主日礼拝
2025.1.12
「悲しみのリュックサック」マタイによる福音書5章4節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
マタイ5:4 詩篇126:5-6 黙示録21:3b-4a
悲しみの反対は喜びですが、慰められるとあります。イエスさまは慰めを豊にくださる神(コリント二1:3)をここで伝えておられます。慰められるのは、前に進めない人を進ませるためです。ですから、今日、神は2025年を進み出そうとしている皆さんにも前に向かって進むようしたもうとしている皆さんに前に進むようにと、語られます。悲しむとは、心を痛めること、と辞書で説明されています。心の痛みを和らげることはできます。しかし、その傷は残ります。心ではないのですが、私の右目の横に古傷があります。小学校5年生の時に交通事故で切りました。今も鏡で見て触ると、その事故を生々しく思い出します。心の傷はもっと深いです。人にはどうすることもできない事です。ですから、悲しむことは非常に不幸なことです。しかし、イエスさまは今日皆さんにキッパリと言われます。「わたしが神から遣わされて来た今、悲しむ人々は不幸ではなくて、さいわいである。なぜなら、その人たちは必ず神さまによって慰められるからである」。
イエスが来られる前に、神は旧約聖書の詩篇126編5-6節でも、悲しみを体験した人の歌を通して語っておられました。その歌とはこれです。
「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。
この歌を作詞した人も「お前の神は何をしているのだ。お前は神に見捨てられているのだ。そんな神を信じて何になる」と言われていました。しかし、この人は神によって気付かされました。涙と共に種を蒔こう、悲しみの種を入れた袋を背負って進もう。神は必ずその種を収穫に、喜びに変えて下さる方だ。この詩編は伝えています。悲しみを背負って神に向かって進もう。
みなさん、子どもの頃、リュックサックを背負って遠足をしたことを思い出してください。入れるものの中のビッグ3は、お弁当、水筒、おやつですね。遠足の場所よりも、友達とシートを並べて敷いて、お互いその三つを取り出して楽しい時間を過ごすのが遠足で一番の幸いでしたね。それと同じ様に、私たちは魂のリュックサックに悲しみを詰めて、それを背負って天国に行くのです。天の花園で神さまと一緒にそれを取り出すのです。それはそれは幸いな時です。天国って、そう言う所です。
この聖書を編集する時に一番最後に、ヨハネの黙示録を持って来たのには理由がありました。ヨハネの黙示録は、最後にもう一度天国へ行く用意のチェックリストの様なものです。
黙示録21章1節「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た」とあります。天国がどう言う所かをヨハネは見ました。3節「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目から涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦も無い」。
天国、そこは背負って来た悲しみのリュックサックを下ろし、神に直接お見せする所、お渡しする所です。神はあなたの目から涙を、心の痛みも、傷もことごとく拭い取って慰めてくださいます。
皆さん、イエスさまがクリスマスに私たちと同じ人間としてお生まれになったのは、人間として最初に悲しみのリュックサックを背負って神に向かって進むためでした。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言って十字架と言う悲しみを背負って神に向かって進まれました。神はイエスさまを死人の中から甦らせて、悲しみを喜びに変えられました。キリストは言われます。あなたの悲しみは神のもとまで背負うリュックに詰めなさい。
悲しみは非常にプライベートなものです。自分の心の中にしまってあります。それを自由に、何の気兼ねも、何の心配もなく、外に出せる、外に露にできる、その場所が悲しみのリュックサックです。イエスさまがその場所を作って下さいました。2025年をスタートさせたあなたはそのリュックサックをお持ちでしょうか。イエスさまはあなたの分もちゃんと用意して下さっています。
5章1節を振り返りましょう。イエスさまは、弟子たちが近くに寄って来た時に、この話をなさいました。弟子たちにおっしゃりたかったのです。「悲しみのリュックサックを持っていますか。わたしからそれを受け取りなさい。そして、私と一緒に神に向かって進みましょう」。今日、ここに集まった皆さんにもイエスさまは同じことをおっしゃいます。「わたしにもっと近づきなさい。自分の心の中にしまってある、誰にも打ち明けられない、心の痛みや傷を、自由に、何の気兼ねも、何の心配もなく、外に出せる、外に露にできる、その場所をあなたのために用意しています。それはわたしが作った悲しみのリュックサックです。それが今あなたに必要ではないですか。悲しみは心の中に秘め置くのではなくて、わたしが用意しているリュックサックの中に入れなさい」。イエスは悲しみの人(イザヤ53:3多くの痛みを負い病を知っている人)ですから、慰めることのできるお方です。それを背負って進みましょう。弟子たちの様にイエスの後に着いて行きましょう。
2025.1.5
「心の貧しい人に幸あれ」マタイによる福音書5章3節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★ここに幸いがある
皆さん、キリストはここで、幸いの定義をしているのでも、幸いの秘訣を教えているのでもありません。キリストはここで叫んでおられるのです。「『この世界には幸いなんか無いんだ』と言われているが、そうじゃない。ここに幸いがある」と。キリストがそう叫ばれた場所はガリラヤと言う所でした。そこはどんな所なのでしょうか?4章15節そこは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれています。異邦人とはどんな人なのでしょうか。
★異邦人ガリラヤ
新型コロナウィルスが発生した武漢に日本政府はチャーター機を派遣しました。その目的は?『邦人』を避難させるためです。邦人とは日本国籍を有する人、日本政府が守る対象です。それ以外の人は異邦人扱いですからチャーター機には乗れません。日本に留学し就職し20年間日本在住後、永住権を得た人が、丁度その時に故郷武漢で出産しました。彼女は国籍がなかったので乗れませんでした。在中国の貧しい国の国籍の外国人が、富んだ国のチャーター機を羨ましく見つめる光景がありました。
「異邦人ガリラヤ」という地名も、この様な不幸や理不尽な矛盾がある場所でした。皆さん、私たちが生きている現代も、異邦人のガリラヤと同じ様な状況が起こっています。例えば誰かが幸せになったら、その反対に誰かが不幸になる、という矛盾が起こっています。都市の電気が賄われる代わりに、原発のある地域に大きなリスクを負わせる矛盾。日本本土を守るために設置された基地と、その基地のゆえに苦しむ人がいる矛盾。この世界に本当の幸せと言うものがあるのだろうか、と思わされるのが私たちの現実です。
★光
皆さん、元旦礼拝でイエスさまに向かって進むことがこの2025年という旅の原動力になる、と聞きました。イエスさまが故郷ナザレを離れ、救い主としての活動を異邦人ガリラヤで始められたことは、イエスさまのおられる方向を示すキーポイントです。1ページ前のマタイ4章12-16節に注目して下さい。預言者イザヤは、異邦人のガリラヤの地を暗闇、死の陰の地と言いました。そして、その地に住む人が光を見、上からそこに光が射し込むと、イザヤは言っていました。イエスさまが来られ、救い主としての活動を始められることによって、このイザヤが言っていたことが実現しました。イエスさまが弟子を選び、大勢の群衆が集まり出しました。イエスは山に登って腰を下ろし口を開いて教えられた時にそれが実現しました。この光とは「ここに幸いがある!」と叫ばれるイエス・キリストでした。
★幸いの逆転
5:3-10節にある8種類の幸いな人々は、一般に不幸だと思われる人々です。しかしキリストはそこに光を射し込まれ、幸いの逆転を起こされます。この逆転に注目しましょう。
ルカ福音書はこの逆転が起こった一人の貧しい人で、全身皮膚病のラザロのことを伝えています。彼の側に来てくれたのは彼の皮膚を舐める犬だけでした。なぜ彼がそんなことになったのでしょうか? 聖書はその理由を伝えていません。また、彼が神を恨んだことや、絶望したことも伝えていません。彼がただ金持ちの食卓から落ちるもので飢えをしのいでいたことだけを伝えています。
皆さん食卓から地べたに落ちたものを食べますか?捨てますね。主人の食卓から落ちるパン屑を、食卓の下にいる子犬はそれを食べて良いのです。それは神が子犬に備えられた食べ物だ、という理解がなされ、誰も文句は言いませんでした。つまり、ラザロが金持ちの門前に横になったのは、神を信じて、自分の人生を全て神に任せて日々を生きた、ということでした。
そんなラザロが死んで、天使たちによって天の御国の宴席に連れて行かれました。その席は信仰の父と呼ばれるアブラハムのすぐそばでした。金持ちは陰府で苦しみました。幸せの逆転は神を信じて自分の人生の全てを神に任せた心の貧しいラザロに起こりました。
皆さん「貧しい者」に「こころ」が足されているのは、私達に神を信じない、神に任せない心があるからです。神は初めに人に心をお与えになりました。神を信じ神にお任せする心を人が持てば、この地上で共に歩めるし、死んだ後は天国に行けるからです。しかし、人の心は富み高ぶってしまいます。蛇がアダムとエバに誘惑したのは神を疑わせ、心を高ぶらせるためでした。最初の王様サウルは神よりも民の声に動かされ、神を信じ神に任せることをしなかったので、王位から降ろされました。神は次の王にまだ幼い少年ダビデを選ばれた時に言われました。「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る。サムエル上16:7」。「主のみこころであれば、私は生きながらえもし、この事あの事もしよう」という心を失ったら、高ぶりが生まれます(ヤコブ4:13-16)。
イエスさまは幸せの逆転を起こして下さるお方です。イエスさま自身においてこの世界に決定的な価値が逆転する三つの出来事が起こりました。
一、神の独り子イエスが神であることを捨てて人となられた、と言うクリスマスの出来事自体が逆転です。
二、神はイエスの命を罪人の為に捧げることによって、罪人に対する神の愛を明らかにされました。善人ではなくて罪人の為に命を献げると言うのは、まさに逆転です。
三、神は十字架で苦しんで死んだイエスを死人の中から甦らせ、それも眠りに就いた人たちの初穂として甦らせ、死に支配されている私たちに逆転が起こる事を約束されました。
ですから、神を信じ全てを神にお任せして人生を歩む者、心の貧しい者は、如何なる状況にありましても幸いです。世界のはじめに「光あれ」と言われた神が遣わされた、光なるイエス・キリストは言われます。ここに幸いがあります。「心の貧しい人々は、幸いである。天国はその人たちのものである」。
2025.元旦礼拝
「神に導かれる一年」マタイによる福音書2章1~12節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
新しい年2025年を一年間の長い旅行と考えた場合、車で行くならガソリンが必要です。電車や飛行機で行くならチケットが必要です。では、私たちは出発するのに何が必要なのでしょうか?
12月25日に産まれたイエスさまと、ママのマリアとパパのヨセフもお正月を迎えました。その時に起こった不思議な事がヒントになります。
ラクダに乗って見知らぬ人たちが突然赤ん坊イエスを訪ねて来ました。
「ごめんください」
「はーい。どなたさまですか?」
「決して怪しい者ではありません。東の国から星学者です。赤ちゃんへのプレゼントを持ってやって来ました。夜分すみません。お渡ししましたらすぐに帰ります。お願いします。開けて下さい。」
ヨセフとマリアは顔を見合わせました。
「この子が生まれる時、誰も私たちを家の中に入れてくれる人はいませんでした。でも私たちは旅人を追い返すなんてしてはならない。そうでしょ、ヨセフ?」
「そうだよ」
「どうぞ、お入りください」
すると星学者たちはラクダから降りて来て、家の中に入り、黄金乳香没薬という高価なプレゼントをイエスさまに献げ、そして、しばらく平伏しました。そして、何も言わずに帰って行きました。突然の来客と、豪華なプレゼントにマリアとヨセフは驚きました。そして一番印象に残ったのは、彼らが喜びに満ち溢れていたことでした。
2025年という旅に出発する私たちに必要なのはこの喜びです。子どもの礼拝を毎週第二第三第四日曜に三階で行っています。その時に毎週一番最初に歌っている歌があります。「喜び広げよう、小さな僕たちだけど、イエスさまは どんな時でも 愛して守って下さる」。
以前赴任した教会に看護師として戦争を経験した姉妹の話しです。木の板でできた戸、板戸にケガ人を乗せて運んだそうです。姉妹がその板戸で一つの聖句を覚えておられました。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。1テサロニケ5章6-18節。この喜びはどこから生まれるのでしょうか?星学者に注目!
彼らは星の学者でした。星を観察して、その動きから世の中の事を占いました。星はこの世にいる人間の数以上あります。それで一人一人の星を見つけ観察して運勢を占いました。人生に明るい時と暗い時がありますから不安です。今も星占いはなくなりません。
ある日、不思議に光り出す星を見つけました。星占いの大辞典を調べた結果、その星はこの世界の支配者が生まれる時に現れる星でした。他の星占いの学者たちも見つけました。そして、それはローマ皇帝アウグストォスがこの世界を征服することを表している、と占っていました。しかし、イエスさまを訪問した星学者たちだけはそう考えませんでした。これも不思議でした。この星は天地万物の支配者である神が人間イエスになって、人間の救い主として生まれることを表しています。その目的は、私たちが権力に支配されない、占いに支配されない、運命に支配されない、この救い主イエスに支配される、イエスを人生の主人として迎え、生きる希望を与えられることです。そのお方はローマ皇帝ではなくて、ユダヤ人の王として生まれると彼らは占いました。それで遠い東の国から長い長い旅をしてやって来ました。
2025年の旅を始めるのに必要なことは、皆さんの人生の主人を誰にするかを、何に支配してもらうのかを決めることです。権力ですか占いですか運命ですか・・・世の中には色々な支配が見えます。力、お金、富、名誉、地位、・・・。どれにしますか? イエス・キリストにしましょう。
学者たちは途中ヘロデ王様の所に立ち寄り、イエスの居場所を教えてもらい、イエスのおられる所へ向かいました。イエスに人生の主人に成って頂くために向かいました。イエスに全てを支配してもらうために向かいました。9節を見て下さい。そしたら不思議な事が起こりました。東の国で見た星は大きく光り出しました。学者たちはそれを見たのでユダヤにやって来ました。それに導かれたのではありませんでした。ところが、その同じ星が先立って進み、ついに幼子イエスさまのいる場所の上にまで動いて、そこで止まりました。
10節学者たちはその星を見て、喜びに溢れました。この喜びは、イエス・キリストを自分の人生の主人としてお迎えするために、イエスに向かって進む人を神が必ず導かれる、そう信じて進む人に与えられる喜びです。
皆さん、2025年、イエス・キリストに向かって進みましょう。さて皆さん、今イエスはどこにおられるのでしょうか。
イエスはニ人三人がイエスの名によって集まるところにおられます。マタイ18:20
➩これは教会のことですね。この一年ここに集まって下さい。
食べ物や飲み物のない人、戦争や災害で家を失った人、権力や力で押さえつけられている人、病気で苦しんでいる人、忘れられて誰からも声を掛けてもらえない人、助けを必要としている人、と共にイエスはおられます。と言うよりイエスはその人とご自分を同一とされました。マタイ25:40。イエスはこの地上でその様に歩まれました。
➩皆さんの生活の場で、イエスが歩まれた道を歩んで下さい。
神に導かれる喜びにみたされる、という不思議が起こります。これが今日の青書が伝える約束です。これはこれから皆さんが出発される2025年という旅の原動力になります。さあー、進みましょう。共に、助け合って支え合って進みましょう。
2024.12.29
「新しい祝福」イザヤ書54章1節
説教:鈴木龍生 師
2024.12.22
「あなたの救い主」ルカによる福音書2章8~20節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
皆さん、あなたのためにあなたの救い主がお生まれになりました。救い主イエス・キリストを私たちの世界に送って下さった恵みに感謝しましょう。そして、その主イエスによって救われた恵みを思い起こし、もう一度来られる主に希望を置く者として、来る新しい一年に向かう思いを固くいたしましょう。
クリスマスにお生まれになったイエス・キリストは、ここに集まった皆さんだけではなくて、全ての人の救い主としてお生まれになりました。わたしは皆さん一人ひとりにせんげんします。イエス・キリストはあなたの救い主です。
世界で最初のクリスマス、神は天使に三つのことを命じられました。
A おとめマリアに神の子救い主イエスを宿す、という神の計画をマリアに伝え、それに従うように勧めよ。
B 婚約中のヨセフにマリアの妊娠が、人間を救う神の計画のゆえであることを伝え、
離縁を中止させて妻として迎えさせよ。
C 救い主イエス・キリストが誕生したら、それを一番に野宿をしている羊飼いに
知らせよ。
マリアは従うだろうか? ヨセフは神の計画を受け入れるだろうか? 天使はドキドキでした。二人とも神を信じて従いました。その頃二人はナザレにいました。天使は祈りました「神よ、あなたの御子が無事に産まれますように」。ところが人口調査をせよとの命令がローマ皇帝から出たので、ベツレヘムで産むことになりました。直線距離で100キロは越えます。ここから別府や大分までになります。天使は二人の旅を見守りました。何日もかかってやっとベツレヘムの町の郊外迄来ました。
「マリア、もうじきだよ」「ヨセフ、ちょっと休みたい」。「うん、わかった、ちょっと待ってて」。日も暮れかけ気温も下がって来ました。あるイエスの生涯をテーマにした映画では、その時に野宿をしていた羊飼いが声を掛けるシーンがありました。私のうら覚えと私の脚本が加わりますが、全体の内容としてはあっていると思います。チョット紹介します。
「そこのお二人さん、わしらの所に来て、温まりな、・・・お腹の子もな」。
「ありがとうございます」。マリアとヨセフは羊飼いたちに近寄り、彼らと共に焚火にあたりました。
「町は人口調査とかで今、ごった返しとるわ。わしらには関係ないがのー。
わしらには帰る場所が無い。わしらは人口調査の対象外や。
わしらは社会の落ちこぼれ、わしらには希望が無い。
・・・ああ、暗い話を聞かせちまったー。あんたらは、幸せになるんやで! さあ、温まったら町へ急ぐんだ、
この辺りはこれからどんどん冷えて来るさかい。」
「ありがとうございました!」
「神のお守りがあるように」。
皆さんもご存じのように、マリアは町に到着してすぐに産気づきました。ヨセフは出産場所を探しますが、なかなか見つかりません。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからです。天使も見守りながらハラハラしていました。町の端に洞窟がありました。そこはお天気が悪い時に羊飼いたちが避難する場所で、干し草とそれを入れる飼い葉桶がありました。ヨセフは干し草を集めてベッドを作りました。飼い葉桶は生まれて来る赤ちゃん用のベッドにしました。
「マリア、ごめんね、ここしか産む場所がないんだ」。
「ありがとうヨセフ」。
天使は外で「神さま、助けて下さい」と、祈っていたでしょうね。
すると、オギャーオギャー
イエス・キリストがお生まれになりました。天使はホッとしました。
さて、神の命令はあと一つ残っています。C 救い主イエス・キリストが誕生したら、野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしている羊飼いに知らせることでした。天使は最初この命令を神さまから聞いた時に、世界で一番最初にイエスさまの誕生の知らせを聞くんですから、その人の事は歴史に残ります。それがなぜ野宿をして夜通し羊の番をしていた、無名の羊飼いたちなのでしょうか。天使はこの神の命令を不思議に思っていました。しかし、今はもうそうではありません。神さまの思いが分かったからです。
神はこの世界の初めから人間と共にいることを、寄り添って愛を注ぐことを心から願っているお方でした。しかし、人間は神からどんどんどんどん離れて行きました。神はそれでもそれでも人間と共にいて寄り添われました。具体的にはユダヤ人を選んで彼らと共に歩み寄り添い愛を注がれました。しかし、ユダヤ人もどんどんどんどん神から離れて行きました。神はそれでもそれでもあきらめませんでした。そして、神は最後の手段を取られました。
わたしの愛する独り子イエスを遣わそう。神の身分を捨てさせ人間の一人になって、彼らのただ中に入って行かせよう。わたしは、イエスの母としてマリアを選ぶ。
ところがイエスは歓迎されませんでした。ベツレヘムの町にいる人で、イエスが生まれる場所を提供した人は一人もいませんでした。生まれたイエスの居場所がなく、飼い葉桶の中に寝かせられました。
神はそうなる事も分かっていました。それでもそれでもイエスを遣わされました。天使はこの神さまの愛の大きさに驚きました。そして、なぜ、イエスの誕生を一番に野宿をしている羊飼いに知らせよ、と神が命じられたのか、その理由にも気づきました。
皆さん、思い出してください。先に紹介した映画の場面、マリアたちがベツレヘムの町に着く手前で羊飼いと出会った場面で、羊飼いが言った言葉です。「わしらには関係ない。わしらには希望が無い」。そう思っている人は2000年前も今も変わらずいます。『イエスの誕生を一番伝えたいのはその様な人だ』。これが神の思いです。
「さあ―最後の大仕事に行くぞー、そうだ天にいる天使たちにも応援を要請しよう」。羊飼いたちは天使の知らせを受け、天使の大軍の賛美を聞いた後、互いに話し合いました。「どうする? 行く? 行こ わしもじゃ、じゃー決まりだ」。彼らは急いでイエスのおられる所へ向いました。
私事ですが、父はお寺の信徒総代、祖父は神道の祈祷師、そんな家に生まれた私は、キリスト教に対して「わしらには関係ない」と思っていました。それから、大学生時代は将来の自分の人生に対して希望が持てない状態でした。そんな時に教会に誘われ、そして私も聞いたんです。「あなたのために救い主がお生まれになった」。それだけではなくて「イエスはあなたの罪のために十字架で命を捧げ、あなたのために死から甦られ、あなたを天国に迎える為に天に帰られた、終わりの日に迎えに来られる」。私もイエスの所へ向いました。
皆さんの中に「わたしには関係ない」「わたしには希望が無い」そう考えている人はいませんか? 今、私は天使に代わってあなたに伝えます。「あなたのためにあなたの救い主イエスがお生まれになりました」。あなたも是非イエスの所へ向ってください。
さて、最後に、既にイエスのもとに行かれて神の愛に気付かされた皆さん、このクリスマスに注目して頂きたいのは、天使が天の大軍の応援を要請したことです。クリスマスを祝う一番の祝い方は神をあがめ賛美することです。そして、羊飼いもイエスに出会って神をあがめ賛美しながら帰って行きました。後で天使の大軍が歌った歌、新聖歌80番「天なる神には、御栄えあれ、地に住む人には、安きあれ」を、喜びと感謝を持って、心して神にお捧げいたしましょう。
2024.12.15
「おめでとう、恵まれた方」ルカによる福音書1章26~38節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★イエス・キリストに希望がある
礼拝前に朗読いたしましたイザヤ書11章1節をもう一度読みます。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」。神はエッサイの息子ダビデを王とし、エッサイ家を王の家系という大きな木とされました。しかし、立てられた王たちは、神をないがしろにした末、とうとう神を捨ててしまいました。王国は侵略を受け滅び、有能な者は奴隷として拉致され、民は難民になりました。例えて言うなら、神はエッサイの木を切り倒され、その切り株だけが残りました。飯塚にも街路樹の切り株があります。残った切り株とは邪魔ものであり、いずれは腐って土に返ります。エッサイの株も絶望の切り株でした。
しかし、預言者イザヤは「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち」と預言しました。神は絶望の切株から、新芽が萌えいでるようにと、目を留め続けて下さいました。そして、ひとつの若枝を育てられます。この希望の若枝こそがイエス・キリストです。神がイエス・キリストを誕生させられた目的は、絶望に希望を、人の目には逆に見える、全く新しい希望をもたらすためです。この希望を伝えている聖書をちょっと紹介します。①旧約聖書と、②新約聖書のイエスご自身の言葉と③使徒パウロの言葉です。
