったため12節、主御自身の判断を待ちました。そして、共同体全体で処刑しました。個人の問題ではなくて共同体全体の問題と考えられています。そして、18-20節に『目には目、歯には歯』で日本でも知られている同害報復法が載っています。ここにも共同体のことが考えられています。報復がエスカレートすると共同体全体を滅ぼしかねません。
このように24章を読むと、この章はイスラエルという神の民の共同体が、神が共におられることで成り立っていることが分かります。これは畏れを持って受けなければならない恵であり、ここにイスラエルの使命があります。
ペトロの手紙1の2章9-10節で、主の教会に属する私たちも神の民であることを覚える時に、私たちも主なる神が共におられることを証しする恵みを畏れを持って受け取り直しましょう。そして、地の塩世の光として私たちも、主が共におられることを証させていただきましょう。マタイ18章20節「二人または三人が私の名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。
2024年10月31日
レビ記23章「信仰の祭りで暦を形成した神の民」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★暦
こよみはカレンダーのことです。カレンダーは100円ショップでも売っています。今日は何月何日何曜日かが一目瞭然になっている表のような認識しか持っていない人が多くなっています。NHKのニュースで今日の暦として満潮干潮の時間が発表されます。暦の上ではと言って日本の二十一節季のことが言われます。元来暦とは生活と関わる者です。しかし、本来カレンダーはその人の生きざまが現れる大切なものです。この23章は神の民が神の民として生活のカレンダーです。
主の祝日は主の例祭(新改訳)主の祭り(新聖書協会共同訳)とも翻訳されています。主が定められた祭りのことです。その日に聖なる集会が開かれ、神の民が召集されました。祭りは神の民の存在する意味や目的を身体で体験して、つまり生活の中に取り込むことでした。祭りから次の祭りへと進みながら一年間を進む、そんなカレンダーを神が定められました。神が定めた第一の祭りは最も厳かと3節にある安息日です。これについては後でお話しします。
★過越しと除酵祭
5-8節、過ぎ越しの日の翌日、除酵祭が行われます。出エジプト12章39節は、酵母を入れないパンを焼いたことが出エジプトを記念するエピソードとしています。レビ記23章では過越し祭ではなくて除酵祭の指示だけがされています。その背景には神の民が経験したバビロン捕囚という歴史的な事が絡んでいる様です。私たちと違って第一の月とは3-4月のことです。これはバビロニアの暦の数え方から来ています。安息日や聖なる集会のことが言われているので、きっとそこには神殿礼拝が出来なかったバビロン捕囚という時代の経験が、この文書に影響していると思われます。実際、レビ記の最終編集はその時代以後に行われました。除酵祭は七日間行われました。
★初穂の刈り入れ祭
初めに収穫できるのが大麦だそうです。10-14節はその初穂を献げる刈り入れの祭りです。この祭りは初穂が主のものであるということから来ています。これは出エジプトの初子奉献と関連させられたと思われます。出エジプト13章11-12節参照。初子も初穂も主のものなのです。主から与えられたものの初めのものを主に献げ、その後の残りのものが人間のものとなります。食べるという基本的な人間の生の初めを、初穂奉献によって信仰的な意味付けで始められました。現代の礼拝もこの初穂奉献の刈り入れの祭りの延長線上にあります。眠った者の初穂となって甦られたキリストによって始める祭りが礼拝です。
★収穫祭
15-21節はその五十日後の祭り(五旬節)です。16節の新穀とは小麦のことです。大麦の刈り入れの一ヶ月後の小麦の刈り入れで穀物の収穫は終わります。17節小麦の初物も主のものとされます。12-13節の献げ物よりも18-20節の献げ物の方が多いのは大麦よりも小麦の方が上等であるからでしょう。また、収穫の終りに全ての収穫物に対する感謝も含まれているからでしょう。主が良きものを下さった事の感謝です。新約聖書の五旬節にも主は良きものを下さいました。それは聖霊でした。ルカ11:13・
★隣人への義務
22節は以上の主の救いと養いと恵みによって生かされていることから来る当然の結果としての隣人への義務を伝えています。ここは大変重要な所です。場所的にもこの23章の中心に位置しています。ただ祭りを守っていたらよいのではありません。祭りによって心に思い起こす信仰を実際に生きること、それがこの立法の目指すところなのです。
★仮庵の祭り
24節以下は第七の月です。それは、秋の9月10月です。これは穀物以外の刈り取りの時期です。ぶどうの実、木の実、ナツメヤシの実が結びます。この時期は乾期です。土の深くまで根を張っているため、木は水分を吸収してこの時期に実を結べるわけです。水は収穫を得るのに無くてならないものでした。それで大祭司は祭りの最後の日に、来年も雨期が来て雨が降って実を結ばせてくれるように祈ったそうです。
この時期は実を結ぶ木の枝は成長しているので、その枝をつかって仮小屋を建てて生活します。これが仮庵の祭りです。これは43節にあるように、エジプトを出て荒野での四十年間のテント生活を神が導かれたことを思い出す記念の儀式です。ヨハネ7章37-39節「祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」この祭りの終わりとは仮庵の祭りの終わりのことです。イエスはまさに大祭司の祈りに代わってここでそのように大声で宣言されたのでした。
仮庵は本当の住いがこの地上にではなくて天上にある、だから今は仮住い、天を目指す巡礼の旅の道中である、という認識を植え付ける祭りでもあります。ヘブライ11章13節参照。
これらのカレンダーの背後には歴史的な影響があります。3節で七日目の安息日が第一の聖なる集会の日とされています。これはバビロン捕囚を経験して約束の地を追われ、神殿が破壊され(その故に上記の祭りは出来なくなった)、離散した中から生まれた信仰の暦です。7日目の休息は神ご自身も守られた暦であると創世記1章は伝えていることになります。
また、申命記5章15節はその神がエジプトから導き出された方であることを思い起こす日として安息日を定めています。この7日目の休息は6日間の労働の報酬ではありません。神の恩寵のもとで自分は、そしてこの世界は存在していることをこの暦は表しています。この様に人間の理解や理由付けや価値付けによってこの安息日が守られるのではありませんでした。
時はこのような暦によって、刻むだけのものではなくて、神の支配するものであり、聖なるものである。7日、7週、第7の月は神が定めた聖なる時を表しています。私たちの時の感覚はどうなっているのでしょうか。世俗化した時代の中で教会も時代の価値判断に動かされない信仰を持つことが大切です。コヘレト3章1-11節参照。現実の生活の中でクリスチャンとしての暦はどうなっていますでしょうか。週報の一番上に教会歴が記されています。年三回の大きな祭りを繋ぐ暦です。教会の活動はもっと教会暦と関わっているのが良いと思います。尚、ハロウィーンは教会の暦ではありません。かぼちゃ、ケーキ、卵、と世の中には形を変えて伝わっていますが、その源流に遡って欲しいですね。10/31は宗教改革記念日です。
2024年10月24日
レビ記22章「聖別された献げもの」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★祭司を養う十分の一の聖なる献げ物
12部族の内、祭司が属するレビ族には相続地が与えられませんでした。民数記18章23節「彼らは、イスラエル人々の間では嗣業の土地を持ってはならない」。24節「わたしは、イスラエル人々が主に献げる献納物の十分の一をレビ人に彼らの嗣業として与えるからである」。そして32節「イスラエル人々の聖なる献げ物を汚して、死を招いてはならない」とあります。今日のレビ記22章2節でも、民が献げた献げ物の一部を祭司は嗣業として受け取りましたが、それの取り扱いに関して細心の注意を求めています。それで聖なる献げ物と言われています。
その細心の注意とは、祭司が汚れたままでその献げ物に近づいてはならないことです(3節)。4節以下はその汚れた状態に関して詳しく説明されています。この命令を破ると死にます。だから、守らなければなりません。9節は祭司が決してこの様な事で死んではならない旨を、「わたしは彼らを聖別する主である」と言って強調されています。
★神の食物
さて、注意すべき言葉があります。新共同訳聖書が「神の食物」と翻訳している語です。神に献げ物を献げるのは、神がお腹をへらしておられるからではありません。罪ある人間が神の前に出るのに献げ物がないと出られない、神と人の関係修復のために献げる献げ物です。ですから、神の食物というのはおかしな表現ですね。新改訳は「神のパン」と翻訳しています。また、英訳聖書もbread of God と翻訳しています。四十年の荒れ野の旅では天からのパン、マナで彼らの先祖は養われました。神の食物(パン)、聖なる献げ物で養われている祭司の存在は、天からのパンで養われた事の延長線上にある、証し的な存在でした。
3節で言われている事が、サムエル記上4章で現実となり、祭司エリの息子オムリとピネハスは死にました。
4節、祭司で皮膚病や漏出のある者は神の前に立てませんでしたから、清くなるまで聖なる食物を食べられませんでした。では何を食べたのでしょうか。祭司が対応できない場合、これは礼拝者の援助が必要ということなのでしょう。その他汚れに触れて汚れを受けた場合は、7節、日没まで食べることが出来ません。しかし、神は空腹のまま一日を終わるようなことがないように憐れまれます。彼はその夕食を食す時、祭司の食物が聖なるものであることをあらためて覚えなければなりませんでした。
この様に8節まで、祭司の日常の行為である食事は、神からのものである事に徹し、聖別された行為とされました。聖別ということで思い出すことがあります。京都にいる時にギリシャ正教会の司祭から「私たちは特伝はしません。日常の中でこのような形で宣教して来ました。」と聞きました。彼らは日常の全てに対して今も聖水による聖別を行って、日常に聖を持ち込んでいます。
10節から16節は、この祭司の食事と一般の人の食事の区別です。つまり、祭司の家族以外はその食事をとれませんでした。11節の奴隷は家族同様でした。12節、結婚は父母を離れることであり、その食卓から抜けることでした。14節その違反には賠償の責任が問われました。祭司の家庭の食事は一日の労をねぎらう憩いの時ではあるが、厳粛な食事でもありました。これは祭司の家族にとって信仰の継承の場でもありました。神に養われている、聖なる食事、この認識は私たちの聖餐の食卓に受け継がれ、主の祈りの「日用の糧を今日も与えたまえ」の祈りにも受け継がれ、家庭の食事の食前の祈りにも受け継がれていると思います。世俗化されて行く中で私たちも、神に養われていることを伝えて行かねばなりません。信仰とは自分だけの信念ではありません。これらのことから、信仰は継承という形をとるものであることを教えられます。
さて、17節から25節までは、献げ物の傷と欠陥のことが問題にされています。神の御前に置かれるのであるから、21章の祭司の汚れと同じ考えで、死の臭いのする傷や欠陥のある献げ物は、神に敵する死の臭いのするものであり、受け入れられませんでした。
26節から28節は動物愛護ではありません。人も家畜も同じ家に生まれたものであるという共同体認識がここにあります。人間の子どもに課される八日目の割礼の規定が家畜にも影響を与えているのが分ります。28節は、出エジプト23章19節や申命記22章6-7節と関係しています。この規定の理由は分らないのですが、動物の家族のことが考えられていることは確かです。29節30節、和解の献げ物は共食の献げ物とも言われることを3章で学びました。神と共に食するのです。ですから、その日に捧げられた祭壇と関係することが強調される献げ物でありました。そこからその日の内に食べるということが言われていると思われます(レビ7章15節16節)。
★献げた身に働く神
31節、戒めに対する忠実さが求められています。この忠実さはどこから生まれてくるのでしょうか。神がイスラエルの神となるためにこの戒めを与えられました。あなた方が神の民となるのではなくて、神があなたがたの神となるのです。その為に祭司が聖別されました。ですから、戒めに対する忠実さや、祭司であることは、どちらも決して自分のためではありません。神のためです。そこで祭司に求められていることはただ、主に全て委ねる献身でした。自分が何かできるとか、頑張らねばならないと人は考え易いのですが、必要なのは献身なのです。献身に神が十分にお働きになるのです。自分の努力が足りない信仰が足りないのではありません。神に委ねる、信頼して従う、ゆえに献げる、これが足りないのです。
★聖別される幸い
サムエル記上2章27節以下の祭司エリに対する神の人の言葉に、この献身から反れてしまった祭司への非難が伺われます。サムエルが預言者として最初に聞いた言葉(3章11節以下)は、祭司達に対する審きの預言でした。神は少年サムエルにまず人間の闇を見せられました。私たちも目の前に暗闇しか見えないと思う時があるでしょう。しかし、光が暗闇の中に輝いているとはっきり言うヨハネの証しを信じましょう。どんなに私たちの側に暗闇が見えましても、レビ22章32節、神は聖別のことを言われます。
ヨハネ福音書はイエスも最後の夜、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます(聖別します)。彼らも、真理によってささげられた(聖別された)者となるためです」と祈られました。33節「わたしはあなたがたの神となるために」エジプトから導き出し、聖別する主である。これらのお言葉に救いがあります。私たちの中には闇の部分がありますが、神の聖別は光としてその暗闇の中に輝いています。
2024年10月17日
レビ記21章「死と戦われる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
アロンの一族が世襲制によって務める祭司職に対する命令が21章です。
1-9節は祭司アロンの家に生まれた子に対する命令です。
10-15節はその祭司の中で大祭司に選ばれた者に対する命令です。
16-23 節はアロンに対する命令です。
24節は締めくくりの言葉です。祭司に対して下されている命令はイスラエルの全ての人にも告げられました。つまり礼拝者はこれらの祭司の立場を理解していなければならないからでした。
礼拝は聖なる神と接する時です。その時に問題となるのが人の汚れ、すなわち人は神の前に立てない状態であることです。人が闇と死に支配されているからです。神は神と人の交わりを邪魔する汚れ・闇・死と戦い、罰せずにはおれないお方です。
「神は光であり、神には闇が全くないということです」1ヨハネ1章5節。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ローマ6章23節。
「この朽ちるべき者が朽ちない者を着、この死ぬべき者が死なない者を着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのである。「死は勝利にのみ込まれた。・・・」1コリント15章54節。
神は人を罰するのではなくて、人が献げる物で神の罰の身代わりとし、礼拝を可能にして下さいました。祭司はこの礼拝を滞りなく進めるように、神に代わって具体的に作業をする務めを与えられました。ですから、6節では祭司は「神に属する聖なる者」とまで言われています。祭司も生身の人間ですから、この務めには重い責任があり、重圧が掛かります。この21章はこの大切な務めを祭司が果たせるように、神が考えて決められた内容です。人の汚れ、闇、死から出来るだけ祭司を遠ざける内容になっています。
1-4節では、遺体から祭司を遠ざけています。5節の頭髪の一部を剃り上げたり、ひげの両端を剃り落としたり、身を傷つけたりするのは、死を悼み死に圧倒されていることを表現する行為でした。ですから、1-5節の内容を身にまとって、死と戦われる神の前に出てはなりませんでした。イエスが話された良きサマリヤ人の譬えの中で、祭司が通りすがりに、半殺しの目に遭って倒れている人を見て、助けずに通り過ぎたのは、その人がもし死んでいたら自分は祭司の務めを果たせなくなる、と判断したからでした。
10節の大祭司の場合も、死を悼んで髪をほどいたり、衣服を裂いたりする事が取り上げられています。11節では祭司に赦されていた家族の葬りに加わることが禁止されています。12節は聖所を離れることさえ禁止しています。これは大変厳しい命令です。
7節から9節と、13節から15節は、祭司の家庭のことが取り上げられています。神は遊女と、離縁された女と祭司が結婚するのを禁止しました。9節の万一祭司の家庭で育った娘が遊女になった場合、その娘を焼き殺せという命令は非常に厳しいです。これらは祭司の家庭が祭司の務めと切り離せないことを示しています。13-14節で再度、祭司は祭司の一族の処女とだけしか結婚できないとしています。そして15節、一族に汚れた子孫を残し、祭司を代々受け継ぐ営みを絶やしてしまう事を、神は何とか防ごうと言う思いから、この様に厳しく命じられました。いかに祭司職が重要であるかが伺われる所です。
17節以下の障害のある者に関する命令は、障害のある祭司を差別をしているのではありません。神は22節で、務めに就けない障害のある祭司の生活を保証しています。障害者は、神が賜る命を損なわせようと働く死の影響が目に見える形で現れていると考えられている様です。ですから、もし障害者が、死と戦われる神の聖所に献げ物を持って行くなら、死をもたらすことになります。この命令は障害者が命を失わない為に神が定められました。既にシナイ山に到着した時から神は民に柵から超えて神に近づくと命を失う事を、そして、神の前に立てる清めを受けないで近づく祭司は、主に撃たれることを警告されていました。
神にかたどって創造された人との交わりは、死によって損なわれてしまいました。そして、そのことによって土も呪われ、被造物全体にこの死の影響が広がりました。創世記3章の禁断の実の事件はそれを伝えています。しかし、神は人との交わりを求め続けられ、人を支配して人を失望に至らせる死と戦い、その死から人を、人だけではなくて被造物全体を解放する救いの計画を進められました。神は一つの民族を選び、彼らと交わり、彼らを真に生きるようにするために諸規定を定められた、それがこのレビ記です。
ヘブライ人への手紙は、イエスが全ての人のために死に打ち勝たれたことを伝えています。2章9節「神の恵みによって、全ての人のために死んでくださったのです」。14節「それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした」。私たちは、今礼拝できることの恵みの大きさを、ここを読んで今一度覚えましょう。
2024年10月10日
レビ記20章「神と人間の特別な関係」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★深刻な死
2節から死刑(石打の刑)が出て来ますが、3節と5節を読むと、民の裁判官が「この者は死刑に値する」と判決を下して、刑の執行を命じるのではなくて、それをなさるのは神ご自身であることが分かります。そして神は死刑のことを別の言い方をされています。3節と6節で「わたしはその者にわたしの顔を向け、民の中から断つ」と繰り返されています。
神の顔には民数記6章25-26節にあるアロンの祝祷の中に出て来る、憐れみと祝福の顔と、レビ記26章17節で言われている神の愛に対する否定を攻める顔があります。神には二つの顔があります。新聖歌230番「十字架のもとぞ」の一番の歌詞に「十字架のもとぞ、いと安けき、神の義と愛の会える所・・・」があります。イエスの十字架において、罪を裁く義なる神の顔と、独り子イエスの命を犠牲にしてまで人を愛する愛なる神の顔が合わさりました。今回私たちはこのレビ記20章で義なる神の顔を詳しく知ることができるのです。
「民の中から断つ」とは、肉体の死よりも深刻な死を意味します。私たちは肉体の死を越えることができません。しかし、神は死を越えて神であるお方です。神はイエスを死人の中からの甦らされたお方です。ですから、死後、この神に希望があります。だから、天国とか極楽とか人は色々希望を語れるわけです。しかし、民の中から断たれるとは、この神の関係が断たれるということですから、全く希望が無い深刻な死です。
エデンの園で起ったことを思い出してください。創世記2章16節で、主なる神は人に命じて言われた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」。3章4節で蛇は女に言った。「決して死ぬことはない」。実際、蛇の言う通り、食べてもその身に何も起りませんでした。しかし、神が伝えたい「死」は単なる肉体の死ではありませんでした。3章8節、二人は主なる神の顔を避けて園の木の間に隠れました。神との関係がおかしくなりました。神との関係が断たれるという死の方が深刻です。ですから神は死んではならない事を人を創造した時に一番最初に告げました(創世記2章17節)。
★特別な関係
こういうことを頭に入れてこの20章を読んで行くと、まず最初にモレクという神に仕えることを取り上げられる理由が分るような気がします。それは神の選び・関係から断たれるという死を招きます。6節や27節の神にではなくて口寄せと霊媒に信頼を置く、頼りにすることに対しても、それは死を招きますから大変厳しい罰則が与えられています。
5節と6節に「淫行」という言葉が出てきます。これも神が夫で民が妻であるという関係から言われている言葉です。淫行はその関係を破壊し、死をもたらします。
それから、「聖」という言葉も出てまいります。3節「聖所」、「聖なる名」、7節8節26節「聖なる者」、特に26節はこの「聖」が神と人の特別の関係を表す言葉であると伝えています。日本人は「聖」を、清らかな、汚点のない、近寄りがたいという意味に取りやすいのですが、「聖」は特別と言う意味に近いです。あなたたちはわたしのものとなるために、諸国の民から区別したのである。この区別は24節から26節にかけて繰り返されています。これは夫婦の関係のように他のいかなる関係とも一緒に出来ない、特別な関係です。23節の風習に従うかわたしに従うかと問うのは、この特別な関係を神が求めているからです。ですから神が20章の死刑に関する厳しい規定を定められたのは、この特別な関係が結べなくなる深刻な死に神の民を至らせないためでした。
★命と性
さて、神が人を神にかたどって創造されたことを、男と女に創造されたと、創世記1章27節で言い換えているのは、神との関係と人との関係が密接に通じているからです。男と女が深い関係を持つために与えられた性は、神とも関係しています。また、男と女から新しい命が誕生することも神と関係しています。
ですから、9節の父母のこと、10節から21節までの性のことはみんな神と関係しています。一夫一婦制の源は、人を聖別し、区別する神と人が特別な関係にあります。そしてそれぞれの性は命と切り離せません。そして、それ以上に神と切り離せません。9節以下の行為は神の賜物である命を踏みにじる行為であると共に、神との関係に死をもたらす行為となる、という考えが根底にあります。だから、死罪のような厳しい罰則が与えられています。
人間の理性で考えたり、倫理の問題としてここを読むと「ここまでしなくても」と思うこともあるでしょう。人間が人間にとって何が大切か人間の価値判断で考えるからです。私に命も性も与えて下さった神が考える、神と人との関係と神の価値判断に目を留め従う事がここで求められています。このお方に信頼を置いてこれからも従ってまいりましょう。
2024年10月3日
レビ記19章15~37節「神から隣人へ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★人の心を動かす
~してはならない。~しなければならない。そういう律法が続く中で、一際目立つのが18節「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」です。否定的で強制的な、それゆえ人を消極的にさせる命令と違って、これは人の心を動かす大変積極的な命令です。イエスが「この二つにまさる掟はほかにない(マルコ12:29-31)」と言われたうちの一つが、この18節です。また、使徒パウロはガラテヤ5章13-14節で「愛によって互いに仕えなさい。律法の全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」と伝えています。
★個人から公共へ
18節までの掟は、お互いに憎しみ合ったり恨み合ったり復讐し合ったりしない、つまり互いに愛し合うことを目指しています。15-16節の不正な裁判や、偏ったかばい、おもねり(人の気に入られるようにへつらう、取り入ること)、中傷(悪口を言いふらす)、偽証、心の中での憎しみ(17節)。これらは憎しみや恨みを生み、それが命に関わった場合、隣人の血を流す復讐を生み出します。17節では、その掟が破られるのを無関心に見ていて戒めないことは、同じ罪を負うことだと考えられています。これらは個人的に行われるものですが、公共的な影響をもたらすものとなり、その行きつく所は戦争です。
★神が創造者、人はその被造物
19節は神が創造者であることを覚えるために、定められた掟です。自然を治める任務を託された人間は、自然に手を下して改良することも出来ます。しかし、そこには「自然は自分の思うままにしていいのだ」と言う、神のものであることを忘れてしまう危険があります。ここでは改良することにより人間に便利になることよりも、神を覚えることを優先しています。現代社会にも問い掛ける内容です。便利さは被造物を単なる材料として扱う傾向へと進むことを神は御存じなのです。
同じく土地に関して23-25節、神が導かれるカナンの土地では、先住民によって豊穣の神バアルが信仰されています。豊穣の神はその地域での農業活動と密接に関係しています。日本でもその地域の氏神に豊作を祈る祭事があるのと同じですね。カナンに行って、先住民から色々情報を得て農業を始めるわけですが、5年まで収穫しませんでした。それは先住民の神々に関係なく、自分たちの手で天地創造の神を覚えて農業をして得た収穫に拘られるためでした。
★女奴隷を守る
20-22節は女性の奴隷に関する戒めです。当時は奴隷の売買が行われていました。しかし、奴隷には権利が与えられていました。神はシナイで、民に示すべき第一の法として奴隷についての法を示すよう、モーセに命じておられます(出エジプト記21章1節以下)。その7節以下に女奴隷のことが書いてあります。そこを読むと女奴隷は主人から食事と衣服と夫婦の交わりを受ける権利が与えられていました。この権利が守られない場合、女奴隷は無償で主人のもとを去ることができます。今回のレビ記では主人は女奴隷を新しい主人に売る約束をしていました。しかし、まだお金は払っていませんでした。そんな状況の中での性行為についての裁きがその内容になっています。この性行為は姦淫ではありません。その理由は女奴隷が自由の身ではないからです。姦淫は自由な身の男女が結婚以外で性行為をする場合です(申命記22章22節以下参照)。
二人は姦淫の罪には問われないが、主人に対して売る約束をしていた新しい主人に損害賠償金の支払いを命じています。また、主人の罪に対する賠償の献げ物による贖いを命じています。これらの命令は女奴隷を守る内容になっています。
★偶像礼拝から守る
26-31節は、異教の宗教や神々への習慣から偶像礼拝へ陥らないための掟です。血を含んだ肉を食べたり、占いや呪術、は異教の宗教によくある習慣でした。27節のもみあげの剃り落としと、ひげの両端を剃るのは、異教の礼拝者の習慣だったそうです。28節は、死者への宗教的行為です。29節は当時の異教にいた神殿娼婦のことです。30節、異教の色々な祭りが行われ、あちらこちらに聖所がありました。31節の霊媒と口寄せ(死者の霊を呼び寄せて、その意思を語る)による伺いは大変盛んでした。それでそういう事に関わらない戒めです。
★隣人愛を表す
32-36節は18節の隣人を愛することの実例です。老人を尊ぶとは、愛するに匹敵する行為とされています。また、神を畏れることは老人に対する態度で分かる、としています。在留異国人は社会で弱い立場にあります。その人たちを虐げてはならない、と言った後34節でより積極的に愛することを命じています。その理由としてエジプトで寄留者として苦しんだ中から助けられた経験をあなたたちもしたからだ、としています。35節以下で勧められているのは正直です。正直は愛を表す行為の一つです。偽りには愛が生まれません。なぜなら信頼がないからです。
★律法の素晴らしさと、それに答えられない惨めさの理解
神に愛されこの様に素晴らしい律法を与えられているのに、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」という使徒パウロの叫びと現実が私たちにはあります。ローマ7章19節参照。律法学者パリサイ派に属していたパウロの叫びは、このレビ記の律法を知っているがゆえの切実な叫びでした。24節の「わたしは何と惨めな人間なのでしょうか。」という叫びは、神に愛されこんな素晴らしい律法も与えられ、「わたしはあなたの神、主である」と言い続けてもらっているのに、その愛を信じないで罪の虜になるこの自分、この肉体を、だれが救ってくれるでしょうか、と言う叫びです。
律法の完成者キリスト
旧約の律法の素晴らしさが分かる時に,それを前にして答えられない自分の惨めさが分かります。わたしが来たのは律法を廃止する為ではなくて完成するためであると言われたイエス・キリストの言葉の意味も、旧約の律法が分からないと理解できません。律法の書モーセ五書は今で約半分ぐらいまで読みました。続けて読んで行きましょう。そして、イエス・キリストの救いの恵みにますます与らせて頂きましょう。
2024年9月19日
レビ記19章1~14節「わたしはあなたたちの神、主」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★神から隣人へ
この19章は、神の愛を受け、それに答えて隣人に向かうという、十戒と同じ神から隣人へという展開があります。2節「主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければ・・」。神がまず聖だから、それに答えてあなたがたも聖なる者、隣人を生かす者となることが求められています。神のかたちに神に似せての人の創造は、神に向かい合い応答する者、神の愛に答えて、隣人に向かう者に人を造ることでした。
★わたしに根拠がある
これは一般的な倫理と違います。倫理の根拠は社会の秩序維持にあります。しかし、この19章で言われている倫理的戒めの根拠は神にあります。そのキーワードとは、「わたしはあなたがたの神、主である」。この言葉が2.3.4.10.25.31.34.36節で八回繰り返されています。「わたしは主である」。この言葉も12.14.16.17.28.30.32.37節で八回繰り返されています。「これらの戒めの根拠は、このわたしだ、わたし以外にないのだよ」と神は強調しておられます。以下その内容を詳しく見て行きましょう。
★母と父
3節、隣人に向かう生活の基本は家庭にあります。まず子が親を敬う事を挙げています。原文は「母と父」の順番に成っています。家父長制度が強い中で、あえて母に特別の位置を与えています。母を尊重する家庭から、隣人に向かう愛の人が生まれる、と見ています。
★わたしの安息日
次に安息日を守ることが取り上げられています。七日に一日の休息は、隣人を無秩序に働かせる事から守ります。この休息は心身共に休む事です。また創世記1章が示すように六日間の業を振返る日でもあります。それは人生を考える日です。仕事から解放されて、自分の命の事を、どこから来てどこに行くのかを考える日です。命を下さった神に目を留め、神の愛に目を留め、神から与えられている恵みに目を留め、生かされている素晴らしさに目を留める日です。この様に自分が生かされて、隣人を生かすことへ向かわされる、これは十戒の目指すところですね。
今の時代は週休二日制や有給休暇などがあります。イギリスの企業では週休三日制も考えているそうです。しかし、安息日は企業の定める休暇制と違います。それで神は「わたしの安息日」と言われています。人を造った私が定めた安息日だ。この日は人に無くてならない日だ。人を造ったわたしがそう言うのだから間違いない。このわたしが定めた安息日を人から奪ってはならない。
★神の愛がベース
4節5節は神の愛を踏みにじる行為です。第一は偶像礼拝です。これは神にとっては姦淫的行為です。第二は間違った献げ物です。私達は人に贈り物をする時に裸ではなく必ず包んで贈りますね。その包み方にも相手に受け入れられる作法や愛の形があります。神に対しても同じです。神への献げ物を疎かにするなら、神との愛の関係は育みません。そして隣人との関係も育んでいくことはありえないのです。9節以下は隣人愛の戒めが続きますが、神の愛というベースあっての隣人愛である事を押さえて置きましょう。
9-10節は出エジプト記23章10-11節、申命記24章19-22節では、もともと土地を休める内容でしたが、ここで新しい意味付けが行われています。刈り尽くさない、摘み尽くさない、拾い尽くさない。残ったものは在留異国人、寡婦、孤児などの貧しい人々のために神から与えられた分とします。私達の生活の場ではどうする事なのでしょうか。考えてみて下さい。
★御名を汚すとは
11節盗み、うそつき、欺き、12節偽り誓う、これらは神がその相手の人に与えられた分を奪う事です。9-10節も同じことで、刈り尽くしたり、摘み尽くしたり、拾い尽くしたりすることは、神が貧しい人のために用意した愛の行為に泥を塗り、御名を汚します。
私達は気を付けなければなりません。自分の畑に実ったものは全て自分に与えられたものと見勝ちです。しかし、それが神の賜物であると考える時、その中に神が貧しい人の為に備えられた賜物も含まれているかもしれない、と言う視点が生まれて来ます。神はこの様に、人が与えたり与えられたりして、愛の関係を育んで生きるように造られたにちがいありません。
13節14節は私達に気付かない間に盗んだり奪ったりしてしまう事を伝えています。雇い人は、その日の賃金にどれ程労働者の生活が懸かっているのか見えなくなる面があります。健常者は耳の聞こえない人や目の見えない人の立場に気付かない面があります。全ての人の背後に神がおられるとする事が、神を畏れることです。
以上、これらの戒めを聞いて耳が痛い人が多いと思います。何と私達は神の愛に応え切れていない者であるかが指摘されます。これらの戒めを聞くのは辛い面があります。しかし、詩篇19編8-11節は、主の律法が、定めが、命令が、戒めが、畏れが、裁きが「金にまさり、多くの純金にまさって望ましく、蜜よりも、蜂の巣の滴りよりも甘い。」と歌います。何故なのでしょうか。
戒めを聞くのに辛い私達に対して「それでも、わたしはあなたたちの神、主であるんだよ」と神が言い続けて下さるからです。もし19章で16回この言葉が繰り返されていないなら、ここは私たちにとって読むのが辛い箇所となるでしょう。
2024年9月12日
レビ記18章「二人は一体となる、ただし」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★二人は一体となる。ただし・・・
1-5節が序論で、6-23節が本論で、24-30節が結論です。2節と30節の「わたしはあなたたちの神、主である。」は、性関係に関してわたしはあなたに対して、全責任と全権限を持っている者であり、そのわたしが命じているのであるという、宣言の言葉でサンドウィッチされ、信頼し切ってわたしが言う事に従えばよいのだよ、それによって命を得ることができるのだよ、と神の思いが込められています。そして、いとうべき性関係を持つなら、土地は、あなたがたを吐き出す(26節28節)と、繰り返されています。性関係と、天と地の創造主である神との深い関わりを示しています。
神は人に命を与え、その命が生かされ祝福されることを願って止みません。それで「ただし」という言葉を使われます。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。これはかって主なる神がエデンで最初にアダムに語られた言葉です(創世記2章16-17節)。
その後、聖書は神が定めた結婚の起源「こういうわけで、男は父母を離れ女と結ばれ、二人は一体となる(性関係を含む人間関係を結ぶ)創世記2章24節」を伝えて、2章を閉じ、3章の禁断の実の事件へと入って行きます。結婚によって二人が結ばれることを、一体となると表現しているのは、そこに性関係が位置付けられている、という事です。しかし、この性関係に対するただし書きはありませんでした。
姦淫の禁止は出エジプト記20章14節の十戒で初めて出てきました。そして、レビ記18章で、性関係に対する詳しいただし書きが示されました。なぜここでこの事が取り上げられているのか、その理由は2-5節と24‐30節から、これから神が連れて行く土地で遊牧生活から定住生活に移る時に、今までにない先住民や近隣諸国からの影響を受けることになるからでした。彼らは神がいとわれる性行為を普通に行っていたからでした。神の民は基本的に神との関係によって存在しています。だから、性関係に止まらず神がいとわれることを行うと、その基本の所が壊れてしまします。それで、今シナイの麓で神は性関係について、いままで言って来なかった「ただし・・・」の内容を取り上げられたのでした。7節以下は結婚から切り離された性行為の禁止を扱っています。
★性は神が与えられたプライベート
7節以下で注目して欲しい言葉は、「犯す」と「辱める」です。原語は「裸をあらわにする」という意味の言葉が使われています。これは性行為をぼやかせた表現です。ですから、レビ記18章では裸のことが取り扱われている所でもあります。結婚によってお互いがプライベートゾーンを分かち合います。創世記2章25節「人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」は奇妙な内容ですが、禁断の実を食べる前の人間を表しています。禁断の実を食べた後の人間は互いに腰を隠すようになりました(3章7節)。これが今の私たちの現実ですね。この時から人の体にはプライベートゾーンが生まれました。アダムとエバの結婚生活は実質エデンを出てから始まりました。4章1節でアダムは妻エバを知った。この知るとは互いのプライベートゾーンまで知り合う、つまり性行為を意味します。ここで初めてエバをアダムの妻と記され、エバが身ごもります。
結婚によらない性行為はそのプライベートゾーンを侵害することになります。神はそれをいとわれます。それによって人間関係に大きな傷が生まれます。彼らの生活は肉親同志という非常に密接で限られた中での生活でしたから、肉親間の性行為の可能性が高かったので7-18節が戒められています。それによって肉親間の人間関係が崩壊する事は、祝福を願う神が一番いとわれることです。
18節は妻に苦しみを与え、一夫多妻で夫婦関係が破壊されます。20節は姦淫です。
21節の子どもは児童なのか幼児なのか不明です。胎児ではないかと言われる人もいます。子どもに火の中を通らせてモレクの神のものにするという儀式がありました。22-23節にかけて性のことが話されているので、この「子ども」は性と関係しているのではないでしょうか。ある人はこの子どもは中絶された胎児ではないかと言います。または流産の子かもしれません。その子どもをモレクの神に守ってもらうために行われた儀式とも言われています。詩編139編13節以下は伝えています。流産や中絶の子も神の御計らいの中にあることを。だからモレクに献げる必要はないのです。また、水子供養する必要もないのです。「わたしは主である」。わたしに任せなさいと言われます。
22節は同性愛と言われています。しかし、現代の性同一性障害患者がこれに該当するかは確定できません。女と寝るようにとありますから、同性愛患者でなく性の欲求を満たす為に、行為を同性にするという神の定めた秩序を真っ向から乱すことを企てる人のことだと思います。23節の秩序を乱す獣姦との関連がある行為で、命とは無関係の性です。これは神の御心から完全に外れてしまいます。21-23節はイスラエルが与えられる土地の先住民の間で崇められていた神々と関係していたようです。彼らの神々は豊穣の神で生殖行為を祝福する神でした。それで神々の前で行われる儀式には色々な性行為が含まれていた様です。ですから、乱れた性行為はその神々へ向かわしめる危険が大いにありました。その意味で18章は神の民をその様な神々信仰から守る為に定められたと言えます。
★性行為は一番深い人間関係の中で行われる
これらの規定に載っていない色々な性行為が現在行われています。しかし、18章から私たちはその基本を抑えておきたいと思います。神が性を人に与えられたのは、人が命を得るためです。それは単なる生命の誕生に終わらず、その命が愛の関係の中で生かされ、神の祝福を受けることと関係しています。
今学校で行われている性教育は避妊がメインとなっています。性行為は愛の関係の中で生かされる互いの命のことや、その命を受継ぐという、非常に大きな責任と使命と祝福とに密接に関係している大切な事です。だから、結婚と言う深い人間関係の中で性行為は行われるべきです。神が私たちに望んでおられることは、18章5節「命をえること」です。
2024年9月5日
レビ記17章「命の血」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★聖なる者
17章から26章までに新共同訳聖書は神聖法集という副題を付けました。それは1節2節の始まりの言葉と、26章46節の終わりの言葉によって囲われた内容になっているからです。そして、その内容は16章までの神の祭司に対する指示ではなくて、民に対する指示に変化しています。それから、19章2節、20章7節26節、21章6節8節に繰り返されている「あなたたちは聖なる者となりまさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」、という言葉によって神聖法集という題が付けられています。
2コリント7章1節「愛する人たち、わたしたちは、このような約束を受けているのです (この約束とは16節で言われている、私たちが生ける神の神殿である) から、肉と霊のあらゆる汚れから自分を清め、神を畏れ、完全に聖なる者となりましょう」。
コロサイ1章22節「しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者としてくださいました」。
1ペトロ15-16節「召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。『あなたがたは聖なる者となれ。わたしは聖なる者だからである』と書いてあるからです」。
以下、レビ記も26章まで、生活のすべての面での指示が取り扱われます。
★礼拝の対象と場所
3節の動物をほふ(屠)るとは、食用の屠殺ではなくて献げ物の為の屠殺です。4-6節を読んで、献げ物に関して1-7章で詳しく書いたのに、ここでまた献げ物の基本的な内容が指示されるのはなぜだろうか、と思われたのではないでしょうか。今までは祭司に対する指示が主でしたが、17章から信徒に対する指示で、この様な基本的な事が指示されているのでしょう。そして、もう一つ理由があります。
実は、このレビ記はシナイ山の麓で神がモーセを通して命じられた事となっていますが、この書が編集されて今のような形になったのは、もっと後の時代で、祭司たちがバビロンに連れて行かれ異教の地で神殿礼拝が出来ない70年の間であったと言われています。エルサレムに帰って来たら神殿は破壊され、あちらこちらに異教の神々の聖所が復活していた、という状況でした。17-26章は長期間献げ物による礼拝から離れていた人たちに、再度その基本から指示するために、神が与えられたものと考えられます。
要するにイスラエルがヨルダン川を渡ってカナンに到着した頃と同じことをここで指示されています。7節の山羊の魔人という神のことは、過去の過ちを指摘しています。神殿を完成させたソロモン王でさえ、エルサレムに他の神々のために聖所を築きました(列王記上11章7-8節)。定められた聖所の臨在の幕屋の入り口いる祭司以外の所に献げ物を持って行ってはならない、と命じています。4節、他の神に献げる為に屠る行為は、流血の罪つまり殺人と同等と見なされ神の民という関係から切り離されます。8節は彼らの下に寄留する者も同様としています(以下、10節13節も。元々エジプトで寄留者であったイスラエルは、彼らの所に寄留している人たちを彼ら自身と同じと考えるべきである、と神は認識しておられます)。
5-6節、動物は祭壇の前で祭司によって屠られ、その流された血(人の命の血の代わりの動物の血)を和解の献げものとし、油は主を宥める香りとして燃やして煙にします。7節で改めて不変の定めとしています。以上、神がここで厳しく言い渡されているのは、他の神々に献げることは、民を愛して止まない神に対するを淫行と見なし、あってはならないことだった。
さて、私たちが礼拝を献げる相手は誰でしょうか。父のふところにいる独り子である神、イエス・キリストを通して示された神です(ヨハネ1章18節参照)。献げる場所はどこでしょうか。「わたしは道である」と宣言された神に通じるイエス・キリストがおられる所ですね(ヨハネ14章6節参照)。
★肉にある命
礼拝生活の次は食生活です。肉を食べる時の注意がここにあります。11節、食べる肉に含まれている血の中に、肉(生き物)の命があり(創世記9章4節参照)、神はその血を礼拝者の命の代わり、身代金、贖いとされました。それによって神と人の礼拝が可能となります。これが神と人の関係の要ですから、血は贖いの為だけに用いられるべきで、他の事に、先に言われている他の神々に献げてはならない、に止まらず食物と死されてもならない。それで神はこの様に厳格に規定されました。この旧約聖書から、ユダヤ教やイスラム教では今も、肉を血抜きして食べる戒めが守られています。それからもう一つの血を食べてはならない理由は、血を命と同一視する事から来ています。
古代から屠殺と礼拝は関係深く、屠殺の度に神への献げ物としての儀式が行われました。そこには命が神さまからの賜物であるという基本的な考えがありました。13節の血を大地に注ぎ出し、土で覆い、決して他の神々に献げてはならない。これらの血に関する規定違反者は、10節、14節で民から断たれます。15節以下の既に死んだ動物に対しては、その血がどう処理されたのか不明なので食べることが禁止されています。食べた場合、神の前に立てない汚れた状態になるので、清めの規定が当て嵌められています。
★命の主
イエス・キリストが神の小羊となり、その血によって私たちの罪の贖いとなられた今、状況は一変しました。動物の血は贖いにはもはや使用されません(ヘブル9章12-14節)。ですから、血に関する規定はもはや不要です。ただし神から賜った命の尊さという基本的な考えの方は、昔以上に現代強調されるべきです。イエス・キリストの御血によって、スッポンの生き血を飲んでも、血を含んだお刺身を食べても、輸血しても心配はいりません。あえて菜食主義になる必要もありません。キリストにあって古い物は過ぎ去って、全てが新しくなりました。2コリント5章17節、エフェソ2章14-15節参照。「聖書の通り」という信仰は一見正しいように見えます。しかし、注意しましょう。ヨハネ5章39節「あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。」とイエスは言っておられます。私たちは、御子イエス・キリストの血によって贖われた恵みよって歩ませていただきましょう。(1ヨハネ1章5-7節)。
2024年8月8日
レビ記16章「神との接点:年一回の贖罪日」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★16章の構造
1-2節 贖罪日制定の発端
3-10節 贖いの儀式の準備
11節 アロン自身と祭司一族のための贖い
12-19節 至聖所、臨在の幕屋、祭壇のための贖い
20-28節 祭服を来た祭司と民のための贖い
29-34節 贖罪日制定の言葉
★発端
10章の祭司の死亡事故の後、神は祭司の務めについて15章まで詳細に述べ、15:31に「あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないように、あなたたちの中にあるわたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい」と、祭司に対する指示の総括がされていましたが、16:1は再び事件直後に戻ります。なぜなら、祭司自体の汚れという問題が残っているからです。祭司アロン自身も例外ではありません。主の御前に立てない汚れた者が祭司を含めて私達人間なのですから。10:16-20のモーセとアロンのやり取りでアロンがその問題をほのめかし、モーセも納得した事が書いてありました。
ですからあの事件で贖いの座、神との接点が汚された件に対してもはや誰も手が付けられない状態でした。道は一つ、その一番中心の神との接点贖いの座から、すなわちあらためて、一から清められなければなりませんでした。16章で主が声を掛けて下さいました。それが年に一度、イスラエルの人々のためにその全ての罪の贖いの儀式の制定でした(34節)。
★幕屋の中心は贖いの座(贖いの箱のふた)
3節からまず、この儀式を行う祭司アロンは聖なる装束に着替え、民全体の贖罪の献げ物を受け取る。6節、アロン自身も自分と一族の為の贖いの儀式を行うため、贖罪の献げ物を引いて来る。7節、民から受け取った雄山羊二匹の内の一匹を主のもの、一匹をアザゼル(これは「ゴツゴツした」と「強大」の合成語で、その意味には色々な解釈がある)のものに、くじで振り分けておく。11-14節で、アロンと祭司一族の為の贖いの儀式のために雄牛を屠ります。
次にその血を持って幕屋に入る前に、手いっぱいの香草の香を主の御前にある祭壇の炭火を使って焚き、それを持って垂れ幕の奥、贖いの座がある至聖所に入って、雲のごとくに香の煙で主が臨在される贖いの座が見えないようにし、死を招かないように準備する。それから、屠った雄牛の血で贖いの座を贖う。15節は同様に民が携えた贖罪の献がものも屠ってその血を振り撒いて、贖いの座を贖う。16節、こうしてイスラエルの人々の全ての罪による汚れと背きのゆえに、至聖所のための贖いの儀式を行います。幕屋から出てきたアロンは次に19節までで祭壇の贖いの儀式も行います。20節、幕屋全体が清められます。
21節、次に自らと民の心のうちにある罪を告白して、その罪責をアザゼルのために取り分けていた雄山羊に背負わせて荒れ野に追いやる。ここは日本の雛流しと重なります。
預言者イザヤは53:6「わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪を全て主は彼に負わせられた」、とイエス・キリストを預言しました。このアザゼルの山羊とイエス・キリストに重なる点があります。
23-24節、アロンは着替え、自分と民のために焼き尽くす献げ物と罪のためのいけにえの脂肪を燃やして、芳しい祈りの煙を天に上らせて儀式は終ります。26節以下は、この聖なる儀式に関係した者や衣服、動物の後始末の指示です。
このようにして清めが終り、贖いの座での神とのコミュニケーション(神との接点)が回復されます。これらは幕屋の中で祭司によって行われるのですが、民全体の問題なので、29-31節で民自身もこの期間身を戒める(苦行をする)と言われています。身の戒めとは断食ではないかと思われます。断食は狩りや収穫、料理、食事、後片付け等すべてしなくてよいので、一日の仕事の大半が無くなります。民も幕屋内で行われている贖いの儀式に、その日注目して過ごします。31節、年に一度の大切な儀式です。最も厳粛な安息日とあります。この日から神と共なる一年が始まるとも言えます。
23章で主の祝祭日がまとめて記されています。その27-32節にこの16章の贖罪日のことが書いてあります。
★イエス・キリストによる接点の回復
私たちにとっての贖いの座、神とのコミュニケーションの場、神との接点とはどこでしょうか。それはイエス・キリストご自身です。1コリント1章30節「このキリストはわたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。キリストは大きく三つのかたちで私たちの神との接点となって下さいました。①同じ肉体をとって②苦しみを受け十字架につけられ死にて葬られ陰府に降り③死人の内より甦り天に昇り。ヘブライ10章22節「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています。信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」。私たちは「わたしは道である(ヨハネ14:6)」と言われたキリストを通して、父のもとに行けるようになりました。このキリストによって神に近づき、神と結ばれ神の民以上の神の子とされます(ガラテヤ3:26)。
★現代の祭司
さて、神が贖われた民を立てられたのには目的があります。全被造物を贖うという壮大な計画です。救いは個人の魂の事柄で終わりません。私たちは全被造物を贖うという神の広大なご計画に加わる様にと選ばれました。1ペトロ2章9節は私たちが、選ばれた民、聖なる国民、神のものとなった民であるだけではなくて、聖なる祭司と伝えています。贖いの業は幕屋の中で行われています。それを見ているのは祭司だけです。しかし、それを見ていない、幕屋の外にいる者も無関係ではありません。祭司は彼らを代表して今見ています。キリストによって贖いは完成し神は全てのものと接点を持たれます。全てのものは神のもの、神に握られています。決して罪や死に握られているのではありません。私達は全被造物を贖うという壮大な計画の祭司(スタッフ)として立てられています。
2024年8月1日
レビ記15章「神が与えた性の使命と責任」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
10章の祭司ナダブとアビフが規定に反した炭火をもって主に香を焚いて死を招いた事件が発端となって、聖と俗、清いものと汚れたものの区別する祭司の任務に対する指示が続きます。「以上、・・・に関する指示である。(11章46節、13章59節、14章32節、54節)」。15章はそれらの祭司に対する指示の締め括りで、31節に「あなたたちはイスラエルの人々を戒めて汚れを受けないようにし、あなたたちの中にあるわたしの住まいに彼らの汚れを持ち込んで、死を招かないようにしなさい」と、総括の言葉を付け加え、32-33節「以上、・・・に関する指示である」で終わっています。
アダムとエバの禁断の実をためた物語は、人間の根底に「神さまとの生活はどうでもよい、神さまとの関係はどうでもいい」と言う考えがある現実を表しています。それでアダムとエバが木の間に隠れて神の前に立てなくなりました。神の民はこの現実を決して忘れてはなりませんでした。それで神は、御前に立てる状態の清いと、立てない状態の汚れを区別し、清い状態を保つ指示をする任務を祭司に定められました。
食物は食文化と関係します。カナン定住時、食生活を通して先住民文化、特に偶像礼拝との関りが生まれます。神との関係がそれによって軽視される恐れが多分にあるから食物の指示が行われました。皮膚病やカビ等が生じる現実はどうでもよいことではありませんでした。それは神の創造の業、祝福の業である人間の肉体、物の存在に対して目見見える形で真っ向から対決する現象と、捉えられました。しかし、人にはどうすることもできません。これに対して無関心であり、そのまま置き去りにするとは、神に対して無頓着であり、神のことはどうでもよい、ということになります。これでは神の前に立って礼拝出来ません。それでこの現実が起った場合の指示が行われたのでした。
さて、15章の性は12章の出産と関連しています。神は人を男と女に創造されました。それぞれに与えられた性は神からの賜物です。それ自体が汚れているのではありません。その神から与えられた性をお互いがどう用いるかで、汚れが起こります。12章では、女性の性に対する社会的な配慮で出産後の休息が定められていました。また、それは産後女性の体が回復するまでの期間、性生活の相手である夫の自制の定めでもありました。
この15章の始めは男性の性を扱っています。神は性を祝福のために与えられた。その神の祝福の言葉が「産めよ、増えよ、地に満ちよ」であることは、性の祝福が子孫継承であることを示しています。子孫繁栄ではなく子孫継承です。性はただの子どもを作る道具ではありません。夫婦を生かし、家庭を築かせ、家族を形成し、次世代に神の祝福された生を継承して行くという総合的な視点があります。この様に性には人間の根本的な責任と使命が伴っています。ですから、結婚と家庭から分離した単なる欲望を満たすための性は神の祝福の意図から外れます。
性器に感染する病気は、以上の点から神の祝福の計画に対して真っ向から対決するものといえます。ここは淋病のことだと言われています。淋菌は性器から尿道に入り炎症を起こさせます。これは精子を作る器官にまで伝染し、女性にうつると不妊症にもつながります。ですから性病感染者は汚れている(神の前に立てない)とされました。隔離して感染予防します。13節以下はそれが完治したのを確認した後、祭司が儀式を行って彼の清さを証明します。
16-18節は精液を漏らした場合のことであろうと思われます。創世記38章9-10節に、オナンが子種を地面に流す場面が参考になります。亡くなった兄エルの性の責任を弟オナンが代わって果たす為に兄嫁に子孫を与えなければなりませんでした。しかし、彼は精液を地に漏らせて責任のある性行為をしませんでした。それが主の意に反すること(汚れ)であったので、彼は主に殺されました。31節では汚れが死を招くことを注意しています。
この所から祝福のための精液を漏らすとは、神が人の性に与えた責任と使命に対する認識不足のままでは、神の祝福の意図に反する、神の前に出られない汚れ、という考えが生まれたのだと思います。18節はその様な自覚の足りない夫婦の性生活に対する警告でもありました。現代は医療が進歩し、性のコントロールが行なわれていますが、この神の性に対するお考えに人は注目が必要です。1コリント10章31節、コロサイ3章17節参照。19節-24節は生理期間中、性行為を自制することを男性側に求めている所です。
25節は婦人病の場合です。新約聖書に登場する12年間も長血を患った女性を思い出します。女性の病気はなかなか表ざたにしにくいものであり、配慮されない場合が多かったのではないでしょうか。生理期間、出産、婦人病、これらの女性に対して、儀式への出席や、仕事からも解放され、隔離は安静を与える機会ともなったと思われます。その間の彼女達を養うのは当然男性の務めであったと思います。これがそれぞれに性を与えて創造され祝福された男女の互いの愛と配慮の関係であり、これが無いなら神の前に出られないという考えが表れています。
あの新約の長血を患った女性の物語は、この関係が崩れた社会問題をも表しています。マルコ5章26節は彼女が多くの医者にひどく苦しめられたとあります。それは身も心も傷つけられたのでしょう。また全財産も医者から取り上げられたようです。ヤイロの娘の命を死なせてまで、この女性のためにイエスが時間を取られたのは、神が祝福の為に与えられた性を、病が呪いに変えている現実が如何に大きな問題であるかを示しています。28節以下の清めの儀式は、彼女が正常に戻ったことを祭司が公に証明します。これらの規定は、神の民が愛の共同体であることを表しています。
2024年7月25日
レビ記14章「清くなれ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★きよいと認定する
前回は、「重い皮膚病」と翻訳されていたツァーラートという原語が、神に打たれたという意味であったことを学びました。それは神と共にいることができない状態、礼拝できない状態で、祭司によって「汚れている」と認定されます。「清い」とはその反対の神と共にいて、神を礼拝できる状態を言います。ですから、汚れた人たちは神が共におられる宿営の外で生活しなければなりませんでした。何人かに一人がこの皮膚病を負うのですから、言い換えれば身代わりです。宿営の中にいる人は常に宿営の外にいる人のことを忘れては成りませんでした。神がこの規定によってこの現実をあからさまにされたのは、神と人間の間に壁がある事を表し、33節では家屋のカビも「汚れている」と認定し、神と被造物全体の間に壁がある事を表されました。
★上からの救いが必要
13章はツァーラートの汚れたものであることの認定方法で、14章は一旦認定されたものを解除して、反対の清いものであると認定する方法が書いてあります。結びの言葉である14章54節を読むとわかります。ですからここには救いはありません。人には上(神)からの救いが必要なのです。
★生活と礼拝への復帰
祭司が行う清めの儀式が清くするのではありません。この儀式は、宿営の外のツァーラートの様子を調べ、清くなっていることを確認して、それを公に証明する儀式です。この儀式は「清い」とはどういうことなのかを示しています。それは2-9節の生活への復帰と、10-31節の礼拝への復帰です。
2-9節、自分の天幕に戻って生活に復帰するには七日間要しました。まず、祭司の診察で治っていることが確認されます。確認できたら清めの儀式に入ります。この儀式は基本的に、この人間から汚れが取り除かれたという事を象徴しています。新鮮な水と生きている清い鳥の血が、その人に完全数である七度振りかけられます。新鮮な水と生きている血には命があり、そこには力があると昔から考えられていました。それを振りかけて汚れが完全にこの人から出て行ったことを祭司は視覚的に告げました。
杉は香柏と言われ香りのきつい木です。ダビデが自分の宮殿の内装材にレバノンの香柏をふんだんに使ったのは、そのきつい香りが汚れを追い出すという当時の考えがあったそうです。緋糸は紅色の糸で血の色です。先程言いました血は命の力です。この力が汚れを追い出します。ヒソプも花と葉に刺激的な香りがあり、その刺激が汚れを追い出します。祭司は臭覚的にも告げました。7節、儀式の終りに、血を振りかけるのに用いられ残った一羽の鳥は、新鮮な水、血、緋糸、ヒソプとの関りを持って、野に放たれます。この鳥は汚れがこの人から完全に運び去られたことを証しします。以上が清めの儀式です。8-9節の、二度の体毛剃り・衣服の水洗い・水浴は、ツァーラートだった人の新しい生活の始まりに相応しい。これでその人は自分の天幕に戻って普通の生活が許されます。神は普通の生活が普通でない事を諭されます。
さて、それで終りではありません。次の日、八日目にその人は臨在の幕屋の入り口の主の御前に立たたねばなりません。10-31節で、その人が礼拝者として回復したことが祭司によって公に宣言されます。この回復を贖いと呼んでいます(20節と31節)。贖いは羊の血、すなわち、命によって行われます。罪過のためのいけにえ、罪のためのいけにえ、そして、全焼のいけにえが献げられます。贖いの血が本人の体に塗られます。そして、油は命、祝福の象徴です。まず、主に振りまかれ、次に贖われた者に塗られ、主の祝福がその人の全身に注がれたことを示しました。
21-31節は貧しい人の場合の儀式が書いてあります。羊2匹は鳩二羽に代用し、小麦1/10エファ(2.3ℓ)は免除されますが、羊1匹とオリーブ油1ログ(0.3ℓ)はどうしても必要とされています。今まで学んで来た中で、貧しい者に対しては鳩が代用として認められた場合がありましたが、羊1匹だけは認められていません。それは「神に打たれた」というツァーラートがどんなに大きな問題であったかを表しています。これらの献げ物の準備のために共同体は本人をサポートしたに違いありません。礼拝への回復はこれらの儀式によって正式に告げられます。神は礼拝できる恵みを諭されました。
★人だけの救いではない
33-53節は家屋に生じたツァーラート(神に打たれたもの)についてです。判定基準は37節壁の内部まで及んでいるかです。38節、家屋の一週間封鎖と七日後の検査で患部がこれから広がってゆくものであるかどうかを確認します。39節、広がっているならば、悪いところは全て解体撤去後、町の外で処分します。この家屋に関する規定はテント生活後、家屋を建てる時代が想定され、宿営の外ではなくて町の外となっています。そして42節、家は補修されます。悪いところを全部取り去って、補修して再発するかどうかを待ちます。44節までその方法が書いてあります。そして、再発した場合、その家屋が汚れていると宣言されると、家は完全に壊しされ廃材の全てを町の外に搬出処分します。皮膚の場合には、このようなことはありません。人の場合は完全には消滅させられません。
もし補修してツァーラートが発生しなければ、その家は清いと宣言されます。これは皮膚病が治ったに相当するものです。その場合の清めの儀式は人の場合と同じです。家の場合は元の生活への復帰はあっても、礼拝の復帰はありません。53節家屋の場合清めの儀式は贖いの儀式と言い換えられています。これら石、木、土も贖わなければなりません。贖いの救いは人間にだけ必要なものではなくて、被造物全体に必要であることを示しています。私たちはローマ8章19-23節の、クリスチャンと被造物が体の贖われる、最終的救いを待ち望んでいる、という使徒の言葉を思い出します。
また、ツァーラートの人に触って「清くなれ」と言って癒されたイエスさまが、もたらされた救いの大きさに目が開かれます。マタイ8章1-4節参照。預言者イザヤは53章5節「彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」とイエスの事を預言しました。イエスはツァーラートを代わって担われ、神に打たれたのでした。それによって清いめの認定と救いの両方がここで揃いました。新約聖書でツァーラートの人に「清くなれ」と言うお方が来られた福音に私たちは気付かされます。恵みですね。
2024年7月18日
レビ記13章「体の贖われること」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★差別を生んだ病
「皮膚病」「重い皮膚病」「かび」等と翻訳されている語を口語訳は全て「らい病」と訳しました。しかし、現在それは改訳されています。らい病(現在はハンセン病と言います)は、その名前によって差別が行われて来た歴史があります。その為に患者は隔離され人間として生きる権利を取り上げられて来ました。感染を恐れられて来たが,その菌は最も感染率の低いという事実が最近分かりました。しかし、外観に現れる症状のゆえに、広がった差別の輪を消すのが非常に困難を極めた歴史があります。また、日本の政府自体も彼らに対して隔離政策を長年実施して来ましたが、今彼らの社会復帰とその保証問題をやっと国として責任をもって取り上げることとなりました。
★医学と衛生の問題ではない
13章には湿疹、斑点、疱疹、発疹、白癬、患部、炎症、皮下組織、等の用語も出て来て、大変医学的です。また、隔離、水洗い、焼き捨てる等は、衛生的な内容になっています。しかし、聖書はここで医学と衛生のことを取り上げているのではありません。宿営の中央に幕屋を建設して、神がただ中に住まわれ、神と共に生きる為の礼拝規定がこのレビ記です。幕屋の周りに宿営する人たちの生活で最も大切なことは医学でも衛生でもなく、この礼拝が正しく保たれ、神と共に生きることです。それで神が聖であるから礼拝する者も、その者が住む宿営全体も聖でなければならなかった。その反対の汚れたものがあってはならなかった。
★ツァーラート
原文では「皮膚病」と「重い皮膚病」と47節以下の「かび」は全て同じ言葉が使われています。そのヘブライ語「ツァーラート」は「打つ」という動詞から生まれ語で、神に打たれた者、あるいは物という意味です。それ程にこの皮膚疾患は強烈な外観でした。罪や過ちを犯した者の場合は、贖いの儀式で関係が回復されました。しかし、神が打たれたものを人はどうすることもできません。神に打たれたものは礼拝に参加できませんし、宿営の中に存在することもできません。それで祭司は神に打たれた者を「汚れている」と公に宣言し宿営の外に移動させました。また物は洗浄や焼却などの処置をしました。
★朽ちるべき肉体
45節その者は「衣服を引き裂き、髪を見だし・・・」これは死に直面した時に嘆く方法の一つです。レビ10章6節参照。「口ひげを覆う」のも同じです。エゼキエル24章17節参照。46節独り宿営の外で住まねばなりません。宿営の外で住むとは神の民にとって死んだ者を意味します。布や革はその意味で焼き捨てられます(52節)。大変残酷です。しかし、神と人間の深い溝という現実を隠さなかった、と言うことです。祭司は「この人は、あるいは、この物は汚れている」と公に宣言しなければなりませんでした(3節以下多数)。赦しを宣言したり,清まったことを宣言する祭司の立場と違って、この汚れの宣言を命じられている祭司の立場を思う時に、これは大変つらい務めであったに違いありません。また、この祭司の務めによって、救いとは単なる宗教的な感情の高揚とか、安心とかいう問題で終わるのではなくて、被造物の肉が朽ちて滅んで行く現実(ローマ8章18-25節)からの救い(からだの贖われる事)であることに、民の目が開かされ、へりくだって神に祈らずにはおれなくしたのではないでしょうか。
★からだの贖われること
さて、なぜ皮膚病が神に打たれたことになるのでしょうか。肉が何かに冒され腐敗するというのは、先程のハンセン病の様に人の目に大変強烈な印象を与えます。神が創造されたものが腐敗して行くというのは、神が打たれたとしか考えられない出来事に映ったと思います。他にも病気がありました。しかし、皮膚病は外観にもろに出ます。それにしても、その人自身は無関係であってその体だけが病んでいると考えられなかったのでしょうか。
聖書の人間理解は、身体と精神を分けたりしませんでした(それを分けた代表はギリシャ哲学、霊肉二元論)。人間は体も精神も一体です。ですから、皮膚病はその人自身の存在と分けて単なる病気とは考えられませんでした。その人の存在自体が神に打たれた、という理解をしました。
神に打たれた状態とは、表面的な炎症ではなくて、皮膚の皮下組織まで病が浸透していることでした。ですから、毛根も病に冒されるので髪の毛の色や剃った後の髪の毛が正常に生えるかどうかで、病が皮下のどの辺まで至っているかを判断しました。また、日程を置いて綿密に観察するのもそれを調べるためでした。隔離は伝染防止というよりも、汚れている(神の前に耐える状態ではない)かも知れないための隔離です。
人だけではなくて衣服や革につくカビも腐敗であり、その菌の浸透具合で神に打たれたものとして扱われました。14章33節以下には家屋に生じるカビも取扱われています。これらに共通していることは、被造物の腐敗です。ここに彼らは神が打たれたという認識を持ったのでしょう。このことは私たち人間の現実を象徴しています。人は腐敗して行く者です。腐敗は人にはどうすることもできません。エジプトはこの腐敗に抵抗して不死を目指して、ミイラを生み出しました。このミイラ自体、現代の私たちに、腐敗は人にはどうすることもできないという現実を伝えています。
★イエスの十字架
これらから、イエスが重い皮膚病の人々を癒された奇跡、四日たって腐っていたラザロの肉体の復活の奇跡が、救いの完成の到来を示すどんなに大きな出来事であったかがあらためて分るのではないでしょうか。そして、イエスがこの腐敗する肉となられたクリスマスの出来事もこの救いと関係していることになります。そして、改めて使徒が伝えている言葉に思いを馳せます。ローマ8章22-23節「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています。被造物だけではなく、霊の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体(この腐敗する肉体)の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」。
宿営の外に「汚れている」と宣言された人たちがいることを、宿営の中にいた人は決して忘れてはなりませんでした。この現実に対して何もできない、人の限界を神は目の当たりにさせられます。救いを心から神に求めさせるために。本当は自分も神に打たれても仕方のない罪人である。人とはどういう立場に立っているのか思い知らされ、生かされている自分の生き様が問われました。その為に神は身代わりに打たれた人の存在を公にされました。ここには差別の差の字もありません。
ある人が言いました。「何万人に一人という難病や障害を与えられた人は、いつの時代にもいる。その人たちの存在は身代わりということを表している。彼らを可愛そうだと思うのはおかしい。この現実は自分の生き様を問おいていると、思わねばならない。神の子イエスはこれらの人たちの所へ福音を携えるために城壁の外(宿営の外と同意)で十字架につけられました。この13章は皮膚病の話しで終わらない、イエスによる救いに関る内容が含まれている重要な所です。イエスキリストの恵みによって、今の教会では、神の前に立つことのできない者、汚れた者は、一人もいません。レビ記で命じられている律法は凌駕されました。
2024年7月11日
レビ記12章「神の前に立つ清さ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
エデンで禁断の実を食べたアダムとエバが、神の足音を聞いて木の間に隠れた物語は、人が聖なる神の前に立てない現実を示しています(創世記3章8節)。しかし、エデンの園から出て行った二人を、神は目を留め、関り続けられました。神は人を放っておけない、愛の神です。しかし、神と人の距離は離れたままでした。
時至って神はその距離を縮めるために、これまでに無い行動を取られました。出エジプト記はその神の行動の記録です。神は「わたしのために聖なる所を彼らに造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう(出エジプト25章8節)」と言われました。神の住まいが出来上がり、これから始まる神と共に住み、神と共に旅する生活について、神は神の民に詳しく説明されました。それがこのレビ記です。
この書には「汚(けが)れ」と、その反対の「清い」という用語が頻繁に出てきます。日本の宗教においてもこの用語が出てきます。しかし、意味は違います。日本のそれはよごれて不潔な状態である、あるいは悪霊との関わりがある、という意味で汚(けが)れが使われます。「穢れ」とも書きます。清いはその反対の穢れていない状態のことです。
しかし、このレビ記では神の前に立てる状態であるかどうかの指標として、「汚れ」や「清い」という語が使われています。
例えば、出産を聖書は神が下さった恵みと捉えます。2節では月経のことも言われています。女性に月経があり、男性との性的な交わりがあり、そして、受精し妊娠し出産する。性も結婚も神から与えられた恵みです。日本は古来から、月経や出産における出血は不潔なもの汚れたものと考えますが、旧約聖書では「血」は「命」を意味します。ですから、性は命と密接な切り離せないものと捉えます。
ではなぜ、月経中や出産後のある期間、聖なる幕屋に入って神の前に立てない汚れた者と言われているのでしょうか。日本でも神社の聖域への立ち入りを禁じています。理由は血が汚れているからです。しかし、聖書の神は違います。聖所や幕屋の聖域に入る行為は、個人的なことではなくて共同体的な公的な行為、務めでした。神は生理中の女性、出産後の女性をその行為、務めから解放させる理由でこの12章の規定をモーセに告げられました。現代の生理休暇とか産休に近いと思われます。
ですから、その定められた期間が終わって、聖所や幕屋に入る前に、焼き尽す献げものと贖罪の献げものがなされ、今まで離れていた女性がこれから再び神の前に立つ事になる、という確認の時が持たれました。それが終わって彼女は再び神の前に立てる状態、すなわち清い状態になります。
神の前に立てる清さは人が努力して得るものではなくて、神が与えるものです。ですから、ポイントはその神から与えられた清い状態を維持することでした。汚れている期間は、清めを目指す期間だから、きよめの期間と言いました。日本では人を清い、穢れている、とかに分けて人間の差別を生んだ歴史がありますが、聖書の神はそんな差別を嫌われる神です。
また、男児より女児出産の場合、汚れている期間、神の前に立つ務めから解放される期間が二倍になっています。理由は定かではありません。私の想像では、産後ケアの実質では同じ期間で良いのですが、男児の場合は八日目に神の民の一員のしるしである割礼を受けなければなりませんでした。お母さんも公に立ち会いますから、おのずと前日までの七日間までが汚れている期間となったのでしょう。その間産婦は家事育児から解放され、赤ちゃんの世話に徹します。そして、八日目以降40日目迄、公の務めからは解放されますが、家の中で少しづつ日常を取り戻して行きます。当然夫の助け、家族の助けが必須です。ですから、この規定は妻だけではなくて特に夫に対する規定でもありました。女児出産の場合、汚れの期間がそれぞれ倍である理由は依然不明なのですが。
さて、この期間を終えた夫婦は神の前に立てる日を迎えます。献げものを携えて神の前に向かいます。ルカ2章22節の「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるために、エルサレムに連れて行った」日の事を私たちは思い浮かべます。マリアとヨセフの場合、初子なので出エジプト記13章で定められている初子奉献をしました。動物の命が贖いの代償として献げられます。また、今日のレビ記12章6節以下で定められている清めの期間完了時に献げる、焼き尽す献げものを祭司に手渡し、祭司がそれによって贖いの儀式を行ないます。そして、彼女が確かに神の前に立つことが出来る清い者であることを祭司が証明します。
生まれた子を育て始める時に、夫婦が臨在の幕屋の入り口に行き、贖いの儀式を受ける時、人はあらためて贖われなければ神の前に立てない、父も母も子も、家族揃ってその事を確認するのは、非常に重要ですね。
2024年7月4日
レビ記11章「聖なる者になれ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
神は民と共に歩むために、必要だったのは単に幕屋を用意するだけではなくて、その幕屋で献げ物をしなければなりませんでした。なぜなら、幕屋の周りに宿営する民は罪(神に反抗し神から離れようとする存在)を持っていたからです。について1-7章で指示されました。そして、8章では、幕屋内で実際に受け取った献げものを神に献げる祭司を任職しました。そして、9章では祭司による最初の献げものが実施されました。ところが10章で祭司が大事件を起こしてしまいました。それで10章においてモーセはもう一度祭司の務めについての認識の徹底を図りました。その務めは大きく二つありました。①10章10節a「あなたがたのなすべきことは、聖と俗、清いものと汚れたものを区別すること」。これは11-16章で詳しく記されています。②10節b「またモーセを通じて主が命じられたすべての掟をイスラエルの人々におしえることである」。これは17-27章で詳しく記されています。ですからこの書は祭司のために書かれたと言っても良いでしょう。これが書名に祭司の職を受継いだレビ族の名が付けられた理由です。
11章全体の構造は以下のようになっています。
・1-2節 初めの言葉、
・3-23節 食べてよい生き物。
・24-40節 接触による汚れ。
・41-43節 食べてはならない爬虫類と、その接触による汚れ。
・44-45節 この規定が与えられている理由。
・46-47節 終りの言葉。
まず44-45節のこの規定が与えられている理由に注目してください。