①イエス・キリストが生まれる1300年前の旧約聖書の時代でした。神はエジプトから救い出した人々を神の民として、40年間荒れ野をさまよう旅をされました。旅行中に彼らは不平不満を漏らしました。『奴隷で苦しい面もあったが、美味しい食べ物飲み物に事欠かなかったエジプトに居た方がましだ』。神が救われたこの人達は、神の民に相応しくない、期待外れの人たちでした。しかし、旅の終わりに神は彼らに人の目には逆に見える希望を語られました。「わたしがあなたがたを選んだのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではない。あなたがたは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたがたに対する愛のゆえである」申命記7章7-8節。
②イエス・キリストご自身も人の目には逆に見える希望を語られました。
「心の貧しい人々は幸いである。悲しんでいる人々は幸いである。」マタ5章3-4節
「私は正しい人を招くためではなくて、罪人を招くために来たのです。」マタイ9章13節
「人の子が来たのは、仕えられるためではなく仕えるために来た」マタイ20章28節
三年経っても実を結ばないイチジクの木を切り倒せ、なぜ、土地を塞がせているのか、と言う主人に「もう一度肥やしをやるから一年待って下さい」と頼む園丁に、イエスは神の事を例えられました(ルカ13章6-9節)。これらすべて私たちと逆ですね。
③その神の民の子孫でクリスチャンになった使徒パウロは新約聖書で新しい神の民に選ばれた教会に与えられている希望を次のように伝えています。「しかし神は、知恵ある者に恥をかかせるために、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるために、世の無力な者を選ばれました。」1コリント1章27節。これも逆ですね。
クリスマスはイエスの誕生によって明らかにされた、絶望に希望、人の目には逆に見える新しい希望に目を注ぐことです。
さて、天使ガブリエルから聞いたお告げは、マリアの目から見たら、希望ではなくて災いでした。婚約している身である彼女が結婚前に婚約者以外の原因で妊娠する、という事は非常に大きな問題でした。ヨセフはこんな私をどうするだろうか、親は、そして私の将来はどうなるの? マリアは一生懸命色々な可能性を見積っていたでしょうね。考えれば考える程に不安が増えました。
皆さんマリアの第一声に注目して下さい。「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」。マリアは自分がどのようにして処女のままで妊娠できるのか、そのメカニズムを知りたかったのではありません。「神さま、どうしてこのような問題の多い苦難試練に合わせられるのですか」、これがマリアの本音ではないでしょうか。私たちの人生の中でも問題が起こって、苦難と試練が与えられる時に「神さまなぜ?」ということがありますね。
天使は35節でそのメカニズムを説明し、36節では親類のエリサベツという身近な人にも同じような事が起こっている、マリアだけではないと、説得に入っています。この説明と説得に対してマリアはどんな顔で聞いていたのか分かりませんが、天使は説明と説得ではマリアはウンと言わない、と見たのだと思います。それで天使はとっておきの言葉を伝えました。37節「神にできないことは何一つない」。それは神に仕えて来た天使が傍で聞いていた神の言葉です。
それはイエス誕生の約1700年前アブラハムの妻サラに言われた言葉です。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子どもが生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」。それは約600年前、カルデヤ人にユダ王国が滅ぼされる時に主が預言者エレミヤに告げられました。「わたしの力の及ばないことが、一つでもあるだろうか」。
38節、「どうして」と言っていたマリアに起こった変化に注目して下さい。わたしは主のはしためです。今までマリアはこれからどうなるかをいろいろ見積もっていました。言い換えるなら算盤をはじいていました。
私は小学校4-5年の二年間算盤学校に通いました。普通の家の一室に子どもが1ゼロ人位、詰めつめに座りました。先生が読み上げ算を始めます。「御破算で願いましては、11円なり、25円なり、17円なり14円では」。ハイハイ。「末吉くん」「67円です」。「御明算。御破算で願いましては・・・・・」。
「御破算で願いましては」とは、算盤をはらって、珠をゼロにすることです。マリアは心の御破算をしました。「できないことは何一つない」と言い切られる神を頼って。ですから、マリアは続けて言いました。「お言葉通り、この身になりますように」。この身になりますように。現実離れではなくて、今まで見積もって来たことが起こりうるこの身、この立場、つまり問題や矛盾や困難を背負いますが、絶望にしか見えない所がありますが、そこに神が実際に働かれる、今まで申してきました新しい希望、まるで逆に見える希望に対する期待がここにはあります。
★ゼロに成られたキリスト
みなさん、飼葉桶の中のキリスト、十字架のキリストは、丁度算盤をはらって御破算ゼロになられたキリストです。全く神に委ね、神にお任せして従われました。しかし、それは無駄に終わりませんでした。神は飼い葉桶のキリストの命を狙うヘロデから守られました。十字架刑に処せられ、「父よ、私の霊を御手に委ねます」と叫んで死んだキリストを、死人の内より甦らせ、そこに神が確かに働かれる事を証しして下さいました。この全く新しい希望がマリアに、そして私達にも与えられています。
★主に嵌めて頂く手袋
みなさん、全く神に委ね、神にお任せして従うとは、もう何もしないという事ではありません。算盤を思い出してください。「御破算に願いましては」とは、これから始まるということです。神がその働きを始められます。ですからゼロになる、神に委ね、神にお任せして従うとは、これから始まる神の働きに積極的に使って頂く器になることです。「神の器は偉い先生だけに使われる言葉の様に思っていませんでしょうか。「神の器」と言うよりも「神の工具」と言う方が良いでしょう。工具には色々あります。ドライバー、鋸、金槌、釘、・・・。皆さんホームセンターの工具売り場に行ってみてください。その種類に驚きますよ。神が働くのに必要なのは、あなたという工具なのです。
一つ忘れられないマリアのエピソードがあります。カナの村で親戚の結婚式があった様です。その宴会場で、葡萄酒がなくなる、というハプニングが起こりました。このままでは宴会が台無しになります。「どうしましょう」。マリアの所にも相談がありました。マリアはイエスに相談しました。するとイエスがそっけない返事をしました。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのですか。わたしの時はまだ来ていません」。
しかし、マリアは召し使いに言いました「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」。つまりイエスに用いられる工具になるようお願いしたのでした。召し使いはイエスの言われる通りに大きなかめ6つに水を汲みました。するとイエスはその水を最高のぶどう酒に変えられました。マリアはその時、自分の信仰の原点を改めて思い起こしました。天使の言葉「主があなたと共におられる」。それに答えた自分の言葉「お言葉通りに、この身に成りますように」。召し使いに言った「この人が何か言いつけたら、その通りにして下さい」が、聖書が皆さんに伝えるマリアの口からでた最後の言葉です。マリアは神の工具として用いられる新しい希望を伝えた人でした。
おめでとう、恵まれた方、神があなたと共におられる。神に出来ない事は何一つありません。皆さん色々問題はありますが、マリアの様に、御破算に願いまして、神に委ねて任せて、神の働きに期待して、その働きに用いて頂く、工具として、新しい歩みを始めましょう。外なる人は衰えて行きます。しかし、この新しい歩みには、全く新しい希望があります。神は皆さんの内なる人を新たにおできになるお方です。
2024.12.08
「神は我々と共におられる」マタイによる福音書1章18~25節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
マタイ福音書はルカ福音書の様に、イエス・キリストがどのようにしてお生まれになられたのかを伝えていません。そうではなくて、イエス・キリストが生まれることによって起こった変化を伝えています。この変化はクリスマスによって起こる変化です。そして、これからクリスマスを迎えようとする皆さんにも、この変化が起こります。
婚約期間中に婚約者以外の子を宿す事は厳しく罰せられました。マリアが実際にその当事者になったのでヨセフはショックだったでしょうね。ヨセフはこの事を表ざたにしてマリアを訴える権利がありました。しかし、彼は自分のことよりもマリアのことを優先して考え、秘かにマリアとの縁を切る、既に婚約解消をしていたという道を選びました。心からマリアを愛していたんですね。マリアとの結婚は諦めなければなりません。未婚のマリアの妊娠と言う問題を彼女はどう解決するのだろうか、という心配もありますが、その問題はマリア自身のことであって、自分には関係ないし、誰からも非難されることもない、この婚約解消が一番良い方法だ、と決めてヨセフは眠りに就きました。
ところが、その翌日にヨセフは眠りから覚めて、マリアを妻に迎え結婚しました。このヨセフの変化がイエス・キリストが生まれた時に起こった変化、クリスマスの変化です。では何がヨセフを変えたのでしょうか?
聖書をご覧になってください。19節の終わりに「ひそかに縁を切ろうと決心した」とあります。そして、24節「ヨセフは・・・妻を迎え入れ」とあります。ですから、20-23節の中にヨセフを変化させた原因があります。さあ、それは何でしょうか?それをこれから探します。その前にもう一つ質問します。皆さんも自分を変えたいと思っていませんか?
聖書は神によって私達が変わることを伝えています。沢山あるのですが、その中の幾つかを紹介しましょう。コリントの信徒への手紙です。 3章18節⇩
主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。
わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。 4章16節
キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものが過ぎ去り、新しいものが生じた。 5章17節
自分を変えることは難しいです。私たちには出来ません。しかし、神には出来ます。ヨセフを変えた様に私たちも変えて下さるのでしょうか。このことも心に留めてお話を聞いて下さい。
さて、20-23節に注目して下さい。夢に現れた天使がヨセフを変えたのでしょうか。違います、天使は神からの伝言を語っただけです。では天使が語った伝言の中身がヨセフを変えたのでしょうか。天使の伝言のポイントは、恐れず妻マリアを迎え入れなさい、すなわち結婚しなさいと言う神様の命令でした。そして、マリアのお腹にいる子は誰なのかを知らせます。聖霊によって宿った子。男の子。この子は自分の民を罪から救う。全ては神の計画ですからヨセフは何の心配もなくマリアを妻に迎え入れればよいのです。
ルカ福音書が伝えているクリスマスのエピソードに、祭司ザカリヤの話があります。彼も天使から伝言を聞きましたが、彼でさえ信じられませんでした。農機具などの修理をして生活していた庶民であるヨセフは当然信じられません。ですから、20-21節の天使の言葉でヨセフは変わったのではありませんでした。残るは22-23節です。この言葉は不思議な言葉で誰が語った言葉なのか分かりません。しかし、ヨセフが夢の中でその言葉も確かに聞いた形になっています。この22-23節にヨセフを変えた秘密が隠されています。そして、それは私たちのためでもあります。
みなさん、私達はヨセフと同じ様に天使に会えないし、天使の伝言を直接聞けません。しかし、この22-23節の言葉は今、私たちも聞くことができる、神の言葉です。私たちは驚かねばなりません。私たちも今、ヨセフを変えた原因の言葉を聞いているのです。
ヨセフは婚約の解消を決心して眠りに就いたのですが、20節色々考えていた様でした。ヨセフはマリアを愛し、どんなことが起こってもマリアを守り抜く覚悟でいましたが、今回マリアの妊娠という問題が起こって、そんな自分にも限界がある事に気付かされました。19節に「夫ヨセフは正しい人であった」とあります。確かにヨセフは正しい選択をしました。しかし、神は正しい人から信じる人になって、マリアを妻に迎え入れなさい、と言われました。そして、22-23の言葉を神はヨセフに掛けられました。そして、今皆さんにもです。
この全てのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。その預言者の言葉とは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名はインマヌエルと呼ばれる」。これは昔、神にどうしても信頼できなかったアハズ王に預言者イザヤが伝えた神からのメッセージです。
身ごもるとはおとめではないことですから、おとめが身ごもるとは人間の業ではありません。ですから、「おとめが身ごもる」とは、神が私たちの命の中に具体的に入って来られることであり、「男の子を産む」とは神が男として人間として生まれるということです。神が人間の命に100%関わることです。
アハズ、私に信頼しなさい。そのために私はしるしを用意している。それはあなたがたの命に私が100%関わっていることを証明するしるしである。かつて伝えたアハズへのメッセージを神はヨセフにも、そして今、皆さんにも語られます。
名は体を表します。インマヌエルは「神は我々と共におられる」と言う意味である。私はあなたがたの命に100%関わる神である。だから、信頼しなさい。
ヨセフはこの神の言葉によって変わりました。みなさんも今日この言葉に耳を傾けてください。神は神を信頼せず、悲しませ、苦しめ、嘲笑い、無視する、そんなものであっても、共におられます。このおとめマリアが身ごもって産む男の子イエスは、裏切りられ、悲しませれれ、苦しめれれ、嘲笑わられ、無視され、最後には十字架に磔にされるのですが、「父よ、彼らを赦してください」と祈って、最後まで私たち人間の側に共におられるお方です。みなさん、神はあなたと共におられます。今のありのままのあなたと共にいてくださいます。欠点や弱さやずるさがあるままでよいのです。共にいる神と結ばれたらよいのです。
みなさん、ヨセフは眠っていました。そうです。私達も眠っているとき何を持っていますか。何も持っていないはずです。全てを開け放します。神に対してそうしましょう。海でもプールでもいいです。仰向けに浮かんだことがありますか。力を抜いて何もかも水に任せないと沈んでしまいます。みなさん「神は我々と共におられる」とは神に対してそうしてごらんと言うメッセージをみなさんに送りつづけている言葉です。
ヨセフを変えたのは、このメッセージです。そして、皆さんを変えるのもこのメッセージです。「神は我々と共におられる」、神があなたの命と100%関わられます。だから、皆さん神を信じる人になりましょう。正しい人で終わらないで、信じる人になりましょう。イエスが自分の正しさを主張していた律法学者に「幼子の様にならなければ神の国を見ることが出来ない」と言われた事がありましたね。クリスマスは幼子の様に信じる人になる時です。お祈りいたしましょう。
2024.12.01
「イエスキリストの系図」マタイによる福音書1章16~17節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★アドベント=来られる
イエスは十字架で死ぬ前夜、最後の晩餐の時に言われました。「父の家(天国)に行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来てあなたがたをわたしのもとに迎える」。それからイエスが死人の中から甦って、天国に帰られるのを弟子たちが見送っている時に、天使が言いました。「ガリラヤの人たち、なぜ天を見上げて立っているのか。あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれたのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」。
弟子たちは最初イエスを待っていました。しかし、来られませんでした。それで二つの大切な事を決めました。それは今も教会で受け継がれています。
① いつおいでになるか分かりませんが、教会は引き続きイエス・キリストを待ち続ける。
② 教会は、その日が来るまで、全世界に出て行って、全ての造られたものに福音を宣べ伝える。新たな弟子を生み出し、洗礼を授けてイエスの命令を守るように教える。
つまり、天に帰ってもうこの地上におられないイエス・キリストの代わりに、教会がキりストの体の様に歩んで行く事です。
キリストの体の一部とされた私たちクリスチャンは、この①と②を大切なこととします。
今日、アドベント第一のローソクが点されました。22日にはアドベント第四のローソクを点してクリスマスの週に入ります。教会がクリスマスを迎える前の四週間をアドベント期間とした理由はこの①にあります。アドベントとは「来られる」という意味のラテン語です。いつか分かりませんが、皆さん私たちもイエス・キリストがもう一度来られるのを待ち続けましょう。
★神の大きな計画メシア(油注がれた者)
さて、もう一度来られるイエスさまとはどんなお方なのでしょうか。イエス・キリストの系図にそのヒントが隠されています。あの長い長い系図を司会者に朗読してもらうのはチョット酷ですね。それで16節と17節にしました、のではありません。この系図のポイントが16節の中にある言葉「メシア」にあるからです。メシア、それはヘブル語で「油を注がれた者」と言う意味です。
イエス・キリストを通して現わされた神は祝福する神です。神がご自分にかたどって人を創造されて、最初になさったことは、人を祝福する事でした。創世記1:28神は彼らを祝福して言われた。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ」。しかし、人は神との関係をどんどんどんどん壊して行きました。とうとう大洪水によって滅ぼされる寸前にまで行き着いたことは、皆さんノアの箱舟の物語で聞いていますね。しかし、神は見捨てません。関係の回復の大きな大きな計画を立てられました。
それを具体的にスタートさせた話も聞いていますね。アブラハムのことを聞いていますね。神は彼を選んで言われました。「あなたは祝福の源となるように。・・・地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。何が起ころうとも、見捨てないで彼の子孫とズーッと関り続け、神の家族の様なグループを形成し、そのグループを通して、あらゆる時代の世界中の人と、壊れてしまった関係を回復させ、神の祝福を与える。と言う大きな大きな計画が始まりました。17節に注目して下さい。イエスキリストの系図が三つに分けられているのは、アブラハムから始まった神の計画は三段階になっているからです。
①アブラハムの子孫がエジプトの奴隷になりファラオから苦しめられた時、彼らが心底から神に助けを求めた時に、神は計画を一気に進められました。モーセを用いて彼らをエジプトの奴隷から解放し、遠く離れたシナイ山の麓で、彼らを神の民とし神自身も彼らの神となる正式な約束(契約)をされました。その約束は口先だけの約束ではない事を、水も食べ物もない道なき道を40年間も歩いて進む旅に、神ご自身も彼らと共にテントを張って一緒に進んで示されました。
さて、神と神の民との共同生活が始まる前に、神は御自分と民との間に入って、色々な奉仕をする祭司をお立てに成りました。モーセの兄であったアロンとその子らが祭司に選ばれた時に、神は彼らに油を注いで聖別されました。イエスキリストの系図のポイントの言葉「メシア」、油注がれた者とは神と人の間に立つために聖別された人のことです。しかし、アロンの子ら自身が神との関係を壊す行いをしてしまいます。そして死を招いてしまいます。それで神は、アロンの子らに油を注ぐことをストップせざるを得なくなりました。しかし、神は最初の大きな壁を乗り越え、レビ族の人たちに祭司の務めを手伝わせることとされました。
さて、神は40年の旅を終え、民に土地を与え、収穫を与え、国を築くまでに祝福されました。その時でした。神ご自身が王の様な存在なのに、彼らは人の王を立てる事を願い出ました。それは王である神を軽んじる行為であったのでサムエルは強く反対しました。神はガッカリしたでしょうね。しかし神は御自分を軽んじる彼らに新たな計画を立てられる大きな心を持つお方でした。
神はサムエルに「わたしが示す人に油を注いで王としなさい」と言われました。神の計画は王に油を注いで、神と民の間に立たせ、神との関係回復の模範者であり指導者とする計画でした。そのために神は今までに無い事をなさいました。油を注いだ後に主の霊を注がれました。
神は最初に民好みの背が高く王に相応しい外見のサウルを選ばれました。しかし、彼は神に従わないで自分の判断で物事を進める人でした。それでもなお神は計画を進めました。次にダビデに油を注ぎました。彼は王様らしくない羊を飼う少年でした。しかし、心から神に従う人でした。神はそんなダビデに期待しました。これがイエス・キリストの系図の最初の1/3です。
②神に期待されたダビデですが、王の権力を使って大きな罪を犯してしまいました。部下の妻を横取りし、部下はわざと危険な所へ行かせて戦死させ、自分の妻にしたのでした。このことは誰にも気づかれなかったのですが、神の目には隠せませんでした。神は預言者ナタンを遣わしてその罪を裁きました。ダビデは素直に自分の罪を認めたので死ぬことはありませんでした。神はダビデを助け導かれましたが、ダビデ王家の跡継ぎのために家族争いが起こり、国は北と南に分裂しました。そして神が油を注ぐ人が王になるのではなくて、権力のある者が王になりました。王は神と人の間に立って、神との関係の回復のための模範的指導的務めを果たさず、悪いことを繰り返し、とうとう神殿の中に他の神々を持って来たりしました。とうとう神が神殿から出て、神の民から離れなければならなくなりました。外国の侵略者が来ても守れなくなり、とうとう分裂した二つの国は滅ぼされ、最後に残った人もバビロニア帝国に捕虜として連れ去られ移住することになりました。これがイエス・キリストの系図の次の1/3です。
神と人の間に、油注がれた王を立てて、神との関係回復の模範者指導者とし、良い状態に保とうとされた神の計画は失敗に終わりました。しかし、神は諦めませんでした。
③イエス・キリストの系図の残り1/3がそれを示しています。バビロンへ移されて14代後のヨセフが結婚した妻マリアから、メシア(油注がれた者)と呼ばれるイエスを生まれさせました。イエスは神の愛する独り子なる神でしたが、神の身分を捨てて、つらいこと、悲しいこと、汚いことが溢れるこの世界に、ひとりでは生きて行けない、小さい弱いあかちゃんとして、ここに集まる皆さん、いえ、ここに集まっていない全ての人と同じく、赤ちゃんとしてお生まれになられました。どのような人に対しても、その人と神さまとの間に入って、関係を回復して、神と人を確りつなぐためです。
神の怒りや神の罰は全てご自分が受けられ、私たちには神の祝福と恵みと守りと導きを届くようにして下さいます。私たちの弱さや疑いや嘘や反発など、すべてイエスはご存じだから、それを受け止めて、私たちが神とつながり続けるように導いてくださいます。その為にイエスは十字架で命をささげられました。
神はエデンの園から出て行った人間との関係回復のために多くの壁を乗り越えて、マリアからメシア(油注がれた者)と呼ばれるイエスを生まれさせ、私たちにラブコールを送られています。「それでも、あなたはこんなにも神に愛されている」「それでも神はあなたと一緒だよ、どんな時にも」。
これがイエス・キリストの系図が伝えるメッセージです。このラブコールに答えましょう。あなたの人生がこの社会が如何に暗く見えても、見捨てることをなさらない、諦めることをなさらない、イエスをマリアから生まれさせられた神があなたにも寄り添ってくださいます。そして、イエスはもう一度来られます。その時、私たちの目の涙をことごとくぬぐい取り、死も、悲しみも、嘆きも労苦もない新しい天と地へと導いてくださいます。希望を持って、進ませて頂きましょう。
2024.11.24
「魂の安らぎ」マタイによる福音書11章25~30節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
イエス様が語られた言葉の中で有名な一つが28節です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」29節「わたしに学びなさい。そうすればあなたがたは安らぎを得られる」キリストに学ぶなら、魂に安らぎが与えられるとあります。
★そこでまず、25節の言葉に注目して下さい。
「天地の主である父よ」。神さまをこう呼ばれます。この呼び方は何を示しているのでしょうか。これは、イエス様が神の真理であることを示しています。
イエス様は、唯一の神の子であること。私たちの主イエス・キリスト(救い主)であること。神から生まれた神であること。命から生まれた命であること。光から生まれた光であること。彼は、全てにおいて生みの親である神に似ています。
また、永遠に先立って、人間には理解不能な仕方で、父なる神から生まれました。彼は神の知恵です。神の栄光は十字架の死と復活を通して表されました。その神の栄光を表すために、彼には何一つ欠けるところがありません。「天地の主である父よ」とイエス様が呼ばれたのは、イエス様が神の真理であることを示すためです。
それを「知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」とあります。弟子たちのような無学な者、小さい者、無邪気な者に現されました。律法学者やパリサイ人という自分の知恵に依り頼んでいる者には、却ってそれが邪魔をして、神の真理にベールが掛かりました。
イエス様は「鳩のように素直になりなさい」10:16「子どもの様に神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません」マルコ10:15と言われましたね。神の真理は柔らかい心を持たないと見えないのです。
★次に27節を注目して下さい。
「すべてのことは、父からわたしに任せられています」とあります。
「すべてのこと」とは何でしょうか。「天上のこと」「地上のこと」「地下のこと」全てです。つまり、全てのものの救いがイエス様に委ねられました。ですから、救いは人類のみの事柄ではありません。
ローマ8:21,22「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子どもたちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみをあじわっていることを、わたしたちは知っています」とあります。神に造られたもの全てが救いを待っているのです。
27節後半の「子が示そうと思うもの」とは、教会のことです。「イエス様と教会のほかは、だれも父を知りません」ということです。
つまり、神さまの救いは、イエス様と教会に知らされたのです。
★28節はこのことが前提となっています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
人は何故生きることに疲れるのでしょうか。何故人生が重荷になるのでしょうか。
それは、人生の土台が問題だということです。7章で岩の上と砂の上に家を建てた人の例えが語られましたね。丈夫な岩の上と、崩れやす砂の上とどちらを選択されますか。
2019年の国会で沖縄の辺野古の基地の海底の地盤の事が取り上げられていました。政府が地盤調査した場所の、直ぐ横に軟弱地盤があるそうです。どんなに強固な基地を上に建設しても、土台の地盤が軟弱であれば無謀な計画ですね。土台が重要です。辺野古の問題のように人生の土台はとても重要です。
初めにお話ししたように、イエス様はすべてのことを神から任せられている堅固な土台です。ヨハネの黙示録21章4節にこうあります。「彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死は無く、悲しみも嘆きも労苦も無い」
これがイエス・キリストが治められる国です。イエス様は堅固な土台ですから、彼のもとに行くならば安心して休むことが出来るのです。
★では、堅固な土台であるイエス様は、どんなお方でしょうか。
29節「柔和で謙遜な」お方です。
マタイ5章5節「柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぎます。」7節「憐み深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから。」
8節「心の清い人々は、幸いである。その人たちは神を見る」とあります。5章が求める生き方は、イエス様の生き方ですね。だから、「わたしに学びなさい」なんですね。「わたしの軛を負い、わたしから学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」イエス様を人生の土台とし、イエス様に学んで生きる日々に、魂の安らぎが与えられます。
★30節「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからです」
くびきというのは土を耕すときに二頭の牛の首に通される道具です。
二頭の牛の力が合わされて作業をする時、力が十分に発揮されます。
イエス様があなたと共に歩んで(インマヌエルの主、マタイ1:23)、あなたの力が十分に発揮できるように、イエス様のくびきで繋がって下さいます。
私たちが弱くてよろけそうになるとき、イエス様は助け起こしてくださいます。だから、イエス様のくびきは負いやすく、荷は軽くなるのです。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」
今週もイエス様の軛でしっかりつながって、イエス様から魂に安らぎを頂いて前進させて頂きましょう。
2024.11.17
「光の子として歩みなさい」エフェソへの手紙4章8節
説教:末吉百合香 師
2024.11.10
「真に恐るべき方」マタイによる福音書10章16~31節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★この10章で、12人の弟子が選ばれます。
彼らは人々へと派遣されます。
16節に、「わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ」と彼らの行く手に、迫害が待っていることが伝えられます。迫害の相手とは、神の律法を守ることにこそ救いがあると信じる同胞のユダヤ人であり、また権力を絶対とするローマの支配者でした。
★神のことばをじかに語り伝える真実な証言者にとって、迫害は避けて通れません。しかし、22節、最後まで耐え忍ぶものは、神の祝福を受けます。ですから、イエスさまは弟子たちに、伝道の最初の時から十分準備をさせておこうとされます。
最後まで耐え忍べと大変厳しく言われますが、しかし、23節「迫害された時は、他の町へ逃げなさい」と、いのちを無駄に危険にさらすなとも言われます。
使徒の働きの書の中で、聖霊が弟子たちのいのちを守るために、その場所を逃れるよう導いたことを私たちは知っています。その結果、主の福音は異邦人へ、全世界へと広がりました。
イエスさま自身、ご自分の時が来るまでは、敵から身を隠しておられます。やがて、神の時が来るに及んで断固として自らを十字架の死の手にゆだねられました。
★24,25節の「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。・・家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族のものはもっとひどく言われる」これはどういう意味でしょうか。9章でイエスが悪霊を追い出した時、ファリサイ人たちは悪霊の力を使って追い出した、と批判しました。つまり、彼らの主張はこういうことです。
「イエスは悪霊のボスで、弟子たちはその悪霊の家族だ」と。
そのように、勝手な理屈でわたしが人々から非難されているのだから、あなたがたにも勝手なことを言ってくるでしょう。イエスさまは弟子たちへの迫害は確実なことだから、特別なことが起こったかのように驚くことはないと告げられます。
★皆さん、迫害する者の主張は真実ではありません。真実ではないのですから、何一つ恐れる必要はありません。26節「覆われているもので、現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはありません」とあります。覆われているもの、隠されているものとは、神の真実のことです。神の真実はいつか顕わになります。
ロマ4:25「イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです」とあります。神さまは、時至ってイエスさまの十字架と復活を通して、イエス様が全ての人の救いなのだということ、イエスさまを信じることが神の子となる道なのだということを、明らかにしてくださいました。
★ですから28節「体を殺しても、魂を殺せない人たちなどを恐れ」る必要は無いのです。
確かに、イエスさまに敵対する人々は肉体を殺すことができます。使徒やその後の多くのキリスト者が殉教の死を遂げました。肉体を殺されました。しかし、彼らの魂は殺せません。つまり、敵対する人たちは真のいのちを殺すことはできません。真のいのちは、神さまのみが与えることができ、取り去ることのできるいのちです。人間が真に恐れなければならないのは、この神さまです。
★しかし、皆さんの中にはキリスト者だということを明かした時に、周囲との関係がどうなるだろうかと、心配される方もあるかもしれませんね。弟子たちの中にも恐れが生じたことでしょう。
そこで、イエスさまは29節以下で神さまの慈愛を語られます。
「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう(1デナリが8,000円とすると1/16で500円、一羽250円)。しかしそんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。」小さな小さないのちも神の許可なしに地に落ちることは無いのです。
敵対者に立ち向かう時、私たちは恐ろしさを感じる弱き者です。そんな私たちにイエスさまは神の慈愛を思い起こせと励まして下さいます。ロマ5:8「わたしたちがまだ罪人であった時、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」とあります。
雀一羽のいのちさえも神の御手の中に確りと握られているのです。
★30節「あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている」
神聖歌481に「天の神様はネ、君のこと何でもわかっておられるんだ 何でもね」とあります。髪の毛までも一本残らず数えられているとは、あなたの全てをご存じなのだということです。
★みなさんのいのちに対して、神さまのおもんばかりは、どんなにか深いものではないでしょうか。殉教の死を遂げた弟子たちは、確かに勇敢だと思います。しかし、彼らもこの29、30節の主イエスの慈愛の神に励まされ、支えられ、強くされたのだと思います。
1ペトロ2章9節。「しかし、あなたがたは、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業(イエスの十字架と復活)を、あなたがたが広く伝えるためなのです。」とあります。
この使命を果たすために、真に恐れるべきお方はイエス・キリストであることを自分の中で明確にして、前進させていただきましょう。
2024.11.03
「命を支配される方」マタイによる福音書9章18~26節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★9章の今日の箇所の前に、イエスさまが病気の人を癒された時に、「あなたの罪は赦される」と言われました。それから、ユダヤはローマ帝国の支配下に置かれていましたので、ローマ帝国の仕事をする人たちは良く思われていませんでした。その人をイエスさまが弟子にされたのを見て人々は批判しました。
その時にイエスさまは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく、病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためです」と言われました。また、食事の席で「新しい葡萄酒は新しい革袋にいれるものだ」と言われました。これは、ご自分が神の計画を完成するために来たことを示しています。
町の指導者の一人がイエスさまの足元にひれ伏します。彼の娘が死んだというのです。しかし、彼はイエスさまに娘を生き返らせる力があると信じているのです。イエスさまは即座に娘のもとに向かいます。その時です。一人の女性がイエスさまの服に触りました。
イエスさまは死んでしまった娘のもとへと先を急がなければなりません。この状況はそういう状況です。
★けれども、イエスさまは自分に触ったその女性に目を留められます。彼女は出血のある状態だとありますね。出血のある状態というのは、神さまとの関係が失われている(レビ記15)ということを現わしています。
つまり、この女性には神さまとの関係回復が必要だったのです。ですから、イエスさまは彼女を通り過ぎることが出来なかったのです。
この女性に目を留められるイエスさまの姿に、99匹と1匹の羊のたとえを思い出します。100匹の中の1匹の羊が羊飼いのもとから迷子になります。羊の持ち主は、99匹をそこに置いて、いなくなった1匹を見つけ出すまで捜します。この例えの羊の持ち主とはイエスさまのことです。迷子になった1匹はとは、イエスさまとの関係を失ってしまったことを言っています。
イエスさまは、彼女のことを「あなたはその一匹なんだよ」と考えられたのです。彼女は、病気のために全財産を使い果たしました。12年間もの間町に入ることが出来ず、自分の悲しみを聞いてくれる友達ももういません。町の人たちとの関係も失ってしまいました。
病人を癒し「あなたの罪は赦される」つまり「あなたと神の関係は回復された」と語られ、「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くためです」と語られるイエスさまのうわさが、町の外にも聞こえたのでしょう。誰も自分に見向きもしない。彼女にはイエスさまが最後の望みでした。いえすさまだけがわたしを救って下さる方と、彼女は意を決して、イエスさまに望みを託して、着物の房に触ったのです。
★彼女は町の人々の中から放り出された死んだも同然の存在です。そんな彼女にイエスさまは優しく声を掛けられます。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」。これは、「あなたは清くなった」「あなたと神の関係は回復された」という宣言です。
その時、彼女は治った、と聖書は伝えていますが、これは、ただ病気が治ったということに留まりません。これからは町で暮らすことができます。町の人たちとの関係も回復しました。手を握り合い、ハグすることもできます。つまり、イエスさまの宣言は「あなたは生き返った」という宣言です。
そして、何よりも、イエス様と良い関係を回復した彼女は、それからの人生の様々な困難な中もイエス様と共に歩んだと思います。イエス様との関係回復は社会との関係を回復し、死んだも同然だった彼女に、生きる力を与えました。
★さて、町の指導者もイエスさまと彼女を側でじっと見つめています。「イエスさま、その女の事より私の娘のために先を急いでください」とは言いません。彼は憐み深いイエス様に惹きつけられていたのです。自分の娘のことが重なりあったのかもしれません。彼は希望を捨てません。今、目の前で一人の死んだも同然だった女を生き返らせた事実を、彼は見たからです。
彼はイエスさまを自分の家まで息を切らせて案内します。彼はイエスさまに全く信頼しました。自分の娘を生き返らせてくださると信じて、委ねて前進する事を学びました。
イエスさまにとって娘は死んだのではありません。「少女は死んだのではない。眠っているのだ」と言われます。イエスさまが手を取られると、少女は起き上がりました。
イエスさまには人間の死は、眠っているのと同じなのです。少女の復活は、神がイエス・キリストが十字架の後三日目に復活させられる力ある方であることの証明でもあります。
★聖書にこうあります。「唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」(1コリ8:6)。ですから、イエスさまは、全てのものをお造りになり、全てのもののいのちを御支配されるお方です。
人生は「死」で終わりではありません。全ての人に復活があります。全ての人が復活してイエスさまの前に立たちます。そのときに「主よ、あなたは死に勝利し、命を支配される方です。わたしは、そのあなたに信頼いたします」と私たちが告白することを主は願われています。先に神の御許に召された方々は、復活の日に希望を置いて、今は安らかに眠っておられます。
2024.10.27
「枕する所も無い生涯」マタイによる福音書8章18~22節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
8章でイエスさまは山の上での説教を終えて降りて来られました。そして、2節以下、重い皮膚病の人、また百人隊長の部下、ペトロのしゅうとめ、さらに悪霊に冒された多くの人々を、癒されました。「彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛み」という、イザヤ書53章の御言葉の実現でした。イエスさまは「枕する所」もなく人々を愛されたのです。
気迫のこもったイエスさまの様子に刺激されたのでしょうか。律法学者の一人が「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言います。すると「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」とイエスさまは答えられました。彼はペトロのような人ですね。とても勇ましいです。ペトロは、イエスさまが捕らえられる前の最後の夜に、「主よ、あなたとご一緒なら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」と言いました。大変情熱的な人でした。しかし、ペトロの決意は見事に挫折しました。
イエスさまはこの律法学者に、冷水を掛けるように答えられます。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。
「枕する所もない主」に従うことは、自分の情熱が根拠ではダメだと言うのです。「枕する所もない主」に従うには、弟子は静かな覚悟が必要なのです。
相撲取りは、対戦する前に頬やお尻を叩いて気合を入れます。しかし、それは観客へのパフォーマンスです。場内に出てくる前には、静かにその日どのように取り組むのか、気持ちを集中させる時間を持つのだそうです。その集中力が強さの秘訣になるのです。取り組みの前に迷いがある日には、勝負に確信がもてないですし、また自分らしい相撲も取れないでしょう。その関取らしい取り組みができたなら、たとえ負け試合であっても、観客は満足しますし、本人もすがすがしいのではないでしょうか。
クリスチャンもそのような時間が必要です。新しい一日を始める時に、祈りをもって、主の弟子としての時間を持って始めることは大切ですね。
「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われたのは、今日も主にお従いできますように、という祈りをもって始めなさいということです。
さて、「枕する所もない」とは、どういうことでしょうか。狐や空の鳥に備えられているものさえ弟子には与えられない、ということでしょうか。人の子とは、イエスさまのことです。イエスさまの生涯を言っています。低く小さいものとされ、辱めと苦しみに満ちた人生を与えられました。しかし、父なる神さまに従順であった、生涯のことです。
ある時一人の方が証しされました。「神さまはイエスさまを信じている者も信じていない者にも平等で、どちらも病気や試練に会う。だから神はどちらにも不公平ではない。痛みや苦しみがあるときには本当に辛い。けれども、クリスチャンとして幸いなのは、その痛みや苦しさをイエスさまが既に経験してくださっていると知っていること。だから、「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った」という、イザヤ書53章(苦難の僕の箇所)は自分のために記されてある。そのことによって、どんなに慰められ力づけられるか計り知れない。そして、それどころか十字架の苦しみさえも私の罪を赦すために受けてくださったのですよね」と。「枕する所もない」とは、イエスさまの生涯のことです。
また、「人の子」とは、私たちと同じ人間ということです。イエスさまは私たちと同じ身体で、つまり痛みも疲れも感じる生身の体で、枕する所もない生涯を、ご自分のためにではなく、私たちを「神の子」とするために歩んでくださいました。クリスマスに家畜の餌を入れる飼い葉おけに寝かされたときから、「人の子は枕する所がなかったのです」。
しかし、イエスさまは進まれます。23節以下弟子たちのために嵐の湖を沈め、悪霊に着かれた人から悪霊払いもされました。
枕する所すらないご生涯なのに、進んでくださいます。この私のために。この私を愛してくださるために。そんなイエスさまですから、私もこの方に信頼していくのだと、覚悟することができます。それは、感謝することができると言い換えられます。
そして、22節の言葉「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」。
イエスさまに従うことは、条件を付けずに従うことだと言われます。決してこの世の事柄を軽んじておられるのではありません。しかし、この世のことを優先している間に、知らず知らずのうちにイエスさまに従う道から逸れているということが起こってくるからです。
試験勉強が終わってから、受験が終わってから、家族が理解を示してくれてから、と言っている間に、とうとうイエスさまに従わずじまいで人生が終わってしまうこともあるのです。「何よりもまず、神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、それらのものはみな加えて与えられる」とありましたね。イエスさまに無条件で従うならば、必要なものは全て与えられていることに気づかされます。
イエスさまは誰のために「枕する所もない生涯」を歩まれたのでしょうか。それは、皆さんのためです。皆さんが、神さまに愛されるために生まれたことを知らせるためです。皆さんに神の祝福が注がれていることを示すためです。イエスさまの十字架と復活を通して、皆さんが「神の子」とされるためです。
2024.10.20
「人生の土台」マタイによる福音書7章24~27節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
有名な童話があります。三匹の子豚の話しです。ブーは藁の家、フーは板の家を建てました。ウーは煉瓦の家を建てました。ブーとフーの家は早く出来上りました。二人は家で休憩しながら、ウーをバカにしていました。ウーの家はレンガ一枚一枚をコツコツ積み上げる時間と手間のかかる家でしたからなかなか出来上がりませんでした。三人の家が出来上がった時に、オオカミがやって来ました。ブーの家とフーの家は狼に吹き飛ばされてしまいました。それでブーとウ―はフーの家に逃げて助かりました。
この三匹の子豚の話しのメッセージは何でしょうか?
色々ありますが、一番代表的なメッセージは、賢い人は、藁や板の家ではなくて、苦労するが確りしたレンガの家を建てます。それと同じ様に人生も、苦労するが、レンガを積むように、こつこつと着実に積み上げて行く事が大切です。
今日のイエス様の話しに出て来る二人が建てた家の話しのメッセージは何でしょうか。参考に教会学校の教材から皆さんに6枚の絵を今からお見せします。
最初は賢い人の家です。次に愚かな人の家です。
三匹の子豚の話しと違う所は、二人とも同じ家を建てたことです。藁や板の家ではなくてウー君が建てたレンガの家と同じ様に、二人は確りした家を建てました。しかし、一方は倒れ、一方は倒れませんでした。
イエスさまがこの話をされたのには理由があります。人生という家を建てる時、藁や板やレンガ、という建て方のことを考える前に、考えなければならない大切な事があります。多くの人はこの一番大切なことを考えていないから、イエスさまはこのお話しをされました。
皆さんは自分の人生と言う家を、どこに建てていますか。何の上に建てていますか。今日そこに目を留めてください。人生を終えた時に、神から「賢い」と言われる人になって下さい。 砂の上ではなくて岩の上に、確りした土台の上に建てましょう。
聖書に注目して下さい。二回繰り返されている言葉があります。「わたしのこれらのことば」です。それは山に登られて教えられた、マタイ5章から7章23節までに話された言葉ですし、聖書全体のことばでもあります。私たちはそれを読んだり、教会に来て聞いたりしています。砂の上に建てた人も岩の上に建てた人も、同じく直接イエスさまから聞きましたが、一方は倒れ一方は倒れませんでした。ではこの二人はどこが違っていたのでしょうか?