「聖なる者」とは、神聖さや清らかさというよりも「他と区別する特別な」「聖別」という意味が強い言葉です。だから44節で「あなたがたは自分自身を聖別して、聖なる者となれ」と言われました。まず神が神の民に対して他と違う特別な者となり、他と違う特別な関係を持たれました。だから、彼らも神に対して他と違う特別な関係を持ちなさい、この私のあなたがたに対してとった特別な関係に、今度はあなたがたがわたしに対してとる関係で応えなさい、すなわち、自分自身を神に対して聖別しなさいと命じられました。神が如何に彼らに対して特別な関係を持たれたかを考えると、この要求は無理な要求ではなくて当然の要求でした。この旅の終着点、約束の地に到着した時、神が先住の民族を追い出したり皆殺しにしたりする程に徹底的に同化しないことを要求された理由も、この自分自身を聖別して聖なる者となるところにありました。
神はまず食物規定を取り上げられました。食物が違えば生活も違ってきます。2-8節、食べても良い地上の動物は、ひづめが完全に分かれて、反芻する牛、羊、山羊などでした。これらは遊牧生活をしていた彼らが以前から食べていた動物です。神はそれに限定して、定住生活をしていた先住民の食文化に入って行かないようにされました。現代と違って当時は食べる事に必ず宗教的な行為が伴っていました。ですから、約束の地に入った時に、先住民の食文化に入らないことで自分自身を聖別する事を神は彼らに要求されました。9-12節の水中の動物も、13-19節の鳥類、20-23節の昆虫も同じ理由からでした。
この規定を守って、神の民は神に対して特別な関係とって聖別しました。聖俗の俗とはその特別な関係をとらないふるまいのことでした。生活の中のこまごました点においても、清いと汚れで区別しました。当時、先住民や諸民族に囲まれた中で、彼らの文化や宗教にどうかせず、自らを区別して神の為に聖別し聖なる者になることが、彼らの信仰の大きな課題でした。
24節以下は、それらの動物に触れること、死骸からも距離を置く、汚れた食器や竈の破壊、貴重な水での洗浄や洗濯、夕まで身動きが取れない等、徹底した同化防止策です。それ程に当時の先住民や定住民族の生活には神々が関っていました。この様に読んで来ると、ますますこれらの規定が、神が民に対して特別な関係を結んで下さったという発端によって生まれたものである事が分かります。その発端に対する応答として、民も自分自身を特別な者とするために、徹底した同化防止策に従いました。
さて、今の私たちには食物規定がありません。神から遣わされたイエスはそれを廃棄なさいました(マタイ15章16-20節)。イエスは人の口から出てくる、心から出て来るものが人を汚すと言われました。また、使徒ペトロも食物規定で汚れたものとされていたものを、神が清められた事を示された、と証しています(使徒10章9-16節)。神の独り子イエス・キリストが来られたことで、神は人との関係を全く新たに飛躍させられました。ですから、それに対する答え方も、レビ記が示す規定は凌駕され、全く新しい応答の仕方が生まれました。
神はかつての民にレビ記の色々な規定を与えて、約束の地、誘惑に満ちた地に住まわせられました。同様に私たちも今、神によって世の只中で住まわせられています。それでイエスが「あなたがたは地の塩である。世の光である」と宣言されました。私たちには人との付き合いがあります。人と関わる仕事があります。神はそこに私たちを置かれます。そこで、聖なる者になるとは、どうすることでしょうか。
私たちはイエスが後の夜になさった祈りに注目しましょう。「真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世に遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。ヨハネ17:17-19」。隠遁生活や食物規定によってではなくて、イエスは御言葉によって聖別し、聖なる者にして下さい、と父なる神に祈られました。使徒パウロも次代を担う指導者テモテに、御言葉の宣教を命じた(2テモテ3:15b-4:2)。私たちクリスチャンにも「聖なる者となりなさい」と勧められています。その発端は旧約の人たち以上の神からの特別の対応にあります。それはイエス・キリストによって現わされた神の愛と希望です。それに答える方法はレビ記が記した内容ではありません。それらを凌駕して、御言葉に対する応答が求められています。明け渡し献身ですね。それによって自身を聖なる者、聖別するのです。御言葉に対する態度が問われています。
2024年6月27日
レビ記10章「聖なる神に相応しい礼拝」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
神が民と関係を結ばれるために、指示された幕屋での祭司の務めである献げ物の初執行が9章で無事に終わり、神と民とが共に歩む生活がスタートしました。ところが、すぐにその関係の根本を揺るがす大事件が起こりました。皆さん、聖書って、これがよく起こるんですよね。例えばエデンの園で神とアダムとエバの生活が始まった最初に大事件が起こりましたね。今回主の御前から火が出て、アロンの長男ナダブとアビフを焼き、彼らは主の御前で死にました。父アロンと母、三男エルアザル、四男イタマル、4節にはアロンの叔父ウジエルの子でミシャエルとエルツァファン、もちろんアロンと兄弟であるモーセやミリアムもいました。家族親族は驚きと悲しみで大変だったと思います。
しかし、モーセは遠い親族のミシャエルとエルツァファンに、遺体を宿営の外へ運び出させました。それは献げ物として不要なものや、灰を捨てる場所です(1:16)。焼却場(4:12)とも言われる所です。ですから家族親族で葬ることはできませんでした。
モーセはアロンに2節で慰めの言葉ではなくて、神が彼の息子に死をもたらされた理由を率直に告げました。アロンには言葉がありませんでした。モーセはアロンの三男と四男に対して、6節で髪をほどいたり、衣服を裂いたりする、死や苦難を悼む行為を禁止しました。モーセの甥っ子の死は親族との死別以上に重大な事件だったからでした。
ナザレン教団が発行しました教会学校の学びの友「希望」誌の、2002年夏号の聖書概説で、故頓所師はレビ記の意義について次のように書いておられますので、紹介します。 『レビ記は、聖なる場所における礼拝の規定と形式を述べている。「聖なる神」に相応しい「聖なる礼拝」の要求が本書の基調をなしている。本書には、「聖」という語が旧約聖書中、最も多く現れる。罪深い人間がいかにして、いと高き聖なる神を礼拝できるのか、これが本書の最大の関心事である。神との交わりの一大障害となる罪を除くことが、全ての献げもの眼目なのである。特に、16章の「贖罪の日」の儀式がレビ記の儀式の頂点をなしている。』
聖なる神と罪ある人が共に生活するのに最も重要な問題が罪です。罪があると神は共にいることができません。それで、この罪の贖いの為に神は献げもの規定とそれを執行する祭司制度を定められました。9章ではそこに礼拝の原点があることを学びました。それが正しく執行されることが、神と人の共同生活の、また神の民の存在自体の基盤でした。エゼキエル16章は、その神の民のズーッと後の時代の姿であるエルサレムに対して、その存在を可能にしたのは、この私であると訴える神の思いを伝えています。16:3-6を読んでみましょう。
この10章のアロンの息子の罪は、命じられた通りに儀式をしなかった罪でした。その背景には儀式に対する軽視があり、それは聖なる神との関係の軽視でした。エゼキエルが言う、神との関係によって今の自分、今の家族が成り立っている事の重大さの認識不足がありました。アロン達が息子の死を悼んではならず、葬儀にも出てはならなかったのは、イスラエルの全体に神の怒りが及び、6節後半では、あなたたちの兄弟であるイスラエルの家の全てがアロンの息子たちと同じ様に、主の火によって焼き滅ばされることを悲しまねばならない事を、モーセは幕屋内にいるアロンとその三男四男に警告しました。そして、モーセは彼に自分たちの立場がどんなに重要であるか(9-11節)、どんなにそれに忠実でなければならないかを諭します。7節の「あなたたちは主の聖別の油を注がれた身である」というのが強調されました。すなわち、聖とされた彼らだったのに、誤った方法で香を焚いたために、その聖が俗・汚れに変質してしましました。
彼らは非常に責任ある立場に召されたのでありました。しかし、そんな彼らを主が必ず養なわれることを12節から15節で献がられたものの中から祭司の分として定められている規定を告げ、ただ忠実にその召しに相応しく歩むよう勧めました。特にモーセは意気消沈しているアロンとエルアザルとイタマルに穀物の献げものの祭司の分でパンを焼いて今食べることを命じました。食べて元気を出せとの事なんでしょうか。あるいは、神聖なパンに与れとの事なのでしょうか。そして、モーセは神聖なものである贖いの献げものの肉を、贖罪の儀式をしたエルアザルとイタマルが食べないで焼き尽くしてしまった規定違反したことに怒りました。しかし、アロンはモーセに問いました。主の前に罪を犯してしまった者がどうして神聖なものを食せましょうか。果たして主は喜ばれるでしょうかと。モーセはそれを聞いて納得しました。
さて、問題は罪を犯した祭司を今一度贖罪の儀式をして聖としなければ、聖なる神に仕える祭司の任を果たせません。それで本来なら聖書はこの後、16章に続きます。「アロンの二人の息子が主の御前に近づいて死を招いた事件の直後、主はモーセに仰せになった」。ここにおいてもう一度幕屋の全てと祭司全員の贖いの儀式が行われます。祭司の不完全さゆえに毎年一回、贖罪日と定め、これを行う事となりました。これは時至り、完全な祭司イエスさまが来られるしるしでもありました。
1コリント1章30節「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです」。この様に読んでくると、神の聖と私たちの罪に対する認識が問われているように思います。このレビ記10章が伝える厳しさは神が罪と徹底的に戦われる方だということです。罪の恐ろしさが分る時、この罪と徹底的に戦われる神さまこそが信頼すべき方であることに気付くでしょう。
それにしましても祭司職がどんなに重い責任を担っているか驚かされます。罪があると贖いの業ができないのです。そして聖なる神がただ中に住まわれる事は、贖いが無い場合滅ぼされることを意味しました。ナダブとアビフは過ちを犯しました。そして、幕屋で行われる贖いの業を無にし、イスラエルの全家族に滅びをもたらすこととなります。だから、神さまはこの二人を犠牲にされました。民の罪の贖いのためにこの二人は犠牲となったのです。彼らが宿営の外へ運ばれたことは、贖罪の献げ物や後のイエス様の十字架と共通しています。神が彼らを火で滅ぼされたのは彼らの中にあった罪のゆえでした。そして、イエスが十字架につけられたのも私たちの罪のゆえでした。
今は、大祭司イエスのうちにある(結ばれている)なら(2コリント5章17節)、その人は新しく造られた者です。この大祭司のうちにあって(ローマ12章2節)心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかわきまえる者にきよめて頂きましょう。
2024年6月20日
レビ記9章「礼拝の原点」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
この9章は1章からの話の頂点です。ここで実際に今まで述べて来た献げ物を聖別された祭司が献げます。レビ記の森の中に私たちはだいぶ深く入って来ましたが、今もう一度森全体を見ましょう。レビ記は、シナイ山の麓でモーセが幕屋を神の指示通りに設置させた直後に、主の栄光が幕屋に満ち、その時主がその幕屋の中からモーセを呼んで、仰せになったことを記した書でありました(出エジプト40:33-レビ1:1参照)。
主はなぜ幕屋建設を命じられたのでしょうか。主は出エジプト記において二度に渡ってその理由を告げておられます。ちょっと振り返ってみましょう。
出エジプト記25章8節「わたしのための彼らに聖なる所を造らせなさい。わたしは彼らの中に住むであろう」。
29章45節「わたしはイスラエルの人々のただ中に宿り、彼らの神となる。彼らは、わたしが彼らの神、主であることを、わたしが彼らをエジプトの国から導き出した者であることを知る。わたしは彼らの神、主である」。
皆さん、殆どの人は、自分で神を自分の神とします。しかし、聖書が伝える神は違います。神が人と親しい関係を持って、人の神となるために、幕屋建設を命じ、彼らのただ中に住まれました。レビ記9章4節6節23節で神が顕現され現れるのは、人を驚かす為ではなくて、神が関係を持たれ彼らの神となられたことを示すためでした。日毎に献げものを献げて幕屋の中でそのことが日々起こりました。8章まででその為の準備が整えられ、祭司アロンの任職後八日目に人々は最初の礼拝をしました。それが9章です。
民が神より命じられた通りの献げ物をした後、24節で主の御前から出た炎が祭壇の献げ物をなめ尽くされました。全ての献げ物を神が受け入れ、民との関係を結ばれた現実をそれによって表されました。民はそれを見て喜びの声をあげました。この最初の礼拝には三つの原点があります。
①民が献げものをささげる。
②神がそれを受入れ、関係を結ばれた現実を表される。
③それに応えて民が喜びの声をあげひれ伏す。
現在の私たちの場合はイエス・キリストの十字架によって、この9章で献げられている祭司の献げものである無傷の若い雄牛と無傷の雄羊、イスラエルの人々の献げものである無傷の雄山羊、無傷の一歳の雄の子牛と子羊、雄牛と雄羊、穀物の献げ物は、完全に献げられています。そして24節の主の前から出た炎は、イエス・キリストの死体に働いた神の復活の力と対比し、神は私たちを受け入れ関係を結ばれた、すなわち神の子とされた事を表しています。では私たちは今どのような礼拝が求められているのでしょうか。
私たちはローマ12章1節以下で、使徒パウロが伝えているクリスチャンの礼拝内容に注目しましょう。「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそあなたがたのなすべき礼拝です」。
使徒は私たちの礼拝も、①と②と③であることを伝えています。イエス・キリストを通して神の憐れみを受ける私たちの礼拝も、①献げもので始まります。心や精神や魂という、目に見えない私たちの一部、それは目に見えるものよりも優れているような考えがあるのですが、そしてそれをほとんどの宗教が求めているのですが、使徒パウロはそれを求めていません。「自分の体」を献げることを勧めています。非常に具体的ですね。頭、手、足、目、口、それを使って得られたお金や物、与えられている時間や場所、もちろん心や精神や魂も含めて、つまり自分の全てを献げます。つまり、神に対して自分をオープンにする事ですね。
それは神が悲しまれるものであってはなりませんし、他のものと同じではなく特別なという意味で聖なるものでなくてはなりませんし、過去に死んだものではなくて今生きているものです。それをレビ記9章で言われているいけにえの動物を準備したのと同じ思いで献げるように勧められています。
なぜなら、今も礼拝者の心の中に、罪の負い目に対する心の葛藤があるからです。礼拝で罪が赦され神に受容されている事が宣言され、それを聞いた礼拝者に変化が与えられます。それが喜びの叫びであり、ひれ伏す事です。そして生活の場へ向かいます。使徒パウロはローマ12章の1節でその勧めをした後、15章まで相応しい生活の場での歩み方を伝えています。礼拝は生活の場へ派遣を目指しています。自分の全てをオープンに献げ、神がそれを受容し、喜びを生み出させ、遣わされる。皆さんの礼拝生活が祝されますように。
2024年6月13日
レビ記8章「贖罪は必須」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
1-7章は献げ物についての指示で(7章37節参照)、その指示通りに従って献げ物が献げられるのが9章です。その前に、幕屋でのこの行為を実際に行う祭司たちの聖別がどうしても必要でした。祭司の任職とはこの聖別のことでした。その時に共同体全員が集められます。祭司の任職が共同体の一人一人にとって重要なのは、一人ひとりが神と共に歩むのに贖罪が必須だからでした。それは聖別された祭司によってのみ可能であり、間違いなく行われなくてはなりません。4,5,9,13,17,21,29,34,35,36節で、『主の命じられた通りに行われた』と繰り返されているのはそのためです。
①聖別を受ける者が必要なものを携えて来る。これらの準備が大変であった事は以下の出エジプト記の箇所を読むと分かります。28章39章に指示されている祭司が身に着ける衣装の材料を揃えなければなりません。30章23節以下の聖別の油は、5.5キロのミルラの樹脂(没薬)と、シナモン(肉桂)、菖蒲、桂皮それぞれ2.25キロと、3.6リットルのオリーブ油を調合して作ります。
②水の清めは出エジプト30章17-21節にあるように青銅の洗盤で行われます。
③アロンが祭服を着ます。
④聖別の油を注いで幕屋とその中の全ての物を清めます。
⑤アロンたちがこれから行う主な作業である献げ物を献げる祭壇が、まず油で聖別されます。11節の「七度」の七という数字はこれから何度も出てきます。レビ記では七度とか、七日とか清めに必要なこととなっています。
⑥アロンの頭に油を注いで聖別します。
⑦その子らが祭服を着ます。
ここで第一部が終わります。
⑧贖罪の献げ物である動物を献げます。罪を贖う儀式によって血で祭壇を聖別します。これで血と油で聖別したことになります。次に脂を宥めの香りとして煙にし、あとはアロンとその子らの贖罪のために肉が焼却されます。幕屋で行われる最も重要で根本的な贖罪の作業に従事する祭司自身の贖罪が問題だからです。
⑨の儀式を神に受け入れて頂きたいと言う願いを、燃やされた煙に託して天へ届けます。
⑩任職の献げ物を献げる。内容的には3章の和解の献げ物に準じています。ただ、血を祭司の右耳たぶ、右手の親指、右足の親指に塗ります。これは身体の右側、すなわち身体を支配する側の上、中、下に血を塗って、肉体全体を血で清め聖別するところから来ている儀式だと言われています。これらの三つの儀式の執行者はモーセです。祭司はまだ聖別されていませんから執行できません。
⑪血と油でアロンとその子らとその祭服を聖別します。
献げ物の食事を臨在の幕屋の入り口で食べます。これは神との和解の共食です。
以上から、任職の儀式の中心は清め聖別にありました。贖罪の業を行う祭司に罪の汚れがあっては、その業は無効になってしまいます。それでまず祭司の為の贖罪が為されねばなりませんでした。七日間というのはレビ記における聖とされる期間です。作業の慎重さとその量が昼夜を徹して行う内容なのでしょう。また、清め聖別ということですから、その完全さを求めるので、途中の休憩や空白はあってはならないのでしょう。交代々で寝ずの番をしたのでしょう。また、35節の「死なないためである」は、出エジプト19章12節で主が御臨在したシナイ山に触れると殺されるのと同じく、この任職式も主の御臨在の内に行われるので、そのままだと殺されてしまうので清め聖別したわけです。
さて、クリスチャンは主イエス・キリストの贖罪の恵みに与って、神と和解し、キリストの血によって清め聖別され(Ⅰヨハネ1章7節)、御臨在(聖霊の内住)の内に置かれます。将来は用意された天の父なる神の家で住まうために、キリストが私たちを迎えに来られます。イエス・キリストの十字架による贖罪がどんなに大きな恵みであるかは、このレビ記が伝えている事を抜きにしてはあり得ません。
また、私たちは祭司ではありませんが任命聖別清められています。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです(ヨハネ15章16節)。真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。わたしは、彼らのために、わたし自身を聖め別ちます。(ヨハネ17章17、19節)。
神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです(Ⅰコリント12章18節)。神は、教会の中に色々な人をお立てになりました(Ⅰコリント12章28節)。彼らには聖霊の賜物が与えられていました。Ⅱテモテ4章1-5節は任職按手礼式の時に語られる御言葉です。按手礼を受けたテモテが弱った時にパウロは手紙を出しました。Ⅱテモテ1章6-14節でテモテの神に与えられた恵みのこと思い起こすよう指示しています。ローマ12章3-8節も神から与えられた事を思い起こして教会の秩序のことを語り、教会は慎み深くなくてはならない事を強調しています。
レビ記の任職の記事は現代の私達と無関係ではありません。イエス・キリストの贖いによって、今神の御臨在の中を歩んでいる私達は、パウロが言う思うべき限度を超えない慎み深さをもって、すなわち御霊の導きに従って、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、柔和、節制をもって、それぞれの信仰生活を送ることが求められています。
2024年5月23日
レビ記7章「神と人と献物」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
皆さん、レビ記は1-7章で献げ物に関する定めを記しています。神と民が共にこれから歩むのに不可欠だったからです。五種類の献げ物がありました。おさらいしますと、①焼き尽す献物②穀物の献物③和解の献物④贖罪の献物⑤賠償の献物。
この中で①だけは献物の全てを焼いて煙と灰にします。②③④⑤はその一部をそうします。主の御前にささげられた献物は神聖なものですから、残ったものをどうするかが問題になって来ます。それを6‐7章で扱っています。
1-10節、⑤の賠償の献物の残ったものは祭司の家系につながる男子が聖域で食べます。④贖罪の献物の残りは、罪を贖う儀式を執行した祭司のものとなります。①焼き尽す献物も動物の皮が残ります。それは献物をささげた祭司のものとなります。②穀物の献物の場合は、かまどで焼いたパンと平鍋や鉄板でつくられたパンは、それをささげる祭司のものになります。小麦粉にオリーブ油を混ぜたものや、粉のままのものは全て、祭司の家系であるアロン家の全員に公平に分担されます。
11節以下の③の和解の献げ物についてです。和解の献物は脂肪と腎臓と肝臓が燃やされます。そして、胸肉は祭司の家系のアロン家の人々で分けられます。右後ろ肢はその献物の血と脂肪をささげた祭司のものとなります。そして、ほかの部位はささげた人が持ち帰って食べます。
和解と感謝の献物はささげられた日に食べ翌朝まで残してはならない。和解の献物を満願や随意の献物としてささげる場合は、二日間で食べ、三日目に残った肉は焼き捨てなければならない。なぜなら、18節以下に理由が書いてあります。二日以内と言う規定に反した者は、神に受け入れられず、その肉は神への献物とはみなされず、不浄な肉になるからです。この肉を食べることは罪を負うという事になります。
19節以下は汚れについてです。汚れた信徒は神聖な肉を食べてはならない。それに対する罰は厳しい。幕屋の中で行われれる行為によって生まれる神聖さが決して犯されてはならないのです。それは神の臨在に関るからです。イスラエルという共同体は、この神の臨在によって支えられている存在だということです。これは今の私たちの信仰共同体にとっても真に重要です。マタイ1章23節、18章20節、28章20節、ヨハネ14章23節、使徒18章10節参照。
22-27節は信徒の日常の食事に関してですが、動物の脂肪は燃やして主に献げるものと同じ物質ですから、一般の食事からも除外されました。動物の血も同じです。3章17節、17章10-11節参照。これらの食物規定はキリストの贖いによって不要になりました(マルコ7章18-22節、ローマ14章17-21節、コロサイ2章16節)。
29節以下は3章では示されていない和解のいけにえの祭司の分の定めです。胸の肉と右もも(後ろ肢)。それは単なるお礼や謝礼ではない。34節にその分け前は主イスラエルから取って祭司の子らに永遠の分け前として行われると、その直接性を強調しています。
31-36節で祭司の分は、繰り返し言われている程に重要視されています。アロンの祭司職は同族のレビ人に受け継がれ、レビ族には嗣業が与えられない代わりに、その生活の資は主と各部族から与えられました。この7章29節以下、特に34節の主の直接の言葉は、各部族が主から嗣業を賜ったことと同じく軽視されてはならない重要なことであったと強調しています。現在の聖職者の養いは、一般の講演者等に支払われる謝礼となっていますが、考えさせられます。
神の臨在に必須の献げる行為は、人間を造られた神が願っておられたことでした。エデンでアダムに土を耕かせられたのも、アダムが収穫物を神に献げる日を期待していたからではないでしょうか。しかし、その反対の禁断の実を彼らは奪いました。そして彼らの子どもが後に神に献げ物をささげ、神はそれに目を留められました。私の憶測ですが、あのエデンの出来事は神にとって忘れられないできごとだったから、その時は喜ばれたでしょうね。しかし、神は罪が人間を支配している事も見ておられ、長男カインの献げ物に目を留めることをとどめられましたね。
献げ物の規定をレビ記はまず最初に記しています。それが幕屋で行われることだからです。すなわち、人が神と共に生活する中で必須なのが献げることです。幕屋、神殿、教会、と変遷してきましたが、そこで行われる基本は献げることだということをレビ記はわたしたちに伝えています。私たちは何を献げているのでしょうか。どのような思いを持って献げているのでしょうか。考えさせられるのが、このレビ記です。
2024年5月16日
レビ記6章「キリストにおいて聖が人の中へ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★幕屋内の聖への対応
1章から5章まで献げ物について述べられた後、6章はその施行細則、つまり実際に幕屋の中で献げ物の儀式を行う祭司に対する細かい指示で(6章2節18節アロンとその子らに告げてこう言いなさい)、7章は祭司ではなくて献げ物をする信徒に対する指示となっています。献げ物は聖なる幕屋の中で行われます。そこで人は神の聖と、どう向き合うのかが指示されています。その内容は現代の私たちの礼拝生活(神と共にする生活)に多くの示唆を与えてくれるでしょう。
★常時の犠牲 2-6節では、三つのことが指示されています。
①祭壇の炉の上に献げ物を絶やしてはならない。以前、出エジプト29章38節以下で神は日ごとの献げ物として、朝夕に焼き尽くす献げ物を毎日一匹ずつ献げることを命じられましたが、今回神はその夕の献げ物に対して夜通し燃やし続けることを追加指示しておられます。幕屋におられる神と、その周りを囲む形で民が共に生活するには、常時の犠牲が必要だからです。私たちの場合は、キリストが永遠の犠牲・贖いを全うして下さいました。
へブル7章27節「この方は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために毎日いけにえを献げる必要はありません。というのは、このいけにえはただ一度、御自身を献げることによって、成し遂げられたからです」。
へブル9章12節「ご自身の血によってただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられたのです」。
へブル10章11-18節「・・・罪を贖うための供え物は、もはや必要ではありません」。ですから、常時の犠牲が不要になっている恵みを、私たちは決して忘れてはなりません。そして、私たちの為すべきことは、このキリストから決して離れない。どんな時もこのキリストの恵みを信じて、神に向かい、大胆に恵みの座に、神に近づくことですね。
★火を持ってご自身の臨在を現す神
②祭壇の上の火は常に絶やさず燃やし続けなければならない。2,5,6節と繰り返されています。9章で祭司アロンが指示された通りに献げ物を初めて献げ終わった時、24節「その時、主の前から火が出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪とを焼き尽くした」。また他にも、ギデオンが士師記6章21節で「主の御使いは、手にしていた杖の先を差し伸べ、肉とパンに触れた。すると、岩から火が燃え上がり、肉とパンを焼き尽くした」体験をしています。またエリヤがバアルの預言者に対して列王記上18章24節で「そこであなたたちはあなたたちの神の名を呼び、わたくしは主の御名を呼ぶことにしよう。火をもって答える神こそ神であるはずだ。」と提案しました。38節「すると、主の火が降って、焼き尽くす献げ物と、薪、石、塵を焼き、溝にあった水をなめ尽くされた」。この様な体験から、祭壇の火は主の火、主の臨在を表し、それはイスラエルにとって非常に重要であった。そう言えば聖霊が降臨された日に、弟子たちは火の様なものを見たと新約聖書が伝えています。この火も主の臨在を表していますね。
★聖なるものと民の分離
③燃え滓の処理です。火が主の臨在と関係するのであれば、その燃え滓も主の臨在と関係します。朝、祭司が燃え滓を集める時、亜麻布の特別の服を着て、肌が触れないように隠しました。幕屋を出て宿営の外へ燃え滓を処分しに行く時は、また別の服に着替え、燃え滓が民と接触しないよう指示がされています(4節)。聖なる者は祭司以外の人とは厳格に分離されていました。
7-11節、穀物の献げ物の一つかみは主に献げ、残りは祭司に与えられるのであるが、その残り物の食べ方について神の指示があります。酵母を入れないパンにして、聖域で、祭司であるアロンの子らの男子だけが食べます。その理由として、10-11節そのパンは神ご自身が彼らの分け前として与えた神聖なもので、触れる者はすべて聖なるものとなるからです。酵母は変質させるもので真実でない象徴でした。それは聖なるものに相応しくありません。世俗の食事と区別し、聖域でしかも一般信者は食べられないことで、その神聖さを証ししています。
13-16節は祭司アロンの任職時に祭司全員が献げるべきもので、それは残らず全部燃やしてしまいます。残して自分のものにしてはならない。
18-23節は贖罪の献げ物についてです。4章1-21節の指示は6章30節にあるように残った肉は食べずに灰捨て場で全て焼き捨てますが、4章22-35節ではその献げ物の残った肉に対する指示がありませんでした。それをここで指示しています。その残ったものは神聖なものだから、6章19節、祭司だけが聖域で食べます。20節、献げ物の血も神聖であり、衣服についた場合、その洗濯は聖域で行い、21節、使った土鍋は打ち砕き、青銅鍋は磨いて水でゆすぎます。以上から、神聖なものが幕屋以外に不用意に出ないように注意されています。
以上、聖なるものは一般人の生活の場から分離されていました。
★聖の卑賎
さて、聖と言えば私たちの救い主、神の独り子イエス・キリストとこそ、その最たるものです。キリストの受肉は、言わば聖が幕屋を越えて人間の生活圏に入る出来事でした。フィリピ2:6-8「キリストは神に身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」。聖餐式のパンと杯でそのキリストの出来事を思い起こす時に、使徒パウロは1コリント11章27-29節で「ふさわしくないままで主の体と血」に与る罪の事を伝え、自分の行いの吟味を求めています(ガラ6:4)。つまり、聖が幕屋を越えたのは、人を造り変えるためです。だから、ガラテヤ6章は最後に「大切なのは、新しく創造されることです」と結び、祈りで終わっています。
2024年5月9日
レビ記5章「重荷からの解放」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★罰と責めを負う事からの解放
1節は証言するのを拒否した人が負う罰のことを取り上げています。彼は罪の犯行を見聞きし、被害者が呪う声も聞いていたのに、誰かに脅かされたり、賄賂をもらったり、負い目があったりして、証言できなかった人のことです。彼に罰が与えられる、と言うよりも彼がその罰(あるいは咎と翻訳されたりもする)を耐える、持ち続ける、罪責感の様ないつまでも彼に付きまとう重荷の事を、レビ記5章は取り扱おうとしています。
2-3節は汚れに関する罪です。この罪は19章2節の主の言葉「あなたたちは、聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なるものである」によって生じる罪です。汚れたものに気づかずに触れた場合、責めを負います。人体から生じる汚れの場合は、気づかずに触れたことを知るようになった時に、責めを負います。
4節は軽はずみな誓いのことが問題となっています。創世記24章8節でアブラハムの僕が、故郷からアブラハムの息子イサクの嫁を連れて来ることを誓いました。その時にその誓いが効力を持っていて、ある条件を満たさなければ解かれない、と書いてあります。またヨシュア記2章で遊女ラハブが二人の斥候に誓いをさせます。その時に二人は20節で彼女に、その誓いが解かれる条件を話しています。
新約聖書でヘロデ王は娘に「願う物は何でもやろう」と誓った時、娘に「ヨハネの首を」と言われて驚きまた。誓いは取り消せません(マルコ6章26節)。また、ペトロはイエスを三度否むが、最後は誓い始めたとマルコ14章71節は伝えます。鶏が三度鳴くのを聞いて、『しまった』と思っても、彼の誓いは取り消すことが出来ませんでした。軽はずみな誓いは罪であって、その責めを負わねばなりません。
以上三つの具体的な罪が問題にされていますが、共通して繰り返し言われているのが罰や責めを負うことです。罪の赦しとは、その負い目からの解放です。その方法が神によって支持されています。6節、罪を告白します。自分の内面に隠している罪を外にさらけ出します。それから代償の献げものを祭司に渡し、祭司が贖いの儀式を行います。当然その儀式を見せられます。今日読んで頂いた所には動物の命が無残に犠牲にされます。命である血が注がれます。罪の重さが見せられます。そして、罪が赦されます。
人は、罰と責めの重荷を負う存在であり(動物はそんなことが無い)、そこからの解放が必要な存在である。創世記のエデンで起こったアダムとエバの事件は、この人間存在の根っこにある部分を伝えています。神はその負い目からの解放者として、裸でエデンを去る彼らに皮の衣を着せられました。
★個人を越えて全体の問題としての罪
7節以下と11節以下は、経済的な格差に関係無く、全ての人がその負っている罰と責めから解放されなければならない事を神は示しておられます。この背景に、罪は個人の問題ではなくて、全体の問題と捉える点があります。その例として、レビ10章6節は祭司達の罪から、共同体全体に神の怒りが及ぶことを言っています。民数記16章21節では、罪を負ったコラ、ダタン、アビラムのゆえに共同体全体が滅びることが告げられています。申命記21章8節では、犯人不明の殺人が起った場合も共同体はその罪がイスラエルにとどまらないように祈っています。ヨシュア記7章24節以下では、アカンの罪によってイスラエルの人々が神から激しい憤りを受けています。アカンと関係する全ての人はアコルの谷に運ばれ断たれました。
罪の共同体的な認識を新約で使徒パウロがアダムとキリストの関連で告げています。ローマ5章15節「一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば」18節「一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されるように」。しかしパウロはその逆の「一人の正しい行為」「一人の従順」という、キリストによる恵みの共同体的な認識を伝えています。この罪と恵みの構図は既に創世記18章のソドムの物語で「ソドムの町に正しい人が十人いるならば、その十人のためにわたしは滅ぼさない」と言われた所にも表れています。罪を個人だけではなくて全体の問題であることとしています。イエスが負われた罪の大きさを改めて知らされます。
★人に対してとは、主に対して
14節以下では過って犯した罪の中でも、主や人を欺き偽る内容の場合、賠償の献げ物が命じられます。15.16節では奉納物に関して欺く人がいたようです。奉納物はレビ族のものとなりましたので、その欺きによってレビ族が実際に損失を被りました。その場合賠償の献げ物は1/5割り増されました。17-18節は主の戒めを一つでも破ることが、主に対して賠償の責めを負うとして、その重大さを示しています。20節以下は一般人が損失を被る場合です。賠償で終りではなくて、罪の贖いも行われます。つまり、それらが主を欺くことであると捉えます。人を欺くことは主を欺くことであると言うベースがあるから、主イエスがマタイ25章40節でおっしゃいました「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」が生まれてくるのではないでしょうか。また、コロサイ3:23-23「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい」という言葉も生まれました。
神は罪を罰するだけの神ではありません。その重荷からの解放まで考えておられる、人が抱える問題と関わって下さるお方です。神のかたちに神に似せて人を造られたとはこの様な関係を持たれる神だという事ですね。
最後に神の憐れみを私たちは忘れてはなりません。罪人となった人間からその重荷を何とか降ろさせて、解放させようという神の行動が聖書を通して伝えられています。このレビ記の5章を読みつつ、私たちは主イエスが「疲れた者、重荷を負う者」、と招かれ「だれでも、わたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」、と言われたお方であることを、またそのための献げ物としてキリストご自分をささげられたことを、そして、それが神の最後に取られた行動であったことを、私たちは忘れてはなりません。最後にヨハネの手紙第一1:9を読みます。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めて下さいます。」
2024年5月2日
レビ記4章「一つでも」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★罪からの贖い
1章から始まりました献げ物の規定は8章まで続きます。その中で罪や罪過のための献げ物に関する規定の分量は、他のものと比較して三倍以上になっています。その献げ物がいかに重要であるかを表わしています。
先週も1-3章をまとめましたが、違った視点でまとめると、焼き尽くす献げ物を求められる神は、私たちの全てを完全に受け入れる、という私たちの完全な救いを求められる神です。穀物の献げ物を求められる神は、私たちの偽りなき真実な全き献身を求められる神です。そして和解の献げ物を求められる神は、私たちが主と共に親しい交わりをもって聖なる生活をすることを求められる神です。
人を創造された神が人にこの三つを求められる、という事はこの三つは人にとって重要項目であるという事になります。しかし、人は罪ゆえにこの三つの事に無関心になり、応答しようともしません。レビ記は、如何に人がこの罪に支配されているかをつくづく思い知らされた捕囚期に編集された、と言われています。使徒パウロが新約聖書のローマ書7章14節で「わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。」と言っているように、レビ記の編集者は捕囚という状況の中で、罪からの解放、すなわち神に罪から贖なって頂いて、神のものにして頂くことを求めながら、この書を綴ったと言われています。
★故意に犯す罪は贖えない
さて、レビが伝える規定に従うなら、どんな罪からも贖ってもらえるわけではありません。4章2節、22節、27節の「過って」、「責めを負い」から、レビ記4章の贖罪の献げ物によって贖われ赦しを得ることのできる罪は、過って犯した罪であることが分かります。この過って犯した罪に関しては民数記15章22節以下でも取り上げられています。その30節で但し書きが付け加えられています。「ただし、土地に生まれた者であれ、寄留者であれ、故意に罪を犯す者は、主を冒瀆する者であり、その人は民の間から断たれる。彼が主の言葉を侮り、その命令を破ったのであるから、必ず断たれ、その罪責を負う。」とあります。故意に罪を犯す者は「犯した罪を知らされても」悔い改めない者です。祭司はそういう者の罪を贖うことは出来ませんでした。出エジプト記21章12-17節死に値する罪、レビ記18章29節民の中から断つ、20章死に値する罪、申命記13章・22章13節以下の悪を除き、滅ぼし尽くす、27章の呪いの掟などを読むと、故意に罪を犯す者は死を免れないことが分ります。
★キリストの贖いの高価さ
それに対して新約聖書はキリストの贖いの事を伝えています。コロサイ2章13節「神はわたしたちのいっさいの罪を赦し」テトス2章14節「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、私たちをあらゆる不法から贖い出し」マタイ12章31節「人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦される」ヘブル9章12節「キリストは、・・・永遠の贖いを成し遂げられた」。ですから、レビ記と比較する時に、イエス・キリストによって贖われることが、どれほど大きな恵みであるか、私たちは忘れてはなりません。
★罪に対する厳しい視点
さて、私たちはレビ記の罪に対する厳しい視点に注目しなければなりません。なぜなら罪に対する敏感さが問われるからです。「一つでも」と2、13、22,27,節で繰り返し言い切るのと違って、「一つぐらい」という生温さはないだろうか。献げ物には四つの場合があります。①3-12節は油注がれた祭司の場合、②13-21節は共同体全体の場合、③22-26節は共同体の代表者の場合、④27-35節は一般の人の場合、それぞれにおいて禁じられている戒めを一つでも破った時の事を取り扱っています。その時に三つの事を行うように命じています。
第一に違反の罪に気付いたら、その罪の贖いのために献げ物をします。この献げ物を携えて幕屋へ向かうことは、公に自分の罪を認め告白することと同じです。そして、主の御前に立ちます。最初の①②は臨在の幕屋の前に立ちます。③④は焼き尽くす献げ物の前に立ちます。これは主に罪を告白することです。これが第一に重要だと言われています。幕屋にいる祭司は献げ物を携えて来た者にたいして、何のために来たのか。何の罪を贖うために来たのかを聞いたでしょう。罪一般ではなくて、具体的にどんな罪を犯したのかが告白されます。一般の罪ということで、ぼやかしてしまうと贖えません。カトリック教会が守っている告悔の秘跡はこのことを受け継いでいます。罪が露にされることから逃れようとする性質が人にはあります。だから、親族でも友人でもない第三者としての司祭に告白します。
第二に献げ物の動物の頭に当事者が手を置きます。この行為は焼き尽くす献げ物をする時も行いました。告白した罪を献げ物の動物に代わって負わせます。そして、屠ります。血を臨在の幕屋の垂れ幕の前、すなわち主の御前で七度振り撒きます。そして、祭壇の四隅の角に塗り、残りは祭壇の土台に注ぎます。「血を流すことなしには罪のゆるしはありえないのです。」と新約聖書ヘブライ9章22節にあります。そして、脂肪が燃やされて宥めの香りが献げられます。和解の献げ物と同じく、神との交わりの回復を願います。さて、問題は動物が代わって負った罪です。この罪がどうなるかです。この罪を民の中から取り除かなければなりません。
それで第三に宿営の外の焼却場で残った肉体を焼き捨てます。宿営の外というのがポイントです。幕屋が中央にあり、その周りに宿営があります。この形は後に神殿と城壁で囲まれた部分という形になりました。その空間から外へ動物を追い出して、そこで焼き捨てます。これで罪は民の中から取り除かれたことになります。新約聖書のヘブライ13章12節「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」。城壁の外にあったゴルゴダで十字架につけられたイエスの死は罪を取り除くためでした。神と私たちの関係で罪からの贖いは不可欠です。
2024年4月25日
レビ記3章「神と人の日常との繋がり」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★美味しい肉を献げる
1955年刊行の口語訳聖書は、この『和解の献げ物』を『酬恩祭』と翻訳しました。神からの恩に、酬、すなわち報いる、答えると言う意味です。中国語の聖書の古い翻訳、漢訳聖書の影響を訳語です。現在の中国語聖書は平安祭と改訳しています。シャローム(平安)というヘブライ語はみなさんも知っておられますね。『和解の献げ物』と訳された原語はシャロームの派生語です。
ですから、神とシャロームな関係のためにする献げ物と考えてよいでしょう。
内容的には焼き尽くす献げ物と同じです。違っている所は、3と4節、9と10節、14と15節に繰り返えされている動物の献げる部分の指示です。内臓の一部(腎臓と肝臓の尾状葉)と脂肪が献げられます。辞典を調べて見ると、肝臓は幾つかに分かれていまして、そこに尾状葉と方形葉がありました。その尾状葉は肝臓の中でも美味しい所だそうです。脂肪はバラ肉の様な私たちが食する脂肪ではありません。内蔵に付着する内脂肪のことです。羊の場合は脂尾です。脂尾羊という種類の羊もいて、脂ののった肉でこれも美味しいと言われています。それから二つの腎臓が献げられます。現在ホルモンで腎臓をマメと言われ希少部位です。食べた事はありませんが少し癖がありますが美味しいそうです。焼き尽くす献げ物は肉の全部を献げました。和解の献げ物は美味しい所だけを神に献げます。
★神との共食
さて、和解の献げ物の目的は何か。3章を詳しく読むと今までに無い言葉として「食物」というのが11節と16節で、「食べる」と言うのが17節で出てきます。この3章では、神は脂肪と内臓の特別な部分と血は食べ、人間は残りの肉を食べる、と言う内容になっています。残った肉は祭司や礼拝者の家族が食べることを、あえて書くことなく前提となっている、と言うことなのでしょう。6章から献げ物の細則が始まります。7章の和解の献げ物の細則を読むと、残った肉の食べ方が書いてあります。それでこの和解の献げ物を、英語の聖書は神と民の共食の献げ物、交わりの献げ物とも訳しています。
★祭壇と日常生活の繋がり
使徒パウロはこのレビ記に精通していましたから、1コリント10章16-18節で、この和解の献げ物と聖餐とを比較しています。18節「供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」。和解の献げ物の目的は、日常の食事と祭壇で献げられる神の食事との関わりにあります。
イエスは最後の晩餐で宣言されました。今、皆で食べるこのパンはこれから十字架であなたがたのために献げるイエスのからだである。廻す杯に入っている葡萄酒は、あなたがたのために流すイエスの血である。日常の食卓とイエスが献げられた祭壇が繋げられました。
7章の細則を読むと、日常で肉を食べるのは祭壇に献げられたものであったように思われます。この様にして神は、和解の献げ物によって、日常と祭壇を繋げられました。レビ記は幕屋(神が住まわれる)の中で行われる事と、その周りにテントを張って住む民の日常生活が繋がっている事を示しています。私達の日常生活も信仰生活と別々ではなくて繋がっています。
イエスが教えて下さった主の祈りは、その繋がりを示しています。前半は神との関係に関わる祈りです。後半は人との関係、特に罪人である人間に関わる祈りです。両方とも信仰に関わる内容です。しかし、その間の真ん中に、日用の糧の祈りが入っています。糧は食べ物だけではありません。日常に必要なもの、人が生きて行くのに必要なもの全てが含まれます。ですから日用の糧の祈りは日常と神との繋がりを求める祈りです。
1章は神に全てを受け入れて頂く献げ物
2章は神を真心からもてなすパンの献げ物
3章は神と日常を繋ぐ献げ物
神は民との関係をより深めるために、この三つの献げ物を要求されました。そして、神はもう一つ重要な献げ物を要求されました。それが4-5章の二章に渡る内容の贖罪の献げ物です。
2024年4月18日
レビ記2章「主と共に食す」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★偽り無き交わり
新共同訳では『穀物の献げ物』と翻訳されていますが、口語訳では『素祭』と訳されていました。素とは「あるがまま」という意味です。自分の気持ちをあるがままに示す偽り無き贈り物の事を示しています。この献げ物の規定が1章の焼き尽くす献げ物と3章の和解の献げ物の間にあることに注目しましょう。1章3章は動物の肉を焼きます。そして、2章はパンを焼きます。これらが一緒に成っているのは、その起源に食事が考えられます。
例えば、創世記18章で主の使いがソドムへ行く前にアブラハムのテントに寄りました。その時アブラハムは子牛の料理と、上等の小麦粉三セアほどこねて、パン菓子を作らせ、もてなしました。士師記6章でギデオンも主の使いの訪問を受けた時、子山羊の肉と麦粉一エファの酵母を入れないパンを調えて差し出しました。この背後にも食事で主をもてなすという、食による交わりという視点があります。この様に神は和合と一致の象徴である食事を要求されたのでありました。
★乳香を添えて祭司の糧とせよ
ここで普通の食事と区別するために、上等の小麦粉という語が使われます。これはお客様用ということです。そして、乳香をその一番上に置きます。これは主への献げ物の場合だけです。2節、祭司はささげられた物をひとつかみして、それを献げます。それはほんの一部だと思います。しかし、乳香は全部献げ全て燃やして煙にし、宥めの香りとして主にささげます。穀物の献げものでも一番重要視されている事は、煙が主に届き受け入れられることです。乳香の全てを献げることは、穀物の献げ物を全て献げることのしるしです。なぜ神はこの様な指示を為さったのでしょうか。このレビ記で神と民との関係を深める方法が命じられているのですが、その事のために生涯を献げるアロンたち祭司のためでした。全てを主に献げるのであるが、主はその一部で良いと言われ、3節で残りの大半を祭司たちの糧とされました。土地の割り当てが与えられなかった彼らの生活を支えるためでした。しかし、それは燃やして主に献げものの一部には変わりありませんから、神はかれらのものになったものを神聖なものとされ、他の食物と区別されました。
★パンにして捧げる
2節を読むと祭司は、調理前のボールの中の材料をつかむことになります。実際、手に油と粉がついてネチャネチャになりますね。それで、4節から10節で調理したパンでもいいでしょうか、という様な要望に答えているように思えます。この2章の穀物の献げものの根底には主をもてなすという気持ちがありますから、民の中から自然と調理したものを献げてもいいですか、という思いが起こったのでしょう。神はその思いに答えて4節以下の指示を為さいました。かまど焼き、鉄板焼き、蒸し焼き、これらはパンのレシピですね。この様にして民は心を込めてパンを焼きました。
さて、みなさん読んでいて気付かれたと思いますが、酵母を入れて作ることが禁止されています。出エジプトの時は時間が無く、酵母の発酵を待てなかったから酵母の入っていないパンでその時の事を思い出すお祭り、除酵祭を守ります。しかし、今回は時間があります。酵母を入れてふっくらした美味しいパンが焼けるのに、どうして酵母を入れてはいけないのでしょうか。
11節に蜜の使用も禁止されています。蜜も発酵させる性質があります。発酵はある物を膨らませたり、姿を変えさせたりしますので、聖書では真実の反対の偽りの象徴とされています。献げる煙と宥めの香りの目的は、1章で学びました様に、真実を全てを神に届かせるためでした。また、2章の穀物の献げ物(素祭)も、ありのままの気持ちを表すおもてなしです。それで酵母も密も使用禁止とされました。ここには旧約における神の民に対する教育的配慮があります。台所で献げ物のパンを作るお母さんを見て、子どもたちが気付きます。「ママ、どうして酵母を入れないの、蜂蜜入れないの」。」実はね、私たちの神はね、・・・・」と話しました。
さて、13節の塩も食事と関係します。現代でもこの地方の食卓には必ず塩(岩塩)が出されます。穀物の献げ物にかけられる塩は契約の塩と呼ばれ、神との和合と一致のしるしである食事には欠かせないものでした。この契約の塩は後に神との永遠の契約を意味するようになります。民数記18章19節参照。
14節以下は初穂の献げ物の場合です。12節の初物の献げ物の事と同じで、それを燃やして主にささげる事を禁止しています。これにも理由があります。イスラエルが約束の地に着く以前、カナン人の間で初物や初穂をお供えする収穫祭が行われていました。神はそれと区別することを求められました。この2章の献げ物は神に煙を宥めの香りとして届け、神が献げた人を受け入れる所に、その目的があります。ですから収穫祭と区別する為に、麦の初穂を炒って挽割りました。麦焦がし、はったい粉に近いと思います。それにオリーブオイルをかけ、燃やします。きっと香ばしい煙となるでしょう。
モーセによって出エジプトした民と、イエス・キリストによって罪から脱出した私たちを重ねると、このレビ記の指示と、ローマ12章1節「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝である。」も重なります。今の私たちは、焼き肉やパンではなくて、毎週の礼拝で、神の独り子イエスキリストをして示された愛と恵みと交わりに、自分の体、力、時間、人生を献げて応答します。このキャッチボールを続ける中で、神との関係が深められて行きます。レビ記が伝える神と人の食の交わりと同様に、現代の礼拝は神との関係が深められる場です。
2024年4月11日
レビ記1章1~17節「あなたの全て」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★お近づきのしるしに
神に住んで幕屋が完成し、神と一緒の共同生活が始まりました。神は雲となって彼らに現れました。雲がテントから上り先立たれる時、彼らは旅立ち、雲が留まったら、テントを組み立て宿営しました。しかし、神は雲しか見せない希薄な関係のままで良いとは思われませんでした。神も民もお互いに初めての共同生活が始まります。どの様にしてその関係を深めればよいのでしょうか。
皆さん初対面の人に「つまらないモノですが、お近付きの印しです、よろしくお願いします」とか言って、何かをプレゼントしますね。神に何を持って行きましょうか。民は考えた事でしょうね。ズバリ神の方から「わたしはこれが欲しい」と言っているのがレビ記です。
★焼き尽くす献げ物
神はモーセに要求されたのは、焼き尽くす家畜でした。燃やして煙にして天に昇らせ、それを宥めの香りとします(9節)。今日朗読したのは牛の場合ですが、10節から羊と山羊の場合、14節以下では、そのような群れを飼えない貧しい立場にある人の為に、山鳩と家鳩の場合は、どの様に献げれば良いかが指示されています。
神社やお寺でもお供え者が献げられますが、全部焼き尽くして煙にするなどそんなことは絶対しません。反対に御下がりを頂くことでご利益を受けます。また献げられた金額が張り出されていたり、大小の灯篭や石柱に名前が彫られていたりします。そこには献げ物の良し悪しや、献金の多額か少額かという事が表されています。しかし、レビ記では全くそんなことはありません。お供え物は全て焼き尽くします。重要なことは3節4節にあるように、神に受け容れられるかどうかです。
★全てを受け入れる神
4節の手を献げ物の頭に置くのは、その動物と一体になる、その動物に自分が乗り移る、その動物が自分の身代わりになる事です。その動物の肉体を一つも残さず全てを焼き尽くして煙にして天に届けるとは、この煙が身代わりに成って、自分の全てを天に届け、全てを受け容れて頂くことを目的としています。それを罪の贖いと言います(4節)。9節の「宥め」という言葉には「私は神に受け容れられないんじゃないか」と言う、人間の罪(神との関係が悪い)の問題が込められています。神は言われます。「わたしはあなたがたに焼き尽くす献げ物を要求する。なぜなら、わたしはあなたの全てを受け容れたい。」
しかし、私たちの心の奥には神から離れようとする、神に敵対する性質があります。この儀式は守られても、心は神から離れて行った罪の歴史が、この後の旧約聖書全体で綴られて行きます。主イエス・キリストは、その罪を身代わりに引き受けて下さいました。そして、信じる者が神によって受け容れられるように、それも全てが受け容れられるように、つまり、神の子として受け容れられるようにして下さったのです。
ヨハネの手紙第一2章2節「この方こそ、私たちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりではなく、全世界の罪を償ういけにえです」。4章10節「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」
皆さん、神が受け容れられるのは「あなたの全て」です。受容、これは幼い子どもが親にハグされる様なものですね。心理学者は言っています。「ハグされないで育った子は、ハグされて育った子よりも精神的な不安定さが見受けられる」。この大きな大きな愛の受容をイエス・キリストによって受けましょう。ここに何によっても履替えされない平安があります。この平安は毎週毎週の礼拝でイエス・キリストのハグを受けて、徐々に徐々に知らない内に、しかし確実に育まれて行きます(きよめられて行くとも言います)。救われてから受けるこの恵みをナザレン教会は証しする教会です
神は「あなたの全て」を受容されます。あなたも全てを神に委ねて下さい。
2024年4月4日
出エジプト記40章34~38節「心を尽くして応答しましょう」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★愛の書
神は、御自分が直接働くのではなくて、御自分が選んだ人を通して働かれるお方です。皆さん、人に仕事を任せるよりも自分がした方が早い、なんて思ったことがあるでしょ。神はなぜその様な面倒がかかる方法を取られるのでしょうか。自分が願う通りにならない人を、反対に神に反発する人を用いられます。神に苦労なんてあるのかどうか分らないのですが、神はあえて苦労する方法、手間のかかる方法を取られます。なぜだと思いますか?
親は子どもに対して、面倒と手間暇と苦労を惜しみませんね。それと同じです。神は人を心底愛しておられるからこのような方法を取られます。皆さん、クリスチャンも神に召された神の民です。私たちは旧約聖書に出てくる、エジプトの奴隷から召されて神の民とされた人たちと自分を重ねる時、神の愛を感じます。出エジプト記はそんな神の愛が現れている書です。
さて、この書が現代の形に編集された背景には、出エジプトの700年以上もずっと後のバビロン捕囚という体験がありました。異国の地で神殿礼拝が出来なくなり、シナゴグ礼拝という形が生まれ、御言葉を聞くことが礼拝の要素として重要視された時に、聖書の編集が集中的に行われました。
捕囚は、神に裁かれ見捨てられ、その愛を失う体験でした。きっと金の子牛の事件を彼らは捕囚の現実と重ね合わせたことでしょう。そして、その事件後の神の対応に彼らは、神の憐れみと慈しみ深さに気付かされたことでしょう。
★希望の神
さて35-40章の内容は既に25-31章で学んだ、幕屋建設に関する設計図の様な詳細な神からの指示内容と大変よく似ています。しかし、この25-31章と違っている所があります。それはその内容通りに実行に移したという報告が入っている事です。31章12-18節で安息日厳守の命令があり、金の子牛の中断があって、35章1-3節でもう一度同じ安息日厳守の命令があるのは、本来シナイで神は民と31章から35章へと続く契約を用意されていたという事だと思います。つもり32-34章がその間に割り込んでその契約を中断した形になっています。これが25-40章の構造です。
確かに金の子牛の事件は、神と民のシナイでの契約関係を中断させましたが、神の憐れみによってその中断が乗り越えられ、契約が続けられました。25章8節の「わたしは彼らの中に住むである。」と29章45節の「彼らのただ中に宿るために、わたしが彼らをエジプトの地から導き出したものであることを知る」という、神と民との密接な関係樹立の約束は、32-34章の中断を乗り越えて40章34節「雲は臨在の幕屋を覆い、主の栄光が幕屋に満ちた」ことで実現しました。
捕囚を体験した人々はこの御言葉に神との関係回復の希望を見たことでしょう。また、神との関係の回復を諦めていた人にも、この御言葉は希望を与え続けて来ました。この神によって希望がある。だから、35章以下で「主が命じられた通りにモーセは行った」と18回繰り返して、神への従順を私達に強調しています。
★心からの応答
特に心からの従順を問題にしています。25章では2-7節まで材料の準備の指示に6節使われています。今回その実施は35章4節から36章7節の37節分という長い内容となっています。そして、その中で心から幕屋建設に参加することが強調されています。例えば35章5節「すべて進んで心からささげようとする者は」。21節「心動かされ、進んで心からする者は皆」。29節「進んで心からする」。これらは幕屋建設材料の献物を心からすることを強調しています。この様に神を信じる者には希望があるから、心からこの神に応答しましょう、というメッセージがここにあります。このことは新約でも神に心から応答える事を勧めています。2コリント9章7節「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい」。
私は牧師になる前、建設に携わる仕事をしていました。現場監督と言われる方の名札には現場統括責任者という肩書が刻まれています。幕屋建設のために優れた統括責任者として立てられていたベッツァルとオホリアブがモーセに、幕屋建設材料となる献物が必要以上に有り余る程に寄せられたことを報告しています(36章5-7節)。既に民が心を尽くして幕屋建設の材料を予想以上に準備していたのでした。
★じっとしていられない神
人が心を尽くす時、黙って見ていらないのが聖書の伝える神です。幾ら有り余る材料がありましても、その材料を用いて仕事をする者が必要でしたので、神は早速動かれ、ベッツァルとオホリアブの様な建築技術者を、すなわち35章31節「神の霊を満たし」、35節「知恵の心を満たし」、36章1節「知恵と英知」2節「心に知恵」を授け、2節「心動かされたすべてのもの」を集めてくださったのでした。
幕屋建設の記録は、単にその出来栄えの良さではなくて、どのようにして建設されたか、その姿勢に注目しています。私たちも心を尽くしましょう。
★神が目標とされること
さて、この幕屋建設は神と人の関係の目的を示しています。主の栄光が幕屋に満ちたとは、神が人と共に住まわれることです。後にソロモン神殿に神は住まわれます(列王記上8章11節)。そして、後に神の独り子イエスは肉になってわたしたちの間に宿られました(ヨハネ1:14)。そして十字架と復活によって、人の体が聖霊の住いになるという神が目標とされることが実現しました(1コリント6章19-20節)。
神の幕屋が完成し、モーセはその仕事を終えました(出エジプト記40章33節)。私たちはイエスも十字架の上で息を引き取られる時に「成し遂げられた」、つまり「仕事を終えた」とおっしゃったことを思い出します。イエスの復活は人の肉体に神の栄光が初めて満ちた出来事でした。そして、この出来事によって私たちは罪から贖われ、私たちの肉体が聖霊の住いとなる道が開かれました。神の御計画は何と長く広く高く深いものでしょうか。私達はもっと驚かなくてはなりません。34節以下は民数記9章15節以下の出発へと目を向けていますが、神と共にする旅路の準備はまだ続きます。
2023年4月~2024年3月
2024年3月28日
出エジプト記34章29~35節「人は神の栄光を現す者」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★モーセの顔
ここでモーセの顔の変化のことが言われています。モーセの顔と言えば33章11節「主は、人がその友と語るように、顔と顔を合わせてモーセに語られた。」という箇所が思い出されます。そして、その後でモーセが神の顔を見たのではないことを、主は二回20節と23節で繰り返されました。その時、モーセは18節「あなたの栄光をお示しください」と頼んでいます。モーセは神の顔を見ることで主の栄光を見ようとしたのでしょう。しかし、神はその方法を取られませんでした。はっきり言えることは、主がモーセと語られた時、主の栄光がモーセを照らしたに違いないということです。
★臨在を現す栄光
「主の栄光」という言葉はいつから出て来ているのでしょうか。16章10節「見よ、主の栄光が雲の中に現れた。」神の臨在と栄光が関係しています。そして、最初は雲の中に神が臨在され、雲が輝いたのだと思います。24章16節「主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。」17節「主の栄光はイスラエル人の目には、山の頂きで燃えあがる火のように見えた。」これも栄光が神の臨在と関係し、目に見える光であることを示しています。ですから34章29節で言われているモーセの顔の肌が放つ光の原因も、主の栄光であると言えます。
★み言葉と栄光
夜光塗料は光を当てておくと暗くなっても光を放ちます。モーセの顔はちょうどその様に主の栄光に照らされて、その光が皮膚に蓄積され、その皮膚が光を放射させたのでしょうか。30節で民は恐れモーセに近づけませんでした。モーセじゃないと思ったのでしょう。31節モーセの声を聞いてだんだんそれがモーセだと分って人々が集ったことが言われています。32節はこのモーセの顔の光を民が見るのはモーセが御言葉を伝える時であったことを示しています。主の栄光と主の御言葉が密接に関係付けられていることも分ります。
★顔覆い
33-35節は覆いのことが言われています。主の御前に行って主と語る時、34節ではシナイ山ではなくて、幕屋が考えられています。そこで御言葉を頂く時が、主の栄光を受ける時であり、覆いを外します。そして、その後すぐ幕屋から出て民に御言葉を語る時も外しています。しかしその後は覆いが掛けられます。なぜ、覆いを掛けるのでしょうか。2コリント3章13節はその理由を伝えています。「モーセが、消え去るべきものの最後をイスラエルの子らに見られまいとして、顔に覆いを掛けたようなことはしません。」主の栄光はモーセに蓄積されますが、光を放つと失って行きました。しかし、クリスチャンの場合は18節、顔覆いが除かれ、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。使徒パウロはここで、クリスチャンが神の臨在とみ言葉を証しする者に造りかえられて行く御霊の働きのことを伝えています。
★シナイでの新たな創造
しかし、主の栄光を一時的にも人間が放つという現象はモーセが初めてでした。そして、それが神と人間の契約という関係の成立物語の中央に記されているというのは、この現象が神と人間との関係・契約と密接であることをも表しています。
神は人を創造する時に「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。」と言われました。これは神と向かい合って、コミュニケーションできる関係を意味すると言われています。御言葉が伝えられると共に、神の栄光も神から人間に伝わるように人間は創造されています。この創世記1章で語られた神との関係が今、シナイ山でモーセという一人の人間において、回復しているのです。しかし、神と向かい合って、コミュニケーションできる関係は完全に回復していません。モーセの顔覆いはそのことを表しています。イエス・キリストはその完全な回復をもたらす為に来てくださいました。
★御霊の聖化
使徒パウロがローマ3:23で「人が皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっている」、と書いているのを思い出します。先程開いたコリント書は、イエス・キリストによってもはや顔覆いする必要がなくなった、完全な回復が実現する時代に入ったことを伝えています。1コリント6章20節「自分の体で神の栄光を現しなさい」。10章31節「あなたがたは食べるにも、飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい」。2コリント3章18節「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです」。神は人を神の栄光を表わす者として創造されました。しかし、人は神から離れて行きました。長い時を経て今や聖霊によってそれが実現する時代に入りました。ナザレン教会はこの神の壮大な計画に目を留め、その計画に与り、その計画を伝えようとする教団です。
2024年3月21日
出エジプト記34章19~28節「神の再契約」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★犠牲が伴う契約
今日読みました34章は10節と27節の「契約を結ぶ」という言葉でサンドイッチされています。現代わたしたちの間で行われている契約はお互いの義務を果たしたり権利を守ったりする法律行為で、契約書を双方分作成し、それぞれの印鑑を押します。しかし、聖書の契約は違います。例えば創世記15章の神とアブラハムの契約では、雌牛、雌山羊、雄牛、山鳩、鳩の雛が真二つに切り裂かれます。出エジプト24章8節では屠った雄牛の血を民に振り掛けて「これは契約の血」とモーセは言いました。神の契約は必ず命の犠牲が伴います。でないと神と人は契約出来ません。神の契約の目的がお互いの関係にあるからです。その関係は簡単には解消されてはならない、命の犠牲が伴っている深い関係です。
★新しい契約
さて、以前出エジプト記24章で神がエジプトから救った民と初めて契約を結びました。そして、今回もう一度契約を結ぶのですが、この二つの契約を比較すると、今回の契約がより明確になります。24章7-8節では、「わたしたちは主が語られたことはみな行い守ります。」という民の誓約があった後で契約の血が振りかけられます。しかし、今回はその誓約がありません。それから、24章ではモーセが神と民の契約の代行を行っています。しかし、34章では神ご自身が10節「見よ、わたしは契約を結ぶ」と宣言なさいます。
幾日か前に信仰的姦淫、金の子牛の礼拝を行ってしまった民に対して、神はより踏み込んで契約に臨んでくださいました。それは今までにない行為でありました。人間は相変わらず神に反抗しますが、そんな人間に対応する為に神ご自身が変わられる神が、ここに示されています。10節の続きの言葉に注目しましょう。驚くべき業。全地のいかなる民にも、いまだかつてなされたことのない業。恐るべきもの。これらの言葉から再契約が前の契約の繰り返しではなくて、新しい契約であることが分かります。
この10節の「見よ」で始まる宣言は、創世記1章の宣言「光あれ」を思い起こします。つまり、この契約はみたいに開かれた希望の契約です。シナイ山の麓での暗闇のような事件の後、神はその暗闇を突き破って「見よ、わたしは契約を結ぶ」と宣言されました。
エレミヤ31章31-34節はこの未来に開かれた契約のことを伝えています。そして、ヘブル8章7-13節もそのエレミヤの言葉を引き継いで、それをイエスさまの契約だとしています。1コリント11章25節「この杯はわたしの血による新しい契約である」聖餐式の杯は、この様にシナイの34章の契約と繋がっています。今いただいているイエスさまとの契約が、どんなに長い歳月を掛けて、待ち望まれて、神が実現に至らされたか、我々は覚えなければなりません。
★神の契約への応答
さて、11節以下は、この恵みとしての神の契約にどう答えたらよいのか言われています。まず17節までで、他のものを神としてはならないことが取り上げられています。14節の「熱情の神である」といわれる時はいつも偶像礼拝が問題にされています(申命記4章24節、6章15節、ヨシュア記24章19節以下、ナホ1章2節)。他の神を神とすることに我慢ならない神のこの熱情は、どれだけ人間との関係を真剣に、そして、全存在をその本質を掛けて大切にしておられるかを示しています。
18-20節は出エジプトの記念としての行事です。これを守るのは自分が神さまに贖われた者であると信じるからです。25節で言われている、その行事を決まり通りに守るのも、神に贖われ与えられた神との関係を大切にするからです。21節の7日目の休息は神が自分を養ってくださると信じるから休みます。26節、そう信じるから最上のものを献げます。23節以下の年三度主の前に出る宮詣は、日々主に守られていると信じるから詣でるのです。これらは神さまとの関係に関連するものばかりです。この様に契約に答えるとは、神が結んで下さる関係を大切にすることです。
28節、二枚目の戒めの石板にはモーセが戒めを刻みました。最初の契約では神が自筆なさいましたが、神はその事に拘られませんでした。反対に神は契約を開かれたものとなさり、モーセに刻ませました。この神の柔軟さは罪深い私たちへの配慮だと思います。旧約聖書を読む度に、これからも神の恵みの広さ深さ高さに気付かせて頂きましょう。
2024年3月14日
出エジプト記32章1~9節「やり直しの恵み」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★やり直しのチャンス
「前のと同じような二枚の石の板を、切り取れ。わたしは、あなたが砕いたこの前の石の板にあったあのことばを、その石の板の上に書き記そう。」この1節の言葉は大変注意深く書かれてることが分ります。大切なことを書いています。金の子牛の事件を起こした人間はその罪をどうすることもできませんでした。ヘブル12章4節に「あなたがたはまだ、罪と戦って血を流すまで抵抗したことがありません。」とある通りです。しかし、神さま自身が金の子牛の事件が起る前に戻ってやり直しをする意味で石の板の事を話されました。
★信仰の戦い
この1節の言葉は、人間が罪に負けて失望する時に信仰に立ってやり直しするようにと励ます福音です。あの創世記8章の洪水物語の結末もこれと同じでした。「わたしは決して人のゆえに、この地を呪うことはすまい。人の心の思い計ることは、始めから悪であるからだ。8章21節」人の側に変化がなくても、神さまは、憐れみと恵みと忍耐と慈しみと赦しを示されました。
人間の救いは神の人間に対する憐れみと恵みと忍耐と慈しみと赦し、つまり神の愛に懸かっています。信仰の戦いとはこの神の愛から人を引き離そうとする現実との戦いです。今私たちが聞いているローマ8章37節の「圧倒的な勝利」や39節の「私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。」とは、旧約聖書から伝えられて来た福音のイエス・キリストにおける完成です。旧約時代の信仰の戦士たちは、どんなにこの言葉を聞きたかったことでしょう。
★契約更新
10節以下で契約の更新がなされます。旧約と新約という言い方がありますが、神の契約に対する基本的な考えは変りません。ただ人の側の事情のために契約が更新されていきました。
天地創造自体、神の祝福の契約と考えられます。しかし、それは洪水を経ての再契約でした。今回のシナイ山での契約も再契約されます。こういう契約の歴史を思い起こしても、如何に神さまが憐れみと恵みと忍耐と慈しみと赦しの神であるお方であるかが分ります。旧約の神が裁きの神で新約の神が愛の神だなんて言うのはあまりにも乱暴過ぎます。私達はコロコロ変わるから、それに対応する為に神様の方が変わられたんだと思います。
御自分の本質に掛けて
さて、モーセが二枚の板を持って山に登りました。すると5節、主は御名によって宣言されました。御名というのは私たちも今使っている言葉ですね。それは単なる名称ではないことが分ります。御名は「本質」という意味を持っています。この6・7節の宣言は神さまが御自分の本質をかけての宣言でした。聖なる宣言です。9節でモーセはそれに答えています。「私たちの中にいて進んでください。」「わたしたちをご自分のものとしてください。」これは自らを神に献げている献身の祈りです。神が御自分の本質を明かされ、人がその神に自らを献げる。ここに礼拝の姿があります。
現在はイエス・キリストを通して、御言葉を通して、神はその本質を掛けて私達に臨まれます。それに対して「私たちの中にいて進んでください」「わたしたちをあなたのものとしてください」と、私たち自身を献げているでしょうか。礼拝姿勢がここで問われています。ローマ12章1節「あなたがたのからだを、神に受け容れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」
★罪に盲目な人間を救う
6-7節再契約の中味を、最初の契約である20章5-6節と比較すると、変化していることに気付きます。「わたしを否む者には・・・」「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には・・・」という、20章で言われた人間の側の条件が取り除かれています。しかし、それは神さまが甘くなられたのではありません。7節に「罰すべき者は罰せずにはおかず」とあります。救いは人間に関係なく神の側で決定されます。人間は何をやっても無駄だから何もしなくて良いという意味ではありません。そうではなくて
人が高慢にならず、恵みによって救われ、恵みによって信仰を始めるために神はそうされました。「父祖の罪を、子に、孫に三代、四代までも問う」とあります。愛の神さまは、罪をうやむやにしません。罪に盲目である人間を救う神です。だから私達はこの神に全てをお任せするのです。
2024年3月07日
出エジプト記33章1~17節「神が共に行ってくださる恵み」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★頑なな民と神の配慮と憐れみ
イスラエルの人々は神を礼拝しないで金の子牛を礼拝してしまいました。それで神は怒られ32章9-10節で、「彼らを滅ぼし尽くす」とまで言われました。しかし、14節で神は災いを下すのを思い直されました。33節で神とイスラエルの関係の解消が言い渡されます。つまり、もう、ここで神との旅は終わりに成ってもおかしくないのです。しかし、34節、神は荒れ野の旅をこれからも導くから続けるようにと命じられました。しかし、まだ「わたしの裁きの日」の事も言われています。神はどういうおつもりなんでしょうか。
33章に入ると、もはやあの「わたしの裁きの日」のことは言われず、反対に神との旅が続けられるように、3節「わたしはあなたの間にあって上ることはしない。途中であなたを滅ぼしてしまうことがないためである。」と配慮されています。
神はイスラエルの民がかたくなな民であることを知っているが、積極的に共に歩もうとしておられる様子が伺われます。人間の頑なさは変らないからです。「かたくな」という言葉は原語では「首が堅く硬直している」と書かれています。それで新改訳聖書は32章9節「わたしはこの民を見てきたが、実にうなじのこわい民である。」と翻訳しています。モーセは34章9節で民の頑なさを認めています。しかし、民は自分の非を認め、神に対して頭を下げませんでした。首が固く硬直しているからでした。神はこの頑なさを33章3節と5節で繰り返えされますが、人間との距離を適当に置いて歩まれ慈しみ深い神でした。
★新たな救いの計画
神は5節で身に着けている飾りの撤去を命じました。この飾りはエジプトを脱出する時にエジプト人から得たものでした。12章35-36節参照。エジプトから救われた記念品のようなものでした。それを外せとは二つの意味があります。32章3節から、もう二度と金の子牛を造ってはならないという意味があると思います。それからもう一つ、エジプトでの救いはもはや金の子牛の事件で踏みにじられたという意味です。だから、もうその時の記念品は不要です。これは非常に大きな問題ですね。6節「イスラエル人々は、ホレブ山たって後、飾りをはずした。」とあります。神の救いのみ業はこれで終了なのでしょうか。しかし、神はこのホレブ山から、アブラハム、イサク、ヤコブに約束した乳と密の流れる地へ出発するよう命じられました。神はこの時に新しい救いの計画を進められていました。うなじのこわい民と共に行く神の新しい救いの計画とは、このかたくなさからの救いだと思います。使徒パウロはローマ書2章5節でこの頑なさを取り上げ、私達のキリストの福音がこの頑なさからの救いであるとしています。
★仲介者モーセの嘆願
7-11節は神が民との距離をどのようにして保たれたかが書かれています。宿営から遠く離れた所で、雲の柱が降りて来て、主はモーセにだけ語られました。民はその様子を外から見ることで礼拝する、というかたちとなっています。しかし、それは神さまの最初の願い、すなわち、幕屋を建設して民の真ん中に住む(25章8節)ことと違っていました。モーセもそのことに感づいていました。それでモーセは神と民の仲介者として神に立てられた者として、もう一度お願いします。13節、この民はあなたの民であることも目にお留ください。15節、神ご自身が民と共に旅をしてください。
特にモーセは16節で神の民の存在理由という、非常に重要な問題を持ち出しました。これは現代の神の民であるクリスチャンのわたしたちにとっても重要です。あなたがわたしたちと共に行ってくださる所に神の民の土台があります。
★回復
17節で神はモーセに好意を示されました。そして、モーセは18節で主の栄光を示してくださるよう求めました。主との親密な交わりを求めたのでありました。主はその求めに応えて約束されます。全てのわたしの良い賜物が通り過ぎ、主の名が宣言されます。それは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者をわたしは憐れむ者、そういう者であることが宣言されました。そして、実際に主の栄光がモーセの前を通り過ぎます。22節、モーセは主の手で覆われます。23節、モーセは主の後姿を見ます。
この体験をモーセが実際した記録は書かれていませんが、34章29節でモーセがシナイ山から下って来た時の彼の顔が光っていた事が、その体験があったことを証しています。ここはベールに包まれています。キリストが高い山で変貌された時に立ち会った弟子たちの顔は光りませんでしたが、彼らも主の栄光に接しました。しかし、それもベールに包まれています。それらが明らかになるのはキリスト再臨の時、終わりの時なのでしょう。世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる、と私たちキリストの福音を伝える現代の神の民は、キリストからこのお言葉を頂いています。金の子牛という挫折の後にこの様な回復の道が開かれた、という33-34章は現代の私たちを励ましてくれる物語ですね。
2024年2月29日
出エジプト記32章15~35節「神と人の間にある深い溝」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★的を外し易い
あかしの板はシナイでの神との契約のしるしであり、また、それが至聖所に安置されて神の臨在する場となる箱の中に入れられる大切なものです。シナイ山の主のもとに登る理由として24章12節で石の板の授与が言われていました。31章18節と32章16節では二枚のあかしの板が神の直筆であったと強調されています。みなさん、神がこの板を下さったことをどう思われますか。この板が今も残っていたらどうなったでしょう。バビロン帝国がエルサレムを陥落させた時、金めのもの以外は破壊されたと思われます。また神はイエスの遺品も残されませんでした。こういう聖遺物があったら人間はすぐに礼拝の対象にするのではないでしょうか。
34章14節の熱情の神は20章3節以下の偶像禁止で言われたように、自分以外の礼拝対象があってはならない神です。前回の学びで民がアロンに『我々に先立って進む神々』を要求しました(1節)。そして、それを「エジプトの国から導き上った神々」として礼拝対象にしました(4節)。礼拝対象は御使いでもモーセでも金の子牛でもない、主なる神お一人です。何が原因でこのような間違いをしたのでしょうか。今の私たちも肝に銘じなければなりません。
★神と人の間にある深い溝
指導者モーセがあかしの板を砕きました。これは大変印象に残る光景です。皆さんはこのモーセの行為をどう思いますか。モーセは四十日間神と接した後、山から降りて来て現実を見て、その大きなギャップにショックを受けたでしょう。モーセは故意に板を投げつけました。モーセは短気だったのかも知れません。しかし注目すべきは、この事件がモーセに神と人間の間にある大きな溝を体験させた事でした。
神の方はもうこの溝のことはよくご存知でした。創世記から学んで来てその事が分かります。「今は、わたしを引き止めるな。10節」と言われた神こそが、その板を砕くべきでありましたが、それをモーセにさせたのは、この大きな溝のことを指導者として知っておかなければならなかったからでした。そして、この聖書を読む私たちクリスチャンも知っておかなければなりません。この大きな溝を横において信仰すると、その足が地についていないフワフワした信仰になります。
★偶像か主か
モーセはまず、像が神ではないことに民の目を開かせます。その方法として像を粉にして飲ませました。それが人間の排出物となるただの物であることをその事によって明らかにするためでした。次にアロンの責任を追及します。しかし、21-24節でアロンはわけのわからない返事をしました。集めた金を火に投げ入れたら、勝手に若い雄牛ができるのでしょうか。モーセはこの日にどうしてもしなければならないことに気付きました。それが25節以下のことです。26節宿営の入り口に立って全ての人に言いました。「だれでも、主につく者は、私のもとに集まれ」。これは主の招きです。モーセはシナイで金の子牛を礼拝するという現実を前にして、どうしてもしなければならなかったのは、民の信仰の原点、すなわち主の招きに答えて「わたしはあなたのものです」と告白するかどうかを確認することでした。
ここは後にアハズ王がバアル礼拝に熱心になって民もそれに影響されていた時代に、預言者エリヤがすべての民に近づいて言った言葉とよく似ています。列王記上18章21節『あなたがたは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であれば、主に従え。もしバアルが神であれば、バアルに従え。』民は一言も答えなかった。そして、その後、主はエリヤを通して滅びを預言しました。21章21節「見よ、わたしはあなたに災いを下し、あなたの子孫を除き去る」。そして、後に列王記下10章17節で、主に油を注がれたイエフが、サマリアでアハブの家の者をことごとく打ち殺し、一族を全滅させます。この様に民の中の偶像礼拝者に対して徹底的に処罰することは、王国を築く遥か以前、ヨルダン川を渡る前に既に申命記13章、申命記7章1-5節と16-26節でも告げられていました。
出エジプト32章27節以下の処刑は非常に厳しい内容です。こう言う厳しさは先住民の皆殺しという事でもヨシュア記に出てきます。これらのことは現代人にとって理解に苦しみます。どうしてここまでするのだろうか。レビ族は自分の兄弟や友や隣人をも殺しました。そして、祭司としての地位を得、それが祝福と言われています。こんなことは今日あっては成らないことです。しかし、聖書はなぜこの出来事が確かに起こったんだ、と伝えているのでしょうか。ヨシュア記、士師記には、民が神の命じられた滅ぼし尽くすことをしないで憐れみを掛けた結果、民が偶像礼拝に陥った記録が刻まれています。そして、それは後の王国時代におとずれる滅亡の根本原因となります。こういう歴史の反省が、厳しい処罰を記すという理由の一つと考えられます。
★神に向かう道
しかし30節、神と人の溝はたとえこれらの厳しい処罰が実行されても埋らず、翌日モーセは山へ戻ります。「贖い」「罪の赦し」と言うモーセの言葉はこの溝に関係する言葉であることが分かります。32節でモーセ自身が民の身代わりになる提案をします。しかし、33節その身代わりは認められませんでした。神の答えは「罪には罰」であった。しかし、旅は続けるようにとの指示を受けます。主は民を打たれます。もはや民は神の民ではありません。しかし、神は滅びをすぐに実行されないで、忍耐して自分の使いに民を先導させられました。神ご自身は何か次のご計画を進める準備をなさるのではないでしょうか(34節)。この32章の金の子牛の事件だけではなくて、神と人間の間にある溝の深さを聖書は伝えています。しかし、へブル10章21-22節は、その溝の架け橋となってくださった大祭司イエス・キリストの事を伝えています。信頼し切って、真心から神に近づこうではありませんか。
2024年2月1日
出エジプト記32章1~14節「待っていなさい」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
みなさん、子どもの頃を思い出して下さい。「ちょっとここで、待ってなさい」と親に言われて待ったことがありますね。「まだかな、まだかな」と思いながら待ちましたね。必ず戻って来ると信じ切って待ちました。親の姿が見えるまでジーと見つめていましたね。そして見つけた時の込み上げてくる感動。あれは泣きたい位の感動ですよね。私は何回も見たことがあります。かなり長い時間待っていた子どもの所に親が戻ってきた時の様子を。抱きつく子、泣き出す子、そう言う大胆な表現をしない子も涙目になります。待つとは、信じる事ですね。
「待ってなさい」とは「信じなさい」と言う事。神はあなたの親の様なものです。今あなたの手を握って、あなたをじっと見つめて「待ってなさい」と言われます。難しいことを考える必要はありません。肩を張って構えることもいりません。「待ってなさい」この言葉を信じ切って素直に神の子どもに成れば良いのです。人の前ではいつまでも子どもであってはいけません。成熟した大人に成って下さい。しかし神の前では、いつまで経っても子どもでいて下さい。礼拝に来て、神の前に立ったなら、子どもになるんです。「ここが痛い、あそこも痛い」と言いながら。いいじゃないですか。この世の中で思いっ切り子どもに成れる所は、ここしかありません。
神との契約の準備の為にモーセは「わたしが戻るまでここで待ってなさい」と言い残して山の上におられる神の所へ上って行きました。ところがなかなか戻って来ません。出エジプト記24章18節モーセは四十日四十夜、山にいました。ところで聖書で四十日四十夜は単なる40日間ではありません。それは人生の試練の時、『もう神を待てない。神を信じられない』と思う時です。それで神の民はとうとう自分たちの手で金の子牛の像、と言う神を作りました。
十戒は神の愛の表現としての戒めです。神からのラブレターです。ところが金の子牛の像を作るとは、そのラブレターを破って捨ててしまう事と同じで、大変な事、取り返しのつかない事をしたことになります。しかし、民はその大変さに気付いていませんでした。これが出エジプト記32章に書いてあることです。
私たちも気付かないで神に対して同じことをしてしまいます。神を神として礼拝していない時があります。神に感謝しない。神の代わりに他のものに目が奪われ、それを神の様に重要視してしまいます。しかも気付かないで。
さて、32章の後、どうなったのでしょうか。神の怒りに接して彼らは気付きましたが、もう取り返しがつきませんでした。しかし、その時にモーセが仲介者として、神と人との間に立って必死に憐れみを執成しました。神はそれに答え、憐れみによって契約を再実行され、彼らの神として先立って進まれました。約1000年経ってから、ネヘミヤ9章18-19節はこの時の事を振り返って次のように書いています。「彼らが牛の像を鋳て造り、エジプトから救ってくれた神だと称し、背信の大罪を犯したときも、まことに憐れみ深いあなたは、彼らを荒れ野に見捨てることはなさらなかった」。モーセは神の民の破れを担って御前に立ち、主の怒りを宥めました(詩篇106編19-23節)。このモーセ、そして私たちの場合は主イエス・キリストを、神は仲介者として立て下さいました。感謝ですね。しかし破れをカバーする者の前で「私には破れがない」と言っている間は仲介者は働けません。「この破れ多き罪人を憐れんで下さい」。この祈りを私たちは忘れてはなりません。
皆さん、「神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです」1テモテ2章5節。キリストは私たちの破れを繕う為に来られました。弱い布を強い布で繕うと弱い布の破れはよりひどくなります。それで、キリストは強いお方なのですが弱い人間の肉体をとって来られ、弱い人間を繕う端切れと成って下さいました。
神はイエス・キリストを死人の中から甦えらせて、神と人の間を取り持つ永遠の仲介者となさいました。神はイエス・キリストに、私達の罪を身代わりに背負わせ、罪の罰を引き受けさせ、その代わりに神との和解を私たちに用意されました。2コリント5章20-21節「キリストに代わって願います。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」。神は単なる和解だけではなくて、キリストと契りを結ぶ者を神の子として取り扱って下さる、と言う新しい契約に与らせて下さいます。ヨハネ1章12節「しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えられた」。
キリストは天に帰られ今は神の右に座しておられます。そのキリストが天に帰られる前に言われました。ヨハネ16章7-8節「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする」。
弁護者(助け主・聖霊)を送ってまず罪について気付かせて下さいます。洗礼を受けると、このお方を受取り、ますます罪に気付かせて下さいます。そして、罪人を招いて救うキリストにますますお世話になって、不義なるものを義とする神の愛によって、ますます変えられて行きます。これをきよめられると言います。この様に助け主に導かれるクリスチャンを通して、神は罪について義について裁きについて世に証されます。
ヨハネ14章1-5節「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には、住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を備えに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、
あなたがたをわたしのもとに迎える」。これもイエスが天に帰られる前に語られた言葉です。天に行って私たちを迎える為の場所の用意が出来たら戻って来ます。それまで待ってなさい。「待ってなさい」それは、心を騒がせないで神を信じ、イエス・キリストを信じる事です。「待ってなさい」これは「信じなさい」と言う事も含む親の様な優しい声です。「待ってなさい」今日あなたにも声が掛けられています。今、あなたはこの言葉を信じ切って、素直に神の子どもに成れば良いのです。
2024年1月25日
出エジプト記30章31~31章17節「聖なる神の聖なる民」
メッセージはこちら
[香] 私たち日本人にとって香と聞けば葬儀を思い浮かべます。香は死者を弔う時に死臭を防ぐ目的があります。また、日本では室町時代から公家や武士による香を嗜まれ香道が生まれた歴史があります。最近はアロマ効果と言って、匂いによって気持ちを落ち着かせる目的で流行ったり、アロマセラピーという療法も行われています。仏壇や寺院で香を焚くのは人間の側だけではなくて、仏に献げるという面があるでしょうし、その薫りは、その空間が特別の場であるということを象徴しています。
今日の聖書で神は香をたく祭壇の作成と、朝夕にその香りを絶やさぬよう命じられた理由は、香りの献げ物とするためでした(8節)。宥めの香りと言われていた動物を焼く匂いに比べると、香の香りは芳香ですから、神を宥めると言うよりも神を喜ばせるものと言えます。また、常夜灯のごとくに毎日絶やしてはならないとありますから、香のかおりと煙はこの場所が特別の場所であることを象徴します。
また、レビ記16章は年一回の贖罪日に、祭司アロンが至聖所に入る時、死を招かぬために香をたきました。その煙を雲のごとくに漂わせ、神が臨在される贖いの座を覆うためでした(13節)。
また、詩編141編2節「わたしの祈りを御前に立ち昇る香とし、高く上げた手を夕べの供え物としてお受けください」は、祈りの供え物として、香の香りと煙が天に昇って行く表現になっています。この行為は新約時代まで伝統として守られていたようで、黙示録5章8節や8章4節では香の煙が聖徒たちの祈りとされています。この伝統は今もカトリック教会や正教会で引き継がれ、礼拝時に香がたかれます。
祈りは神への献げものです。祈りは律法学者がしたように聞かせるものではありません。全き献げものと言われますから、祈りは上手さ立派さではなくて、全き心、真心が問題です。出エジプト記の9節で、使う香の規定や、香をたく祭壇で香以外のものを燃やしてはならない規則が付けられ、面倒がらずにそれに従うかどうかで、真心が試されましたのではないでしょうか。10節では祭壇が祭司らと同様に贖罪を受けます。それは祭壇が人にとって聖なのではなくて、主にとって聖でなければならないからでした。
[贖い金] 12節で人口の調査のことが初めて出てきました。民数記26章2節では兵役と関係付けられています。つまり兵力はどのくらいあるのかの調査です。詩編33編17節「馬は勝利をもたらすものとならず、兵の数によって救われるものではない」や、士師記7章7節「主はギデオンに言われた。『手から水をすすった300人をもって、私はあなたたちを救い』は、神への信頼を伝えています。ですから、人口調査は神の嫌われることでした。サムエル記下24章のダビデの人口調査物語はそれを大きな罪として扱っています。それで12節では各自が命の代償を主に支払って、人口調査のゆえの災いが降りかからないよう、銀半シェケルの主への献納物が命じられています。
15節16節では、この半シェケルの銀が人口調査によって登録されたイスラエル人が神に覚えられ、その所有とされることのしるしとしての贖い金としています。それは人の地位や身分に関係無いから全員同額でした。この銀は臨在の幕屋に用いられ、イスラエルの一人ひとりが主によって覚えられるためでした。
[聖] 17節以下の、手足の清めのための洗盤は、臨在の幕屋が聖なる場であることを示しています。また、22節以下の香油も日常で使うものと区別して、この場所やここにいる者が聖と関わっていることを示しています。34節以下の香料の規定も同じだと思います。香りを楽しむための香料と主に献げるものが同一であってはならないのは聖だからです。31章11節までで、主が幕屋建設と、そこでの礼拝に関わる全てのもののデザイナーとして、名指しで技術者を指名したのも、それが聖だからでした。
カナンの神々がこのイスラエルの神とすり代えられる危険が多分にあったことは32章の金の子牛礼拝が示しています。また、レビ10章のアロンの子の規定に反した炭火使用による死。これらの危険な誘惑から民を守る為に、聖が強調されています。
安息日規定の厳しさ 31章13節、安息日を守る命令も「わたしとあなたたちとの間のしるし」と「わたしがあなたたちを聖別する主であることを知るため」という二つの理由からでした。だから17節は、私たちの主、天地創造の神を安息日の起源とします。14節15節の安息日既定の違反者に対する死刑という罰の厳しさは、カナンの神々がこのイスラエルの神とすり代えられる危険がいかに厳しい状況であったかを示している厳しさだと思います。
また、13節の「わたしの安息日」も注目すべき言葉だと思います。安息日は単なる決まりではありませんでした。「わたしの」と言われる方との関係が安息日に確かめられねばなりません。人の信仰はこの神の側からの関係に懸かっています。日曜礼拝も規則ではありません。だから、礼拝は神の招きの言葉から始まります。神主導なんです。礼拝は神の方から私たちに臨んでくださるという恵みによって成り立ちます。
幕屋も神殿も信仰もなくなり、安息日が一つの拠り所となり、一週間の中の一日を主と共に憩う日とする事は、全てを失ってしまっても行うことの出来る最後の礼拝方法だと、気付かされる日(バビロン捕囚)が来るのを、誰が予想したでしょうか。しかし、神は既に知っておられ、安息日違反者に対して死刑と言う厳しさを示されました。
25章から始まりました幕屋建設の指示前半の終わりにこの様な安息日のことまで語られているのは、これから礼拝者としてあなたがたはいつまでも歩んで行くんですよ、とおっしゃる神の思いの現れです。この思いは今の私たちにも向けられています。レビ19章2節「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である」。『礼拝者として歩みます。神のお導きを宜しくお願いします』と祈りましょう。
2024年1月18日
出エジプト記29章「聖と俗」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
イエスは「真理によって、彼らを聖なる者にしてください」と、ヨハネ17章17節で弟子たちのために父なる神に祈られました。また、自分が神の福音のために祭司の務めに召されている(ローマ15:16)と認識していた使徒パウロは、同労者のテトスへ宛てた手紙(2:14)の中で「キリストがわたしたちのために御自身を献げられたのは、・・・良い行いに熱心な民をご自分のものとして清める(聖なる者とする)ためだったのです」と、書いています。また、使徒ペトロはその第一の手紙(2:5)で、クリスチャンたちに「聖なる祭司になって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい」と勧めています。ですから、今日読みました出エジプト記29章の祭司の聖別の内容は私たちクリスチャンの立場がどの様なものであるかを示しています。
神は1-9節で若い雄牛1頭、傷のない雄の小羊2匹、一籠に入った三種のパン、清める水、式服一式、聖別の油を用いて聖別し、アロンとその子らが祭司職に就くのに、試験や資格や条件が求められず、ただ神の選びによって祭司とされたことを伝えています。出エジプト28章1節でも神が彼らを選びなした。わたし達の場合も同じく神に選ばれました(わたしがあなたがたを選び、任命したのです。ヨハネ15:16)。神ご自身が聖別されます(29:44)。しかし、神の聖別は目に見えないので、それを証しするのがこの29章で命じられている任職の儀式でした。
10-14節、任職式の最初に贖罪の献げ物を献げます。次に全焼の献げ物(15-18節)、宥めの香りを献げます。そして、燃やして主にささげる献げ物(19-25節)が献げられます。動物を屠るのは基本的に人間の代わりの犠牲です。それで毎回、アロンとその子らは手を屠る動物の頭の上に置き(10,15,19節)、彼らの罪をその動物に負わせ、その動物によって罪を贖います。
動物を屠る目的はその血にあります。12,16,20節参照。屠る時にまず血が流れるという物理的な理由もあり、その血の処理がまず問題になるのですが、罪を贖うための動物犠牲にとって大切なのは肉よりも血です。贖罪の献げ物の場合は典型的にそのことが表れています(13,14節)。脂肪は煙になり、他の肉は宿営の外で焼き捨てると指示されています。レビ17章に血に関することが記されていますが、そこを読んでみましょう。11節は「血はその中の命によって贖いをするのである」。血による食材のゆえに血は特別視され、他の食物と同様な扱いを受けてはならず、血を飲むことを禁じました。余談ですが、キリスト教系の新興宗教がこの聖句から「輸血禁止」の戒めを作るのは、的外れな読み方であるとお分りいただけると思います。
12節、血は祭壇の四隅の角に塗られます。残りは祭壇の基に流し、16節、20節b、祭壇の側面に注ぎかけ、祭壇の罪も贖われます。祭壇が罪の支配にあってはならないから、身代金を払って祭壇を神のものとするというわけです。これが無くてならないものとなっています。この祭司の任職式全体を見ましても、この祭壇の聖別が重要視されています。35節の7日間毎日ささげる贖罪の献げものがそれを物語っています。そして、37節では祭壇に触れるものがすべて聖なるものとなります。
当時、異教の祭壇があちらこちらにあったので、祭壇の聖別が強調されているのかも知れません。また、主のために祭壇を築くのは創世記8章のノアから、つまり天地創造(洪水の後は新たな天地創造といえる)以来の人間の宗教的行為の原点として出てまいります。アブラハムも祭壇を築きました。この任職式の背景には宗教行為の中に異教的なものが入らないように、その原点までさかのぼって徹底的に聖を求めている祭司の信仰があるとも言われています。祭壇の聖別の次は祭司本人とその祭服が聖別されます。20-21節参照。
屠った動物の肉体(肉や脂肪や内臓など)は祭壇で燃やされます。13,18,25節はその煙が天におられる神に向かって昇り、神を宥める香りとなります。23節以下はパンも一緒に献げて煙にします。これらの煙は祈りを表しているとも言われています。26節以下は献げられた動物の特別の肉を祭司が臨在の幕屋の入り口で食べるとあります(32節)。そして、祭司以外の一般の人は食べてはならないとあります。これは主と共にする食事です。主との交わりとしての食事です。贖いと食事は過ぎ越しの祭りでも関連させられています。この神との交わりは今も聖餐式の中に受け継がれています。
この様に見て来ますと、この徹底的な聖別は現代の礼拝というものを考えさせられます。礼拝で最も重要なのは、荘厳なパイプオルガンでも、美しいステンドグラスでも、聖なる書でも、聖なる説教者でも、聖なる聖歌隊でも、聖遺物でも、他のいかなるものでもありません。集まって者が、主の御臨在の前で命の血によって贖われ聖別されることです。
38節以下は、任職された祭司の日々の務めのことが記されています。毎日絶やすことなく宥めの香りが献げられます。礼拝は現代のプロテスタント教会の様に日曜の朝の約1時間だけではありません。毎日礼拝がささげられました。宿営のテントで営まれる神の民の世俗の生活は、礼拝がささげられている幕屋を取り囲んでいました。つまり、宿営の中心の幕屋で行われている聖なることは、俗なるものの真ん中で、それを支える形になっています。聖が俗を支える事は聖を俗から分離させる人間には不思議なことです。後に神はキリストの受肉によって、この不思議を究極の形で現されます。
45-46節は、祭司の務めを通して、宿営の中心から宿営のまわりで行われている日常に向かっての神の宣言です。この宣言は今も私たちクリスチャンになされている。「わたしは彼等の神、彼らの只中に宿る為に、彼らを選んだ神、主である」。
2024年1月11日
出エジプト記27章~28章「神の臨在、人の応答、その間に立つ祭司」
メッセージはこちら
25章から始まった幕屋建設の指示は、その中心の神が臨在なさる所から周辺へと進み、 27章で幕屋の全景が明らかになります。人間が神に応答する場が祭壇です。ここで神への献げものとして動物を捧げます。 9節以下の幕屋を囲む庭によって一つの配置が明らかになります。この 100キュビト 50キュビトの幕屋を囲い、その半分のそれぞれの真中に臨在の箱と祭壇が位置しています。つまりこの二つ、神の臨在と人の応答が幕屋の中心です。
ここから教えられることは、人の応答が「献げる」の一言に尽きることです。礼拝、祈り、賛美、献金、聖書の学び、奉仕を・・・と私たちは色々な表現をしていますが、これら全ては「献げる」と言う行為です。
さて、 3節の「用具 (祭具 )」、 9-19節の幕屋内での作業を外から隠す幔幕、そして、 20節以下の常夜灯の務め等、そこに祭司という存在が明らかになります。神の臨在と人の応答、この二つに仕える祭司が必要です。祭司はこの二つを結ぶ仲介の務めをします。
祭壇の献げものは、主の怒りを宥める香りであり、その命 (血 )で罪が贖われます。神との和解の献げものです。常夜灯は闇の中にありましても主が臨在して下さっているしるしです。1サムエル記 3章 3節、少年サムエルはその務めに就いていたようです。神の臨在に全てが懸っています。それで上質の純粋なオリーブ油が用意されました。神は夜に明かりがないと困られる方ではありません。それもこの常夜灯とは、神が我々と共に住まわれる、我々の家が夜、灯火を点して帰る家族を待つように、ここは神の家、つまり神は人と住まわれるのです。イスラエルはこの福音を永遠に伝えるために選ばれました。イスラエルを代表して祭司はこの灯火を絶やさないで神の臨在のしるしを守り続けると言う大変重要な務めを担いました。
次の 28章では祭司に関する詳しい内容となります。まず祭司の服装です。外観である服装より内面が大切であるという考えもありますが、それをここに持って来ると、ここに書いてある福音を聞き逃します。へブライ人への手紙はイエスの事を大祭司としています。この祭司に関する事は大祭司イエスの事を理解するうえで有益です。神は、神と人の仲介者に対して光栄と美 (威厳と美しさ )を添える聖なる祭服を与えられました。神はそれによって仲介者を重んじられました。光栄 (威厳 )だけではなくて美しさを添えられました。口語訳は「麗しさ」と訳しています。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」口語訳は「ああ麗しいかな、良いおとずれを告げる者の足は」。ローマ 10章 15節はイザヤ 52章 7節を引用しています。
旧約新約を通して神と人の仲介者、良い知らせを伝える者は麗しい存在とされています。わたしたちクリスチャンも麗しい存在とされているのです。その麗しさをこの祭服は証しています。
エポデはチョッキのようなものです。現代では見当がつきません。このエポデに 9節ラピス・ラズリという綺麗な石をつけて、 12節でそれにイスラエル 12部族の名が彫られイスラエルの子らのための記念の石としました。この「記念の石」という言葉はヨシュアが後にヨルダン川を渡った時にも出てきます。ヨシュア記 4章 7節。川が葦の海の時の様に堰き止められたことの記念です。この石は 3章 10節- 13節「生ける神があなたたちの間におられる」しるしです。祭司アロンがイスラエルの子らの名を両肩に付けて、主の御前に出るのは、祭司の最大の任務であった彼らを執り成すためでした。ヘブライ 7章 24- 25節は大祭司イエスの任務も執り成しとしています。
さて 15節以下の胸当ては裁きの胸当てと言われ、そのポケットの中に、イスラエルを裁く時に使うウリムとトンミムが入っています。祭司はこれを主の御前に常に持って出て、このウリムとトンミムによって神の御心を示しました。大祭司イエスはウリムとトンミムによってではなくて、御言葉と十字架と復活によって御心を示して下さいました。
33節の上着の裾に付けられた飾りと金の鈴も、 36節「主への聖なる者」と彫られた額当ても、 39節以下の長い服も、いずれも死を招くことがないためであった (35・ 43節 )。神の仲介者がもし罪を負っていたら死を招きます。それを覚悟しなければなりませんでした。その為に祭司には沢山の清めの規定がありました。
以上、祭服、エフォド、胸当て、上着、額当て、長い服の規定は、神と人の間に立ってその仲介役をする祭司が、罪ある人間であるからでした。大祭司イエスは神の子で罪が無いので、この様な掟に従う必要はありませんでした。貧しい一般人の服装でしたから、誰もこのお方が真の祭司となって下さるお方であることに気付きませんでした。
キリストが大祭司ですから、キリストの僕も弟子も、祭司の務めを担います。それで今も聖職者名の司祭や、祭服がカトリックや正教会で引き継がれています。デザインは主に新約聖書のエフェソ 6章 10節以下の神の武具に依っています。
2023年12月14日
出エジプト記26章「神の住まい」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
出エジプト26章「神の住まい」231214
1-6節で幕屋と呼ばれる囲い幕(長さ28アンマ幅4アンマの幕を10枚つなぎ合わす)、7-13節でその幕屋の上に掛ける天幕(長さ30アンマ幅4アンマの幕11枚をつなぎ合わす)、14節で天幕の上に掛ける覆い2枚。31-35節で1枚、36-37節で1枚、合計2枚の垂れ幕を作ります。それから、15-37節の中で囲い幕や天幕や垂れ幕を支える木枠を作ります。1アンマは肘から中指の先までの長さで約45センチです。例えば最初の幕は1.8メートル(4アンマ)幅で長さ12.5メートル(28アンマ)が10枚です。これらは西陣織のような分厚い織物です。これらを作る事がいかに大変な事であるかが分ります。
みなさん、パウロは天幕作りの職人でしたね。天幕で生活している人は現代でも遊牧民にいます。例えばモンゴルではパオといいます。この聖書が生まれた環境は昔から天幕生活でした。この26章に示された幕屋は基本的に住まいです。私たちは天井を見て寝ますが、天幕を見て寝るわけです。真っ暗な天幕に小さな穴があいていたら、それが星のように見えます。聖書でよく「空は大きな天幕が張られている様なもの」と言われているのも自然な事なんです。
詩編104編2節は主をたたえて「天を幕のように張り」と歌い、その後で天地創造の神をたたえ続けます。イザヤ40章22節「主は天をベール(薄絹)のように広げ、天幕のように張りその上に御座を置かれる」とあります。幕屋の中心には神が臨在される贖いの蓋(座)があります(25章参照)。神がこの世界という幕屋を張られた時も、その中に神の蓋(座)を置かれました。直接書いてありませんが、創世記3章8節「風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。」神は涼しくなったので散歩しておられた様子です。エデンに神の幕屋があってそこに住んでおられたのでしょう。それで幕屋建設と天地創造は関係があると今日まで言われて来ました。
また、天幕職人のパウロが2コリント5章1節で、「わたしたちの地上の住みかである幕屋」と言っています。これは人間の肉体のことであるが、人間が住んでいるこの世界のことでもあります。また、続いて「天にある永遠の住みか」のことを言っています。これはヨハネ黙示録21章で言われている神の幕屋が人の間にある新しい天と新しい地のことと思います。
天地創造の始め、地は混沌であって闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。そこにこの世界という幕屋が張られました。出エジプト記は荒れ野という、これも茫漠(混沌)とした空しい何も無い所(闇)で幕屋が建設されます。黙示録21章は、第二の死という大変暗い世の終わりに、神の幕屋が人とともにある新しい天と地が創造される事を伝えています。聖書は神の壮大な御計画を伝えています。
また、ノアの箱舟が第二の創造の出来事だとよく言われます。今回はモーセでしたが、あの時神はノアに箱舟建設の指示をいたしました。皆さんこの26章でアンマと言う単位が使われていますが、あの創世記6章15-16節でも同じ単位が使われ設計図的な文書となっています。箱舟は水の只中、幕屋は荒れ野の只中、箱舟の中には地のあらゆる生き物がいました。この後で詳しく見ますが、荒れ野の幕屋はこの世界のあらゆる材料で作られています。そして、両者共に救いと関係しています。ここにも大変よく似ている面があります。
さて幕屋建設材料のことですが、遊牧民ですから布は毛織物です。しかし、植物繊維の亜麻も使用されています。亜麻は荒れ野ではなくて平野の水のある所に育ちます。亜麻の撚糸は布に強度を与えました。亜麻は色がありません。青は地中海にある岩肌についているアサガオガイから採れる色素で染めた羊毛です。紫は地中海に生息するアッキ貝の分泌液から採れる色素で染めた羊毛です。使徒言行録16章に登場するリディアという婦人はこの糸で織った紫布の商人でした。緋色は黄色の混じった赤でスカーレットと言われます。これは樫の木(森林)にいるエンジ虫から採取される色素によって染めた羊毛です。これらの最初に覆う囲い幕(幕屋)や垂れ幕の材料は平地の草、海の生き物、森の昆虫、等です。また、天幕とその覆いは動物の毛皮です。そして、骨組みはアカシアの木、そして、金属は、金、銀、青銅が使われます。動物、植物、鉱物。海、平地、森林にあるもの。このように、世界中にあるものがここに揃っているのです。
このような事からヒントを受けると、この幕屋は神の造られた世界のことを表しているのではないか、と思わされます。人間だけではなくて、地のすべてのものが神礼拝に関わっています。そのように神はこの世界を造られました。荒れ野の真中でこんなものを作るのをそばで眺める人がいたら、ノアが水の無い所で船を造った時と同じように、「なんと馬鹿なことをする人たちだ」と嘲笑ったに違いありません。しかし、主の命じられた通りにモーセも造りました。ここにはこの世での信仰者の姿があると思います。今回の建設内容の半分以上が織物という仕事です。これは女性の得意な分野です。ノアの箱舟は息子のセム、ハム、ヤぺテたち男手で作ったが、幕屋建設は女手が用いられました。
最後に、私たち自身のことを考えましょう。使徒パウロは伝えています。1コリント3章10-11節「わたしは神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合」とあります。私たちもイエス・キリストを土台として家を建設せよ、と命じられています。さて、できているでしょうか。行き詰まっていないでしょうか。諦めていないでしょうか。他のことに一生懸命になっているのでしょうか。ノア、モーセの場合も私たちと同じ状況だったと思います。そんな彼らが「ガンバレ」と私たちを励ましています。
2023年12月07日
出エジプト記25章1-40節「戒めに恵みを見る」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
出エジプト記は40章あります。その中で25-31章、35-40章の13章分が幕屋の建設についての内容になっています。これは全体の約1/3の量にあたります。如何に重要であるかが分かります。幕屋建設についてまるで設計図の様に細かいことが説明されていますが、みなさん、うんざりしないで聞いていただきたいのです。読んでいて思いませんか。「図解すればもっと分り易いのに」と。しかし、なぜか聖書には図がありません。どうしてだと思いますか。この問いは何か大切なことに私たちの目を向かせてくれる、そんな気がするんです。すなわち、神の恵みに気付くことです。
一つヒントになることを紹介しておきましょう。25-31章、35-40章の間32-34章に金の子牛を建設した物語が入っていると言う構造になっています。つまり、幕屋建設の物語と、この金の子牛建設の物語とは深い関係がある、ということです。
まず幕屋建設自体はどんな意味があるのでしょうか。25章1節から40章33節まで(その中に金の子牛の物語が含まれている)の幕屋建設に関する記述の前後の言葉に注目して下さい。24章15-18節と40章34-38節です。この二つの言葉を比較すると、幕屋建設の前と後で何かが変ったことを伝えています。それは遠くシナイの山の上におられた神様が民の生活の場の真中にある幕屋(民数記2章2節参照)におられるという変化です。
もう一つ出エジプトの最初からの流れを見ると、エジプトで強制されて藁や土をこねてレンガを作り、都市建設現場で苦しい労働をし、ファラオに仕えていたが、今は荒れ野にて、おのおの進んで心からささげた最高の材料(3-7節の諸材料と10節以下の金)で幕屋を建設して神様に仕えている。これらの変化から幕屋建設とは闇の中に光が差し込むような神様の恵みを表していることが分ります。そして、この神の恵みが金の子牛の物語を囲っているのです。つまり、神様の恵みを伝える時にどうしても人間の裏切り、罪、偶像礼拝という現実を抜きにはできないということなのです。それを神の恵みで囲っています。
ある人は、この幕屋建設で細かく指示された通りに作るようにと何度も命じられ(25章9節、40節、26章30節、27章8節、36章1節、39章1節、7,26,31,32,43節、40章16,19,21,23,25,27,29,32節)ているのは、その指示通りにしないで神殿が神の住まいではなくて、王の権力の象徴や他のものに変化して行き、他の神々が混在するようになった歴史、丁度金の子牛のような歴史があったからだと言います。そして、その結果バビロン捕囚神殿破壊という事態になった。再び神の恵みを無にしてはならない、神様の言われる通りに従おう。そういう中でこの出エジプト記が神様に導かれて編纂さていったのではないかと言うのです。
その編纂の時、バビロン捕囚になる程に罪ある私たちに神様がもう一度宿ってくださるのだろうか、という救いの問題が民の中にありました。この出エジプト記はそういう中で恵みを福音を語るようにと神から示された編纂者達によったのです。
わたしもそうだなあ、と思いました。新約聖書でも初めにイエス様の受肉、そして真中に十字架(弟子の裏切り、人はキリストを捨てる、金の子牛と同じ状況)、そして後に復活と昇天と聖霊降臨と聖霊の内住。というパターンがあります。
また、聖書全体を見ましても、初めに神と共にエデンにいる人があり、真中に神から離れた人があり、最後の黙示録21章3節「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み・・・」と続きます。以下の細々した内容を以上の様な視点に立って読んで行きましょう。以下で私たちは神様の恵みを見つけるようにと言われているのではないでしょうか。
さて、箱と机と燭台を作ります。箱と机には担ぐための棒が通したまま抜かずに置かれます。燭台他一式の重さは1キカル約34キログラムです。これらは4人で移動できるように作られます。神殿になってからも箱の棒は抜かれませんでした。列王記上8章8節参照。この移動可能であるというのは、神が私たちと同じく時間と空間と言う制約の中を共に歩まれるということです。私たちの肉体は時間空間に制約されています。神様はそんな私たちの肉体と共に歩む方であることを、つまり後にイエス様が受肉なさることも含めて、この時点で既に明らかにしておられるのです。恵みですね。
贖いの座に神は臨在されます。これが一番の中心となっています。この座の下に契約の書、掟の二枚石があります。これは契約の書自体に権威が無く、その権威は神の臨在にあるということを表しています。今はこの贖いの座ではなくて、贖い主イエス様がおられます。1コリント1章30節参照。イエス様によって神の臨在が現されました(ヨハネ1章18節)。ケルビムはエデンにもいました(創世記3章24節)。神が大空を行かれる時はケルビムの一人(単数はケルブ)の上に乗って飛ばれました(詩編18篇11節)。神が臨在するところとケルビムは関係しています。贖いの蓋(座とも訳されている)の上に神様はなぜ臨在なさるのでしょうか。蓋は覆うカバーするという語源から来ています。神を見たものは死ぬと言われています(出エジプト33章20節)。今日の聖書の8節「わたしは彼らの中に住むであろう」と言われる神は、私たちの罪をカバーして、私たちと住んで下さるのです。だから、この蓋は贖いの蓋なのです。これは私たちの努力や改革ではなくて、全くの恵みによっていることを、また、この恵みに全く信頼して良いことを伝えています。
机の上のパンと燭台による常夜灯はレビ記24章以下で命じられています。この二つは人には必要ですが、神には不要なものです。しかし、神は必要となさったのです。ここにも神が人に近付いてくださるという恵みが証しされています。純金の燭台はアーモンドのかたちにデザインされます。エレミヤ1章11節で主は彼に「あなたはなにを見ているのか」と聞き「アーモンド(シャーカード)の枝を見ています(シャーカード)」と語呂合わせで答えています。アーモンドは桜の様な花でアロンの杖もそれでした。その語は目を覚まして見ていると言う語源から来ています。燭台は「あなたは何を見ていますか、目を覚ましていますか」そんな内容を私たちに問い掛けているように思います。これも恵みですね。
2023年11月30日
出エジプト記24章「み言葉による片務契約」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
今もイエスが杯を私たちに差し出して「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。」と言われます。神が私たちとなさる契約は、普通私たちが社会でする契約と違っています。「契約の締結」という題が付いていますが、正確には契約の批准でしょう。批准は既に調印された契約を後から承認し実施に移すことですから全然意味が変わってきます。神の契約は双務契約ではなくて片務契約です。
創世記15章や17章に出てくる、神とアブラハムとの契約に注目すると、神の一方的な契約であることが分かります。この24章も同じです。先週、20章から23章にある律法はまず神の誠実によって始まっていることを聞きました。神が契約され、人はその神の契約の中に入るように神から招かれます(召命)。詳しく見てまいりましょう。
24章1節「主のもとに登りなさい」という招きで始まります。ただし近付くことのできる者はモーセだけに限定されました。これはモーセに権威を持たせ指導者として特別扱いして民に従わせる必要があったからでしょう。モーセは神からの招き、民に対する召命を民に知らせます。その知らせ方に注目して下さい。3節主のすべての言葉と、すべての法を民に読み聞かせるという形でそれが行われています。主の言葉は3節、4節、8節と繰り返されます。8節、神の契約が主の言葉に基づいて結ばれます。
民は3節で「わたしたちは、主が語られた言葉をすべて行います」。7節では「わたしたちは主が語られたことをすべて行い、守ります」と繰り返して、この神の召命に答えました。民は神を見ないで、み言葉に信頼して答えました。守れるかどうか保証はできませんが、民はそう答えました。それは「自分なら守れる」という自信からではなくて、ただ神への信頼から来ている言葉です。「あなたの召しに従います」という意味です。
弟子達がイエスに従った時も同じです。神はそう言った者が後で裏切ることを知っておられても、その応答を喜ばれます。イエスも同じです。初めからそのことをも受け止めて神は契約されます。この契約に対してわたし達ができるのは、召命に答えることだけです。私たちも、洗礼を受ける時に誓約しますが、自信があるから誓約するのではなくて、神の召しに信頼して答える意味で誓約します。
4節の、モーセがすぐに主の言葉をすべて書き記しました理由も、これで解かると思います。神の民の原点であるこの神の召しを忘れない為に、そのみ言葉を書き記しました。そして、次の日の朝は早起きして祭壇の準備をし、12の石柱を建てました。5節動物犠牲が行われます。この場合6節でその動物の血をどうするかが問題とされています。7節血を人に振り掛けるというのは、その人を聖別する時に行われます。例えば29章21節で祭司が聖別される場合が参考になります。
民に主のすべての言葉を読み聞かせ、民はそれに同じく答え、その後でこの聖別の儀式が行われます。つまり、聖別はある職務への任職という意味が含まれているのです。このことは既に以前シナイ山に着いてすぐ神はモーセにおっしゃいました。「あなたたちは、わたしにとって、祭司の王国、聖なる国民となる。」19章6節。血は命と考えられていました。だから血は飲んではならないと言われていました。神の契約に命である血が流される、それを振り掛けられるとは、色々な事を思わされます。この関係はいいかげんなものではない、命が懸かっているという意味もあるでしょうし、神と命の関係(利害関係ではない)を持つという意味もあるでしょう。また、この職務が命に関わる務めである事をも伝えているとも言えるでしょう。
9-11節は祭司と民の代表としての70人の長老だけとなっています。ここで起っている事は民と無関係ではなくて、3-8節で扱われた事をより深くその内容を明らかにしている所と言えるでしょう。神を見て、飲食を共にします。神は彼らを手を伸ばされなかった。つまり、殺されなかった。この神との飲食が聖書の中ではここが初めての登場です。これはイエスによって救われた私たちは、聖餐には与りますが、未だに経験していません。終末時に起こる事です。それがここに入っているのは驚きです。
この神と交わる関係に入るために彼らは召されたのであり、またこの交わりに奉仕する為に召されたということでしょう。また、神の民と言われている私たちクリスチャンの召しも同じです。
12節からは、石の板のことや、モーセのいない間アロンとフルが民を指導することが言われます。これは後の32章の物語へと続きます。そして、15節以下は、雲が神の臨在を表し、主の栄光の中にモーセが入って行った事を伝えています。これは後の33章7節以下のモーセと神の臨在との関係、顔と顔を合わせてモーセと語られる神との関係へと発展して行きます。
この24章は今の私たちに「神の召し」というメッセージを伝えています。イエスを通してわたし達は「神との交わり」へと招かれています。また、この召しは今も神が継続して行われています。ですから、キリストの血によって新しい契約に与る私たちは、この神の御業の奉仕者として招かれています。伝道はこの神との交わりに招かれていることを伝えることですね。
2023年11月16日
出エジプト記23章20~33節「神の誠実への応答としての律法」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★出エジプト記20章以降の流れ
20-23章⇒律法・24章⇒契約・25-31章⇒律法
「先生、もうちょっとスピード上げて進みましょう」と思われても仕方のない位に20-23章は細かく読んでまいりました。それには理由があります。上に示しました図の様に、24章の契約を真中にして、20-23章と25-31章が挟んでいる、と言う構造になっています。前半で律法を与え、真ん中に契約があり、後半に律法(礼拝に関する)が続きます。そんな構造になっています。
その後32章から金の子牛礼拝と言う事件が起こり、神の計画は振り出しに戻ります。ところが34章で戒めの再授与と再契約(10節)と言う予想外の恵みを神は注いで下さいました。そしてすぐに、35章から礼拝する場所(幕屋)の建設が始まります。出エジプト記は主の栄光が出来上がった幕屋に満ちたところで終わります。レビ記は神が臨在される幕屋を中心とする礼拝生活についての詳しい内容です。このすべての準備が終わって神の民の登録と神の民の約束の地に向けての出発(この旅は結果的に40年近くかかることになります)と言う民数記に入ります。そして、その旅の終盤、ヨルダン川を渡る直前に、モーセが語った最後の説教を記したのが申命記です。
★神の誠実
イエスが律法学者たちのことをマタイ23章4節で「彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に乗せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。」と言われました。この新約に出てくる律法学者のイメージがあるので、私たちは旧約の律法を人に課せられた重荷のようなイメージを持ちやすいです。しかし、本来律法は重荷ではありませんでした。
律法の内容を注意深く見ると、~しなければならない、~してはならない、だけではない事に気付かされます。十戒の後20章22節から律法の詳細が記されて行きますが、24節に「わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する。」と神がご自分の誠実さを示されます。今日読みました23章20節以下33節までの14の言葉の中にも神の誠実が示されています。神の誠実を表す言葉九個と、民の忠誠を求める言葉五個で構成されています。圧倒的に神の民に対して誠実を尽くすことを約束されるのが多い律法になっています。ですから神は人に重荷を課する為にここで律法を与えておられるのではない事に気付かされます。律法をザーッと読み過ごすなら気付かないところです。
★神の誠実に対する人の応答を神は待っておられる
神はまず①23章20節で、約束の地を継がせることに対する誠実を約束されます。②22節で、神は民の敵に敵対し、仇に仇を報いて誠実を示す約束をされます。③23節では、たとえ強い先住民がいても、使いを送って彼らを絶やして神の誠実を示す約束をされます。④25節のパンと水の祝福、病の除去、⑤26節の子宝を授けることと、天寿全うの約束は彼らの人生の幸せに対して神の誠実を表わす約束です。⑥27節⑦28節でも、恐れや恐怖を民の前に送って、敵を敗走させ追い出して神の誠実を示す約束されます。
それから、⑧25節から26節は約束の地での祝福を約束されます。⑨29節の一年を掛けて追い出す事も、祝福された国土を受け継がせる神の配慮のゆえにそうされます。以上が九個の神の誠実です。
このような中で、民が求められている事は①21節、神が使わされる者に心を留めること。②22節語られるその声に聞き従い神の言われる通りに行うことです。③24節、偶像を徹底的に打ち砕くことを命じていますが、これは神の「わたしは彼らを消し去ろう」という中での命令でした。④32節、彼らと契約を結んではならない。⑤33節、彼らと共に住んでは成らない。この五つは命令と言うよりも、「私のこれらの九つの誠実に信頼して、あなたが応答する事を私は待っている」という神のラブコールです。
神の誠実がまずあって、それに信頼して応答することが求められている、それが律法です。しかし、人間はそれがなかなか分りません。まず神の誠実というボールがあって、それを人間に投げてキャッチボールを始められます。律法って、そういうものです。
イエスはマタイ5章17-18節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、成就するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消え失せるまで、律法の文字から一点一画で消え去ることはない。」と言われました。なぜそう言われたのか今日少し分ると思います。イエスが来て律法はいらなくなったんではありません。律法を与えられた事においても、イエスを遣わされた事においても、神の思いは同じです。変わりません。神はまず私たち人間に誠実を尽くされます。そして、人間からの応答を待ち続けておられます。
2023年11月9日
出エジプト記23章10~19節「安息に向かって進む」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
安息というのは大変深くて広い意味があります。その出所は創世記2章1-3節にあります。週の最後の日、第七日目のことです。創世記1章はこの世界がどのようにして出来たのかという過去の事をテーマにしているのではなくて、この世界の現代と未来の事をテーマにしています。つまり、人が明日に向かってこの世で生きて行くということをテーマとしている物語です。
時の単位は現代色々あります。しかし、ここでは人間なら誰でも分る基本的な週という単位が取り上げられています。聖書は難しいという先入観がありますが、それは残念なことです。聖書は学者のための書ではなくて、人間のための書です。日の出日の入りで一日が分ります。次に分るのが週です。月の位置と週が関係します。満月から新月まで約2週間、そして約4週間で元の満月に戻ります。漁師は潮の流れを見極めて漁をします。満月と新月の時が海水が入れ替わる大潮の時であると知っています。この月の満ち欠けの周期はもっと身近な家庭でも関係します。女性の排卵周期は4週です。
何事にも時があるということを昔から変わらず皆が知っていました。そして、人はこの時の中を今生き、明日に向かって生きて行くのですが、いつの時代のどの人にとっても知りたいことは、人生のゴールのことです。
創世記2章1-3節は、この週という時の流れを定められた神が第七の日に安息なさった、そして、それを今までの第一の日から第六の日と違って特別の日として聖別されました。週という基本的なサイクルの中で、時がこの特別の日に向かって行くのです。神が安息なさるなら、神に創造された私たちにも安息がある。つまりこれは人生のゴールの事を伝えている物語です。また、神とわたしが共に歩んでいるという信仰を伝えている物語です。しかし、人生の中で色々な問題に遭遇してその信仰が試され、時には揺らぎ失いそうになります。それで週の第七日目を毎週安息日として過ごすことで、その信仰のことを思い起こしました。安息年も同じ意味で生まれました。出エジプト記31章13-17節には、神が「わたしとあなたとの間のしるしであり、わたしがあなたがたを聖別する主であることを知るためのものである」と言っています。
神が共に歩まれる、そして、安息に、つまり天国とでも言い換えられるでしょうか、そこへ私たちを導いて下さる。そう言う信仰が神の民には基本的に与えられていました。安息日は信仰者にとって非常に大切な日です。聖書には安息日の事を、休息の日だけではなくて、祝いの日(ホセア2:13)、幕屋(後に神殿そして会堂)に集い聖なる集会が行われる日(イザヤ1:13,レビ23:3)、出エジプトを思い出す日(申命記5:12-15)、幕屋(後に神殿)にいけにえを捧げたり(民数記28:9)、供え物のパンを取り替える日(レビ24:8)と、色々と積極的に展開されて行きます。ですから、安息日と礼拝は深い関係にあります。
安息日の説明が少し長くなりましたが、神がわたしたちと共に歩んでいる、そして、神がわたしたちを安息に導かれる、これを確認し信じて今と未来を生き抜く、それが安息日であり、それは礼拝する日ともいえる事を知っていただきたかったのです。礼拝は人が安息に向かっている事のこの世でのしるしでもあります。
それで今日の聖書の箇所は、この礼拝と日常生活の問題が決して別問題ではない、特に日常生活の中で正義が行われる事と決して別問題ではない事を示しています。11節では野の獣の餌のことまでも関わって来るという、礼拝と世俗と決して別ではない事を伝えています。預言者はこのことを強調しました。神の民が国を築き、その歴史の中で、礼拝が神殿で熱心に成されていたが、生活が乱れていた時がありました。特に国民に対して正義が行われていなかった時代がありました。つまり、礼拝と日常生活の分離です。エレミヤ7:1-11、イザヤ1:10-17参照。
14節以下の三つの祭りも大変日常的な中で行われています。除酵祭は酵母の入らないパンを焼いて食べて礼拝します。二つの刈り入れ祭は農事の中での礼拝です。世俗的な中に礼拝が入っているのが分ります。
さて、この様に安息の事を神が人間に言葉によってお示しに成られたんですが、もっと分り易く明確にするために、時至って神は肉体をもってそれをお示しに成られました。それがナザレのイエスの出来事です。イエスは死んで復活して安息されました。もはや痛みも障害も無い安息の身体と成られました。この私たちと同じ肉体で実際に安息に到とも達されました。それによって、私たちのこの肉体が安息に向かう道をはっきりと示されました。そして、十字架の苦しみと死は、私たちの罪の身代わりに神の罰を受け、罪ある私たちが安息に向かわれる神と共に歩めるようにして下さいました。ですからイエス自身が安息になられた、とも言えます。
教会は週の七日目ではなくて、イエス様が十字架にかかって復活した日、安息に入られた日、日曜日を安息の日としています。曜日が変わりましたが、精神は変わりません。新しい安息の日、日曜日に私たちは集まって、イエスの御言葉と聖礼典をいただき、イエスに繋がって、イエスというブドウの木の枝として、イエスに倣って週日の生活を営み、安息に向かって歩みます。
これは決して難しい事ではありません。全ての人間に、いやマルコ16章15節は「全ての造られたものに」伝えるようにと言われている福音です。この世に生を受けた全てものに対する福音宣教の働きとして、安息日を守る、そしてそこから生まれた礼拝を守るのです。皆さん、礼拝出席に励んでください。今日学んだ安息日のことを意識して礼拝に出席してください。私は礼拝は神に献げるものである、と言ってまいりましたのは、礼拝が自身の宗教的気分を満たすためのものではないからです。しかし、今日、安息日を守るという律法の延長線上にあるものとして、礼拝は守るものと言えましょう。
2023年10月26日
出エジプト記23章1~9節「人を存在させる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
信仰を持つと言うことは、人間理解が根本的に変わることです。神がその人を存在させていると信じるからです。1節の偽りのうわさを流すのも、偽りの証人と成るのも、その人の存在を危うくさせることですから、それは人を侵害するだけではなくて、神を侵害することになります。人が存在する権利を基本的人権と言われますが、その権利が神から与えられている事を覚え畏れなければならない。権利の主張だけで終わってはならない。
2節「多数者」と二回出てきます。多数だから正しいとは限りません。多数決で物事が正しく判断できるかが、ここで問われています。いつからか多数決が民主主義であるかの様に教えられてきましたが、必ずしも正しい判断がなされる方法ではありません。また、3節は、何かヒュウマニズム的なことが正しい判断をするのでもない、と問うています。
4節5節は、あなたを憎んでいる敵には正義を行う義務は無いと言う誤解を紹介しています。ここで先程のポイントが重要になってきます。あなたを憎む敵であっても神が存在させている人間です。だから彼らに対しては正義を行わなくて良いとは決して言えません。箴言25章21-22節にもよく似た内容があります。
「あなたを憎む者が飢えているならパンを与えよ。渇いているなら水を飲ませよ。こうしてあなたは炭火を彼の頭に積む。そして、主があなたに報いられる。」(ローマ12章20節も引用して、善をもって悪に勝ちなさいと勧めています)。
また、イエスがマタイ5章43以下で言われている「敵を愛せよ」の命令もここから来ていると思います。神が人を存在させ、その人を裁くのも神、信仰とはそう信じて人には義を尽くことです。あなたが憎むのではなくて、相手があなたを憎んだり迫害したりする、そういう敵の事を言っているのであって、あなたが憎む人あなたが敵対視している人の事ではなくて、そうなる前の段階での戒めではありませんでしょうか?。
6節7節は、富める者はその力によって乏しい者の判決を曲げる事が出来たようです。また、偽りの発言をさせたようです。特に8節で言われている賄賂がそれを行わせました。今も昔も賄賂は正しい判断を必ず鈍らせます。だから、ここにだけ「わたしは悪人を、正しいとすることはない」という言葉が付け加えられています。「たとえ訴訟でそういうことがまかり通っても、わたしは」という意味なのでしょう。
9節、同じ立場にあった経験があれば、今その立場にある人の苦しみが良く分ります。それなのに、その人たちを苦しめるのはどうだろうか、と問うている所です。辛い目に会う事にどんな意味があるのでしょうか。同じ辛い目に会う人の気持ちを知っているから、彼らを理解する感性が与えられるということなのでしょう。新約聖書にこんな言葉があります。『神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。2コリント1章4節』
イスラエルはエジプトで寄留者の苦しみを体験しました。その苦しみの意味をここで忘れては成らないと言っています。他の誰もがしなくても、寄留者の虐げに反対することをイスラエルは出来ます。いや、すべきなのです。この様にして神は苦しみに意味を与えてくださるのだと思います。しかし、人間には理解できない苦しみがある、という限界も与えられています。それにもきっと神の深い目的があるのでしょう。
2023年10月19日
出エジプト記22章27~30節「献げることは恵み」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
神をのろってはならないことは明白な事です。この27節でまず注目したいのは、天地万物の支配者である神と人の支配者をはっきり区別している所です。この世ではそれが区別されず同一視されやすい。神をのろってはならない様に人の支配者ものろってはならない。なぜなら、人の支配者や指導者を神が立てられるからです。ここでの「上に立つ者」は「上げられた者」という語が使われています。人の支配者が神によって立てられます。モーセ、ヨシュア、士師達、サムエルから始まった預言者たち、サウル、ダビデ、ソロモンという王たちを神が立てられました。神から預言者は召命を受け、王たちは油注ぎを受けました。ですから、支配者の務めは神の御心を行う所にあります。しかし、ソロモン王以降の世襲制によって、神の選びと上に立つ者の務めが忘れられて行った歴史を聖書は伝えています(サムエル記下、列王記上下)。
また、イザヤ書は神がイスラエル以外のペルシャの王クロスを立てて、神の御心を行う様にされたことを伝えています。また、新約聖書のローマ13章1節「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。」神が上に立つ者に権威を与えられたことを伝えています。しかし、例外としてマタイ24章15節では憎むべき破壊者が聖なる場所に立つ事もあると、ダニエル書から引用しています。
神の御心を行う指導者を選ぶことが求められています。そう言う指導者を生み出す社会の形成を求められています。教会は聖書を通して神の御心を伝え、神のみ心を行う指導者がこの世に育って行くことを目差す務めを与えられています。28節以下はその指導者を生み出す母体、家庭でどの様に神の御心を行うのかを取り挙げています。
28節は収穫した初物を献げることで、これらの献げものをするのを遅らせるとは、躊躇する事です。なぜ躊躇するのでしょうか。きっともったいないと思うからでしょう。29節、長男をささげます(実際は動物の命を身代わりにして贖う事に成ります。出13章15節)。家畜の初子は八日目に献げます(レビ22章27節)。これらは皆、家庭で行われ、子供が親にどうしてそんな事をするのですか、と質問させます。神はイスラエルを救うのにエジプト中の初子を打たなければなりませんでした。時の支配者ファラオではなくて、エジプト中の初子が犠牲となったのです。また、神はイスラエルの初子をだけ打たずに、その前を過ぎ越して行く為に、羊を犠牲にするように命じられました。
この様にして救われたイスラエルはこの犠牲の事を決して忘れてはならなかったのです。本当はイスラエルもその初子を失う所だったが、神の憐れみによって他の命の犠牲によって助かりました。今あるのはこの恵みによっています。これを決して忘れてはならないのです。出エジプト記13章1-2節の「すべての初子を聖別してわたしにささげよ」を聞く時、人は何時の時代も、あの出エジプトの救いの神に出会い、神の憐れみによって、犠牲が払われて、贖われて、今の自分が存在している。恵みによって生かされていることを思い起こしした。これを忘れてはならないから実際に家畜の初子は神に献げられました。また、家畜だけではなくて、後に収穫物の初物も主のものだとされて、献げられたのです。レビ27章30節参照。神の御心は、自分が贖われた者として、それに相応しく生きる事です。これらの戒めはその原点を伝えています。
信仰とは(生きるとは)この救いに答えることですね。例えばあなたの命を救う為に誰かが犠牲になり一生盲人として生活することになりました。あなたはどうその人に答えますか。その盲人の為に材や時間や己を献げるしかありません。しかし、神が犠牲を払って贖ってくださった恵みの場合は、それに答える資格も力も私たちにはありません。しかし神はこの初物と初子の奉献によって答える場を恵みとして与えて下さいました。戒めは単なる規則や規定ではなくて恵みです。
先程紹介しましたレビ27章30節の十分の一規定は神の憐れみによって与えられた恵みです。私たちの献金もここから収入の十分の一という割合を受け継いでいます。これは義務ではありません。献金額の目安でもありません。また、献金は信仰のバロメーターとも言われますが、これも十分な説明になっていません。献金は神の憐れみによって救いに答える場として与えられた恵みです。ローマ12章1節では献金ではなくて献身を勧め、それを霊的な礼拝と名付けています。身を献げるとは、時間を献げることです。礼拝出席は自分の時間を献げているのです。礼拝はともすれば私たちの心を信仰を満足させるための時間になりがちです。しかし、それは神に時間を献けることから的外れになっています。奉仕も同じ事が言えます。この様に見てくると信仰とは献げるという一事であることに気付かされます。そして、献げることは神の憐れみによる恵みです。
30節の「聖なる者になる」とは、この世から離れることではありません。出エジプト19章5-6を読むと、神に聞き従う者が聖なる者だと分ります。神は「わたしが聖なるものだから、あなたも聖なる者となりなさい」と言われました。レビ19章2節参照。つまり神と同じ考え思いを持って聖なる者となりなさい、ということなのです。先のローマ書は2節から礼拝者がこの聖なる者、神の御心は何かをわきまえる者だ、としています。
さて、30節後半は食物規定です。この場合、神が野獣に食物として与えられたと捉えています。野獣は全部食べ尽くしません。その後を幾種類もの動物が食べる食物連鎖に従っています。ここには詩編104編27節の視野、人間が生き物の中のひとつと言う視野があります。襲われた家畜の肉を食べようと思えば食べられますが、それは他の動物の食物だから食べない。この食物規定にはそれぞれに必要な糧を備えられる神への信頼が勧められています。神に属する聖なる者とは、神に養われる者であり、イエスから日毎の糧の為に祈れと命じられた者です。
2023年10月12日
出エジプト記22章20~26節「神の特別視」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
寄留者と寡婦と孤児の三者にこの律法は特別に目を留めています。その理由はヒューマニズム(人間愛)から来ているのではありません。神はこの律法の中で22節と26節で、彼らが苦しめられて叫ぶ時、私は必ずその叫びを聞くと繰り返えされています。そして、23節は、彼らの敵が現れたら、神は彼らの側に立って剣を手に取って戦うことを伝えています。神は強い者大きい者の神ではなくて、弱く小さき者の神だから特別視されます。単に可愛そうだからと言う一時的な感情の問題ではありません。今日の所から、現代も神が特別に目を留めておられるのは誰なのかが分ります。
寄留者
さて、寄留者というのは日本人には理解しにくいと思います。なぜなら、殆どの人が住む家があり、助け合う家族親族がいるからです。土地に根を下ろせる私たちには想像のつかない存在です。信仰の父と言われるアブラハムが寄留者でした。彼のお父さんテラはカナンを目指して故郷カルデアのウルを旅立ちました。そして、その途中のハランと言う町にとどまりましたが、そこで死にました。その後、息子アブラハムも旅立ちました。これは彼らが寄留者であったことを示しています。創世記12章は、神が寄留者に希望を与えた物語でもあります。創世記23章4節、アブラハムは妻サラを葬る墓地だけ買う事が出来ました。しかし、それ以外は一歩の幅の土地も与えられない寄留者でした。使徒7章5節でステファノがそう語っています。
聖書は何も伝えていませんが、アブラハムの父テラがウルを旅立ったのには理由があったはずです。その旅立ちは現代で言う単なる引越しではなくて、ウルの社会の一員として居る事が出来ない、それで危険が伴う旅に出なければ成らない、そういう特別の理由がありました。
モーセは民に言いました。神があなたがたに土地を与えられ、そこから採れた初物を持って祭司の所へ行って、礼拝する時に、主なる神の前で告げるべき言葉はこれである(申命記26章5節)、「わたしの先祖は、滅びゆく一(さすらいの)アラム人であり・・・」。アブラハムは土地も家も親族もいない、子孫も生まれない本当に彼の代で滅んで行く者でした。当時の社会も彼を助けませんでした。寄留者とはそう言う人のことです。
彼らは神の導きによってヨセフの時代にエジプトのゴシェンと言う地域に移住しました。しかし、ヨセフを知らない王の時代に大変辛い目に会いました。エジプトの社会からみた場合、彼らは飢饉から逃れて来た一時滞在者、難民、在留異国人、つまりよそ者でした。その社会での権利は認められませんでした。これが寄留者でした。
モーセが殺人を犯して逃亡し異国にいた時に生まれた子どもに「ゲルショム」と名付けました。出エジプト2章22節にそれが「わたしは外国にいる寄留者だ」という意味となっています。寄留者には逃亡者もいたと思います。寄留者はその社会で弱い立場にあり、虐待と圧迫の的でありました。しかし、神は神の民に命じられました。あなたがたはそうであってはならない。なぜなら、あなたがたもエジプトの国で寄留者であったからである。わたしが寄留者であったあなたがたを神の民としたのは、あなたがたが寄留者に親切であるためです。ここに神の民の原点があります。1ペトロ2:9-10は私たちも神の民であることを伝えています。罪の奴隷、罪の中には真の居場所がない事に気付かされ、その中から救われて解放されて神の民とされたのが、私たちです。
日毎の糧
それで、聖書は次の寡婦や孤児と言う身寄りの無い者と、寄留者とを同じ扱いとしています。申命記24章17-22節の18節は身寄りの無い者に対してと同様に神が彼らの味方であった事を宣言され、神の民はそれを思い起こせとおっしゃいます。
貧しい者とは極貧の状態にある者のようです。彼らのその日の生活まで脅かされてはなりません。日毎の糧によって人は養われているのですが、蓄えが出来るようになるとそれを忘れてしまいます。荒れ野でマナによって、日毎に彼らを養われた方が、人の日毎の糧は奪われてはならない、とおっしゃっておられるのです。レビ19章9-10節、23章22節参照。
キリストの勧め
以上はしてはならない最低限の戒めである。イエスはそれだけではなくて、プラスαを勧められました。マタイ25章40,45節参照。そして、そこでも単に人を助ける事を言っているのではなくて、その人とイエスが関わっておられることを伝えています。ヒューマニズムではなくて、この主イエスのゆえに、勧められています。
出エジプト22章に出てくる寄留者、寡婦、孤児とは最も小さい者だったと思います。そして、イエス自身がその一人に成られたというのは、「わたしは必ずその叫びを聞く」と怒られる神が昔から目差しておられた事だったんだな、と思いました。私たちは今、具体的に何が出来るのでしょうか。トルストイが書いた「靴屋のマルチン」の物語もそのヒントを与えている一つでしょう。修道女マザーテレサがインドの貧民街の路上へ毎日向かったのも、このイエスのゆえでしょう。私たちは靴屋でも修道女でもありませんが、いと小さき者の側に立たれる神の民として、それぞれ遣わされた場で歩んでまいりましょう。
2023年10月5日
出エジプト記22章15~19節「人をもっと高く見積もれ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★婚約していない処女
基本的に寿命が短く、早死にする確立も大きかった昔は、婚期が大変早く、15節で言われている『まだ婚約していない処女』とは十代だったでしょう。『処女』と翻訳されている語の語原はセパレートと言う意味があります。女性は結婚前にその準備の為、親からセパレートされ、水汲みから始まって、燃料探し、食料の栽培、家畜の世話、料理、洗濯、裁縫、営繕、教育、自給自足の家庭を築く為のあらゆる準備をしました。その女性を誘惑して性交渉をした男性に対して、聖書は彼の行為に伴う責任の重さを強調しています。性交渉は単独ではなくて、結婚、家庭、経済等、全てとセットになっていました。近代の女性解放運動は性がそういう諸々のものから解放されることを訴えました。しかし、その解放は性を食欲と同じ性欲へと増々追いやりました。今では『処女』は「まだ手が付けられていない」と言う、物の扱いと同じ程度にしか解されなくなりました。
★人間の尊重
神が人を男と女に造られた目的は「二人が一体となる」ことでした(創世記2章24節)。性はその為に与えられました。原語は「一つの肉体になる」です。文字通りでは命である血が二人の間を行ったり来たりすることであり、それは二人が与えたり受けたりして、分ち合い、負い合うという関係が生まれることです。聖書が示す男女の性は、16節に出てくる男女が床を共にしてする性交渉だけではなく、その目指す所は、生涯共に分かち合い負い合うと言う関係です。
その為の準備をしている婚約前の処女を聖書は非常に尊重しています。少女は簡単にだまされる弱い立場の人間でした。彼女は性交渉によって、この男に今日まで準備して来た自分の全てを捧げます。彼はそれを決して小さな事として扱ってはなりません。それで聖書は彼女を守って、この男に彼女の生涯を担う責任を義務付けます。申命記22章28-29節では離婚することが出来ないと言う定めまで付け加えています。
人が尊重されない社会が人に影響を及ぼす悪は非常に大きい。これは言い過ぎても言い過ぎではありません。尊重されないところには信頼は生まれません。尊重は愛でもあります。残念ながら傷つけ合わない世界はあり得ません。これが私たち人間の世界です。だから、その傷を癒してくれる愛が必要なんです。
15節の戒めは処女がどういう立場にある人間であるかが分って初めて理解できます。この重い責任を強いられる事は、男性に軽い気持ちの誘惑を止めさせる効果があったと思います。結納金と妻を生涯養うということが、どんなに大きな責任であったかは、今の私たちの想像を越えるものです。
娘が自分を辱めた男の花嫁になって幸せになるだろうか。16節の拒否権は親の子に対する思いが表れています。万が一の場合は慰謝料の請求が行われました。
★高く見積もるべきもの
17節では、将来の事に関して神に信頼する事を命じています。呪術や占い口寄せ等は、将来に関して神以外のものから情報を得ることであり、それは神が当てにならないと言うことです。18節は、誤った性欲の満たしだけではなくて、獣の神々との交わりの事が含まれています。礼拝の中で恍惚状態に至るために獣と性的行為が行われた時代があったそうで。19節は32章に出てくる金の子牛の物語を思い出します。金の子牛に犠牲をささげる民に対して、その時神は「今は、わたしを引き止めるな。わたしの怒りは彼らに対して燃え上がっている。わたしは彼らを滅ぼし尽くし・・・」とはっきり宣言されました。
将来の事は私たちには分りません。神に頼るしかありません。十字架にかかり復活して神の右に座するイエスのゆえに、私達は将来を神に委ねます。特に死とその後のことをそうします。そして、神の御心にそって今を生きる事を追い求めます。
今回15-16節で取り扱われている男と女の問題もそうするのです。与える事と受ける事、分かち合う事と負い合う事、共に一緒にいる事、一人の人との関係を尊重する。生きている間にやるべき一番重く高く見積もるべきものがこれだと、聖書は伝えます。神は失われた一匹の羊、失った一枚の銀貨、失った一人の放蕩息子を探される、とイエスは言いました。
現代の男女関係を含めて、人と人の関係は大変軽くなって来ています。しかし、軽く見積もられて良いのでしょうか。私達は世が軽く見積もる事を重く高く見積もるようにと、神から招かれている、とイエスは伝えています。
2023年9月28日
出エジプト記21章33~22章14節「善意と信頼と責任」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
今回は財産が問題になっています。この律法の底辺には、人が不当に扱われてはならない、と言う基本的な考えがあります。エジプトから脱出して、このシナイ山で神によって一つの共同体が正式に結成されます。その時に与えられたこれらの律法はこの共同体生活の為のものでした。現代も人が集まって、大は同盟国から小はペアグループに至るまで、共同体が形成されています。その多くは共に利益に与る事を第一としています。その場合、利益が無くなった人はその共同体から去って行きます。神がシナイ山の麓でこれから作ろうとされる共同体はそうではありませんでした。神はこの共同体で人が不当に扱われてはならない事を第一とされました。これが神の御心です。