24節「わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なう者」26節「わたしのこれらのことばを聞くだけで行わない者」この違いによって、砂の上に建てるのか、岩の上に建てるのかに分かれました。
イエス・キリストの言葉を聞いて行う。聞いて行わない。違いはその人が御言葉をどう聞くのか、その聞き方にあります。
近畿のある教会の特別の集会に招かれた時に、集会が終わってから笑顔で私の所に来られた方が言われました。「先生、今日は、ええ話し聞かせてもらいました。ためになりました。ありがとうございました」。
その時に、「牧師の説教は、ええ話し、ためになる話しでいいのだろうか?」と、後から考えさせられました。ええ話しやためになる話でしたら、他の講演会で有名な講師や偉い先生から聞けます。
皆さん、牧師の説教とは何でしょうか? ・・・・ ところでひとつ皆さんに注意して欲しいことがあります説教のことを丁寧に「お説教」と言うと、何か叱られるイメージを持たれますので注意して下さい。
聖書を読む時や、教会で聖書の話しを聞く時に、私たちはどう聞いているのでしょうか。イエス様が今のわたしにこの話をされている、と信じて聞く時、それは聞くだけで終わることにはなりません。丁度、キャッチボールの様なものです。神は聖書を通して、牧師の説教を通して語られ、応答を求めて語られます。例えば、イエス様からみ言葉というボールを受け取りました。それを今度は私たちが投げ返します。上手に投げ返せなくてもいいのです。届かなかったらイエス様の方がそのボールを拾って、キャッチボールを続けて下さいます。イエス様の頭を越えてしまったり、外れてしまってもいいのです。イエス様はそのボールを追い掛けて、また投げ返して下さいます。
私たちの信仰生活はイエス様には申し訳ないのですが、下手なキャッチボールでも良いのです。聞くだけで終わらないでキャッチボールし続けましょう。それがイエスさまが求められる聞き方です。
マタイ21章26節でイエスさまが二人の息子のたとえを話されました。「子よ、今日、ブドウ園へ行って働きなさい」。それを聞いて「お父さん、承知しました」と答えた弟はキャッチボールをするつもりで聞きませんでした。彼はぶどう園の仕事を手伝いに来ませんでした。しかし、お兄さんは最初「いやです」と答えましたが、お父さんから受けた言葉を自分に投げられた、キャッチボールの球として聞きました。彼は直ぐに行動できませんでした。だいぶ時が経ってから考え直して、ぶどう園へ手伝いに出かけました。
皆さん、すぐに応答できなくてもいいのです。大切なのは自分に語られた言葉として、キャッチボールの球として、御言葉を確り受け止めることです。マタイ7章24節の聞いて行う者とは、こういう人のことです。そしたら、あなたの人生の土台が砂の上から岩の上に移されて行きます。神が人を神のかたちに神に似せて造られたのは、このためでした。神は人と深いコミュニケ―ションを求められ、人を生かされます。その人生を確かな土台の上に据えられます。これは確かな事です。これは神の働きです。聖霊の働きです。私たちの主イエスは、神と人のこのコミュニケーション、交わりを可能にするために、その関係を正常に戻すために、身代わりに神の罰、裁きを受けられました。それが十字架の死です。
教会に来た時だけではなくて、人生の大半の時間を過ごす日々の生活で、神とキャッチボールしましょう。箴言3章6節「常に主を覚えてあなたの道を歩け」。神とのコミュニケ―ションを深めましょう。人生の土台は、今明らかではありません。目に見えません。しかし人生の家が完成する時、すなわち人生を終える時にあなたの人生土台が、岩の上なのか砂の上なのかが明らかになります。岩の上にあなたの人生を築いて下さい。神の導きがありますように。
2024.10.13
「あなたがたに必要なもの」マタイによる福音書6章25~34節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★神への信頼
石破内閣誕生後、どのような政府なのかその中身を示す機会も無いままに、衆議院選挙態勢に突入しました。選挙後、どのような政治が行われるのか、大変不安を覚えますね。人の言葉は当てになりません。だからこそ、私たちは永遠に変わることのない確かな神の約束である御言葉に、今朝も耳を傾けたいと思います。
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また、自分の身体のことで何を着ようかと思い悩むな。」
この御言葉のポイントは何でしょうか。
ここでは、「命とからだ」のことが言われています。食べ物と服装のことではありません。「命とからだ」のことが言われています。
イエスさまは「あなたがたは命とからだのことで取り越し苦労をしている」と言われます。「命とからだ」に対して注意を払わなくてよいと言うのではありません。必要以上に心配する時、そこから、思い煩いが生じ、不安になり、更には病気にまでなると言われます。
ところで、いのちとからだは誰からいただいたのでしょうか。
創世記は神さまが命あるもの全て、宇宙、自然界、植物、動物、人間をお造りになったことを伝えます。そしてそれらは、「非常に良かった」とあります。全てが神さまの満足のいくものでした。創造物の中でも、人間に特別な祝福を与えておられます。
地球環境の全てを整えてから人間を造られました。このことは神さまが、人間を特別扱いされているということです。奴隷やペットとしてではなく、人間には尊厳が与えられています。真の造り主である神さまに、真実に向き合うパートナーとして、良心と知恵と能力と自由な意思を備えてくださいました。このように神さまが人間を特別扱いされたのは、深い信頼関係を築きたいと願われたからです。このように、創世記は神さまが、私たちに素晴らしい「命と体」をくださったことを伝えています。
そこで「空の鳥をよく見なさい」と言われました。「空の鳥を注意深く見なさい」と言われています。空の鳥は「種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。」空の鳥は自分のいのちのために身体のために、何も労働をしないのに、養われています。
その空の鳥のどこを注意深く見るのでしょうか。
彼らは「今日も必ず神さまが備えていてくださる」と安心しています。そこを見なさいと言うのです。
私は毎日ウオーキングをしようと心がけています。良い季節には遠賀川のサイクリングロードを歩きます。夕方5時前くらいに、空を見上げているとカラスが群れで塒(ねぐら)のある山に帰って行くんです。「カラスと一緒に帰りましょう」ですね。どの山で寝ても同じではないかと思うのですが、そうではないようです。鳥たちにもその命を守るための習性を神さまは与えておられます。
空の鳥の「神を信頼する姿」を注意して見て学びなさいとイエスさまは言われます。
空の鳥にさえ最善を備えられる神さまです。どうして空の鳥以上に私たちに備えてくださらないことがあるでしょうか。神さまに全てを任せて安心している彼らを見て、彼らよりも遥かに勝った祝福を頂いている私たちは尚更神さまへの信頼を強くしたいものです。
神の配慮
次に「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」とイエスさまは言われます。野の花とは雑草の花のことです。地味ですが、注意してみると本当に愛らしく美しいです。雑草は巧みで逞しい生命力を与えられています。最も小さな誰も注目しない存在である野の花にさえ、神さまは「配慮」なさるのです。彼らの美しさは神の配慮です。
野の花にこのように配慮なさる神さまですから、皆さんに配慮なさるのは尚更のことです。
なぜなら「わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:4)と言ってくださる神さまだからです。
★神の国と神の義とを求めよ
教会はこの神さまを伝えています。でもよく言われます。キリスト教は難しいと。それは大きな思い違いです。神さまはイエスさまをクリスマスにこの世に送ってくださいました。この出来事は、私たちの日常の中に来てくださったということです。キリスト教信仰は、私たちの日常の只中の事柄です。最も小さな誰も見向きもしない存在に深い配慮をなさる神さまは、私たちの日常のことをいつも考えてくださっています。
8節に「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたの必要なものをご存じなのだ。」とあります。32節でも「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じなのである」とあります。つまり31節の「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』といって思い悩むな」とありますのは、「あなたがたは配慮してくださる神さまがおられることを忘れていませんか」という私たちへの問いです。
イエスさまは禁欲主義を勧めておられるのではありません。大切なのは日常の中で私たちが神さまを感じて歩んでいるかどうかです。神さまの配慮を覚え、神さまに信頼をしているかどうかです。
32節をもう一度注目してください。そこに「異邦人」とあります。これは「神さまの配慮を知らないで歩んでいる者」という意味です。私たちはこの異邦人のように神さまが日常も配慮してくださっていることを忘れていないでしょうか。信頼が揺らぐ時はないでしょうか。信頼しているけれども、周囲の出来事に心が占領されて落ち着かない、と言うことは無いでしょうか。
その原因は、自分ではどうすることも出来ない未来に対して、必要以上に心配をしているからです。
イエスさまは「それを取り越し苦労と言うのですよ」と言われます。自分の為すべき最大限の事をしているのなら、「あなたの力の及ばないところのことは私に預けなさい」「だから明日の事まで思い悩むな」とおっしゃいます。
33節「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。」神の国と神の義はイエス様によって表わされました。イエス様は、私たちの罪を聖い神さまに赦していただくために十字架に架かって身代わりに死んでくださいました。神さまの前に正しい者とされるためです。神の子どもとされるためです。このことを信じる、これが神の義です。
そして、神さまはイエス様を復活させられました。それは、死は人生の終わりではなく通過点であり、イエス様を信じる者には復活の命がある、神の国に入る、と宣言されたのです。イエス様を信じる者には、神の国が準備されています。「神の国と神の義を求めなさい。」とは、イエス様が私と神さまとの関係を回復してくださったと信じる事です。
「何よりもまず」とありますね。他の何よりも最優先して「神の国と神の義を求めよ」と求められています。ここは命令形で言われています。イエス様の強い呼びかけです。イエス様は、私たちの地上での必要を全てご存じです。しかし、地上での必要に勝るものがあります。それはキリスト者が神の子とされる事実です。だから、「何よりもまず」なのです。全ての人に必要なのは、神の子とされることです。
そのために使徒の働きの3章11節の言葉が響いてきます。口語訳の訳が良いですね。「みなが、かき集まって来た」と訳されています。目の見えない人の目を癒したペテロにその人が付いて来たのを見て、大勢の人々が非常に驚いて集まって来たのです。そこでペテロはイエス様の福音を語ります。すると、その説教を聞いた男の数が五千人になった、という箇所です。
イエス様の第一の呼びかけ、「神の国と神の義を求めなさい。」とは、この事です。イエス様を頭とする神の教会に、皆がかき集まる、礼拝を大切にする、集会を大切にする、とにかく教会に集まる、福音を聞く、賛美を捧げる、祈りを捧げる、これを第一にせよ、と主は命じておられます。
2024.10.06
「地の塩 世の光」マタイによる福音書5章13~16節
説教:末吉百合香 師
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今日の御言葉はすぐ前に語られた「幸い」ということに深い関係をもっています。イエスさまは貧しい人、悲しむ人、柔和な人・・は幸いと語られました。地の塩、世の光として生きるとは、イエス様が語られた幸いに生きる生き方が含まっています。この人たちを「高価で尊い」と神は見ておられます。
今朝の、塩と光の後についている「である」という言葉が重要です。英語で言えばBe動詞のことです。Amとかisとかareです。しかし、英語のそれよりももっと強い意味があります。新約聖書はギリシャ語で書かれていますが、「ある」という動詞が一つの単語として使われるときは、特別なときです。普通は一般動詞の中に含まれることがほとんどです。ですから、「地の塩である」「世の光である」とは、クリスチャンであるということが、すでに「地の塩」「世の光」となっているということです。つまり、クリスチャンはすでに「特別な存在」なのです。すなわち、この地上に「無くてはならない」存在なのです。
二千年前、聖書の舞台は世界でも大変文明が進んでいたところでした。イスラエルは、エジプトや周辺世界の中心に位置していますから、沢山のものが流通していたと思います。ですから、塩以外に多くの調味料があったと思います。塩はそれらと比べると地味な存在です。しかし、どの料理にも使う調味料です。つまり、味付けのベースになります。たくさんの調味料がありますが、塩に変わるものはありません。人目を引かない塩ですが、これがなくては料理に味がつかないのです。つまり、クリスチャンはこの塩と同じ存在である、というのです。人々がどんなに小さく評価しようとも、この世界に無くてはならない特別な存在である、というのです。イエスさまは私たちを特別な存在として人々の中に遣わされているのです。「あなたがたは地の塩である」とは、そういう意味です。
マタイ福音書は、光はイエス・キリストである、と4:16で言っています。キリストが世界を照らすまことの光として来られた、と伝えています。しかし、ここでは「あなたがたは世の光である」と言われます。Ⅱコリント4:6「『闇から光が輝き出よ。』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストのみ顔に輝く神の栄光を悟る光をあたえてくださいました。」とあります。クリスチャンは確かに光なのですが、太陽ではなく、月である、とよく言われます。月は太陽の光を受けて光を放つ存在です。クリスチャンはキリストの光を受けて、その光を輝かせる存在なのです。
新聖歌382に「心から願うのは、主のようになること」という賛美があります。私たちも主のように生きたいですね。そして、その光は、「山の上にある町」と同じだというのです。また、明かりを点けるのに、升をかぶせてすぐに消すために点ける人はいませんね。キリスト者は神さまの希望の計画を伝える大切な役割があるのです。この世界の中で、特別な存在であり、無くてはならない存在であるとは、キリストの希望の計画を伝える大切な役割を果たすためです。
幸いの話の後、どうしてこの例えを話されたのでしょうか。11節でクリスチャンが迫害されることを伝えています。「わたし(キリスト者である)のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」ことが起こるのです。キリストを証ししキリストのように生きようとする時、迫害を受けるからです。それで、あなたは神さまにとって特別な存在なんだよ、とイエスさまは励まされるのです。
では、特別な存在としてどのように生きるのでしょうか。
塩は味をつけるものです。遣わされた所で味をつけるという特別な存在にされています。どんな味をつけるのでしょうね。イエスさまの味をつけるのです。イエスさまの味ってなんでしょうか。イエスさまは、十字架の死において、わたしたちを神の子とする為にご自分のいのちを犠牲にされました。三日後の復活において、キリストを信じる者がキリストと同じ復活のいのちを頂くという、神さまの私たちへの愛と希望の味付けを、生涯を通して見せてくださいました。地の塩であるというのは、わたしたちも神が世界を愛しておられることを伝え、実際に愛の業を行っていくことです。
塩に塩気がなくなるとはどういうことでしょうか。今年は猛暑でフルーツに異変が起きました。梨やぶどうが日焼けして高温障害で売り物にならない、ということが起きました。それらの実はちぎって地面に捨てられました。本来の梨やぶどうにならなかったのです。塩に塩気が無くなるとは、神から特別な存在として委ねられた本来の働きを忠実に果たさないことです。
16節に「地の塩」「世の光」であるしるしは、立派な行いだとあります。でも、皆さん勘違いをしないでください。立派な行いをしたから、「地の塩」「世の光」になるのではありません。「地の塩」「世の光」という特別の存在とされているのだから、立派な行いをするのです。「立派」と訳されているこの言葉は、他に「美しい」あるいは「神に喜ばれる」という意味があります。エフェソの手紙5:1-2は「あなたがたは神に愛されている子どもですから、神に倣うものとなりなさい。キリストがわたしたちを愛して、ご自分を香りのよい供え物、つまり、いけにえとしてわたしたちのために神に献げてくださったように、あなたがたも愛によって歩みなさい。」と言っています。このようにクリスチャンはキリストのような麗しい香りを放ちなさいと言われます。また8節以下「あなたがたは以前は暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。光から、あらゆる善意と正義と真実とが生じるのです。何が主に喜ばれるかを吟味しなさい。」とあります。
では、具体的にどのように生きるのでしょうか。
コロサイの手紙には「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心から行いなさい。」とあります。また、「時をよく用い、外部の人に対して賢くふるまいなさい。いつも、塩で味付けされた快い言葉で語りなさい。そうすれば、一人一人にどう答えるべきか分かるでしょう。」ともあります。
このような行いを何のためにするのでしょうか。天の神さまを証しするためです。決して自分が賞賛されるために行うのではありません。教会では、「栄光が神さまにありますように」と祈ります。これは、クリスチャンの立派な行いによって、栄光を神さまにお返しできますようにという意味です。神さまはご自分の栄光をクリスチャンを通して表そうと、「地の塩」「世の光」とされたのです。
地の塩である、世の光である、とはキリスト者は「特別な存在」「無くてはならない存在」ということ。塩は味を付けるもの。光は暗闇を照らすもの。キリストは十字架と復活の出来事を通して、わたしたちを神の子とする為の犠牲の愛と、キリストを信じる者がキリストと同じ復活のいのちを頂くという、神さまの私たちへの愛と希望の味付けを、生涯を通して見せてくださった。キリスト者が「地の塩である」というのは、わたしたちも神が世界を愛しておられることを伝え、愛の業を行っていくこと。塩に塩気が無くなるとは、神から特別な存在として委ねられた本来の働きを忠実に果たさないことです。あなたは特別と、迫害を恐れるキリスト者をイエスは励まします。キリストに励まされ、地の塩・世の光として歩ませていただこう。
2024.09.29
「王の王なる神」サムエル記上8章1~22節
説教:末吉貞雄 師
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★神と民の間にたって裁く仲介役
神はエジプトで奴隷だったアブラハムの子孫を解放し、彼らの神となり、彼らを神と共に歩む神の民とされました。その時、神は民との間に、仲介役としてモーセ、ヨシュア、士師たち、そして、シロの祭司エリ、サムエルと言う風に続けて立てて来られました。彼らは神に代わって、何が正しく、公平で、真実なのか、つまり神の思いを身をもって表しました。それを裁くと言いました。
裁くとは英語でジャッジと言います。裁き司の物語士師記は英語の聖書ではJudgeです。セーフかアウトか、ゴールかそうでないか等、皆さんはスポーツで審判がジャッジするのを知っていますね。裁き司の務めもそれと似ています。
神はサムエルの次の裁き司なかなかお立てに成りませんでした。それで年老いたサムエルは、自分の後継者として二人の息子のヨエルとアビヤを裁き司に立てました。しかし、息子たち自身は父の道を歩まず、利得を追い求め、賄賂を取り、裁きを曲げて、神の思いとはかけ離れた行動をとっていました。それは父サムエルの悩みの種でした。
思い出せば、シロの祭司エリも同じ経験をしました。その時神はサムエルをお立てになりました。神が相応しい者を必ず立て下さると、サムエルは信じて待っていました。実はこの時、神も待っておられたのでした。この様な状況の中で、神の民がどう動くのかを知りたかったからです。
★民が求めた王
すると長老たちが動き出し、サムエルの所に来て言いました。5節「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立てて下さい」。その言い分は、サムエルの目には悪と映りました。16章7節で主は言われました「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」。サムエルの目に彼らの言い分は『彼らが自分を退けた』と映りました。カツンと来たでしょうね。しかし、息子たちの現実は彼らの言う通りでしたから反論できませんでした。そのことを思うとサムエルはガクンと落ち込んだのではないでしょうか。6節「そこでサムエルは主に祈りました」。
★サムエルの祈り
皆さん、私たちも日常生活でカツンとか、ガクンとか、あるいは失敗してゴツンとかありますね。そんな時にサムエルは主に祈りました。皆さん、祈りというのはカツンとか、ガクンとか、ゴツンとかしたその時の心の内を、神に全てを打ち明けることでもありますね。テサロニケ第一5章16-18節「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」。絶えず祈るという事は、カツンカクンゴツンの時にも祈るという事ですね。7-9節、主は祈りに答えないわけにはいかないお方。さっそくサムエルに声を掛けて下さいました。
まず7節で、カツンカクンしているサムエルの誤解を正しました。
『サムエル、彼らはお前を退けたのではなく、彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだよ。元気を出しなさい』。
★主の思い
続けて8節で主は御自分の思いを伝えられました。「彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼らのする事と言えば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」。皆さん、イスラエルの人々がエジプトから救われて神に導かれて何年になると思いますか。約270年にもなります。しかし、主を畏れず、主に仕えず、御声に聞き従わず、主の命令に背き続けて来ました。
今回もサムエルに対して王を立てる事を求めて、同じことをしたわけです。『サムエル、どう思う?』と、主は嘆いておられる様に聞こえますが、9節「今は彼らの声に聞き従いなさい」と言われました。嘆く神は父が子にする様に指導する神でもあります。「ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」。
それでサムエルは11-18節の厳しい警告を伝えて、思い直すように最後の説得をいたしました。私たちもその内容を冷静に確認する必要があります。今も変わりませんね。世の為政者の権力が国民を苦しめます。日本国憲法はその為政者の権力に歯止めを掛けるためにあります。合理的な政治をする為にあるのではありません。人間が治めることには限界があります。だから法に支配させるのですが、人が定める法にも限界がありますね。それで冤罪も生み出します。どの位置に置かれても神を畏れる事は不可欠ですね。でも、この世界は何とか神を畏れなくしようと働きます。法という知恵を与えられたのも神ですが、神は一人ひとりの心の奥を目指されます。
さて、王は民を苦しめるのに、民はそれでも王を立てることを求めました。22節、サムエルは彼らの返事を神に伝え、神は「彼らの声に従い、彼等に王を立てなさい」と指示しました。サムエルは一旦民を解散させましたが、心の中で思ったんじゃないですか。「神さま、なぜそんな民を許すんですか、もっと厳しく𠮟りつけないといけませんよ」。神の愛の広さ、長さ、高さ、深さにサムエルはついて行けませんでした。