水溜めは雨水を溜める為に掘られました。安全管理の為に柵を付けるとか、蓋をするとかしなければ成らないのは今日も同じです。事故が起きた場合、水溜めの所有者の管理責任が問われます。また、飼っている牛が他の牛を突くという事故があったようです。この場合も牛の所有者の管理責任が問われます。しかし、訴える者が貧しかったり、弱かったりすると、その訴えが取り上げられず、責任も取られず、泣き寝入りしなければならなかった、と言う場合があったようです。それで賠償が定められました。33-34節と36節は過失者に対する賠償規定です。35節は過失が無かった場合です。予想できないと言うことで、どちらも同じ立場です。それで折半と言う形が取られました。
37節からの盗みに関しては厳しい態度が取られています。命や身体と同じく、財産も神からの賜物と言う考え方から来ているのでしょう。盗んだ家畜の状態で、賠償内容は変わります。無一物の場合は身売りが命じられています。1-2節では、日中に壁に穴を開けて入る所を見つけられた泥棒は捕らえられるが、命まで取られることはありません。しかし、もし殺されたのなら相手の責任を求めることが出来ます。しかし、泥棒が夜間に進入ようとした時に、殺人犯と間違えられ殺された場合は文句は言えません。
4と5節の償いは当たり前なのですが、弱い立場の人が強い立場の人から不当な扱いを受けない為に定められているものだと思います。
6と7節、隣人に対する善意からした事でも、災難が襲う時があります。ここにだけ神が介入しているのは、神が善意を重要視されるからです。託すとは、善意に信頼で答える行為です。万一災難が起こっても相手を信頼しての行為と取られています。この善意と信頼は対になっています。この関係は神が喜ばれ大切にされる関係です。7節では指示が成されていません。信頼し合う当事者に任されているのでしょう。
9から12節の預ける場合は託すと違います。預けた相手に責任を持たせています。ここには金銭のやりとりも考えられます。預かった者はそれを守る責任があるのです。しかし、なぜ死んだのか傷ついたのか分からない場合、奪うものがやって来て、それに出来る限りの抵抗をしたのだが負けて奪われてしまう場合、責任が免れました。しかし、盗まれるのは不注意が原因ですから、責任が問われました。野獣に襲われる場合は前者に属します。預かるとはお願いする事ですから、預かり代を貰ってもリスクを負う善意が無ければ預かれないものだと思います。だから、ここにも神様が介入されているのでしょう。
神様が介入するもう一つの意味として、証拠が無い時、目撃者がいない時があります。それの典型が8節です。神が働かれる所へ行って神がどう裁かれるかを待った様です。申命記17章8節以下と歴代誌下19章6節以下が参考になると思います。
13-14節、どういう場合に家畜が死んだり傷ついたりするのか、所有者が一番良く知っています。だから、それを貸す人に伝えねば成りません。所有者が借りる者と一緒にいる時は、その責任があります。それを伝えて所有者が去っていった後は借りる側の責任ということなのでしょう。所有者がいない所でも借りるとは、借りる側が責任を持つと言うことでしょう。
今回、託す、預ける、借りると言う言葉で状況の違いがあると分かりました。そして、共同体の中で生きて行くのに大切な事、善意と信頼と責任と言う言葉も出てきました。そして、神様はこの三つを重要視されていることが分ったと思います。私達も家庭や学校や職場などでこの三つを大切にして行きましょう。現実は軽んじられていると思います。しかし、神様はこの律法の書を通して「この現実に負けるな」と言って下さっているのではないでしょうか。
2023年9月21日
出エジプト記21章18~32節「律法の完成キリストを見上げて」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
この律法には非常に具体的な法廷での裁きと言う場面が想定されています。時代は違いますが、現代でも警察や裁判所で毎日この様な事件が持ち込まれています。今日、私たちは具体的な律法の解説に触れるのですが、この様な律法を授けられる神の御心に注目しましょう。
18-19節の暴力による人と人の争いは、今や石や棒を用いて外傷を負わすだけでは済まず、心に打撃を与えるハラスメントが問題になっています。同害復讐法からすると、床に就かせた者も同じように床に就かせれば良い、ということになります。しかし、ここでは復讐ではなくて、出来るだけの償いに、被害者に対する補償に重点を置いています。最後に「完全に治療させねばならない」とあります。今でいうなら後遺症に対する補償です。神は『もう争うのは止めよう』という思いを起こさせる為に、被害者の受けた障害を加害者は最後の最後まで生涯負い続けなければならない事を、最後に命じました。余談になりますが、今の時代、力ではなくてこの様な抑止力が必要ですね。
20-21節。奴隷は主人に対して無抵抗な立場です。ですから26-27節と32節でも奴隷に関することが出てきます。人にはそう言う立場にある者に対して虐げる思いを起こす性質があります。また、人は激情すると理性を失うところがあります。たたき所によっては人を死なせる可能性があります。奴隷は主人の財産として売買されましたが、彼らも守られねばなりません。この矛盾する立場の奴隷のためにどう裁けば良いのでしょうか。大変難しい判断です。21節で言われている一日か二日生き伸びた場合とは、激情した主人が我に返って、その奴隷を介抱した時の事だと思います。律法は主人を罰するよりも、奴隷に残された時間で主人が奴隷のために尽くす事を求めています。
26-27節の奴隷の目や歯への危害の発生は、彼らを非常に危険な主人のもとから自由にすることを優先しています。これ以上の被害を起こさせてはならないからでしょう。32節の奴隷の事故の場合は遺族や親族がいません。それで主人への銀30シェケル(11.4g×30=342g)の支払いとなっています。
22-25節は妊娠している女性を巻き込んだ喧嘩です。結果、女性が流産しました。お腹の子どもの賠償金が求められたら支払わなければなりません。しかし、その要求額は裁判で裁定されました。23節も復讐ではなくて基本的に償いです。命には命とは、妊婦も子どもも死んだ場合なのでしょう。ここは同害復讐法と言われます。人にはどうしても復讐しなければ納まらないという復讐心があり、その復讐が連鎖することを神は知っておられます。申命記19章15節以下では、裁判での偽証人に対して21節「憐れみをかけてはならない。命には命、・・・」と言葉を添えています。こんな事はあってはならないのです。他に命には命が出てくるのはレビ24章18節で、それは家畜の命に家畜の命ということでしょう。この出エジプト記では「憐れみを掛けてはならない」とは添えられず、憐れみの道は閉ざされていません。しかし、子どもを産み育てる母親の命への畏敬は決して忘れられてはなりません。そんな喧嘩はあってはならないのです。命には命と妊婦と胎児の死に使用されている事を厳粛に受け止めねばなりません。
28節は不慮の事故と現在で言う業務上過失致死のことを扱っています。牛は現代の飼い犬の様に一匹一匹繋いでおく事は不可能でした。生活の場には危険が付きものです。所有者には罪は無い。被害者の側に何か原因があって日頃はおとなしい牛の本能を刺激して、急に突進して来たのでしょう。その牛は石で打ち殺されねばなりません。また、その肉も食べてはなりません。命を奪ったのですから。しかし、またこの規定は動物愛護を考える前に被害者のことを考えています。人間の復讐心、怒りを神はこの規定によって癒そうとしておられます。
しかし、買主側に責任がある場合、飼い主も死刑にされます。この厳しさは牛の管理の徹底を意味します。こんなことはあってはならないのです。しかし、万一の場合は死刑からの逃れる道が開かれています。しかし、命の代償額は要求する側の自由となりました。これは遺族の問題です。同害復讐法も同じです。これも被害者と家族の問題です。被害者の家族の怒りの行き場がありません。律法が規定する罰や償いは、それらの人々の心からの怒りを取り除く働きもあります。律法は基本的に人を守るものです。しかし、現代の法律は人を守ってくれない場合がありますし、法律を利用すると言う様相を呈しています。法律がこの律法のごとくに人を真に守るものであるようにと願って止みません。
そしてイエスは私たちに対して、更なる上を目指すよう勧めておられます。主がなさった1万タラントの負債を免除してもらった僕の話があります。「わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか」と言われました。イエスは法廷を否定されたのではありません。法それ自体は共同体の最低の秩序を保つためにあります。しかし、その最低の秩序の上に、憐れみを掛ける自由を積み上げる事を、私たちの実生活の中で勧めておられます。
申命記まで長々と続く律法を引続き読んでまいりますが、「わたしは律法を廃止するためではなくて完成するために来た」とイエスが言われたからには、私たちはこの律法の学びをしっかりしないで、人間の事をしっかり見つめないで、ただ愛があればと安易に答えを出してはなりません。イエスは律法のどこを完成させられたのでしょうか。律法の完成者であるイエスを見上げて、読み進んでまいりましょう。
2023年9月14日
出エジプト記21章12~17節「人の命の主」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
ここに、「・・・した者は、必ず死刑に処せられる」との言い回しが12節、15、16、17節に繰り返されています。12節は十戒の五戒「殺してはならない(20:13)」と関係しています。しかし、13節で但し書きが加えられています。14節は殺意はあるが12節の様に暴力を振るうが死なせたとは明記されていませんので、死に至らなかったのかも知れません。「死刑に処せられる」ではなくて「処刑することが出来る」と変更しています。何れにしましても色々なケースに対応しようとしています。これは十戒が単なる厳格な硬直した戒めではなく、神の憐れみによっている事を示しています。15と17節は十戒の四戒「あなたの父母を敬え(20:12)」、16節は八戒「盗んではならない(20:15)」と関係しています。しかし、必ず死刑に処せられる、というのは厳しすぎるのではないか、と思われます。神はなぜそこまで厳しく命じられるのでしょうか。以下、詳しく読んで行きましょう。
「故意にではなく (新改訳は殺意がなく)」は、原語に「待ち伏せしない」という具体的な言葉が使われています。「伏して待つ」この言葉はサムエル記上24章12節では、サウル王がダビデの命を「奪おうと追い回す」と訳されています。サウル王は伏してダビデの来るのを待っていました。しかし、ダビデの場合はエン・ゲディーの洞窟の中で隠れていたら、神が彼の手にサウルの命を渡されました。人が死ぬ事に関して、神は人の命を奪う為に、その人の命を他の人の手に渡す時があります。人の目に偶然と見えるが、これは神がなされた業でした。
その時にダビデの家来が言いました。24章4節で「主があなたに、『わたしがあなたの敵をあなたの手に渡す。思い通りにするがよい』と約束されたのは、この時のことです」。憎しみを持たれても仕方のない人の命を、神が他の人の手に渡し殺させる場合がある。そして、神はその殺人者に対して死刑ではなくて、逃れの場を備えられます。だから、この場合サウルを殺してもダビデは死刑に処せられない、と家来は判断しました。故意にではない殺人犯に対する神の憐れみです。その通りだったのですが、ダビデの場合その時にもう一つの神の御心に目を留めて躊躇します。それはサウル王が神によって油注がれ、今もなお王だからでした。
最初の殺人を犯したカインの物語で主はカインを呪われる者とされましたが、死刑には処されませんでした。反対に彼の命を守るためにしるしを付けられました。この13節以下で故意にではない殺人犯に逃れの場が与えられる事と似ています。神の罪人に対する憐れみがここにあります。
14節の「故意に」は、悪知恵を働かせて狡猾な賢さと言う意味で創世記3章1節の蛇に対して使われている言葉と同じです。これは神の計画によって人の命が他人の手に渡される事とは全く違っています。祭壇は神が守られる所、逃れ場であったようです。しかし、この場合は神ご自身が「この者をここから連れ出せ、私はこの者を守らない」と言われます。計画を立てて殺人を犯す悪に対して、神の審きがここに示されています。
命の主
15節と17節で神は父母に対して特別な位置(ある人は聖性とも言っている)を与えておられます。父と母によって子と言う命を生み出す事のゆえに、神は彼らを特別視されました。打つだけで、あるいは口で呪うだけで死刑なのは、その特別性を表しています。その特別視があまりにも人間の理解を超えて大きいので聖なるものとも言われるのでしょう。それ程に父と母が子を生み出す所を、神の領域としています。遺伝子の分野にまで人間が関与できる時代になりました。教会は神の領域を侵犯することに関して目を光らせ、「人は何を行ってもいい」という考えに警笛を鳴らす使命があります。
16節は、人が神のものであると言う認識から、誘拐を神から盗むことだとしています。兄たちがヨセフをイシュマエル人に売ろうとしたヨセフ物語を思い出します。創世記50章20節「あなたがたがわたしに悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです」とヨセフが伝えた神は、出エジプト21章13節で故意にではなく人の命を殺めた者に逃れの場を提供される神なのです。14節以下で、死刑に処す命令を繰り返される神は「無期懲役はない、必ず死刑に処せられる」と厳しく命じて、私たちに何とか罪を犯させないようにしようとされる神なのです。
しかし、死刑に処する者が誰なのかは明記されていません。死刑を執行する主語はあくまでも隠されています。例えば民数記5章11節以下で姦淫の疑惑を持たれた妻の対処法として、聖水を飲ませる方法が記されています。もし、姦淫を侵していたなら、その水がお腹の中で苦い水に変わり、腹が膨れ腰が瘦せ衰え呪いを受ける。この様に罰は人ではなくて神がなされます。ヨハネ8章7節で主イエスが言われた「あなたがたの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」の言葉も思い出します。死刑を執行する者の名が隠されているのは、神のなさることと捉えているからなのでしょう。人の命は神の御手の中にあります。
『生きる』のは当然ではありません。恵みです。罪はそれを見えなくします。『人の死が神によっている、これはおかしなことではないか』と罪は誘います。イエスの横で十字架に付けられた一人が「お前は神を畏れないのか」ともう一人に言いました。神を恐れるとは、自分の命が神の手にあることを認めて神妙になることであると思います。ヨブ記1章21節でヨブが「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主は奪う。主のみ名はほめたたえられよ」と告白したことも思い起こしましょう。そして、使徒パウロが伝えている言葉も思い出します。「あなたには、何か、もらったものでないものがあるのですか。もしもらったのなら、なぜ、もらっていないかのように誇るのですか。1コリント4章7節」。聖書が伝えている神は、人の命の主です。十戒の四戒以下は人の命を愛し人と寄り添おうとされる神は、人の命の主でもある事を伝えています。
2023年9月7日
出エジプト記21章1~11節「人権優先の法」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
『さあ、下って行き、あなたはアロンと共に登って来なさい』(20:24)と主は言われ、主はシナイ山でモーセと語り終えられたとき、二枚の掟の板、すなわち、神の指で記された石の板をモーセにお授けになった(31:19)。語られた詳しい内容は21章から31章17節まで『法』として記されています。その法の列記順番に注目しましょう。三分の二以上が宗教に関する法なのですが、神は人権に関する法をまず示されました。主イエスによって和解させていただいた父なる神は、宗教よりも人権を優先される神です。ですから、当然私たちもそれに倣います。
また、神がこの列記順番の理由として、出エジプトと言う大きな体験を挙げておられる点も重要です。神はおっしゃりたいのです。あなたがたはエジプトの奴隷であったのをわたしが贖いました(買取りました)。あなたがたは今、人権を無視したエジプトではなくて、人を真に生かす神の支配下にあります。だから、あなたがたの価値判断も大きく変わるはずです。宗教よりも人権が優先です。
人を台無しにしてしまう罪(人権を侵す罪)から人間を真に生かす神の支配に買い取る(贖う)ために、神はその独り子イエス・キリストの命という代価を支払われました。私たちもこの神の支配下、恵みの中にあります。ですから、私たちの価値判断も大きく変わります。ですから、恵みの中にいる私たちも問われています。新約聖書テモテへの手紙第一5章以下で、身寄りの無いやもめの保護を取り上げ、その中で一番身近な家族の世話を取り上げ、それを怠る者が信仰を捨てた者である、信者でない人にも劣る者である(5:8)、と厳しく価値判断の変化を求めています。『主イエスを信じなさい、そうすればあなたもあなたの家族も救われる』と、パウロがキッパリと宣言した理由の一つとして、クリスチャンが家族を愛し大切する者に変えられて行くのを見ていたからではないでしょうか。
さて、前置きが長くなりましたが早速内容に入りましょう。まずこの法が語られた時代と現代との違いを頭に入れてから読んで下さい。当時は身売りして生きて行くしか無い悲しい人間の状況がありました。レビ記25章39節「もし、同胞が貧しく、あなたに身売りしたならば、・・・」申命記15章12節「同胞のへブル人の男あるいは女が、あなたの所に売られてきて、・・・」列王下4章1節「・・・私の夫が死んでしまいました。・・・ところが債権者が来て私の子ども二人を連れ去り、奴隷にしようとしています。」などが参考になります。小さなイスラエルは当時の社会状況に対抗して、奴隷制度を無くすことはできませんでした。しかし、奴隷に対してどの様な対応をするのかはイスラエル(へブル人の間)において、独自の選択が可能でした。出エジプト21章2節以下はその対応の仕方を定めています。
2節から6節までは、安息の年とヨベルの年の規定を元に決められています。その規定についてはレビ記25章で詳しくお話しします。人が身売りをするに至るまで何があったのか、それぞれ理由があり原因があるでしょう。しかし、他人の現在の困窮を人が利用する、そんな権利は人には与えられていない、と言う考えがこの規定の根底にあります。だから7年で奴隷は解放しました。また、失敗した者に出直しの機会、やり直しの機会を与えると言う考えが根底にありました。安息の年とヨベルの年の規定のこの様な考えはどこから生まれるのでしょうか。可能性は一つあります。奴隷で苦しんだ経験があり、大きな大きな恵みを神から無償で受けた人なら、すなわちイスラエルの民であるなら、この事を考える可能性があります。
3節、七年目には、独身であれ妻帯であれ、奴隷になる前の状態に戻ります。4節の結婚は特別でした。主人の家の維持管理運営を任せられる信頼できる奴隷を育てるために、主人は奴隷の幸せと安定を願ってその様な結婚をさせたのでしょう。しかし、七年目、奴隷には二つの選択の自由が保障されます。その家に奴隷としてきた時の独身状態で去って行くか、それとも続けて奴隷として仕えるか。5節、奴隷が自らその主人を愛し与えられた妻子をも愛して、与えられている自由を放棄し、生涯奴隷として生活を共にすることを選んだ場合、6節主人は奴隷を神のもとに連れて行きます。そして、彼の耳を錐(キリ)で刺し通します。なぜ、こんなことをするのでしょうか。
安息の年とヨベルの年の規定が説明されているレビ記25章の42節と55節では、基本的に同胞の身売りをした人々を、安息の年とヨベルの年の規定に従うゆえに、当時の社会の一般奴隷と同じ扱いをしてはならないと命じています。その根底には、イスラエルの人々をエジプトの国から導き出した主なる神、すなわち大本の主人が『あなた方全員はわたしの奴隷である』と宣言された事があります。この大本の主人が七年目は全てが解放される時だ、と宣言されるので、出エジプト記22章6節は、主人に彼を神のもとに連れて行く事を命じています。「この奴隷が自由を返上してまで自らの意思で奴隷であり続けることを希望しています」と、大本の主人に報告しました。入り口や入口の柱は、エジプトで主が過越される時に入り口の柱と鴨居に犠牲の子羊の血を塗った事すなわち贖いを思い出す場所です。耳に錐を刺し通して傷つけるのは服従の印と言われていす。主人は自分の奴隷にその印を刻んで生涯奴隷として自分に服従する事の証しとして刻むのであるが、それを入り口の柱で行うことによって、「お前はこの者を生涯自分の奴隷としようとしている。そんなあなたにわたしは命じる『これはわたしが贖ったわたしの奴隷でもある』、その事を忘れてはならない」と言われる主の事をも覚えるためだったのではないでしょうか。主人はこの奴隷を幸せにする務めを主から委託されます。
7節以下の身売りは、主人や主人の息子の一夫多妻の妻の一人として買い取る場合の事を取り上げています。こんな事はあってはならないのですが、現代の様な援助のない社会での、最悪の貧しさの中で起こった事例でしょう。そこには妻を幸せにする夫の義務と、幸せにしてもらう妻の権利が保障されました。エジプトの奴隷から神に贖われ救われた事がこの様に生活の隅々にまで影響している事は、私たちの生活に対して、十字架の贖いによって示された神の愛と、復活によって示された希望が如何に影響しているだろうか、と問い掛けています。
2023年8月31日
出エジプト記20章18~26節「神と人の間にある壁」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★神と人の間にある壁
山の上に降りて来られ神は(19:18)モーセに十戒を告げられました。山の麓に立つ民は神を直視出来ませんでした。神は雷鳴、稲妻、角笛の音、煙る山という形で彼らに現れ、彼らも恐れの余り遠く離れて立った、と18・21節で繰り返されました。19節では民も神の声を直接聞くのではなくて、モーセを通して間接的に聞くこと、つまり神との間にワンクッション置く形を要求しました。この様に近づく神と民との間に見えない壁がありました。神はその願いを受け入れ、それ以来いつも仲介者を通して人間と関わって下さいました。その後神は預言者を通して、イエスを通して、聖霊を通して、聖書を通して、教会を通して、牧師を通して、という風に。この間接性もまた神の恵み、神の配慮ですね。
20節、神は民を試すために山に降りて来られました。建築工事を始める前に、まず地盤の試掘を行います。基礎工事を着実に進めるためです。神が民を試されるもこれと似ています。『ちょっと試してからあなたたちを神の民にするかどうか決める』と、神は思うのではなくて、本腰を据えてエジプトの奴隷から救った人々を神の民とし、共に歩むことを既に決めておられ、その歩み始めにまず彼らを試されました。
それからもう一つ、神は民に罪を犯させない為に、神を畏れる畏れを民の前に置かれました。これは神と人との間にある壁のためでした。後にイエスさまが来て、この壁に突破口を開けて、神と人が通じる様になるのですが、この時はまだ、その壁がありました。この壁は人が越えられない壁と言うより、人が越えてはならない壁でした。罪ある者がそれを越えたら神の領域を侵す事になり大きな罪でした。創世記から読んで来て分かる事ですが、それは神の領域を侵そうとする人間を神が阻止して来た物語でした。神を畏れるとは、神を怖がることではなくて、神の領域を侵さないことです。これから神が本腰を入れて人と関わって行く中で、この事は必須条件なのです。
★人を偶像制作から遠ざける
モーセが神のおられる密雲に近づいて行って、主からみ言葉を聞き、遠く離れて立っているイスラエルに伝えました。その内容が22節から始まります。その内容は主に十戒の一戒ニ戒についての詳細となっています。「あなたたちは、わたしが天からあなたたちと語るのを見た。」とあります。『語るのを見る』とは不思議な言い方です。神が語る直接の言葉を聞いたのではない、神が語られたのであるがモーセを通して語られた。それを見ていた。そして、その内容をモーセから聞いた、ということでしょう。聖書は神と民の直接性を出来るだけ避けようとしています。これは偶像礼拝を何とか避けさせようとする神の配慮です。神を見たら人は必ずその像を銀や金で作ります。それも複数作ります。神はその事を知っておられるので、神と人の直接的な接点を避けられました。
★礼拝場所に注意
次に24節から祭壇について語られます。土の祭壇か、石なら自然石で作ることが命じられています。祭壇が装飾されるとそれが神の像と同じ意味を持つことになりかねません。それで礼拝が終われば、祭壇は元の自然に戻って決して神聖化されないようにしたのだと思います。また、礼拝所の固定もその土地の神聖化につながりかねません。それで自然に戻る形にするように命じられています。この様に祭壇や礼拝場所も偶像化の恐れがありましたから、祭壇は風化する材料にし、礼拝場所が固定化されない様に神は命じられました。神の細かい配慮がここに伺われます。これらの命令の背後には何でも偶像化してしまうカナンや周辺諸国の影響が強かったという状況もありました。
神は26節の階段のある高い祭壇も禁止されました。階段の段数の数がエカレートしたらそびえたつ聖なる祭壇が生まれ偶像に成りです。また、当時祭壇において性的な行為が豊穣の神に捧げられていた状況もあり、神は務めに就いている祭司の裸(隠し所)があらわにならないよう、細心の配慮をして下さいました。
そこで今日の聖書箇所から私たちが聞かなければならないメッセージは何でしょうか。
★礼拝は神の臨在に懸っている
「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」。24節から「あなたたち」から「あなた」に変わります。ここを読む礼拝者一人一人に対する神のメッセージが始まります。礼拝にとって最重要は神の臨在です。礼拝の場所が固定化されず、風化し移動するかたちにせよと、神が命じられたのは、礼拝での最重要点が毎回新鮮で真実な神の臨在だからでした。この24節はそう言う意味で重要な所です。新約聖書のマタイ18章20節にあるイエスの言葉「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」は、ここと似ています。
十戒の解説が20章22節から始まりました。その最初に礼拝の事が記されていのは非常に意味深い。旧約聖書の最後の預言書マラキ書はもう一度問いかけました。「わたしに対する尊敬はどこにあるのか。わたしに対する畏れはどこにあるのか」。そして、その後祭司に厳しく問い掛けました(1章6節以下)。そして、新約聖書に入ってイエスも早速、「わたしに向かって『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである」(マタイ7章21節)と言って誤った礼拝の事を取り上げられました。人は礼拝を誤ったものにしてしまいやすい、と言うことです。
「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」。ここで「すべての場所」と言われています。主の名を唱えて集まる所では、たとえ私達が神の臨在を感じない所でありましても全ての場所で、という事です。神の臨在は人間の感覚や感情によって左右されないという約束です。それは私たちによらず神ご自身がなさる憐れみであり、恵みです。私たちは教会の礼拝に臨む時にこの事を忘れてはならない。「わたしの名を覚えさせる所」は、「わたしの名を思い出させる所」とも訳せるそうです。名前は本人自身を表します。ですから主の名によって集まり、主の名を唱え、主を思い出し、主の事を覚え、主に立ち返る所、ルカ15章17節で放蕩息子が我に返って、自分の罪に気付き、罪の赦しを求め、御父のもとに行ってひれ伏しました。そう言う所が「わたしの名の唱えられる所」です。
説教も聖餐も五感を通して神の臨在の恵みの中に入り、謙って神に向かい、神のお取り扱いを受ける場です。イエスが「あなたたちは、命を得る為にわたしの所に来ようとしない」と諭された事を思い出します。
2023年8月24日
出エジプト記20章12~17節「未来に向かうための十戒」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
出エジプト記20章12-17節「未来に向かうための十戒」230824
十戒で「・・・しなさい」とか「・・・してはならない」と言われる神は、私たちに不自由な生き方を強制されているのではありません。神は「わたしはあなたの神である。」「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない。」とまで私たちに要求されます。これは、神からの愛の告白、プロポーズです。結婚の決心は、いい加減な気持ちでしません。わたしはあなたに全てを献げる用意がある。そういう思いで神は十戒を読む私たちの前に立っておられます。そう考えると8節の「安息日を心に留め、これを聖とせよ」は、11節の主が休まれた七日目の事から、『私たちのお休みの日は合わしましょうね。大切な日でしょ』という事になりますね。このことはモーセやエジプトから救われた人たちにとって、そして今、十戒を読む私たちにとって予想外のことです。みなさん、神はなぜ私たちに愛を告白されるのでしょうか。それは人を生かすのが愛だからです。神が望まれるのは、人が信仰深そうになることではありません。人が真に生きることです。希望を持って、未来に向かって生きることです。
十戒の構造に注目しましょう。内容的には最初の四つは神に関しての戒めで、後の六つは人に関する戒めです。もう一つ見方があります。一から三戒と六から十戒は「~してはならない」。その間にある四戒五戒の「~しなさい」がサンドウィッチされています。皆さん、サンドウィッチのどこに注目しますか。挟まれているものですね。その意味で第四戒と五戒は重要です。また、文章の形としてはどうなっていますか。聖書の文型を研究する学者が一つ発見していることがあります。聖書って前後を対称的に綴られる事が多いようです。十戒ですから前半の五戒と後半の五戒という構造です。二・三・四・五・十戒には説明文が付いています。その中で五戒の説明文「そうすればあなたは、あなた神、主が与えられた土地に長く生きることができる」は他と違います。全ての戒めの説明文としても読めます。つまり五戒の「あなたの父母を敬え」だけの説明文ではない特別の言葉です。
それで新約聖書のエフェソ6章2節では、「父と母を敬いなさい。これは約束を伴う最初の掟です」とあります。単なる戒めの説明文ではなくて約束です。神はかつて、その世代の中で神に従い無垢だったが故に生きづらかったノアに、箱舟建設の命令に続いて「わたしはあなたと契約を立てる」と約束されました。弟ハランの死と父の死に接しての悲しみの中と、妻の不妊という重荷を負うアブラハムにも神は「父の家を離れ、わたしが示す地に行け」との命令の後続けて約束を与えられました。また、神は殺人ゆえにエジプトの家族のもとに帰れないモーセに、エジプト派遣を命じた後続けて「わたしは必ずあなたと共にいる」と約束されました。ヨシュアに対しても同じでした。与えられた命を前に向かって、未来に向かって生きる為に、神は命令(戒め)と共に約束を与えられています。神は人が与えられた命を未来に向かって生きるために、十戒を与えられました。
さて、あなたの父母を敬えとは、親孝行のことではありません。「あなたの」父母とあります。すなわち、自分の命と直接関わっている父母のことです。父も母も完璧ではありません。欠点や不足や弱さがあります。そして、老いると認知症や色々な障害が起こり、看取りという問題が起こって来ます。しかし、神はあなたの父母を敬えと命じ、世界でただこの父母だけがあなたの命と直接関わっている者である、この事に比べたら上の問題は小さなことだ、と神は言われます。人の命の掛け替えの無さを尊ぶようにと十戒はここで勧めています。人が未来に向かってその命を生きる事、何があってもそれは軽んじられては成らない。わたしの目にあなたは価高く、貴い(イザヤ43:3)と神は言われます。
ですから、十戒はその人の命を「殺してはならない」と続けます。次の姦淫とは人を物の様に扱って軽んじることです。盗みと偽証は、神がある人に与えたものを他の人が奪うことです。物を奪うのが盗みであり、立場を奪うのが偽証です。これらの行為の背後には、自分は軽んじられていると言う思いがあります。それで重んじられている他人を見ると、それを奪いたい、という思いが起こります。しかし、そういう思いが起こる人を神は決して軽んじているのでありません。だから、どんなに貧しくても盗んではならない。また、どんなに悪い立場に立たされても偽証してはならない。隣人のものを欲するとは、むさぼりとも言われます。この行為の背後には、自分に与えられているものに対する不満足があります。神はあの人に5タラントン、この人に2タラントン,しかし私には1タラントンしか下さらない。そう思う人が自分の人生に希望を持たないで、後ろ向きに生きた、そんな話をイエスがされました(新約聖書マタイ福音書25章)。私たちはその人と自分が重なるのに気付かされます。ああ、私も与えられた人生に満足していない。そう言えば、エデンでアダムとエバが禁断の実を食べたのは、彼らも与えられたものに満足していなかったからでした。
十戒はそんな私たちに伝えています。心配するな、与えられているもので満足しなさい。他人と比較してはならない。神はあなたにとって必要なものを、最善なものをお与えになっている。だから、殺さず、姦淫せず、盗まず、偽証せず、隣人のものを欲せず、神に信頼を置きましょう。モーセはこの十戒を、神の民がヨルダン川を渡る前にもう一度語りました(申命記5章)。『あなたたちはこれから、神に信頼を置いて、川の向こうへ、未来に向かって生きるんだよ!』と民に言いたかったからです。そして続けて言いました(申命記8:5-7a)。「あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。」
私たちの人生でもヨルダン川を渡る様な事が起こります。最後に渡る死の川もありますが、主イエス・キリストは、十字架の贖いと死よりの復活によって、「心配はいらない、私たちがついている。父の所には新しい住まいが用意されている」との約束が与えられています。信じて未来に向かって生きて行きましょう。神は約束の土地を与えられた時、その時の指導者ヨシュアの口を通しても、私たちを激励されています。ヨシュア23章14節「主があなたがたに約束されたすべての良いことは何一つたがうことはなかった」。
2023年8月17日
出エジプト記20章1~11節「私をおいて他に」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
皆さん、もしあなたが友達に「あなたは、わたしをおいて他に友達があってはならない」、と言ったら、友達はきっと言うでしょうね。「わたしは、あなたの奴隷じゃない。わたしにも自由はある」。次の日からもう会ってくれないかも知れませんね。神も20:3で「あなたは、わたしをおいてほかに神があってはならない」と言われますが、みなさんの自由を奪うためにそう言われるのではありません。これは愛の告白です。20章には十戒という題が付いていますから、私たちは最初からここで神が十の戒めを告げておられる、と言う先入観を持って読んでしまいます。しかし、戒めと言う言葉はここには一切ありません。「私はあなたを独占したい。それ程に愛しているんだ」と、神はプロポーズされているのです。エジプトから救った人々をシナイの荒れ野に連れて来て、神は思い余って開口一番にこの大胆な言葉を語られました。これは創世記1:3で神が開口一番に言われた「光あれ」に匹敵する言葉です。
「あなたはその健やかな時も、病める時も、これを愛し、これを敬い、これを慰め、これを助け、その命の限り、堅く節操を守ることを約束しますか。はい約束します」。これはキリスト教式の結婚式で行われる誓約です。『その命の限り、堅く節操を守ることを約束しますか』とは、『あなたはこの人をおいて他の人に、あなたの操を与えてはならない。それを約束しますか』という事ですね。20:3と同じですね。この愛の告白を人にされた神は、人の応答を待たれる神でもあります。しかし、今までの歩みの中で神は人がなかなか応答してくれない、いや応答できない現実であることも知っておられましたから、4節以下でその応答の仕方を詳しく語られました。それは民数記9章まで続きます。
振り返りますと、19章でシナイ山に着いた時に、神は既にご自分の思いをもらしておられました。あの時神はモーセに「あなたたちを鷲の翼に載せて、わたしのもとに連れて来た」と不思議な言葉を語られました。最高の乗物である鷲の翼に花嫁を乗せてシナイという式場に連れて来られました。そして、「わたしはあなたをわたしの宝の民、聖なる国民にします」と、神は誓約をされたのでした。あの時19:8で民は皆一斉に「わたしたちは、主が語られることをすべて、行います」と答え、式が終わります。20章から具体的に準備にはいり、民数記10章から荒れ野の旅と言う結婚生活が始まった、と捉えることも出来るでしょう。
さて、人の造り主である神は人のことを一番よく知っています。人は他のものを神としてしまい、自分の思い通りになる神を作りやすいので、神は4-6節でそのことを取り上げました。京都はお地蔵さんがあちらこちらにあって、8月の終わり頃、あちらこちらの町内で地蔵盆という民間で広がった行事が行われます。まず、日頃は道端にあるお地蔵さんを地蔵盆の会場に、例えば町内にある駐車場に移動します。その時だけ僧侶に来てもらい、移動前に地蔵の御魂抜き、移動後は御魂入れをしてもらいます。便利なお地蔵さんです。7節の「主の名をみだりに唱える」の「みだりと」は、本気でなく偽って、空しくして、台無しにする、と言う意味で、人が神を神と認めない行動を取り上げています。これは4-6節で言われている自分の思い通りになる神を作る行動の背後にある思いであり、この行動の行き着く結果は、人が神のようになることです。ですから7節には神の厳しい態度が表明されています。人は人になるべきで神になってはならない。日本の国が明治以降、現人神である天皇を中心にして歩み、その結果が取り返しのつかない戦争になったことを、日本国民はこの8月に思い起こさなければならない。
さて皆さん、十戒ですが大きく二種類に分かれます。①・・・してはならない。②・・・せよ。人は自分の思い通りになることで幸せにならないから①が言われています。自分の好きなことをすることが幸せに通じるのでしょうか。いいえ、違います。自分の思い通りになる時は、心が奪われる時であり、心に休みが与えられない時です。それで②のことを言われました。①は私達が神とともに歩む道から右や左に逸れないためであり、②は神とともに前進するためです。
鳥を見て、ぼくもあの鳥の様に空を飛びたいなあ、と昔は思っていましたが、今は飛行機で空を飛べます。自分の好きな時に好きな事が出来るようになりました。例えばお店は何時でも開いています。社会は休み無く動き、24時間好きな時に好きな事が出来ます。便利になりました。
しかし、心が奪われている人が増えて来ています。例えば熱心に一生懸命働いている人が、急に働けなくなると言う事が起こっています。仕事に心が奪われてしまうのです。心が休まらないのです。仕事だけではなくて色々な事に心が奪われて、眠れない、休まらない、と言う人が増えて来ています。休み無く動く社会は便利に成ったが、人間の心から休みを奪いました。
神はもう既にこの時からこの問題を見据えておられたのでしょうか。それが8節以下で言われていることです。昔、安息日は仕事をしないで神の下に帰る時でした。ちょうど私たちが日曜日に礼拝に集まるのも同じです。安息日と言うのは私たちにとっては聞き慣れない言葉です。これはストップすると言う言葉でもあります。
例えば、みなさんがマラソンをしていてストップしたら、まず休憩できますね。それから、立ち止まると言うことは、今いる所が何処なのか、どんな所なのかと、走っていて気付かなかったことが見えて来ます。例えば、あっ、こんな所にきれいな花が咲いていた、ということにも気付きます。
人生立ち止まったら、もう歩けなくなる、他の人に追い抜かれる、と言って忙しくしている人もいるでしょう。しかし、立ち止まって11節にある天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、その中に人をも造られた、一番大きな方に目を留め、その方の前に立ち止まりましょう。礼拝って、これです。だから、全ての人に招かれています。
山の頂上から広い大きな景色を見たら心が安らかになります。海に行って、広い大きな海を眺めたら、気分が安らかになります。もっともっと大きな神に目を留め、その前で立ち止まる時に、わたしたちは休めます。「わたしは、あなたの神だよ」と言う呼び掛けに「あなたはわたしの神です」と答える、この接点、交わりが礼拝ですね。
2023年8月3日
出エジプト記19章「自身を献げる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
『あなたは神を見たいですか。それとも神の言葉(約束)を聞きたいですか』と聞かれたら、皆さんはどう答えますか。19章で神は見る事よりも聞く事を求められました。神は民にご自分を見させないため、12節で山の周囲に境を設けさせ、山に触れる者は死刑に処すとまで言っておられます。神を見ると言う人間の行為には、何か人間のためにならない、事があるのでしょう。だから、神は見るのではなくて聞くことを求められました。
民がシナイ山に到着して宿営し終えたのを待って、神はすぐにモーセを山に登らせて、民に対するメッセージを伝えました(3-4)。神はエジプト人にしたことを民に見せました。それから、ここまでの旅の中で神は民に奇跡を見せました。神はそれを「あなたたちを鷲の翼に載せて、わたしのもとに連れて来た」と表現して、驚くべき神のみ業を民に見せて来た目的を明らかにされました。それは彼らを神のもとに連れて来るためでした。そして、契約を守る、わたしの宝、祭司の王国、聖なる国民となる、と言う言葉(5-6)は、神のもとに来て神と深い関係を結ぶという神の目的を示しています。それで神は民に目で見るのではなくて聞く事を求められました。
21節では神を見ることに越境と言う言葉を付けています。越境と言えば天まで届く塔のある町バベル建設を神が阻止させた物語を思い出します。この様な『見る』という行為の奥には、神との深い関係を結びたいという思いではなくて、神と対抗する思いがあります。私たちも「見て把握する」と言います。見るとは相手を握り、自分の理解下に置く行為です。後に主はモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見てなお生きていることはできないからである」と言われました(33:20)。新約聖書でヨハネが後にいみじくも「いまだかつて、神を見た者はいない(福音書1:18、1手紙4:12)。父を見た者はひとりもいない(6:46)」と記しました。使徒パウロも「神は、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方(1テモテ6:16)」と記しています。
それに対して聞くと言うのは、眼の様にはっきり把握できませんが、信頼して聞くと言う関係を結ばせます。この関係を結ぶ為に神が待っているシナイに、神は民を鷲の翼に載せて連れて来られました。ですから神は厚い濃い雲や、雷鳴、稲妻、噴火や地震と言う自然現象でご自分を表されましたが、ご自身は見せておられません。
さて、関係と言うのは自分を相手に差し出す事から始まります。例えば、「わたしは末吉と言います。生まれは大阪です」と自分の一部をまず差し出して明らかに示します。それから「ではあなたは?」と会話が進み関係が始まります。出エジプト記20章から、シナイ山での契約と律法授与があり、そしてその律法の詳しい内容がレビ記まで続きます。そして民数記10章10節シナイを出発します。この間退屈な律法の説明が延々と続きます。私たちはこれからそこを読んで行くのですが、きっと途中で特にレビ記で退屈になるでしょう。しかし、そんな私たちに神がシナイに着いた民に最初に、十戒を与える前に語られた大切な言葉に注目しましょう。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である(6節)。聖なる国民、神のものとなった民(1ペトロ2:9)である私たちもこの言葉を私たちに語られている言葉として受け止めましょう。
5節、神は今から神の声(御言葉)、神の契約(約束)を私たちに差し出されます。私たちからではなくて、神の方からまずご自分を差し出されます。『わたしはこう言う者です。わたしはあなたに対してこんな事を考えています』と。皆さん、自分を差し出すって、献身のことですね。私たちが聖書を読む時、神がご自分をまず私に差し出されている、この事が起こっています。ですから驚きを持って私たちは聖書と向き合わねばならない。
10節14節の聖別や衣服を洗う事、15節の性生活の中断、これらは身の清めや禁欲の戒めではなくて、神の献身に人はどう応えられるのかを示しています。神の声(御言葉)は規則や教えではなくて、神がご自身を差し出して示された愛です。私たちは知らされています。後に神の愛は、イエス・キリストにおいて言葉ではなくて肉と成って、溢れるばかりに差し出されました。ですから、5節の「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守る」とは神の献身に対する応答としての人の献身です。信仰は何か自分の成長や向上のためにする行為ではなくて、ズバリ神に対する献身です。
最後に「境」「境界」「越境」と言う言葉がこの19章で繰り返されています。神と人には越境してはならない境界があることが強調されています。これは大変重要です。それは創造者と被造物の境です。これは絶対に越えてはならない境です。禁断の実に手を伸ばしたり、弟の命の血を大地に流したり、天に届く建造物を構築したり、創世記では人が越境する問題が語られました。そして、思いも寄らないことが起こりました。神の方から人の所に来て関係を結ばれます。シナイでの御言葉と契約はその発端的出来事で、この後、神は人との境界を越えて新たな関係造りを始められます。しかし、神は人との間にある境界をウヤウヤにされたのではありません。この境界をハッキリさせ、そしてそれを打破する、その様な新しい創造の御業を神はこのシナイから始められたのでありました。
その御業の延長線上には、イエスの受肉、苦難、復活があります。24節で祭司も越境できないと言われているように、後に建てられる神殿の聖所と至聖所の境としての垂れ幕は、このシナイ山の麓に設置された越境禁止の囲いと重なります。キリストの十字架の死によって垂れ幕が真っ二つに裂かれた、と言うのはまさにこの神の新しい御業が起こった出来事でした。そして、神が人と共に住まい、人が神の民となり、神自らが人と共にいて、その神となり、人の目から涙をことごとくぬぐい取って、死も悲しみも嘆きも労苦もない新しい天と新しい地が来るまで、神の聖なる霊がクリスチャンの身体に住まうという、神の献身づくしに、私たちは驚かされます。この与えられた生涯を通じて、それに応え続けさせていただきましょう。
2023年7月27日
出エジプト記18章「重荷を負い合う」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
神の祭司エテロとの出会い
17章では、モーセは宿営地レフィディムから、神の指示によってホレブの岩の上へ既に導かれています。この後、神の山、シナイ山などと幾つかの呼び名が出てきます。大体同じ所の様です。この辺は以前モーセがエジプトから逃亡して、ミディアンのエテロの下で羊を飼っていた時に訪れていた所でもあるようです。エテロはアブラハム・イサク・ヤコブの神の祭司でした。アブラハムはサラの死後ケトラと再婚し、ミディアンを生みミディアンは5人の子を産みました(創世記25章)。エテロはその子孫と思われます。聖書はイサクとヤコブの子孫を物語りますが、その裏でもストーリーは展開され、経緯は不明ですが、ミディアンが神の祭司となっていました。
モーセがエテロの娘と出会い、家へ招かれそのエテロと出会いました。お互いそれぞれのマイストーリーを話したでしょうね。きっと二人の繋がり、すなわち同じ神に導かれている事にも気付いたのではないでしょうか。モーセがエテロの家に住む込みで働く決意を現わした時、エテロは娘チッポラの夫として彼を迎え入れる決意をしました。親としてチッポラの婿探しをしていた所だったのかも知れませんね。この不思議な出会いに神の関りを感じます。そして、チッポラとの結婚生活中にモーセはホレブで神の召命を受けて、エジプトへ遣わされます。チッポラと息子を連れてエジプトへ向かうモーセ家族を見送りながら、エテロは神の御業を拝し、彼らのために祈ったでしょうね。
娘チッポラと孫二人は危険なエジプトから一時実家に戻り、今回の出エジプトの神のみ業を伝え聞き、エテロは一時預かっていたチッポラと孫二人を連れて、神の山ホレブに宿営しているモーセの所にやって来ました。再会し天幕の中でモーセはエテロに神のみ業を伝え、共に恵みを讃えた様子が8-11節に記されています。そして、モーセは正式にアロンとイスラエルの長老たちにもエテロを紹介し、エテロは祭司としての公の務め、焼き尽くす献げ物といけにえを神にささげました(12節)。
さて、エテロのモーセ訪問は彼の計画であると共に神の御計画でもありました。丁度、パウロが使徒として御業に加わる前にアナニアが主によって遣わされたのと似ています(使徒9:10以下)。エテロはモーセの働き振りを見て、一つのアドバイスを与えます。
裁く
「裁く」と言うモーセが行っていた働きは、神の永遠の御業です。この裁きは、懲罰ではなくて、御心が天で行われるごとく、地で神が御心を行うことです。大きく高慢になって罪を犯す者にとって、裁きは懲罰になりますが、小さく虐げられる者にとって、神の裁きは希望です。この業はモーセから始まってヨシュア、指導者のいない時期は士師(別名裁き司と言います)、そして、預言者サムエル、イスラエルの王へと受け継がれました。
ソロモンは王として立てられた時に、主が夢枕に立ち「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言われたので、「どうか、あなたの民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願いました。その後、王が堕落した時は預言者が立てられ神の裁きを伝えました。その後イエスがメシアとして来られ、実際に地上で御心を行われました。そして、天に昇り父なる神の右の座、さばきの座につかれました。そして、終わりの時に全ての人がそのさばきの座の前に立ちます(2コリント5:10、ローマ14:10)。
重荷を担い合う
モーセは「裁く」と言う大きな神の御業の為に働いていました。同労者としてエテロはモーセに対して今の自分に出来る事はないかと考え、口を挟みました。17節「あなたのやり方は良くない。」この助言をする事には勇気がいったでしょうし、この助言に従うのには謙遜がいったでしょうし、何よりもエトロを通して主が御心を示されているという信仰が必要だったでしょう。18節「このやり方ではあなたに荷は重すぎて、一人では負いきれないからだ」。エテロの提案は、神が民の中にあなたと重荷を担い合う者を備えて下さっている、という事でした。
重荷を担い合うのは便利だから効率が良いからという考えがあります。確かにここを読んでそう言う合理的な組織について語ることも出来るでしょう。しかし、エテロの頭には22節から、神にとっては大きな事件も小さな事件も大切である。どんな小さな事も見逃せない。だから重荷を分担する、という認識があったようです。教会もこの原則に従って互いに重荷を負い合います(ガラテヤ6:2)。ローマ15:1は弱さという重荷を負い合う事を伝えています。教会は伝道しますが牧会と言う中での伝道です。伝道一本の信者獲得・教団発展だけを追求し、信者家庭の崩壊は知らぬ顔という宗教に教会はなってはならない。
2023年7月20日
出エジプト記17章「主導権は誰」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
16章で旅に出発した時には言われていなかったことが今回言われています。『主の命令により』『旅程に従って』出発しました。レフィディムでの宿営は彼らが決めたのではなくて、主がお立てになられたモーセによって指示された場所でした。彼らは神に従う非常に模範的な出発をしたわけです。ところがそこに飲み水がありませんでした。
2節で民はモーセと争い「我々に飲み水を与えよ」と言いました。これは単なるモーセに要求しているのではありません。この争いは権利の主張です。以前創世記26章20節でイサクの僕たちがゲラルの谷を掘って井戸を見つけると、ゲラルの羊飼いたちが「この水は我々のものだ」と争いました。彼らはその谷の所有権を主張したのでした。無垢で、正しく、神を畏れ、悪を避けて生きていたヨブは与えられた苦難に対して神と争いました。そんなヨブに神が答えられます。「全能者と言い争う者よ、引き下がるがよい。神を責め立てる者よ、答えるがよい」40:2。モーセに対する民の争いも、「モーセ、そして神さま、主の命令に従って、旅程に従ってレフィディムに宿営しました。それなのにこれは一体どういうことですか?」と抗議する権利が自分にはある、という考えから来ている争いでした。それでモーセは彼らに「なぜわたしと争うのか。なぜ、主を試すのか」と問いました。
そして、弱い立場の子どもや、世話のかかる家畜のことを引き合いに出して、彼らは抗議し始めました。4節、それでモーセも返す答えがありませんでした。困り果て「わたしはこの民をどうすればよいのですか」と、神に向かって叫びました。彼等はモーセを石打の刑に処しようとしました。律法には神を冒涜した者に石打の刑が定められています。しかしまた、この石打の刑は聖書全体から見ると神から遣わされた者が受けた代表的な迫害でもあります。
例えばイエスが語られた「ぶどう園と農夫」の譬え(マタイ21:33以下)で、主人である神から遣わされた者を農夫が石で撃ち殺しました。また、イエスはその後、エルサレムに向かって「自分に遣わされた人たちを石で打ち殺す者よ(23:37)」と嘆かれました。イエス自身も石で殺されそうになりました(ヨハネ10:31)。ステファノは石打の刑で殉教し(使徒7:59)、パウロも石打の刑を受け死にかけました(2コリント11:25)。神から遣わされた指導者モーセと争う事は、主なる神に「これは一体どういうことですか?」と抗議することであり、「我々に水を与えよ」はまるで、この石をパンに変えたら信じてやろう、とイエスを試す悪霊のごとく響く言葉でもありました。
主導権はどちら
マタイ福音書のぶどう園の農夫は主人から土地を借りていた者であるのに、土地を自分の所有にしても良い権利を当然持っているかのごとく振る舞いました。モーセは2節で「あなたがたに主と争う権利があるのですか、主を試す権利があるのですか」と問うたのでした。彼等はあると思っていました。主の命令に従い、モーセの指示する旅程に従ったのに、この現実はどういうことですか?それでも我々の神なのですか?7節「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」、と問う事は「あなたはそれでも我々の神なのか」と言う権利を自分たちが持っているという事でした。それでモーセは「果たしてそうだろうか」と2節で彼らに問いました。皆さん、「これが私達の神だ」と私達が決めるのでしょうか。それとも「わたしがお前の神だよ」と神が言われ、私たちはそれを信じるのでしょうか。主導権は人間にあるのでしょうか、神にあるのでしょうか。この主導権の問題は私たちが信仰をする時に常に起こってくる問題です。しかし、神はお怒りにならず、モーセに飲み水を出す術を教えました。
そんな時に、8節以下でアマレクが戦いを挑んで来ました。彼等はイスラエルに与えられた水を略奪するつもりだったのでしょう。神とモーセが共にいるのにどうして戦いが起こるのかと言う問いがここでも生じます。水が与えられたら与えられたで、そこからまた次の問題が起こりました。次から次へと問題が起こって来て「これならエジプトにいた方が良かった」と言う事になりました。
しかし、神はモーセに与えた杖でまたもや奇跡を起こされました。このアマレクに対しても神が戦われました。ヨシュアが出陣したが11節はヨシュアの力によって勝利したのではない事を伝えています。モーセが手を上げたのは祈りの姿勢とも言われています。あるいは神の杖を手に持っていましたから、それを両手に持って天に掲げて、かつてその杖で神が葦の海を二つに分け、つい先日その杖で神が岩から水を出された様に、神の御業を求めたとも思われます。いずれにしても神がアマレクと戦われた事を伝えています。そして、14節でその事を文書に記録して将来この民の指導者になるヨシュアに伝える事を命じています。イスラエルを脅かす者はこれから沢山出て来ます。アマレクはそういう者の象徴とも取れます。主は代々アマレクと戦われる。主はわが旗。わたしはアマレクの記憶を天の下から完全にぬぐい去る。
これらの言葉は神の民に対する宣言ではないでしょうか。わたしこそがあなたに必要なものを全て時に応じて与え、あなたの為に徹底的に戦う神である。このわたしに従え。ぬぐい去ると言う言葉は厳しい言葉です。あのノアの経験した洪水を思い出します。私達の目から見るとこの徹底的に容赦しないで戦う神は異様に見えるかもしれません。しかし、それは温暖な風土で培われた罪や悪に対する穏やかな視点から来ています。厳しい風土で培われた聖書の視点は、罪や悪に対する徹底的な報復の神こそが救いの神であるとする視点です。
モーセが手を上げたのはこの神に対する信仰のゆえでした。そして、この手を支える者が二人います。アロンはモーセの助け手として既に主が選ばれていました。しかし、フルは初めて登場します。5節でモーセが伴った長老の一人だったのでしょう。モーセと争った長老の一人が今モーセと同じ信仰に立って彼を支えると言う嬉しい事が10節以下で起こりました。今も指導者を支える者が必要です。具体的には、祈りや献金や奉仕があります。今も神の共同体(教会)では指導者の手を支える奉仕者が求められているのです。
15節「アドナイ・ニシ(主はわが旗)」とは主が私達の主将であると言う意味でしょう。これも主が戦われる事を伝えている言葉だと思います。ヨシュアはこの頃まだ若者でありました。しかし、神は彼が次の指導者となることをもう決めておられたのでしょうか。この事を文書に書き記して記念として、それを彼に読み聞かせるようにと主は命じられました。ヨシュアはモーセから「主がアマレクと戦われる」事を読み聞かせられたのです。彼は後に告別の辞でまずこの事をイスラエルの人々の共同体に語っています。「あなたたちの神、主は御自らあなたたちのために戦ってくださった」ヨシュア23:3.10。だから、あなた方は主の命令を守り、主を愛せよ(23:6.11)。
シナイでの神との契約前に、シンの荒れ野で彼らは問われました。主導権は誰が握るのでしょうか。主でしょうか。主以外のものになっていませんでしょうか。聖餐の杯を頂く時に、これはあなたがたのために流される新しい契約の血である、との宣言を受ける私たちも同じく問われます。主導権は誰?
共同体全体で進む旅
『イスラエルの人々の共同体全体』と言う語が12章の過越しのあたりから出て来ます。一部が出発したのでも、一部が取り残されたのでもなく、彼らは全体で行動しました。一行は妻子を別にして、壮年男子だけでおよそ六十万人であった。その他、種々雑多な人々もこれに加わった。羊、牛など、家畜もおびただしいい数であった(12:37-38)。高齢者も当然いた事でしょう。体の弱い人や不自由な人もいたでしょう。そして子どもや家畜。危険な荒野旅行にとって実際足手まといになったでしょう。しかし、主はあえてこの共同体全体で旅することを求められました。それも十分な準備ができないかたちで主は彼らを旅立たせられました。
エジプトからではなくて、罪の支配から贖い出されて神の子として歩んでいるキリストの教会を、使徒パウロはこの共同体全体で荒れ野を旅する彼らと重ね、教会はキリストのからだで、信徒それぞれはその器官だと言いました。コリントの教会で優れた人や強い人が重んじられ、足手まといになる弱い人や劣る人たちが軽んぜられる風潮があったので、使徒パウロは次の様に諭しています。「それどころか、からだの中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです・・・それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています」1コリント12:22、25。
「そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです」12:18。教会員に属することを、自分勝手に扱ってはなりません。神によって置かれた事を厳粛に受け止めましょう。
2023年7月13日
出エジプト記16章「試みる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
神はモーセとアロンにエジプトを出発した月を正月、すなわち初めの月としなさい、と命じられました(12:2)。そして、その月の10日に主は過越し、民がエジプトを出たのはその後すぐだったでしょうから、第一の月の中頃までに出たでしょう。エリムからシンの荒れ野へ出発したのは第二の月の15日(16:1)ですから、シンの荒野に入るまで約1ヶ月間の旅をしてきました。この1ヶ月間に色々な体験をした民は、このシンの荒野も約1ヶ月間進み、シナイ山に到着します(19:1)。モーセと民はシンの荒れ野で新たに四つの経験(16章と18章で一つづつ、17章で二つ)をします。
エジプトを出る時に持ってきた食料も枯渇し、彼らは飢えを経験しました。預言者エレミヤが書いた哀歌にこんな言葉があります。「剣に貫かれて死んだ者は、飢えに貫かれた者より幸いだ」哀歌4:9。エジプトでは強制労働させられる苦しい生活でしたが、肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンは腹いっぱい食べていました。そのまま主の手にかかって死んだ方が、飢えに苦しんで死んで行くよりましである(16:3)と言った。彼らは食べて生きるという人間の基本行為の極限状態に置かれていました。
なぜ神が彼らに天からのパン「マナ」を、その様な状況になるまで待ってから与えられたのでしょうか。理由があるはずです。人間の基本行為である食べることは、私たちが毎日していることですが、いい加減に食べていないでしょうか。私事ですが、京都の修道院で『静まりの会』というプロテスタントの集まりがあり、参加したことがあります。個室が与えられ、決められた聖書箇所を読んで静まって黙想し、それを分かち合いました。黙想は机の前に座ってするだけではなくて、修道院の庭や森と言う自然の中で、五感を使って黙想します。食事中も静まらなければなりませんでした。それは祈りながら食事することではありません。食事前に指導者から注意がありました。「いい加減ではなくて確り食べるという事に集中しなさい。五感を使ってその美味しさを味わいますが、この『静まりの会』の食事はもう一つ大切なことに集中しましょう。食べるという行為自体における神の恵みを味わいます。口に入る前から香り色、かたち、口に入った感触、噛む行為、唾液、喉を通る、胃から以降は感覚的に不明ですが、これらの行為が出来る事は当たり前ではなくて、恵みであることに集中するために静まります」。
主イエスは荒れ野で空腹を覚えられた時に、『これらの石がパンになるように命じたらどうだ』と言う試みを受けられました。その時に「人はパンだけで生きるのではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、答えられました。聖書に書いていませんが、天でイエスを見守っておられた父なる神は思われたでしょうね。「おおー、お前は確かにわたしの愛する独り子だ。わたしが昔シンの荒れ野で、エジプトから救ったイスラエルに教えたかったのも、これだったんだよなあー」。
飢える寸前のイスラエルに天からパンを降らせた神の目的は「彼らがわたしの指示どおりにするかどうか試す」事でした(16:4)。神はこの始まったばかりの荒れ野の旅を40年後に終わらせる時に、モーセに色々話されました(申命記8:2-3)。その中でシンの荒れ野で試した事も振り返っておっしゃっています。『あの時、あなたがたの心にあること、すなわちわたしの戒めを守るかどうかを知ろうとしたんだよ。そして、人はパンだけで生きるのではなくて、わたしの口から出るすべての言葉によって生きることを知らせるためだったんだよ』。神が試みられる目的は、神を信頼するのかしないのか。その信仰を確かめることです。それが私たち人間にとって最も重要なことだからです。皆さん、私たちの最後の時にはこの信仰が必須ですね。
さて、4節で毎日必要な分だけ集める事が強調されています。イエスが「よく見なさい」と言われた空の鳥も毎日必要な分だけ見つけて食べます。毎日必要な分だけ集める。余分は集めない。人は主に養われて生かされる被造物である事を覚える為にこの様な決まりを定められました。そして、オメル升は単なる量る道具ではありません。17-18節で、それぞれ必要な分はどれだけなのかを量る道具なのです。余ることなく、足りないこともないとは、自分に必要な分、分け与えられた量を表しています。
箴言30:8を思い出します。「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしのために定められたパンで、わたしを養ってください」。また、第二コリント8章15節で使徒パウロは教会の施しという慈善の業の根拠として出エジプト16:18を引用しています。
蓄えてはならないと言うのではありません。自分に必要な分、一人ひとりが神から与えられた分を量り、人はパンだけではなくて神によって生かされている事を覚えることが求められています。これは、飽食の社会の中で一人ひとりがその所有の限度を知る必要を訴える警告であり、貧困な社会の中では一人ひとりが生きる希望の約束です。今、私たちも自分の分を日々何で量っているのか、どんな升(価値観)を使うのかが問われています。神は二つの恵みに与る事を願っておられます。私たちが与えられている自らの分をわきまえ、その恵みに与ることと、ゆとりが欠乏を補うという愛の恵みの豊かさにも私たちが与る事を神は願っておられます。主イエスが教えて下さった祈りに「私たちの日毎の糧を今日も与え給え」がありますね。目の前に糧が与えられていてもこの祈りをせよ、と言われます。それはこの二つの恵みに与れるように祈れ、とのことですね。
翌日まで残したり(16:20)、七日目に集めた人々(16:27)とは、神と係わりの無い所有物を手にして、神と係わりの無い、神を除外した生活を求めた人を表わしています。神は六日目に七日目の分も加えて必要な二日分を与えられました。32節以下の子孫代々へのオメル升に関する指示は、私たちの将来に必要なことが、主への全き信頼であることを伝えています。それを今の内に身に付ける為に主は訓練されます。安息日である七日目の分は六日目に与えられたが、翌日腐らない虫がつかないという、人間の目に見える保証は無りませんでした。しかし、24節全てを神に任せて(信頼して)七日目安息日を迎えたら問題は起こりませんでした。この七日目の安息日は神に信頼する者に対する神の保証のしるしです。このマナによる食生活は神への信頼(信仰)をしっかり持って約束の地に入るための訓練でした。この信仰の創始者(十字架の贖いによって)であり完成者である、私たちの主イエスを見つめながら、私たちも神に対する信頼(信仰)を持って約束の天国を入る為に、この地上の訓練の旅を進みましょう(へブル12:1-13)。
2023年7月6日
出エジプト記15章22~27節「苦い水を甘い水に変えられる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★苦い水が甘い水に変わる時
神は追い掛けて来たファラオの軍勢と、葦の海で戦われ、モーセが宣言した様に (14:13)民は二度と、永久にエジプト人を見ることがなくなりました。実質的(正確には外的)にこの葦の海を渡って、イスラエルはエジプトを脱出し、荒れ野の旅が始まったのだと思います。ですから今まで取り上げられなかった、荒れ野の旅で欠かせない水と食料の問題がこれから出てまいります。16 章では食料のことが取り上げられますが、何と言っても水が第一ですね。荒れ野の旅は私たち日本人にとって未経験の分野です。聖地旅行で現地を歩けば、その渇きの一端は経験できるでしょう。乾燥と高温の為、飲んでも飲んでも喉が渇きます。三日間歩いても水が得なかった(21 節)ことは、きついですね。限界に近づいた時に、マラという所で水を発見しました(22 節)。「水だ!水だぞー!」と喜んで、民はその水に向かって走って行ったのではないでしょうか。しかし、その水は苦くて飲めませんでした。この体験はきついですね。
もう少し先に進んだ 17 章のレフィディムでも飲む水が与えられませんでした。その時、民は「我々に飲み水を与えよ」と(17:2)モーセに言いますが、ここでは「何を飲んだらよいのか」と、言っています。この違いは何でしょうか。飲むための水の質を問うていますね。
聖書では他でも水質のことを取り上げている所があります。
例えば、この出エジプトした人たちの子孫が国を築きその国が滅ぼされるという、かなり先の時代に預言者エゼキエルがバビロンに捕囚され、都エルサレムが破壊された知らせを聞き、失望していた時に、主によって新しい神殿の幻を見ました。その神殿から流れる水が死海の水質を変え、魚が住む所になりました(47:9-10)。
新約聖書では、カナの町でイエスが水を葡萄酒という豊かな水質に変える奇跡を行いました(ヨハネ 2:1-11)。また、イエスが渇きを覚えた時に、スカルの井戸に水を汲みに来たサマリアの女に、「その水を飲ませて下さい」と頼みました。その時にイエスは彼女が今飲む必要のある水は、この井戸の水ではなくて、イエスが与える水であることを教えられました。それはもはや水質の豊かさを越えて、生きた水、泉、永遠の命に至る水であった(ヨハネ 4:1-42)。
この様に他の聖書箇所と比べると、今日の箇所で主が苦い水を飲める水、甘い水に変えられた事が、単に水質の変化の事ではなくて、イスラエルに飲んで欲しい水があることを主が伝えようとされているのではないでしょうか。エジプトから彼らを救ったのはその水を飲ませたいからでした。それは後にエゼキエルが幻で見る新しい神殿から流れる命の水であり、イエスが与える永遠の命に至る生きた水に繋がります。ですから、苦い水が甘い水に変わる時とは、人の救いを象徴する時です。
★不平から信頼へ
荒野の旅(私たちの場合は信仰の旅)を導く神は、必ず必要なもの(飲む物と食べる物と着る物)を備えてくださると言う信頼を持って進むのと、それ無しに我慢して進むのと、外面は同じ荒野の旅でも、その内実は全く異なります。これから後の旅で、民は何回も不平を言い、彼らの内面が荒野で暴露されました。私たちの信仰も我慢の信仰から信頼の信仰へと変えられる必要があります。一本の木を苦い水に入れると水が甘くなるという奇跡と、12 の泉と 70 本のナツメヤシのある豊かなオアシスに導き、神は彼らの不信頼が信頼に変わることを願われました。
★苦しみと神の計画
さて、マラ(苦い)と言う言葉を、人生の苦しみに置き換えて語った人がいます。それはナオミです(ルツ 1:20)。飢饉から逃れて行った異国の地で、夫と二人の息子を失って故郷ベツレヘムに帰って来た時に彼女は言いました。「どうか、ナオミ(快い)などと呼ばないで、マラ(苦しみ)と呼んでください。全能者がわたくしをひどい目に会わせたのです。」神は人生の中で私たちに苦い水を飲ませられるお方でもあります。しかし、今日の所も、またルツ記もそこには神のご計画があるのだと伝えているのです。ナオミの場合は同行すると言って聞かなかった息子嫁のルツが親族のオベデと結ばれ、孫が与えられ、その子孫にダビデが生まれ、その子孫にイエスが生まれる、と言う家系を生み出します。ナオミは孫を与えられた事で喜びに満たされますが、この家系のことを彼女が知ったなら腰を抜かすのではないでしょうか。
イエスも同じ事を伝えられました。生まれつき目の見えない人を見て、この人が生まれつき目が見えない理由を、「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。でもありません。神のわざがこの人に現れるためである」と言われました(ヨハネ 9:3)。神の御業は、この盲人が見えるようになる事では終わりませんでした。9 章 27 節で彼は自分がイエスの弟子である事を告白しました。これが御業の目標だったのです。掟と法はシナイ山で十戒としてモーセは受け取りますが、それに先駆けて主はモーセに与えられておられたのには驚きました。なぜそんなことをなさったのでしょうか。それを苦い水を甘い水に変えた所でなさいました。ここにヒントがあります。先週、葦の海を渡ってからが本格的な荒れ野の旅の始まりだ、と言いました。神はここでこの荒れ野の旅の目標をモーセに示されたのではないでしょうか。
26 節を見て下さい。主の声に必ず聞き従う。主の目にかなう正しい事を行う。主の命令に耳を傾ける。全ての掟を守る。これは神に対する応答ですね。神のプロポーズに応える。神との深い関係を結ぶ。その関係は、神がエジプト人に病を下したこととは全く正反対の神が癒すという関係です。これがこれから本格的に始まるイスラエルの荒れ野の旅の目標です。その前にイスラエルを先導するモーセ、あなた自身はどうなのか?神に応える者であるのか? 皆さん、私たちに対する神の計画も同じです。私たちは何を飲んだらよいのでしょうか。何を食べたらよいのでしょうか。イスラエルのモーセに対する不平の言葉は私たちに対する問い掛けに聞こえます。「人は神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、荒れ野でお答えになったイエスを思い出します。
2023年6月29日
出エジプト記14章15~21節「主こそいくさびと」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★戦う神の目的
スコトからエタムまで進んだのに、主は意外にも引き返すように命じられました(14:2)。その結果、ファラオはイスラエルが道に迷って行く手を塞がれ立ち往生していると見、心を頑なにし、イスラエルの後を追跡しました(14:3)。そして大きな事件が起こります。しかし、そこには神の目的がありました。このエジプト脱出の様に、神が人を選び、贖い、救われることは今も教会で起っています。そして、救われて神に導かれて、この人生を進む私たちにも事件が起こります。しかし、そこにも神の目的があります。
この事件が起こった時にモーセの姉ミリアムが歌った「主こそいくさびと、その名は主(15:3)」から今日の題を付けました。「主があなたたちのために戦われる(14:14)」。「主が彼らの為にエジプトと戦っておられる(14:25)」。主は選び救った者、これから主の民として歩もうとする者、「言われたとおりにした(14:4)」彼らの為に戦われます。その様な神であることをこの事件を通して示す、これが神の目的でした。信仰生活は平穏ではありません。色々と事件が起こります。信仰者である私たちは「今回は大変な目に会った」で終わるのではなくて、神はその事を通して、ご自分をどのように証されたのか、目を注ぐのを忘れてはなりません。
かつて「地上の氏族は全て、あなたによって祝福に入る」と、主は彼らの先祖アブラハムの選びの時に言われました(創世記12:3)。神は御自分に従うアブラハムの子孫のために戦われます。神の民はいつの時代も小さな弱い群れでしたから、不平の叫びが上がります(14:11‐12)。彼らに従う事を諦めさせる程に、回りには強い大きい者が沢山いました。それで主は戦って勝利をもたらして、彼らに『大丈夫だから、私に従って来なさい』と伝えられました。
栄光(威光)を現すと繰り返されています(14:4.17.18。15:1.21)。この栄光は勝利者としての強さを現すものではありません。それは、主に従って歩む者に、主がついているから恐れる事は無いと言う、希望の光を与える栄光です。彼らは主がエジプト人に行われた大いなる御業を見、主を畏れ、主とその僕モーセを信じた(14:31)。神を畏れ信じる人には希望があります。
★賛美歌の起源
今回初めて戦われる神と出会い、モーセの姉ミリアムが歌を作りました。これは一番最初の讃美歌と言われています。15章1節と21節の短い歌の間に、色々な歌が入っています。11節までは今回の出来事の事ですが、12-16節は与えられる土地に到着するまで、カナン地方を通過した時の事です。17‐18節は土地を与えられエルサレムに神殿を建設した時の事です。主が導かれた歴史が伺われます。13節「あなたは慈しみを持って贖われた民を導き、御力をもって聖なる住まいに伴われた」。これらは力ある世界、偶像の世界、神を神として崇めない世界の中を小さな民が主によって導かれ、それによって主に従う事を教えられました。主は戦いによって、この民にこの地で信仰によって進む事を具体的に教えられました。そして、主に従うこの群れによって地の全ての民族に祝福をもたらす為に、この群れが育ち成熟する事を神は願っておられます。
イエスの最後の告別の辞「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている(ヨハネ16:33)」は、同じ目的で今も戦われる主を連想します。
使徒パウロはローマの教会にイエス・キリストの福音の神髄を8章までまとめ、その最後は「しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。わたしは確信しています。・・・」と、キリストがその愛から私達を引き離そうとするものと戦い、圧倒的な勝利を約束していることをもって終えています。
第二コリント4章8節以下と同6章4節以下は、キリスト者として困難に会う時、自分自身が戦うのではなくてキリストが戦って下さる事を伝え、エフェソ6章10節以下は、神に戦って頂く為に神の武具を身に着けることを勧めています。
この様にパウロは今も主が戦ってくださる事を伝えています。私たちは主に従う群れとして、育ち成熟し、祝福の源となるように招かれています。その為に神は戦われます。「神の憐れみのゆえに、自分の体を・・・ささげなさい。・・・心を新たにして自分を変えていただきなさい(ローマ12:1-2)」と勧められています。
最後に、これらの事は戦争に神を駆り出して「聖戦だ」と正当化する事とは全く違います。
2023年6月22日
出エジプト記13章17~22節「完成を目指して進もう」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★救いに関して神と人の考えの違い
やっとファラオはイスラエルの民を去らせました。しかし、ファラオの気持ちがいつ変わるか分かりませんから、早く逃げなければなりません。これが私たちの考える事だと思います。地中海海岸沿いに北上するペリシテ街道が近道でした。しかし、国境沿いにエジプトの要塞がありました。神にはイスラエルをペリシテ街道へ導き、エジプトの要塞の攻撃から彼らを守る事も出来ました。しかし、神は近道ではなくて全く違う方向であった迂回路へ彼らを導かれました。
神のお考えは、ただエジプトの追っ手から逃げられたら良い、と言うのではありませんでした。ここに神と私たちの救いに対する考えの違いがあります。物理的にエジプトから逃げる事、それが神にとっての救いではありませんでした。私たちも信仰の旅を進む中で「神はなぜこんな事を為さるのだろうか。」と思う事が多々あります。しかし預言者が次の様に伝えています。イザヤ55章8-9節「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている。」
出エジプト記16章3節や17章3節は、民に「エジプトにいた方が良かった」と言う思いが、まだあった事を伝えています。民数記14章3-4節、申命記17章16節では、エジプトに帰ろうとする民の姿があります。神が目指しておられる事は、民自身がもはやエジプトに帰ろうとしなくなることでした。ですから、エジプトからの脱出は、まだ救いが始まったばかりだった、と言うことになります。
★完成を目指す救い
私達はキリストによって確かに救われています。しかし、神の計画とは、それで終わりではありません。また、私達は救われた状態を維持するのでもありません。神の計画は私達が救われた後、完成を目指して変えられて行く、新たにされて行く(2コリント4:16)事です(「きよめ」「第二の恵み」等と呼んでナザレン教会は強調して来ました)。第一コリント10章1節-13節を読むと、エジプトを脱出したイスラエルの様に、苦難や試練に会う時に神以外のものに向かおうとする性質を私達は持っています。しかし、どんな事が起こっても神が真実な方であるから、私たちを救い、新たにし続けてくださる神に導かれてまいりましょう。
★必ず顧みる
出エジプトに戻りましょう。19節でヨセフの骨の事が出て来ます。これはヨセフの遺言でした(創世記50章24節)。この旅の終わりに約束の地カナンでその骨は埋葬されます(ヨシュア記24章32節)。ヨセフはエジプトに葬られたくなかったのでしょう。しかし、ここに至って、それにはもう一つの大切な目的があった事に気付かされます。
彼らはエジプトを脱出して、これから神に導かれて信仰の旅路を進みます。すなわち救いの完成へと向かって行く彼らに、この骨が必要だったのです。このヨセフの骨は、神が必ずあなたたちを顧みられる、という福音を証しするものでした。これからの彼らにどうしても必要なのは、この福音です。彼らの前途には必ず「もう、神は私たちを見捨てられたに違いない」と思い神を求めず、他のものを神とする時があるからです。
「必ず顧みられる」と訳されていますが、原語には「かならず」と言う言葉はありません。そうではなくて「顧みる」と言う言葉を二つ続けて繰り返して強調しています。顧みるとは情け深く目を留めると言う意味です。つまり、あなたがどんなに反抗しても見捨てないと言うことです。また、訪問するvisitという意味もあります。誰も自分を訪問してくれない。誰も訪問できない。そんな孤独な時にも主は必ずあなたを訪ねて来て下さいます。
21節から雲の柱と火の柱が登場します。14章24-25節からこれは神の臨在を表している事が分かります。ヨセフの骨だけではなくて、神自身が共におられ、救いの完成へと導いて下さる印として、22節、雲の柱と火の柱が彼らから離れませんでした。
この様にこれから救いの完成を目指そうとする彼らに、恵みは溢れていました。そして「あなたも同じですよ」と今日の聖書は伝えています。信仰の旅路を進む者に、神は万全の備えをして下さいます。21節は神がエジプトを出発するイスラエルを24時間導かれた事を伝えています。尚更神は罪の支配から神の支配の中へ進む皆さんを、24時間導かれます。さあ、私たちも進みましょう。
2023年6月15日
出エジプト記12章~13章1~16節「神の主権」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
救いの出来事が、祭り化される
前回は十の災いを学びましたが、その中の最後の災いは他のものと全く区別されている事が、今日の所を読んで知らされます。この最後の災いはエジプトにとりましては、主が全ての初子を撃たれる事であり、イスラエルにとりましては、その主が彼らの初子を撃たず、その前を過ぎ越される事でした。事態は反抗するファラオをガツンと言わせて神に従わせる、と言う単純な事柄ではもはや無くなっている事に気付きます。
創立記念日とか、誕生記念日とか、結婚記念日とかで私たちは、その日で何年になるかに注目します。12章14節で言われている記念日はそれと違います。それは祭りです。エジプト中の初子の死と言う最後の災いと、その後のエジプト脱出の記録ならば12章29-42節で十分です。しかし、それに多くの祭に関する内容が付け加えられています。聖書は単なる記録ではありません。除酵祭、過越し祭、初子奉献の儀式、これらは、単なる儀式ではなくて伝道の時(家族伝道、特に幼い子どもが質問する場面が必ずある次世代伝道。12章26節、13章8節、14節参照) と成っていることに目を留めましょう。ですから、語源が『祀る』であると言われている日本の祭りとは全く違います。
伝道としての祭
初子の死。小羊を屠(ほふ)る。血を柱と鴨居に塗る。肉を焼いて食べる。酵母を入れないパンを焼いて食べる。苦菜も添えて食べる。腰帯を締め、靴を履き、杖を手にし、急いで食べる(12章1-13節)。これらの諸要素によって祭りが構成されています。
除酵祭:12章15-20節と13章3-10節は除酵祭の守り方です。この祭の起源は出エジプトの際の体験12章39節から来ています。『主があなたがたをエジプトから連れ出された』体験を再現し、12章17節、42節、51節、13章3節、9節、14節、16節で繰り返し語られています。ですから、この除酵祭はイスラエルという集団の出所、起源、原点が、出エジプトと言う主の御業に共に与った所にある、ことを伝えています。
『部隊』という言い方が12章41節や51節に出て来ます。後日、主は約束の地を彼らに与える為に戦われた時に、彼らを軍人の様に呼ばれました。そして、13章7節の『領土』と言う言葉は、イスラエルが12部族に分かれてそれぞれ神から与えられた領土から来ています。神は神の民イスラエルをこの様な主の御業に共に与ったということによって一つにまとめられました。その後、神は頑なな神の民イスラエルに代わって、宣教の担い手として私たちのキリスト教会を生み出されました。この教会を一つにまとめるものも、主の御業(イエス・キリストの十字架の血によって贖われた)に共に与る事によります。これは非常に重要なことです。
過越し祭:12章21-27節、43-51節。27節からこの祭は、命の犠牲によってイスラエルが救われた事を伝えていると分かります。また、43節以下では過越しの犠牲に与る事が、割礼を受ける事と同じくイスラエルの共同体の一員に成る条件とされています。因みに主イエスの最後の晩餐は除酵祭の中での過ぎ越しの食事でした。
13章の初子奉献は従来遊牧民の慣習にもあったそうですが、ここではそれを出エジプトの最後の災いと関係付け「イスラエルの初子は小羊の命によって贖われたのだ」という新しい意味に変わりました。幼子イエスを神殿に連れて来たヨセフとマリア(ルカ2章22-24節)は、この初子奉献の掟を守って救いの出来事を家族で確認した。そこに居合わせた老人シメオンは、幼子キリストにおいて出エジプト記の救いの完成を見た人でした。エジプトの奴隷からの贖いではなくて罪の奴隷からの贖いがキリストに於いて実現します。キリストが十字架で流された血は、かつてイスラエルの初子を贖うために屠られ流された小羊の血と関係付けて、洗礼者ヨハネは「見よ、世の罪を取り除く神の小羊」と言ってキリストを指差しました(ヨハネ1章29節)。
私たち牧師は前任の城陽教会で、聖餐のパンを日曜の朝急いで、酵母を入れないで、ボールで捏ねて焼いていました。小麦に乳と蜜の流れる約束の地のしるしとして、豆乳と蜂蜜を入れました。「イエス、キリスト、神の子、救い主」の言葉のそれぞれの頭文字(ギリシャ語)ιとχとθとuとsを、パン生地に刻み(ιχθus魚の意で、ローマ帝国下での迫害時、十字架を使えず魚の絵で信仰を表しました)、魚の形に整形して焼き上げました。
余談ですが、今日の聖書を読んで、小羊を屠って犠牲とするのは残酷で問題があると感じている人が多くいます。しかし、それは認識不足と言わざるを得ません。年一回の過ぎ越し祭で一家に一匹の羊です。私達は年に何回肉を食べているのでしょうか。それもお金を払って他人に殺させて自分の手を汚さずに肉を食べています。命の犠牲のことなど全然考えないで肉を食べています。どちらが残酷なのでしょうか。私達は命を食べているのに、現代社会は命を商品に代えて実態を見えなくしてしまいました。こちらの方が大いに問題があり、一考する必要があります。
伝道
13章9節「この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない」。16節「この言葉を腕に付けてしるしとし、額に付けて覚えとしなさい」と繰り返されています。これは祭りの時の様な特別な時に限らず、日常生活への浸透と考えられます。ですから詩編1編にも「いかに幸いなことか、・・・主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人は」とあります。以前京都のキリスト教会の集まりで、生活備品を新しくする時に正教会では、それに聖水を振り掛け、司祭が救いの御業に用いられる事を祈って聖別するのは、この伝統を受け継いで福音を日常の中に浸透させる行為、伝道ですと京都の正教会の司祭から聞きました。プロテスタント教会は旧教会に反発して生まれる時に、この様な純粋な伝統も全て切り捨てた歴史があります。教会生活と共に、日常生活も私たちにとって大切な伝道の現場だと言う伝統は大切ですね。
2023年6月8日
出エジプト記7章14節~11章1 節「神の憐れみによる」
メッセージはこちら
★10の災いの目的
主は10の災い(7:14-12:36)をモーセとアロンを通してエジプトで行われました。結果的には10番目のエジプト中の初子の死によって、ファラオは民をエジプトから去らせます。神はどうして、わざわざ1から9番目までの災いを行われたのでしょうか。それに答えている幾つかの聖書の箇所を紹介しておきましょう。
「わたしの強い手(6:1)」をモーセが知る。
「わたしは主である(7:17)」ことをファラオが知る。
「我々の神、主のような神がほかにいない(8:6)」ことをファラオが知る。
「大地は主のものである(9:29)」ことをファラオが知る。
「彼とその家臣の心を頑迷にしたのは、わたし自身である。それは彼らのただ中でわたしがこれらのしるしを行うためであり、わたしがエジプト人をどのようにあしらったか、どのようなしるしを行ったかをあなたが子孫に語り伝え、わたしが主であることをあなたたちが知るためである(10:1-2)」
「主がエジプトとイスラエルを区別しておられることを知るでしょう。(11:7)」
これらの聖句から、この10の災いを子孫に物語って、我々の神がどういう神なのかを伝えたと言う歴史が考えられます。そして、今もこの物語は私達にそれを伝えています。私達の神は『強い御手』を持っておられる方です。『主』なる神です。他にいない神です。『大地の主』です。そして、人を聖別する神です。
★人の頑なさ
また10の災いは、頑ななファラオの姿をクローズアップします。
「ところが、エジプトの魔術師も秘術を用いて同じことを行ったのでファラオの心はかたくなになり、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。7章22節」
「ファラオは一息つく暇ができたのを見ると、心を頑迷にして、また、二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。8章11節」
「魔術師はファラオに『これは神の指の働きでございます』と言ったが、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりです。8章15節」
「主はモーセの願いどおりにされ、あぶはファラオと家臣と民の間からすべて飛び去り、一匹も残らなかった。しかし、ファラオは今度もまた心を頑迷にして民を去らせなかった。8章27-28節」
「ファラオが人を遣わして見させたところ、イスラエルの家畜は一頭といえども死んでいなかった。それでも、ファラオの心は頑迷になり民を去らせなかった。9章7節」
「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、彼は二人の言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである。9章12節」
「ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。ファラオの心はかたくなになり、イスラエルの人々を去らせなかった。主がモーセを通して仰せになったとおりである。9章35-36節」
「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオはイスラエルの人々を去らせなかった。10章20節、11章10節」
「しかし、主がファラオの心をかたくなにされたので、ファラオは彼ら去らせようとはしなかった。10章27節」
★神の憐れみによって
ファラオの心が、いかに頑なであるかが分かります。また、神自身がファラオの心を頑なにされたと書いてある所もあります。みなさんはここを読んでどう思われますか。ローマ9章12節-22節は出エジプト9章16節を引用して、頑なにすることにも神のご計画があり「人は人間の頑なさを批判できない」と言っているようです。人が救われる、召される、選ばれるとは、本当に人の意思や努力ではなくて、神の憐れみによるものである(ローマ9章16節)という所に立つ時にのみ、頑なにしたいと思う者を頑なにされる神を信じることができるのではないでしょうか。
マルコ16章14節で復活のキリストは頑なな11使徒達をとがめた後で(「彼らの不信仰と頑なな心をおとがめになった。」)、彼らを全世界へと派遣し、使徒達を福音宣教、教会の先達として立てられました。それは全く神の憐れみによって教会の歩みが始まった、と言うことです。私達はこの頑ななファラオを見て、まず、何を聞くべきなのでしょうか。ここを読んで自分の頑なさや、他人の頑なさを批判することもできますが、救われていることが、人の意思や努力ではなくて、全く神の憐れみによっている、と言うことに目を留めるようにと、聖書は語っているのではないでしょうか。ここで二つの聖句を思い起こします。
あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。ヨハネ15章16節
あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それは、あなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。エペソ2章8節
使徒パウロはこの神の憐れみによって、ローマ書12章以下でクリスチャンのありようを勧めるのに、開口一番「神の憐れみによって」と語り出しました。この憐れみを忘れた時、高ぶる者になり、恵みから抜け落ちる為、パウロは他の手紙で幾度も勧めています。
ですから、その招きにふさわしく歩み、一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。エペ4章2節
あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。コロ3章12節
2023年6月1日
出エジプト記7章8節~13節「神の主権」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★主の主権を認める
ファラオとはエジプト社会のトップ、最高権威者です。このファラオと神との対決がモーセとアロンを通して、これから始まります。この対決とは、主権はどちらにあるのかと言う対決です。9節『奇跡を行ってみよ』というファラオの要求には、自分が主権者であると言う背景があります。主はアロンに杖を取らせてファラオの所へ遣わされました。杖とは権威を象徴するものです。私たちは杖が蛇になると言う魔法に感心していては成りません。エジプトの魔術師たちも秘術を用いて11節で同じ事を行いました。この後、10の災いが神様によって下された後、ファラオはイスラエルの民をエジプトから去らせるのですが、このエジプト脱出とは、主の主権にファラオも遂に従った、と言う物語です。
12節の蛇になったアロンの杖が魔術師の杖を飲み込んだのは、主に主権があること、「その主権を認めなさい」と言うメッセージでした。しかし、13節ファラオは、主の主権を認めませんでした。以前から主が仰せになった通りです。人間が主の主権を認める、というのはそう簡単ではないのです。
★約束の地に入るには
アロンの杖については民数記17章8節以下でもう一度取り上げられています。イスラエルの12部族それぞれが一つの杖を出し12本合わせたところ、その中のレビ族の杖(アロンの杖)だけが芽を吹き、つぼみを付け、花を咲かせ実を結びました。その後17章25節で、主はその杖を反逆した者たちに対する警告のしるしとして保管しなさい、と命じられています。どんな反逆をしたかと言うと、16章1節から読むと分かるのですが、8-11節を読んで見ましょう。
祭司アロンの下で仕えるようにとレビの子らを主が選んだのに、レビの子らは、その主に逆らってアロンの祭司職をも要求したのでした。これはイスラエルのレビ族でさえ主の主権を認めていなかったことを伝えている物語です。民数記とは、エジプトを脱出したイスラエルが約束の地に入る前に、40年間荒れ野の旅をしなければ成らなかったと言う物語です。つまり、今の状態では約束の地に入れませんでした。何が問題だったのでしょうか。それは主の主権に対する態度です。
★主の主権に対する態度
カナンの地には先住民がいます。その土地を侵略するのでも、彼らと同化するのでもなく、主からいただきます。その時に最も重要になってくるのが、主の主権を認めることでした。イスラエルの民はそれを認めませんでした。民数記12章はアロンとミリアムが主が特別に立てられたモーセを非難して、主の主権を認めませんでした。20章ではモーセも主の命令に従わずメリバの水を出す時に、自分の判断する方法で水を出して、主の主権を認め無かった事を伝えています。それで神はヨルダン川を渡ることを許されませんでした(申命記32章51節)。この様に見て来ると、如何に主の主権を人間が認めることの難しさを知らされます。
さて、みなさん、今の私たちは新しいイスラエルと言われています。エジプトの奴隷から贖われ解放されたのではなくて、罪の奴隷からキリストの贖いによって解放された新しいイスラエルです。そんな私たちも約束の地、天国を目指しています。主の主権を認める事は私達の信仰にとっても大変重要なことです。新約聖書のマタイ8章に出てくる百人隊長に目を留めても分かります。8章5-9節で百人隊長は主の主権について話しています。イエス様は彼の話を聞いて「イスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがない。」と感心されました。神を主と私たちは呼びます。神が主人であり私たちはしもべです。使徒パウロは自分のことをキリストのしもべ、と言いました。ローマ6:16では、罪を主人として罪の奴隷になるのか、それとも義なる神を主人として義の奴隷になるのか、どちらなのかをローマ教会の信徒に問いかけました。
信仰とは神の主権を心から認めることです。「イエス・キリストは主である」と告白する私達は、改めて主の主権を認めているのか吟味する必要があります。主から遣わされた者、主がその体、教会に加えられた一つ一つの肢体、主が選ばれた者に対する態度が問われます。
もう一度出エジプト記に戻って御言葉に耳を傾けてみましょう。7章13節「しかし、ファラオの心はかたくなになり、彼らの言うことを聞かなかった。主が仰せになったとおりである」。ファラオはイスラエルを手放したくありませんでした。その労働力を失うからです。ファラオはその問題を主に任せられなかったのでした。しかし、主は幾度もファラオに語られます。ここに主の憐れみがあります。
同様に、主は御言葉を語っても聞き従わない私であるのに、なおも御言葉を語って下さる主の憐れみに目を留め、主の主権の前に謙る者に変えられて行きましょう。
2023年5月11日
出エジプト記6章14節~7章7節「従順を求める神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
成長させて下さるのは神
ここにモーセとアロンの系図が記されます。この系図でモーセの名は20節に出てくるだけで、アロンの名は20・23・25節に出てきます。26節では「このアロンとモーセ」となっています。しかし、27節では「このモーセとアロン」となっています。つまり、神はどっちが優れているとか、どっちが上だとかを、ちっとも考えておられないという事です。それよりも神は私たちに対して従順であることを、そして、私たち同士も従順であることを求められます。後に民数記12章でミリアムとアロンが弟モーセの悪口を言った時に、神はミリアムに重い皮膚病を下されました。それ程に従順は大切だということです。
神のこのお考えは終始変わりません。新約聖書の1コリント3章1-9節の御言葉を思い出しました。特に4節の「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っている」は、「モーセとアロン、どちらが上か」と似ています。7節「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」。教会のメンバーの中には色々な人がいます。「どの人が重要で、頼りになり、上に立つべきか」、とメンバーの一人一人を見る時、お互いの間にねたみは争いが絶えない状態になります。人が集まるとこの様な事が起こります。教会も同じだったら、それは単なる人の集まりになる、と3節にあります。神が集められた教会はそうではありませんね。
御業の鎖
既に4章14-17節、27-31節で語られたモーセとアロンの関係を、神は6章28節-7章2節で繰り返し語られます。今回神は直接ファラオに語るのではなくて、神→モーセ→アロン→ファラオ、という形で御業を進められます。そしてこの→は、ファラオで終わるのではなくて次から次へと神の目的は続いてまいります。例えば7章5節「エジプト人は、わたしが主であることを知るようになる」。そして、もっと先を読んで行くと16章12節「あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」と、神の目的が先へ先へと続いて行くのが分かります。神→モーセ→アロン→ファラオ→エジプト人→イスラエル。そして新約聖書はそのイスラエルから→異邦人を照らす光が現れ→福音が全世界へと宣べ伝えられる。このようにして主の御業が鎖のように続きます。
私達の教会の教勢が伸びない時、何が原因なのか、何が悪いのか、と色々考え、とうとう誰が良い悪い、なんてことは考える、その様なことにならないようにしましょう。7章6節「モーセとアロンは、主が命じられたとおりに行った」とあります。まずモーセは神に耳を傾けました。そして、アロンにそれを語りました。アロンはモーセに耳を傾けました。そして、それをファラオに語りました。しかし、それで結果が見えたかと言うとそうではありませんでした。3節、神はファラオの心をかたくなにされました。モーセが悪いのでもアロンが悪いのでもありません。モーセやアロンが優れているのでもありません。しかし、神は御業を進めておられます。
命じられた通りにする従順
大切なのは、主が命じられたとおりに行うことです。その為に、聖書を学び、主の御心を探ります。しかし、新約聖書に登場する律法学者が陥った誤りに注意しなければなりません。隣人を自分のように愛しなさい、と言う神の命令を知っていながら「わたしの隣人とは誰でしょうか」と質問した律法学者にイエスは良きサマリヤ人のたとえ話をなさり、「あなたも行って同じようにしなさい」と諭されました。
「主が命じられた通りに行う」とは、どうしたら 出来るのでしょうか。命じる方がわたしの主である、とただ信じて、主にお任せして、主に御頼りして、その命令を受け止める。出来るか出来ないか、ではなくて従順がまず求められます。
民を苦難から救うために遣わされ、第一回目のファラオとの交渉の結果、反対に民をさらに苦しめることになった時に、5章22節でモーセは主のもとに帰って大胆にも訴えましたね。「神さま、わたしには出来ません」。そんな思いをモーセは神にぶつけました。
そしたら、6章2節で神は開口一番に「わたしは主である」とモーセに答えられました。『モーセ、私に全てを任せて、命じる通りにすれば良いのだ』。神は7章1-2節で神→モーセ→アロンという流れを、再び明確に説明されました。「ファラオに対して神の代わりとする」、つまりあなたはわたしの代理人としたよ、どんな結果になろうと驚いてはならない、たじろいでもならない。わたしの代理人なのですから。そして、「あなたの兄アロンはあなたの預言者となる」。兄の事も心配いらない。ただ私に対して従順であれば良い。そしたら御業が進む。
そして、6章6節「大いなる審判をもって」御業が行う事を神は約束されました。この約束は7章4節でも繰り返されています。大いなる審判とは主だけが行うことができる、御業が最も顕著に現れる時です。エジプトでこれからそれが行われるのですが、この主は後に十字架にかかるご自分の独り子イエス・キリストにおいて、究極の大いなる審判をもって究極の救いの御業を行われました。出エジプトと十字架のキリストはこの様に重なります。
モーセ80歳、アロン83歳の時、二人は神を主として、従順に歩みだします。私たちも従順が求められています。主の御業を最後まで見ることはできませんが、私たちも主が命じられたとおりに行いましょう。ピリピ2章12-14節「だから、わたしの愛する人たち、いつも従順であったように、わたしが共にいる時だけでなく、いない今はなおさら従順でいて、恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい。あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。何事も不平や理屈を言わずに行いなさい。」
2023年4月27日
出エジプト記6章2節~13節「神を証しする」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
神は最初の壁を前にして苦悩するモーセに、2‐8節でモーセを選んだわけを詳しく説明されました。私たちにとりましても、救われクリスチャンとして選ばれたわけがあります。皆さんも同じですね。なぜこの私を神様はお選びになられたのでしょうか。そこには必ずわけがあります。
信仰を荷物に例えると、荷物のどこを持ったら楽に長く持てるのか私たちは考えますね。それと同じく信仰にはつかみ所があります。今日の聖書はそれを私たちに伝えています。
アブラハム、イサク、ヤコブと言う偉大な先祖の事はモーセも聞いていました。彼らの信仰と比べたら自分の信仰は弱く小さいと、モーセは思っていたでしょう。私達もそう思う時があります。神は開口一番に2-3節で先祖たちには主と言う私の名を知らせなかったことを伝えて、『お前はアブラハムやイサクやヤコブと違う。私にとって特別や」とモーセを励ましました。「わたしは主である。」これは単なる名前の紹介ではありません。これは特別な決定的な出会い、という意味が込められています。私達の信仰など吹けば飛ぶようなものです。そんな私たちに「わたしはあなたの主である」と言われます。これは『わたしとあなたの決定的出会いは、何によっても揺るがないんだよ』という宣言ですね。ここが信仰のつかみ所です。
深い関係を求める神
さて、次に今まで全能の神として現れていた方が、今どうして主という神として現れたのかに注目しましょう。4と5節で、主なる神は自分が別の神ではなくて、創世記に記されているアブラハム、イサク、ヤコブと結んだ契約を継続する神、すなわち創世記の神は出エジプト記の神である。
創世記1章から学んでまいりました私達は、創世記に出てくる神の事を幾らか知っております。アブラハムらに現れた全能の神 (17:1,28:3,35:11等) とはどういう神だったでしょうか。「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言ってこの地を祝福する神です。「土地を与える」と約束される神、これも土地を持たない放浪状態の彼らにとって祝福を意味しました。ですから全能の神とは祝福の神でもあります。そこで大切なのはこの祝福が、恵みとして与えられていることです。ノアの時代に大洪水を起こした後、人間の心の思い図ることが依然悪いにも係わらず、創世記8章21節でこの神は「人に対して大地を呪うことは二度とすまい」と、御心に言われました。これは恵みですね。
私たちの主イエスもマタイ5章45節でこの神の事を証して言われました。「天の父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らして下さる」。これも恵みですね。
しかし、神は一方的に恵みを与えるだけではなくて、人がその恵みに答えると言う、神と人のより深い関係を求めておられます。それが出エジプト記のテーマなのです。7節がそれを具体的に表しています。神とその民という関係ですね。6節、この関係は一方的な恵みによって、神が「導き出し」「救い出し」「贖う」事によって結ばれます。現代のクリスチャンもイエス・キリストによって同様の恵みを受けて神様との関係に入らせていただいています。この恵みの大きさのゆえにキリストはマタイ5章43節以下、それに答えるとは敵を愛するという方向を目指すことではないか、と言われました。
救われた証し
7節の後半「わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの重労働の下から導き出すことを知る。」とあるように、私達もそれを今体験しています。私達の場合は「エジプトの重労働の下から」ではなくて「罪の下から」です。そして神の民ではなくて教会(神の家族、キリストの枝・羊)と言う関係に入ります。モーセ達はこの彼らの体験を繰り返し思い起こしました。律法の中心はそこにあります。そして、それが神についての証しになります。
同様に私達が罪の下から救われた証しは、神を証しすることであり、信仰に進む様にと勧め励ますことでもあります。私達の体験は小さくても神を証しします。証しとは神を指差すことです。大きな指で差そうが小さな指で差そうが、その大きさは問題ではありません。正しい方向を指すことのみが大切です。どんなに小さい指でも正しい方向を指すなら、それが最高の証しになります。
さて、モーセは言うことを聞こうとしないイスラエルの人々のことで、エジプトから導き出す事に自信を失っていました。しかし、神の命令は変わりませんでした。エジプトからの脱出が、後の人にとってどんなに神を証しすることになるか、その頃のモーセには分かりませんでした。
私達も同じ体験をします。私達の言う事を聞かない、あるいは聞き入れてもらえない、と言う現実がありますね。しかし、神はモーセとアロンに語られた様に私達にも証しする様に命じられます。キリストは言われました「あなたがたは地の塩、世の光である」と。みなさん「地の塩であれ、世の光たれ」ではありません。「地の塩である。世の光である。」とキッパリと宣言なさり、『心を騒がせず、クリスチャンとして自信を持って進め!』と、今私たちにも言われます。
2023年4月20日
出エジプト記5章1節~6章1節「神のもとに帰れ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
モーセとアロンは、神に代わってメッセージを伝える為に遣わされました。しかし、ファラオは2節で「主とはいったい何者なのか。どうして、そのいう事をわたしが聞いて、イスラエルを去らせねばならないのか。わたしは主など知らないし、イスラエルを去らせはしない」と拒みました。それで二人は再び3節でファラオを説得しましたが、事態はますます悪化し、ファラオはイスラエルの人々が怠け者になろうとしていると誤解し、厳しい指示を、民を追い使う者と民を監督する下役へ伝えました。それは、今まで支給していた材料の藁を自分で用意し、尚且つ同じ量のレンガを作る命令でした。
15節で下役たちはファラオに民が決して怠け者ではなく、指示に従って労働していることを訴えましたが、聞き入れませんでした。21節、同胞のイエラエルの民たちは、ファラオに働きかけた結果、彼らの立場や待遇が以前より悪化した、もう止めて欲しいとモーセたちに抗議しました。救おうとする民からこの様な抗議を受けることは、二人にとってファラオの拒否以上の問題でした。22節モーセは主のもとに帰りました。主のもとに帰る、これが今日のポイントです。
モーセは神に訴えました。「神さま、わたしを遣わされたのは、一体なぜですか」。私たちも礼拝からそれぞれの生活の場へ遣わされる時に、色々な問題や悩みの壁を前にして、自分の力無さ、不十分さ、弱さに直面します。そんな時に私たちも思いますね。「神さま、なぜわたしを遣わされたのですか」。
6章1節で主は直ぐに答えて下さいました。その中で主は大切な言葉を二回繰り返しました。『わたしの強い手によって・・・わたしの強い手よって』。その手が働くまで待ちなさい。この言葉も今日のポイントです。新約聖書でも使徒パウロは、この主の強い手のことを、「神の力」と言っています。ギリシャのアテネからもう少し南に行った港町にコリントがあります。その教会に宛てた第二の手紙4章7節で次のように書いています。「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。この力はキリストを死人の中から甦らされた神の力ですね。私たちは弱く不十分で完成されていない土の器ですが、その器に神の力が盛られます。それを証しするために私たちクリスチャンは存在しています。
この信仰は旧約聖書から受け継いでいます。詩編127編1-2節、「主御自身が建てて下さるのでなければ、家を建てる人の労苦はむなしい。主御自身が守ってくださるのでなければ、町を守る人が目を覚ましているのはむなしい」。信仰者も家を建て見張り台に立ちます。つまり日常を生きます。しかしそれだけではない、いや、それだけであるなら空しい。その日常にも主は確かにに関わってくださっている、そう信じることが無いなら空しい、そんな歌です。もう一つは、詩編4編8節です。「人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えください」。その年は豊作だったのでしょう。詩人も喜びましたが、それだけで良いのか、信仰者としてそれだけで終わって良いのか、という思いを歌います。そうじゃない、私たちが忘れてはならない事がある。それにもまさる喜びを、わたしの心にお与えくださる主がおられることを。私達も主のもとに帰り祈りましょう。「神がその強い手によって、この私にも働いて下さい」と。
かつてヨセフとマリアは幼児イエスを連れて神殿へ行き、律法に従って初子奉献の儀式を済ませました。これは「主は、力強い御手をもって我々を奴隷の家、エジプトから導き出された」その神の力ある御手の働きが、この子にもある事を思い起こす儀式でしたね。出13章14節参照。
また、使徒パウロは、コリントの教会の信徒に、人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになる事を求めました。その理由は、知恵ある者から見たら愚かに見える宣教という手段によって信じる者を救うこと、それが神の計画だからでした(1章21節)。神のお考えは「だれ一人、神の前で誇ることがないようにする(29節)」ことです。それで神はコリント教会の信徒えを召す時に、世の無に等しい者、身分の卑しい者、見下されている者を選ばれました(28節)。
神は人を召されます。そしてその人に自分の力の弱さを思い知らされます。それは、人が神のもとに帰らなければならない存在である、主を待ち望む存在であるからです。神の民がバビロンに捕囚される時に、預言者イザヤは捕囚からの帰還の約束を告げた時に、「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲の容認翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」と、主を待ち望む事を伝えています。
私たちにとって毎週の主日礼拝は主のもとに帰ることですね。そして、御言葉とパンと杯における主との交わりを受けて、主を待ち望む信仰に再び立たせていただいて、生活の場へと遣わされます。
2023年4月13日
出エジプト記4章18~31節「神のみ業としての献身と礼拝」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
信仰による第一歩
18節でモーセが舅エテロに嘘をついてエジプトへ旅立ちました。エジプトからの逃亡して来たモーセは『もう自分はここで骨を埋めるんだ』と、決意してエテロの娘ツィポラと結婚しました(2章21節)。彼の立場は今で言うと婿養子のようなものでした。殺人は2章11節からモーセが成人した頃でした。20代か、もっと若かったかも知れません。そして、ファラオの前に立った時、彼は80歳だったと7章7節は告げています。ですから、エテロのもとにいる期間は非常に長いです。モーセは完全にエテロの家族でした。ですから、嘘の理由で里帰りを求めたモーセに対して、エテロは躊躇なく承諾しました。
エテロはモーセを召した主を礼拝する祭司でした。18章で神の山に宿営しているモーセの所に、彼がツィポラとその家族を連れて訪問した時がありました。その時エテロはモーセから主の救いの御業の報告を受けて、主に献げ物をささげる祭司としての務めをイスラエルを代表して行いました。ですから、ここでエテロに全てを打ち明けても良かったのです。きっと神の召しを喜んでくれたに違いありません。しかし、モーセは言えませんでした。まだ神の召しに答える確信が与えられていなかったからではないでしょうか。
しかし、モーセは嘘の内容でしたがエテロにエジプト行きを告げる事で、神の御言葉に従う堂々たる一歩ではなくて、疑いながらの小さな踏み出しでありましたが、確かに一歩踏み出しました。そしたら、19節で主はモーセに「さあ、エジプトに帰るがよい。あなたの命をねらっていた者は皆、死んでしまった」言われました。『モーセ、よく踏み出したね、心配は要らないよ』と主からの朗報が後押ししました。
みなさん、私たちも御言葉を聞いて、どんなに小さくても弱くても一歩踏み出すならば、神はそれを嘉(よみ)されます。あの12年間長血を患っていた女性が後ろから見つからないように、そっと主の上着の裾に触れた時と同じです。この様にしてモーセ自身が変えられて行きます。20節、妻も子も一家総出で旅立ちます。単身ではないのです。家族も一緒とは、彼らに対する責任が伴います。大切な家族を伴って行くとは、神への信頼無しではあり得ません。御言葉に服従し、神の杖を手に握ってエジプトを目指します。しかし、主の御業に参与するには、彼の献身はもっと堅いものへと強められなければなりませんでした。
高慢さが砕かれる献身
21節、御言葉に従ってエジプトに向かうモーセに対して、神は予想外の事を言われました。「しかし、わたしは彼の心をかたくなにするので、王は民を去らせないであろう」。なぜ神はそんな事を言われたのでしょうか。御言葉に従う時に高慢と言う悪も働くからです。自分が行うのではないのです。主が行われるのです。人が救われるのは全く神の御業です。ローマ9章15-18節は、モーセにおける御業が人の意志や努力ではなくて神の憐れみによるものであることを繰り返しています。みなさん、私たちは人を救えない、家族を救えないと悩む時、まるで自分が救えるかの様な、高慢さがありませんでしょうか。
モーセが御言葉によって変えられて行き、御業が進められて行きます。24節、主はモーセに出会われます。この主との出会いは御言葉による出会いではありませんでした。そして、モーセを殺そうとされました。モーセはそれに気付かなかったようです。連れ添うツィポラがそれに気付きました。モーセは旅の道中彼女に神との出会いの事を色々と話したでしょうね。神は彼女にも献身を求められたのではないでしょうか。彼女がとっさに取った行動は不思議です。25節26節で彼女が叫んだ言葉『血の花婿』が、モーセを殺そうとする神の手を止めました。割礼は花嫁の花婿に対する様に、神に対して全く献身を意味するようです。チッポラは夫に代わってこの行為をしました。神はモーセ夫妻に、この死に瀕(ひん)するという経験をさせられました。「わたしにとって、あなたは血の花婿です」これは『わたしはあなたに全く献身する花嫁です』という告白です。エジブトへ遣わす前に神はモーセとツィポラ夫婦にこの様な経験をさせて、彼らを造り変えられたのでした。
礼拝者を生み出す神の御業
さて、次にアロンも召されます。彼の場合は「兄が弟に仕える」と言う召しでした。アロンも自分が変えらなければなりませんでした。御言葉に従う時に人は変えられるのです。アロンはモーセに仕える人となります。29-31節、モーセとアロンが変えられると、御業が進んで行きます。民は彼らの言うことを信じるだけではなくて神を礼拝したのです。礼拝者の群れが生まれる、これは神の御業です。モーセもアロンも驚いたことでしょう。彼らはファラオに会う前に、謙って神に全てを献げる時に、御業が行われる事を学びました。この事は私たちに対しても同じです。新約聖書ローマ12章1節も、献身によって礼拝が生起することを伝えています。この礼拝を霊的な説明しているのは、それが人の業ではなく神の御業だからです。
2023年4月6日
出エジプト記4章1~17節「神はモーセをきよめられた」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
イスラエルの人々の所へ遣わされるモーセに対して、神は3章12節で「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」との、力強い太鼓判を与えましたが、4章でモーセは『イスラエルの人々が自分の事を信用しないに違いありません』、と神に逆らいました。神はイスラエルの人々が信じるように、モーセに三つの奇跡のしるし(蛇になる杖、ふところに入れた手が重い皮膚病になる、地に蒔いた水が血に変わる)を行えるようにしました。それから、神はエジプトにいるイスラエルの人々から信頼を得ていた、そして雄弁だった兄のアロンを召して、モーセの足りない所をカバーさせました。「モーセ、心配はいらない、わたしの召しに素直に従いなさい」。
私たちがクリスチャンになる、洗礼を受ける決断をする時も、このモーセの様な事を考えます。色々問題が見えるでしょうが、心配はいりません。ローマ8章28節「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」。
ところが不思議なのですが、4章29-31節を読むと、モーセではなくてアロンがそのしるしを行っています。神がモーセに与えた3つのしるしはまず、モーセ自身のためでした。モーセはエジプトにいるイスラエルの人々が自分を信じない、と言っていましたが、問題なのはモーセが神を信じていない事でした。神は私達に信仰を持って生きることを求められます。しかし、私達はその求めに自分が答えられない者である、と考えてしまいます。モーセにその私達の姿が重なりませんでしょうか。
3章11節、4章1節、10節、モーセは「私にはこの問題があります」と、神の求めを三回拒否しました。そこで神はモーセに活を入れられました。11節の御言葉に注目して下さい。「一体、誰が・一体誰が・・」と言う問いは、責任の所在を問題にしています。『あなたが言う問題をあなたに与えたのはこの私である。責任をとるのはこの私、主ではないか』。12節「さあ、行くがよい」。イザヤ45章7節の御言葉を思い出します。「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、災いを創造する者。わたしが主、これらのことをするものである」。皆さん私達が『神を信じる時に、神に従う時に、この問題が私の前にあります』と感じている事に対して、「それは問題ではない。その問題を起こしたのは私だ。私が責任をもって導く」と言われます。
神の忍耐と慈しみと憐れみによって変えられて行く
しかし、13節モーセはなおも逆らいます。これに対して主の怒りは燃え上がりました。14-17節はその怒りが神様の愛から来ている事を証ししています。私たちの怒りと質が違います。その内容は至れり尽せりなのです。何と忍耐深く、慈しみと憐れみに満ちておられることでしょう。モーセは、この神の愛によってこれから変えられて行きます。詩篇90篇は「祈り、神の人モーセの詩」と副題が付けられています。そこでも彼は神の御怒りと憤りの事をうたっています。そして12節「生涯の日を正しく数えるように教えてください」。モーセも高齢になっていましたから、『えーっと、私何才だったかしら』という事ではありませんね。モーセは自分の生涯の日々を、神の忍耐と慈しみと憐れみが注がれた日々として数えることに気付かされ、彼自身変えられて行きました。
新約聖書には、私たちに対して、神の忍耐と慈しみと憐れみが注がれた日々の数え方として、含蓄のある勧めの言葉が伝えられています。幾つかを紹介します。
「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」1テサロニケ5章16-18節。
「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」フィリピ4章4-6節。
「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい」コロサイ3章17節。
「だから、あなたがたは食べるにしろ、飲むにしろ、何をするにしても全て神の栄光を現わすためにしなさい」。1コリント10章31節。
これらは規則と、捉えてはなりません。これらは神の忍耐と慈しみと憐れみが注がれている日々として数える生活の具体例です。お祈りしましょう。
2022年4月~2023年3月
2023年3月29日
出エジプト記3章1~22節「神の時、神の場」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
3節、燃える柴は、乾燥が厳しい為に起こる自然現象である野火と言われています。羊飼いを何十年もして来たモーセにとっては日常茶飯事の出来事でした。いつもは通り過ぎてしまいます。しかし、この日は違っていました。柴が燃え尽きないのです。2節、主の御使い(天使)が燃え尽きない柴の中の炎のうちに現れました。マグダラのマリアが空になったキリストの墓の前で天使に会った時は、園丁の姿をしていました(ヨハネ20章11-15節)。みなさん、天使はモーセの場合、燃える柴であり、マグダラのマリアの場合は園丁でありました。天使は、どこにいるのか、どんな姿で現れるのか分かりません。大切な事は、天使がいる、つまり神の時、神の場である、と言うことです。
4節、天使の働きの最終目的は、主である神の場へモーセを導くことでした。そこに導かれモーセは「モーセよ、モーセよ」との神の声を聞き、「はい」と答えました(原文は少年サムエルが神殿で神の声を聞いて答えた言葉と同じで、ここにおりますI am hereと翻訳している聖書もあります。ここという神の場所に今私は立っています。そんな意味が込められた返事なのだと思います )。モーセの外観は珍しい物の見物人に見えますが、彼の内面ではミディアンでの生活は、それで終わりではなくて、神の時神の場に臨むための準備の時であるにちがいない、という思いがあったのでしょう。イエスがマタイ7章7節で、求めよ、捜せ、門をたたけと命じられたのも、今回モーセがこの体験をしたのも、神の時、神の場があると信じるからでした。コヘレト3章1節「天の下の出来事には、すべて定められた時がある」。これも神が定められた時のことですね。皆さんも今の生活を進める中で、この事を心に留めておきましょう。
5節、神は言われた「ここに近づいてはならない。足から履物を脱ぎなさい。あなたが立っている場所は聖なる土地だから」。日頃、羊を連れて歩いていた場所が聖なる場所となりました。履物を脱ぐとは謙りを象徴します。聖なる場所では謙りが求められます。皆さん、私たちの場合、この柴が燃える以上の事が起こりましたね。すなわち神の子が肉体をとってこの地を歩まれました。「ここも神の御国なれば」という讃美歌90番があります。この讃美歌はイエス様によって、私達が今いるここも天の父なる神の聖なるランドである、と言う信仰の歌です。そのゆえに希望を持って、そのゆえに謙って生活する、これが信仰生活です。使徒パウロもコロサイ3章17節で「何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。」と書いているのは、まさにこの信仰から来ています。
さて、神は御業をご自分一人ではなくて、人と共に行うことを願われます。主の使いは何か幸せをもたらすキューピットではなく、神の御業に与らせる役目を持っています。私たちもイエス(神から遣わされた者)によって神の御業のために召されるのです。7-10節、モーセの場合その御業はエジプトからイスラエルの人々を解放し、乳と蜜の流れる良い広い土地に導く事でした。私たちの場合「解放」とは何でしょうか。「乳と蜜の流れる良い広い土地」とは何でしょうか。イエスさまはそれについて何と言われたのか考えましょう。
さて、モーセは二つの質問をしました。11節その一つが「わたしは何者でしょう」です。「私なんか召しを受ける資格はありません」と私たちも思いやすいです。神の答えは、召しに資格はいらないと言うことです。人が神によって召され遣わされている事を証しするのは、神がその人と必ず共におられる、と言うことです。私達の場合、イエス・キリストこそ神はわれわれと共にもおられること(マタイ1:23)を現して下さいました。
13節もう一つの質問は「神は何者か」ということです。神についてそう聞かれたら、どう答えたらよいのでしょう。私たちもそう言う経験があると思います。神のことを一生懸命に説明しても理解されません。神は理解するものではないのです。だから説明できるものでもないのです。神はモーセに「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われました。「わたしはある」これはどういう意味なのでしょうか。黙示録1章8節以下では「神である主、今おられ、かつておられ、やがて来られる方、全能者がこう言われる。『わたしはアルファでありオメガである』」。「わたしはある」は、人間には理解できない永遠に変ることのない神、全能者のことを伝えています。ヘブル13章8節も「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です。」と伝えています。
モーセが二つのお言葉を握ってエジプトへ遣わされた様に、私たちもイエス・キリストの言葉「神はわれわれと共にもおられる」「イエス・キリストは、きのうも今日も、永遠に変わることのない方」を確り握って信仰生活を進めましょう。神はモーセに15節でイスラエルの人々に対して、16-17節はイスラエルの長老に対して、18節はエジプトの王に対して言うべき言葉を授け、従わない王に対してわたしが手を伸べて従わせ、民からは好意を得させると約束された。主も「小さい群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国を下さる(ルカ12:32)」と約束される。「心配しないで行け」という事です。
2023年3月22日
出エジプト記2章11~25節「完全な解放を目指して」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
2022年度から礼拝後約15分間で、『聖書は物語る、一年12回で聖書を読む』というテキストの学びを始めました。教会の行事もありましてあと一年余りかかりそうです。教会で『聖書を読む会』を始められた先生がそのテキストとして作られたのがこの本です。使徒パウロがテモテと言う次世代の教会を担う若い牧師に手紙を書きました。2テモテ3章15節「この書物は、キリスト・イエスを通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。」この書物とは聖書の事で、新約聖書がまだ編纂されていない頃でしたから、旧約聖書のことです。パウロはここで聖書の読み方の基本を伝えています。
私たちは出エジプト2章11-25節を、モーセが殺人と死体遺棄の罪を犯し、逃亡して、王が死んでいわゆる時効となって裁き免れた、そんなことをして良いのでしょうか、と読むことも出来ますが、それは的を外した読み方ですね。これから旧約聖書を読んで行く中で、聖書にこんなことが書いてあるのはおかしいのでは?と思える所が幾度も出てくるでしょう。そういう時にこの2テモテ3章15節を思いだして下さい。
もう一つ聖書の読み方でお伝えしたいことがあります。新約聖書が旧約聖書をどう読んでいるかが参考になります。例えば、使徒言行録7章のステパノの説教の中に、今日の聖書箇所について大変詳しく語られています。そこを見たらステパノがここをどう読んでいたのかが分かります。この様に聖書が聖書を解釈している所があります。ステパノは35節で「だれが、お前を指導者や裁判官にしたのか」と人々が言って拒んだモーセを、神は柴の中に現れて天使の手を通して、指導者また解放者としてお遣わしになった所に注目して読んでいます。ステパノは神が遣わされた者を信じない例として、出エジプト2章11節以下の事を挙げました。
モーセはヘブライ人を強制労働の重荷から解放する者として神によって選ばれる人だったのです。12節は彼が命を掛けて虐待するエジプト人と戦う姿です。悪い方の男をたしなめる13節は、悪に苦しむ弱者を助ける者の姿です。14-15節、神はモーセの身を守るために逃亡させ、辺境の地ミディアンへ導かれました(16-22節)。
ミディアンでの事件もこの関連で物語られています。神はモーセを羊の世話を手伝っていた祭司リュウエルの娘たちの所へ導かれました。羊の世話で毎日欠かせないのが水やりです。しかし、彼女たちはいつも最後まで待たなくてはなりませんでした。それは男の羊飼いたちが強かったからです。後から来た男は無理やり横取りして行きました。この井戸端でも強い者が弱い者を虐げていました。モーセはここでも解放者として働きましたが、時は来ていませんでした。
21節、ミディアンのレウエルの家にとどまる決意とは、時を待つと言うことになりました。エジプトの宮殿で育ったモーセにとって、羊飼いをするのは初体験です。しかし、今は羊を連れてミディアンの荒れ野を歩いているが、後にはイスラエルの民をつれて荒れ野を旅する指導者になるのでありました。本人はまだ知らない事でした。ミディアンでの生活はモーセの願っていた生活ではなかったでしょう。予想外の生活でした。自分の思い通りで満足のできる生活ではなかったはずです。しかし、これも必要な準備の時だったのです。そして、23-25節で時が満ちます。それは神が決められた救いの時でした。アブラハム、イサク、ヤコブの契約とは、エジプトから解放されて、最初の約束、神が彼らを世界の祝福の源にすることでした。
私達もミディアンにいる様な時があります。しかし、それは神が見捨てておられるのではありません。私達も神の時を待ちましょう。それは解放と祝福の時です。神はわたしたちに対しても完全な解放を計画されています。ローマ8章23-25節ははっきり言っています。「霊の初穂をいただいている私達も、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、(すなわち、完全に解放されて全く神のものとされることを)心の中でうめきながら待ち望んでいます。私たちは、このような希望によって救われているのです」。
私たちはキリストが十字架で、その命という代価を払って買い取られ(贖われ)ました。そして、終わりの日には、この身体をも贖われて、死からも解放される身体の甦りと、完全に神のものとなった命、完全な贖い、完全な解放、永遠の命を頂く日が来ることを信じて、その日を待ち望む希望を持って、今を生きています。ミディアンにいるモーセは思っていたかもしれませんね。自分は結婚して、子どもも与えられ、羊飼いという仕事をしてその一生を終えると。しかし、ミディアンは将来の準備の時でした。あなたも今は将来の準備の時です。
2023年3月15日
出エジプト記1章22~2章10節「生きる希望」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
時の権力者エジプト王が1章16節で一介の女たちに命令を下しました。「お前たちがヘブライ人の女の出産を助ける時には、子供の性別を確かめ、男の子ならば殺し、女の子ならば生かしておけ」。これはいつの世の権力者も命じて来た非人道的な行為ですね。人間の命を、それも今生まれたばかりの命を、人の都合で人の手で処理することは、宗教、民族、習慣の違いを超えて、人間として受け入れられないことです。キリストが誕生した時にヘロデ王がベツレヘムとその周辺にいた二歳以下の男の子を皆殺しにした最悪の事件は、この延長線上に起こります。そして、その延長線上に今もこの地球上で起こり続けている、非人道的な行為があります。戦争はこれですね。
有事の時に起こるイスラエル人の脅威に関してファラオはまず国民に警告しました。そして16節の助産婦たちに対する命令を下した後、彼は知恵を絞って1章22節で生まれた男の子を直接人の手でその命を絶つのではなくて、ナイルに流す命令を下しました。ナイルはエジプトにとって神の様な存在でした。インドのガンジス川もその様な感覚ですね。ナイルがあらゆる命を生み出しました。母なる大地と言いますが、エジプトでは母なるナイルと言う感覚でした。
使徒パウロはローマ9章17節で「聖書にはファラオについて『わたしがあなたを立てたのは、あなたによってわたしの力を現し、わたしの名を全世界に告げ知らせるためである』と書いてあります」と言って、神が自分が憐れみたいと思う者を憐れみ、頑なにしたいと思う者を頑なにされることを伝えています。現に神は出エジプト9章15-16節でモーセを通してファラオに「実際、今までにもわたしは手を伸ばし、あなたとあなたの民を疫病で打ち、地上から絶やすことも出来たのだ。しかし、わたしは、あなたにわたしの力を示してわたしの名を全地に語り告げさせるために、あなたを生かしておいた」と告げられました。この様に、当時の大国、支配者であったエジプトの中でのヘブライ人を通して、神が働かれた物語が出エジプト記です。この物語を通して神は私たちに大切なメッセージを伝えようとしておられます。
先週話しましたように2章冒頭には翻訳されていませんが、「さて」という接続詞が付いています。この「さて」は、人間が右往左往してうろたえる、どの様な状況においても神の御業は着実に進められている事に目を向けさせています。神はヘブライ人のレビの家(アブラハム、イサク、ヤコブの直系)のひとりの人に働かれます。彼は結婚して家庭を築き、最初の子は女の子でした。夫婦はホッとしました。ミリアムと命名しました。しかし、二人目は男子でした。2節、赤ん坊の麗しさは聖なるものを感じさせます。彼らが3ヶ月間赤ん坊を隠した事について、ヘブライ人への手紙11章23節は告げています。「信仰によって、モーセは生まれてから三か月間、両親によって隠されました。その子の美しさを見、王の命令を恐れなかったからである」。両親はパロを恐れず神を畏れました。旧約聖書の本文では両親ではなくて母を主語としています。1章に出て来た助産婦同様、神が女性を通して御業を進められる事は注目に値します。3節、パピルスで編んだ籠は家事をする主婦の普段手元にあるものでした。彼女は諦めないで考えた末、その籠を取りました。籠をアスファルトと樹脂で完全防水したのです。そこに赤ん坊を入れ岸の葦の中に置きました。女は自分に出来得る事をし、後は神にお任せしました。この籠と訳されている原語と箱舟は同じなので、ノアの箱舟を思い出します。エジプト人はナイルを神とするが、ヘブル人はナイルをも造られた天地創造の神、一度地の全ての生きものを洪水でぬぐい去ろうとしましたが最後にこれを止められた神、アブラハム、イサク、ヤコブの神に子どもを託す、その信仰で籠をナイルに流しました。その後の母の様子が何も語らず、聖書は4節で、途切れることなく確り者のお姉ちゃんミリアムを、まるで母の代わりに登場させています。まるでバトンタッチした様に、姉は神が弟をどうされるか見届けようと遠く離れて立っていました。
5節「ときに」は1節「さて」と同じく神の導きに私達の目を向かわせる言葉です。そこがパロの娘が身を洗う場だったのかも知れませんが、その娘があの籠を見つけるかどうかは人の予想の域を超えます。また、パロには数名の娘がいたと思います。誰がそのときに来るか分かりません。6節、籠を開けてどう感じどう行動するかその本人さえ分からないことです。水浴中のパロの娘はその地位を表す金銀宝石絹の衣装を脱いで、裸の女性として籠の中で泣く赤ん坊と出会い、ふびんに思いました。彼女はそう思ってはならない立場にいました。不思議な事がここで起こっています。「これは、きっとヘブライ人の子です。」と言った後にパロの娘はどう言葉を続けるつもりだったのでしょうか。かわいそうだけど、何とかしてやりたいのだけど、私には何も出来ない。そんな思いも起こっていたのではないでしょうか。
7節、そのグッドタイミングに、ミリアムが走り寄りました。勇気がいったでしょうね。「ミリアム、行け」と、天から声があったのでしょうか。それは分かりませんが彼女がこの行動を起こさなかったら、この物語は続きがありませんでした。そして語った内容もパロの娘に一大決心をさせるグッドのものでした。少女であったお姉さんがよくもとっさにこの事を考えましたね。不思議です。弟を助けたい。お母さんを悲しませたくない。そういう思いと、神が私と共におられる、という信仰、そこに神が働いて下さったとしか言いようのない出来事です。
8節、「そうしておくれ」パロの娘の言葉によって新たな状況へと動き出します。お母さんは神をほめたたえたことでしょう。創世記が伝えて来た神(へブライ人の神)はナイルを通して籠の中の子を助けるだけではなくて、その子に王女の子と言う地位を与え、実の両親がその子を育てるようにし、エジプトの最高の教育を受けさせ成人させられたのでした。 モーセはエジプトの宮廷教育を受ける年齢まで祭司の家系に属する両親のもとで育てられました。普通乳離れとは3歳だったそうです。「三つ子の魂百まで」と言われるように、両親の信仰は確りとモーセの魂に刻み付けられたことでしょう。
水の中から引き上げた(マーシャー)がモーセ命名の由来。信仰者の目にそれは「主は高い天から御手を遣わしてわたしをとらえ、大水の中から引き上げてくださる」詩編18章17節、と映りました。また、詩編27編10節「父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せて下さいます」。13節「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを」、を思い出します。この物語は信仰と希望を与えてきた物語です。
2023年3月8日
出エジプト記1章15 ~21章「神を畏れよ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
ヘブライ
ここで「ヘブライ人」という呼び方が出て来ます。この呼び方は2章14節までと、それ以降「ヘブライ人の神」という言い方で、モーセとファラオとのやり取りの中で使われています(5章3節)。この「ヘブライ人」は「エジプト人」と対比されて使われています。創世記43章32節では「当時、エジプト人はヘブライ人と共に食事をすることができなかったからである。それはエジプト人のいとうことであった。」とありました。
ヘブライ人とは、エジプトの古代文書に出てくるアビルあるいは、バビロニアの古代文書に出てくるハビル、と言われる集団のことだそうです(アビル→ハビル→ヘブル)。このアビルやハビルと記されていた集団は定住民の権力者の奴隷となった遊牧民ベドウィンの集団だと言われています。民数記11章4節に「民に加わっていた雑多な他国人」とあります。定住民であるエジプト人から見てヘブライ人は、雑多な、何処の馬の骨だか分からない、社会的に地位の無い集団であったと思われます。出エジプト5章6-9節でファラオは、ヘブライ人に過酷な労働を強いり、14節で追い使う者を任命して彼らを打ちたたいて虐待しました。
この様にヘブライ人と言う呼び方は人種的な起源ではなくて、社会的地位を示す呼び方であったと言えます。新約聖書のヘブライ人への手紙の様にユダヤ人の事を指して言う様になるのは2000年程後のことなのです。創世記14章13節でアブラハムもヘブライ人と言われていました。神に選ばれたアブラハムの子孫は、この様な社会的地位にある人たちであったことが、この出エジプト記でクローズアップされます。神はこの小さなヘブライ人を強大な支配者エジプトの王と対決させられます。ここには今の私たちに対する大切なメッセージがあります。
いと小さき者の神
さて、ここにヘブライの助産婦が登場します。シフラは美子、プアは光子、彼女たちは平凡な女性でありました。創世記35章17節ヤコブの妻ラケルの出産時や、38章28-29節ユダの長男エルの妻タマルがユダの子を産む時に産婆が登場します。原語は出産するという動詞の変形で、お産を助ける者の意となっています。ですから職業名ではないようです。サムエル記上4章20節で祭司エリの息子ピネハスの妻がイカボドを出産する時「付き添っていた女たち」がいました。また、ルツ記4章14節でルツの出産時に登場する「女たち」もお産を助ける人たちだったのでしょう。ですから、当時の女性はお互いに出産を助けるために助産婦になったのだと思われます。美子と光子は特別な助産婦ではなくて平凡なヘブライ人の女でした。ここで彼女たちが代表してエジプトの王と接しています。ヘブライの男に重労働を負わせたエジプトの王は、16節でヘブライの女にも重荷を負わせました。
何と神を畏れない王でしょうか。17節、美子と光子はこれに対してキッパリと自らの態度を表明しました。なんと気持ちの良いことでしょうか。励まされますねー。信仰とは神を畏れないこの世の中で神を畏れることです。
しかし、18節エジプト王は二人を呼び出しプレッシャーを掛けてきます。すると19節、二人はそれにどうどうと対抗します。ここで、信仰者の虚偽について議論する必要はありません。女性と言えども情け容赦無く圧力をかけて来るエジブト王と、弱い小さいヘブライの女、美子と光子がここで対決しています。これは虚偽ではなくて、小さい弱い者が大きい強い者と戦う術です。
20節、エジプト王はこの言葉に対してもはや対抗する言葉がありませんでした。「神はこの助産婦たちに恵みを与えられた。」不思議です。最悪の環境の中にあるのに、民はふえ、非常に強くなって行きました。21節「助産婦たちは神を畏れていたので、神は彼女たちにも子宝を恵まれた。」神は神を畏れる者の側に立って下さいます。21節の後に賛美が起こりそうですね。後に15章20節で葦の海を歩いて渡った時の女たちが、タンバリンを持って歌った様に。
22節、エジプト王は最悪の命令を出します。しかし、聖書は驚きません。たじろぎません。口語訳や新改訳は2章1節「さて、・・・」と静かに神の導きを待つ訳となっています。文語訳は「爰(ここ)に」としています。
主を畏れることは知恵の初め(箴言1章7節)。
すべてに耳を傾けて得た結論「神を畏れ、その戒めを守れ。」これこそ、
人間のすべて(コヘレト12章13節)。
わたしはまた、別の天使が空高く飛ぶのを見た。この天使は、地上に住む人々、あらゆる国民、種族、言葉の違う民、民族に告げ知らせるために、永遠の福音を携えて来て、大声で言った。「神を畏れ、その栄光をたたえなさい。神の裁きの時が来たからである。天と地、海と水の源を創造した方を礼拝しなさい」ヨハネ黙示録14章6-7節。
いみじくも十字架の上で「お前は神をも恐れないのか」と、もう一人の犯罪人を咎めた犯罪人がキリストと共にパラダイスに行きました。神を畏れない生活の場で、私たちは言葉と行動をもって神を畏れることを証しましょう。
2023年3月1日
出エジプト記1章1~14節「人は解放されなければならない」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
「出発」という名称
聖書66巻は64個の団子を竹串で差したような形になっています。串団子の初めと終わりに、それを刺し貫いて竹串が出ています。つまり、初めの方に出ているのが創世記、終わりの方に出ているのが黙示録です。創世記と黙示録は聖書を貫く福音が見えている所なのです。奴隷として売られたヨセフ(詩編105編17節)。あらゆる苦難を受けたヨセフ(使徒言行録7章9節)が「神は、必ずあなたがたを顧みてくださいます」と創世記の最後で福音を告げています。ローマ皇帝の迫害の中で書かれたヨハネ黙示録は、その最後の言葉で「以上すべてを証しする方が、言われる。然り、わたしはすぐに来る」と福音を告げています。両方とも未来にある救いの約束という点で共通しています。
この福音を、聖書においてではなくて、この世界で、私たちと同じこの体を持つ人間において実際に明らかにして下さったのが、私たちの救い主、イエス・キリストです。主は私たち罪人に代わって「我が神、我が神、どうして私をお見捨てに成ったのですか」と十字架で叫んで下さいました。神は私達のためにそのキリストの体を復活させて、お見捨てにならないことを明らかにして下さいました。私たちも、自分の生涯の中で「神が私達を見捨てるのではなくて、必ず顧みてくださる」と告白したいものですね。
今日から私たちは出エジプト記を学ぶのですが、創世記は序論であり、出エジプト記から本論に入ると言えましょう。串団子に譬えると、ここから団子の部分になります。エデンの神の下から出て行かねばならなくなった人間の救済という神の計画が本格的に始まり、完成に向かって行きます。出エジプト記という名称はギリシャ語「エクソドス(出発の意)」から来ています。ヘブライ11章22節「イスラエルの子らの脱出」ではこの言葉を脱出と翻訳しています。エジプトを出発(脱出)した物語の書です。430年後に彼らはエジプトを脱出します。12章40節で「イスラエルの人々がエジプトに住んでいた期間は430年であった。」とあります。
祝福し続けられる神
さて本文に入りましょう。6節「ヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。」不思議な経緯でエジプトに来たが、もう皆死んでしまった。そして、偉業を遂げたヨセフの事を知らない新しい王が登場します。エジプトの歴史の記録は今も発掘されていますが、ヨセフの記録は土に埋もれエジプトの次の世代に伝えられなかったのでしょうね。現代でも先の戦争の生き証人が死んで行く事で如何にそれを後世に伝えるべきかと言う問題に直面しています。しかし、この6節の言葉の最後に「が」が付けられ7節へと続きます。「子を産み、おびただしい数が増し、ますます強くなって国中に溢れた」。天地の創造者である神の祝福の言葉「生めよ、ふえよ、地に満ちよ」は、彼らを通して確実に引き継がれていきました。人間が忘れても神は忘れず彼らをを祝福し続けられました。
エジプトにいた時は神の時であった
1983年東京西武百貨店で古代エジプト展が開かれ、その展覧会の為にカイロ博物館が執筆した本が私の手元にあります。それによると出エジプトは新王国時代の第20王朝ラメセス王が8節で言われている「ヨセフのことを知らない新しい王」であると推測されます。ヨセフがエジプトに奴隷として売られた時の王は約400年前の第15・16王朝ヒクソス王であったと推測されます。ヒクソス王朝は北方から侵入した異民族によってエジプトの王が倒されて生まれました。約100年間だけエジプトは異民族に支配されていたことになります。するとヨセフがエジプト全国の司に任じられ、その一族が優遇されたのは、異民族ヒクソスが王であった時代だったからでもありました。現代のエジプト観光のシンボルと成っているスフインクスの横にあるカフラー王の大ピラミッドは第四王朝時代ですから、第15王朝のヒクソス王朝の約900年前のものです。エジプトの土木事業は全て奴隷たちによっていました。そう言う中でイスラエルは特別の待遇を受けていたことになります。神のなされることは皆その時にかなってグッドタイミングで美しい(コヘレトの書3章11節)、ということなのでしょう。
新しい王の下で露になる解放と贖い
悲しいかなこの地球には人が幸せになったら、同じだけの人が、いやそれ以上の人が不幸になると言う矛盾があります。南北問題がその一つです。みんなが幸せになるのがいかに困難であるか。8節の新しい王によって優遇は虐待に一変しました。国を守る、と言うことで虐待が行われるのは今も変わりません。特に外国人、異民族への虐待が起こります。戦争の時だけではなくて、例えば関東大震災の時に在日韓国人等の外国人が氾濫を起こしてはいけないと言う事で、日本人から虐待を受けました。国という人間社会にはこういう現実が起こる事を忘れてはならない。
この様な人間社会の中で神は具体的にイスラエルを選び、その子孫によってもろもろの国民が祝福を得る計画を始められました。この計画は初めイスラエルの祖アブラハムに(22章18節)、そしてイサク(25章4節)、ヤコブ(28章14節)に告げ、彼らをエジプトに来させたのは、飢饉から逃れて幸せに暮らせるためではなくて、問題あるこの社会の現実の只中に彼らを遣わして神の計画を進めるためでした。人間は祝福に与るために、解放されて神のものにならなければなりません。それで神は、祝福の源となるように選ばれた彼ら自らにこの解放と言う体験をさせられました。正確に言うとこの解放は贖いです。
エジプトからの解放は人間の解放、罪から解放され贖われて神のものになければならない事が明確になって来ます。ここが出エジプト記のポイントですね。さて、私たち教会はこの神の贖いの計画が進められた旧約聖書の物語の上に立っています。旧約の物語の内容はひと言で言うと律法と預言ですね。しかし、その律法と預言では神の計画は実現しませんでした。それで神は独り子イエス・キリストを遣わしてそれを完成、成就させたのでありました。「知っての通り、あなたがたが先祖伝来の空しい生活から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちはてるものによらず、傷や汚れのない小羊のようなキリストの尊い血によるのです」1ペテロ1章18-19節。真実であられる創造主に自分の魂をゆだねなさい(4:19)。私たちは何から解放されなければならないのでしょうか。その事をいつも心に留めて出エジプト記を読んでまいりましょう。そして、解放された贖われた者として神の御支配の中をみんなで進んでまいりましょう。
2023年2月15日
創世記50章「神は必ず顧みられる」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
エジプトの支配者がした葬り方は、遺体を防腐処置しミイラ化します。2-3節、医者兼祭司の役目をしていた人たちが40日を費やして完全処置をしたようです。70日の喪は国王並でした。4節、王の許可を得て、7-11節国葬並みのエジプト式の追悼の儀式がカナンで行われました。場所はヨルダン川の東側、エリコの対岸にあるゴレン・アタドで行われ、地名がアベル・ミツライムに変わるほどの盛大で珍しい式でした。遺体のミイラ化は、肉体の不滅というエジプト人の死生観や宗教の影響を受けています。
ミイラ化はアブラハム、イサク、ヤコブによって受け継がれて来た信仰から生まれるものではありません。キリスト教と仏教の葬式が違うのと同じです。アブラハム(25章7節)もイサク(35章27節)も葬式は行われていません。彼らにとって大切なのは死者を埋葬することでした。12-13節、エジプト流の葬式の後、ヤコブの息子たちだけで、父に命じられた葬りの業を行うために、ヨルダン川を渡り、エリコを南下してヘブロンの側にある、ヘト人エフロンから買ったマクペラの畑にある洞穴に父を埋葬しました。そこにはアブラハム、その妻サラ、イサク、その妻リベカ、ヤコブの妻レアが葬られていた。
かつて神はエデンでアダムに言われました。「塵にすぎないお前は塵に返る」(3章19節)。しかし、その塵とは「主なる神が土の塵で人を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」(2章7節)その塵であった。塵は人間の原料の事を伝えている言葉ではなくて、埋葬して土に塵に、神の手の中にあったものに返る、という信仰的な言葉です。ですから、詩編90編3節は詠います。「あなたは人を塵に返し、人の子よ、帰れ、と仰せになります」。教会においても葬りの業の基本は、愛する者が命の神のもとに帰るとの信仰の確かさを、遺族と共に確かめる時です。
私達が礼拝の時に告白する信仰箇条である使徒信条に、罪の赦しがあります。ヨセフは兄達を赦していました。45章3-15節参照。しかし、父の死は兄達の心に不安を与えました。人間の口と心は同じではありません。悪に対する仕返しは根深い。長い人生の中で、兄達は自分も含めてそれを自覚していました。17節のヨセフの涙は何の涙でしょうか。それは兄達を通して明らかにされている、人間同士が信じられないと言う現実に対する悲しみの涙です。
19節のヨセフの言葉「恐れることはありません」に注目しましょう。聖書の中にこの言葉が何度も語られています。例えば、復活したキリストが葬られた墓の前で天使が言いました(マタイ28章5節)。この言葉は神が私達の現実に介入されている事を伝える言葉です。神は人を罰するために「恐れよ」と言うのではなくて、人に福音を伝える為に「恐れてはならない」と言われます。墓は「罪の支払う報酬が死である」ことを表しています。しかし、そこにいる天使は墓が罪の支配する所ではなくて、神の支配される所、神が関われる所であるから、恐れてはならない、と言いました。ヨセフもそれを伝えています。
ヨセフは「わたしが神に代わることができましょうか」と言い、ここで非常に重要なことを明かします。つまり、私も兄さん達が考える様に、口だけでなく心からお兄さん達を赦す、と言い切れる者ではありません。私も同じ罪人です。しかし、この悲しい人間の現実に神が介入されました。わたしが赦すのではなく、神によってこの赦しが生まれました。皆さん、創世記の最初に人は神に対して罪を犯し、人に対しても罪を犯す者であることが示されました。しかし、神はその罪から自由にする、解放する業を始められました。創世記の最後にヨセフ物語は、この福音を告げています。
そして、22-26節のヨセフの言葉は出エジプトと創世記を結ぶ言葉と成っています。そのキーワードは「神は必ずあなたたちを顧みてくださいます」という約束です。ヨセフの遺言はこの約束に対する信仰を伝えています。約束通り神は約500年後に、彼らをカナンの地に帰らせ、嗣業の土地を分配され、ヨセフの骨は彼らによってシケムに埋葬されました(ヨシュア記24章32節)。
{参考までに他の所でヨセフの事を書いている聖書箇所を紹介します}
詩編105編16-17節「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめひとりの人を遣わしておられた。奴隷として売られたヨセフ。」
使徒言行録7章9節、ステファノの説教の中で「神はヨセフを離れず、あらゆる苦難から助け出し、エジプト王ファラオのもとで恵みと知恵をお授けになりました。」
ヘブライ人への手紙11章に列記されている信仰者の中で、22節ヨセフの事が取り上げられています。「信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、自分の遺骨について指示を与えました。」
創世記46章8節と出エジプト記1章1節はだいたい同じ内容です。出エジプト記を族長ヤコブの物語の続編と考えられています。続けて読んでまいりましょう!