★待ち続ける愛
皆さん、愛は強制ではなくて自由です。神は私たちにいつもあえて二つの道を開けておかれます。Yesと答える事も、Noと答える事も出来る様に。これが神の愛です。イエスはこの神の愛を伝える為に、二人の息子を持つ父親のたとえを話されました。ルカ15章11節以下の放蕩息子のたとえ話です。
兄はまじめで弟はその反対でした。そんな弟が相続財産を今別けて欲しいと父に願いました。兄は思ったでしょうね。「何てことを言う奴だ。お父さんそんな事を許してはいけません」。ところが父は財産を二人に分けてやりました。
そしたら弟は早速そのお金を持って家出しました。兄は思ったでしょう「お父さんのしたことは間違っていた」。しかし、お父さんはあえてそうしました。家出した子はきっと放蕩に身を持ち崩し、何もかも使い果たし失ってしまう時を迎えるだろう。その時こそ、彼が我に返り、『父の家に戻って謝罪して、父の側におらせて頂こう、雇人の一人に成っても良いからそうしたい』と、心から願う様に成り帰って来る。実際そうなって、父はすぐに家に向かって帰って来る息子に気付きました。毎日家出した息子の帰りを待ち続けていたからです。
サムエル記第一の8章で、神がサムエルの次の裁き司を立てるのを遅らせ、王を立てよとの神の民の要求を呑まれたのは、この放蕩息子に対する父の対応と似ています。神は王の王なる神です。その神が治めて来られたのであるが、民は王の王なる神を退け、世俗の王に治めて貰う方が良いと願いました。神はその願いを受け入れました。なぜなら、神は彼らが心から神を王の王とする日を待ち続ける愛なる神だからです。
皆さん、この神の民イスラエルの話しは、全ての人に対する実例です。神は全ての人を治めておられる王なる神です。先日の午前の聖会で「生まれる前から神さまに守られて来た友達の誕生日ですおめでとう」という子ども賛美歌を紹介した時に、神を信じる、信じないに関係なく、全てのものが神から出て、神によって保たれ、神に向かっている、という聖句を紹介しました。ローマ11章36節です。しかし、人はこの神を退け、他のものに自分を治めさせています。
最初の王サウルから始まり沢山の王が立てられましたが、神を畏れる王ばかりか殆どの王が神を畏れない者になりました。王国は最後に滅ばされ、より強い王国に支配され、民は圧迫と苦しみを受けることになります。神は待たれました。王を立てるのを求めないで、神の支配を求める日が来るのを。国が滅亡した後、長い隷属の中で民の一部がメシア(神の支配を来たらせるお方)を求め出します。神は動く時を伺っておられました。
★王の王キリスト
そした時至って、神は愛する独り子イエス・キリストを、王の王として遣わされました。その知らせは星を通して星占いの博士たちに伝えました。彼らはその当時の王ヘロデのもとに行って、ユダヤ人の王の誕生を祝いに来た旨を伝えました。それを聞いたヘロデ王とエルサレムの人々は不安を抱きました。幼子キリストの命は狙われました。王の王イエスの生涯は歓迎されませんでした。
その終わり、世の王が乗る白馬ではなくて、野良仕事用のロバの子に乗って王の王は都エルサレムに入城されました。しかし、エルサレムの城壁の外に追い出され、十字架に磔にされて、殺されました。それでも神はその死んだイエスを復活させて、和解の手を差し伸べさせ、神さまが人が立ち帰るのを待ち続けておられるお方である事を示されました。神の愛の広さ、長さ、高さ、深さは人の量りでは測り知れません。
皆さん、この愛が皆さんに注がれています。それに応えましょう。それは、私たちの人生のすべてを、このイエス・キリストをお遣わしになられた、王の王なる神に治めていただくことです。それは、どの様な中に置かれましても、神の守りと導きと助けがある、と信じてこの人生を進めることです。
2024.09.22
「神が助ける」サムエル記上7章2~17節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★神が助ける
神の箱を受け取ったキリアト・エアリムの人びとは、箱をアビナダブの息子エルアザルに守らせ、20年の歳月が経過しました。神の箱の件はこれで一件落着のように見えましたが、エルアザルという名は『そうではないでしょ』と問い掛けていました。エルは『神』と言う意味です。アザルは『助ける』という意味です。エルアザルは『神が助ける』という意味です。ペリシテ人との戦いで、イスラエルの人びとは『戦場に神の箱が来たからには、神が必ず助けられる』と信じたのでしたが、戦いに敗れ神の箱が奪われ、「もはや神は今や私たちをお助けにはならないお方となられた」という経験をしました。
神との関係が良くない状況は20年経っても変わっていませんでした。『神が助ける』という信仰は棚上げに成ったままでした。2節に「20年を経た」と短くありますが、その間に色々な事があって、『このままではいかん』と思って、イスラエルの家はこぞって主を慕い求めました。そして、主はそれを待っておられました。
皆さん、『神が助ける』これは私達の信仰でもありますね。しかし、私達にも日常生活の中で、その信仰が揺るがされる時があります。例えば、神の助けが疑わしくなる困難に立たされる時があります。そんな時、私たちも主を慕い求めましょう。主はそれを待っておられます。そんな時、私たちも主を慕い求めましょう。主はそれを待っておられます。
★主に立ち帰る
そこで信仰が揺らぐ原因は何か。その核心をつくサムエルの言葉3節に注目して下さい。「あなたたちが心を尽くして主に立ち帰るというなら、・・・心を正しく主に向け、主にのみ仕えなさい。そうすれば、主は・・・」。
3節で『主』という言葉が四回繰り返されています。皆さん、私たちも神の事を主と言います。なぜ主と言うのでしょうか。心を正しく神に向かせるためです。神と人の正しい関係は、主人と僕という一対一の関係、つまり他のものがその間に入ってはならないのです。主にのみ仕えるために、この関係が必須です。
先週、神と人の接点の話の中で、懐中電灯のたとえ話をしました。懐中電灯の中に入っている電池に接する金具が錆びると、何回電池を新しいものに取り換えても無駄です。懐中電灯と電池の接点の間に錆びがあるので電流が流れず点灯しません。
心を尽くして主に立ち帰るとは、神との接点の回復を、そこがいつも整っていることを、そこをきちっと点検することを切に願うことです。今もし皆さんも心からそれを願うのなら、3節でサムエルが命じる事に注目して下さい。「神と人との接点の間に挟まっているものを取り除きなさい」。イスラエルにとってそれは異教の神々バアルやアシュタロトでした。私たちと神との接点はどうなっているでしょうか。今日、点検いたしましょう。
★神がされる修復
以上は、サムエルが命じた、人の側が行う神との関係の修復内容です。更にサムエルは人には出来ない神の側が行う関係修復のことを語りました。
三つあります。
1. 5節、祭壇のあるミツパに集まり、主の前に立ちなさい。
これは礼拝ですね。礼拝は人が行うのですが、神が行われるものです。ですから、神の招きの詞で始まります。英語で礼拝をサービスとも言います。神が礼拝で働かれます
2. 6節、水を汲んで来て、主の御前に注ぎなさい。これは象徴的な行為です。
これは心の中にある罪を、水を注ぎ出す様に主に告白する事です。そして、その事に集中するために、食事の事で煩わされないよう断食を命じました。1と2の命令に従っている間に、ペリシテの領主たちの耳に、『イスラエルの人々がミツパに集まり何かに夢中になっているから、今が攻めるチャンスだ』という情報が入りました。それで彼らは攻め上って行きました。それを見て、戦いの準備が出来ていないイスラエルは恐れ、サムエルに助けを求めました。丁度、ガリラヤ湖で嵐に遭った弟子たちが同船するイエスに助けを求めた時に似ています。その時にサムエルは最も重要な三つ目の神の修復のことをイスラエルに告げました。
3. 乳離れしていない小羊一匹をわたしのもとに連れて来なさい。
イスラエルの人々は偶像を捨てました。ミツパに集まって、主の御前に立ち、罪を告白しました。しかし、一番肝心なものが残っていました。神に対する罪の贖いです。それでサムエルはペリシテ人が迫って来る中でしたが、粛々と小羊の命を焼き尽くす献げ物として捧げました。
かつて神はイスラエルをエジプトの奴隷から解放して神の民とするために、エジブトを脱出させる夜、神は、イスラエルの各家庭で屠られる小羊の命と、ファラオの初子からエジプト中の人と家畜の初子までの全ての命、という代価を買い取り代金、贖ない金とされ、イスラエルをエジプトのものから神のものに買い取られました。
サムエルが献げた小羊の命は、神が人を罪から買い取るための贖い金でした。この贖いを終えて、人が神のものとなってから、サムエルは主に助けを求めて叫びました。すると主は雷を持って答え、ペリシテ人を打ち負かし、イスラエルを助けました。
★主にのみ仕えるために
皆さん、主にのみ仕える所に神の助けがあります。だから神との接点が重要です。私たちにできることがあります。
A現代も神との接点を侵すバアルやアシュタロトの様なものがあります。そう言うものによって神との接点に邪魔なものがついていませんでしょうか。気付かないうちに。罪はあなたをもう一度奴隷にしようと狙っています。神との接点を点検して下さい。邪魔する物を取り除きましょう。
新約聖書で使徒パウロがエフェソの信徒への手紙4章22節で命じています。以前のような生き方をして情欲に惑わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨てなさい。そして25節以下で具体的に脱ぎ捨てるべき古い人がする行為を列記しています。偽り、悪い言葉、怒り続けること、憤り、わめき、そしり、悪意等。
23-24節は、これらを取り除くだけで終わらないように注意しています。心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着けなさい。具体的に29節聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。32節親切、憐れみ、赦し。皆さん、今、神との接点をきれいにしましょう。
B 心を正しく主に向けましょう。箴言3:6「あなたの行く所どこにおいても主を認めよ」先週頂いた御言葉です。しかし皆さん、心の中で主を避けて歩んでいる所がありませんでしょうか。このことは主に働いて頂きましょう。イスラエルの人々が水を注ぎ出すごとくに罪を告白した様に、私たちも主に心を打ち明けましょう。ここは主が取り扱われる所ですね。
皆さん、自動車は表面から汚れを取り除く洗車だけではなくて、さらにワックスやコーティングをします。神との接点の間も邪魔するものを取り除くだけでは、また繰り返しますね。それでサムエルは心の中にある罪の告白を命じました。
ヨハネの手紙一の1章9節は、罪の告白の後、神が清めて下さると約束しています。神が清めて下さるのですから、まるで神と人との接点にワックスやコーティングをするようなものなのでしょう。人から罪の告白を受けた神は、関係修復の為に動かれます。
これは恵みです。教会はこの恵みの伝統を受け継いできました。カトリックでは告解と言って洗礼や聖餐と同じく神の恵みとして大切にしています。わたしたちプロテスタント教会でも形は違いますが受け継いでいます。主の祈りの「我らの罪おも赦し給え」。使徒信条の「罪の赦し」がそれですね。サムエルが最後にペリシテ人が攻めて来る中、どうしてもしなければならない事、それはイスラエルの罪の贖いでした。
最後に、ペリシテ人が攻めてくる中であっても、サムエルが粛々と行った、神との関係修復のために最も重要な事、
C. 贖いの恵みに与りましょう。
罪は洗い流せません。罪は祓い清められません。罪は何かで浄化することもできません。罪があるとは罪に仕える奴隷になっているという状態です。それは目には見えない事です。
それは土地に例えられます。それが誰のものなのか、見ただけでは分かりません。法務局に行ってその土地の謄本をあげないと、所有に関する権利を誰が持っているのかが分かりません。聖書は人の所有権が罪になっていることを伝えています。その所有権を買い取る事を贖うと言います。
キリストはあなたを罪の奴隷から買取り解放し、神のもの、主にのみ仕える者とする為に、十字架で御自分の命と言う代価を支払って(贖って)、「あなたはわたしのもの、わたしの愛するもの、わたしがあなたを罪から解き放つ」と宣言して下さいます。今一度キリストの十字架を見上げ、主にのみ仕える者としていただきましょう。そして「神が助ける」と信じて歩む者とさせて頂きましょう。
最後に、神がイスラエルをペリシテ人から助けられた時に、サムエルはその場所にエベン・エゼル(エベネゼル)と名付けた記念の石を置きました。神が本当にこの時にこの場所でイスラエルを助けられた、という証しです。皆さんも主にのみ仕えそれぞれの人生の中に、この教会の歴史の中に、エベン・エゼルの石を置き続けましょう。後の人がこの石は何の石ですか?と問う時に、神が助けられた事を証しましょう。
2024.09.15
「神の導きを信じる」サムエル記上6章1~16節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
神は昔、エジプトで奴隷だったアブラハムの子孫を救い、神の民イスラエルとし、彼らの真ん中に特別なテントを張らせ、その中央に神の箱を置かせ、彼等と共に住まわれました。神の箱は神との特別な関係を持つ印、神と人の接点でした。その箱がペリシテ人のもとから再び神の民イスラエルのもとに、どの様にして戻って来たのかを伝えている今日の聖書は、今の私たちに重要なメッセージを伝えています。
朗読しませんでした5章には、神の箱を奪ったペリシテ人が災いを受け悩まされた話が書いてあります。神の箱が原因で、彼らの神ダゴンの像が壊れ、民にはれ物が蔓延して7カ月間悩まされました。ペリシテ人の五人の領主は、6章で祭司たちと占い師たちに相談して、二つの方法で神の箱を送り返す事となりました。
①神への賠償の献げ物として金のはれものの像五つと、金のネズミの像五つを添え、神に栄光を帰するかたちで送り返す。
②民が悲鳴を上げている災いは、神からか偶然かを確かめ得る方法で送り返す。
彼等の祭司と占い師は、宗教の分野以外に、当時の社会の状況をよく観
察していた賢い人たちでした。6節「なぜ、あなたたちは、エジプト人とファラオがその心を固くしたように、心を固くするのか。神が彼らを悩ませたので、彼らはイスラエル人を行かせざるを得なくなり、イスラエル人は去って行ったではないか」。彼らはイスラエルの神が起こした出エジプトの事件を詳しく知っていました。
それで2節で「イスラエルの神の箱を送り返すのに、何も添えずに送ってはならない。必ず賠償の献げ物と共に返さなければならない」と領主たちに助言しました。
神は出エジプトした民に、シナイ山の麓で、これからどのようにして神と共に生活するのかを話されました。その中で「何も持たずにわたしの前に出てはならない(23章15節)」と言われました。レビ記は神の前に持って行く献げ物のことを詳しく書いています。その中に賠償の献げ物があります(レビ記5章14節以下)。ペリシテ人の祭司と占い師たちはこの内容の事も伝え聞いていたようです。現代の様に教派を越えた宗教者会議などない時代でしたから不思議です。注目して頂きたいのは、祭司と占い師たちが領主たちに指示した、供え物に込める心、神に栄光を帰する心です。金のはれ物の像5つとネズミの像5つ、と聞いて領主たちは「えらい、高こつくなー」と不平を言わず、エジプトのファラオの様な固い心ではなくて、柔らかい心、謙る心を持ちました。
サムエル記のポイントとして、「人は目に映ることを見るが、主は心によって見る(サムエル上16:7)」があります。主イエスも単に貧しさ、清貧ではなくて心の貧しい人の幸いを話されました。その反対は心の富む人ですね。心が富むとは、高慢な臭いがしますね。また、主イエスは神の前では幼子の様になることを勧められました。
今日の皆さんへの第一のメッセージはこれです。神の前では心を固くしなくて良いのです。力を抜いて柔らかくしましょう。良く見せる必要はありません。無理して、見栄を張って装った心でなくても良いのです。謙った貧しい心でよいのです。
次に、神の箱を送り返す第二の提案に注目しましょう。ココを読んで預言者エリヤとバアルの預言者との対決の場面を思い出しました。列王記上18章22-24節(p.564)を読んでみましょう。最初にバアルの預言者が神の名を呼んでも何の兆候もありませんでした。エリヤは祭壇の周りに溝を掘り、生贄と薪の上から四つの瓶の水を三度注ぎ、水浸しにして、人の目から見て火を持って神が答える可能性を0にして、神に呼び掛けました。すると神は、火を持って献げ物の牛、薪、石、塵を焼き尽くし、溝に溜まった水まで嘗め尽くしました。民はみな、これを見てひれ伏し「主こそ神です。主こそ神です」と言いました。
サムエル記に戻ります。牛に軛を取り付けて荷車を引かせる為にどれ程の訓練が必要なのでしょうか。それも二頭立ての軛です。かなりの訓練が必要です。それから乳を飲ませている雌牛から子牛を引き離したらどうなるでしょうか。牛小屋の子牛は鳴くでしょうし、母牛は子牛の事が心配で何も手に付かないでしょう。主の箱と金の像の総重量はかなりあったでしょうし、道は凸凹だったでしょう。手綱を握る人はいません。牛の行くままにさせます。
皆さん、この牛たちが神の箱を無事にベト・シェメシュの町まで運ぶことは、エリヤが全てを水浸しにした祭壇に火を付けるのと同じ位に、不可能なことですね。それが可能となるなら、神の導きです。今回のペリシテ人とその神を悩ませた災難は、偶然なのか神の為せる業だったのか、祭司と占い師たちはそれを確かめることを領主たちに命じました。『神の箱をイスラエルに返せば、それで良いのではないか。それだったらこんな事をしなくても良いのではないか』と皆さん思いませんか。不思議ですね。
ペリシテの五人の領主はベト・シュメシュの国境まで行き、牛たちが神の箱を確かに神の民イスラエルに届けた事を見、今回の事件が偶然ではなく、イスラエルの神の為せる業であると確信しました。
皆さん、生活の中で色んな事が起こってまいります。それを単なる偶然と、捉えることもできますが、聖書は告げます。神の導きと捉えなさい。コヘレト3章1節(p.1036)は告げます。「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。11節「神はすべて時宜にかなうように造り」。新改訳は「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と、翻訳しています。
新約聖書エフェソ4章6節「すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます」。そして、ローマ8章28節「万事が益となるように共に働く」も同じ事を言っています。今日の第二のメッセージはこれです。全ての事に神の導きを信じて生きて行きましょう。
大切な神の箱を取られてしまった本来の原因は、祭司たちの神を畏れない行動や、長老たちの神の箱に対する不誠実な態度にありました。彼らには神の箱を取り返す力もありませんでした。しかし、そんな彼らの所に神の箱自体が戻って来ました。ここには神の憐れみ深さが現れています。ここを読んで私たちはこの神の憐れみによって恵みによって救われた、という事も忘れてはならないですね。さて、今日のメッセージをまとめると、
①神の前では心を固くしなくて良いのです。力を抜いて柔らかくしましょう。良く見せる必要はありません。謙った貧しい心でよいのです。
②全ての事に神の導きを信じて生きて行きましょう。
最後に二つ聖句をお伝えします。新改訳で。
箴言3章6節「あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。
詩編16:8-9「私はいつも、私の前に主を置いた。主が私の右におられるので、私はゆるぐことはない。・・・私の身もまた安らかに住まう」。
2024.09.08
「神と人の接点」サムエル記上4章
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
プロポーズし続けられる神
私の大学時代の友人との接点は、卒業後年一回の食事会でした。しかし、時間が経つうちに、お互い多忙になり、家庭を持ち出すと更に日程調整が難しくなり、五年前に年賀状をやり取りしていた最後の一人から、定年退職を機に年賀状のやり取りを終わりにしたいと書いた賀状が届きました。ちょっと寂しく感じました。人と人の接点の維持はなかなか難しい面があります。しかし、聖書が伝えている神と、人の接点は、人の方がそれを壊してしまうのですが、神の方がいつも『それでもなお』と、接点を持ち続けて下さっているという、非常に幸いなことになっています。これが私たちに伝えられている、そして、私たちが知らせたい良い知らせ(福音)です。
神が人を神のかたちに、神に似せて造られたのは接点を持つためです。最初に、神が私たちと接点を持たれます。強制ではなくて自由な応答として、私たちも神と接点を持ちます。それを神は待ち続けられます。これはプロポーズに似ています。
私たちはYesと答える事も出来るしNoと答える事も出来ます。エデンの園でアダムとエバが禁断の実を食べた事件は、私たちが、神のプロポーズに対してNoと答えた状態で、生まれて来ることを伝えています。
信仰の始まりとは、そこをYesにすることです。それは新しい電化製品を買って、初めて取り出した時、必ずOffになっていますね。それと似ています。全ての人にはスイッチが付いています。それをOnにするだけなんです。そこから信仰が始まります。
このエデンでの事件の後、神はそれでも人を追い掛け、プロポーズし続けて来られました。聖書はその記録です。信仰を持つとは、この神のプロポーズにYesと応えることです。
神はアダムの家族、ノアの家族、アブラハムの家族、イサクの家族、ヤコブの家族と、接点を持ち続けられた後、ある時からそれまでにない接点を持たれました。それは彼らの子孫がエジプトの奴隷となって苦しめられた時でした。神はモーセを遣わし、エジプトから彼らを脱出させ、彼等を特別な民、神の民と定め、彼等と共に住み、彼等と共に放浪の旅をする、という今までにない接点で深い関係を持たれました。
そのために神は、民のテントに囲まれて、その中央に神のテントを張る様に命じました。神のテントは三重に成っていて、一番奥のテントを至聖所とし、そこに神の箱を安置させ、箱の蓋の左右の端に羽を広げたケルビムという名の天使の像を取り付けさせ、その左右のケルビムに挟まれた空間に現れることとなさいました。
旅に出る時は、テントはたたまれ、神の箱は担がれました。神御自身、昼は雲の柱、夜は火の柱となって彼らを先導しました。羊飼いが羊を養う様に神は神の民に愛を注ぎました。神の箱は、彼等が神とその様な接点を持っている印となりました。
神との接点が無くなる重大事
40年間の放浪の旅を終えて、神は彼らに土地を与え各地に家を建てさせ、神御自身は聖所に家を建て、神の民は各地からその聖所に来て礼拝をしました。ところが、サムエルの時代に長老たちがその神の箱を、兵士の士気を上げて戦いに勝つ為の道具として、宮の中から持ち出しました。そして祭司エリの息子のホフニとピネハスもそれに賛同して同行しました。それは、人と何とか接点を維持し続けようとされる神の愛を踏みにじる様な重大な誤りでした。それで、二人の息子は戦死し神の箱も敵に奪われてしまいました。重大事です。
サムエル記上4章で、祭司エリと、その息子ピネハスの妻は家族をその戦いで失い、大きなショックを受けました。しかし、二人は、神の箱が奪われる事が、それ以上のショックであることを示しました。
18節、エリは二人の息子の戦死の報告ではなくて、神の箱が奪われた報告を受けた時に、ショックのあまり座っていた席から仰向けに落ちて首を折って死にました。
19節、出産間近だったピネハスの妻は神の箱が奪われ、姑と、夫の死の報告を受けた時に、そのショックで陣痛を起こし、子を産んで死に掛けました。死の迫っている母として一番気掛かりなのは、産んだ子の事ですね。
20節、しかし、彼女は我が子の事に気も留めず、二つ事を言い残しました。①息子をイ・カボデ(栄光は失われたの意)と命名する。②その命名の理由は「栄光がイスラエルを去った。神の箱が奪われたから」。神との接点を失うということがどんなに重大事であることがここに示されています。
接点を持ち続ける神