2023年2月8日
創世記49章「私たちの神は優等生の神ではない」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★私たちの神は優等生の神ではない
ヤコブは息子全員を自分の床の周りに集めて、末期の言を伝えました。ヤコブはそこで自分が受けた祝福を次世代に渡そうとしています。しかし、その祝福は各々に相応しい内容の祝福として受け継がれます。その各々に相応しい祝福の内容が3-27節にある、息子一人ひとりの子孫の将来の事でした。神の祝福は皆が同じように受け継ぐのではありませんでした。しかし、神はそれに対して不服を申されず、ヤコブを通して、彼らの不十分さ、足りなさ、弱さを受け止めて、12人とそれぞれの子孫に祝福を託されたのでありました。神が優等生の12部族ではなくて、不足や欠点のある12部族で約束を果たされたことは注目に値します。イエスの弟子12人も同じですね。そして、コリントの教会が使徒から受けた手紙でも同じことが伝えられています。神は世の無学なもの無力な者無に等しい者身分の卑しい者見下されている者を選んで教会を形成されました。1コリント1:26-29。
★神の約束にたがいなし
そして、なにはともあれ28節で神は初めてイスラエルの12部族の誕生を正式にここで取り上げられ、一人のさすらい人アブラハムから約束通りに、この12部族で大いなる国民を形成することの祝福に注目するようにと、私たちに語られるのであります。神はヨシュアを通して彼らに土地を分配されます。ヨシュアは23:14で繰り返し神の約束が何ひとつたがうことなく実現したことを告げています。
預言者イザヤは、イスラエルがバビロンに滅ぼされ捕囚の中で失望のどん底にあった時に、55:11「わたしの口から出るわたしの言葉もむなしくはなく、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」、との希望ある言葉を伝えました。
天使ガブリエルは、預かった神の言葉をルカ1章30節で「時が来れば実現するわたしの言葉」と言いました。
エリサベツはマリアの訪問を受けて「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と、聖霊に満たされて声高らかに言いました。私たちもこの神のみ言葉を信じ、み言葉を宣べ伝えてまいりましょう。では、現代の神の民に加えられた者として、3節以下を心して読んでまいりましょう。
★3-4節
ルベンは父が留守の時に隠れて姦淫と言う悪を行いました(創世記35:22)。私たちの周りにも、隠れた悪、裁かれない悪が現実にあります。しかし、神は必ず裁かれます。2コリント5章10節「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」。結果、ルベンの子孫は後に数が少なりますが、モーセは荒れ野の旅を終えようとしていた時に、ルベン族の為に執り成しをして祈りました。「ルベンを生かし、滅ぼさないでください。たとえその数が少なくなるとしても」(申命記33:6)。
★5-7節
シメオンとレビは、かつて妹のディナがシケムの町でシケムに姦淫された時(創世記34:7)激しく憤り、町の男子を皆殺しにして略奪しました(34:25-29)。復讐の怒り、憤りの甚だしさに自分自身を任せる行為は、神に呪われる行為です。6節は「わたしの魂よ、わたしの心よ」「彼らの謀議に加わるな、彼らの仲間に連なるな」と自戒し、子孫への訓戒としています。詩編1章1節の「神に逆らう者の計らいに従って歩ます、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座ら」ない幸いな者を思い出します。結果、彼らの嗣業の土地は他の部族と違った特異な形で分配されました。
★8-12節
ユダ族から王ダビデが、そして後にキリストが誕生します。獅子や杖は王を象徴しています。11-12節はその王がもたらす祝福を示しています。その葡萄の豊かさは、ロバに食べられても問題のない程の量であり、それで洗濯される程だと、言われています。乳も豊かさを現しています。キリストも水を葡萄酒に変えたり、自らを葡萄の木の幹、クリスチャンを実を結ぶ枝と譬えて、この神からの豊かさを私達が受け継ぐことを示されました。
★13-21節
ゼブルンの住んだ場所は、海辺の港町でした。港はイスラエルにとって悪の満ちた場所でした。シドンはフェニキヤ人の町でした。フェニキヤは経済発展国でしたが、イスラエルは彼らの偶像礼拝に注意しました。列王記上16:30-33でアハブ王がフェニキヤ人イゼベルを妻に迎えて、偶像礼拝の罪を犯したことは私たちの知っているところです。ゼブルンの住んだ場所は偶像礼拝の結末が如何に恐ろしいかを伝えています。
イサカルは運搬の働きをする骨太のロバに例えられます。二つの革袋の間に身を寄せるとは、その働きに満足している様子です。イサカルがカナンの平野に住む場所を求めた時も同じで、そこにいたらカナンの奴隷にされる誘惑にさらされる事に目が入らず、どっしりと腰を据えてしまいました。キリストも言われました。誘惑に陥らないように目を覚ましていなさい。
ヤコブの側女ビルハは、ダン命名の理由を30:6で、神がわたしの訴えを正しく裁かれた、としています。ヘビやマムシは小さいが、馬のかかとをかんで乗り手を落とします。裁きは大きさではなくて正しさにかかっています。神の民は神の正しい裁きを忘れてはならない。
ガドはヨルダン川の東に住んでいました。彼らはその位置から常に遊牧民の略奪に苦しめられました。アシェルの嗣業はガリラヤ湖西部の丘陵地帯で、肥沃な土地だったので豊かな収穫を得ました。ナフタリは自由を表しています。
この様にそれぞれの嗣業は異なり、それによって境遇も違っています。そして、背負っている重荷、誘惑の内容はそれぞれ違いますが、18節「主よ、私はあなたの救いを待ち望む。」と言う信仰の叫びが、真ん中に付け加えられている事に注目しましょう。
★22-27節
ヨセフへの言葉はユダと同様長く、祝福の言葉に満ちています。ベニヤミンは一番年下であるが、一番勇ましい内容と成っています。
神に委ね切る
★29-33節
神がヤコブを先祖の列に加えられるとは、信仰を持って神の祝福を伝えて来た先祖の鎖にヤコブと言う輪が加えられる、つまり神が信仰の鎖を形成されるという事です。31節で妻たちのことを語る時、ヤコブはラケルの事を思い出したでしょうが、神に委ねたのでその事に触れません。33節、足を床の上にそろえて息を引き取る事も、神に委ねる行為です。「父よ、私の霊をみ手に委ねます」と叫んで死んだキリストは、復活して招かれます。「わたしに従って来て(わたしの後に着いて来て)神に委ねよ、大丈夫だから」と。わたしたちが息を引き取る時も、神に委ね切る時ですね。
2023年2月1日
創世記48章
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★強くあれ
アブラハムとイサクは長寿全うして満ち足りて死んだ(25:8,35:29)。しかし、1節ヤコブは病気で死にました。アブラハムからイサク、イサクからヤコブへと神の導き(これを祝福と言っている)とそれに答える信仰が継承されて来ました。今異国の地、異教の地、エジプトに寄留しています。その寄留期間は、出エジプト12章40節によると430年でありました。ヤコブから次世代へどう受け継がれて行くのか、その点で一番大事な時にこの様な困難を神はお与えになりました。どうしてでしょうか。神の祝福とそれに答える信仰は、困難の中で伝えられて来た歴史があります。なぜなら神は、試練と同時に、それに耐えられるように、逃れる道も備えて下さり、愛する者を訓練し、受けいれるすべての子を、むち打たれる方だからです。
2節、力を奮い起こしてヤコブは寝台の上に座った。「もう、わたしは起き上がれない」と、病気はヤコブにそんな思いを起こさせていたでしょう。しかし、ヤコブは「力を奮い起こせ」と御声を聞いたのではないでしょうか。ヨシュアがヨルダン川を渡る時、「もうモーセはいない。川の向こうには先住民がいる。大丈夫だろうか」と言う思いが起こりました。その時「強く、雄々しくあれ」と主は言われました(ヨシュア1:6)。実はその「強くあれ」と「力を奮い起こす」は同じ言葉が使われています。以後、主は幾度と無く「強くあれ」と神の民に言われる(エフェソ6:10)。現代の神の民とされた私たちにも神は言われます「強くあれ」。
★十二部族が土地取得する神の計画
3-4節は35章をヤコブが思い起こしている所です。カナン地方のルズはベテルとも言いヤコブにとっては大切な場所でした。かつて28章10-19節で、ヤコブは夢で神から約束をいただきました。その中の一つ15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」と言う約束は、35章でラバンの家から戻って来て実現しました。そして、今はエジプトにいるが死後の遺体は戻され先祖の墓に葬られます。しかし、もう一つ3節で土地取得の約束を受けていました。それはまだ実現していません。ヤコブはこの約束を次世代のヨセフに受け渡します。
神は土地をヨシュア記で12部族に分割取得させられました。しかし、そこにはヨセフ族と言う名は無く、その代わりにエフライム族とマナセ族があります。ヨセフの代わりに彼の二人の息子がその12部族に加えられ、レビ族は祭司の家系と言うことで土地が与えられなかったので、結果12部族が誕生しました。これが神のご計画でした。この神の計画を先取りして、5-6節でヤコブはヨセフの長男と次男の養子縁組を申し出ました。
7節ヤコブは自分の生涯を振り返ってもう一つの事を語ります。35章で再度土地取得の約束を受けて帰える途中で、妻ラケルが死んだ事です(35章11節)。それは彼の生涯で忘れられない大きな悲しみでした。しかし、神に支えられて自分は今日に至った。あのラケルの事はすべて神にお委ねし切った。そう言う思いがここに込められています。
★祝福の継承
さて、8-20節でヤコブはヨセフの息子に神から受けた祝福を受け渡します。祝福は単なる祈りではありません。ヤコブはイサクから祝福を受け取りました。その後でエサウと父ヤコブの会話、27章33-38節を読むとそれが分かります。25章11節イサクの場合は、アブラハムが死んだ後、神がイサクを祝福されました。ヤコブの場合はイサクがヤコブに近づいて祝福しましたが、その所作は詳しく書いてありませんでした。しかし、今回48章14節でヤコブはヨセフの二人の息子に按手します。きっとイサクからもそのように祝福されたのでしょう。
15-16節は、この祝福がアブラハムとイサクの神の祝福であり、羊を養う様な牧者なる神の祝福であり、使いを遣わして贖われる神の祝福であるとしています。もちろん、この神が天地創造の神であることを創世記を読んでいる私たちは知っています。この祝福には天地創造や洪水の後に行われた神の祝福、すなわち「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言う生命の力を含みます。ですから、祝福は神の力です。按手はそれを伝える特別な所作です。祝福の最後でアブラハム、イサク、ヤコブの名が彼らによって覚えられる祈りがあります。アブラハム、イサク、ヤコブの名は彼らを召し彼らが信じた神のことを忘れない、彼らもこの神を信じる信仰の継承を求める祈りです。
17節、右手の按手は左手と区別され特別なものとされていました。それでヨセフは慣例通りに長男をヤコブの右手に次男を左手に置きました。するとヤコブは手を交差して逆に按手しました。ヨセフは父に間違っている事を告げます。老齢で目が霞んで物事の判断がつかずボケていると判断したのです。しかし、19節「いや、分かっている。わたしの子よ。わたくしには分かっている」とヤコブは答えました。何が分かっているのでしょうか。ヤコブはこの時に、自分が祝福を奪った兄エサウとの闘争を思い出していたでしょうね。今次男が長男を超えて祝福されようとしています。ヤコブもこんなことはもう二度とやりたくなかったのではないでしょうか。「ヨセフ、お前の言いたい事は分かっている。いやお前以上に分かっている。しかし、按手は自分がしているのではなくて、神に代わってしているのだ。誰に右手を置くのか、その決定は神がなさることなのだ」。ヨセフは黙って父の信仰を受け継ぎました。
★シェケム
最後にヤコブはヨセフに特別な土地シェケムを与えた。そこはアブラハムが最初に宿営し祭壇を築いた所です。また、ヤコブがラバン叔父さんの家があるパダン・アラムから帰って来て、エサウとも和解し、新たな歩みを始めた時に買って、祭壇を築いた土地でもあった。ヨセフの骨はそこに埋葬された(ヨシュア記24章32節)。ヤコブはそこで井戸を掘り、新約聖書で出てくるサマリアのスカルの井戸は、シケムだと言われています。また、北イスラエル王国の最初の首都でもありました。
今日のみ言葉は、神からいただいた祝福を次世代へ受け継ぐ使命を与えられている私たちにも、「強くあれ」とのみ声を伝えています。お祈りいたしましょう。
以上、49章で息子全員を集めて祝福する前に、ヤコブはヨセフと親しく接する機会を神から与えられたのでありました。21節神の祝福は確かで、必ず約束は果たされる。イザヤ55章8-9「わが思いは、あなたがたの思いとは異なり、・・・あなたがたの思いよりも高い。」を思い出します。イザヤ55章10-11節「わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。」を思い出します。49章22-26節はヨセフに対する昔から変わらない、最後までえこひいきする父ヤコブの姿が表れています。しかし28節それはそれぞれにふさわしい祝福だったと結論付けています。ヤコブのえこひいきには神のご計画があったのですね。二人とも過去を振り返って神のご計画を思い、微笑んだのではないでしょうか。33節は幸せな死だった事を伝えています。
2023年1月18日
創世記46章9~31節~47章31節「天の故郷を目指す旅人」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★ヨセフの計画
ヨセフが兄たちに自分の身を明かした時にした、父ヤコブへの伝言に注目して下さい。45章9-11節です。ヨセフは家族をエジプトに呼んでゴシェンに住んでもらう事を既に考えていました。そこはナイル川の河口デルタ地帯で家畜を飼うのに適していました。それと国境が近いので万が一危険が起こっても国外に逃げ易いと言う事もあったのでしょう。それで、兄たちには自分たちが羊飼いであることをファラオに告げるよう指示しました。
エジプトの中心はナイル川上流の内陸部にありました。エジプト人は羊飼いを忌み嫌っていましたから、河口にあるゴシェンは都合が良かったからです。しかし、ファラオは45章17-20節でファラオは飢饉の期間だけの避難として迎える意向を示していますが、移住の事はまだ許可していません。ゴシェンは国境付近でしたかた、戦争になった時の国防の要でもありました。故に他民族に移住させる事は一般的に言ってあり得ません。ファラオのいる内陸に住まわせる可能性もあります。ヨセフは国の政策をファラオから任されていましたが、ゴシェン移住の件はそう簡単ではありませんでした。
★ファラオの謁見
47章でヨセフはまず選抜した5人の兄をファラオのもとに連れて行きました。彼は後ろから祈る思いで、謁見する兄たちを見守っていた事でしょう。4節で兄たちはヨセフが言えなかった事をファラオにズバリ話しました。ファラオはそれを承諾し、有能な者を王の家畜の監督にしても良いという、エジプトでの職も与え、寄留ではなくて永住しても良い考えを明かしました。ヨセフは次に7節で父ヤコブを連れてファラオの前に立たせました。
ファラオの前での父ヤコブは、どうどうとしていました。それは挨拶と言うよりファラオを祝福する事で始まり終わっています。ここにアブラハムに約束された「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」が実現しています。ファラオから「何歳か」と聞かれ、ヤコブは130歳と答えました。ミイラやピラミッドなどの遺跡から分かるように、エジプト人は命が永遠に続く事を求めていました。そんなに長寿なのにまだ短い方だと聞きファラオは驚いた事でしょう。ここで注目して欲しいのは、ヤコブが自分の年齢の事を「旅路の年月」と言い換えて、ファラオが持っている生命観と違う、目的地に向って旅路を進む旅人としての信仰者の生命観をファラオに示しました。
新約聖書ヘブライ人日の手紙11章13節16節の生命観ですね。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。・・・ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」。
ヨセフはこの会話を聞いてどう思ったでしょうか。さすがお父さん。ファラオの前でも引けを取らず大きい、と思ったのではないでしょうか。信仰者の視点はこの世とあの世にまたがる壮大な視点、ファラオのそれは小さく見えたことでしょう。さて、13節から26節まで、ファラオの為に仕える有能な大臣としてのいつもの忙しいヨセフの様子が描かれますが、家族との再会によってヨセフの心の中の忘れていたものが芽生え出します。それは旅人としての信仰でした。
★父の遺言
自分の遺体をエジプトから運び出して先祖たちの墓に埋葬する事を切に願う父ヤコブの遺言によって、エジプト人と成っていたヨセフの心に「自分も先祖の信仰を受け継ぐひとりである」との自覚が芽生えました。彼は父に誓い、父はヨセフを拝み感謝の意を表しました。この体験は大きかった。後に50章24-25節でヨセフは臨終において、将来必ず出エジプトする預言と、その時自分の骨を携えて故郷へ帰る事を、我が子に誓わせて父ヤコブの信仰に従うのでありました。
ヘブライ11章21-22節「信仰によって、ヤコブは死に臨んで、ヨセフの息子たちの一人ひとりのために祝福を祈り、杖の先に寄りかかって神を礼拝した。信仰によって、ヨセフは臨終のとき、イスラエルの子らの脱出について語り、
自分の遺骨について指示を与えました」
2023年1月11日
創世記45章9~46章30節「未来への希望」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
兄弟たちが父を迎えに行く9-24節
9節からヨセフは移住の話にも触れるのですが、兄弟たちは目を丸くして、まだ信じられなかった様子が12節で分かります。14-15節、抱擁と語り合いと言う手続きによって兄弟たちは、やっとこの事態を受け止めることが出来ました。彼らにとって非常に衝撃的な出会いであったことが分かります。また人が、聞くことや、見ることだけでなく、触り、感情を出し合い(その一つとしてハグがある)、話す、と言う全人的な存在であることも、ここで改めて思わされます。
さて、16-21節で正式にヤコブの家族全員をエジプトに迎え入れる許可をパロから得なくてはなりません。ところがパロ自身も家財を捨ててエジプトに移住する事を勧めました。また、用意された移動の為の車(馬車)は彼らにとって乗った事の無い高級車でした。
22-23節は父のもとへ帰る兄弟たちと父に対するヨセフからのお土産です。弟ベニヤミンのお土産は群を抜く内容です。銀300枚は約3.4キロだそうです。24節「途中で言い争わないでください」と言うヨセフの言葉が気になります。今最高に兄弟である事を自覚している彼らですが、富と言うものはそれでも争いを起こさせる力を持っています。ヨセフはエジプトでそう言う人間の現実を見てきたのでしょう。
父がエジプトへ出発する45章25節-46章27節。
ヤコブはヨセフの父であるが、アブラハム、イサクと言う族長の家系を受け継ぐ者、すなわち、神の約束を受け継ぐ者でもありました。28章13-15節でヤコブは主から約束を受けました。ですから、ここを離れてエジプトに移住すると言うのは一大決心だったのです。
26-27節、ヤコブにとってヨセフは死んだ息子です。その息子が生きていると言われても、これは信じられないことでした。「父はぼんやりしていた。(気が遠くなった新共同訳)」心が凍ると言う意味です。マルコ16章で主の復活の知らせを受けた女性達も正気を失っていたと8節にあります。それとよく似ています。残らず話を聞き、エジプトの馬車を見て27節「父ヤコブは元気づいた」。魂が甦るという意味です。ヤコブにとって息子ヨセフが甦った様なものだったのでしょう。
28節新共同訳「よかった」口語訳では「満足だ」、新改訳では「それで十分だ」と訳されています。新改訳が原文に近い訳です。まだ会っていないがエジプトの馬車と息子たちの詳細な報告で十分だった。マタイ8章5-13節の百卒長も御言葉だけいただいて「それで十分」として帰って行ったのを思い出します。この信仰は12章のアブラハムが「わたしが示す地に行きなさい」と言われた御言葉に従ったのと同じ信仰です。
46章1節イスラエルは一家を挙げて旅立った。ベエル・シェバでの礼拝は父イサクの神、すなわちアブラハムの神に対する礼拝であり、ヤコブは父祖たちが受けた同じ神の導きを祈ったと思います。すると2-4節で神はその祈りに答えられ、この旅を導く約束を与えられた。これはヤコブ個人に対する約束と捉えられると共に、後に大いなる国民となったヤコブの子孫が後に約束の地に連れ戻される約束とも捉えられる。また、いつの時代も御言葉に従う者に対する約束です。
27節まで長々とエジプトに上った70名の名簿があります。これはヤコブの孫までの系図でもあります。この旅は彼個人の息子との再会の旅ではなくて、アブラハムから始まった族長の物語の続き、エジプト移住の物語の始まりとなっています。あなたの子孫を大いなる国民とする。大地の砂粒のようにする。数えられない星のようにする、と言う約束を神から受けた者が今70人となりました。そして、今エジプトに移住しようとしています。どうなるのでしょうか。明らかな事は3-4節み言葉に頼るアブラハムの信仰がヤコブにそしてその子孫に受け継がれて行きます。
父がエジプトに到着してヨセフとの再会をする 28-30節
ヤコブは息子ヨセフに会えたらもう自分の人生の目的は達成して30節「わたしはもう死んでもよい」と言ってしまった。しかし、彼は後に48章11節でヨセフの子とも対面します。47章28節から逆算すると、ヤコブがヨセフと会ったのは130歳であった。それから17年間ヤコブは生き長らえたのでした。神のお許しがなければ、いくら自分がもう死んでも未練はない、と言いましても死ぬことはできなかったのです。エジプト移住は食物の飢えからの救いとなった。しかし、もう一つの飢え、未来への希望(それは神が導き約束される事)と言う魂の飢えからの救いをヤコブは受けたのだと思います。現代人もこのもう一つの飢えからの救いを必要としています。
2022年12月21日
創世記44章1節~45章8節「人を再創造する神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
●見捨てられた傷
心に刻まれた傷は、そう簡単になくなりません。ヨセフの場合は見捨てられる事による傷でした。42章の第一回目の出会いの時に、ヨセフは兄たちを回し者だと言い、18節でシメオンを人質にしてベニヤミンを連れて来るように命じて、兄たちを懲らしめました。それはヨセフの心に刻まれた傷のゆえでした。人の心に刻まれた傷はそう簡単に癒されません。しかし、42章21節で「弟が我々に助けを求めたとき、あれほどの苦しみを見ながら、耳を貸そうともしなかった」と、過去に犯した罪を後悔している兄たちの姿を見て、ヨセフは24節感動し、25節で穀物代を返却し、旅途中の食糧をも与え、兄たちに配慮しました。実際、家に帰ってからの兄たちには変化がありました。代表してルベンやユダはヨセフの弟ベニヤミンの為に犠牲を払う事を父に申し出ました。
第二回目の出会いでは、ヨセフはもう懲らしめませんでした。弟ベニヤミンとの再会に感動し、兄弟全員で昼食を共にし、兄たちとの和解をヨセフは決断します。この様にお互いに変化が起こって来ました。44章ヨセフは出来る限りの配慮をして兄たちを帰らせるが、もう一度兄たちが本当に変えられたのか確認する為に銀の杯で試します。濡れ衣を着せられたベニヤミンを兄たちはどうするだろうか。ヨセフと同じ様に見捨てないだろうか。
●新たな創造
兄たちはますます過去に犯した罪の事で心を痛め、16節「神が僕どもの罪をあばかれたのです」と言って、かつての罪を認めヨセフに告白しました。そして、ベニヤミンと共に奴隷になる事を申し出ました。17節ヨセフはその必要は無いと言って、兄たちを帰らせようとします。しかし、兄たちを代表してユダが18節以下44章終わりまで延々と事情を説明し、33節ベニヤミンの身代わりを願います。また、父がベニヤミン無しには生きて行けない事も伝え、本当に父の事も考えていることが分かりました。
本当に新たにされて変えられている兄たちに接し、ヨセフはとうとう我慢できなくなって45章で身を明かした。4節「私はあなたがエジプトへ売った弟のヨセフです。」それはヨセフにとって自らの心の傷を明らかにすることでもありました。しかし、ヨセフの心の傷にも変化が起こっていました。5節「しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。」「命を救うために、神がわたしをあなたがたより先にお遣わしになったのです。」と5節7節8節と繰り返しヨセフは言いました。
ヨセフはずっと過去に捕らわれていました。しかし、神はヨセフをそこから解放して、未来のために神が過去の私にこのようにされた、と気付かせられました。これがヨセフの変化です。これは全く新しくなったヨセフです。新しさと言うのは未来に向かうものなのですね。神は心の傷をこの様にして癒されました。神が人を新たにされると言うきよめの業は、この様に人を未来へと向かわせる希望を生み出す業なんですね。
これによって兄たちにも過去から解き放たれて未来が与えられました。12人の兄弟が神様によってここで全く新しく造られていることが分かります。創世記1章で神は人を創造されました。しかし、神は6章6節で、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。けれども、創世記の終わりの所で、神に導かれて人が新たに造りかえられる物語を今、私たちは読んでいます。神さまは、エデンから出て行った人間を新しく造りかえる為に、働き続けられます。
44章33節のユダの言葉「何とぞ、この子の代わりに、・・・」は、その子孫から生まれる(マタイ1章の系図でなぜ四男のユダが載っているのでしょうか不思議です)キリストの十字架の愛の前触れとも言われています。その点からすると、ここはヨセフ物語の頂点です。キリストの十字架によって示された愛が人間を再創造します。教会が聖餐式を執り行うのを聖書は定めています。それは新約聖書のコリントの信徒への手紙11章23-26節です。その最後に「主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのである」と記されています。主の死とは十字架の死であり、それによって現わされた神の愛です。
「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」ローマ5:8。主はあなたに代わって、あなたの為に命を捨て、血を流されました。だから、あなたがその愛を受け入れ、その愛の中に入り、その意味でキリストと結ばれるなら、新しく創造されます(2コリント5章17節)。ですから、クリスチャンにとって大切なのは、新しく創造されることです(ガラテヤ6:15)。12人の息子たちは後にイスラエルの十二部族を形成しますが、新しく創造されるという原理に従って生きていく人が神のイスラエルだと、使徒パウロがガラテヤ書で結びの言葉に入れているのは非常に含蓄のあることです。
2022年12月14日
創世記43章「共に座する喜び」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★皆さん、どうしたら良いのか分からない時がありますね。ヤコブの家でもそうでした。エジプトに人質として残して来たシメオンを、そのままにするわけにはまいりません。しかし、エジプトが要求するベニヤミンの同行に対して、父ヤコブは未だ猛反対を続けます。どうしたら良いのでしょうか。神が夢でお告げでも下されば良いのですが、神は43章でも沈黙されていました。10節で四男のユダが猛反対する父に「こんなにためらっていなければ、今頃はもう二度も行って来たはずです」と言いました。エジプトとカナンは往復約1000キロの道程でした。つまり約半年間この問題は棚上げとなっていました。
★しかし、神が飢饉をもっとひどくされたので、エジプトから持ち帰った穀物が食べ尽くされ、どうしても、もう一度エジプトに行かざるを得なくなりました。父イスラエルがエジプトでの食糧調達を命じますが、ユダが尽かさず父に棚上げした問題に答えるよう訴えました。
★3-10節はその件について、父と息子たちが討論します。息子たちはその中で、父のベニヤミンに対する愛情の強さを目の当たりにしましたが、愛されるベニヤミンに対する嫉妬は、もう息子たちには起こりませんでした。先週お話ししました、彼らが受けた神のお取り扱いによりまして、実母のいないベニヤミンに対する愛を、兄弟を代表してユダが表しました。9節で彼は自分が責任を負い、自分がベニヤミンを連れ帰る事を保証する。万が一その事が実現できない時は、生涯その罪を自分が負い続けると約束し、父に決断を迫りました。
★11-14節、そして息子たちの心からの説得が父の心を動かしました。14節「どうか、全能の神がその人の前でお前たちに憐れみを施し、もうひとりの兄弟と、このベニヤミンを返してくださいますように。このわたしがどうしても子どもを失わねばならないのなら、失っても良い」。皆さん、ヤコブの生涯を思い起こしてください。彼は兄エサウからの長子の特権を得、叔父ラバンから丈夫な家畜を得、兄エサウとの和解を得、12人の息子と共に祖父アブラハム、父イサクがいたマムレに住みました。彼は多くのものを得ました。策略家ヤコブでありましたが、今は、ただ全能の父なる神の憐れみによって、これらのすべてが起こったことであると、信じる者に変えられていました。この14節の言葉には、息子たちにもこの信仰を受継いでほしいとの思いが込められていたのではないでしょうか。それで彼は14節の最後で「もしわたしが子を失わなければならないのなら、失ってもよい」と言い切って、全能の神に対する全き信頼を証しました。
★さて、エジプトでの二回目のヨセフとの出会いが15節以下で始まります。約束通りにベニヤミンを連れて戻って来た兄たちですが、袋に戻された銀の件がありました。この件で代金を盗んだと言う事になったら大変です。ところが代金は確かに私が受け取りましたとヨセフの家の執事は答えました。注目すべきは彼がその時付け加えた言葉です。23節の「御安心なさい。心配することはありません。あなたたちの神、あなたたちの父の神が、その宝を袋に入れてくださったのでしょう。あなたがたの銀はこの私が確かに受け取ったのですから」。そしてシメオンの身柄の解放も実現します。ヨセフの家に通され、正式な客としてのもてなしが始まりました。32節は遊牧民族に対するエジプト民族の祭儀的なタブーがあったことを伝えています。その様な困難がある中でしたが、ヨセフは彼らを招きました。
★残る件は二つ、ベニヤミンの解放と食料の買い付けです。食料の買い付けは44章1節を読めば解決したことが分かります。残るはベニヤミンの件です。ヨセフの目は終始弟ベニヤミンに注がれていました。30節の弟と会えた懐かしさは大きかったでしょう。ベニヤミンだけを祝福し、5倍の量のご馳走を与えた所には、単なる弟ではなくて、腹違いで母を無くし末っ子という同じ重荷を負う仲間と言う意識もあったと思います。そして、33節ヨセフに向かって年齢順に座らせられた兄弟たちは驚きます。その食卓を見回した時、ヨセフは心の中で和解する事を堅く決意させられたことでしょう。神は沈黙しておられるが、この様に宴席で働いておられたのだと思います。
★神はこの宴席を見てどう思われたでしょうね。以前紹介しました詩編133編を思い出します。「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。エジプトのヨセフの家で、聖書は初めて祝宴における食卓の様子を伝えています。神は救いの業を、食卓と関係付けられています。旧約では過ぎ越しの食卓、新約ではパン裂きの食卓(聖晩餐)、そして、イエスは神の国での食事や婚宴の譬えを幾度も言及されました。黙示録は小羊の婚宴のことを伝えています。ですから教会には、祭壇中央にこの食卓を置く伝統があります。
ですから教会の聖餐台は本来食卓なのです。
2022年12月07日
創世記42章「神のお取り扱い」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★父の偏愛に嫉妬しヨセフを売ろうとした兄たち。それを知らず、息子ヨセフの喪失の壁を乗り越えられない父ヤコブ。ヨセフは自分をエジプトに売ろうと悪をたくらんだ兄たちを赦せないし、監獄の中という、或る意味人生を振り返る時を与えられ、自分の無配慮さをも後悔したのではないでしょうか。ヨセフ思ったでしょうね、もう一度家族をやり直せたら、しかしそれは出来ません。
★この様な事はわたしたちのあいだでもありますね。忙しくしている時は気にならないのですが、静かに神の前に出る時に、この様な事が思い起こされますね。この42章には神は一切表に出て来られません。しかし、神はそんな私たち人間をお取り扱いなさるお方です。特に私たちクリスチャンは、神のお取り扱いを受ける為に、聖霊が宿って下さっています。
★1節、エジプトに穀物があるという情報が入ったのに息子たちが顔を見合わせているだけで、「お父さん、このままでは私たちは飢え死にです。エジプトに行って食料を調達してまいります」と、一向に言い出さないので父ヤコブが口火を切りました。その頃のエジプトの人口は推定で200万ぐらいだそうです。それに今回の飢饉で周辺諸国からも沢山の人が集まっていました。その中の一人であるヨセフに出会う確立は大変低いものです。しかし、彼らは動揺します。20年以上前に行った悪でしたが、しこりの様に兄弟たちの心に残っていたことが分かります。4節と36節と38節には、息子ヨセフの喪失の壁をどうしても乗り越えられない父の姿がありました。自分が愛して選んだ妻ラケルの子はあとベニヤミン一人となりました。彼をヨセフと同じ目に絶対に遭わせてはならない、という強い決意がありました。
★さて、41章51節で「神が、わたしの苦労と父の家のことをすべて忘れさせてくださった」と言っていたヨセフでしたが、兄たちの事は忘れられず「兄たちがきっと穀物を買いにこのエジプトに来るに違いない」、と思っていました。それで国の長として多忙だったヨセフでしたが、彼は兄たちを見つけるために穀物販売の現場に直接乗り込んで自ら指揮を執りました。
★そして7節、ヨセフは兄たちを発見します。9節、ヨセフは兄たちを目の前にして、少年時代に見た夢が今実現している事を思います。そしてその夢が兄たちによって馬鹿され、兄たちに憎まれた、思い出したくない自分の過去の苦しみが甦って来ました。それでヨセフは彼らに向かって知らぬ振りをして厳しい口調で「お前たちは回し者(スパイ)だ」と宣告しました。それに対して「われわれは皆、正直な人間でございます」と兄たちは答えました。しかしヨセフは「いや、そうではない、回し者だ」と宣告を繰り返しました。
★ここで神のお取り扱いがありました。29節から兄たちが父ヤコブの下に戻り、ベニヤミンを連れてエジプトに引き返す許しを得る交渉が始まります。43章11節でやっと父の許しを得るのですが、その交渉の中で父が「なぜお前たちは、その人にもう一人弟がいるなどと言って、わたしを苦しめるようなことをしたのか」と尋ねました。すると彼らはその人が、まだ他に弟がいるのか、と尋ねて来たので尋ねられるままに答えただけで、弟を連れてこいなどと、言われようとは思いも寄りませんでした、と父に答えました。しかし42章の兄たちがヨセフの前に平伏した際のやり取りは違います。この最初の出会いの時のやり取りが省略されているとは思われません。
★神はヨセフが繰り返えす「回し者だ」との告発を用いて、先程言いました彼らの心にあるしこりの様なものをつつかれたのです。それで彼らは13節で自分たちの家族の事、父の家に残っている末っ子の事、そして最後に失ったもう一人の弟のことを白状しました。ヨセフは「まだ他に弟がいるのか」なんて尋ねていません。ここに神のお取り扱いがありました。
★ヨセフは、一人だけ家に帰って末っ子のベニヤミンを連れて来たら解放すると言う難題を突きつけ、全員監禁所に入れ三日の間を空けました。神は両者に三日間という時間を与え、その間彼らを取り扱われました。18節ヨセフは「私は神を畏れる者だ」と言って、一人だけ残して九人を飢饉で苦しむ父の所へ帰らせる配慮をしました。ヨセフは自分が見た夢にある神の計画に目を移しました。21節と22節の兄たちの悔いる声を聞いてヨセフは兄たちを助ける人に変化します。シメオンを縛り上げて外見上はその変化を見せないが、25節、エジプトで買った食料に帰途道中の彼らの食料を加え、その代金の返金、と言う形で兄たちに配慮します。恨みを晴らす者から和解を目指す者に、ヨセフを変化させるという神のお取り扱いをここに見ます。
★また、この三日間は兄たちにも変化をもたらしました。24節のヨセフの涙は、悔いる兄たちの真実さのゆえでした。28節兄たちはヨセフの配慮を受けて互いに震えながら「これは一体、どういうことだ。神が我々になさったことは」と言いました。父の家に帰って37節長子ルベンが兄弟を代表して我子の命を掛けてもベニヤミンを守ると言い出しました。彼の心には37章29節の長男として弟を守れなかった体験が刻まれていました。神による取り扱いを受け、心のしこりがゆっくりと溶け、真実な者へと変えられて行きました。
★神は現代のクリスチャンに対して聖霊によって同じ事を行われます。ペテロの第一の手紙5章6-7節「ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」
お祈りしましょう。
2022年11月30日
創世記41章14節~57節「時が来れば」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★神に導かれてアブラハムの子孫である族長たちは、シリアパレスチナ地方に住んでいました。これまではその地方の諸王が登場しました。辺境の地での出来事でした。学生時代に歴史の授業がありました。自国の歴史と共に世界の歴史を学びました。黄河のある中国、チグリス・ユーフラテス川のある今のイラク、インダス川のあるインド、そしてナイル川のあるエジプト、これらが世界四大文明と言われています。39章からは辺境の地にいた彼らが一気に、当時最強だったエジプト帝国との関りを持つことになります。
★聖書全体を見ますと、神はアブラハムから召された小さな集団を、今回のエジプト帝国から始まって、王国時代にはアッシリア帝国、バビロニア帝国、ペルシャ帝国、ローマ帝国という、大きく強い支配者との関りへと導かれる方であることが分かります。今回神はエジプト帝国の監獄で囚人にされていた小さなヨセフを、帝国の王ファラオの前に出させ(14節)、王の前に立つ者(46節)すなわち、40節宮廷責任者、41節エジプト全国の上に立つ者であった。
★イエス・キリストが思い悩む弟子たちに対して、空の鳥と野の花に注目するように言われた時に、ルカ12章32節「小さな群れよ、恐れるな」とおっしゃいました。ローマ皇帝アウグストが出した勅令に翻弄される中、誰も来ない飼い葉桶のある所で生まれたキリストが、後に、ローマ皇帝の代理の総督の前に立ち、彼によってユダヤ人の王として立てられました。但し十字架の上にではありましたが。しかし、神は小さな弱いキリストを死人の中より甦らせて天に高く上げられ、あらゆる名にまさる名を与えられました(ピリピ2章6-11節)。「小さな群れよ、恐れるな」この言葉は聖書全体に響いています。
★また、Ⅰコリント1章27-28節「ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学なものを選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするために、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下されている者を選ばれたのです」。また、ルカ10章21-24節「これらの事を知恵ある者や賢い者に隠して、幼な子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心にかなうことでした」と、喜びにあふれて言われたキリストの事も思い起こします。これらは教会が希望を持つために言われました。だから教会は昔からヨセフ物語を読む度に「私たちの選びとヨセフの選びは重なる」と理解し、信仰者の希望を読み取ってまいりました。私たちも今日そうしましょう。
★ヨセフは夢を解いた三日後に給仕役がパロに呼ばれ、獄を出た後に近々自分の出られると期待し、「神様、この給仕役の長を用いて私を助けて下さい。」と祈ったことでしょう。しかし、その祈りが聞かれるのは二年後でした。助かる望みは全てこの人に懸かっていましただけに、この二年間は長かったと思います。神に対する信頼が試される時でありました。
★ペテロの第一の手紙5章6-7節「だから、神の力強い御手の下で自分を低くしなさい。そうすれば、かの時には高めていただけます。神があなたがたのことを心にかけていてくださるからです」。ヨセフは困難な時でも、変わらず神の力強い御手の下にあることを信じました。40章8節「解き明しは神のなさることではありませんか。」とヨセフが給仕役の長に言った様に、41章16節でヨセフはパロに「わたしではありません。神が・・・」と変わらずに語っています。そして、それを具体的な態度で2年間示しました。それは自らを低くすることでした。すなわち、今立たされている所で誠実に忠実に歩む事でした。
★七年の豊作と飢饉が合い続く事、その前の年にパロに夢を見させる事、その時まで給仕役の長の記憶からヨセフのことを隠す事、それから七年の飢饉がカナンにいるヨセフの家族をエジプトのヨセフの前にひれ伏させる時をも生み出す(これが神の計画のヨセフに対する最終目的であった)事が、これらから起こります。ここに歴史を支配なさる神が示されています。
★時が来れば神は行動を開始されます。これはザカリアが天使ガブリエルから聞いた言葉です。この神の下で自らを低くせよ、と聖書は私達にメッセージを送っています。自分の思い通りではなくて御心が行われますように祈れと、キリストが教えられたのも、この信仰の歩みです。コヘレト3章11節に「神はすべてを時宜にかなうように造り」とあります。新改訳聖書は「神のなされることは皆その時にかなって美しい。」と翻訳しています。
★ヨセフはパロから嫁を与えられ、二人の息子を得、自分の半生を振り返ってマナセ、エフライムと名付けました。マナセ(忘れさせるの意)と言う名には、「神が、わたしの苦労と父の家のこと(人間の弱さ、失敗、妬み)をすべて忘れさせてくださった」の思いが込められました。エフライム(増やすの意)には、「神は、悩みの地で、わたしに子孫を増やしてくださった」の思いが込められました。過去の事を忘れる程に、今の幸せに浸るヨセフ、聖書はハピィーエンドで終わるのではありません。神の御計画は続きます。
★世界各地から食料を求めてエジプトにやって来るよう、神は飢饉を非常に激しくされ、あの辺境の地シリヤ・パレスチナにいるヨセフの家族をエジプトへ導かれました。神の目的はヨセフと家族の和解でした。神の思いを歌う詩編に「見よ、兄弟が共に座っている、なんという恵み、なんという喜び」という歌があります。詩編133:1です。創世記は50章でこの恵みと喜びの実現を成し遂げてヨセフが死んだ事で結びます。エデンを出たアダムの過程で兄が弟を殺害する事件が起こって以来、
★人間を創造した神は人と人の和解を願って止みませんでした。それが創世記の最後で取り上げられます。結果、兄たちは最後までヨセフが仕返しをしないかと心配する所で終わります。キリストは神と人の和解によって、人と人の和解の道を切り開いて下さる救い主です。創世記は遠くからキリストを指さす書でもあります。お祈りしましょう。
2022年11月16日(祈り会)
創世記40章1節~41章14節「神がなさることではありませんか」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★王の給仕役の長と料理役の長は王の側近でエリートです。しかし、王の一言で、その地位から転落すると言うリスクのある職でした。この様な人たちがいた記録は、発掘された文献の中に沢山あるそうです。自分の身を守る事に皆が必死で生きていました。息の詰まるような職場だったことでしょう。それは宮廷の中だけではなくて、監獄に居たヨセフも同じ様な環境だったと思います。現代社会と重なる所がありますね。そういう中で信仰を持って生活する私たちに対して、神はヨセフの行動に注目するように、と今日おっしゃいます。
★何があったのか詳しいことは分かりませんが、王の怒りを買い給仕役と料理役のそれぞれの長が、侍従長ポティファルの家にある監獄に引き渡されました。侍従長はこの囚人二人の身辺の世話をヨセフに命じます。6節、ヨセフは収監されたばかりの二人のもとへ、毎朝様子を見に行っていました。7節の役人に対する質問は、彼が世話係として彼らの様子を注意深く観察し、一生懸命に親切を尽くしていたから出た質問でした。
★ヨセフは監獄という思いも寄らない、自分としては不満足な悪い環境の中に立たされましたが、信仰を持って歩みました。ヨセフにとって信仰とは、神から与えられた所と信じることでした。それはすなわち、そこで誠実に歩むことでした。今日41章14節まで読んだのは、如何なる所でありましても神から与えられている所、神の導きと守りの中にある所であることを、皆さんに知って頂くためです。また、信仰者の誠実な歩みに対して、神は黙っておられない、それで思いも寄らない新たな展開が始まった、と言う現実を知って頂くためです。ちなみに、誠実は聖霊が今のクリスチャンに結ばせようと願っておられる、実の七つ目としてリストアップされています(ガラテヤ5章22節)。皆さん、如何なる所におられましても、神から与えられている所、と信じて誠実にあゆみましょう。
★さて、ヨセフがいたエジプトの時代は、夢をどのように捉えていたのでしょうか。発掘されたエジプトの文献によりますと、宮廷において夢は将来に関わる事として非常に重要視されていました。特に41章の王の夢は国全体の今後の事に作用する意味があったそうです。それで夢を解く学者が王のもとに置かれていました。給仕役の長と料理役の長の見た夢も同じでした。
★この40章で注目すべき聖句は8節のヨセフの言葉です。「解き明かしは、神のなさることではありませんか」。ヨセフの解き明かしが当るわけですが、ヨセフはそれが自分の手柄であるとは言っていません。また、その報酬も求めていません。物語の中心は、ヨセフの夢解きが成功したことではなくて、夢を解くのは人間だとしているエジプトの社会の中で、「夢を解き、それを実現されるのは神ではありませんか」、という問い掛けにあります。神がこの世の全てを支配しておられる、そう信じてこの世を歩む信仰者の姿がここに示されています。
★クリスチャンは世の汚れから離れ避け関わらないようにしなければならない、と考える人が多いです。しかし、それだけではクリスチャンの使命を半分以下にしか果たされていません。ある聖職者から非常に印象に残る言葉を聞いたことがあります。それを紹介します。『この世にどれだけ浸かるか、一寸かドップリかは問題ではありません。世のいかなる所でも、世と神の両方に足場を置いて立つ事、これがクリスチャンの使命です』。これは二股にかける事ではありません。二股とは或る時は世に、ある時は神に、自分の都合の良いように足場を置く事です。クリスチャンの使命は世と神に同時に足場を置く者として、存在することです。ヨセフは世の中のどん底、牢獄にいましたが、と同時に神ともつながっていました。そして、41章41節では、王によってエジプト全国の上に立てられます。しかし、そこでも同時にヨセフは神と繋がっていました。そして、神はそんなヨセフを用いて救いのみ業を進められました。神は今皆さんを同じ様に用いようとしておられます。イエスが弟子たちにブドウの木の譬えで、確りイエスに繋がることを繰り返し命じられたのはそのためでした。
★さて40章14節、神が解き明かされた給仕役の長の夢は、三日後に彼が復職することでした。それでヨセフは彼が復職の折に、自分のことを思い出して、ファラオに自分の身の上を話して、ここから出られるように取り計ってくれるよう頼みました。ところが、23節は給仕役の長がヨセフのことを思い出さず忘れてしまい、ヨセフの思い通りには行きません。ガッカリしたでしょうね。しかし結論は41章14節まで読まなければ正しく出せません。給仕役の長が2年後に思い出しました。ファラオが夢を見る二年後に事は進まなければなりませんでした。神は人の思い願いを遥かに超えて働かれます。
★この信仰は新約聖書にも受け継がれています。エフェソ3章20節「わたしたちの内に働く御力によって、わたしたちが求めたり、思ったりすることすべてを、はるかに超えてかなえることのおできになる方に」。信仰生活は自分の思い通りには成らないものです。それでも神の導きを信じるのが信仰です。ゲッセマネで、「わたしの思いではなく、みこころのままを行って下さい」、と祈られたイエスは、主の祈りで私たちにも「御心が地でも行われますように」と祈ることを、すなわち、事毎に、場所毎に、時毎に、私たちはこの世と神と両方に同時に確りと立たせていただいて、誠実に歩ませていただきましょう。お祈りいたしましょう。
2022年10月19日
創世記39章「神の証人とされる幸」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★ヨセフは神から夢を、私たちは神から愛を、独り子の命を、神の聖なる霊を与えられました。それはそれぞれに対する神のご計画があるからです。神を信じるとは、神の存在を信じるだけではなくて、この神の計画を信じることです。それはどの様に実現するのでしょうか? このヨセフ物語はそれを私たちに伝えています。39章は、三つの物語をA(1-6)、B(7-20)、A´(21-23)の順番で並べることで、それを伝えています。
★ファラオの宮廷の役人の侍従長であったポティファルの家の奴隷としても(A)、王の囚人をつなぐ監獄の監守長の補佐役としても(A´)、「主はヨセフと共におられた(2節、3節、21節、23節)」と記され、神の計画が進められています。しかし、AとA´に囲まれてBの事件に遭遇します。クリスチャンになってもBは体験します。しかし、Bは必ずAとA´に囲まれたBです。つまり、クリスチャンは、神が導いておられる事が分かるAA´と、それが分からないBの両方を通ります。皆さん、電車が走ると、どんな音がしますか。ガタン・・・ガタン・・・ガタンですね。それはレールの継ぎ目の音です。Bはその音に似ています。AとA´の間のBを通過する時、信仰を捨てないで、希望を持って進みましょう。
★さて、7節でポティファルの妻が「わたしの床に入りなさい」とヨセフに言い寄りました。この言葉は、私たち人間の現実を象徴する言葉です。ダビデ王の物語にも出てきます。サムエル記下11章4節で、ダビデはその権力を利用して夫あるバト・シェバを召し入れ、同じ言葉を掛けたに違いありません。また、13章ではダビデの長男アムノンが腹違いの妹タマルに同じ言葉を掛けて彼女を力ずくで辱めました。ヨセフ自身も8-9節で自分の手に委ねられている権力の事を言っています。しかし、彼はその中で神を畏れる事を忘れませんでした。これはポティファルの家の中での権力の話しですが、人は権力を持つ時に欲望に駆られ、それに対して非常に無力になります。エジプトは当時の権力の頂点に立ちました。その権力世界の中に一石を投じるのが、このヨセフ物語でした。
★後に預言者サムエルは、イスラエルの民が自分たちも他の国々の様に王を持って国を築き、他の国々の仲間に入りたい、と願った時に猛烈に反対しました。神を畏れなくなる危険があったからでした。しかし、神はそれを許されました。その理由は、神の御計画はこの世から彼らを隔離することではなくて、この世の只中にあって、神を畏れる民にすることだったからだと、思います。というのは、キリストが私たちクリスチャンのことを、地の塩、世の光であると言われ、神の計画が変わっていない事を示されているからです。ナザレン教会は戦後すぐに日本に宣教師を戻し、復興のために短期大学を千葉に創立しました。その時に選ばれた聖句が、箴言1章7節「主を畏れることは知恵の初め」でした。卒業生が築く、家庭、職場、社会、国、どこにあっても、神を畏れることが必須だからです。聖書の真ん中に「箴言」と「コヘレトの言葉」があります。これらは、王国時代に国を築く若者の教育のために編纂された、と聞いています。コヘレトの言葉は次のように結論しています。「神を畏れ、その戒めを守れ」。これこそ、人間のすべて。12章13節。神の計画がヨセフや私達クリスチャンにおいて実現されることは、私たちがこの世の只中で神を畏れて生活をする事に懸かっています。
★次に、Aに登場する侍従長ポティファルとA´に登場する監守長の、ヨセフに対する態度に注目しましょう。二人ともヨセフに全くの信頼を寄せて一切を彼の手に委ねました。ヨセフが立派だから、やり手だから、良い性格(忠実、誠実など)だから、彼らはそうしたとは聖書にはありません。主が彼と共におられたからでした。その結果、2節ヨセフはうまく事を運んだ。3節では、主が彼のすることをすべてうまく計られた。主はそれをポティファルの目に見えるようにされ、ポティファルの重臣に任命される恵にあずからせ、ポティファルが注目する中、益々祝福され、一切を任せられるまでにしたのは、主なる神であった。そして、監守長に対しても主は同じようにされました。
★彼らの目はなぜそう見えたのでしょうか。ヨセフの背後に後光が差していたのでしょうか。違います。ヨセフが主なる神を礼拝しているのを知ったからだと思います。きっと祈っているヨセフを見たのでしょう。だから、ヨセフを見て彼の働きではなくて、彼の神が働いているしか考えられなかったのです。皆さん、クリスチャンは自分の立派さを見せるのではなくて、自分に神が働かれる事を見せるために存在しています。神に働いていただくために整えましょう。
★皆さんは、職場を整えますね。事務職の人は机の中を整理します。「消しゴム床やったかな」と探さなくてよいように。整備工場では工具の整理が大切ですね。ねじの形や大きさによって、道具も変わります。小さいねじから、大きなねじまで、対応できる道具が整えられていたら、「このねじに合うねじ回しはどこや」と探さなくていいですね。新品の道具だけではありません。古い使い慣れた道具も必要です。それと同じで、私たち一人ひとり、若き者も、老いたる者のも、神に用いていただく道具です。この点で、教会の高齢化は問題ありません。大切なのは整え続けることです。神を畏れる、というのはそのために必須です。ヨセフはこの必須なものを整え続けた人でした。
2022年10月12日
創世記38章「いと小さき者の神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★エジプトのファラオの侍従長ポティファルの奴隷として売られた、十一男ヨセフの物語は39章から50章へと続きますが、その前に、ここで聖書はもう一人四男ユダのことを物語ります。彼は自分が飼っていた家畜を連れて兄弟たちから離れて、父の天幕に帰らず、アドレム人のヒラという人の近くに移住しました。その原因は兄弟同士の関係にあったのだろうと想像するのですが、聖書はその事は横に置いて、ユダの結婚から彼の子どもの結婚までの約20年でしょうか、そこで起こった事を私たちに伝えています。ヨセフ物語の途中の38章でどうしてもこの出来事を伝えたい、という重要な内容がここにあります。
★それはいと小さき存在であった女性の側に神が立たれた、という出来事でした。話しは約4000年前のことですから、当然現代女性と立場が違います。家事労働を軽減するための白物家電(洗濯機、冷蔵庫)は当然ありません。水道・電気・ガスはありません。ですから、掃除、洗濯、料理だけではなくて、水や食料や火の確保までしなければなりません。夫は家畜を連れて外に出ます。妻は衣食住のこまごましたことまで全てを担当したでしょう。縁の下の力持ち、陰で苦労する彼女たちの生きる楽しみは、夫に愛され子どもを産み育てる所にありました。それで、かつて神がアブラハムに『妻サライをこれからはサラと呼びなさい』と言われた頃、神ご自身が三人の旅人の中の一人として現れて、一年後に男子が生まれる計画をアブラハムに告げられました。それを盗み聞きしたサラが自分の心中を、「自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに(18章12節)」、と明かしています。
★さて、創世記12章2節「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。あなたは祝福の源となるように。・・・地上の氏族すべては、あなたによって祝福に入る」。このアブラハムに対する神の祝福の約束は、イサク、ヤコブ、そしてヤコブの息子たちに受け継がれて行きました。そして、彼らの妻たちにとっても、その約束は福音でした。ですから、38章の物語はユダの物語と言うより、この神の約束に反して子を宿す前に夫に先立たれた嫁タマルに対して、思いも寄らぬ方法で神の約束が果たされ双子が与えられる物語、と言う方が良いでしょう。そして、その一人がペレツの名で、マタイ福音書1章3節でキリストの系図に含まれています。ですから、イエス・キリストを救い主と信じる私たちにとって、このタマルさんの話は忘れてはならない重要なお話しです。
★さて、ユダの長男エルはなぜ神の意に反し、若死にしたのでしょうか。ユダはカナン人の娘を見初めて結婚しましたが、長男エルの場合は父ユダが嫁を長男のために迎えました。この違いだけしか情報はありません。しかし、神の意に反すると言う、次男オナンと同じ理由で早死にしました。タマルから生まれる兄の財産を受継ぐ子を自分の子にできないので、次男オナンは父の命令に従って兄嫁タマルの所に入る度に、精液を地面に流し、妊娠を阻むという、主の意に反する行為をしたため若死にしました。長男エルもタマルも不妊と関係ない健康な体を与えられていました。ですから、彼もタマルの妊娠を阻むような行為をしたのでしょうか。聖書はハッキリさせませんが、この「主の意に反する」という言葉を二回繰り返して強調しています。原典のヘブル語の直訳は「主の目に悪である」です。この言い方は、将来イスラエルが国家形成した時にそのトップである王を評価する基準に繰り返し使われました。例えば1列王15章26節34節「彼は主の目に悪とされることを行った」。
★では主の目に善いとはなんでしょうか。主が約束して下さった祝福に与ることですですね。カナン人でありましても、ユダの長男エルの嫁としてアブラハム・イサク・ヤコブの家系に加わったのですから、嫁タマルもこの神の祝福の約束に与る者とされました。ですから、長男の嫁をやもめのままにしておくことは、主の目に善いとは言えません。この信仰を持って父ユダは、次男オナンに長男の嫁タマルに子を宿らせる責任を負わせました。しかし、父ユダにとって次男の死はショッキングなことでした。もしかすると、残る三男シェラも死ぬかも知れない。そのリスクの大きさを恐れ、父ユダは嫁タマルに「わたしの息子が成人するまで、あなたは父の家で、やもめもまま暮らしていなさい」と言って、とりあえず彼女を実家に返しました。しかし、12節はかなりの年月が経ってもタマルがやもめのままである事を告げています。14節、タマルの所には既に、三男シェラが成人した情報が届いていました。父ユダの言葉を頼りに、タマルは待ち続けていました。しかし26節でユダは三男シェラをタマル以外の女性と結婚させていたようなのです。父ユダはタマルの希望は踏みにじりました。そして、主の意に反する事を行いました。タマルはどうなるのでしょうか。
★しかし、神はカナンの女である嫁タマルという、いと小さき者の側に立たれました。ここに38章のメッセージがあります。シナイ山で、神はご自分の民と共に旅立つ前に、ご自分がどういう神なのかを明かされた時も、いと小さき者の側に立つ神であることをお示しになりました。出エジプト22章21-22節「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。もし、あなたがたが彼を苦しめ、彼がわたしに向かって叫ぶ場合、わたしは必ずその叫びを聞く」。タマルの叫びを神は聞かれました。そして、神の時が来ました。それは舅ユダの妻が亡くなり、男やもめになった時でした。妻の喪の期間も過ぎ、ユダは平常の生活に戻り、友人と一緒に羊の毛を切る者の所へ向いました。その時に神がある人をタマルの所に遣わし、舅ユダが近くにやって来ることを知らせました。知らせるという事は、「あなたはどうする」という問い掛けでもありました。それにしても、この様な事を嫁に知らせるこの「ある人」とは誰なのでしょうか。ユダの家庭の事情をよく知っているこの人は、神の使いではないでしょうか。
★タマルは自分を裏切った舅に仕返しをするのではなくて、神の目に善であることを、神の祝福の約束の実現を求めて、思い切った行動に出たことからも、きっと神の使いなのだと思います。その人は知らせと共に、タマルに知恵を授けたのではないでしょうか。今や亡き夫エルの親族で、タマルに夫の子を産む可能性は舅ユダ一人でした。タマルは舅ユダを通して子を産み、神の約束、祝福の源となる事にチャレンジしたのでした。彼女は神殿娼婦に変装しました。それはカナンの地で行われていたもので、ある誓願を立て、そのために自分の操を聖別すると言う宗教的なものだそうです。それで神殿娼婦と翻訳されている原語は「聖別された者」という意の言葉が使われています。神殿娼婦に変装して路傍に座り、タマルはユダを待ちました。そしたら、ユダが声を掛けて来ました。タマルの変装にユダは全く気付かず、タマルに性交渉を求めて来ました。お礼の山羊一匹を届けさせる約束でしたが、タマルはその保証として、ユダのひもの付いた印象と杖を要求しました。舅ユダは嫁タマルと正式に縁を切っていませんから、彼女の妊娠は姦淫罪としてユダから訴えられ罰せられるでしょう。それで彼女はその疑いを晴らす証拠の品を手に入れ、事を進めたのでした。これはタマルが賢いのか、それとも、あの遣わされた人からあった指示に忠実に従ったのでしょう。
★ユダはタマルを引きずり出して裁こうとします。しかし、例の保証の品が提出され、まんまとタマルの罠にかかってしまったことが明らかになりました。こんな時に世間一般では内密にされるのではないでしょうか。ユダはそうする権力や地位を持っていました。しかし26節、ユダは神を恐れ「わたしよりも彼女が正しい。わたしが彼女を息子のシェラにあたえなかったからだ」と公に明言しました。皆さん、神は神殿娼婦と言う、当時あった如何わしい宗教制度や、男やもめになったユダの性欲という、あまり表に出したくない、その様なものをも用いて働かれました。神はこんなところには働かれない、そう思う時が私たちにもありますね。しかし、今日の聖書はそうじゃない事を伝えています。
★ 27節以下はタマルの二人の息子の誕生エピソードです。人を出し抜くペレツがルツ記のボアズの先祖であることがマタイ1章のキリストの系図にあります。カナンの女タマルとモアブの女ルツの子孫としてお生まれになったキリストこそ、「祝福の基となる」神の約束に信頼する者の神であり、いと小さき者の神であられます。ヨセフが大帝国エジプトに売られて着く前に、この神がヨセフと共におられる事を38章は伝えています。そして、この世に生きる私達クリスチャンもエジプトにいるヨセフの様な者です。神の約束に立って神に信頼すし続けて、この人生を進めましょう。タマルは皆さんに証しています。
2022年10月05日
創世記37章「思わぬ所で働かれる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★37章からヨセフ物語が始まりますが、2節で「ヤコブの家族の由来は次のとおりである」とあり、46章でヤコブは一家を挙げてエジプトへ下り、移住し、49章33節で死に、50章14節で葬儀が終わります。ですから、ヤコブの物語の中にヨセフ物語が含まれる形になっています。そして、次の書、出エジプト記の冒頭の、「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名は次のとおりである」に続きます。
★この様な流れから創世記を振り返ると、神によって天地が創造され、人の悪のゆえに神は大洪水を起こされたが、箱舟に残されたものに御心を留め、この世界を再スタートさせ、人に対して新たなアプローチを始められました。それはアブラハムを選び、彼の子孫を祝福の源として、全ての人に祝福をもたらす計画でした。神はアブラハム、その子イサク、その孫ヤコブと寄り添い、与えると約束されていたカナンの地に導かれました。以上が36章までのあらすじです。大飢饉が起こり彼らは食料を求めてエジプトへ行きますが、意外にも神はヤコブの家族をエジプトに移住させられます。その経緯が37章から50章で物語られます。神はエジプト移住後の彼らをどのように導かれるのでしょうか。この問いを残して創世記は閉じられます。出エジプト記では、今までにない神の大きな動きが始まります。それと比べると、このヨセフ物語は背後で働かれる神を伝えています。
★2-4節はヨセフが置かれていた生活環境(境遇)を、まず私たちに紹介しています。彼は羊飼いの家に生まれました。父は年老いて現役を既に引退して、兄たちがその後を継いでいました。兄は10人います(35章23-26節参照、レアの子6人、レアの召し使いで側女ジルバの子2人と、ラケルの召し使いで側女ビルハの子2人)。ヨセフは兄達と一緒に羊の群れを飼っていましたが、ヤコブの側女から生まれた4人の兄たちの下で、羊を飼って生きて行かなければならない、肩身の狭い現実の厳しさが伝えられています。
★優勢な兄であるレアの息子6人と、腹違いの側女の子どもたち4人、そして一番年の若いラケルの子2人、という三組の対立関係が想像されます。羊を飼う仕事も、上の兄6人の群れと、側女の子どもたちとヨセフの群れに分かれていたようです。また、29章31節から30章にかけて、二人の妻が夫の取り合い、出産合戦をしました。この二人の対抗意識はきっとそれぞれの側女とその子どもたちにも影響を与えたことでしょう。ヨセフが父に兄たちのことで告げ口した内容は、側女ジルパの子と側女ビルハの子の対立ではないでしょうか。子が親の影響を受ける、これは今も変わらない家族の現実ですね。創世記は共に生きるという人間の一番の核となる家族のドキュメンタリーですね。
★3節で父ヤコブのヨセフに対する依怙贔屓が、兄たちのヨセフに対する憎しみを増幅しました。穏やかに話せないというのは危険な状態になっている、というしるしでしたが、父はそのしるしを見落としたのか、無関心だったのか、鈍感だったのかのようでした。また、神が見せた夢を兄たちに伝えたヨセフも鈍感でした。自分が憎まれていることをヨセフは薄々感じていたに違いないのに、彼は夢の内容を兄たちに得意げに話しました。5と8節で兄たちがヨセフをますます憎むようになったとあります。そして、11節では兄たちがヨセフを妬んだとあります。一触即発の状況になっていました。
★皆さん、ここでカインとアベルの事件を思い出しませんか。神に感謝の献げものを持って行った息子たちを見守っていたアダムとエバは、息子たちと神との間に何があったのか、帰って来た二人の様子から察することが出来たはずです。しかし、そうではありませんでした。兄の弟殺しを止めることが出来ませんでした。ヤコブと二人の妻は12人の子どもたちの様子をどのように見ていたのでしょうか。そして、彼らも兄の激しい怒りに気付けず、弟殺し(実際は人身売買)を阻止できませんでした。人の内側から湧き上がる怒りや、憎みや、妬み、それは最初小さい芽ですが、どんどん大きな木に成長して行く様子が表現されていますね。側に居る者もそれに気付けませんでした。子育てを終えた方々はここを読んで、私たちもそうだった、子どもたちの内面を察していなかったことが多々あったなあ、と思われるのではないでしょうか。色んなことが重なったり、行き違いがあったり、家族って色々ありますね。アダムの家族、ヤコブの家族、そして、私たちの家族、重なる所がありますね。
★神がカインの献げ物をも受け入れてくれれば、神がヨセㇷにその様な夢を見せなかったら、と思って神に物申したくなる時もありますね。しかし、預言者イザヤは「災いだ、土の器のかけらに過ぎないのに、自分の造り主と争う者は」と告げています(45:9)。神がなさらなかったらその様なことが起こらなかったのでしょうか。いいえ、きっと起こったでしょう。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう」(ローマ11:33)。神は罪深い人間と関わっておられるのです。エジブトに行ってから神は今までにない特別な関りを持たれ、このアダム家族からノアの家族、アブラハム、イサク、ヤコブの家族の子孫たちと共に40年間の荒れ野の旅をなさいます。その旅の終わりに神はモーセを通して、ご自分の今までの思いを明かされました。申命記8章2節「主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあること、すなわちご自分の戒めを守るかどうかを知ろうとされた」。5節「あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」。
★さて、神はヨセフに秘め置くことが出来ない夢を見させられました。それは私たちが日頃見る夢と違って、お告げとしての夢に近いですね。7節以下の夢の内容は、神が今一番下にいるヨセフを一番上に、王や支配者として立てられることでした。この夢を見るヨセフとキリストと、似ている点があります。キリストは福音を神から賜り語られました。山上の説教を初めキリストが語られた内容は、ヨセフが見た夢と似ています。全てが逆転しています。例えば神の国に入るのは教師ではなくて、幼子です。王になる夢を見たヨセフに対してと同様に、王と言われたキリストに対して憎しみと妬みが生じ、十字架につけられました。
★父ヤコブもかつては夢で天と地を結ぶ階段を上り下りする天使たちを見、彼の傍らに立つ神から、話し掛けられる経験をしました(28章10節以下参照)。自分は問題のある父であり、妻や息子たちにもいろいろ問題が山積みされ、『こんな崩壊した家族に対して、神は働かれないだろうな』と、思わされる現実がありました。10節で、父ヤコブもヨセフを叱っていますが、神はこの夢見る息子を通して介入なさろうとしているのでは、と思い11節でヤコブはこの夢見るヨセフのことを心に留めたのでした。
★ねたみは殺意に変わります。兄たちによって弟殺人計画が立てられます。23節兄たちの行動に注目しましょう。彼らはまずヨセフが着ていた例の晴れ着をはぎ取りました。それは最初に彼らを憎しみへと誘った、忘れられない代物でした。殺人事件は現代も起こっています。人は殺人自体を欲して人を殺すのではなく、父の溺愛が生んだこの一枚の服の様な、まさかと思うようなことが人を殺人へ至らせる種となります。怖い現実を私たちはここに見させられますね。しかし、長男ルベンの良心によって殺人は防ぐことができ、とりあえずヨセフは穴に投げ込まれ、食事をしながら話し合い、丁度その時に通りかかる、エジプトへ下るイシュマエル人の隊商に売るという案を四男のユダが提案し、そうすることとなりました。
★長男ルベンが穴に投げ込まれたヨセフのことを心配して見に行ったんでしょうね。飲み物と食べ物でも持って行ったのかも知れませんね。ところが、ヨセフが穴の中に居ません。29節30節の長男ルベンの驚きから、彼はヨセフを懲らしめるだけで、穴から出して連れ帰る事を皆に提案するつもりだったのでしょうか。長男として父の息子である自分の弟全員を無地に帰宅させる責任感が表れていますね。長男の狼狽振りを目の当たりにし、兄弟たちはこの不測の事態にどう対処すればよいのか戸惑ったに違いありません。彼らは使いに、血で染まったヨセフの晴れ着を、父のもとに届けさせ、32節「これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうかお調べになって下さい」と言わせる方法を取りました。ヨセフの行方不明は兄たちだけが知っていることになりました。将来、その行方不明の弟と出会うなんて、彼らには全く考えられない事でした。
★結果的に兄たちは弟ヨセフを売り渡せませんでした。ミディアン人の商人たちがその代わりをし、イシュマエル人によってヨセフはエジプトへ連れて行かれました。ここの所は不思議ですね。神の導きではないでしょうか。父の激しい嘆き悲しみに接して兄たちは、愛する者を失った悲しみ、それを慰めるものはこの世には無いことを知ります。彼らは、自分たちがどんなに大きな罪を犯したかを知ったのではないでしょうか。さて、夢は消えたのでしょうか。ヤコブを慰めるものは無いのでしょうか。36節、エジプトの奴隷市場でしょうか、神はヨセフを、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のポティファルに競り落とさせたのでした。この様に思わぬ所で働かれる神のことをヨセフ物語は私たちに伝えようとしています。皆さん、ここに神が働かれるはずがない、と思われる所があると思いますが、今日の聖書から思わぬ所に働かれる神を見上げて、進んでまいりましょう。では、お祈りいたしましょう。
2022年9月28日
創世記36章「神の広大な視点」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★「エサウ、すなわちエドムの系図は次のとおりである」、と1節を読んで、『また系図が出て来た!名前ばっかりで、舌が嚙みそうです』、そして36章の最後まで目を向けて、『ここは系図だらけや。先生、ここを飛ばして37章から始まるヨセフ物語に入りましょう』、と思われるのではないでしょうか。確かに、興味を引かず、建徳的なものが見当たりません。また、後に神の民の宿敵となる、エサウの子孫のエドム人やエドムの王たちのみを扱っています。しかし、ヴェスターマンという旧約聖書神学者は『それでもなお、この章は旧約聖書内部で、或る本質的な意味を持っている』と書いています。その一端を今日は皆さんにお示しできればと、願っています。
★神は聖書を一瞬のうちに不思議な力で生み出したのではありません。長い年月を掛けて、まず多くの人が生きて行く中で、神の導きによって、この事は次世代に伝えなければならない、と判断した多くの内容がありました。ですから、聖書の内容の出どころは、この大地で生きた人間の現実体験なのです。フィクションではありません。7月から始めた礼拝後の例会の学びで、テキストとして選びました「聖書は語る」の著者の大頭眞一先生は、ドキュメンタリーに近いと言われています。単なるノンフィクションではなく、意図や表現(それにはその人が神から与えられた信仰が影響します)が加わります。そう言う伝えられたものを、受け取った人が神に導かれて少しずつ繋げるという編集をし始め、それを次の人が更に編集し、それが長い年月を掛けて繰り返され、一つのものに成って行きました。それを各言語に翻訳され、私たちの手元に届いた。これが聖書なのです。
★系図の原語はトーレドートで、歴史、由来、記録など、翻訳するのに難解な言葉です。このトーレドートは聖書の編集の初期段階からあり、色々な文章が間に挿入されてその初期の形が見つけにくいのですが、最後まで残された、言わば聖書の骨格の部分に属すると言えます。最初に紹介した神学者が系図だらけの36章を『それでもなお、この章は旧約聖書内部で、或る本質的な意味を持っている』と書いているのはそのためです。創世記5:1、6:9、10:1、11:10と27、25:12と19、36:1、37:2、民3:1。
★新約聖書の冒頭に、アブラハムからイエス・キリストまで続く系図が載せられています。人間の救いの為に、神に選ばれた人たちの流れを聖書は重要視しますが、この流れから外れた流れはどうなるのでしょうか。キリスト教から離れたキリスト教系新興宗教と言われる人たちは外れた流れを切り捨てます。確かに聖書のある部分ではそれを強調する所がありますが、それはその人たちを切り捨てる為に記されているのでしょうか。今日、読みました36章は、神の広大な視点を示しています。
★6-8節にエサウがなぜセイルの山地に住むようになったかの言伝えがあります。24節に生活の必需である泉をアナが発見した言伝えがあります。35節にミディアン人を撃退したハダトの言伝えがあります。この三つの言伝え以外は妻と子の名前、首長の名前、そして31-39節は王の名とその出所血縁、治めた町の名が載る歴代王の名簿となっています。内容的にはエサウの子孫が家長から首長、そして王、それも世襲ではないという、高度な社会を形成していったことを伝えています。
★イスラエルがまだ放浪の旅をしていた頃に、エサウの子孫はエドム王国を築き、敵対していた様子が、民数記20章14-21節、士師記11章16-17節から伺えます。後にイスラエルが王国を築き、外国に侵略され危機的な状況に陥った時、隣国だった彼らは助けるのではなくて、反対に侵略に加わりました(オバデヤ書参照)。アブラハム、イサク、ヤコブという選ばれた者の側から外れた者であり、上記のように敵対したエサウの子孫の系図を、神はなぜ36章全部を持って聖書に載せられているのでしょうか。
★神はアバムの系図の前に、アベルを殺したカインの系図を載せています。洪水物語の後の10章で、アブラハムが生まれるセムの子孫以外の、ハムとヤフェトの子孫の系図を載せられ、25章のアブラハムの物語の締めくくりの所でも、アブラハム・イサク・ヤコブの流れから外れて行った、イシュマエルの子孫の系図が載せています。そして、イサクが死んだ後、二人の息子の系図が載せられます。まず36章で長男エサウの子孫の系図、37章2節以下は次男ヤコブの系図を載せられます。神は長子の権よりも腹を満たす方を優先したエサウの子孫を軽視しません。イスラエル王国ができる以前でした。申命記2章6節で、セイルの山地は既にエサウの領地として神が与えた、と言われます。申命記23章8節では、掟として神が「エドム人をいとってはならない。彼らはあなたの兄弟である」と言われます。エサウの子孫は神の民に選ばれなかったけれども、神が関わり続けられた事が分かります。神の視点は広大です。
★神は信仰の共同体(神の民)を選ばれます。かつてのイスラエルがそれであり、現代の教会もそれです。それは神との特別な関係です。しかし、神が私たちとこの特別な関係を持たれる目的は、最初にアブラハムを選んだ時から、祝福の源となるように。地上の氏族すべて、あなたによって祝福に入る(12章2-3節)ことであり、それはヤコブにも受け継がれました(28章14節)。
★キリストはクリスチャンの羊飼いであることを語られた時に「わたしには、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない。(ヨハネ10章16節)」と言われました。クリスチャンだけが主が関わりを持たれる唯一の者ではありません。クリスチャンはノンクリスチャンや世俗世界を否定したり、見下してもいけません。クリスチャンには優れた所はありません。ただ神が選ばれた、これだけがクリスチャンの優れた所です。神は選ばなかった他の者にも関わっておられます。
★神の視点は広大です。神の視点はこの世界にあります。神は、実に、その独りをお与えになったほどに、何を愛されましたか。ヨハネ3章16節は「世」と伝えています。「あなたがたは地の塩、世の光である」ここにも神の視点が地と世にあることが分かります。神はこの世にそのみ業を展開しようとされます。そのみ業を一人でするのではなくて、神の民クリスチャンを選んで、そのみ業に参与させて展開されるのです。だから、私たちは、神様との関わりと共に、この地とこの世との関わりを大切にしましょう。これは車の両輪のようです。あなたもこの神に用いられて、祝福の源としていただきましょう。では、お祈りのときといたしましょう。
2022年9月21日
創世記35章16~29節「全能の神の右の手」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★父の家を出てラバンの家に行ったヤコブが、やっと父イサクのいるキリヤト・アルバ、すなわちヘブロンへ帰って来ました。これでヤコブ物語は終わります。振り返ると、ベテル→エフラタ(ベツレヘム)→ミグダル・エダル→キリヤト・アルバ(ヘブロン)という旅程の中で、ヤコブは3人の人と死別します。8節、母リベカの乳母デボラ、19節、ヤコブの妻ラケル、29節、父ヤコブ。もしかすると4人かもしれません。ヤコブが帰って来たのに母リベカの姿がありません。もしいたのなら、彼女こそ最初に出迎えたのではないでしょうか。しかし聖書は母リベカのことは何も語りません。ただ、49章31節でヤコブが死ぬ前に、息子たちに自分の葬り場所として指示した所に、父イサクと母リベカも葬られていることを告げています。リベカの乳母の葬りのことが記されているのですから、当然母とも会っていたと考えるのが普通でしょう。きっと今回の父イサクの葬り同様、兄エサウと共に母を葬ったことでしょう。とするとヤコブは四人の人と死別する経験をしたことになります。
★しかし、一人の新しい命の誕生にも立ち会いました。それから、もう一つ長男ルベンの事件がありました。このように35章でヤコブは多くの経験をしました。そういう中でヤコブを支えたのが、11節で神が現れ、語られた言葉、「わたしは全能の神である」でした。私たちが「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と、告白するのは、私たちもその神に支えられているからですね。
★シェケムで始めた定住生活は、一つの事件から思わぬ展開となり、町を出て行かなければ成らなくなったが、その時に神はヤコブに声を掛けて下さり、ベテルへの巡礼の旅を通して、ヤコブは自分の原点に立ち返る機会を頂きました。その後で、彼は愛する妻ラケルの死と直面しました。その頃、ラケルは丁度身重で、ベツレヘムへ向かう途中で産気づいた様です。皆さん、身重での旅を強いられた女性、それもベツレヘムへ向かう道と言えば、イエスの母マリアを思い出しますね。マリアの旅はナザレからベツレヘムでした。マリアたちもヤコブたちが通った道を通ったと思います。そして、ベツレヘムに着く前に、道の傍らにあったラケルの墓の横を通過したのではないでしょうか。という事は、キリストもお腹の中でしたがそこを通られました。
★ラケルはかつてヨセフを産んだ後、「主がわたしにもう一人男の子を加えてくださいますように」、という意味でヨセフと名付けました(30章24節)。今回の出産もその時と同じ助産婦だったのでしょう。17節「心配ありません。今度も男の子ですよ」と言いました。しかし、子を産んだ後、ラケルはもう自分は精魂を尽くし切って死んで行くと察しました。助産婦も母体が危険な状態であることを知ったでしょうね。「あなたが昔願った通りに、今、神は実現して下さったのよ」、と彼女はラケルを慰めたでしょう。しかし、ラケルはその慰めを受け取れませんでした。母にとって出産の苦しみも苦しいですが、産んだ子どもと別れることの方がもっと苦しいですね。それでラケルはその子の名を「わたしの苦しみの子」ベン・オニと名付けて、最後の息を引き取りました。
★夫ヤコブは母のいない赤子を連れて旅を続けなければなりません。また、愛する妻ラケルを正式な墓に葬れず、道端に埋めて立ち去らなければなりません。20節のラケルの墓に建てられた石柱は、今でも残っているとあります。墓は現在、5世紀ごろの建物が建っており、観光名所ともなっています。この碑は神の民の間で苦しみの象徴となりました。後に預言者エレミヤは、神の民が異国に征服され、息子たちが連れ去られることになる(エレミヤ10章20節)、その時、我が子と離別する母の叫びは、ラケルの叫びと同じだ、母は慰めを拒む(エレミヤ31章15節)、と書いています。またマタイ福音書もベツレヘム付近一帯の幼児が、ヘロデ王によって皆殺しにされた際の、母親の離別の叫びをラケルの叫びと同じとしています(マタイ2章18節)。子を亡くすとは、母が嘆き悲しみ、慰めを拒むことです。だからラケルは産んだ子を「わたしの苦しみの子」と名付けて嘆き悲しみ、慰められることを拒んで死んで行きました。しかし、この母ラケルの嘆き叫びは今も聖地で、イスラエルとパレスチナの間で起こっていますし、ウクライナでも起こっています。聖書が伝えている事は昔の事であり今の事でもあります。
★さて、ヤコブはラケルの付けた名を変更して「幸いの子」ベニヤミンとします。これは意訳で、直訳は「右手の側の子」です。右側とは幸運の方向です。なぜヤコブは名を変えたのでしょうか。人間には「苦しみの子」としか言えない現実があります。単なる慰めは拒まれます。しかし、ヤコブは「わたしは全能の神である」と言われた方に目を注いで、この苦しみは苦しみで終わるのではないと信じたのです。ヘロデ王によって殺された幼児たちの様な、苦しみの子をわたしたちも知っています。ヤコブは私たちにも言います。これらの子は苦しみの子に見えるが、彼らは全能の神の右の手の中にある、右手の側の子、ベニヤミンなのである。神の右の手による救いに対する信仰は詩編でも何回も歌われています。また、イザヤ41章10節「恐れることはない。わたしはあなたと共にいる神。たじろぐな、わたしはあなたの神。勢いを与えてあなたを助け、わたしの救いの右の手であなたを支える」は力強い言葉です。
★ヤコブは後に、自らの死期を迎えた時に、ヨセフと二人の子を前にして、全能の神が自分に現れて下さった35章9節以下の体験を伝えた時に、妻ラケルをベツレヘムへ向かう道中で亡くし、道端に葬った話を加えています。その一番つらい時に全能の神に支えられたからです。21節、ヤコブは12人の息子を連れて旅を続けます。22節のルベンの姦淫は父に対する反抗であり、次のヨセフ物語の予告の様です。さて、ヤコブの旅のゴールは神が命じられた父イサクの寄留地ヘブロンでした(12節)。ここは28章5節でイサクに祝福されて出発した旅からの帰還と言えます。
★ヤコブはイサクに、ラバン叔父さんの家であった事、嫁と12人の孫と祝福された財産の事、ラケルの話もしたでしょう。そして何よりも、おじいちゃんとお父ちゃんの神、アブラハム、イサクの神、全能の神との出会いと導きのことも話したでしょう。このヤコブとイサクの対面は大変重要だと思います。イサクは一度献げて死に、神によって生かされた人だ、と言われても同然の人でした(創世記22章9節以下)。後にヘブライ11章12節は、父イサクも死んだも同然のアブラハムから生まれた事を伝えています。ヤコブはこの父イサクと最後に会い、励まされたことでしょう。アブラハムを兄イシュマエルと弟イサクが共に葬った様に、イサクを兄エサウと弟ヤコブが葬りました。
★創世記35章11節「わたしは全能の神である」と言われたお方とは、早く死のうが、苦しんで死のうが、道端に葬られようが、日が満ちてちゃんとした墓に葬られようが、その者の神でいてくださるお方です。いみじくも先日行われた英国女王の葬儀の中心は、カンタベリー大主教の言葉、「全能の父なる神に、女王を委ねましょう」でした。イサクの葬儀を終えヤコブは末の子の名を「この全能の神の右手の側の子」ベニヤミン「幸いの子」と改めて良かった、と確信を強めたでしょう。私たちもこの神に望みを置くのです。この神が失望に終わる事がない希望を与えられるのです。ローマ5章5節「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」私たちはその証人です。終わりの日まで全能の神の右の手に支えられ平安のうちを歩ませていただきましょう。お祈りの時といたしましょう。
2022年9月14日
創世記34章1~35章15節「原点に立ち返る」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
罪に対する盲目
ヤコブはシェケムで土地を買いました(33章19節)。シェケムに定住する計画だったようです。自分の子どもが町に友達を持つようになったというのは今までに無い定住と思われます。だから町の長老ハモルの口から本格的な定住の勧めも出ました。その定住生活で事件が起こります。しかし信仰者は世に埋もれるのではなくて、世の旅人であるとしてヤコブの定住は失敗だったと判断するのは性急です。
私たちの人生の歩みも成功であれ、失敗であれ、そこにも神様の導きがあると信じましょう。神様がシェケムでの長期定住生活をヤコブに許されました。その体験があって次の35章以下の神との出会いがあるのです。物語はヤコブの家族に起こった事件からヤコブ自身の問題を取り扱つかおうとしています。そして、それは私たち自身の問題でもあると思います。
3節、いくら後から求婚したとは言え、ハモルの息子シェケムは強姦罪を犯しました。この34章で問題にされているのはこの罪に対するそれぞれの対応です。シェケム本人は罪の自覚が全くありません。求婚が欲望からの自己中心的なものであるにもかかわらず、辱められ傷つけられたディナの事は考えられていません。
レビ記18章は当時ヤコブ達がいた地域のいとうべき性関係を伝えます。話し合うために来た父ハモルも息子の罪の事には触れないで、結婚の話に、それも、本人たちの結婚ではなくて、シェケムの町とヤコブの家との将来の結びつきの話に転換させています。ハモルは23節で町の人々にこの結婚が町にとって有益だと話しています。町の人には息子の一件は話していませんし、町の人も気付いていません。
さて、ヤコブはどうでしょうか。この件に関してあまりにも沈黙しています。ハマンやシェケムに対する罪の追求をぼやかしています。ヤコブはそれが自分たちにとってどういうことなのかを知っているはずです。しかし、30節によると、はっきりさせたらこれから定住しようと考えている自分にとって都合が悪いかのようです。ここに昔ながらの自己保全に抜け目のないヤコブの姿が残っています。ディナの母レアが娘のことで登場しないのもおかしいです。この様に、シェケムにいる者全ての目が罪に対して盲目と成っています。
罪に対する無力
これに対してヤコブの息子達の目は違っていました。強姦は単なる道徳的な罪だけではなくて、宗教共同体であるイスラエルにとって大きな問題として捉えています。「辱める」を5節では「汚される」7節では「イスラエルの中で恥ずべき事をした」と言い換えられ罪の大きさを見抜いています。申命記7章1-5節は異邦の民との姻戚関係の禁止を伝えています。しかし、息子たちも大きな罪を重ねます。彼らはハモンやシェケムの話し合いをきっぱりと断って娘を返してもらい、償いものでも要求してそれで事を済せられたのですが、13節彼らはシェケムとその父ハモンをだまします。27章12節かつてヤコブは父をだましました。今度は自分の息子が自分よりもえげつないだまし方をします。
割礼とは17章11節で神が契約のしるしとして与えられた行為です。息子たちはそれを使ってだましたのです。そして、27-29節はその復讐が略奪に変わったことを伝えます。4章のレメクの復讐の歌を思い出します。ヤコブにとってこれは大きなショックだったと思います。そして、31節はそんなヤコブに対しての駄目押しの問い掛けとなります。つまり、この問い掛けにはっきり答えられない罪に対して無力な自分を突きつけられたヤコブはこの日最高に落ち込んだことでしょう。
原点に戻る
丁度その時に神はヤコブに声を掛けられます。1節「立ってベテルに上り、・・神のために祭壇を築きなさい」。2-3節の外国の神々を取り去り、身を清めて衣服を着替えるのは、このベテルへの旅が巡礼の旅であることを示しています。詩編130編の都もうでの歌が参考になります。日本ではお遍路さんが巡礼の旅をしています。それは単なる修行ではありません。お遍路さんに注がれる人の温かみ、大地と自然に足で接する、そういうものが自分の姿を発見させてくれる、それがお遍路の旅ではないでしょうか。ベテルへの巡礼は定住生活で自分を見失ったヤコブの自分発見の旅と言えましょう。そこはヤコブが最初に神と出会った所、原点です。
10-12節で神は、ヤコブをイスラエルと命名する神(今の自分は、神によって始まった。召命。お前はわたしのもの、わたしはお前の神)、全能の神(人をどこからでもたとえ罪の中からでも贖い取られる、その意味で神は全能)として現れて下さいました。そのことによってヤコブは自分が誰であるかを確認しました。祭壇を築くとは自分の原点に戻る為だったのです。
私たちの生活も巡礼に譬えられます。私たちもヤコブのように罪に対して盲目であり無力な自分の姿を知らされます。しかし、その中で神はヤコブにしたように私たちにも現われ語って下さいます。祭壇を築く、これは現代でいうなら教会を形成することになるでしょう。教会の中心がこの祭壇でもあります。そこに命を献げられた十字架の主が立っておられる。その主が語られる、それが教会で起こるのです。そういう教会形成をするのです。5節彼らが信仰を持って神に従っていで立つと「神からの恐怖が回りの町々に下ったので」、30節でヤコブが心配していた事は起こりませんでした。神が働いてその様にして下さったのです。この事は現代の私たちにも「恐れるな」という神様に従う事に対するメッセージを伝えています。
2022年9月7日
創世記33章1~20節「和解と負い目」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★ラバンとの和解を終え、家族とその荷物がヤボク川の渡しを渡った後、独り居残ったヤコブが神から与えられた特別の体験をし、足を引きずりながら家族のもとに戻ったのは、夜明け頃でしたから、みんなはまだ眠っていたでしょうね。ヤコブも一睡もしていませんから疲れて一息ついたことでしょう。ところが起き上がって目を上げると、こちらに向かってくるエサウの隊列が見えました。とうとうエサウとの再会の時がやってきました。
★1-3節、「ただいま」「どうしたの、その足は」「いいから、いいから」。「みんな元気か。お父さんの所に集まりなさーい」。「はい、今から言うことをよく聞きなさい。お父さんのお兄さんのエサウ兄さんが間もなく到着します。お母さんの言うことをよく聞いて、急いでお迎えの身支度をしなさい。身支度を終えたら今から言う順番で、お父さんの後に並びます。ジルパ、ガド、アシェル。ビルハ、ダン、ナフタリ。レア、ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン。ラケル、ヨセフ」。万一報復を受けた時にラケルとヨセフだけでも逃げられるように、ヤコブは彼らを最後尾に着かせました。
★4節、長旅だったのでエサウはラクダに乗って来たでしょう。彼はそこから降りてヤコブ目がけて走って来ました。抱きしめ、首を抱え口づけしました。エサウは泣いていました。ヤコブも共に泣きました。ここを読んで私たちはあるシーンを思い出します。新約聖書でイエスがたとえで話されたルカ福音書15章の通称『放蕩息子のたとえ話』の中で、帰ってくる放蕩息子の所に走り寄って抱擁した父の姿と重なるからです。これはヤコブにとって予想外のことでした。そして私たちが不思議に思うのは、エサウの方がヤコブに和解の手を差し伸べた経緯が不明だからです。ヤコブがエサウの祝福を奪った件についてエサウは一言も語りませんでした。もしかすると、我が子のことをよく知っている母リベカが言った通り、あの当時は恨み怒り憤っていたが、時が経って忘れてしまったのでしょうか。聖書はこの件に関して答えはありません。それよりも聖書は負い目を負うヤコブに視線を向けるように綴ります。
★創世記はこのヤコブ物語が終わった後、もう一度最後にヨセフ物語で、この兄弟の物語を扱います。比較してみましょう。ヨセフ物語では、兄弟たちとの再会で和解の手を差し伸べたヨセフが、なぜ兄たちの負い目を赦すことになったのか、その経緯を詳しく説明しています(45章4-8節)。ここが今回のエサウの場合と違う所です。しかし、共通する注目点があります。それは和解の手を差し伸べられた側の負い目のことです。
★ヤコブはエサウに会う前に七度ひれ伏し、妻、側女、その子どもたちも全員ひれ伏しました。ヤコブは自分の事を5節「僕」と呼び、兄エサウのことを8節13節14節「御主人様」と呼んでいます。10節「あなたの顔は、わたしには神の御顔のように見えます」とヤコブは兄エサウをたたえます。自分に負い目があるからでした。結局ヤコブは最後までエサウを「お兄ちゃん」と心から呼ぶことは出来ませんでした。断るエサウに対して贈り物の家畜を受け取るよう、ヤコブがしきりに勧めたのも自分に負い目があるからでした。しかし、ヤコブはその負い目から解放されて、兄エサウと仲良くなれませんでした。実はヨセフ物語でも、兄弟たちがヨセフに対する負い目からなかなか解放されない現実を伝えています。50章15節「ヨセフの兄弟たちは、父が死んでしまったので、ヨセフがことによると、自分たちをまだ恨み、昔ヨセフにしたすべての悪に仕返しするのではないかと思った」。このように、和解の手が差し伸べられたにもかかわらず、人の負い目はなくならない、人間の奥深くに刻まれる、そんなことを思わされる物語です。
★主イエスが弟子たちに唯一教えられた祈り、主の祈りが教会に伝えられています。その祈りの中に「私たちの負い目を赦してください」があります。主イエスは人間の負い目の問題をよくご存じだからこの祈りを教えられました。人に対する負い目は、その人を創造された天の父に対する負い目でもあります。だから、その天の父に祈りなさいと教えられました。主イエスは父の命に従い、このなくならない負い目を身代わりに背負い、私たちに完全な和解を、完全な解放を実現して下さいます。この恵みを信じて受入れる者に、主は宣言して下さいます。「あなたの罪は赦された」「安心して、行きなさい」。
★さて、ヤコブが執拗に勧めた家畜の贈り物を受け取ったエサウは、それに応えるかのごとく、これから兄弟として共に歩む思いを、自分が先導するから自分の家まで来てくれという提案をしました。しかし、ヤコブはそれを丁重に断りました。13節、そこには兄(狩猟民)と弟(小家畜遊牧民)との違いがありました。どんなに和解し仲良くなっても、二人は一緒には行動できません。14節、それでヤコブは、後からエサウの所へ行く約束をしました。そして15節のエサウの好意的な申し出も、ヤコブにとっては困った申し出でした。ヤコブは初めから兄のいるセイルに行くつもりはありませんでした。16節、エサウはこの日の為に400人の家来を連れ、長距離を旅して来たのですが、残念ながら自分の家にヤコブ一家を連れて帰れませんでした。きっとエサウの家では宴会の準備もされていたかも知れませんね。ヤコブの態度に憤慨したとはありません、お互いの違いを認め合い平和のうちに別れました。
★17節以下から、物語はエサウヤコブ物語から、一遊牧民アブラハムの子孫が、神の約束された土地取得を目指して進む旅の物語に戻ります。そしてカナンでの土地の購入によって旅が終わり、土地定着の生活が始まりだします。実はこの土地は後にヨセフの骨がヨシュアによって葬られる所となります。ヨシュア記24章32節参照。
★エサウとヤコブの兄弟は再会しましたが、また別れました。それは分裂ではありません。お互いの違いを認め尊重し合って、この星に共に住む、そして平和を保ちました。「統一」という考えは、この共に生きる視点がありません。共に生きるとは多様性を認めて生きることです。創世記で神が多様な生き物、多様な人間を創造されたのは統一するためではなくて、シャローム、平和、ハーモニーを実現するためです。預言者イザヤは、その神が平和を実現する預言をイザヤ書11章でしています。その内容は多様な生き物、全く異なる立場の生きものが共に生きる世界を描いています。「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛も等しく干し草を食らう。・・・」
★今日のポイントは、①負い目からの全き解放はキリストに於いて実現する。②平和は統一に生まれない、多様性の尊重の中で生まれる。お祈りいたしましょう。
2022年8月31日
創世記32章2~33節「和解と聖別」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★31章で神は、ヤコブを苦しめた叔父ラバンとの和解の場を備えて下さいました。そして32章からは、ヤコブが兄エサウとの和解を求める旅に出ます。どうなる事でしょうか。実はこちらがヤコブ物語の本筋です。ドローンで上空高くから眺める様に、ヤコブ物語の全体をちょっと見てみましょう。ヤコブ物語の始まりは27章でしょう。父が用意していた兄エサウに対する祝福を、ヤコブがだまし取り、エサウが憎しみを抱いてヤコブ殺害を決意する、と言う事件でした。イサクとリベカに与えられた息子エサウとヤコブの和解はこの物語のテーマです。そして、もう少し高い所から眺めると、このテーマはアダムとイブの息子カインとアベルが和解できなかった問題を引きずった形になっています。そして、目を反対側に向けると、37章から始まるヨセフ物語もそれを受継いでいることが分かります。神が如何に人と人の和解を願っておられるかが分かりますね。
★ラバンとの和解後、やっと故郷に帰れるわけですが、もう一つの問題、兄エサウとの和解が残っていましたから、ヤコブの足取りは軽いものではありませんでした。特に兄に関する情報が彼には全く与えられていませんでした。「そのうちに、兄さんの憤りも治まり、お前のしたことを忘れてくれるだろうから、そのときには人をやってお前を呼び戻します」と言う、母の約束を信じて叔父ラバンの所に向かったヤコブでしたが、今回その母からの連絡ではありませんでした。神が「さあ今すぐこの土地を出て、あなたの故郷に帰りなさい」と指示なさいました。そしてその時神はエサウに関して何の情報もお与えになりませんでした。ただ、「わたしはあなたと共にいる(31章3節)。わたしはべテルの神である(31章13節)・・・」との、み言葉だけでした。皆さん、私たちの信仰生活もこれとよく似ていますね。神を信じたら、神は私たちを特別扱いして、私たちの未来に対する情報をお与えになるのではありません。ただ、大きな違いは、肉体となって私たちの間に宿られたみ言葉、救い主イエス・キリストが羊飼いが羊を先導するように、私たちの信仰の旅を導いて下さっています。
★4節からヤコブの行動が始まります。その前に2節で神は突然、天使の群れを彼に見させました。3節に、この天使の群れを見たヤコブの反応が記されます。「ここは神の陣営だ」。そして、その場所をマナハイム(二組の陣営)と名付けました。ここを読んで、ヤコブが故郷を後にして旅立った最初の晩を思い出します。あの時、ヤコブは天と地を結ぶ階段を天使たちが上り下りするのを見て、その場所を神の家だ、天の門だと言って、べテル(神の家)と名付けました。また、その時に主がヤコブの傍らに立たれ、ヤコブに対する祝福と、叔父ラバンの家に逃れる旅を守り導く約束をされました。
★今回ヤコブは10節の祈りの中で「かつてわたしは、一本の杖を頼りにこのヨルダン川を渡りました」と故郷を旅だった時のことに触れていますし、その祈りの冒頭で「わたしの父アブラハムの神、わたしの父イサクの神、主よ」と呼び掛けていますが、この神名はかつてべテルで傍らに立った神ご自身から教えられた神名です。この様に見ると分かりますね。神は今回もマナハイムでヤコブに対して「おまえは、いつでも、どこにいても、この神の陣営の中にいるんだよ」と励まされました。
★さて、この様にヤコブは聖なる体験をしたのですが、その後のヤコブはいつものヤコブで、策略家としてまず使者を兄の所に遣わして様子を伺いました。すると使者から6節「兄上様の方でも、あなたを迎えるため、400人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告を受けました。迎え撃つ為の400人だ、と受け取ったヤコブの心は恐れと心配で溢れ、エサウの攻撃に備えて8-9節で奴隷や家畜などの財産を二組に分けました。それはどちらか一方でも助かるようにする策でした。そして14-22節では兄エサウの怒りを宥めるための贈り物を選びました。その家畜の数は550を超えました。それを種類ごとの群れに分け、各群れ毎に距離を置いて行かせました。それも各群れのリーダーに「これは僕ヤコブが主人エサウに差し上げる贈り物で、この後に本人が参ります」と言うように命じました。これは巧妙な策で、次の群れがヤコブの一団だと思って迎えたら、それも贈り物だった。それが繰り返されます。9種類の家畜ですから九回繰り返されて、贈り物の多さを強調させ、兄に快く迎えてもらう策でした。また、兄の反応を遠くで観察して、事が起こった時に対応できる時間を稼ぐという、用心深い策でもあったのではないでしょうか。「神様、私の出来る事はこれまでです。あとは宜しくお願いします」ということでした。
★しかし、策略家のヤコブに新たな一面を10-13節で発見します。この様な祈りは初めてではないでしょうか。アブラハムもイサクもしていません。神への呼びかけ、謙り、恵みの確認、救いの懇願、約束の想起。これは模範的な祈りだ、と言われる方が多いです。10-13節は無くても、4-9節14-22節で、いつもの策略家ヤコブが描写されれば良い所なのですが、あえてこの祈りが間に挟まっている理由はなんでしょうか。23節以下で経験する神との格闘と、その中で自分の名が改名されるという神から一方的に与えられる経験へと繋がる、ヤコブの内面を表しているのではないかと思われます。
★贈り物を先頭にし、二組の奴隷と家畜もその後に行かせたのでしょう。そして、その日家族だけは野営地に残ってテントを張ったようです。しかし、その夜ヤコブは起きて、どう思ったのかテントをたたんで「全員移動するぞ」と言い出しました。家族は驚いたでしょうね。それも自分独りは後に残ると言いのです。「お父さんどうしたんですか」。「俺のことは心配するな、先に行け!」。なんでや!なんでや!と、皆は思いました。不思議でした。神はヤコブの準備した策にではなくて、ヤコブ自身に働くつもりでした。それでヤコブにそんな行動をとらせたのでしょう。皆さん、私たちも「神様、ここに働いて下さい。あそこにも働いて下さい」と祈ります。しかし神が「ここでもあそこでもない、わたしはあなたに働きかけたいのだ」、と言われる時がある事を覚えておいて下さい。
★25節から31節は、神のヤコブに対する働きを「ある男との格闘」と表現しています。ですから25節で言われている「何者かが」とは神であると考えて良いでしょう。これは喧嘩ではありません。決闘でもありません。これはスポーツに近いと言えましょう。どちらかと言えばボクシングではなくレスリングです。31節で「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに」と、ヤコブはこの格闘を振り返っています。神と人の体と体、裸のぶつかり合いが起こったのでしょう。この様な神と人の密接さは今だかつてありません。創世記の最初、神が人を造られる時以来ではないでしょうか。ここで何が起こったのでしょうか。このぺヌエルでの格闘の背景には、色々な伝承が含まれていますが、最終的にこの文書を綴った聖書記者は、聖霊に導かれ、アブラハムとイサクの物語で語ったように、以下の創世記50章までの族長たちの物語から出エジプトしてシナイで神の民となり、放浪の後、土地を取得し、王国を築いたイスラエルの民との繋がりを念頭に置いて、その繋がりの中でヤコブに何が起こり、それが読者にとってどんなメッセージなのかを伝えているのではないでしょうか。
★そこで29節で神がヤコブの名前を改めるよう命じられた事がヒントになります。今までに神の指示で名前が変更された人はアブラムとサライでした。その変更は彼らの人生が大きく変わる、イサク誕生を前提とした契約を神が彼らとされた時でした。今回の場合もヤコブの人生が大きく変わるようなのです。28節のイスラエルという名前は地名でも国の名前でもありません。召されて神の民とされた者の名です。35章でもう一度ヤコブの改名が神の民イスラエルにとって大切な場所べテルで、取り上げられますが、ここでは神がヤコブに対して今までにない非常に接近されたことを伝え、聖とする、聖別する、聖化する、新たに創造されるという、神のもう一つの働きを感じる所です。
★使徒ペテロは離散した教会に宛てた手紙の中で、あなたがたは『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、憐れみを受けなかったが、今は憐れみを受けている』のです」、と記しました(1ペテロ2章10節)。使徒パウロはガラテヤ教会に「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです。このような原理に従って生きて行く人の上に、つまり、神のイスラエルの上に、平安と憐れみがあるように」、と記しました(6章15-16節)。ですから、皆さん神の民である私たちは第一に神に救われます。しかし、第二に神によって新しく造り変えられます。その為に神は接近なさいます。私たちの場合は、み言葉と聖餐と洗礼の時、神は接近されます。神はヤコブに対して二度接近なさいました。一度目は兄エサウから逃げる時でした。そして、二度目は兄エサウと和解しに行く時でした。そして、彼は生涯足を引きずって歩くという障碍をお与えになりました。神はヤコブの体に、この様に神が働かれる旨を、障碍でもって刻まれました。召されて神の民イスラエルになった者が、この事を決して忘れないように、腿の関節の上にある腰の筋、すなわち坐骨神経を食べないことにしました。これはモーセ律法には記されていませんが、その様にして実生活の中で想起する方法で信仰の継承がなされました。これはイスラエル特有の信仰継承の方法ですね。教会は神様と和解できる場です。だから「教会に来たら、もう大丈夫」と伝えましょう。そして、教会は新しく創造される所です。だから「教会に来たら、希望があります」と伝えましょう。
2022年8月24日
創世記31章14~32章1節「未来に突破口を開く神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★ヤコブの物語は二つの物語が組み合わされています。ヤコブとエサウという兄弟の物語の中に、ヤコブと叔父ラバンの物語が組み込まれている形になっています。今日の所でヤコブと叔父ラバンの物語は終わり、次回からヤコブとエサウの兄弟物語に戻ります。これらの物語は人の未来に対する不安を取り上げています。取り出してみると、四つあります。
①母リベカの不安 27章41節-45節
近い将来においてヤコブの命が危険だと察した母リベカはラバン叔父の所への逃亡を計画しました。
②妻ラケルとレアの不安 29章31節-30章24節
ラバンの娘レアとラケルの出産合戦は妻としての未来への不安から、安泰を求めての戦いでした。
③ヤコブの不安 30章30節
ヤコブは自分の未来について嘆いて叫びました。「しかし今のままでは、い つになったらわたしは自分の家を持つことができるでしょうか」。
④ラバンの不安 30章27節
ヤコブを自分の手から放したくないラバンにも、ヤコブのいない未来への不安がありました。
★この様な中で大きな転換点が生まれました。31章3節主がヤコブに故郷へ帰るように命じられました。それも「わたしはあなたと共にいる」という言葉が添えられました。それでヤコブは決意し、ラケルとレアに打ち明けます。5-13節ヤコブはこれまでの自分の歩みの総括的な内容を、特に神がヤコブと共にいて導いて下さった事を告げ、彼女たちに「この神に導かれて私と共に私の故郷へ帰ってくれるか?」と、打診をしました。
★ラケルとレアたちは嗣業の割り当てのことや、結婚の為にヤコブがただ働きした事で父の家にもたらした富のことや、神が父から取り上げられた財産のことばかり話しました。ヤコブが聞きたかったのは、自分についてくるかどうかでした。しかし最後に「神があなたに告げたとおりになさって下さい」との返事でした。結婚して20年が経っていました。「あなたとご一緒なら、どこへでもまいります」なんて返事はヤコブも期待していなかったのかも知れませんね。この事はさて置き、ヤコブがあらためて彼女たちの気持ちを確かめたのにはもう一つ理由があった様なのです。
★ヤコブの妻なんだからヤコブに着いて行くのは当たり前なのですが、皆さんここで、以前イサクの嫁探しに、ラバンの父ベトエルの所に来たアブラハムの僕の話を思い出してください。24章です。僕は家に入り歓迎の食事受ける前に、リベカをイサクの嫁として連れて帰ってよいのか悪いのかをハッキリさせるという、先手を打ちました。そして翌日は、十日程娘を手元に置きたいという親の願いをも、キッパリ断って連れ帰りました。また主人アブラハムもその僕に、決して息子を連れて行ってはならないと、きつく念を押していました。これらは全て、ラバンの家の結婚観の得意さを知っていたからだと思います。言わば養子縁組的な結婚観で、娘が結婚しても父の家との関係が非常に強かったようです。ヤコブは返事をもらって早速事を前に進めました。
★さて、ここで一つ面白い話が入ります。ラケルが父の家の嗣業の持ち分が無いゆえに、父が持っていた守り神を盗みました。これはテラピムといって家の所有権者が持つ守り神で、それは代々家の主としてのしるしで受け継がれていました。ラバンの妻や彼の息子などの情報を、聖書は一切提供しないのでラケルが盗んだ理由は不明です。しかし、このテラピムの件が引き金になって、これから先のものごとが展開されて行きます。この件はまたあとでお話ししましょう。
★財産である家畜と二人の妻と子どもたちを連れての逃亡は、ラバンが羊の毛を刈る時期という、ラバンが一番忙しい時、その目を盗んで逃亡するのに絶好の時に行われました。それで三日間悟られることがありませんでした。しかし、この逃亡の未来は必ずしも開かれたものではありませんでした。23節七日間の追跡でラバンは追い着きました。この一族を率いて追跡するラバンの姿は、葦の海を背に行き詰っていた、モーセ一行に追い着いたエジプトの王パロの軍勢と重なります。危機一髪の所です。聖書って、こういう場面がいくつも登場します。だから、スぺクタル映画としてとりあげられています。
★ヤコブの知らない所で神が働いておられました。追い着いた夜に、神が夢でラバンのもとに来て言われました。「ヤコブを一切非難せぬよう、よく心に留めておきなさい。24節」。追付いたラバンは26節以下でヤコブを非難しますが、その中でこの神の話もしました。ヤコブはそれを聞いて驚いた事でしょう。しかし、一つの問題をラバンが問います。彼が持っていた守り神は誰が盗んだのか。盗んだラケルは冷や冷やでしたでしょうね。もし見つかったらヤコブの面子は丸つぶれで、この脱出は一時中止になったかも知れません。
★白黒をはっきりさせましょう、と言うことでラバンはヤコブ一行を検査しました。しかし、盗まれたものは見つけられませんでした。36節、そこでヤコブに今までにない事が起こります。彼は初めてラバンに対して怒りと責めを表しました。36-37節です。ところがヤコブは続けて38節から20年間黙っていた事、心の中に溜まっていた事を、全てはきだしました。「この二十年間というもの、・・・・」で始まる内容を40節まで読んで、皆さんも知らなかったことをヤコブはここでブッチャケていますね。しかし、42節でヤコブは彼の信仰を告白しました。ラバンには責められる面がこの様に多々ありました。しかしヤコブは結果としてラバンを責めるのではなくて、神が約束通りに、ヤコブの悩みと労苦に目を留められ、共におられた事を証しました。神は不安の多い未来に突破口を開けて導いて下さるお方です。聖書はこの事を皆さんにも伝えたいのです。
★さて、最後になりましたが、守り神テラピムはどうなったのでしょうか。生理中だったラケルのお尻の下に敷かれていました。それで誰も見つけられませんでした。聖書はここで一言申したいのです。読者の皆さん、これが守り神なのでしょうか?実はこのテラピムはなかなか無くなりません。大雑把ですが約500年後の紀元前620年のユダの王ヨシアによる改革の時(列王記下23章24節)に、ヨシュアは他の偶像などと共にこのテラピムをエルサレムから一掃しています。いつの時代も、人は不安から偶像を生み出します。しかし、神は言われるのです。それは全く頼りにならない。
★一つ紹介しましょう。預言者イザヤの書46章1-4節です。偶像は人や動物によって担われ、背負われなければならない。しかし私は違う、と神は言いたいのです。「あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われて来た。同じように、わたしはあなたがたの年老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」。
★最後に付け加えますが、ラバンは夢で神と出会ってから、変わったのか、本来秘めていた娘たちに対する思いが口から出ましたね。50節「もし、お前がわたしの娘たちを苦しめ、わたしの娘たち以外にほかの女性をめとったりするなら、たとえ、ほかにだれもいなくても、神ご自身がお前とわたしの証人であることを忘れるな」。ラバンパパ、よく言った!娘だけじゃなくて孫もみんな聞いたよ!32章1節の別れの場面、去って行くラバンの姿、感動しますね。色々付け加えたら、いつもよりちょっと長くなりました。では次回は32章2節ヤコブとエソウの兄弟の和解、どうなるでしょうね。ご期待ください。
2022年8月17日
創世記30章25~31章13節「神様、出番です」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★信仰者が日常生活の中で、あるいは礼拝で音楽に合わせて口ずさむ詩が、旧約聖書の詩編に150編纂されています。その中の第23編の出だしは「主は羊飼い」で始まります。この羊飼いという言葉は、実際に羊を飼う羊飼いに対して使う言葉ですが、特に預言者たちは人を守り導き養う牧者に対して使いました。つまり人間には飼い主的な、主人の様な存在、この世界、人生の全て、いのち、を支配される方にたいして預言者たちは羊飼いという言葉を使いました。その時は牧者と翻訳されています。詩編23編は羊飼いが野外で羊を飼う様子を通して、自分の人生を導く羊飼いの様な神のことを詩っています。日本語の聖書翻訳でヤハウェという神の名を主と翻訳されているのは、非常に的を得た翻訳です。
★沢山の人が飼い主、主人抜きで生きてらっしゃいます。あるいは、頼りにならない主人を主人と為さって生きてらっしゃいます。教会が伝えている神は、100%頼れる主なるお方です。イエスは十字架の上で死ぬ直前、詩編22篇を口ずさもうとされました。しかし、声が出たのは最初の出だしだけでした。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」。後は言葉になりませんでした。それ程苦しかったのです。しかし、死んで葬られて三日経って身体も壊れ始めました。もうどうしようもありません。絶望、どん底です。イエスが頼られた神は全く頼りにならない神である。絶対に人間が頼るべき主人ではない。この世の全てがこの判定を下しました。ところが、神がイエスを死人の中から甦らせて、その判定が全くの誤りであるとされました。教会が伝えているイエス・キリストの神は、100%頼れる主人、牧者、主なる神です。ですから、この神を信じるとは、神の僕になるとも言えます。
★では、神の僕になるとは具体的にどうする事なのでしょうか。弟子たちは5000人に夕食を食べさせた時にイエスから教えられた事が参考になります。弟子の手元には5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。その時にイエスが「それをここに持って来なさい」と言われ、彼らは持っているもの全てをイエスの手に渡しました。これが僕になる事です。ヤコブも持っているものを主なる神の手に渡しました。彼は兄エサウの様に狩りはできませんでしたが、家族のために料理をすることが出来ました。ある日、狩りから空腹をかかえて帰って来た兄が、料理中の煮豆を今食べたいと、無理を言って来ました。困りましたが、その時にヤコブの頭に、煮豆と兄の長子の特権を取り替える、という策が思い浮かびました。しかし、良く考えるとそんなことはあり得ません。そんなことをしたら反対に「お前は何ということを言うのだ」と叱られるでしょう。しかし、ヤコブは言ってみたんです。
★「それをここに持って来なさい」。ヤコブにはその様な策しか立てられませんでした。しかし、それを主の手にお渡しして、後は主にお任せしました。そしたら兄が誓いました。
父イサクから長子の祝福を頂く時に、母リベカと一緒に策を立てました。第一の兄が狩りに行って留守中に、父の好物料理を作る策は、彼らの得意な策でした。しかしもう一つの策、ヤコブの扮装はなかなか無理がありました。しかし、それが彼らのできる全てでした。「それをここに持って来なさい」。彼らの出来ることを主の手に渡し、後をお任せしました。そしたらイサクは不思議にヤコブを見わけることができませんでした。神が働いて下さいました。
★今回の場合も同じことが言えます。羊と山羊の大部分は単色の毛をした動物だそうです。その中のブチのものや、まだらなもの、黒色を帯びたものは、普通は稀にしか生まれないそうです。これはヤコブの策略で、ラバンもヤコブの条件に対してすぐ良い返事をしました。しかし、どうやって色の混じった家畜を殖やすのでしょうか。ラバンは今いるブチ、まだら、黒を帯びたものを全部取り上げ、ヤコブには単色の家畜を残して、ヤコブから文句の届かない三日の道程の距離のところへ去って行きました(35‐36節)。今や単色の家畜しか残っていません。ヤコブはさぞ落胆したでしょう。しかし、ヤコブができることはまだ残っていました。イエスの弟子たちが「五つにパンと二匹の魚しかない」と、言ったのと同じで、ヤコブが行うことは大したことではありませんでした。
★ポプラやアーモンド、プラタナスの若枝の皮を剥いで中の白いところをむき出しにして家畜の前に置く行為は「胎教」のようなものなのかはっきりしません。根拠が無く、まじない的です。しかし、自分のやれることをやりました。そのまじないの様な事、それから強い家畜と掛け合す事もやりました。後は神に任せるしかありません。つまり、ヤコブは自分のできることを行って、それを神の手に渡し、神に働いて頂く場として、神様の出番を作りました。ヤコブは神の僕としてやるべきことをし、神が御業を進められました。43節「こうして、ヤコブはますます豊かになり、多くの家畜や男女の奴隷、それにらくだやろばなどを持つようになった」。それを見てラバンの息子やラバンがヤコブに対して敵意を持つようになった。神はヤコブが旅に出た最初の夜に現れて以後、現れませんでした。ですからこれまでのヤコブの歩みは手探りでした。しかし、この時に至って神はヤコブに現れ、ラバンの家を出て故郷に帰るよう指示し、「わたしはあなたと共にいる」と最後に彼の手探り信仰を強めてくださいました。
★ヤコブは家族全員と財産を携えて帰る時、ラケルとレアにラバンの家での今までの総括を話しています。31章5-13節、特に7-9節でヤコブは「・・・神はあなたたちのお父さんの家畜を取り上げて、わたしにお与えになったのだ」と締めくくりました。
★飯塚教会の活動、信徒一人ひとり日常生活、これ全て「神様の出番作り」の一言に尽きます。出来る事で良いのです。持ち合わせているもので良いのです。それを主のところに持って行って、主に用いて頂きましょう。まずは、手持ち札を、手持ち駒を知る事です。教会も信徒もちょっと整理してみる必要がありますね。十字架でキリストが語られた言葉に、「成し遂げられた」というのがあります。キリストはご自分のできることを全て成し遂げ息を引き取られたのですが、十字架は、この意味で「この後は、神様、あなたの出番です」ということですね。神はそれに答えて働かれ、キリストを死人の中から甦らされました。皆さん、私たちも、日常の中で僕の為すべき事をして「後は神様、あなたの出番です」、と言って神を待ち望む生活をいたしましょう。
2022年8月3日
創世記29章31~30章24節「御心に留められる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★エサウは26章34節で妻を二人迎えました。そして、28章9節でその二人の妻を父イサクが気に入らないことを知って、もう一人妻を迎え、彼には三人の妻がいました。今回ラバンがヤコブに姉と妹の二人を妻として与えました。かなり先になりますが、サムエル記上1章ではエルカナにはペニンナとハンナの二人の妻がいました。皆さんは、神に選ばれたアブラハムの子孫が一夫多妻を行うのを読んでどう思われたでしょうか。後に神はアブラハム・イサク・ヤコブの子孫をエジプトの奴隷から解放して、神の民となさる時に、出エジプト記の20章にある十戒から始まって、レビ記、申命記に渡って、モーセを通して神と共にする生活の仕方を戒めや律法で指示なさいました。
★その中の申命記21章15-17節(新共同訳p313)で言われている長子権の戒めは、夫が二人の妻を持つことを前提にして書かれています。それを推奨しているのではありません。そこにある夫の限界、すなわちどうしても一方を愛し他方を疎んじることが起こることと、妻の限界、すなわち二人の妻が仲良くできないことを取り上げています。この様なリスクがあるわけです。それから夫は二人の妻に対して夫としての責任、務めを果たさなければなりません。また夫は二人の妻の子ども、それぞれに父としての責任と務めを果たさなければなりません。しかし、一夫多妻が行われました。
★その背景には医療が無い現実がありました。不妊治療の無い時代ですから、アブラハムの妻サラが不妊の為、奴隷のハガルを側女としてアブラハムの子を産ませることも行われました。また、かなりの経済力が無ければ一夫多妻はできませんでした。その日を暮らすのに精一杯の男は妻を迎えられません。ですから当時、結婚はこの様な社会的な状況から大きく影響を受けて行われることがありました。アブラハムの子孫が一夫多妻を行えたのは、神に祝福されて経済的に豊かだった、ということでもありました。
★そこでレアの様な自分の思いではない人生を歩まされる女性も生まれました。妻であるレアが31節「疎んじられる」とは何という矛盾でしょうか。愛されていない妻、これは大いなる苦しみです。私たちも人生で自分が選んだのではない不本意な立場に立たされます。そんな私たちとレアは重なりますね。それで注目すべきは31節で、主がそんなレアをご覧になられた、というところです。産んだ子に対してレアは命名する時に、32節「主がわたしの悩みを顧みてくださった」、33節「主はわたしが疎んじられていることを耳にされ」と言いました。これとよく似た事が聖書に出てきます。
★創世記8章1節「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜をみ心に留め」。創世記21章17節「神は子どもの泣き声を聞かれ、天から神のみ使いがハガルに呼びかけて言った」。出エジプト記3章7節「わたしはエジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」とあります。このように聖書は私たちの問題が解決されることよりも、私たちの問題を神さまがご覧になり、聞かれ、知っておられ、み心に留め、神のみ手の中に私たちがあることをまず伝えます。
★神はレアに四人の子どもを与えられました。しかし、それで問題解決ではありませんでした。神が望まれたのは、レアに「何が起こりましょうとも、神は決して自分のことを忘れておられるのではない」、というメッセージを知らせることでした。このメッセージは聖書に一貫して示されています。一か所紹介します。それは詩編62篇9節です。「民よ、どのような時にも神に信頼し、み前に心を注ぎ出せ。神はわたしたちの避けどころ」。その後、神はレアの胎を閉ざされました。それで彼女は不妊の苦しみを味わいました。
★さて、30章1節でラケルはヤコブに不妊の苦しみを訴えます。あなたが子どもを与えないなら、わたしは死ぬと、彼女はヤコブの責任を訴えました。ここで不妊という大きな問題を真正面から取り上げることになります。ヤコブは激しく怒って、不妊という問題が妊娠すれば解決する問題ではないことを示しました。2節「わたしが神に代われると言うのか。お前の胎に子どもを宿らせないのは神ご自身なのだ」。この問題はあなたと神の関係にあります。ここで聖書は人がエデン以来、棚上にして来た根本的な問題「あなたと神の関係はどうなっていますか」を、一時浮上させますが、出産合戦によって姿を消します。
★さて、14節の恋なすびの発見によって事態に変化が起こりました。恋なすびは媚薬とか言われる不思議な茄子で、不妊であった彼女たち自身が出産に向けて再チャレンジする機会となりました。しかし、決定的なことは、17節「神がレアの願いを聞き入れられたので、レアは身ごもって」と、22節「神はラケルもみ心に留め、彼女の願いを聞き入れ、その胎を開かれた」、所にありました。神の計画はレアとラケル、それぞれの側女から12人の子を産み出し、その下から二番目としてヨセフが生まれることでした。このヨセフによって後にヤコブの家族は大飢饉から逃れ、大国エジプトで生活することになります。
★ヤコブの妻たちは不本意な人生を歩みましたが、神は彼らをみ心に留めておられました。この様な神との関係に目を留め、信頼しその関係に生かされ支えられ生きて行く、私たちはその様に造られています。お祈りしましょう。
2022年7月20日
創世記29章1~30節「欠けた所、弱さを覚える所に働く神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★一人旅の最初の晩に、神と出会ったヤコブは20-22節で神に誓願をいたしましたが、「神が・・・してくださり、主がわたしの神となられるなら」と、条件を付けてそれがクリアしたら信仰しますという不十分な内容でしたが、神は黙って寄り添われます。東方の人々の土地は彼にとって未知の世界です。旅の道中が守られ、一息つける井戸にまでたどり着きます。皆さん、井戸には三つの大切な面があります。
①井戸は命溢れる場です。
人も家畜も、生きる為に水は必須です。
②井戸は人と人が出会う場です。
アブラハムの僕がイサクの妻リベカと出会ったのも井戸でした(24章11節以下)。また、モーセが妻ツィッポラと出会ったのも井戸でした(出エジプト2章15節以下)。ヤコブも彼の妻になるリベカとこの井戸で出会います。「人が独りでいるのは良くない。2章18節」と言われた主なる神は井戸を人と人の出会いの場とされました。
③井戸は生活共同体が生まれる場です。
井戸の口の上にある大きな石のことが2-3節で説明されます。井戸の周りには既に三つの羊の群れがいました。7節でヤコブは三人の羊飼いたちに、まだ日も高いのになぜ三人が石を転がして羊に水を飲ませて、もう少し放牧して青草を食べさせないのか質問しました。しかし、三人はその石を転がせないと答えました。力が足りないからそう言うのではありません。仲間のもう一人が来て全員揃ってからでないと井戸の水を使ってはならない決まりだったからでした。面倒な事に見えますが、井戸によって幾つもの生活共同体は密接に関係を保っていました。
★命溢れる場、出会いの場、生活共同体の場、この三つが重なっている井戸は人間関係が形成される大切な場所でした。この光景を見て私たちは考えさせられますね。井戸より便利で衛生的な水道に変わった現代の、人と人の出会いや関係は希薄に成っています。文明の利器を使って便利になりましたが、この様な生活共同体に関わらない、より面倒のかからない浅い関係、その意味で希薄な出会いが横行しています。
★6節のヤコブと羊飼いたちのやり取り、「元気でしょうか」「元気です」の原語は皆さんも知っておられるヘブル語シャロームです。これは平和で調和の保たれた共同体の状況を表す言葉です。ラバンの娘ラケルが羊の群れを飼えるという環境は、平和そのものを表しています。しかし、そこにヤコブが加わる事でその調和が乱れますが、新たなことが生まれようとしています。丁度火山が噴火して新たな地形が出来るようなものです。
★10節11節、親族のラケルと出会うことが出来た感激や、ラケルに一目惚れしての舞上り、若いヤコブの力、それらが相重なって重い石が動かされました。それに答えてラケルが急いで父に知らせ、父が走って来て、ヤコブを抱きしめ、自宅へ案内したとする、感動的な対面の場面となっていますが、聖書はこれから、叔父と甥という新たな関係を取り扱おうとしています。ヤコブの母リベカをイサクの嫁に迎えた時に、ラバンは父ベトエルに代わって中心になって対応していたことから、ラバンは長男で早くから父の家を切り盛りしていた活動的な男でした。ですからヤコブと立場が違います。長男ラバンは強く、富める、牧畜経営をする男でした。次男ヤコブは弱く、富もなく、穏やかな天幕の周りから出て行かない男でした。特に長男と次男の違いが浮き彫りとなっています。皆さん、叔父ラバンの息子が登場しませんね。と言うことはラバンには跡取りがいなかった可能性があります。ラバンは自分の優位な立場を使ってヤコブを欺き、何とか彼の跡取りにしたかったようなのです。エサウを欺いた罰がヤコブに下ったのではありません。ラバンの欺きとヤコブのそれとは基本的に違います。いつの時代も行われる自分の優位な立場を使って悪がなされる、その人間関係を聖書はこれから取り扱います。
★皆さん、思い出してください。長男イサクの嫁探しでラバンの所に行くのに、アブラハムの僕は24章53節で金銀の装身具や衣装や高価な品物という贈り物を準備していました。ヤコブの嫁探しの場合、父イサクは彼を手ぶらで行かせています。それでヤコブはラケルを嫁として連れ帰る為に7年間の労働を提供しました。次男の宿命といいますか、ちょっと暗い人生なのですが、29章20節「ヤコブはラケルの為に七年間働いたが、彼女を愛していたので、それはほんの数日のように思われた」とあります。神が合わせられたこのカップルは、その熱々さでこの困難を乗り越えさせてくださいました。
★しかし、ラバンヤコブを欺いて姉のレアと結婚させました。25節でヤコブはラバンに抗議していますが、その抗議は全く受け止められず、ラバンからの提案を受け入れさせられます。それはレアとの婚礼を最後まで終えたら、ラケルも妻として与え、なおかつあと七年ラバンの為に働くという提案で、結果として14年間の労働が課せられました。ここには強い者富める者の労働観が現れています。それは利益を得る為の労働です。しかし、ヤコブの労働観は20節と30節にあるように、愛する者のための労働です。
★さて、17節でレアは優しい目をしていた、と訳されていますが、「くすんだ」「輝きの無い」そんな言葉が使われています。エジプトの発掘物を見ても、また中東の女性の目を見ても察します。目がはっきりしていない女性は好まれなかったのでしょう。ラケルのように野で羊を飼う元気な体ではなかったのかもしれません。実際彼女は羊を飼っていませんでした。ヤコブの好みはラケルでした。レアは愛されませんでした。ラケルは愛されましたが後に不妊という問題をかかえます。次回読みます31節以下に続く物語は、そういう彼女たちの問題に神が働かれる物語です。
★私たちの主イエス・キリストの神は弱者ヤコブの神となられました。また、ヤコブの子孫がエジプトで奴隷という一番身分の低い者であった時に、彼らを救い、彼らの神となられました。そして、彼らが約束の地に住む前に、荒れ野の旅を40年間させて、彼らを訓練なさいました。その旅の終わりに神は彼らに命じられました。寄留者や孤児や寡婦のような弱い立場の人たちの権利をゆがめてはならない。その時に「あなたは、エジプトの国で奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じるのです」、と言われました。神は聖書を通して皆さんに伝えておられます。わたしは、あなたの欠けた所、弱さを覚える所に働く神である。お祈りいたしましょう。
2022年7月13日
創世記28章10~16節「ここにも天と繋がっている」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★ヤコブはお母さんの言われた通りに従うママっ子でした。お父さんから思わぬ祝福を受ける事が出来たのもママのお陰でした。しかしその結果エソウ兄さんから恨みを買うことになり、家を出なければならなくなりました。「ラバン叔父所へ逃げなさい」ママの言われる通りに旅立ちました。ヤコブはどんな思いで家を出たのでしょうね。
★ラバン叔父さんって、どんな人なのだろうか?そこでの生活はどうなるのだろうか?。ママから離れて初めて「ひとり」に成ったヤコブを、神は天で見ておれなくなったのでしょう。11節、ヤコブがとある所に着きました。そこは名前がありません。特別の場所ではありませんでした。時間も特別に決めたものではありませんでした。たまたま丁度その場所に着いた時に日が沈み、旅の足を止めて休む時となりました。ヤコブはその所にあった石一つを取って枕にしました。これもたまたま足元にあった石の中から枕に成りそうなのを一つ選んだのです。例えば皆さんも、スーパーで大根を買う時に、ある一本を手に取るのと同じです。
★12節今日も一日疲れました。横になりそのうちに眠りに入り、夢を見ます。これも、私たちがしていることですね。そこは、いつもの特別でない本当に日常生活の場です。聖なる、恐れ多い、厳粛な、神聖な、そう言う場ではなくて、この日常生活の場が天と繫がり、そこに主がおられたのです。そこで神と出会いました。これから未来に向かって出発するヤコブに。そして、あなたにも神はこの事を話しておきたいのです。
★「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」。日常の一つひとつの場面、そこも天と繋がっています。つまり15節、「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、・・・決してあなたを捨てない。」ということです。明日に向かってこれから進もうとするヤコブに神はこの約束を確認させ、「いってらっしゃい。あなたのクリスチャンライフを進めなさい」、とおっしゃりたかったのです。それは、あなたに対してもです。讃美歌90番「ここも神の御国なれば」は、悪魔の力が世に満ちても、ここも天と繋がっているんだから、主こそがこの世を治められるのだから、我が心には迷い無しと、元気を出してクリスチャンライフを進めようじゃありませんか、と歌います。原詩はThis is my father’s world、となっています。ヤコブがこの讃美歌を知ったらきっと愛唱歌にしたでしょうね。
★船に乗って向こう岸へ渡る途中、激しい風の為に波をかぶって船が沈みかけ、弟子たちが死にそうになった時に、イエスが一緒におられる事を弟子たちは思い出して「先生、起きて下さい。助けて下さい。溺れそうです。おぼれてもかまわないのですか」と言いました。イエスが湖を叱りつけ、すっかり凪になって「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と言われました(マルコ4章35-41節)。わたしがいるじゃないか。この沈みそうな船、ここも天と繫がっているんだよ、怖がる必要はないじゃないか。
★生粋のユダヤ人と言っていたナタナエルは、今日のヤコブ物語を子どもの頃から聞いていました。そんな彼を弟子にする時イエスは言われました。「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」。イエスはご自分が天と地を繋ぐ生きた梯子、階段となる、ということですね。
★「イエス様、こんな汚い穢れた所と天を繋ぐのですか。」「そうだ、どうしても繋ぐんだ」。そのためにイエスは苦しみを受け、十字架にかかり、死んで、葬られて、陰府にまで下られました。この世の一番低い所まで下ったイエスを、神は死人の中から甦らせ、天に昇らせ神の右に座らせ、イエス自信を天と地を繋ぐ梯子、階段となさいました。イエスが復活して弟子たちに現れたのは、人間が死で終わりではなくて、永遠の命に与る、その道を伝えるためでしたが、それだけではなくて、天と繋がらない所はもはやどこにも無い、と言うことを伝えるためでもありました。教会は今日まで約2000年に渡って、この事を代わりに宣言して来ましたし、これからもしていく使命を持っています。
★私達がこのイエス様と繋がるなら、そこは天と繋がっています。みなさん、私のカーナビの自宅ボタンを押せば、今いる所と自宅と繋がる線が道路に現れます。北海道に居ようが飯塚教会まで線が繋がって帰り道が分かります。それと同じです。皆さん、信仰のナビを今日頂いて帰って下さい。そこにイエスボタンが付いています。パニクッタラ、それを押すんです。そしたら、そこと天が繋がっていることが分かります。
★それからもう一つ大切なことがあります。ヤコブは天と地を繋ぐ階段を神の天使が上ったり下りたりしているのを見ました。イエスは「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。つまり、天と繋がっていると言うことは、神の働く場である、ということです。
★世界陸上男子100メートル走選手のボルトさんは、位置について走る前に十字を切ります。しかしフライングをして失格となった時がありました。あの十字には御利益がなかった、と多くの人は思ったでしょう。しかし、ボルトはその後も十字を切りました。ご利益じゃなかった、ということです。ここも天と繫がっている。このレースを神の働く場として提供します。そう言う思いを込めての十字だったと、私は思います。
★1コリント10章31節。コロサイ3章17節。食べるにしろ飲むにしろ話すにしろ何を行うにしろ、全ての日常は天と繫がっている、イエスが命を懸けて繋げて下さった、この日常生活に相応しいのは、神の栄光を表す事、感謝を表す事だ、と言うことです。天と繋がっていると、ありがとうの生活に変えられて行きます。これは神様のきよめと言う働きです。あなたも天と地が繋がっている事の証人になって下さい。お祈りしましよう。
2022年7月6日
創世記27章39~28章9節「親と子の物語」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★大の大人のエサウがイサクの前で大声をあげて泣きました。しかし、イサクは慰める言葉を持ち合わせていませんでした。祝福は一つしかないからです。39‐40節でイサクは父として息子エサウに、彼がこれから迎える現実をはっきり伝えました。それは28節でヤコブが受けた祝福とは真逆の現実でした。しかし、『剣に頼ってでもお前は生きて行くのだよ。そしてついにいつの日かお前は弟の支配から解放される時が来る』と、生きる希望を語りました。当時、イサクの家族はそれぞれテントを張っていたのなら、その日四人の家族はそれぞれのテントで、どんな思いで過ごしたのでしょうか。聖書は何も綴りませんが、その日の家族四人の雰囲気は決して良くはなかったでしょう。皆さんの家族もそんな日を過ごされた経験がおありでしょう。今回の題を「親と子の物語partⅡ」といたしました。
★神はなぜアダムとエバの息子アベルの献が物だけに目を留められ、イサクとリベカの息子ヤコブに、長男エサウが受け継ぐことになっていた祝福を与えて、それぞれの家族に波風を絶たせられたのでしょうか。それが無くてもイサクとリベカは長男エサウの嫁のことで悩まされていました。既に26章34節で親の悩みの種とまで言われていました。また、今日読みました27章46節でリベカは「嫁のことで、生きているのが嫌になります」とイサクに愚痴っています。また、エサウも28章8節でそのことを知って、母公認の父の側女ハガルの子イシュマエルの娘を妻として迎え、両親の好意を得ようと努めました。これらの兄弟、嫁舅、嫁姑の関係は今も起こっている現実です。神は人間の家族と関わり、そこに介入し、心痛む問題とも寄り添って、取り上げ続けられるのは、人間にとって家族が大切だからです。
★41節はカインとアベルの事件が、また発覚するのではないかと、思わしめるエサウの言葉です。今回神はエサウの心の内を母リベカが見抜ける様にして下さいました。これは恵みですね。早速42-45節でリベカはヤコブを一時エサウから離すためラバン叔父さんの所へ行くよう命じました。「一日のうちに、お前たち二人を失うことなど、どうしてできましょう」兄が弟を殺すとは母にとって「ふたりを失う」ことを意味します。エサウをカインの道に歩ませてはなりません。ヤコブを愛し策略の大本だったリベカでしたが、自分のお腹を痛めた二人の息子に対する母の思いがここに現れています。一日の内に二人を失った母エバは辛かったでしょうね。
★41節は、父を敬うことも敬わないことも、弟を愛することも憎むことも出来るエサウの心を明かします。エソウは自分で決めます。父を敬わず、弟を憎むと。禁断の実を食べることも出来るし、食べないことも出来る、そんなアダムとエバの時と同じです。ここには蛇もサタンも登場しませんが、神のもとから離れた人間が罪の支配を受けている様子が明らかに描かれている所です。そんな人間と寄り添ってくださっている神が、心の中で言ったエソウの言葉を母リベカの耳に入れて下さったのでしょう。エソウはカインの道から救われます。
★リベカは一つの策を立てました。自分の生まれ故郷のハランにいる兄ラバンの所へヤコブを逃がすために、今夫婦の悩みの種になっているエサウの嫁との関係を取り上げて、ヤコブにはリベカの故郷、すなわちアブラハムの弟の孫にあたるラバンの所から、嫁を迎える事を夫イサクに提案しました。このイサクとリベカ夫婦と息子たちの関係には、以前、ヤコブはエサウを愛し、リベカはヤコブを愛した、と問題があったことを取り上げていました。今回もリベカは兄が弟を殺して、カインとアベルのようなことになってはいけない、とイサクに相談しヤコブとエサウを離す提案をしないで、故郷での嫁探しという理由にすり替えている所から、「ちょっとこの夫婦、おかしいのでは」と考えるわけです。この家族には色々と破れがありましたが、神は寄り添い彼らを導かれました。
★この46節の言葉を受けてイサクがどう行動するか、それを彼女はイサクに任せました。それはつまり「兄は弟に仕えるであろう」と約束された神に任せた事でもありました。あるいは神のみ心であるならリベカが言わずともその様になると、み心を問うたのでありました。28章イサクはリベカの考えていた通りの行動をします。私たちもここを読んで驚きます。神は信仰者リベカを用いて下さいました。ここから彼女は聖書から姿を消し、その後の生涯のことは分かりません。27章45節で、エサウの憤りが解け今回の一件の事を忘れる、その時期が来たらリベカが知らせるとの事でしたが、神は違う方法でヤコブを帰郷させ、兄弟は仲直りします。聖書はただヤコブ帰郷後35章8節でリベカの乳母デボラの死を告げ、49章31節でイサクと共にリベカが墓に葬られている事を告げます。
★「あなたたちの神、主があなたたちに約束されたすべての良いことは、何一つたがうことはなかった。何一つたがうことなく、すべてあなたたちに実現した。ヨシュア記23章14節」。これは、ヤコブの子孫たちが神の民として約束の地にたどり着いた、その時に指導者として立てられたヨシュアが、この世を去る前に民に聞かせた言葉です。リベカは28章5節でイサクの後ろからヤコブを見送ったのではないかと、想像します。しかしリベカはその後聖書から姿を消します。兄と弟の和解の姿も、父の祝福を受けて、ヤコブが多くの孫たちを連れて帰ってきた姿も、神の約束の実現を、リベカは見ずに死んだのでしょう。聖書は詳しく何も綴りません。不思議です。私たちもいずれは見ないで死んで行きます。しかし、神の約束は何一つたがわないと、信じて進みましょう。
2022年6月29日
創世記27章1~38節「神の計画を信じて・・・リベカの信仰」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★11節でヤコブは、その母リベカに言った「でも、エサウ兄さんはとても毛深いのに、わたしの肌は滑らかです。お父さんがわたしに触れれば、だましているのが分かります。そしたら、わたしは祝福どころか、反対に呪いを受けてしまいます」。13節、母は言った。「わたしの子よ、そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます。ただ、わたしの言うとおりに行って取って来なさい」。この強いお母さんリベカの信仰の原点は、かつて主にみ心を尋ねるために出かけた時に、明かされた主の双子出産に対する計画、すなわち「兄が弟に仕えるようになる」でした。
★リベカはこの計画を持っておられる神と二人三脚で歩みました。確かにリベカの片方の足は、出産の痛みに耐えられるだろうか、生まれて来る子はどんな子なのだろうか、高齢での出産は無事終えられるのだろうか、子育てはどうなるのか、と色々な心配の上に立っていました。しかし、もう片方の足は神と繋がっていその足を神が、グイッグイッと、心配の上に立っている足を前へ進ませて下さいます。皆さん、私たちが神を信じるってことは、神と片足を繋いで二人三脚で人生を進むことです。リベカはまず第一に、神と繋がっている足から伝わる神からの力を受けて前へ進み、その勢いで自分のもう片方の足も前へと進みます。「わたしの子よ、そのときにはお母さんがその呪いを引き受けます」、という母の強い言葉はこのような所から生まれました。
★このリベカのように、皆さんの人生にも神の計画があります。神は皆さんと二人三脚でその計画を進めたいと願っておられます。あなたの片足を神と繋げていただきましょう。そして、なにはともあれ、まず第一にその足に重心を置いて下さい。そしたら神が働かれます。新約聖書でイエスは弟子たちに、自分のいのちのことや、体のことでで、思い悩むな、と言ってから「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と言われました。神と繋がった方の足から伝わってくる神の働きをまず受けることから始めなさい、ということです。ベタニヤ村のマリアはイエスの足もとに座って御言葉に聞き入る事を第一としたのも、そのためでした。
★さて、ヤコブは母リベカに強いられてイサクのもとへ行きました。自分には父をだまし切る自信はありません。母の信仰によって押し出されたのでありましたが、ヤコブは早速疑われました。20節「わたしの子よ、どうしてまた、こんなに早くしとめられたのか」。そして次から次へと父は問いかけて来ました。21節「本当にお前が息子のエサウかどうか、確かめたい」。22節「声はヤコブの声だが、腕はエサウの腕だ。」24節「お前は本当にわたしの子エサウなのだな。(嘘ついてないよね)」。これらのイサクの言葉から、もうばれていると判断してもおかしくありませんでした。それでヤコブは言いました。20節「あなたの神、主が私のために計らってくださったからです」。神の計画にお任せするしかありませんでした。ヤコブも神との二人三脚で、神と結ばれた足に頼りました。そこに重心を置いたのです。
★ヘブライ12章16-17節はエサウの様になってはならない、と私たちに勧めています。彼は長子の特権という神の賜物を軽んじました。それを後悔して二つの質問を父にしています。36節「あなたは私のために祝福を残しておいてくれなかったのですか。」38節「祝福はたった一つしかないのですか。」そうです、ただ一つなのです。みなさんのは、イエス・キリストを通して、神と繋がれ二人三脚で生きる恵みが用意されています。しかし、私達はそれを安価なものに誤算してませんでしょうか。これは皆さんにとって高価な高価なただ一つの宝です。ヤコブの母ラケルの様に、マルタの妹マリアの様に、この宝を逃さないで下さい。
2022年6月22日
創世記26章1~33節「神とつながる」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★神は「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう」と言って、神と人とが関係が持てるように造らました。例えるなら、それは皆さん一人一人に神のアンテナがついている、ということです。キリスト教というアンテナを新設しなければならない、と多くの人は誤解し、結果「わたしにはキリスト教は無理」となってしまいます。既にあるそのアンテナを神の方に向けるだけでよいのです。更に例えると、それは、神がこの地上で皆さんと二人三脚で歩みたい、と願っておられる、ということです。
★信仰はこの世から離れることだ、と誤解しないで下さい。皆さんの片方の足はこの大地、この世にしっかり立たなければ二人三脚はできません。この片方の足には弱さや不完全さがあります。イサクはゲラルの人々を恐れて、妻リベカを妹だと、偽りました。世の中を渡るのに多少の嘘は必要悪である、との認識でした。ところが、その偽りによって後にアビメレク王から非難されます。王はイサクの偽りは、自分の民に人妻と寝て罪を犯させる、やってはならない神を畏れない行為である、と認識していたのでした。父アブラハムも20章で同じことをしています。今回もイサクよりもアビメレク王の方が神を畏れて罪を犯してはならない罪を犯させてはならない、という認識を持っていたという結果になっています。皆さん私たち信仰者がこの大地に、この世に据えている片方の足には、この様な弱さ不完全さがあることを忘れてはなりません。あえて言うなら、あって良いのです。それよりも、この足を確りこの大地にこの世に立つ、それが大切です。
★さて、二人三脚ですから、私たちのもう片方の足と神の片方の足と結びます。そして、神はもう片方の足でこの大地にこの世にしっかり立たれます。この二人三脚で人生を進める、それが父アブラハムからイサクが受け継いだ信仰の歩みでした。そして、私たちもその信仰を受け継いでいます。私たちの場合はイエス・キリストの片足と結ばれます。キリストのもう一方の足は、具体的のこの歴史の中で肉体を持って生き、苦しみ、死に、葬られた、しかし三日目に甦って天の神の右の座に着かれた足です。これは最強の二人三脚ですね。
★さて、この二人三脚には掛け声が必要です。神は「イチ、ニ、イチ、ニ」「右。左。止まれ。進め。ゆっくり。早く」と声を掛けられます。主がイサクに現れて言われた26章2-5節と24節の言葉は、その掛け声です。神の方に向いていたアンテナで、イサクはその掛け声をキャッチしました。私達の場合は、教会で御言葉と聖礼典(洗礼と聖餐)に与る時に、それが行われます。
★8節以下で神様が動かれます。王アビメレクは窓から覗き見をする悪い習慣があったのでしょうか。そんな事をしていたら家来はガッカリするでしょう。この時どうしてそんなことをしたのか不思議です。それもその覗き見た場所がイサクの家でした。これも不思議です。また、10節でイサクは王から呼ばれ「あなたは何ということをしたのだ」と、非難された時、彼は『これからどうなるのだろう』と心配したでしょう。ところが11節で王は「この人、またその妻に危害を加える者は、必ず死刑に処せられる」と、全ての民に言って、イサク一行を受け入れるよう命じました。これも不思議ですね。この結果イサクは恐れることなくゲラルに腰を据えて生活する事が出来る様になりました。早速、穀物の種を蒔くと、その年のうちに百倍の収穫を得、多くの家畜と召し使いを持つという祝福を神から受けました。イサクが神と二人三脚であったから、この事が起こりました。
★しかし、神と二人三脚と言う信仰生活で、信仰しているのにどうしてこんな事になるの、と言う現実に立たされる時があります。イサクは神との二人三脚の歩みの中で、ペリシテの国民からねたみを受け、父アブラハムが掘った井戸をことごとくふさがれ、土で埋められてしまいました。これはいじめですね。好意的だった王もイサク達を追い出す事になりました。それで町から下って谷間に住みました。何処に住むにいたしましても井戸を掘らなければ生きて行けません。すると、その谷間に、埋められてしまった昔父アブラハムが掘った井戸を発見しました。父の足跡を辿りながら、イサクは神と二人三脚で歩む信仰者の厳しい現実を目の当たりにしました。その時に、早合点して信仰から離れる人がいます。しかし、早合点は禁物です。詩篇42・43編は、その様な時に「神を待ち望め」と歌う信仰の詩です。イサクは父の井戸を掘り直しそこに同じ名を付けました。
★しかし、イサクがせっかく掘り直した井戸を、ゲラルの羊飼いたちは「それは我々のものだ」、と争って来ました。しかし、イサクは彼らと争うのではなくて、ひたすら視線を神に向けて、つまりアンテナの向きを調整しながら神を待ち望みました。そして三つ目に掘った井戸に対してはもはや争って来る人はいませんでした。この体験によってイサクの信仰が強められました。彼は何を思ったのか、掘り起こした三つ目の井戸を後にして、べエル・シェバへ上りました。その井戸も既にペリシテ人に埋められていました。25節そこをもう一度掘り返して、父アブラハムの信仰を受け継いで行こう、そう言う覚悟だったのでしょう。
★そこはかつて父アブラハムが神と二人三脚で歩んだ時に、その姿を見てアビメレク王が「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます」と言って友好の契約締結を求めて来た時に、井戸の所有契約を結び、ぎょりゅうの木を植えた記念の場所、信仰の証の場でした。21章33節参照。24節そんなイサクの信仰に、神は黙っていられませんでした。「恐れてはならない。わたしはあなたとともにいる」。イサクは礼拝をして井戸掘りをしもべたちに命じて、ゲラルへ帰りました。
★すると、アビメレク王と、参謀のアフザトと、軍隊の長ピコルがやってきます。イサクが訪問理由を問うと、彼らは父アブラハムとその子イサクと言う二世代の信仰者を見て来た結論を告げました。「主があなたと共におられることがよく分かったからです」。そして、友好の契約締結を求めました。32節、契約を終えて彼らが帰って行った後、その日にベエル・シェバで井戸を掘っていたイサクのしもべたちが帰ってきて「水が出ました」と報告しました。ベエル・シェバは神を信じる者にとって忘れられない場所となりました。
★教会はこのべエル・シェバの様な所、証の場、信仰が受け継がれる場です。皆さんの信仰の歩みは井戸堀りに例えられます。皆さんのベエル・シェバを次世代の為に残しましょう。こうして教会に集った皆さんにも今日神は黙っていられません。言いたくてしょうがないのです。「恐れてはならない。わたしはあなたとともにいる。」この宣言は空言ではありません。私達の十字架のキリストが死人の中から甦って、この宣言が確かである事が明確になりました。神に視線を合わせましょう。アンテナを神の方に向けましょう。神に導いて頂く為、神の計画を進めて頂く為、み言葉(説教)と聖礼典(洗礼と聖餐)に与って神と二人三脚と言う信仰生活に入りましょう。まだの人はまず洗礼を受けて片足はキリストと結ばれましょう。もう片方は大地に、この社会にしっかり立ちましょう。誤解して世を離れないで下さい。何が起こっても、早合点して信仰を離れないで下さい。神が働かれるのを待ち望みましょう。皆さんの信仰の歩みによって、神の祝福が広がりますように。お祈りの時といたしましょう。
2022年6月15日
創世記25章19~34節「神に計画あり」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★神との関係が崩れたことによって、人間同士の関係も崩れ出しました。その人間同士の関係の基礎を築く家族のことを、創世記は物語ります。アダムの家族、アブラハムの家族、今日の聖書はイサクの家族、37章からはヤコブの家族の物語です。エデンを出た後、アダムとエバの家族は、兄が弟を殺すというショッキングな事件を経験しました。神はそんな人間と関わり続けられます。エデンを出たこの人間に何とか希望の光を照らしたい、そんな神の思いが創世記の背後にあります。
★さて、イサクはリベカと40歳で結婚しましたが、すぐに子どもが与えられませんでした。それで彼は妻のために主に祈ります。しかし20年間待たなければなりませんでした。子どもは自分が作るもの、自分の思い通りになるものではありません。イサクは結婚してまずそれを体験しました。皆さん『子どもは天からの授かりもの』と私たちも聞きます。しかし、子どもだけではありません。私たちの人生も天からの授かりものです。自分の思い通りになるものではありません。箴言は伝えています。「人間の心は自分の道を計画する。主が一歩一歩を備えてくださる」16章9節。「人の一歩一歩を定めるのは主である」20章24節。信仰とは、神の計画を信じて人生を進めることですね。
★初めての出産を前にリベカは、自分のお腹の中で子どもたちが押し合うので、双子と気付いたようです。「これでは、わたしはどうなるのでしょう」。これは初産が双子出産というリスクのあるものなので、難産を心配しての不安とも取れる言葉ですね。しかし、実家から付き添って来た乳母のデボラがリベカの出産を助けたでしょう。リベカは出産自体のことではなくて、双子の子どもに対する神の計画を知りたいために、「主の御心(すなわち、主の計画)を尋ねるために出かけた」。
★このリベカの行動は不思議です。どこへ行ったのか分かりません。後にサウルが父に頼まれてロバを捜しに行ったがどうしても見つからない時に、神の人の所へ尋ねに行ったことがあります。サムエル記上9章9節で、「昔、イスラエルでは神託を求めに行くとき、先見者のところへ行くと言った。今日の預言者を昔は先見者と呼んでいた」、とあります。預言者は神の御心を伝える人でした。それでキリストも預言者と人々から思われていました。新約聖書ヨハネによる福音書9章2-3節で弟子たちが、生まれつき目が見えない人の原因を、本人の罪なのか両親の罪なのか、と尋ねました。するとキリストは、目が見えない原因ではなくて、その目的を示されました。それは彼に神の業が現れるため、という神の目的でした。
★皆さん、今それぞれ違った立場と環境の中に立たされている私たちは、『もっと良い時代に生まれたかったなあ。違う立場、違う環境だったら良かったのになあ』、と思う時がありますね。しかし、キリストはハッキリと宣言されます。『あなたが今立っている立場や環境に対して、神には計画があります』。23節で告げられるリベカの家族に対する神の計画に注目しましょう。それは何百年もの先に起こる内容でした。今生まれようとしている二人の子どもは、それぞれ二つの国民の先祖になります。これは父アブラハムが受けた神の約束の成就で、イサクとリベカ夫妻にとっても心から願うことでした。しかし、最後の一言は想定外でした。「兄は弟に仕える」。この言葉に神の計画、神の御心全般に通じる基本が現われています。皆さんに対する神の計画に通じる内容です。
★弟が兄に仕えるのが世の常です。29節以下の兄弟エサウとヤコブのやり取りの中で、話題にされる長子の特権がそれですね。長男として生まれる事自体が既に有利な立場です。なぜ長男が優位にされるのでしょうか。日本でも家督相続や本家と分家というのがありました。法律では子どもは生まれた順番に関わらず、同党の相続権を有していますが、長男という特別な位置づけは今も残っています。長い長い人間社会の歩みの中で築かれて来た柵のようなものです。エデンで起こった神と人間の活計の崩壊によって、人間の本来の流れに障害物が生じました。神の計画はその障害物から解放して、一人一人が伸び伸びと流れて行って神の祝福に与る、そういう計画の様です。
★神はそういう人間の障害物に「否」と挑戦されます。神は兄カインではなくて弟アベルとその献げ物に目を留められました。その時はハッキリしませんでしたが、今回「兄は弟に仕える」、とハッキリ宣言なさいました。ヤコブの子どもたちにおきましては、神はヨセフと共におられました。神は彼らの子孫が大国を築く前に、彼らがエジプトで奴隷であった時に旧約聖書中、最も親しく交わられました。それを振り返って申命記7章7節で「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに・・・」とモーセはエジプトから救われた民の子孫に語りました。
★サムエル記上16章で神はエッサイの七人の息子を退け、まだ少年だった末っ子のダビデに油を注ぎました。神がイエス・キリストをマリアより生まれさせ、ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られて三日目に甦り、天に昇られ神の右の座に着かれた事には、この神の計画が最もよく表しています。心の貧しい者は幸いである。後のものが先になり、先のものが後になる。家造りらの捨てた石が隅のかしら石となった。権力ある者をその座から引き落とし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される。そうではなく、むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのである。わたしが弱いときにこそ私は強いからである。これらのキリストの言葉や新約聖書の言葉も、この神の計画をよく表しています。
★さて皆さん、24‐27節の誕生と成長の様子と29-34節の事件をよく読むと、二人の子どもの姿や性質や生活が余りにも違っているので驚かれたでしょう。そもそも28節の彼らの両親イサクとリベカが違っていました。神はなぜ彼らの二人の子どもの違いをこのように極端にされたのでしょうか。言葉の違いや人種の違い、生活習慣文化の違いによって、多くの衝突と不理解という悲劇が起こります。神はどうしてすべての人を同じに造らなかったのでしょうか。その考えに対して神は挑戦しておられます。神は一人ひとりの命に対してオンリーワンな計画を、かけがえの無さを持っておられます。聖書が弟ヤコブに焦点を合わせて綴られているのは、人と比較して自分に希望が持てない者に、希望を与えるためです。弱い立場にある者、小さき者、希望を見出だせない者に、『あなたにもオンリーワンな計画があります』と、神は伝えておられます。お祈りの時といたしましょう。
2022年6月8日
創世記25章1~18節「祝福の鎖」
メッセージはこちら(聖書朗読)
★アブラハム物語は、息子イサクの結婚物語で閉じられ、25章19節からイサク物語が始まります。その間に、誰が誰を生んで何歳で死んだ、という系図的な文章が挿入されています。以前お話ししましたが、創世記は神が人を創造し、祝福され、アダム、カイン、セト・・・と言う風に、その祝福が鎖のように未来に向かってつながって行く希望を、系図というかたちで表現しています。ですから私たち日本人が考える、先祖代々の血のつながりを示す系図とは違います。系図は創世記の骨組みのようになっています。それに色々な物語という、身がつけられています。24章のイサクの結婚物語は、その身の部分で、しもべが嫁リベカを連れて帰って来た時に、アブラハムは亡くなっていた様子でした。しかし、25章に入って「アブラハムは、再び妻をめとった」とあるので、皆さんは驚いたと思います。25章1節から18節は身が薄くなって骨が現れている所、と言えます。
★長年連れ添ったサラを葬り、しもべにイサクの嫁探しを命じた頃、アブラハムは再婚していたようです。老人アブラハムとケトラとの間に六人の子が産まれました。これはもう、神がアブラハムから更に別の子孫を興された、と言うしかありませんね。この再婚によって系図に大変重要な内容が入って来ました。ケトラが産んだ子の名前が、アラブの地名や民族に関係しているのだそうです。ケトラの子孫はイスラームです。イサクの子孫、イシマエルの子孫、ケトラの子孫によって神は、「わたしはあなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう(22章17節)」、と言われた約束を履行しておられます。
★6節、アブラハムが他の子どもたちをイサクから遠ざけ、イサクの子孫がアブラハムの後継ぎとして選ばれ、財産を受け継ぎます。側女の子どもたちにはアブラハムの財産は与えられませんでしたが、贈り物が与えられます。これらは神が選んだ者だけの神ではなくて、また、一部の民族だけに関わる神でもなくて、この世全体に関わられる神である事を伝えています。
★さて、7-10節のアブラハムの死についての報告に注目しましょう。アブラハムは75歳から信仰の旅に出て(12章4節)、丁度100年でそれを終えて眠りに就きました。彼は死んだのですが、それを8節で色々な言葉を使って表現されています。原文に従って読んで行くと、次のようになります。
★アブラハムは「息絶え」。これは空になるという語源を持つ言葉です。2章7節で神はアダムの「鼻に命の息を吹き入れ、人は生きた者となった」とありました。脳死というのは最近の事で、何千年もの間、人の死とは息を引き取る事でした。神が吹き入れられた息を取り上げられ、空っぽにされ時が死でした。ヨブが「主は与え主は奪う」と祈ったのを想い起します。
★「平安な老年を迎え、長寿を全うして」とは、神が見て「良し」とされた齢、生きる長さと言うより天寿とでも言えるでしょう。「老人となり、年満ち足りて」とも翻訳しています。老いて満ち足りる、これは素晴らしいことです。この老いの秘訣は神への信頼であると、アブラハムは証ししています。
★「自分の民に加えられた」サラ、テラ、ナホル、セム、ノア、・・・アダムと遡る系図で示されてきた鎖の列に彼も加えられます。系図は神の祝福の力が受け継がれて行く証しでもありました。生涯を閉じて先祖の列に加わるとは、神の祝福の力、人を生かす力を証する列に加わることです。ここには先祖を供養するという考えは全く生まれません。先祖とは神が生かされる力が以前から今に至るまで働いてきた証です。自分が死んでその先祖に加わるとは、その力が自分の代を通って次の代へと働くという証しです。アブラハムの死によって、創世記の骨組み、系図と言う祝福の鎖に、彼の輪が加えられました。
★9節イサクとイシュマエルが一緒に父アブラハムを葬りました。お互いに排斥しなかったのです。10節アブラハムは妻サラと同じ所にイサクとイシュマエルによって葬られました。二人は墓の前で父母の信仰者としての歩みを思い起こしたことでしょう。そして、信仰を受け継いだのではないでしょうか。17節イシュマエルもアブラハムと同じく先祖の列に加えられます。彼は137歳まで生き、祝福されました。彼の子孫が互いに敵対しつつ生活していた、という陰の部分がありますが、神はそれでも彼を顧みられました。
★ケトラの子孫もイシュマエルの子孫も救いの担い手であるイサクからは離れた所にいますが、アブラハムが受け継いだ祝福を受けました。アブラハムは、祝福の源となりました。私達クリスチャンもアブラハムのように祝福の源となるようにと、招かれています。「それで、信仰によって生きる人々は、信仰の人アブラハムと共に祝福されています。ガラテヤ3章9節」。ローマ4章16節も参照しましょう。私たちの人生の覆いによって、祝福の鎖は見えませんが、私たちはそこに繋ぐれることになる、一つ一つの輪である。そのことを覚えて歩みましょう。お祈りの時といたしましょう。
2022年6月1日(祈り会)
創世記24章「神の御支配の中を行く」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
皆さん創世記は50章あります。その真ん中25章7節でアブラハムは死にます。12章から始まったアブラハム物語の締め括り、24章はイサクの結婚を取り上げます。それは創世記の中で一番長い67節に及ぶ美しい物語です。内容は三つです。①アブラハムの指示1-9節、②しもべの旅10-61節(旅の道中10-27節、旅の完成28-61節)、③イサクとリベカ結婚62-67節。
しもべがイサクの嫁を探す時に祈ります。創世記でここ程祈りが強調されている所は他にありません。祈りがこの物語のテーマです。
2節、アブラハムが家の全財産を任せている年寄りのしもべは、イサクが生まれる前に家を継がせる予定にしていた15章2節のダマスコのエリエゼルではないかと言われています。主人に子どもが生まれない時、しもべである奴隷が生んだ子どもを養子にすることが昔行われていたそうです。アブラハムには沢山の奴隷がいました。全財産を管理させる程に一番信頼を置いていた奴隷は、一番古い、年寄りの、昔からアブラハムに仕えていた奴隷であったと思います。34-36節で彼は自分の主人の事を詳しく紹介しています。もしかすると、テラの時代から代々仕えて来た奴隷だったのかもしれません。
ここで注目していただきたいのは、彼がアブラハムの神に祈ったことです。12-14節と27節の祈りに注目しましょう。そして52節、イサクの嫁を連れ帰る承諾を得られた時に彼は地に伏して主を拝しました。彼がアブラハムの信仰を受け継いでいる事が分かります。1節は、「アブラハムは多くの日を重ね老人になり、主は何事においてもアブラハムに祝福をお与えになった」と、改めて彼の人生を締めくくっています。そして、34節は裕福さと子が与えられた事をその祝福としていますが、アブラハムの知らぬ所で、彼のしもべが主人の信仰を受け継いでいるという祝福が含まれていました。信仰の継承というのは、私たちの知らない所で、繰り広げられています。神に期待いたしましょう。
アブラハムは2節9節「手を腿の間に入れて誓う」ことをしもべに求めました。創世記47章29節でヤコブもヨセフにこの特別な誓い方を求めています。誓約内容は①、イサクの妻は今住んでいるカナンの娘からではなくて、アブラハム一族のいる故郷の娘の中から連れて来ること。②、その為に息子を故郷に行かせてはならないことです。この二つはアブラハムの信仰に関わる内容でした。神はアブラハムと彼の子孫を寄留者として召されました。カナンの娘と結婚してこの地に根を下ろしては、その召しからそれてしまいます。
新約聖書ヘブライ11章15節に次のようあります。「もし出て来た土地のことを思っていたのなら、戻るのによい機会もあったかもしれません」。嫁探しにイサク本人も連れて行くというのは、この「戻るのによい機会」になります。「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。だから、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいません」と、ヘブライ11章16節は続けています。ですから、この特別の誓約はアブラハムの信仰に関わる内容でした。この誓約に「召しにふさわしく歩む」というアブラハムの生涯の最後のメッセージが込められています。新約聖書エペソ4章1節では「召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。」と、クリスチャンにも勧めています。
このしもべは大きな責任を負わされ、5節「もしかすると、その娘が・・・」と彼は心配しました。しかし、アブラハムは7節で主が彼にみ使いを遣わされ、息子に嫁を連れて来ることが出来るようにして下さる、との約束を告げます。そして、このしもべは37-41節でその約束が実際に成就すたことを証言します。
彼は、自分は何もしないで奇跡が起こることを祈ったのではありません。自分の旅の目的をはっきりと認識し、その目的遂行を求めて、娘が集まる泉に行きました。親切で優しく、家畜の面倒見の良い娘を捜すという自分なりの条件として「どうぞお飲みください。らくだにも飲ませてあげましょう」と答えた娘、という具体的な条件まで決めました。この様な行動の後、彼は祈りました。そして、主が何をなされるのかをじっと見ていました。
皆さん、祈りとは、私たちの日々の事々に主の御支配を求めて行動し、その後を主にお任せする、じっと見守ることです。僕が帰った時にはアブラハムは既に死んでいたようです。65節でしもべはイサクを主人と呼び、66節アブラハムにではなくイサクに全てを報告します。イサクの心にしもべの信仰の証言が刻まれました。67節「母のなきあと、慰めを得た」とあります。母の死によってイサクにポッカリ開いた穴を神がリベカとの出会いをもって埋められました。神は私たちの人生にも同じ様に働かれ、厳しい人生に慰めを与えられるお方です。
2022年5月25日
創世記23章「サラの埋葬」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。サラはカナン地方のキリヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。11章32節のテラの死で終わっていた系図は、テラの長男、アブラハムへと続くのですが、その前に妻サラの記録が加えられています。男性中心の系図なのに女性サラの名と、生きた年数と、死んだ場所の記録があるのは今までに無い事です。アダムもノアも妻がありました、しかし何の記録もありませんでした。短いですが妻に先立たれた夫の悲嘆する姿がここに描かれています。
サラの死によって初めて人間の葬りのことも取り上げられています。聖書は私たち人間の姿を網羅するように綴られている書でもありますね。
★サラの死によって、アブラハムに一つの仕事が与えられます。それは墓です。早速4節で、寄留者として滞在しているアブラハムが、ヘトの住民に墓地購入を打診します。10節を読むとその交渉の様子が明らかになります。町の門の広場で住民が見守る中で交渉が始まりました。そこには、今回アブラハムが購入を希望した墓地の地主エフロンだけではなくて、町の住民と長老もいたでしょう。10節に彼らは座っていたとあります。ルツ記4章1-2節によく似た光景が記録されていますので紹介します。「ボアズは町の門のところへ上って行って座ると、折よく、ボアズが話していた当の親戚の人が通り過ぎようとした。『引き返してここにお座りください』と言うと、その人は引き返してきて座った。ボアズは町の長老のうちから十人を選び、ここに座って下さいと頼んだので、彼らも座った」。アブラハムの場合も、このようにして交渉が始まりました。
★サラ、お前の墓地をこれから探すが、どこにしようか。ロトと別れて二人で生活を始めたマムレがいい。神からの約束を信じて歩んだしるしとして、その墓地を買い取って所有するんだ、お前もきっとそう思うに違いない。神さま、私たちの願いを聞いて下さい。祈り心でアブラハムは交渉に臨んだのではないでしょうか。
★4節は、この町の墓地を所有する事自体に対する同意を得る交渉です。すると5-6節で町の人は、彼らの墓地を提供し、彼らの墓地に葬ることを誰も拒まないと、丁寧な尊敬の念を忍ばせる言い方で同意を表しました。しかし、譲るとはっきり答えませんでした。次に8節でアブラハムは購入希望場所と、支払方法と所有権購入の三点をハッキリ提示して、交渉を進めました。すると11節で、土地所有者エフロンが非常に気前の良い返事をします。三回「差し上げます」と申し出ます。「え、ただでいただけるのですか」と言いたくなる内容です。当時の世界でどのような交渉がされていたのでしょうか。現代の私たちの感覚とはきっと違っていたでしょう。ですから、理解に苦しみます。15節でエフロンが提示した売値から推察してみましょう。
★銀400シェケルとは?1シェケルは銀11.4gですから、×400シェケル=銀4560gです。4.56kgです。1kgの延べ棒四つ半です。ヘブロンの田舎でしょう。マムレの前のマクペラにある洞窟と畑と敷地内の雑木の値段としては非常に高額です。
★エフロンは駆け引きしたのでしょう。無料の話を出して、買い手の購入意識を試したのでしょうか。13節の「どうか、畑の代金を払わせて下さい。どうぞ、受け取ってください」。とのアブラハムの返事を待っていたのでしょう。15節「それがあなたとわたしの間で、どれほどのものでしょう」、という言い方はエフロンの売値交渉の巧みさを感じます。しかし、アブラハムは買値交渉をするつもりはありませんでした。彼は正式に土地の所有権を得ることのみを考えていました。20節までの文章は、妻サラの葬りよりも、土地を所有した事の方が強調される内容となっています。
★アブラハムが選んだ墓地は19節、ヘブロンにあるマムレのマクぺラの畑の端にある洞穴でした(エフロン所有)。ヘブロンのマムレはアブラハムとサラにとって記念の場所でした。13章それはロトと別れた後のことでした。ロトと反対方向に向かう二人の前には荒れた地が広がっていたに違いありません。「あなたは人が好いんだから、どうしてロトに選ばせたの?」とサラは前を進むアブラハムに文句を言って、夫婦喧嘩をしたのかもしれません。彼らは自分達に残された地に到着して失望落胆していたのかもしれません。しかし、主はその時に約束されました。13章14~15節「目を上げてあなたがいる所から東西南北を見渡しなさい。すべてあなたが見わたす地は、永久にあなたとあなたの子孫に与えます。」この約束をいただいて最初に住んだ所がヘブロンのマムレの樫の木のかたわらでした。
★この場所は土地の取得という神の約束(13章14~15節)を信じて二人で生活を始めた記念の場所です。いまだ、その約束を見ていませんが、今回、この小さな墓地を取得したことは約束が確かであるしるしです。後に、この墓にアブラハムとサラ、イサクとリベカ、ヤコブとレアが葬られます。彼らはすべて約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが約束を目指して旅する、地上では仮住まいの者、寄留者であったことを言い表しました。私たちの場合は、天に用意されている住まいに迎えられる約束を与えられています。この事は、この地上では叶いませんが、それを目指して私たちもこの地上を旅する者です。最後に新聖歌8番の1番の歌詞を紹介します。七日の旅路、安けく過ぎて、御前に集い、かしこみ仰ぐ、今日こそ天の 休みのしるし。日曜礼拝は信仰の旅人に与えられたしるしです。お祈りの時といたしましょう。
2022年5月18日
創世記22章15~24節「神と人、男と女」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★アブラハムが献げ物をささげ、その場所を記念して命名し、19節、二人の若者に約束したように、彼らのもとに戻って来て、そして共にベエル・シェバに帰る、本来そういう物語で終わって良いところなのですが、再び主の使いが天からアブラハムに呼び掛け、16節から18節まで追加されています。その内容は神の約束の再確認でした。この約束はかつて語られたものでした。①豊かな祝福を与える。具体的に子孫を天の星のように増やすという約束は15章で言われたものでした。海辺の砂のように増やすという約束は、13章でロトと別れたアブラハムに言われた「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」、との約束と同じです。そして、②今回「敵の城門を勝ち取る」という約束も新たに加えられています。これは24章でイサクの妻としてリベカをアブラハムの僕が連れ帰る時に、彼女の兄たちの祝福の言葉の中にも含まれています。子孫が強い民になる事が祝福と一般的に言われていたそうです。そして、③地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。
★今まで、アブラハムには何の功績も無く、神は無条件で彼を召し、この恵みの約束をされて来ました。この事は私たちクリスチャンも同じです。新約聖書のガラテヤ2章8-9節を思い出します。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自分の力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、誰も誇ることがないためなのです」。
★神は自分の独り子である息子すら惜しまなかった、アブラハムの今回の行為のゆえに、あらためて三つの約束を伝えました。新共同訳では「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる」と翻訳されていますが、原典は預言者の言い回し「わたしは自らにかけて誓う。主の託宣である。」となっています。(エレミヤ書22章5節参照)。人はただ恵みによって救われます。しかし、その恵みに応えることも出来ます。神はその応答を心から喜ばれます。本来、神はこの双方向の人との関係を持つために、人を神のかたちに神に似せて造られました。預言者とは、人がこの神への応答に対して無関心になり、その代わりに罪の誘惑に支配されて、神から離れ、神以外のものを神とし出した時代に遣わされ人たちでした。ですから、この15節以下での、主のみ使いの再呼び掛けは、人との双方向の関係を願う神の思いを表している所だと思います。
★さて、神は応答してくれたアブラハムに対して、今回は自らにかけて誓うと、約束の確かさを、さらに強調されました。きっと神は嬉しかったのでしょうね。新約聖書にヘブライ人への手紙という書があります。迫害の中、神の約束を目指す者の希望の確かさを伝えている書です。その中で、今日のアブラハムの話を例に出して、「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなものである」(6章19節)、と書いています。余談ですが、ローマ郊外にあるカタコンベと言われる地下墓地に迫害を逃れたローマのクリスチャンたちがいました。イエス・キリスト・神・の子・救い主魚の頭文字を合わせると魚と言う文字になったので、クリスチャンを証するマークとされ、その墓には魚のマークがあちこちに彫られています。それと共に錨のマークもあちこちに彫られています。神の約束の確かさを証するマークです。
★さて、23章のサラの死を前にして、テラの息子ナホルが妻として迎えたミルカと、側女として迎えたレウマの消息の知らせが、突然アブラハムに届きました。ミルカは8人の子どもを産みました。レウマは4人子どもを産みました。ここに11章27節の系図に関わった、嫁に来たサラとミルカ、側女のハガルとレウマが並べられます。その内のひとり、サラが生涯を閉じようとする前に、この様に私たちを4人の女性に、聖書は注目させようとします。なぜなのでしょうか。
★今まで聖書は、系図の中に女性の名を入れず、子は生まれた、と記して男性中心の内容でした。しかし、我々は神が人間を造られた時の事を今一度思い出さなければなりません。神の人間に対する第一の命令は何だったでしょうか。1章28節「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」です。サラはイサクを産み、ミルカは後にイサクの妻となるリベカの父ベトエルを産みます。女性たちは着実にこの神の命令を忠実に果たしました。産むだけではなくて、養育、教育、社会でのあらゆることがそこに加わります。人の基本の基です。
★また、アダムから始まる系図に出て来る男性の死や葬りについて、聖書は詳しく記して来ませんでしたが、アブラハムの妻サラにおいて、初めてその死と葬りのことを綴ります。そして、その前にアブラハムの親族に加わった女性たちの事を取り上げ、ここは非常に女性中心に綴っています。父テラがナホルミルカ夫婦と別れてアブラハム夫婦とロトを連れてウルを出た背景には、ミルカと不妊のサラの関係もあったのかなあ。サラと側女のハガルの対立がありました。ナホルが側女をめとった理由は分かりませんが、ミルカと側女レウマの関係にも色々あったでしょうね。詮索は尽きません。20-24節女性が・・・を産んだという、特別な系図を、神はここに挿入し、人の基本「産む」という事に、その位置役を担う女性に目を止めさせ、はたして今の社会構造はこの基本から外れていないか、と問うておられる気がします。祈りの時といたします。
2022年5月11日
創世記22章1~19節「真実なお方です」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★1節「アブラハムよ」という神の呼びかけと、アブラハムの「はい」という応答での始まりは、今までに無い物語の始まりを予告しています。それは、神とアブラハムとの関係の根底を探り、そこを確り整える、そんな物語です。私たちもここを読んで、「わたしと神さま」の関係の根底部分はどうなっているのか、探られます。そして、そこを神に確り整えていただきましょう。
★2節の神の命令は余りにも唐突で、何の準備もなく、予想外のことでした。それは私たちにとっても同じです。21章でイサクが生まれたばかりなのですから。私たちも、同じようなことを人生で体験します。その時に、悲しみ、苦しみ、悩み、嘆き、落胆が、アブラハムにも襲いました。しかし、聖書はその事に一切触れません。いきなり3節4節「次の朝早く、アブラハムは、ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた・・・」と、淡々と事を進めるアブラハムの姿を綴ります。妻のサラ、二人の若者、イサク、彼らに対して今回の神の命令を、どのように話したのかも、分かりません。三日の道程の間、どんな会話をしたのかも、分かりません。丁度映画でカメラが、アブラハムの周りのものを全てぼやかせて、彼だけに焦点を合わせる、そのような表現となっています。
★さて神が命じる焼き尽くす献げ物は、今までに一回だけ出て来ました。創世記8章20節で、ノアの家族が無事箱舟から出た時に献げられました。その時の焼肉の香りを、主が嗅がれる宥めの香り、と献げ物について説明されています。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と言われた神と、こうして生き残った私たちとの関係は、その根底部分はどうなっているのだろうか。今、神はどう思われているのだろうか。「神さま、これから再出発する人間を、これからも憐れ顧みたまえ」との祈りが込められた、焼き肉の美味しい匂いを、天に届かせる行為でした。主は宥めの香りをかいで、み心に言われた。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい・・・」。
★5節「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」8節「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。このアブラハムの言葉を繰り返し読むとき、彼が一つのことだけに注目しているのに気付かされます。「神は真実な方です。」という一点です。「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。コリントの信徒への手紙一、10章13節」という神に集中しています。私達も試練を受けます。そのとき色々と心騒ぐと思います。しかし問題は何か。全ては神の真実に懸かっているということです。
キリストが捕らえられ弟子たちが逃げる、これは予想外の事でした。しかし、最後の夕食の中でキリストは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。神を信じるとは、神が真実なお方である、最後まで、あなた方をしっかり支えてくださるお方である、と信じることですね。
★当然アブラハムは息子イサクに神の命令が何であったのかを伝えられませんでした。しかし、イサクはなんか変だなと気付いていました。だから7節で献げ物の小羊について質問しました。そして、9節、縛られて祭壇のたきぎの上に載せられた時、彼は絶対に変だと思ったでしょう。しかし、イサクの抵抗について何も書かれていません。「これは絶対におかしい、しかし、お父さんは真実である。そしてお父さんの神様も真実なお方である。」このイサクの姿は、神の前のアブラハムの姿を鏡のように映しています。子の親に対する信頼関係がなかったら、子も親が信じる神は真実なお方であると、思わなかったでしょう。信仰の継承は、信頼関係を抜きにしては考えられない事ですね。
★10節、アブラハムは刃物を執ってイサクを殺そうとします。神はなぜアブラハムにここまでさせたのでしょうか。12節、「あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った。」と主は言われました。「神を恐れる」とは自分の今持っているものを支えとしないで、全く神の真実にまかせることです。旧約聖書の箴言3章5‐7節を思い出します。「心を尽くして主に信頼せよ、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」。クリスチャン自身の信仰は弱く、小さい。しかし、確かな一点、「神は真実である」に私たちは支えられます。神はかつて神の民が試練の連続だった荒れ野の旅を終える時に、「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを(申命記7章9節)」と、信仰の要を告げられました。
★最後に、愛する独り子、焼き尽くす献げ物の小羊とキリストが重なります。神は刃物を握ったアブラハムの手を止められたが、キリストの十字架は止められませんでした。「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでキリストは息を引き取り墓に葬られ陰府に下られました。神に敵対する罪は勝利宣言をしました。それを神はお許しになられました。なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。罪に支配され、人の最悪の状態にあるキリストを神は、死人の中から復活させ、『私たちの人生に何が起こっても、神は真実なお方となってくださる。信頼すべきお方である』と、私たちと神との関係が根底において確かなものとされている、という福音を示すためであった。皆さん、あなたと神の関係は、イエス・キリストによって確かなものとされています。だから、これからも神に信頼をおいて、与えられた人生を最後まで生抜かせていただきましょう。お祈りの時といたしましょう。
2022年4月27日
創世記21章22~34節「神が試される」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★22章1節「これらのことの後で、神はアブラハムを試された」。22章で神がアブラハムに「イサクをささげよ」と試されたのは、21章でアブラハムが三つの幸せを与えられた後のことでした。
★第一はイサクの誕生です。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開きました。そして、アブラハムを非常に苦しめた家庭の不和も、神がイシュマエルをも顧みて下さったので無くなり、家庭円満となりました。
★第二はアビメレク王から一目を置かれる身分を与えられたことです。22節アビメレク王と軍隊の長ピコルが「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます。」と、ただの寄留者であったアブラハムを賞賛し、23節「どうか今ここで、わたしとわたしの子、わたしの孫を欺かないと、神にかけて誓ってください。わたしがあなたに友好的な態度をとってきたように、あなたも、寄留しているこの国とわたしに友好的な態度をとってください」。と懇願しました。アビメレクの支配地ゲラルに入った時アブラハムは不安のあまり、サラを妹と偽っていました。しかし、今は全く状況が好転しました。
★第三は自分の井戸を獲得したことです。生きて行くためには水の確保が必須でした。寄留者は地元の人から水の利用権をもらって生活するか、自分で井戸を掘らなければなりませんでした。しかし、25節から井戸の権利争いが絶えず起こり、弱い者は泣き寝入りするしかないと言う状況が浮かんできます。その様な中でアブラハムは井戸の所有権を獲得しました。
★33節でアブラハムは、その井戸にギョリュウの木を目印として植樹し、ベエルシェバと命名しました。その場所はイスラエルの領土の南端として、その後の聖書に幾度も出て来る有名な場所となります。ベエルシェバと聞けば、皆が「先祖アブラハムが最初に所有した土地」と思い出す場所となりました。
★また、その場所で彼は主のみ名を「永遠(とこしえ)の神」と呼びました。この神名は後に預言者イザヤが40章28節で、「あなたは知らないのか。聞いていないのか。主はとこしえにいます神」と伝え、詩篇90篇2節は「山々が生まれる前から、大地が人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神。」と伝えています。アブラハムがその神名を最初に読んだことになります。
★この様に神はアブラハムに三つの幸せを与えられました。そして、彼も神への信仰も表明しました。私たちはここに理想的な信仰者像を思います。しかし、神の思いは違っていました。神の思いとは? 特に一番の幸いを取り上げられる神の思いは、理解に苦しみますね。アブラハムの後の子孫が築いた国が、神から離れ滅ばされる事態になった時に、神はそれでも預言者イザヤを遣わして、立ち返る道を示され、ご自分の神の民に対する思いを明かされたことがありました。イザヤ55章8‐9節「わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると、主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」。
★皆さん、神は信仰のハードルを高く上げておられるのではありません。神は私たちの想像を超えて、私たちに対して期待しておられ、私たちの将来のことを考えておられるのです。丁度、親が子どもにそうするのと似ています。アブラハムは12章で、全ての人の祝福の基となる為と共に、父が子を鍛え試練を与える、そのような関係を神と持つためにも召されました。神は後に、アブラハムを試された様に、エジプトから彼の子孫を救って神の民として、共に歩まれた時にも、彼らを試されたことを、申命記は伝えています。それは申命記8章2-10節です。大切な箇所なので全文紹介します。
★「あなたの神、主が導かれた四十年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあることを、すなわちご自身の戒めを守るかどうかを知ろうとされました。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい。あなたの神、主の戒めを守り、主の道を歩み、彼を畏れなさい。あなたの神、主はあなたを良い土地に導き入れようとしておられる。それは、平野にも山にも川が流れ、泉が湧き、地下水が溢れる土地、
小麦、大麦、ぶどう、いちじく、ざくろが実る土地、オリーブの木と蜜のある土地である。
不自由なくパンを食べることができ、何一つ欠けることのない土地であり、石は鉄を含み、山からは銅が採れる土地である。あなたは食べて満足し、良い土地を与えてくださったことを思って、あなたの神、主をたたえなさい」。
★最初に、神は戒めを守るかどうかを知るために試すとありましたが、それだけではなかったことが分かりますね。人が何によって生きるのかを知らせるためでした。子を訓練するように訓練なさる神である認識を持つためでした。また、将来良い所に導くためでもありました。この様な理由によって、神は試されます。この神に信頼して進みましょう。
★新約聖書のヘブライ人への手紙も、この神の事を次のように伝えています。「わが子よ、主の鍛錬を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」。あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。もしだれもが受ける鍛錬を受けていないとすれば、それこそ、あなたがたは庶子であって、実の子ではありません。更にまた、わたしたちには、鍛えてくれる肉の父があり、その父を尊敬していました。それなら、なおさら、霊の父に服従して生きるのが当然ではないでしょうか。肉の父はしばらくの間、自分の思うままに鍛えてくれましたが、霊の父はわたしたちの益となるように、御自分の神聖にあずからせる目的でわたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」。お祈りとしましょう。
2022年4月20日
創世記21章1~21節「約束通りに」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
①神は約束通りに実現なさるお方です。
★創世記1章3節で、神は、昼も夜も、大空も大地も、まだ出来ていない時に、まず「光あれ」と言われました。この「光あれ」は何のことなのでしょうか。そんな疑問を抱きつつ、ここまで私たちは創世記を読んで来ました。21章までを要約すると、人間は暗闇の中にいる、希望が見えない中にいる、ということではありませんでしょうか。『わたしは、その暗闇に光をもたらす、希望をもたらす神である!』。この神の叫びが「光あれ」だったのではありませんか。そんなことを感じます。「神は言われた『光あれ』。こうして光があった」。皆さん、この「光あれ」は、暗闇の中にいる者に対して、この様に必ず光があるようになる、希望を与えられるようになる、だから、あなたは与えられた人生を希望を持って生き抜きなさい、という神の約束の言葉ですね。皆さん、聖書って読み進む中で、このように「あそこで言われていたことは、こういうことだったのか」と、後から気づかされることが多々あります。
★21章のイサクの誕生物語は、100歳と90歳の老夫婦が子を産んだという神の奇跡を伝えているのではなくて、この神の約束が実現したことを伝えています。それで物語の冒頭に、21章1節「約束された通りサラを顧み」、2節「それは神が約束されていた時期であった」と、あります。新約聖書もこのイサク誕生物語を思い起こす時に、神の約束のことを取り上げています。いくつか紹介しましょう。
★ローマ4章21節では、アブラハムは「神は約束されたことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです」と、あります。ヘブライ11章11節、サラは「約束なさった方が真実な方であると、信じていたからです」と、あります。ヨハネによる福音書1章5節は、キリストにおいて光は暗闇の中で輝いていると伝えます。ルカ福音書は不妊の女エリサベツの出産物語を付け加え、その中で、天使のお告げを信じない夫ザカリアに対して、天使は「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかった」と言っています。
★その後、ガブリエルは処女マリアにもお告げを伝え、マリアが「お言葉通り、この身になりますように」と、答えたのは皆さんもよくご存じの話ですね。マリアは急いでエリサベツを訪問しました。その時にエリサベツが聖霊に満たされて声高らかに言いました。「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる方は、なんと幸いでしょう」。この様に、新約聖書でも創世記21章が伝える、神の約束の実現と、それを信じる信仰を伝えています。
②神は我々に回復を生じさせるお方です。
★さて、イサク誕生の約束が実現して、アブラハムたちはどうなったのでしょうか。6節でサラが言いました。「神は、わたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう」。一年前、神からイサク誕生の約束を頂いた時に、サラは神を嘲ける笑いをしました。神はその嘲笑いという人間の暗闇の部分に、喜びの笑いという希望を回復して下さいました。6節以下は回復を受けたサラの神を讃える賛歌です。ここで私たちはキリストのことも思い出します。十字架のキリストは嘲笑を浴びましたが、復活のキリストは弟子達から喜びの笑いを受けられました。「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮びもしなかったことを、神はご自分を愛する者たちに準備された。」1コリント2章9節。
③神は約束以上のことをなさるお方です。
★さて、9節から具体的に二人の兄弟の問題が取り上げられます。それはカインとアベルから始まって、イシュマエルとイサク、エソウとヤコブと続きます。兄が弟をからかうのは子どもの日常茶飯事のことなのに、サラは自分の気持ちを抑えることが出来ませんでした。自分が産んだ子に対する母親の思いが爆発しました。母親は、そういう我が子に対する強い思いが無いと、子育てできませんね。その強い思いを持つようにしたのは神です。父親には分からない思いですね。しかし、父親にとっては二人とも我が子です。こういうすれ違いが人間関係にはありますね。それがアブラハムを非常に苦しめました。しかし、サラさん、ハガルにアブラハムの子を産ませることは、最初あなたが提案したのではありませんか。人って非常に身勝手なのですが、神はそれを受け止めて下さり、サラの言うとおりにせよと、アブラハムに命じました。12節「あの子供と、あの女のことで苦しまなくてよい」。わたしに任せなさい、ということでした。結果、ハガルとイシュマエルはアブラハムの家から追い出されます。
★14節でアブラハムが旅の準備をし、その荷物をハガルの背に負わせ、荒れ野の中へ消えて行く姿を、「ハガル、イシュマエル、すまんな」。「主よ、彼らを約束通り(12節)守り導いて下さい」と、彼は見送ったでしょうね。彼にはどうすることも出来ませんでした。だから非常に苦しみました。荒れ野に追い出されるということは、いずれパンも水も尽きてハガルとイシュマエルは死を待つしかありません。神の約束に委ねるしかありません。
★お母さんハガルが声をあげて泣きます。大泣きするママを見て、子も泣きます。こんな光景がこの星で何回起こるのでしょうか。数えきれない程でしょうね。特に戦争はこのことが起こります。私たちの知らないところで、泣き声が起こっています。しかし、神はその子どもの声を聞かれます。神はアブラハムに約束された通りに、この家族の命を救い彼らから一つの国民を生み出されます。それだけではなくて、20節「神がその子と共におられた」とあります。創世記で神が共におられると記されているのは、28章15節のヤコブと39章2節のヨセフとこのイシュマエルの三人だけです。神はここで約束以上のことをなさって下さいました。神は選ばれたアブラハムの子孫だけではなくて、このイシュマエルとも共におられたのです。ハガルママ、良かったね!