7章で神の箱は戻り、アビナダブの家で守られます。その後、神の民イスラエルは王を立て国を築き豊かになります。神の箱はダビデ王の時にエルサレムに運ばれ、息子ソロモン王が立派な石造りの神殿に安置しました。しかし、その後、王は代々神を軽んじます。エルサレムに他の神々の礼拝場所が造られます。神はそんな彼らと共にいることが困難になり、エルサレムから出て行くしかありません。神との接点は無くなり、とうとう王国が滅ぼされ、神殿は破壊され、神の箱も行方不明になる、という歴史が後に続きます。
神はその事を見据えてか、サムエルを初めとする預言者を立てて、御言葉を通して人との接点を持つと言う新たな道を開かれました。しかし、預言者の言葉に聴き従う王は少なく、反対に預言者達は迫害に会いました。それでも神は預言者を遣わし続けました。しかし、迫害が繰り返されました。
究極の接点
そして、最後に神はその愛する独り子イエス・キリストを遣わしました。神の子は神の御言葉そのものでした。神はイエスに神の身分に固執しないで、私たち人間と同じ肉体をとらせ、人とならせて遣わされました。今までの聖なる空間での接点ではなくて、私たち人間と身体と身体で接するという、究極の接点を神は持つという、新たな道を開かれました。
しかし、人間はそのイエスを十字架刑で殺してしまいました。それでその道は断たれてしまいました。ところが、驚くべきことにそれでも神は尚、人との接点を持ち続けるために、キリストを死人の中から甦らせて、断たれた道を回復させ、和解の手を差し伸べ続けられたのでありました。
皆さんは今、神とどの様な状態ですか。たとえ最悪の状態でありましても、それでも神はあなたと接点を持ちたいと願われ、和解の愛の手を差し伸べられるお方です。イエス・キリストによって示された神の最後のプロポーズにYesと答えてください。神は皆さんの答えを待ち続けておられます。私の状態は良い、大丈夫と思われる方も今一度点検が必要です。
停電に備えて私は電池を入れ替え、これで大丈夫と思った時がありました。ところがスイッチオンにしても電灯は点きませんでした。電池と懐中電灯の接点の金属に錆が付着していたからでした。神と人の接点も点検が必要です。
既にYesと答えたクリスチャンの皆さん、私たちのこの身体とこの人生は、神が接点を持たれる、身体であり人生です。だから、信仰するとは、この体をこの人生を神と共に生き抜く、ということです。
イエスは天に帰る時にこの地上で生きるクリスチャンの為に、特別な神との接点を与える約束を為さいました。それは聖なる霊のかたちになって神がクリスチャンの身体に住まわれる、という接点です。
神はエジプトの奴隷から救った神の民をそのままには出来ませんでした。神は彼らのテントに囲まれたご自信のテントに住み、共に歩み、彼らを導かれました。
同じ様、罪から救われたクリスチャンの身体に神は聖霊と言うかたちで住み、共に歩み導かれます。皆さんの人生の全領域で、神と共に歩ませて頂きましょう。それは聖霊に働いて頂く、導いて頂く、ということです。聖霊は私たちを導いて実を結ばせる働きをなさいます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という実です。この実は全て人と人の接点に関わる内容ですね。神の計画は、クリスチャンが与えられている人と人の接点をとおして働かれることなんです。
最初に人と人の接点の維持が難しい現実をお話ししましたが、この神の働きの事を知った今からは、人と人の接点は大切にしましょう。与えられている接点を今一度確認して下さい。家族、友人、同僚、近所の人、・・・・色々与えられていますね。祈りをもってその接点を大切にさせて頂きましょう。神はそこに働かれます。
2024.09.01
「御言葉において現れる神」サムエル記上3章1節~4章1節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
「神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」。
これは私が1993年に、百合香牧師が2009年に、ナザレン教団総監督が頭の上に手を置いて、按手を授ける時に、開口一番に言われた言葉です。牧師が御言葉を宣べ伝えるのは、御言葉をもって神がご自身を現わされ示されるからです。それが始まったのが朗読箇所のサムエル記上3章です。
聖書には幾つかの大きな分岐点があります。その一つは出エジプト記でした。
エジプトの王ファラオの奴隷として苦しめられていた人々を、神は救い出してシナイ山の麓まで連れて来られ、十戒を与えて彼らを神の民となさいました。その時に、神は御自身の現し方、共におられることの示し方において、今までにない方法を取られました。
まず神は御自分の家(テント)を彼らに造らせ、その一番奥に神の箱を設置させ、その箱の上に羽を広げた一対の天使ケルビム像によって覆われた空間を作らせ、そこに現れることとされました。神のテントは民のテントに囲まれ、神と共にする生活は毎日が礼拝のようなものでした。シナイ山から40年間の荒れ野の旅が始まりました。神のテントはたたまれ、神の箱は担いで移動しました。移動中神は、昼は雲の柱、夜は火の柱でご自身を現わし、彼らと共におられることを示されました。
40年間の旅を終え、神は広い土地を与え、各地に彼らの家を建てさせ、定住生活を送れるようにされました。そして、礼拝場所として神はシロと言う場所に神の家を建てさせ、その中に神の箱を安置させました。民は各地からシロに来て礼拝しました。この様に神と民の関係を維持するのに、神はその奉仕者として祭司を側に置かれました。祭司はアロンの家系が世襲しました。
サムエルが生まれた頃、シロの神殿では祭司エリが仕えていましたが、高齢のため、実質は彼の息子ホフニとピネハスが祭司の務めを引き継いでいました。ところが、彼らはならず者で主を知ろうとせず、神を畏れず軽んじ、本来の務めを果たしませんでした。それで、父エリは息子たちを諭しました。2章25節「人が人に罪を犯しても、神が間に立ってくださる。だが、人が主に罪を犯したら、誰が執り成してくれよう」。しかし彼らは父の諭しに耳を貸しませんでした。
今日朗読されたサムエル記上3章のサムエルの話は教会学校で必ず話され、「主よ、お話しください。僕は聞いております」は子どもたちの暗唱聖句です。この3章の背景にはこの様なことがありました。
ある日、神は人をエリのもとに遣わしてご自分の思いを伝えられました。2章30節「わたしは確かに、あなたの家とあなたの先祖の家はとこしえにわたしの前に歩む、と約束した。だが、今は決してそうはさせない。わたしを重んずる者をわたしは重んじ、わたしを侮る者をわたしは軽んずる」。神がこんな厳しい言葉を直接本人におっしゃるのは珍しいです。一番身近にいた祭司がこの様になったのは、ショックですし、ガッカリですね。しかし、神は増々人との関係回復と交わりの継続を切望され、新たな行動を始められました。3章21節「主は引き続きシロで御自身を現された。主は御言葉をもって、シロでサムエルに御自身を示された」。
御言葉をもって御自身を現わし示すという新しい方法は、先程言いましたように、神と人間の関係において大切な分岐点です。神はなぜそれを子どもサムエルにおいて始められたのでしょうか。7節は、彼がまだ主なる神のことを知らない子どもだった、と説明しています。新約聖書も伝えています。
イエスは大人が追い払おうとしていた子どもを、側に来させ言われました「子どものように神の国を受入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」。
イエスがエルサレムに入場した後、神は境内にいる子どもたちの口に「ダビデの子にホサナ」という賛美を授けられました(マタイ21章15-16節)。
獄中のヨハネの弟子がイエスの所に来て「来たるべきお方はあなたですか」と尋ねた時に、イエスは奇跡を見たのに悔い改めなかった町のことを叱った後で言われました。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことです」 (マタイ11章25節)。
祭司という信仰の指導者的な立場の大人と、そこで礼拝するために集まった大人がいるシロで、神があえて子どものサムエルに御言葉をもって御自身を現わし、御自身の思いを示された理由は、神と人の関係がただ恵みによって結ばれなくてはならないからです。
サムエルは神の呼掛けが分かりませんでした。三回目も分かりませんでした。大人のエリがそれに気付いてアドバイスします。主が呼んでおられるから、今度聞えたら「主よ、お話し下さい。僕は聞いております」と申し上げなさい。皆さん、神からの呼び掛けを受けたなら、僕として聞く、すなわち神を主人として聞く、謙って聞く姿勢が大切です。その姿勢は努力とか修練とか経験によっては得られません。返って努力や修練や経験は邪魔になります。3章18節、エリはこの分岐点に気付き、「それを話されたのは主だ。主が御目に適う通りに行われるように」と謙りました。
サムエルは成人し、預言者の先駆けとなりました。預言者の預は、未来を予告する予ではありません。銀行がお客さんの預金を預かるの預です。神から御言葉を預かってそれを伝えるのが預言者です。3章19節、その言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。必ず実現した、とあります。後の預言者イザヤも書いています。「わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望む事を成し遂げ、わたしが与えた使命を必ず果たす」イザヤ55章11節。
神は御言葉によって御自身を現されました。サムエル、ナタン、エリヤ、エリシャ、16の預言書を書いた預言者たちに。その目的は神が人と共におられ、神と人の関係と交わりを深めるためでした。しかし、人はなかなか謙りません。聞く耳を持ちません。最後の預言書マラキ4章23-24節は、次の新たな分岐点、主の日が来る前に預言者エリヤを遣わすと、筆を置きました。
主の日とは、神がその愛する独り子イエス・キリストを遣わされる日でした。それは御言葉が人となって肉体をとって、この私達の歴史のただ中に生きられ、そのことにおいて神ご自身を現わし、神が共におられることを示すという、大きな分起点でした。イエスの別名はインマヌエル、神われらと共にいます、の意です。私たち人間はこのイエスを十字架の死に追いやりました。しかし、神はイエスを死人に中から甦らせて、平安あれと和解の手を差し伸べ、それでも神が私たち人間と共におられ、関係と交わりを深める事を願っておられる、というご自身の思いを現わされました。これがイエス・キリストの福音です。
御言葉であるイエスは天に帰る時に弟子たちに命じられました「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えよ」。そして教会が生まれ、聖書が編纂され、牧師が立てられ、御言葉を宣べ伝えました。「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても。2テモテ4:2」。
こうして現在この飯塚教会でも御言葉が語られ聞かれるようになっています。
「心に植えつけられた御言葉を、素直に受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことが出来ます。ヤコブ1:20」。
御言葉に対して、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と、謙って耳を傾け続けましょう。神はこれからも御言葉において、あなたがたに御自身を現わされ、あなたがたと共におられることを示されます。ただ恵みによってです。
2024.08.25
「神の絶妙なお考え」サムエル記上2章1~11節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
乳離れの期間を終え幼子サムエルを神に献げる時が来ました。ハンナがその時に祈った祈り、サムエル記上2章3節に注目して下さい。「主は何ごとも知っておられる神」。
ハンナが知っているのはその一部、しかし全てを知っておられる神には、彼女の胎を閉じるという不幸にも、神の絶妙なお考えがあるので、彼女はそのお考えを重んじ、そのお考えに信頼し、尚、将来の事も神に期待しました。この信仰に立つ全ての人を代表してハンナは祈りました。と言うよりも、これは賛美です。
私たちも新約聖書を通して約束を受けています。「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共にそれに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます(1コリント10:13)」。
また、私たちの信仰の先輩が素晴らしい賛美を伝えています。新聖歌26番「わが主の御業は」です。チョット開いてみましょう。私たちの人生には①乏しき時、②暗きが光を隠す時、③霧に覆われる時、④嵐の中に置かれる時があります。しかし、1番と3番で、そこには「妙なる御旨」、すなわち神の絶妙なるお考えがあることを繰り返し、だから、神が行なわれることは全て正しいと歌います。
人生には幸だけではなくて不幸も与えられます。この不幸をどう受け止めたらよいのでしょうか。不満と不平を口にして歩み続けることも出来ますが、今日の聖書は勧めています。ハンナの様に、自分の不幸にも神の絶妙なお考えがあると信じ、それを受け止め、神にお任せし、将来を神に期待して、神が深く自分の人生に関わられると捉え直して前に進めましょう。いや、あなたがそうする前に実は神の方があなたに既に関わっておられます。
あなたに命が与えられていることが、その一つですね。昔からその事は多くの人が感じて来ました。ですから「命は天(神)からの授かりもの」と言われて来ました。しかし、もう一つあります。それは感じることができません。それは聞かないと、伝えてもらわないと分かりません。教会はその伝えるという使命を与えられています。
神は皆さん一人ひとりと深く関わる為に、愛する独り子イエス・キリストによって、三つの大きな関りを既に持って下さっています。
①神はイエスに私たちと同じ、この弱い肉体を持たせて産まれさせ、人生に立ちはだかる壁を経験させ、徹底的に私たちに近づいて関わられておられます。これがクリスマスのメッセージですね!
②神はこのイエスを通して神と深く関わる道を一本通されました。その道は十字架に向かう道でした。イエスは十字架に架けられる前の夜、ひとりになって祈られました「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけて下さい。しかし、わたしの願う事ではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14:26)」。イエスは神の絶妙なお考えに任せられました。しかし、イエスが通らされた道は、弟子の裏切りと、無実の罪、すなわち冤罪と、十字架での処刑、痛みと苦しみと渇きと死、という神に見捨てられる最悪の道でした。
③しかし、その道はまだ続いていました。神は、三日目にイエスを死人の中から甦らせ、新しい命を与え、40日間弟子たちと共に過ごさせ、天に昇らせ、神の右に座らせ、神に通じる道を、皆さん一人ひとりに対して既に一本通されたのです。
今日、このイエスの誕生と十字架と復活と昇天という三つの関りを通して、神が皆さんに伝えたいメッセージは、これです。『皆さんが如何に最悪の道に立たされようとも、そこには必ず神の絶妙なお考えがあり、そこも神と通じている』。使徒パウロがローマの信徒に宛てた手紙で、このメッセージを信じる者、すなわち、神を愛し、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く、と書いたのは神が絶妙なお考えを持っておられるお方であると教会が知っているからです。
さて、サムエル記は、神が特別に深い関係を結ばれた民が、王を立て、国を興し、富みを築き、この世界に出て行く物語です。その最初に、女性の中で蔑まされる存在だった不妊の女ハンナの祈りが置かれているのには深い意味があります。最初に申しましたようにこのハンナの祈りの内容は賛歌です。サムエル記は二つの賛歌でサンドウィッチされています。最初がハンナの賛歌で、最後はダビデ王の賛歌(サムエル記下22章以下)です。新共同訳聖書は「ダビデの感謝の歌」と見出しを付けています。それによってこの世界に対するメッセージを表しています。より広い視野に立つならば、このサムエル記の賛歌はこだまして、後の新約聖書ルカ福音書1章でイエスを懐妊したマリアの口からも聞くことになります。「わたしの魂は主をあがめ・・・」で始まるマリアの賛歌です。
この事を頭に入れて、もう一度ハンナの祈りに注目して下さい。全部で10節ありますが3節の最初の2行だけが命令文になっています。「驕り高ぶるな、高ぶって語るな。思い上がった言葉を口にしてはならない」。これは世界に対する警告ですね。そして、警告する理由を10節の最後まで続けています。「主は何ごとも知っておられる神。人の行いが正されずに済むであろうか」。新しい聖書協会共同訳は「人の行いを量られる」と翻訳しています。こちらの方が原文に近いです。ここを読んで私はローマのバチカンにあるカトリック教会の本部、聖ペトロ大聖堂の中にある量りを持った女性の彫刻を思い出しました。全ての事には神の絶妙なお考えがあるだけではなくて、全ての行いは神によって必ず量られます。これは最後の審判のことですね。最後の審判、と聞いたら恐ろしいですね。
しかし、私たちを愛して私たちの罪に対する罰の身代わりとして十字架にかかって下さったイエス・キリストを、神は復活させて天に帰らせ、神の右の座、すなわち最後の審判者にお立て下さいました。ここには神の憐れみがありますね。皆さん、私たちの周りには人の行いが正されていない現実が沢山あります。しかし、私たちも言いましょう。「主は何ごとも知っておられる神。人の行いが正されずに済むであろうか」。サムエル下22章23節で、ダビデ王はこの神の審判をすべての前に置いて自分は行動したいと歌い、23章3節では、自分の後に続く王の事を思い、神に従って神を畏れて人を治める王に祝福あれと歌っています。主イエス・キリストの誕生・十字架・復活・昇天を通して、神は私たちに確かに示されました。『私たちの主イエス・キリストの神は、絶妙なお考えを持って事を為されると共に、人の全ての行いを量られるお方である』。
箴言3:5は勧めています。常にこの主なる神のことを覚えて、あなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋を真っすぐにしてくださる。お祈りをしましょう。
2024.08.18
「ハンナの信仰」サムエル記上1章1~20節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
人の名前には親の思いが込められています。
エルカナ、お前の人生で壁が立ちはだかる時、『私はエルカナ、神は私を愛し祝福する、私の造り主なんだ』、と思い出すんだぞ。
ハンナ、お前の人生で希望を見いだせない時、『私はハンナ、神は必ず私にも恵みを注いでくださるんだ』、と思い出すんだぞ。
サムエル記はこのエルカナとハンナという夫婦物語から始まります。2節で早速この二人の前に立ちはだかった壁のことが記されています。「ぺニナには子供があったが、ハンナには子供がなかった」。とかく宗教は人生の中で立ちはだかる壁の原因を先祖の祟りとし、先祖供養を勧めます。今大きな問題を起こしている宗教は先祖解怨(かいおん)と言って、何十世代前まで遡って解怨する必要を説き、その為に多額の費用を求めます。しかし、聖書は全く違います。5節に注目して下さい。「主はハンナの胎を閉ざしておられた」。原因は先祖の祟りではなく、全て主なる神にあります。
神は一人一人に平等に一律に同じ人生をお与えに成りません。それで人は「神さまどうして、私はあの人と違ってこうなんですか?」と、神に対する不信と不満を持ちます。アダムとエバの長男カインが最初にそれを経験しました。神は弟のアベルのささげ物に目を留め、カインのそれには目を留められませんでした。しかし、神はカインに不公平をして意地悪をしたのではありません。
皆さん、喧嘩友達と言って、人間関係というものは、二人の間に衝突が起こって、隠れていたお互いの事が表に出て、以前より関係が深まります。神はカインとの関係を深める機会として、彼の前に壁を置かれました。が、カインは激しく怒って顔を伏せ、隠れていた彼の一面が露になりました。それで神は直ちにカインに声を掛けられました。父が子を諭すように。『カイン、人生にはこの様な壁があなたの前に立ちはだかる時があるんだよ。その時に私とあなたとの関係はどうなりますか?罪がお前との関係を結ぼうと狙っているから気を付けなさい』。しかし、カインは神との関係を断ち切りました。その時、神からフリーになったカインを狙っていた罪の誘いを受け、カインは罪と関係を深く持つようになりました。しかし、神はカインとの関係を断ち切られませんでした。皆さん、神はあなたを愛し祝福する、あなたの造り主、すなわちエルカナ。必ずあなたにも恵みを注いでくださるお方、すなわちハンナです。
先週まで読んできましたルツ記では、ナオミが夫と二人の息子を亡くし、ただ一人残されるという壁が彼女の前に立ちはだかりました。その時彼女は神に自分の不幸を訴えましたが、神に自分の未来を期待しました。
旧約聖書にはヨブ記という書があります。ヨブは一日で全ての財産と子ども全員の命を失い、自身の健康まで取り上げられました。それでも彼は神に対して真っすぐに信頼したい思いを持っていましたから、「私は裸で母の胎を出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と祈りました。しかし、『神さまなぜですか?』という疑問が心の奥に残っていました。それでその事について友人たちと長い長いう話し合いをしました。しかし最後にヨブは、自分が神を問う立場ではなくて、ただただ造り主なる神を信頼し、その偉大な摂理の中に安らかに身を置いて、「私は裸で母の胎を出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」と、神に信頼する身である事に気付かされました。
さて6節、ハンナは不妊以外にエルカナの第二夫人ぺニナから苦しみを受けました。7節、このぺニナのゆえに泣いて食事を取らないハンナのことでエルカナは困り果てますが、8節を読むと彼がその原因に気付いていないことが分かります。『エルカナ、あんたがぺニナを第二の妻にしたのが原因でしょ』、と言ってやりたいですね。妻を二人持って夫婦関係を維持する事が如何に難しいかが分かります。ハンナは神に対してカインの様に激しく怒って顔を伏せませんでした。立ち上がって主の家に向かいました。神の前にひとり立つためでした。9-11節に神の前で彼女がしたことが書いてあります。悩み嘆き、祈り、激しく泣き、誓いを立てました。12 -14節、それを見ていた祭司エリは彼女が酒に酔っているのだと判断し、注意しました。その時のハンナの返事に注目して下さい。15節「ただ、主の御前に心からの願いを注ぎ出しておりました」。
詩篇62篇8節「民よ、どのようなときにも、神に信頼し、御前に心を注ぎ出せ」とあります。皆さん、神への信頼を態度で示しましょう。心の中を神の前には隠さず、今流行りの言葉で言うなら、ブッチャケましょう。
次にハンナの立てた誓いは、彼女の神に対する信仰の表明でした。男子を授かって、今まで苦しめて来たあのぺニナをガツンと言わせたい。そんな思いもあるでしょうが、ハンナが最も望む事はそんなことではありませんでした。神が苦しむ私の事を御覧になっている、心に留めておられる、お忘れになったのではない、信頼すべきお方であるという、彼女と神との関係の確かさの確認でした。ハンナは自分の信仰の土台を、神と自分の関係の確かさに据えました。これがハンナの信仰です。彼女は折角与えられた子であるが、一生その子を主に献げることを誓いました。皆さん、神は信仰を表明を受けて、じっとしておれなくなりました。
17節、エリは神の御前に心注ぎ出す者に対して、祭司の務めを果たします。神に代わって「安心して帰りなさい」と宣言しました。するとハンナに変化が起こります。食事をして18節「彼女の表情はもはや以前のようではなかった」。そして19節、ハンナの願い通り主は彼女を心に留められ、身ごもって男子を産みました。皆さん、皆さんは信仰をどう表明しますか。ささげることですね。身近な所では献金があります。献金は信仰の表明です。