④神は先行して、私たちと共におられるお方です。
★キリストが生まれる前に、天使が夢でヨセフに、その誕生は以前預言者を通して神が約束されていた「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」がキリスト誕生によって実現することを告げています。そして、この名は「神は我々と共におられる」と言う意味である、とマタイ福音書は解説を加えています。イシュマエルと共におられた神は、将来イエス・キリストを通して、全ての人と共におられる神になられました。しかし、それは強制ではありません。この恵みを受け入れる人もいるし、そうでない人もいます。しかし、神は全ての人のためにキリストの命を犠牲にして、全ての人と共におれるように、この恵みを先行されました。このように神は人をとことん愛する神さまです。ここでハガルとイシュマエルは、聖書から姿を消します。ハガルママと幼児イシュマエルの事を忘れないで下さい。では、お祈りの時といたしましょう。
2022年4月13日
創世記20章「ゲラルの王アビメレクとの出会い」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★アブラハムは、メソポタミアのハランで神に声を掛けられ、旅立ちました。カナンとネゲブ地方、飢饉のため一時エジプトに避難、ロトと別れてカナンに戻り、ヘブロンにあるマムレの樫の木の傍で長らく定住、ソドムの滅亡後、今回、ネゲブに戻って来ました。そして22章でアブラハムの神に対する信頼が非常に深くなったことが告げられます。私たちも神に声を掛けられ、クリスチャンとして信仰の旅に出ました。その旅で神は私たちの神に対する信頼をも、深めて下さいます。
★旅人アブラハムが恐れたのは、今日読んだ20章11節、神を畏れることが全くない土地に入ることでした。飢饉のためにエジプトに避難する時も、12章12節、エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない、と言っていました。自分は神を畏れるが彼らはそうではない。信仰生活の中で、私たちもこのように区別することがあります。
★12章で、エジプトの王ファラオは言いました、「あなたはわたしに何ということをしたのか。なぜ、あの婦人は自分の妻だと、言わなかったのか。なぜ、『私の妹です』などと言ったのか。だからこそ、わたしは妻として召し入れたのだ。さあ、あなたの妻を連れて、立ち去ってもらいたい。」どうやらファラオも神のお告げを受けたようでした。アビメレクの場合は夢で神とやり取りをした後、「あなたは我々に何ということをしたのですか。わたしがあなたにどんな罪を犯したというので、あなたはわたしとわたしの王国に、大それた罪を犯させようとしたのか。あなたは、してはならぬことをわたしにしたのだ。どういうつもりで、こんなことをしたのか。」と、神を畏れる者のごとく、姦淫してはならないことと、その切っ掛けを造ったアブラハムに対する非難を、告げています。しかし、アブラハムは王を恐れて嘘をついて、結果、王たちに罪を犯させる機会を与え、非難を受けています。ここに立場の逆転が起こっています。
★私事ですが、大学二年で洗礼を受け、礼拝を守るために、日曜が休日という条件で不動産会社の建築部に就職しました。その時にこんな経験をしました。半年後に営業部応援のため、休日が水曜に代わりました。それで私は『日曜夜の伝道会に出席すれば良いだろう』と考えていました。ところが、朝礼を終え、住宅分譲現場販売センターに向かう途中で、先輩が「末吉君は、教会の礼拝に出なあかんやろが」と言って、教会前で「昼飯食べてからでええから、現場事務所に来いや」と言って降ろしてくれました。その時、自分の礼拝に対するいい加減さを恥ずかしく感じました。感激の涙を拭いて教会に入った思い出があります。
★神を畏れぬ者だ、とアブラハムが見ていたエジプトのファラオと、ゲラルの王アビメレクから、「あなたは私に何ということをしたのか」と非難された時、彼も自分を恥じたのではないでしょうか。そして、「この土地には、神を畏れることが全くない」と言っていた自分の信仰が問われました。皆さん、神に声を掛けられ、信仰の旅を続ける者も、その旅中で色々な事件に出会います。神はその事件を通して信仰者を鍛錬されます。
★この件で、アビメレクと、その妻と、侍女たちに神が病を与えられた事を聞いてアブラハムは驚いたでしょうね。17節アブラハムは神に何と祈ったのでしょうか。彼らの癒しを執成す前に、自らの信仰の高慢さ、神に対する不信頼を悔い改める祈りを捧げたのではないでしょうか。
★新約聖書ヘブライ人への手紙12章は神が信仰の旅を通して鍛錬されることを伝えています。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれる」12章6節。18章でアブラハムはイサク誕生の予告を受け、21章でイサクが誕生します。その間に19章のソドムの滅亡、20章のアビメレクとの出会い、という経験をしてアブラハムの信仰は試され鍛えられます。それは21章で一番大きな試練に遭う時のための備えの時でもありました。神は私たちを鍛えられます。その真の目的をヘブライ12章10節が伝えているので見ておきましょう。霊の父は、ご自分の神聖にあずからせる目的で私たちを鍛えられます。昔、シナイの麓で、神の民に「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者となりなさい」と繰り返し言われました。神と人がひとつになることを、神は願っておられます。
★皆さん、イエス・キリストによって神と和解し、神と共にこの世を旅する信仰者として、歩みましょう。この旅は一人旅ではありません。一人の羊飼いイエス・キリストに導かれる羊の群れのように進む、神の民です。飯塚教会の群れに入って下さい。今キリストは天におられ、聖霊が導かれます。目には見えませんが、その導きによって綴られた聖書が与えられています。その言葉は私たちの足元を照らし、進むべき道を照らす灯です。祈りの時といたしましょう。
2022年4月7日
創世記19章30~38節「命を未来につなぐ」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★ここでアブラハムの群れとは別の群れであるロトの物語は終わります。神はアブラハムの群れとロトの群れを区別されます。たとえば、時を経て、彼らの何代も後の子孫の時代に、アブラハムの子孫が荒れ野の旅を終える時に、神は再び彼らと契約を結ばれます。そして、契約前に掟も今一度、モーセを通して伝えられました。その中で、ロトの子孫を神の民の会衆に一切加えてはならない掟が含まれています。その理由として、神の民が荒れ野放浪中、ロトの子孫の土地を通過する時に、彼らが占い師バラムによって、呪いを掛けようとした、民数記22章の事件を取り上げています。(申命記23章4節)
★しかし、その掟を告げる前に、モーセは荒れ野の旅を振り返る話で、エソウやロトの子孫に神が目を止められたことも告げています。申命記2章9節で、ロトの子孫モアブの領地を通る時に、彼らに対して戦いを挑んではならない。15節で、ロトの子孫アンモン領地に対しても、同じように命じています。
★ですから、神はアブラハムによって、世界のすべての国民が祝福に入ることを繰り返し約束されます(12章3節、18章18節、22章18節)。ですから、神に選ばれた、という事で選民の優位性だけを言うのは間違っています。選ばれたのは他の民のために選ばれました。ですから19章29節で、神はロトを救われたのであるが、神に選ばれたアブラハムをみ心に留め、ロトを救ったと告げ、神が選ばれた人を通して救いの業を行われた、と聖書は綴るのです。
★皆さん、イエス・キリストによって、新しく神の民にされた私たちも、神によって同じように用いられるために、選ばれました。塩も光も、自分のためではなくて、他のものに影響を与える存在ですね。だから、私たちは、地の塩、世の光だと主から言われています。この神の救いの御計画が、今日の第一ポイントです。
★ロトの娘たちの行為は理解に苦しみます。現代の道徳と倫理の面から見るとこの近親相姦は受け入れられませんね。旧約聖書の他の所でもそう言う所が多々あります。聖書を人間の道徳と倫理の価値観と言う眼鏡をかけて読む時、理解出来ない事に直面します。その眼鏡を外して、聖書と生身で向かい合ってみましょう。それを、キリストがおっしゃる、幼子のようにとは、そういう自分の既成概念を横に置いて、聖書と向き合う事なのではないでしょうか。
★前回19章は6~9章の洪水物語と関係あると聞きました。新約聖書ルカ福音書17章27・28・29節もそう見ています。洪水物語とソドムとゴモラの滅亡を、世の終わりに、最後の審判者として、キリストが再び来られる日の前例として、取り上げられています。ソドムの全員が滅ぼされ、そこから救われたのは二人の娘とロトの3人だけでした。まるでノア一家8人のようです。箱舟の動物が大地に去って行った後、アララテ山にノアの家族8人だけが生き残りました。ロトたちも、誰もいない山中に3人生き残りました。このように、聖書は天地が創造されたが、終わりの時に向かっていることを初めから伝えています。
★31節、姉は妹に言った。「父は年おいてきました。この辺りには、世のしきたりに従って、私たちの所に来てくれる男の人はいません」。32節「さあ、父にブドウ酒を飲ませ、床を共にし、父から子種を受けましょう」。洪水物語では、神がはじめから洪水後の事を考慮して、動物はつがい、人間は4カップルとして救われました。ところがソドムの滅亡の場合は、生き残ったのは娘二人と父一人です。「産めよ、増えよ」と神が彼らを祝福された9章と、正反対の状況に彼らは置かれました。ノア一家もロト一家もこの世の終わりを体験したわけですが、生き残って置かれた状況が違っていました。洪水物語では語らなかったことを今回聖書は語ろうとしています。それは何でしょうか。それは、世の終わりを体験した二人の娘が、現実をどう生きたかです。
★新約聖書のルカ福音書16章で、キリストが話された「金持ちとラザロ」のたとえは、この二人が死んで、人生の終わりを体験し、金持ちに変化が起こります。もはや彼は生き直すことはできませんから、生き残っている兄弟たちの悔い改めを望んだのでした。ロトの二人の娘も、ソドムの滅亡で、終わりを経験しました。しかし、彼女たちには生きる場が与えられていました。終わりを体験したものがどう生きるのか、それに注目せよと、今日の聖書は伝えています。
★彼女達は未来の為にこの決断をしました。神のみ心は、アブラハムによってロトの子孫も滅びから救い、祝福する事でした。生き残った彼女たちは「産めよ、増えよ」という神の祝福を受け取りませんでしたが、神の備えられる未来を信じて、この決断を下し、未来に向かったのでした。
★未来に生きる事に関して社会や政治の問題、環境問題の山積する現代に、私たちは生きています。ロトの娘たちの行為から、神が救い祝福しようとされる人の命を、私たちも未来につなぐ使命が与えられています。命のために彼女たちのとった行動に、たくましさを感じます。私たちも命を未来につなぐために、たくましくありたいですね。祈りの時としましょう。
2021年8月~2022年3月
2022年3月31日
創世記19章1~29節「破滅の中から救われたロト」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★18章22節から19章29節までに、「滅びる」という言葉が14回も使われています。6章1節から9章17節の、洪水物語では5回使われています。そこでは他に、地からぬぐい去る、全ての肉なるものを終わらせる、大地を呪う、等の言葉もあり、それを含めると同じぐらいの回数になります。
★神は天と地を創造されました。それは極めて良かった、という評価で創造を終えられました。しかし、人が神から離れて行ったので、全てが狂ってしまいました。それ程に神にとって人の存在は重要だった、と言えましょう。「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する(6章7節)」と、神が言われた後に、ノアが登場し、洪水が始まりました。およそ天の下にある高い山は全て水で覆われ、なお水面は更に7メートル増え、水は約100日間減りませんでした。これで終わり、と言う時に、神に変化が起きました。「神は、ノアと彼と共に箱舟にいた、すべての獣とすべての家畜を、み心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた(8章1節)」。これによって、この世界をスタートさせ、また終わらせる神は、私たちをみ心に留めてくださるお方でもあることが、示されました。
★今日の聖書もその事を示しています。この世界をスタートさせた神は、アブラハムを選んで、彼を通して全ての人を祝福する計画を立てられましたが、ソドムとゴモラの町と低地一帯を、非常に重い罪のゆえに、町の全住民、地の草木もろとも滅ぼす、すなわち終わりにする事とされました。しかし神に変化が起きました。「正しい人を悪い人と一緒に滅ぼされるのですか」と、何とかその滅びを留まってくださるように頼むアブラハムをみ心に留め、神はロトを破滅の只中から救い出されました。神は祝福する神であるが、罪を犯す者に対しては厳しく裁かれるお方である。しかし、み心に留められるお方でもあります。
★このように聖書の第一巻目の創世記は、スタートの書ですが、既にゴールを見据えた内容になっています。新約聖書の最後の書、黙示録22章13節「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者。初めであり、終わりである」、を見据えた内容になっています。それによって、神を信じる者も、このゴール、すなわち終末を見据えて歩む事を勧めています。
★皆さん、ロトが9節で町の男から「よそ者」と言われていますね。ここを読んで思い出すのが、新約聖書のヘブライ11章13節にある信仰者の姿です。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声を上げ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であること公に言い表したのです」。ロトはその様な信仰者として描かれています。2ペトロ2章6-8節も参照。ロトに注目しましょう。
★ノアは箱舟建造を命じられ、それに従いましたが、ロトたちは町から山へ逃げなさいと命じられましたが、ためらいました。婿たちが冗談だと言って、救いの招きを退けたからでした。せきたてるみ使いにロトたちは悩みました。『家族を置いて自分たちだけ逃げるわけにはいかない』。娘夫婦と、もしかしたら孫もいたかもしれませんね。ヒューマニズムとの葛藤です。新約聖書の十人の乙女というキリストの譬えでも、灯用の油を愚かな乙女に、少しでも分けてやらなかった賢い乙女に対して、ヒューマニズムは疑問を抱かせます。
★人は自分の救いすら自分で解決できないのに、他人の救いをとやかく言えない存在であることを忘れて、ヒューマニズムに心が惹かれます。人にはそういう盲目さがあります。16節に「主は憐れんで」という言葉が挟まれているのは、神が人のこの盲目さを憐れまれたことを言っています。15節で夜が明ける頃とあります。23節、太陽が地上に昇った時にソドムは滅ぼされます。私なら「何を言っているんだ」と言って強制的に脱出させるでしょう。こんな時に主は憐れんで、二人の客に彼らの手を取らせて町の外へ避難するようにされました。手を引っ張って無理やりと言う感じではありませんね。実は原文はロトの手と、妻の手と、二人に娘の手を取った、と丁寧に書かれています。一人ひとりの手を取って、神への信頼を促しておられるような感じがします。礼拝で歌う聖歌474番「主がわたしの手を取って下さいます」を思い出すシーンです。
★17節、町外れに連れ出して、最後は主が彼らに指示を与えるために登場されます。気がかりだったんでしょうか、ロトたちにくぎを刺すように言われました。「命がけで逃れよ。後ろを振り向いてはいけない。・・・とどまるな。・・・逃げなさい。さもないと、滅びることになる」。ところがロトがこの場に及んで「主よ、できません」と言いました。映画でしたら、ここは時限爆弾の時計の音がカチカチと流れる、そんな切羽詰まったシーンでしょう。ロトは高齢のため、山登りは無理と判断したのでしょう。21節、ここも「主は憐れんで」が入ると思いませんか。
★天で硫黄の火を降らせるのを待っておられた主なる神でありましたが、グズグズしているロトたちを、天で見ていられなかったのでしょうか。この時に神に変化が起こったのだと思います。わざわざ降りて来て、17-21節でロト救出の最後を見届けられました。皆さん、私たちの神は、ソドムとゴモラの町を滅された以上に、ロトたちを最後まで憐れまれた、救いの神です。祈りの時としましょう。
2022年3月23日
創世記18章16~33節「罪人を救う神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
飯塚は山に囲まれていますが、こちらに来て、私たちはまだ山には登っていません。気候の良い時に、手頃なハイキングコースを歩いてみたいです。整備されたハイキングコースには、眺めの良い所に、休憩用のベンチなどが設置されています。私たちもちょっとここらで眺めてみましょう。振り返ると、18章のはじめ、マムレの樫の木の所は、男子イサクが誕生するという、夢のようなニュースを正式に告知された所でした。先を眺めると、19章はソドムとゴモラの滅亡という暗闇の様な所です。その暗闇を見届けたアブラハムは20章でゲラルに滞在することになりました。そこは、女性を見つけたら召し抱える、神を畏れない王アビメレクが支配する危険な所です。
19章も20章も早く通り過ぎたい所ですね。そして、21章で告知されたイサクが誕生します。暗闇から、パッと明るい所に出る、という感じですね。このように創世記は、イサク誕生という明るいニュースを、暗闇の中に輝く光として描いています。新約聖書の福音書が、イエスという男子の誕生を、同じ様に描いているのと重なる所がありますね。
この創世記を綴り終えたのは、キリストが生まれる約五百数十年前に、アブラハムの子孫である神の民が築いた国の首都、エルサレムが陥落し、外国での捕虜生活を強いられ、信仰生活の拠り所であった、礼拝をささげる神殿が破壊される、と言う暗闇の中を歩んでいた時であった、と言われています。祭司たちが中心になって、そのような暗闇の中で、神に導かれて今まで綴られてきた創世記を、ひとまとまりの書として綴ったと、言われています。神の救いは暗闇の中に輝く光以外の、何ものでもないことを、彼らはこの時に気付かされました。それで18章と21章の男子誕生という光の間に、神に裁かれても仕方のない人間の物語、19章と20章が挿入されたのでしょう。神はお一人で、聖なる筆によって、聖書を書かれたのではありません。それを罪ある、不完全な、破れをまとう、人間と共に綴られました。神はそのようなお方なのです。
さて、注目すべき所は二つです。①17-19節の神の独り言、②23‐33節で行われるアブラハムと神の問答。
以前にも神が独り言を言われた時がありました。それは洪水物語の直前でした。主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのをご覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」(6章5-7節)。神の独り言と言うより、神がご自分の心内を、打ち明けられるところ、と言い換えた方が良いですね。今まではそれを打ち明ける相手がいませんでした。ところが17節「わたしが行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか」と、アブラハムこそ、その打ち明ける相手だと、ここでおっしゃいました。そして18-19節で詳しくその理由も語られます。そして、アブラハムに対して、神の期待が非常に大きいことも、この言葉から分かりますね。
この言葉を一緒にいたアブラハムは聞いて、もちろん光栄に思ったでしょうが、期待の大きさにプレッシャーを感じたでしょうね。その期待に沿えなかった子孫が、ここを綴る時、どんな思いで綴ったでしょうか。期待できない者にも期待し続ける神の愛をひしひしと感じたでしょうね。また神はその愛を、神の民が神からどんどん離れて行くのに対して、後に「お前を見捨てることができようか。わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」と、預言者ホセアに伝えています。
さて次に第二の注目点、23節以下のアブラハムと神の問答のお話しをしましょう。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。」この問いから始まり、正しい者の人数が取り上げられ、問いの核心へと迫って行きます。最後は十人で終わっています。「滅ぼすまい。その十人のために。」と言い残して主は去って行かれました。「ではそこに五人いたら?」そして、最後に「一人いたら?」と続くはずの問いは、後の聖書が引き継ぎます。
例えば詩編14編2-3節「主は天から人の子らを見渡し、探される。目覚めた人、神を求める人はいないか、と。だれもかれも背き去った。皆ともに汚れている。善を行うものはいない、ひとりもいない」。神が人に近づけば近づく程、この事がはっきりして来る、これが私たちの現実です。聖書はそれを隠さず伝えます。
預言者イザヤは53章で、神が「見よ、わたしのしもべ」と呼ぶ、ひとりの人のことを伝えました。このひとりの人こそ、イエス・キリストです。キリストは天から「あなたはわたしの心にかなう者である」と声を受けた唯一正しい人です。神の御計画は、このひとりの正しい者を立てて、その者にだけ神の怒りを受けさせ、反対に私たちに対しては、信じて神に大胆に近づく事を求められました。これが神の計画です。エペソ3章9節はそれを「すべてのものをお造りになった神の内に、世の初めから隠されていた、秘められた計画」と伝えています。
神よ、正しい者と悪い者とを一緒に滅ぼして良いのですか?この神に対する高慢な問いをするアブラハムに対して、神は何と忍耐を持って対応されたことでしょうか。正しい者は一人もいないという現実を、神は知り、その人間の救いを考えておられたのです。十字架に磔にされるためにエルサレムへ登ろうとした時に「主よ、わたしを憐れんでください」と、大声で叫び続けた目の見えない人がいました。私たちが救われたのは、自分の正しさでは決してありません。私たちもこの目の見えない人の叫びを忘れてはならない。ミサ曲の最初はキリエ・エレイソン「主よ、憐れみたまえ」で始まります。神の憐れみに寄らなければ礼拝できません。教会はこの叫びが響くところです。お祈りの時といたしましょう。
2022年3月16日
創世記8章9~15節「イサク」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
今日は、アブラハムの妻サラが男子誕生のお告げを受ける物語です。毎年、教会ではクリスマス(降臨祭)の前に四週間のアドベント(待降節)の期間を定め、キリスト誕生までにあった出来事を振り返ります。その中にも老人ザカリアと、処女マリアが、天使から男子誕生のお告げを受けています。この三人を比較することによって、今日の聖書のポイントが、よりはっきりしてくるでしょう。特に二つの言葉に注目してください。一つは14節の「主に不可能なことがあろうか」です。もう一つは15節の「いや、あなたは確かに笑った」です。
天使からお告を受けた後、ザカリアは言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。マリアは言いました。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。そして、天使はそれぞれに重要な言葉を告げました。ザカリヤには「時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。マリアには「神にできないことは何一つない」。
サラの場合はどうでしょうか。彼女はお告げを聞いて、ひそかに笑い、自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思いました。そして主は「主に不可能なことがあろうか」と彼女に問われました。
それぞれの結果はどうでしょうか。信じなかったザカリアは、ことが実現するまで口が利けなくなりました。マリアは「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」、と言って自分の全ての主導権を主に開け渡して、お任せしました。そして、天使は去っていきました。
サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした」。ここを読んで、捕らえられたキリストの後を、隠れながら追いかけたペトロのことを思い出します。「確かにこの人も一緒だった」と周りにいる人から言われた時に、彼も「わたしは知らない」と、三回打ち消しました。そして、彼はそこから出て行って、激しく泣きました。ここに人間の現実の姿が表れていますね。その時にキリストが振り向いてペトロを見つめられました(ルカ福音書22章61節)。
皆さん、サラが言った「わたしが笑いませんでした」という言葉にも、人間の現実が表れていますね。それに対して主なる神が「いや、あなたは確かに笑った」と返されました。これは、サラの嘘を問い詰めるために、言われたのではありません。キリストが振り向いて、ペトロを見つめられた時と同じ思いで、主なる神はこの言葉を返されました。「サラ、嘘をつかなくていいのだよ。自分を隠したり、否定しなくていいんだよ。私の前では、あなたは、そのあなたのままでいいんだよ」。神を信じるとは、神の存在を信じる事ではありません。神に自分の全て明け渡す、お任せすることです。17章で、主なる神が二人の名前を改名されたのは、彼らにこの信仰を与え、彼らの未来に対する絶望を、希望に変え、彼らの人生を新たにするためでした。
私の想像ですが、アブラハムはサラに言いました。「サラ、実は私もお告げを聞いて笑ったんだよ、そして、その時に生まれて来る子の名も告げられたんだ。その名はイサク(彼は笑う)だよ」。「えっ、イサク(笑う)!」。二人は顔を見合したのではないでしょうか。私はここを読んで、神のこんな声が聞こえて来るように感じます。『案ずるな。わたしの言うことを、笑ったアブラハムとサラよ。今はそれでいいのだ。そんなあなたがたの信仰を、わたしが導くのだからから。』
さて14節の「主に不可能なことがあろうか」も私たちの心に響きますね。実にこれは聖書全体に響いている言葉です。遥かな将来、その答えが明らかにされます。十字架に処せられる直前、キリストはゲッセマネで祈られました。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。しかし、神はキリストから十字架という杯を取りのけられませんでした。それができなかったのではありません。あえて不可能となさいました。神の御心が、キリストを十字架の苦しみと死という、絶望の頂点に立たせることだったからです。
最後にキリストは「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」と叫ばれました。人が立つ絶望の頂点にあなたからの希望を期待します!と、私たちに代わって叫んでくださいました。神はその叫びにこたえ、キリスト死者の中から甦らされたのです。「人間には希望がある。どんなに深い絶望にも、わたしが希望を与える。主に不可能なことはないのである」。最後に聖歌を紹介します。「主に任せよ 汝が身を 主は喜び 助けまさん 忍びて 春を待て 雪は解けて 花は咲かん 嵐にも 闇にも ただ任せよ 汝が見を」。祈りの時といたしましょう。
2022年3月9日
創世記8章1~8節「旅人をもてなす」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★アブラハムが、三人の見知らぬ旅人をもてなし、会話を交わすのですが、その三人の内、二人がみ使いで、一人は主なる神ご自身だった、と言う物語が、この18章です。『アニメ日本の昔話』でしたら、「旅人には親切にしなさい」という善行の教えとなるでしょう。しかし、聖書が伝える旅人には、深い深い意味が込められています。その一端を、今日は皆さんに、お伝えできれば、と思っています。私がそこに居合わせたら、「アブラハムさん、暑い真昼ですから、熱中症にならないよう、天幕の入り口ではなくて、中の涼しい所でお休みください」と言うでしょう。なにせ九十九歳なんですから。
しかし、アブラハムのような、旅人として放浪する、遊牧民や半定住民にとって、この行為は重要なのです。11章27節から彼の家族のことが紹介されました。父テラは、故郷のカルデアのウル(現代のイラクのバグダット南東約300キロ付近、今は遺跡となっている)から旅立ちました。故郷を離れるという背景には、生きる悩み、厳しい生活事情が伺われますね。アブラハムの家族だけではなくて、当時はどこへ行っても、そのような立場の旅人がいたようです。今ウクラエルの人が戦争から避難して難民となっていますが、複雑なわけがあって難民となっている人々が現代沢山います。アブラハムの物語はその人たちのことを思い出す物語でもありますね。
この旅人をもてなす行為は、そういう環境で育った人々から生まれました。普通は涼しい時間に旅をします。しかし、暑い真昼に旅をする、と言うのは、わけのある人のすることです。ですから、一家の主人であるアブラハムは、暑い真昼でありましたが、テントの入り口に座って、そういう人をもてなそうとしたのでしょう。
テラの子アブラハムは父亡き後、こう思ったかも知れませんね。「私は父のような旅人ではない、定住した落ち着いた生活をしたい」。ちょうどその時、天地創造以来、人とこの世界に住む、生きとし生けるものの救いの為に、共に歩んで来られた主なる神が、新たな計画を始めるために、人を探しておられました。アブラハムを見つけ『旅人のアブラム、父を亡くし、死んだ弟の子を引き取り、妻には子宝が授からない、悲しみ、苦悩、辛さ、矛盾、絶望、を背負った、この人こそ、それに相応しい』と思われ、声を掛けられた、のが12章でしょう。神は救いの計画を表すのに、相応しいスタイルを発見しました。それが旅人でした。
★さて、新約聖書では、神に従う者の姿として、このスタイルを受け継いでいます。幾つかの聖句を紹介しましょう。「わたしたちの本国は、天にあります」ピリピ3章20節。「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを、手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て、喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり(口語訳や新改訳は旅人であり)、仮住まいの者である(口語訳や新改訳では寄留者である)ことを公に言い表したのです」へブライ11章13節。また、ヘブライ13章2節では、キリスト者に相応しい生活のすすめの中で、愛し合うことと、旅人をもてなすことを並べています。そして、旅人のスタイルをした天使を気付かずにもてなしたアブラハムのことを思い起こしています。
ローマ12章13節は旅人をもてなすことが、聖なる者の貧しさを自分のものとして助けることと並べて書いています。ベツレヘムの客間には、ヨセフとマリアと体内のキリストのいる余地がありませんでした。旅人を拒絶した事がキリストを拒絶したことになりました。マタイ25章35節では、終末にキリストが再臨される事を念頭に置いて、旅人をもてなすのではなくて、より以上に宿を貸すことに変えています。ここではもはや旅人ではなくて、その日のねぐらがない、最も小さな者と言い変えています。救いが完成する終わりの日、最も小さいものがキリストであったことが明かされ、今をどう生きるかという倫理が問われます。このように、神は、その救いの計画を表すのに『旅人』というスタイルを選ばれました。皆さんは、天を目指す旅人ですね。
★さて、現代の事情は違っています。自分の玄関に見知らぬ人が立っていたら、アブラハムとは正反対の事をするでしょう。ホームレスが訪れた時、わたしたちはどうするでしょうか。天の使いはもう今はいないのでしょうか。極端に、自分の家がホームレスの溜まり場にしなければ聖書に従っていない、というのでもありません。天の使いを信じることが大切です。すなわち、人との出会いを大切にすべきです。神は今も人を遣わされる方だからです。その人自身は遣わされていることを認識していないで、そういうことが起こっている、そういう中に私たちがいることを信じなさい、ということなのでしょう。私たちも天を目指す旅人なんですから。さてみ使いは何の用なのでしょうか。では、お祈りの時としましょう。
2022年2月23日
創世記17章3~27節「契約と割礼」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★アニメ「千と千寿の神隠し」で、日本各地から、八百萬の神々が、日々の疲れを癒すために、湯屋に集るシーンがあります。日本人の神観をよく表しています。非常に身近な神ですから、大阪では誰かを呼ぶように、例えば石切神社の神を「石切さん」、キリスト教会の神は「キリストさん」と呼んでいます。そう言う人に「キリスト教の神は契約の神である」なんて言ったら「堅苦しそうやなあー」、と言って敬遠されるでしょう。それでも、教会は、人と契約をなさる神を伝えています。なぜでしょうか。一つ、たとえを話しましょう。トイレに手摺を付ける家が増えて来ました。いざという時、手摺に全体重が掛かりますから、それを支えるために頑丈に造られています。神は体重ではなくて、皆さんの命を支えるお方です。最後まで責任を持ち、たよれるお方です。ですから、契約を抜きには人との関係が考えられない、誠実で真実なお方なのです。
★また、神はロマンチストなお方です。アブラムを満天の星空のもとに連れ出されて話しをされました。神の猛烈なアタックを受け、彼は神を信じる者となりました。その後で神は初めて契約を結ばれました。聖書は、神は契約を切られた、と綴っています。それが命のかかった正式な契約だったからです。その内容は、子孫の増大と、子孫が土地を所有することでした。
今回も神はアブラムにアタックされます。初めて彼に現れ、「わたしは全能の神である」と、力強い言葉を掛けられました。前回お話した所ですね。その時に、神は再び契約を結ばれました。内容は前回と同じ子孫の増大と、子孫の土地の所有ですが、プラスされている内容になっています。例えて言うなら、以前は裸眼で、ざっと見ていましたが、今回はメガネをつけて見えなかった所もハッキリ見えるようになった、という感じです。
★子孫の増大に関して、アブラムの子孫が国民となります。すなわち王がその中から出て国が興されます。アブラムとサライから生まれる子どもから、その国民が生まれる、という意味で、アブラムはその国民の父、サライは母となります。彼らがその国だけではなくて、諸国民の父母と呼ばれる程に、その国は繁栄します。神が二人に改名を命じられます。この契約を彼らの記憶に、また、その子孫の記憶に、刻み付けるためなのでしょう。というのは、この後で、神は身体への刻み付けのことも命じられるからです。そして、今回アブラムだけではなくて、神は、彼の子孫との間の永遠の契約とされます。そして、神は土地の所有も、子孫に対して永久の所有地として、与えることを約束されます。この様に、神がなさる契約のことが、今回より詳しく見えて来ました。
★しかし、ここで一番注目して欲しい、新たに見えている所があります。7節と8節の後半です。この契約の目的を、神御自身が明かされます。要約すると「わたしは、あなたの、神となる」です。これは非常に重要な言葉です。聖書を団子に例えると、この言葉は一つひとつの団子を刺し貫く、一本の串のようなものです。神は、時代の中を生きる、生身の編集者を用いて、沢山の文書という団子を作成させ、その団子を並べ組み合わせる、編集作業をさせ、串団子のような聖書をつくられました。
★創世記を読み始めた時に、想定される編集者を紹介しました。アブラムの子孫が興した国が外国に滅ぼされ、戦勝国の捕虜として、異国で生活した祭司達です。彼らは神の民と言われていましたが、今や民は離散し、国土は奪われ、神殿も破壊され、神との関わりを示すものは一切無くなり、失望の中にいました。その時に、この二回目の神とアブラムの契約を彼らが綴るよう、神は導かれ、この串になる言葉を入れました。後に「あなたはわたしの民となる」が付け加えられます。「わたしが、あなたの神となり、あなたはわたしの民となる」この言葉は、聖書が伝える神の福音の真髄です。
★さて、この様な流れの中で、神は「あなたも、わたしの契約を守りなさい」と言われます。一見、神と人の双務契約の、人の為すべきつとめのようですが、内容は、この神がなさる契約の永遠の確かさを、人が忘れないために、神が与えたしるしのことです。神は男子の包皮を切り取る割礼を、そのしるしとされました。家族だけではなくて、国籍に関係なく、その家にいる奴隷も含めて、一家全員の男子が行ないました。行なわない者は、契約を破ったから、民の間から絶たれる(すなわち、それは生きて行けないということ)、そういう厳しさが14節に含まれています。この背景に、先程話しました編集者の祭司が経験した、神との関わりが一切無くなってしまった現実があったから、こういう厳しい面があると思います。割礼はしるしであって、大切なのは神のなさる契約です。
★さて、神のイサク誕生の計画に対してアブラムが笑い、反対意見を述べたが、神は、笑ったという意味のイサクの命名と、契約の再確認と、イシュマエルへの好意と言う、ユーモアと愛溢れる対応をされました。憐み深く、恵みの富、忍耐強く、慈しみと、まことに満ちる神ですね。アブラハムはこのような神との交わりを通して、22章のイサク奉献の信仰へと、造り変えられて行きます。後に使徒パウロも、割礼の有無は問題ではなく、大切なのは新しく創造されることです、と綴ります。私たちも続けて聖書に親しみ、神との交わりを深め、造り変えられたいですね。次回をお楽しみに。それでは、祈りの時といたしましょう。
2022年2月16日
創世記17章1~2節「神のものとされる恵」
メッセージはこちら
皆さん、昨年4月から創世記を読んで、10か月が経過しました。神のこと、自分のこと、この世界のことに、何かピピっと、来ましたでしょか。来たという人も、まだボヤーッとした感じの人も、続けて読んで行きましょう。これは旅のようなものです。信仰の旅は、昔から羊飼いが羊を連れて、ゆっくりゆっくり進む様なもの、と言われて来ました。アブラムが神から声を掛けられて、信仰の旅に出てから、24年目の99歳になった時に、今までに無く、神のことを明確に示された経験をしました。私たちも信仰の旅を続けている中で、同じ様な経験をします。17章のアブラムの経験に注目しましょう。
★神は救いに関して全能です。1節「わたしは全能の神である」。神はどんなことでも出来る、と思うでしょうが、救いの業を行なう上で、神は全能なのです。神は、100歳のアブラムと90歳の妻サライとの間に子が生まれ、その子孫を通して、神の救いのわざを進める計画を立てられました。18章で、サライはその計画を聞いて笑いました。その時におっしゃったのです。「主に不可能なことがあろうか」。神は救いの業においてのみ、ご自分が全能である、と言われます。
大ざっぱですが2000年後、この救いの計画が大詰めになります。おとめマリアが神の力によって、神の子キリストを産む事を、天使ガブリエルが告げますが、マリアは信じられません。それで祭司ザカリアの妻エリサベツが、高齢の中、ヨハネを既に身ごもっていることを告げて、最後に言います。「神にできないことは何一つない」。これも、救いの業に関しての神の全能のことです。
弟子達が「この人こそ救われるべき人だ」と、思っていた金持ちの人に対して、キリストが「金持ちが救われるより、らくだが針の穴の中を通る方が易しい」とまで言われたので、「それでは、誰が救われるのだろうか」と非常に驚いた時がありました(マタイ19章25-26節)。その時にキリストが言われました。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」と、救いに関しての神の全能を話されました。礼拝の中でする毎週告白します使徒信条に、我は全能の神を信ず、が含まれています。その時に思い出して下さい。救いに関して全能である神を我は信じる、すなわち、我は救いの神を信じる、と言う告白なんです。
★神の前を歩む者であれ
「あなたはわたしに従って歩み、全き者となりなさい」。神が自らを人間に明かすとは、神が人と関係を持つために、近付かれる時です。神が命じ、人がそれに従う、そう言う自然な関係が、ここに築かれようとしています。アブラムが最初に主なる神の言葉を聞いて、信仰の旅に出発した12章を思い返すと、あの時は行先も知らないが、神御自身がどなたなのかも知らないで、信仰の旅に出発しました。皆さんも、躊躇なさらず、キリスト教のこと、聖書のこと、詳しく分らなくても、良いのです。早く腰を上げて、まずは出発して下さい。
さて、原文は「あなたはわたしの前を歩み」となっています。アブラムが最初に聞いた神の言葉は12章1節「わたしが示す地に行きなさい」でした。神が先だって「こっちだよ」と示されるので、神の後について行くことになります。以前、ノアは神と共に歩んだとありました(創世記6章9節)。しかし、17章では神の前を歩めと言われます。これこそ、最も神への信頼を必要とする歩き方です。
★全き者であれ
この神への信頼を持って歩む為に、「全き者となりなさい」と言う命令が加えられています。「全き」とは「完全」。完全は、人にはあり得ない事です。全面的に神に由来しなければ完全ではありません。ですから、人が完全な者になり得る可能性はただ一つです。神に属している、神のものであることです。全き者である事は、全く神に属し、神のものである、と言う所に立つことになります。
礼拝の招きの言葉として、代表的なものに詩編100編があります。「全地よ、主に向って喜びの叫びをあげよ。喜び祝い、主に仕え、喜び歌って御前に進み出よ」。礼拝は神の前に出る時です。そして、その時に何をするのかを続けて歌います。第一に神を知ることです。「知れ、主こそ神であると。主はわたしたちを造られた」。第二はその神を礼拝する自分を知ることです。「わたしたちは主のもの、その民、主に養われる羊の群れ」。自分は主なる神に買取られ、その所有となっている。この神さまとの関係の確かさに立って、全き者でありなさい。そして、わたしの前を歩みなさい。アブラムの新たな歩みが始まりました。
皆さんは、誰のものですか。「私は私のものだ」と思うのですが、現実は自分の思い通りなりませんね。他のものの支配下にあるからです。皆さんは誰の支配下に入りたいですか。人に命を与え、その人生と、死後のことも全て、最善に導き救う事のお出来になる、全能の神は、独り子キリストの命を捧げて、色々な支配下にある皆さんを、神のもの、神の支配の中に入れ、全き者として下さいます。さあ、私たちも旅を続けましょう。では、祈りの時を持って下さい。
2022年2月10日
創世記16章7~16節「顧みられる神」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
★百合香牧師と結婚することを決める前に、わたしは主に祈りました。「神さま、わたしは、この人と結婚すべきでしょうか、すべきでないでしょうか?教えてください」。そしたら・・・皆さん興味津々ですね。残念ながら、何の答えもありませんでした。それは自分で決めなさい、ということだったのでしょう。
★数え切れない、子孫に恵まれる約束を、主から頂いたアブラムが、15章で、子どもが与えられないので、跡継ぎをダマスコのエリエゼルに決めた時も、祈ったでしょう。しかし、何の答えもなかったようです。決めた後から、主は「その者が跡を継ぐのではなく、あなたから生まれる者が、跡を継ぐ」と、答えられました。
★また16章ではサライから代理出産の提案が出されました。「サライ、この件、主に祈ってから返事をする」なんて、かっこ良く答えた、とは書いていませんが、即答したのではなくて、「主よ、このサライの提案はどうなのでしょうか?教えてください」と祈ったんじゃないでしょうか。これも答えを頂けない中、彼はサライの願いを聞き入れる決断をしました。その答えは17章で、すなわち13年後の、アブラム99歳の時に、与えられます。
★皆さん、祈りって、答えが返ってきた、返ってこなかった、ではなくて、神とのホットラインを持ち続ける事ではないでしょうか。アブラムが主の言葉を聞き逃さず、また素直に聞いたのは、主とのホットライン、すなわち、信頼関係を持ち続けていたからですね。主は私たちの祈りや願いを聞いておられます。しかし、答える時と方法は、主がお決めになります。新約聖書のフィリピ4章6節の言葉も、この信頼に立っています。
★さて、エジプト人である奴隷ハガルに、アブラムの子を代理に宿らせ、サライの子とする計画が、想定外のハガル逃亡のゆえに頓挫してしまった事件は、これから旧約聖書1502ページにわたって綴られる、アブラハム、イサク、ヤコブの神の救いの歴史という、メインテーマからは外れた内容です。世の王の跡継ぎ計画から外された者は、用なしと見なされます。世の法則から考えると、逃亡者ハガルには、もはや目を留める必要はありません。ところが、主なる神はハガルを、モーセ以前に、主の御使いと初めて会う人物に、そして、神を見たことを初めて告げる人物に選んで、目を留められたのです。
★8節「サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。見知らぬ人なのに、自分の素性を言い当てたので、驚いたでしょうね。少女ハガルは正直に答えます。しかし、二番目の質問、どこへ行こうとしているのかには、答えられませんでした。逃亡奴隷であり、未婚の母であり、奴隷として売られた彼女には、エジプトの実家や親戚のような、帰る場所がありませんでした。ハガル、お前の帰る所は女主人サライの所だ。そこで従順に仕えることだ、そこしかないのだよ、と主は諭されました。
★さて、私たちは逃亡中の奴隷ではありませんが、この主の使いの質問に、ドキッとされる方がおられます。「あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」。あなたの命は、どこから来て、どこへ行くのですか、と自分の存在が問われる質問に聞こえるからです。同じ事を取り上げている新約聖書を紹介します。ローマ11章36節、コリント第一8章6節、ヘブライ2章10節。
★9節主の使いは言った「女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい」。ハガルは言った「お言葉を返すようですが、その女主人が私につらく当たるので、どうしようもなく逃げて来たのです」。「主人サライは、お前に軽んじられたと、嘆いている。お前はどんな態度で主人と接したのか」。「いいえ、そんなことをした覚えがありません」。と言うようなやり取りはありません。ただハガルが女主人のもとに帰り、無事出産した結果だけを伝えています。何がハガルに、180度の変化を起こさせたのでしょうか。御使いが伝えた三つの事に注目してください。
★第一は、彼女の子孫を、数えられないほど多く増やす約束です。これはアブラムが頂いた約束と同じです。第二は、宿している子が男子で、神が命名されます。アブラムは息子イサクを自分で命名しています。第三はその子の将来の運命です。和を好む日本人にはこの運命は受け入れがたい内容ですが、町の人と共に生きるのではなくて、野を移動して生きる遊牧民になることだそうです。み使いが多くの事を伝えましたが、ハガルは大丈夫でしょうか。しかし、ハガルはちゃんと要点だけはしっかり受け取ったようです。未婚の母になるのですが、ちゃんと子育てして、子孫も残るが、要点は、息子の名が、主があなたの悩みを聞かれる、の意味であるイシュマエルと神が命名されたことです。ハガルが生涯、息子の名を呼ぶ毎に、主が彼女の悩みを聞かれる神である事を、思い起こすようにと、神の配慮が注がれた名でした。
★ハガル自身、御使いとのこの出会いを、どう受け止めたのでしょうか。13節でそれが明かされます。主の御名を呼ぶことは、4章26節でアダムの三男セトが最初で、次にアブラムが12章8節でしているのですが、どう呼んだのかは記されていませんでした。ところがハガルが「わたしを顧みられる神」と呼びました。顧みるとは、見るという語です。
今までにない特別な体験をしたのでしょう。そして、不思議な一文が加えられています。「それは、彼女が、『神がわたしを顧みられたのちもなお、わたしはここで見続けていたではないか』と言ったからである。」です。旧約の原語ヘブル語の翻訳は難解で、ここもその一つです。まず神がハガルを見られました。そのあと、ハガルは神を見続けた。神の後姿を見送った。そう読める所のようです。ハガルの体験と似ている例を紹介します。
★神の裁きつかさとして、選ばれる士師サムソンが生まれる前に、父マノアとその妻が天に帰る御使いを見送った後、マノアが妻に「わたしたちは神を見てしまったから、死なねばならない」と言いました(士師記13章21-22節)。ハガルも神の後ろ姿を見送ったが死ななかった経験をしたのでしょう。そして、そこが記念の場所と定められました。ハガルから始まるイシュマエル族にとっては、聖なる場所でしょうね。
★主なる神は、アブラムの家系から外れてしまった、イシュマエル族の先祖ハガルに、耳を傾け、目を留められました。私たちの主イエス・キリストも、神から外れてしまった、神に見捨てられた、と思っている人々の所へ行って、耳を傾け、目を留め、手で触り、そうでないことを伝え、それから十字架にまで、死にて葬られ陰府にまで、完全に神に見捨てられた所まで行かれました。その時に神はキリストを復活させて、全くそうではないことを宣言されました。サライのもとに戻ったハガルのように、主に信頼して歩みましょう。
2022年1月26日
創世記15章7~21節「遥かに望む約束」
メッセージはこちら(聖書朗読)
メッセージはこちら
7節にあるように、神は御自分を紹介するのに「わたしは あなたをカルデアのウルから 導き出した主である。」と具体的に言われました。例えば十戒をお授けになる時に、神は「わたしは主、あなたの神であって、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」と言われました。出エジプト20章2節。ですから、私たちの神は非常に個人的な関係を持たれる神です。すべてのクリスチャンは、ある時ある所から神によって導かれた、と言う特別の体験を持っています。これを神の召しと言います。
クリスチャンは神に関する生き証人です。立派なあかしよりも、確かな証言が優れています。証人は自慢しません。ヨハネ福音書15章16節に「あなたがたが、わたしを選んだのではない。わたしが、あなたがたを選んだのである。」というキリストの言葉があります。証人は、すべてが神の憐れみと恵みによっていることを、心に留めます。
さて、神は人を召して約束を与えられます。アブラムから出た者を跡継ぎにする約束は、後に神がイサクを与え果たされました。もう一つは土地を与え、それを受け継がせる約束でした。皆さん、神の約束には、私たちが生きている間に、見ることができない部分があります。13節以下、アブラムの場合は400年以上先の子孫において約束が果たされます。聖書ではヨシュア記でアブラムの子孫たちが、どのようにして土地を得たかが記されています。
15節、アブラムは約束の実現を見ないで安らかに永眠します。しかし決して不幸なことではありません。新約聖書のヘブライ人への手紙は11章13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを、手に入れませんでしたが、遥かにそれを見て、喜びの声をあげ、・・・天の故郷を熱望していたのです」と、16節まで綴り、アブラムの事を追憶しています。
さて、後に、信仰の模範とされるアブラムは8節で、約束の実現を保証するしるしを神に求めました。神を信じているのなら、保証するしるしはいらないのではないか、と言われる方は、非常に強い立派な信仰をお持ちの方でしょう。しかし、神は、その方から見たら、信仰の弱い者を切り捨てず、むしろ気に掛けて下さるお方です。9節以下に注目しましょう。人を信じさせる、手っ取り早い方法は、驚くような不思議な奇跡を起こすことです。しかし、神はそのような方法を取られませんでした。
11節までの、血生臭い内容は、昔その地方で行われていた、公式の誓約方法だったそうです。エレミヤ34章18から19節が参考になります。「わたしの契約を破り、わたしの前で、自ら結んだ、契約の言葉を履行しない者を、彼らが契約に際し、真二つに切り裂き、その間を通ったあの子牛のようにする。ユダとエルサレムの貴族、役人、祭司、および国の民のすべてが、二つの切り裂いた、子牛の間を通った」。つまり、契約を破った場合、この動物の様に裂かれても構わない、という誓約なのです。神を見た者は死ななければなりません。それで神は、17節の煙を吐く炉、燃えるたいまつ、となって二つに裂かれた動物の間を通られ、神ご自身が誓約される、という驚きの行動を、とられました。
18節で初めて契約と言う言葉が出て来ました。神は契約する神です。旧約聖書と新約聖書は、旧契約聖書と新契約聖書のことです。主はアブラムと契約を結ばれましたが、原文は「契約を切る」となっています。契約と聞いて皆さんの頭に浮かぶのは、署名捺印する行為ですね。しかし、主がなさった契約は、命あるものを切って血が流される、命を懸けた契約なのです。
神は後にキリストを遣わして、この契約の血を流されます。最後の晩餐の時、キリストは杯を取り、「皆、この杯から飲みなさい。これは罪が赦されるように、多くの人のために流される、わたしの血、契約の血である」と言われました。マタイ26章27-28節。このように、弱い私達に対して神は最高の対応をされます。ですから、私たちは、この神の行為に 心燃やされます。弱さを担いながらで、よいのです。神はあなたにも言われます「わたしは、あなたを、あの時、あのところから召し出した主、あなたの神である。信仰の旅を続けなさい」。
コロナウィルス感染の猛威が振るっている中ですが、皆さん、進みましょう。
詩編46:2-4を贈ります「神は わたしたちの 避けどころ、わたしたちの砦。苦難の時、必ず そこにいまして 助けてくださる。わたしたちは 決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで 海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに 山々が震えるとも」。 お祈りの時といたしましょう。
2022年1月19日
創世記15章2~6節「信仰は恵み」
メッセージはこちら
★12章1節で、初めて主から「わたしが示す地に行きなさい」、との言葉を頂いたアブラムは、その言葉に従って旅立ちました。そして、カナンのシケムに到着した時、主から7節の「あなたの子孫にこの土地を与える」、との言葉を頂いた時、彼はその頂いた言葉に対する反応として、主の為に祭壇を築きました。しかし、カナンを後にして山地へ、そしてネゲブの荒れ野へ、祭壇を築きながらですが進みました。13章でロトと別れて、カナンに戻る時に、主は「見える限りの土地をすべて、わたしは永久に、あなたとあなたの子孫に与える」と言われました。アブラムはその言葉に答えて、カナンのヘブロンにあるマムレの樫の木のところに行って住み、引続き主の為に祭壇を築きました。このようにアブラムは主の言葉に対して黙ってですが、何らかの応答をしながら、手探りで信仰の旅を続けて来ました。
★ところが14章に入って、アブラムは思いも寄らない戦いを経験しました。その結果、旅人のアブラムは、地域にしっかり根ざすアブラムになりました。その辺りを先週は、私の想像を交えてお話しをしました。このアブラムの立場の変化に対して、神は素早く反応され、二つの力強いメッセージを送られました。あまりに力強いメッセージだったので、わたくし、張り切ってしまいまして、1節だけでお話を終えてしまった、という次第でした。
★さて、このアブラムの立場の変化は彼自身にも変化を与えました。今までしたことがなかった、神の言葉に対して彼は初めて言葉で返します。「わたしに何をして下さると言うのですか」。皆さん、これは単なる質問ではありませんね。神の言葉に言葉で返すこと自体、神への冒涜である、とココを読んで解説する方がおられる程です。私たちも2節3節を読んで、神の約束と自分が今立っている現実との、隔たりの大きさ(ギャップ)、矛盾をアブラムは訴えているのだ、と察しますね。なぜなら、信仰の旅路を歩んでいる私たちも、これを経験しているからです。「神さま、今日は、ちょっと、言わせてもらいます・・・・」と、アブラムが私たちに代わって言っている、と言う思いで読んでみて下さい。
★さて、神の反応は?4節「見よ、主の言葉があった」。その内容は、叱責の言葉ではなく、優しく諭す言葉でした。あなたの後継ぎは、世の中の習わしで定められるエリエゼルではない。あなたから生まれる者が後継ぎである。これはわたしが定める事である。あなたは、まだわたしの事を分かっていない。さあ、アブラム、外に出て天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。そして、わたしが誰であるのかに気付きなさい。
★星の数は人間には数えられません。分かりません。なぜなら、全ての星は見えないからです。雲に隠れていたり、都会だったら、他の光が強いために見えません。私たちは見えていないのです。それなのに見えているかのごとくに、神さまの言う事と、この現実はかけ離れてはいませんか、なんて思ってしまいます。天地創造の神は、星の数をすべて数えることがお出来になるお方です。
★この神とアブラムのやり取りを読んで、私はヨブ記を思い出しました。無垢な正しい、神を畏れ、悪を避けて生きていたヨブに、災難が振りかかりました。それを神がお許しになりました。この矛盾した神の対応について3章から37章まで、丁度アブラムがひとこと申したように、語り尽くされます。すると、その後で、神は、星の数の事どころではなくて、この世界のあらゆる現象や仕組みについての、「ヨブ、お前はそれを知っているのか、お前に出来るのか」と、あらゆる質問攻めをされました。そして、神がどなたであるのか、ヨブの目を開かれました。
★神は以前、13章16節でロトと別れたアブラムに、天を仰ぐのではなくて、地を見渡すように命じられました。その時、「あなたの子孫を大地の砂粒のようにする。大地の砂粒が数えきれないように、あなたの子孫も数えきれないであろう」と同じ様な事を言われました。しかし、その時「大地の砂粒の数を数えることができるなら、数えてみるがよい」とは、おっしゃいませんでした。ですから、今日読みました15章5節の「天を仰いで、星の数を数えることができるなら、数えてみるがよい」という神の言葉は、神が今までに語った言葉でない言葉を持って、特別にアブラムに近付かれた事を示しています。そうしましたら、「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という、今までにない信仰者アブラムの姿が突如として登場する事からも、神の御取り扱いを受けたと思われます。
★皆さん、私たちの信仰も、御言葉を通して、神が近付かれ、神の御取り扱いを受けた結果与えられた恵みですね。聖書と祈りの時、続けてまいりましょうね。今日はここまで。次回は7節から最後まで行けるでしょうか。お楽しみに。では、お祈りの時といたしましょう。
2022年1月12日
創世記15章「主の宣言二つ」
メッセージはこちら
四つの王国の精兵を相手に夜襲をもって追撃し、親族ロトを含めて奪われたものを全て取り返えしたアブラムはどんな思いだったでしょうか。出迎えてくれた二人の王と別れた後、その夜のマレム兄弟との打ち上げの宴席でコンなやり取りがあったのではないでしょうか。「なあ、アブラムさん、わしらとズーットここで暮らさんかのー。あんたが居たら鬼に金棒じゃ」と言う声も上がったのではないでしょうか。「いやー、そんなことありませんよ。皆さんの加勢があったからロトを救出できました。こちらがお礼を言わなければなりません」。「わしらは四兄弟みたいなもんじゃ。なあ、みんなそう思うじゃろ?」。「わしらも皆そう思うとる」。「そう言ってくださるだけで、うれしいです。ただ、その返事は今はまだできません」。
すると15章の冒頭の「これらの事の後で」という言葉が重要になります。神はすぐに御言葉をアブラムに与えました。地の塩、世の光として、孤立でも融通でもなく、共に生きて行く中で、神は御言葉をもって私たちを導かれます。
「わたしはあなたの盾である」「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」この二つの主の言葉が幻の中でアブラムに臨みました。盾という言葉は詩編の作者がよく使う言葉です。例えば3編4節「主よ、それでも あなたはわたしの盾。」18編31節「すべて御もとに身を寄せる人に 主は盾となってくださる」。また皆さんは新約聖書のエフェソの信徒への手紙で、クリスチャンが身に着ける神の武具の中で、信仰を盾として取ることによって、悪い者の放つ火の矢をことごとく消すことができる、とあるのを思い出すでしょう。これらの盾が守るのは,弓によって射られた矢ではありません。私たちが信仰を持つ時に飛んで来る「神のことは考えなくていいじゃないか。信仰のことはちょっと横に置いとけば