最後に、皆さんの信仰の土台はどこに据えていますか。私たちの信仰の土台は神の独り子、救い主、イエス・キリストです。神はキリストを私たちと同じ、この弱い肉体を持って産まれさせ、人生に立ちはだかる壁を幾度も経験させ、本当に私たちに近づいて下さいました。そして、イエス・キリストはゲッセマネの園で「この杯をわたしから取りのけて下さい」と苦しみもだえ切に祈られ、十字架の上で「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫んで、神の御前に私たちを代表して、心を注ぎ出し切られました。そして私たちを代表して、神との関係の確かさを求めて下さいました。それに対して神は、三日目にイエス・キリストを死人の中から甦らせて答えられました。今日、私はこのイエス・キリストのゆえに、神に代わって皆さんに宣言します。
あなたの前にどんな壁が立ちはだかりましても、たとえ死と言う最大の壁が立ちはだかりましても、あなたは神に見捨てられたのではありません。神はあなたを心に留めておられます。皆さん、今、心を神の御前に注ぎ出し、神との関係の確かさに依り頼みましょう。その信仰を表明しましょう。
十字架と復活のイエス・キリストのゆえに、神に代わって私も宣言します「安心して帰りなさい」。
2024.08.11
「神と人の祝福」ルツ記4章1~22節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
今日はルツ記の最後の章です。私たちはナオミ、ルツ、ボアズの信仰について聞いてきました。ルツはボアズの妻になります。このことは実は、ルツがダビデ王の曾祖母となるということなのです。マタイによる福音書のイエス・キリストの系図1:5に「サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、エッサイはダビデ王をもうけた」とあり、そして、ダビデ王の子孫は、救い主であるイエス・キリストに至ります。つまり、ルツは神さまの「救いの歴史」のご計画の中に入れられていた女性なのです。1章で「モアブの女」と書かれていますように、イスラエル人ではないルツです。ベツレヘムの町では小さな存在でした。しかし神さまのご計画は、本当に不思議です。
さて、ベツレヘムの町の入口には、門がありました。ボアズは、その門に座ります。この「町の門」は、単なる入口ではありません。4節に「裁きの座にいる人々」とあります。ユダヤでは町の中の問題は、門に座って裁いたのです。ボアズはナオミの家を絶やさない責任のある人物ですが、彼以上に責任のある人物がいました。ボアズは、その親戚を座らせ、町の長老を10人座らせます。現代的に言いますと、家庭裁判所で裁判を行うようなことです。
裁くというのは、「分ける」という意味があります。
キリスト教国では裁判を始める時に、聖書に手を置いて始めると聞きますが、それは、運命の分かれ道であり、神さまの計画が行われる時です。3:18で、ナオミがルツに「このことがどうなるかわかるまでじっとしていなさい」と言いましたが、ここは、原文では「座っていなさい」という言葉が使われています。ナオミとルツとボアズは、この問題がどう導かれるのか、じっと座って、神さまに委ねました。これが、信仰者の姿です。イエス様は、弟子達にどのように祈るのかを教えられました。その祈りを、私たちは主の祈りとして祈っています。その中で「み心が行われますように」と祈ります。「門のところで座る」という行為は、神さまのみ心を求める行為なのです。
親戚の人はナオミが畑地を手放すということを聞き、畑地を買い取るという提案を受け入れます。「買い取る」というのは「あがなう」という意味です。みなさん、ナオミとルツはこの親戚の人に買い取られるのでしょうか。ボアズとルツの出会いは、神さまの導きではなかったのでしょうか。ボアズは、何とかして不幸な二人の女を、神さまの恵みの中に入れてやりたいと考えています。しかし、ボアズは自分の考えで行動しません。神さまの定められた方法で、静かに続けて言います。
5節「あなたがナオミの手から畑地を買い取る時には、亡くなった息子の妻であるモアブの婦人ルツも引き取らなければなりません。故人の名をその嗣業の土地に再興するためです」。嗣業とは、イスラエルの人々がエジプトを脱出し、約束の地に入り、神さまによって与えられた土地です。それは、神さまの祝福として受け継がれなければならない土地です。つまり、親戚の人がその土地を買い取っても、自分のものにはなりません。ルツに生まれる息子がその土地を受け継ぎます。
日本でも、長男が家を継ぐという習慣があります。しかしこれは、家長制度を守るということと、先祖の供養のためですね。ユダヤの制度は、神さまが決められた掟です。今、小さくなって生きなければならない者を守るための、愛の掟です。
親戚の人は、その掟のことはすっかり忘れていたのでしょう。ルツ記は士師が治めている時代です。士師記21章25節にあるように、自分の目に正しいと見えることを行っていた時代でした。6節「そこまで責任を負うことは、わたしにはできかねます。それではわたしの嗣業を損なうことになります。」この言葉は、この人の「損か徳か」という価値観が現れています。
現代もそのような時代ですね。スマホで欲しいものを1回検索すると、その後その商品のCMがしつこく画面に表示されます。この世界は、目に見えるものに最大の価値をおいていますね。しかし、聖書はもう一つの道を示します。それは、神さまのお考え、神さまの意志、を受け継ぐことです。神さまの愛の掟を受け継ぐことです。ボアズは、この掟を受け継いで行きます。
新約聖書Ⅱコリント4:18に「私たちは見えるものにではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。」神さまは私たちにも、神さまの心を受け継ぐ者になることを望んでおられます。
11節「門のところにいたすべての民と長老たちは言った。」ボアズたちの周りに、町中の人たちも集まってきました。何年もの間、神さまの掟に従った、このような裁判は行われなかったのではないでしょうか。静かで、しかし、その人生に神さまの意志をしっかり受け継いでいるボアズによって、人々は自分たちが忘れていた信仰を呼び起こさせられました。「そうです。わたしたちは証人です。」と彼らは、神さまの計画が、今日、確かに行われたことの証人になりました。
11節の「ラケルとレア」この二人の女性は、族長ヤコブの二人の妻の名前です。ヤコブの子どもたちは、イスラエルの十二部族の先祖となりました。ですから、彼女たちは、神の民の母なのです。12節の「タマル」も未亡人になった女性です。しかし、しゅうとユダによって子どもを産みます。(創世記38章参照)現代に生きる私たちは、そんなこと許されるの、と思いますが、ユダヤ社会では、子孫を残すことは、嗣業の土地を継ぐことであり、神さまの祝福の中を歩めることでした。ボアズの信仰をとおして、町の人々に、神さまの祝福を思い起こさせたのです。彼らは、ナオミとルツのために祝福を祈るものへと変えられます。私たちの信仰の歩みも、人々に神さまの祝福を伝えることができるのです。神さまの祝福を、自分達だけのものにしておくのでなく、他の人々のことを覚えて、主の祝福を祈りましょう。特に、困難な中にある人々のことを覚えましょう。
13節「主が身ごもらせたので」と聖書は言います。ルツとナオミは人々の祝福だけでなく、神さまの祝福をいただきます。困難な中も、二人は神さまを信頼したからです。14節に「主はあなたを見捨てることなく」とありますが、原文では、「不足のままにさせられなかった」となっています。15節の「その子はあなたの魂を生き返らせるものとなり、老後の支えとなるでしょう。あなたを愛する嫁、七人の息子にもまさるあの嫁がその子を産んだのですから。」と言っているのは、主に支えられている確信、これが老後を支えるものだと言っています。私たちの人生にも欠けがあり、壁があり、弱さがあります。聖書はそこに神さまの支えがあることを伝えます。
イザヤ書46:4「わたしはあなたがたの年老いるまで変わらず、白髪となるまで、あなたがたを持ち運ぶ。わたしは造ったゆえ、必ず負い、持ち運び、かつ救う」とあります。
神さまの祝福はルツをとおして現されました。そしてその祝福は「ナオミが七人の息子を産むよりもまさる」ものだというのです。この女たちの言葉は、信仰の告白です。神さまは、社会の片隅で落ち穂拾いをして生きていた、二人の女の信仰に応えて祝福を与えられました。そのナオミとルツの信仰をとおして、町の女たちにも信仰が呼び起こされました。私たちも、私たちが神さまを信頼して歩む、その歩みをとおして主が働かれることを信じましょう。その歩みは神さまの祝福に繋がることです。
ルツ記は最後の18節以下にダビデの系図を載せています。
皆さん、ボアズは、実はヨシュア記2章に出てくる遊女ラハブの息子です。イスラエルがエリコの町を攻めた時に、その斥候、偵察隊ですね、その人たちをかくまったのが遊女ラハブです。神様は罪深いと思われていた遊女ラハブをその時用いられます。そして彼女は、ダビデ王が生まれる系図の中に入れられるのです。ルツ記の系図は、女性の名前を記しません。けれども、新約のマタイの系図1:5にはラハブとルツの名前が書かれています。この二人の女性は、よもや、自分たちが、イスラエルで最高の王であったダビデ王の先祖となり、救い主イエス・キリストの先祖となるなんて、思いもよらなかったでしょう。しかし、これが神さまの救いのご計画だったのです。
イエス・キリストの誕生という、クリスマスの出来事は、損か徳かを基準とする暗いこの世界、いつかは消え去る見えるものに価値を見出そうとする世界に、確かな支えと祝福は目に見えないものにあることを、イエス・キリストの十字架と復活を通して、それが確かにあることを証明された出来事です。
みなさん、神さまはルツ記4章を通して「あなたも私の救いの計画に入れられているのです」と今日、言われます。そして全ての人が救いの計画に入れられるために、キリストは来られたのです。
私たちも神さまの救いのご計画に入れられていることを覚え、そこに神さまの最高の祝福が注がれていることを共に感謝いたしましょう。
2024.08.04
「真心と責任」ルツ記3章
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
今朝は「真心と責任」と題を付けましたが、「真心」とは「ルツの信仰」であり「責任」とは「ナオミとボアズの信仰」のことです。今まで二回のお話を聞いて来られた方はお分かりと思いますが、ルツの信仰は、ナオミの信仰をしっかりと受け継いだ信仰と言えます。このことは私たちの信仰が「真心と責任」を目指すなら、いつか家族に、また次の世代に継承されて行くと思うのです。そういう意味でルツとナオミの信仰は私たちにとって大変教えられるものがあると思います。
さてこの物語は、若い時、満たされた状態でベツレヘムを出て行ったナオミが、空手でベツレヘムに戻ってくるという出来事を通して、人生の幸せも不幸も、すべて神様のご計画の中にあると言います。
しかし、神様は何故不幸までもくださるのでしょうか。
聖書の冒頭に、「初めに、神は天地を創造された」とあります。この言葉は、初めに、神様がおられたことを、まず伝えます。その神様が世界を造られたのです。この世界が存在しているということは、そのことのれっきとした証拠です。創世記1章を注意深く読んでみると、世界ができる科学的な順番を伝えているのではありません。神様は「人が幸せに生きるための世界」をまず準備され、次に人を造られたことを伝えています。
皆さん、赤ちゃんはお母さんのお腹の中に宿ります。その時、子宮の中は血液で柔らかいお布団が造られます。卵子が大変デリケートだからです。このこと一つを見ても、神様は万全の準備をして人を生まれさせられるのです。それは、人が幸せに生きるためです。不幸になるために造られません。自分の子どもが不幸になって欲しいと思う親がどこにいるでしょうか。人の親がそうだとすれば、神様はなおさらです。皆さんを造ってくださった方なんですから。そのことを、創世記1:27はこう宣言します。「神はご自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された」。つまり、御自分に似せてつくられたのです。この様に見ますと、神様はご自分の方から不幸を与えようと考えられたのではないことが分かります。
それでは、いったいどこから不幸が起こるのでしょうか。それは、人が神様に造られた「被造物である」ということを忘れてしまったからです。神様に造られたものとして、神様に愛されるものとして、神様と一緒に歩んでいたなら、今もエデンの園で幸せに生きていたはずです。
神様が造られたものの中で、最も賢かったのは蛇でした。聖書の言う蛇とは、「誘惑」という蛇です。その誘惑とは「人が神のようになる」、つまり「人が神になる」という誘惑でした。創世記3:5にそう書いています。人は神に造られた者として生きず、神になろうとして歯車を狂わせてしまったのです。その時から、神様に愛されていることを忘れてしまう存在になったのです。そして、神様と共に歩むことも止めてしまいました。神さまはそんな人間とエデンの園で一緒に生きることが出来なくなりました。これが不幸が起こる原因だと聖書は言います。
神様が造られる世界は、貧しい者、虐げられている者、小さいと見られている者が顧られる世界です。そして、それぞれに異なった良い物をくださっています。その一つ一つは、神様の目には高価なのです。豊かな国は貧しい国のために存在しているのです。キリスト教のある団体が、「分けると増える」というスローガンを掲げたことがあります。何が増えるのでしょうか。一つのおやつを分けると、増えるのではなく減りますね。でも、そこには愛が増えるんです。世界の資源には限りがあります。力のある国が独り占めをしない分け方をする。これが神様の目指される世界です。しかし、現実はそうではありません。それは人が神様と共に歩まなくなったからです。人が神様の心を、自分の心としなくなったからです。
ルツ記3章は、そんな現実の中で、神様の心を自分の心として歩んだナオミとルツそしてボアズの3人の物語です。
嫁のルツは、ベツレヘムに着いてから、毎日畑に落ち穂を拾いに行きました。ルツがせっせと姑ナオミのために畑に行っている間、ナオミは何をしていたのでしょうか。夫と息子二人に死に別れ、悲しみに暮れていました。しかし、ナオミは何時までも悲しんでばかりいませんでした。「わたしはあなたが幸せになる落ち着き先を探してきました」と1節で言います。
実は、嫁が畑に行っている間、ナオミは彼女の幸せを毎日考えていたのです。1:9で「どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように」と祈ったことが実現するように、ナオミはできる限りのことをしていたのです。ルツが働いている畑の持ち主であるボアズの評判を、町へ行って聞き込み調査をしていたのです。ボアズの評判は、姑ナオミのテストに合格しました。ナオミはその晩、ボアズが「大麦をふるい分ける」という情報を聞いてきます。「大麦をふるい分ける」のは夕方の風が弱くなった頃に行われるそうです。
今のように脱穀機などありませんから、その仕事は重労働でした。ですからその夜は、疲れを労うためにご馳走とお酒が振舞われたようです。今で言う、打ち上げですね。ボアズにとって、大仕事をした充実感を味わう時です。収穫の喜びの時です。ナオミは今夜が「神様の慈しみの時だ」と直感したのです。3節で「体を洗って香油をぬり、肩掛けを羽織って麦打ち場に下って行きなさい」とルツに指示します。これは、花嫁のする準備です。ナオミは神様の慈しみに信頼しルツにそう指示したのです。
男達は、収穫した大麦が盗まれないように、ふるい分けた場所で寝ます。10節を見ますと若い男も沢山いたようですから、ボアズが休む場所を確り見届けるようにと、ナオミはルツに指示を与えます。ルツはモアブ人ですから、ユダヤ人の習慣を知りません。ナオミは事細かにルツがなすべきことを伝えます。ナオミはルツのことをもはや嫁ではなく、自分と同じつらい経験をした存在として見ています。ナオミはルツを、どうしても幸せにしてやりたかったのです。
「衣の裾で身を覆って横になる」というのも、結婚に関することです。皆さん、もし、ボアズがこの夜、何時もより気分がよくて、ついつい普段より多めにお酒を飲んで熟睡し、夜中に目を覚まさなかったら、どうなったでしょうか。ルツは、ボアズに気づいてもらえず夜が明ける前に惨めな気持ちでナオミのところに帰ることになるでしょう。しかし、ルツも「言われるとおりにいたします」と言って「神様の慈しみに信頼した」のです。
ナオミは、大麦をふるい分けた男達が、アルコールを入れてほてった身体に、覆いをしっかり掛けずに寝込んでしまうことまで考えたのでしょう。夜中に酔いが覚めて、覆いを捜した時に、きっと「ルツの存在」に気付くに違いない、と。実は、2節の「あの人は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです」という、ナオミの言葉ですが、原文にはその夜のことを強調する言葉が付いていて、「見よ、彼は今晩、麦打ち場で大麦をふるい分けるそうです」となっています。
ナオミのルツに対する責任感が、神の時への感性を研ぎ澄まさせました。ナオミのルツに対する責任感は、愛が生み出したのです。神様は人を愛するものに、このような助けをくださる方なのです。
ボアズは足元にいるのがルツだと気付きます。10節の「あなたは、若者なら、富のあるなしにかかわらず追いかけるというようなことをしなかった」という言葉から、ボアズはもはや若くはなく、ルツが恋心を起こされるような年齢ではなかったのです。ですから、ルツは彼に対する恋心で、畑に通ったのではないのです。ただ、純粋にナオミを思うルツの真心によって、ボアズの畑に通っていたのです。9節の後半で「あなたは家を絶やさぬ責任のある方です」とルツが言っていますがここは、原文では「贖い主」という言葉が使われています。申命記25:5-8にある律法のことです。それは「人が子を残さずに死んだ場合、買い戻しの権利がある者がその妻と結婚をして、死んだ者の名をのこすように」という決まりです。これは、家族のいない未亡人となった女のいのちを守りなさい、という神様の配慮ある決まりです。
この神様の配慮に対して、ルツは真心で応えます。10節のボアズの言葉にある「今までの真心」とは、畑に行ってナオミの為に尽くしたことです。「今、あなたが示した真心」とは、今後のナオミのことを案じるルツの真心のことです。ボアズは、ルツの真心に、心打たれました。彼も、「主は生きておられる」と信仰を言い表し、自分の責任を果たすことを約束します。
不幸という出来事が、真心と責任を生み出させました。この真心と責任は、人の努力で生み出されたものではありません。神様の慈しみに対する信頼によって、信仰によって、生み出されたのです。
ルツはナオミのもとに戻り、報告します。ナオミは「私の娘よ、成り行きがはっきりするまでじっとしていなさい」と言います。12節、ボアズ以上にナオミの家を絶やさない責任のある人がいたからです。二人は、神の慈しみに信頼し、神の時を静かに待ちます。
信仰は、船についている錨です。大嵐に遭遇した船は、錨を下ろして、嵐が過ぎるのをじっと待ちます。ナオミとルツは、錨を下ろしている中で「真心と責任」という素晴らしい宝を頂きました。わたしたちも、神様への確かな信仰をいただきたいと思います。その信仰をとおして、家族に、次の世代に、神様を伝えていきましょう。
2024.07.28
「ボアズの信仰」ルツ記2章
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
ベツレヘムから家族四人で出て行ったナオミでしたが、神様は彼女から夫と息子二人を取り上げて、再びベツレヘムに戻されます。嫁ルツと姑ナオミ、女二人だけの故郷への帰国です。1:21の、「出て行くときは、満たされていたわたしを、主はうつろにして帰らせたのです」というナオミの言葉は、彼女の暗い気持ちを表わしています。ナオミは自分の信じる神様は「幸せだけでなく不幸をも与える方である」という信仰をもっていました。しかし、信仰をもっていましても、不幸という現実を経験した彼女は、今はどうしても明るい気持ちになれません。しかし聖書は、そのような状況の中にあるときにこそ、神様を自分の人生の主人として、導き手として認めることがどんなに幸いなことか、ルツ記を通して教えています。
わたしは聖書を読んでいくときに、心がけていることがあります。それは、その箇所の中に「宝物を見つけさせてください」という思いです。そういう思いをもって読んでいきます。1:19に「二人は旅をつづけ、ついにベツレヘムに着いた」とあります。ここの「ついに」という言葉、「やっと」ではなく、「とうとう」でもなく、「ついに」です。この言葉から皆さんはどんな連想をされるでしょうか。聖書は、想像力をたくましくして読みますと、本当に豊かなものだということを知ることが出来ます。教養と経験豊かな皆さんが、想像力を豊かにして読まれる時、きっと「宝物」を見つけられると思います。
「ついにベツレヘムに着いた」。落胆して帰って来たナオミですが、ここから何かが起こる、という予感をさせる言葉です。
今朝のルツ記2章、皆さんが心引かれたのはどの言葉でしょうか。
2章は、宝物がたくさん散らばっていまして、説教題をどれにしようかと迷いました。けれども、ついに「ボアズの信仰」としました。それは、ベツレヘムに着いたナオミとルツに、このボアズという一人の男性の信仰によって、「希望の光」が大きく輝いたからです。
この二人の出会いはといいますと、3節、「ルツは出掛けて行き、刈り入れをする農夫たちの後について畑で落ち穂を拾ったが、そこは、たまたまエリメレクの一族のボアズが所有する畑地であった」事です。ナオミの夫であるエリメレクの一族ですから、ナオミの親戚ということですね。そこに「たまたま」行ったのです。
人生に偶然ということはないと、私などは聞いてきました。神さまは何か計画を持っておられる、と聞いてきました。しかし、わざわざ「たまたま」と訳されました。何故でしょうか。これは、神様の導きだと考えていないような時にも、じつは神様の導きの中にあるのだということを意図して、そういう信仰をもって、こう訳されたのではないでしょうか。私たちは神様の導きということについて、随分時間が経ってから気付かされることが多いのです。
ルツは、この日の朝、「畑に行ってみます」と言って出かけます。22節に「誰かからひどい目に遭わされる」とありますから、畑に行って、必ずしも良いことがあるとは限らなかったのです。しかし、ルツは勇気をもって出かけます。「厚意を示してくださる方に出会えますように」という祈りをもって出かけます。ルツは何故そのように祈ることができたのでしょうか。それは、ナオミが信じる信仰にあります。申命記24:19-22にこうあります「畑で穀物を刈り入れるとき、一束畑に忘れても、取りに戻ってはならない。それは、寄留者、孤児、寡婦のものとしなさい。こうしてあなたの手の業すべてについて、あなたの神、主はあなたを祝福される。・・・あなたはエジプトで奴隷であったことを思い起こしなさい。わたしはそれゆえ、あなたにこの事を行うように命じるのである」。
ナオミの信じる神様はこのように貧しい者を守られる方であることを、ルツは聞いていました。ですから、この命令を守る人のもとに神様が導いてくださるという希望をもって、畑に出かけたのです。それは「神様の厚意を見つけに出かけた朝」でした。祈りと信仰をもって出かけた朝でした。私たちはどうでしょうか。一日を始める時、何かを始める時、ルツのように「神様の厚意を見つけに出かける」気持ちでいるでしょうか。神様が備えてくださる厚意に期待をして始めているでしょうか。
ルツは、ナオミの家を絶やさないようにする責任のある人の一人である、親戚のボアズの畑へとやって来ます。そこへ、4節、ボアズがベツレヘムからやって来ます。二人とも、ベツレヘムからやって来たのです。ルツの後を追うようにして、ボアズがやって来たことになります。1節で、「ナオミの夫エリメレクの一族には、一人の有力な親戚がいて、その名をボアズといった」とありますから、ボアズは他に幾つもの畑を所有していたのではないでしょうか。そのボアズが、その日、たまたま、ルツのやって来た同じ畑にやって来たのです。これが二人の出会いでした。
二人の出会いは、確かに神様の導きでした。しかし、ボアズは有力な人です。ベツレヘムでは名声も知れ渡っていたでしょうし、富は十分過ぎるほどありました。8節を見ますと、落穂を拾いに来ている女たちはたくさんいたようです。初めての女が落穂拾いに来ることは珍しくありませんでした。しかし、5節で「そこの若い女はだれの娘か」と聞いています。ボアズは初めて自分の畑に落穂を拾いに来る女に対して、いつも気に掛けている人だったのではないでしょうか。「この人はどんな事情で落穂を拾う運命になったのだろうか」と、心に掛ける人だったのではないでしょうか。ボアズは、名声と富を決して自分で手に入れたものとは考えず、神様から委ねられたもの、神様から預かっているものという信仰をもっている人でした。
ですから、ナオミとルツがベツレヘムに着いたとき、彼は直ぐにそのことを聞きつけます。11節で、二人のことは「何もかも伝え聞いていました」とあり、モアブの地で不幸な目に会い、落胆して帰ってきた二人のことに、無関心ではいられなかったのです。
姑の故郷とは言いましても、ルツにとっては異郷の地です。ルツは自分のことを13節で「あなたのはしためのひとりにも及ばぬこのわたし」と言って、落ち穂を拾いにきている、たくさんの自分と同じ不幸な女達がいましても、彼女はその中で最も小さな存在だったのではないでしょうか。しかし、そんなルツに、慰めが用意されていました。「どうか、主があなたの行いに豊かに報いてくださるように。イスラエルの神、主がその御翼のもとに逃れてきたあなたに十分に報いてくださるように」。ボアズは、主が御翼によって守ってくださると告げます。この言葉を、彼女は心に触れる、異郷の地で見つけた、親切として受け止めます。ボアズのことを「わたしの主よ」と言って、神様の親切として受け取ります。
しかし、彼の親切は言葉だけではありません。この親切を、実際に示すようにと神様から委ねられている者として、行動に移します。
ボアズの配慮によって、ルツが日暮れまで拾い集めた大麦は、一エファになります。一エファとは23リットル、お米で計算しますと19キロぐらいでしょうか。これは、落ち穂を集めるという量ではありません。まさに、収穫と言えるほどのものです。ルツのナオミに対する愛と、ボアズの信仰による厚意が一エファ(大麦19キロ)となりました。神様のくださる厚意は、このように特別なものです。
ナオミは、ルツが厚意を受けた出来事を、20節「生きている人にも、死んだ人にも、いつくしみを惜しまれない主」がくださるものと、受け止めます。
ボアズはその信仰によってルツに厚意を示しました。ルツはボアズとの出会いを神様の厚意として受け取りました。
ルツが受け取った神様の厚意を、イエス・キリストは、ご自分の十字架と復活によって私たちに対して確かなものとしてくださいました。なぜならイエス・キリストは永遠に変わらない神様の厚意だからです。
私たちはルツのように一日の恵みを、神様の厚意として受け取っているでしょうか。また、ボアズが自分に与えられた名声と富を、小さき者のために厚意を示したように、私たちに委ねられたものを用いているでしょうか。
キリストの恵み、父の愛、聖霊の導きと私たちの愛の行為が合わされて、現代にも一エファ、すなわち「神の慰め」が生まれるのではないでしょうか。
2024.07.21
「ナオミの信仰」ルツ記1章
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
ルツ記と書名がついていますが、この物語は、ナオミとルツのお話です。二人の関係は、姑と嫁です。姑と嫁と聞きますと、わたしたちは、なかなか難しい関係だなあと思いますね。しかし、この物語は人間の人生の背後におられる神との関係をテーマにしている物語です。
ナオミは夫エリメレクと二人の息子と共に、住み慣れたベツレヘムから、外国であるモアブという所に出て行きます。エリメレクと言う名前は、「神は王」と言う意味です。ですから、この家族は、イスラエルの神への信仰を持っていたと思います。しかし、自分の国の飢饉によって仕方なく出て行ったのです。きっと、モアブには食べるものがあり、家族一緒に何とかそこで生きて行こうと思ったのでしょう。希望を持って出て行ったのです。しかし、モアブでの4人家族の生活も束の間、夫はナオミと二人の息子を残して死んでしまいます。
二人の息子、マフロンとキルヨンという名前を調べてみますと、マフロンとは「病気」という意味があり、キルヨンとは「弱い」という意味があります。元気な子ども達なら、「これを手伝いなさい」と言って、随分助けになったでしょう。しかし、ナオミは病弱な子ども達と共に、しかも異国の地で、夫に残されたのです。その時代は、水汲み一つ考えても大変なことでした。子ども達を育て上げるために、どんなに苦労したでしょうか。きっと、必死だったと思います。聖書は淡々と書いていますが、1節から4節までの短い言葉の中に、人生の災いが凝縮して書かれています。
このことをナオミはどう受け取っていたのでしょうか。6節に「主がその民を顧み、食べ物をお与えになったということを彼女はモアブの野で聞いた」とあります。この言葉は、1節にある「飢饉が国を襲った」出来事と、今、自分の国が飢饉から開放されたこと、この二つの事を主が行われたことだ、と彼女は考えています。
イザヤ書45:7にこうあります「光を造り、闇を創造し、平和をもたらし、わざわいを創造する者。わたしが主、これらのことをする者である」。ですから、ナオミの苦労は神によって与えられたものだったのです。そしてナオミ自身も、自分の人生の全てを、神から与えられたものとして、受け取っていたのです。
息子達はようやく成人し、結婚します。「やっと、自分の苦労も報いられた。主は顧みてくださった。」ナオミはきっと、ほっとしたことでしょう。五人での掛け替えの無い毎日が与えられました。孫が生まれる日を心待ちにしたでしょう。しかし、息子達の結婚生活は10年ほどでした。病弱な息子達には子どもが出来なかったのです。
そして、二人の息子まで取り上げられ、5節、一人残されたのです。主は、やっと訪れたナオミの幸せを取り上げられます。嫁のオルパとルツは一緒にいるのですが、「一人残された」と聖書は伝えています。
ナオミは、災いも神が与えられるものと受け止めていました。しかし、今、全ての幸せを奪われ、素顔の状態といいますか、本当の意味で、神の前に一人にされ、「全てのことを主から与えられたものとして受け止めているのか」と試みられたのです。もう、何をする気力も起こらないそんな状況で、神の前に一人置かれたのです。私たちが、その様な状況に置かれたらどうでしょうか。
ナオミは6節「モアブの野をさって国に帰ることに」します。ここに「さって」という言葉が使われています。これは「立ち上がる」「起き上がる」という意味です。自分で立ち上がることの出来ない状況の中で、彼女は立ち上がったのです。一体何によって立ち上がることが出来たのでしょうか。それは、「主が顧みられた」からです。「主の顧み」に、よりすがったのです。
よく、弱い人は信仰に頼ると言われます。何かによりすがらなければ、立ち上がれないなんて、自分はそんなに弱い人間ではないと聞いたりします。
しかし、人は立ち上がれないところにおかれる時が何時やってくるか分かりません。誰も予想が出来ません。聖書は「主の顧み」によりすがった者の幸いを伝えます。ナオミも自分の運命を悲観して、泣いて暮らすことも出来ました。しかし、主に依り頼んで、モアブの野から立ち上がったのです。このことは、私たちに、主に顧みられることの幸いを教えてくれます。「顧み」というのは、「訪れる」という意味があります。主が訪れてくださったので、彼女は立ち上がれたのです。
主の顧みによりすがったナオミは、冷静さを取り戻し、自分の災いにばかり目を留めているのではなく、嫁達の幸せを考えることができるようになりました。嫁達に自分の里に帰るように強く勧めます。ナオミは「自分ひとりのことなら、どんな生活が待っていようとも耐えていける。しかし、嫁をそんな生活に巻き込むことはできない」と考えます。8節は、そんなナオミの心情がよく現れている言葉です。「あなたがたは、死んだ息子にもわたしにもよく尽くしてくれた。どうか主がそれに報い、あなたたちに慈しみをたれてくださいますように。どうか主がそれぞれに新しい嫁ぎ先を与え、あなたたちが安らぎを得られますように」。
「慈しみ」とは、「変わることの無い神様の愛」です。その愛が、嫁達に注がれるようにという祈りです。嫁達との別れは、息子達との、あの十年間の掛け替えの無い日々の思い出を分かち合う相手を失うことです。それは、つらいことです。本当に独りぼっちで自分の国に帰ることになるのです。モアブでの生活は一体何の意味があったのか、ということになります。しかし、相手の幸せを第一番に考えたのです。13節の「あなたたちよりもわたしの方がはるかにつらいのです」とは、自分と共にベツレヘムに帰ったなら、嫁達を幸せにしてやれないことが分かっているので、つらかったのです。
しかし、ナオミの説得にも関らず、嫁のルツはどうしても付いて来るというのです。その時、ナオミは思わぬ言葉をルツから聞きます。16節「あなたの民はわたしの民。あなたの神はわたしの神です」と。ナオミから全ての幸せを奪った神様です。ルツはそんな神様につまずいてもおかしくありません。
しかし、ルツはナオミの神様に対して自分の信仰を告白したのです。これは、何という神のなさる不思議でしょうか。
ナオミと嫁の関係は確かにいい関係でした。しかし、どんなに良い関係がそこに成立していたとしても、こんなに何度も不幸に落とされる神様なんて、ふつう、信じたくないですね。しかし、ルツの口から信じられないことですが、信仰の言葉を聞いたのです。見えないところで、神様が働かれていたのです。姑と嫁というのは難しい関係です。しかし、そこに神様は働かれたのです。すなわち、ルツ記は、姑と嫁の関係はこうありなさい、ということを伝えているのではないのです。人間関係、或いは、最も難しい関係、と考えられるところにも、神様は働かれるということです。ナオミが模範的なクリスチャンらしい?姑だから、神様が働かれたと言っているのではありません。「神様に依り頼む」ナオミの信仰に答えて、神様がルツにも働いてくださったのです。
ルツに信仰を与えられた神様は、使命も与えられます。それは、死別するまでナオミと共にいるという使命です。独りぼっちでベツレヘムに帰る覚悟をしたナオミでした。しかし、ルツによって、その道のりはどんなに慰めに充ちたものとなったでしょう。
二人は、ついにベツレヘムに着きます。「町じゅうが二人のことで」どよめきました。こんな小さな二人のことで、町がどよめくとはいったい何故でしょうか。
申命記12:8に「それぞれ自分が正しいと見なすことを決して行ってはならない」とあるにもかかわらず、イスラエルの人々は「自分の勝手な判断」に依り頼んでいたのです。そんな所に、神様のことを全能者と呼び、神様により頼んだ歩みをしている二人が帰ってきたのです。ですから、町中がどよめいたのではないでしょうか。
22節、二人がベツレヘムに着いたのは、「大麦の刈り入れの始まる」時でした。麦の穂が一杯に実をつける時に帰ってきたのです。何か、希望を感じさせる言葉ですね。神様はこの二人に何を備えてくださるのでしょうか。ベツレヘムの町の人たちのように、神様に何も期待せずに歩むのか、それとも、ナオミとルツのように歩むのか、今朝のみことばは問うているのではないでしょうか。
自分に不幸を与えられた神様を、なお、全能者として依り頼むナオミとルツのあり方に、わたしたちも、希望をおいていく者でありたいと思います。
2024.07.14
「新生イスラエル」民数記27章12~23節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
神の民イスラエルの荒れ野の旅路はいよいよ終わることになります。いいえ、これからは約束の地カナンに於いて新しく始まります。神さまは荒れ野の信仰の旅路を始める時に、ご自分の民たちが礼拝者として神さまと一緒に歩む者となるために、シナイ山の麓で一年程の年月をかけて準備なさいました。そして今、ヨルダン川を挟んでカナンの対岸に位置するモアブの地でモーセに語られます。彼もまた兄の祭司アロンと同じように、約束の地に入れないことを告げられます。40年の荒れ野の旅路で、想像を絶する困難の中、民たちをここまで連れて来られたのはモーセの数えきれない苦労の結果です。私たちの思いからすれば何故なのか?と、それは、理不尽ではないのかと思います。
14節で彼と彼の民の神さまへの信頼と従順が問題であったことを告げています。確かにメリバの水のことで民が不平を言った時、モーセも神さまに対して不平を持ったのかもしれません。指導者にはそれほど神さまは厳しいのでしょう。また、まだ未熟な信仰の民たちです。そんな民を率いて行くことが出来るのはモーセしかいないようにも見えます。しかし、今モーセは120歳になりました。私はこの神さまの判断はモーセに対する憐みであると思います。
彼は十分に神さまに仕えましたし、民たちにも仕えました。神さまは「お前はもう、十分やった」と仰っていると思います。もうこれ以上、カナンの地に入って更に苦労せよ、とは仰らないのです。13節の「それを見た後、あなたもまた、兄弟アロンと同じように先祖の列に加えられるであろう。」この主の言葉は、私にはそのように聞こえます。
ここで重要なことは、17節にある事です。モーセは自分の亡き後の民のことを非常に心配したのです。そして言いました。「主の共同体を、飼う者のいない羊の群れのようにしないでください」と。新しい地カナンに入ったとしても、そこで飼う者のいない羊になってしまっては、神さまを礼拝する民であり続けることはできないことを、モーセはよくよく知っていました。その時代は、誰でも神さまと直接語り合うことはできないからです。仲介者となる者がいなければなりません。18節神さまは一人の人を選ばれます「霊に満たされた人、ヌンの子ヨシュアを選んで、手を彼の上に置き」20節「あなたの権威を彼に分け与え、イスラエルの人々の共同体全体を彼に従わせなさい」とある事です。この主の言葉によって、モーセはきっと安心したことでしょう。モーセの後はヌンの子ヨシュアが神の民を導きました。新生イスラエルが誕生することになります。
しかし、皆さん民数記は36章まであります。27章というこんな途中で後継者のことが何故出てくるのでしょうか。28章以下はカナンに入った後、どのように神さまと一緒に歩んで行けば良いのかを記されています。それは、神さまへの捧げ物の内容です。これを見て行きますと、相当な量の捧げ物です。29章の第七の月等はすごいですよ。これ程のものを捧げよと言われているということは、どういうことでしょうか。その何倍もの物を神さまは民に与えられるということです。すなわち、民数記の最後の部分は「カナンの地に於ける神さまの祝福」を語っています。新生イスラエルを神さまは約束の地であるカナンに入る前から、このように祝福しようとしておられるのです。皆さん、このことを私たちはどう受け取るのでしょうか。私たちもまた新しい日本ナザレン教会を考えなければならない時が来ているのではないかと思います。
都知事選で現職の小池さんが再選されました。選挙戦略の中でAIゆりこを使って、今後の都政の中で行おうとしていることをアッピールしました。本人が選挙演説の時間が取れない分を、AIゆりこがカバーしたのです。将来、牧師不足に対応するために、AI牧師が説教を語る、そんなことも考えられる時代が来るかもしれませんね。しかし、どんな形になるにせよ、大切なことは、教会が神さまと共に歩んでいくことを心から願い求めて行くことです。そのことを、神さまは祝福してくださると民数記は証しています。
さて、この神さまの祝福を新約聖書はどのように言っているでしょうか。マルコ4:20「御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」と言っています。「御言葉を聞いて受け入れる人たち」とは、ただ聞くというのではありません。聞くだけの信仰は「絵に描いた餅」と同じです。マタイ25章15-30節にタラントの例えがあります。「おのおのその能力に応じて、一人には五タラント、ひとりには二タラント、もう一人には一タラントを渡」されます。「五タラント預かった者は直ぐに行って、それで商売し、さらに五タラント儲けた。・・ところが一タラントを預かった者は地を掘って、その主人の金を隠し」ます。預けた主人が帰ってくると、一タラントを活用しなかった僕に大層お怒りになりました。この主人は神さまですね。
私たちにはそれぞれ神さまから賜物(タラント)が与えられています。それは神さまのために、また社会で活用するように与えられているのです。特に、教会での奉仕は主の十字架によって私たちの罪が赦されたその愛に感謝して捧げるものです。主は自分のために命を捧げてくださったのだから、私も主のために出来ることは何でもして応えようとして捧げるのが奉仕です。当然強制されて行うものではなく、自主的に奉仕するのです。また、社会に出て収入を得るようになれば、主の復活に与るその恵みに応えて、主が建てて下さった宣教の砦である教会の業を支えるために、献金を捧げて教会を支えるのです。捧げられる立場にあるというのは、神さまの大きな祝福です。
五タラント、二タラント、一タラント、いずれでしょうか私たちはいただいています。分量が問題ではありません。それを活用しているかが問題です。主のために用いているかが問題です。主を愛している、主を信じている、私は信仰を持っている、とどんなに言葉で言ったとしても、タラントを土に埋めて活用していないのであれば、それは絵に描いた信仰です。神さまはタラントを活用するものを祝福すると言われます。「御言葉を聞いて受け入れる人々は、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです」とは、そういう人の事です。民数記の終わりに、新しい指導者を立てて、新しい地に踏み出させようとなさる神さまは、民たちに御言葉によって生きることを願っておられます。28章以下の神さまへの捧げ物の内容は、将来のカナンの地での神さまの祝福があるからこそ、これ程のものを捧げることが出来るのです。神さまは私たちを日々新しい地へと導かれます。新生イスラエルの将来に神さまは祝福を宣言されました。教会は現代の新生イスラエルです。神さまは私たちにも祝福を宣言してくださいます。
2024.07.07
「信仰のバトン」民数記26章1~2節、63~65節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
モーセに率いられたイスラエルの荒れ野の旅も後半に入ります。先週も14章を少し触れましたが、そこにシナイ山を出発する時に人口調査で数えられた人たちは一人として約束の地を見ることはないとあります。ただし、カレブとヨシュアだけは別でした。偵察隊の中でこの二人だけは約束の地を神さまの祝福と受け取ったからです。つまり、神さまはイスラエルの信仰の旅も世代交代を考えておられます。
聖書の後ろの出エジプトの地図を参考にして下さると彼らの経路がよく解ると思います。カナン偵察の後、神さまは民を再び南下させ、紅海まで後戻りさせています。私も28年前にその場所に立ちました。砂漠のオレンジ色と紅海のコバルトブルー、それに空のスカイブルーの三層のコントラストが素晴らしい眺めでした。しかし、それはバスでの楽しい旅です。民たちは徒歩で60万人以上の集団です。きつい辛い旅です。16章17章で民の反抗や不満がモーセたちを苦しめました。神さまは怒られますが、モーセは何度も民のために神さまに思い直してくださるようにと頼む姿は印象的です。神さまはご自分の選んだ指導者を頼もしく思われたことでしょう。
20章に入り、ツィンの荒れ野にまで北上して来た時に、モーセの姉ミリアムが死にます。同じく26節で祭司アロンの役割がその息子エリアザルに引き継がれ、世代交代します。更に北上して、モアブの地にやって来た時に、モアブの王は預言者バラムという人にイスラエルを呪ってくれと頼むのですが、三度も祝福してしまうということが起こります。そのことによって、モアブの旅も守られます。きつい辛い荒れ野の旅路ですが、民の知らない所で、神さまの祝福は与え続けられました。
さて、今朝の26章は二度目の人口調査が行われたことが記されています。「主はモーセと祭司アロンの子エルアザルに向かって言われた。『イスラエルの人々の共同体全体の中から、イスラエルにおいて兵役につくことのできる二十歳以上の者を、家系に従って人口調査しなさい』」そして、それぞれの部族の人数が記されています。51節、「以上がイスラエルの子孫で、登録された者は総計、六十万一千七百三十人であった。」この人数は、シナイ山を出発するときに行われた最初の人口調査をした時とほとんど変わりません。ところが64節、「その中には、モーセと祭司アロンがシナイの荒れ野でイスラエルの人々を登録したときに登録された者は、一人もいなかった」とあります。第一回目の人口調査の時の者は一人もいないのです。つまり、世代交代したけれども、人口は変わらなかった。このことは、どういうことでしょうか。荒れ野の日々は厳しくて、神の民は神の期待に応えきれませんでした。しかし、神さまの祝福は変わらず与え続けられていたのです。
教会の歩みも厳しいものです。国が高齢化すれば、教会も高齢化します。例外ではありません。このことは、教会の活動内容などにもはっきりと表れます。しかし、振り返って見て下さい。私たちの国に福音が宣べ伝えられたとき、国家の迫害に会い隠れキリシタンとして信仰が受け継がれました。戦争中にも迫害され自由に伝道できませんでした。その後、家の教会から始まり、数人というグループから始まりました。戦後の価値観喪失から人々がどっと教会に導かれました。その方たちが現在高齢になっておられます。
22-24章で、神さまが異国の預言者バラムによってイスラエルを祝福されましたね。神の民はそのことを全く知りません。それで、エジプトを出た時と同じように、水がないとか肉が食べたいと不平を言いました。私たちの教会にもそのような状況は無いでしょうか。このまま、皆が高齢化したらどうなるのですか神さま!という思いがありますね。イスラエルの民が気づかない所で神さまは祝福しておられました。
私たちは神さまの祝福に信頼しましょう。世代交代を行わせてくださるのは神さまです。スポーツ界も若い世代が減少していると言われる中、しかし着々と世代交代していますね。11章で民が再び肉が食べたいと不平を言った時に、神さまは「わたしの手が短いとでも言うのか」とお怒りになりました。私たちの信じる神さまの手は、人間の様々な戦略より短いのでしょうか?神さまの祝福に信頼しましょう。
人口調査後の53節に注目しましょう。「これらの人々に、その名の数に従って、嗣業の土地を分配しなさい。54節「人数の多い部族には多くの、少ない部族には少しの嗣業の土地を与えなさい。嗣業の土地はそれぞれ、登録された者に応じて与えられねばならない」これは二度目の人口調査が最初の時と目的が違うということです。前回は民が約束の地に向かって前進するためでした。今回は、約束の地を与えるためです。そのために、神は民の数を数えられるのです。荒れ野での辛いきつい信仰の旅路で、民は信仰の訓練を受けました。しかし、そこで決して合格点はいただけませんでした。それでも、神さまは諦めません。次は世代交代した民たちが、約束の地に定住して、神様との信仰の旅路を続けるようにと計画を進められます。
神さまは本当に忍耐強く恵み深いお方です。教会も信仰の先輩を大切にしつつ、同時に世代交代して行けるように神さまに祈らなければなりません。それによって神さまの祝福を受け継いでいかなければなりません。
今年は食事のある交わりにも抵抗が無くなってきましたので、8/17には子ども会を計画しています。お孫さんや地域の子どもたちが導かれますようにお祈り下さい。また、今年の聖会は、以前のように対面で行います。9/23です。来週チラシが出来上がります。4年ぶりに地区の皆さんと同じ空間で同じ御言葉に与る幸いな時です。
イスラエルの民も多くの困難や失敗の連続でした。決して優等生ではありませんでした。しかし、そんな民を神さまは顧みて下さり祝福してくださり、世代交代をさせて下さいました。私たち教会は現代の神の民です。世代交代にも様々な形があると思います。神さまはきっと良い知恵を与えてくださるでしょう。私たちは、唯、神さまは顧みと祝福を備えておられることに信頼いたしましょう。
へブル10章23、25節「約束された方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白しようではありませんか。ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか。」
2024.06.30
「恐れか信頼か」民数記13章1~3節、25~32節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
創世記に登場するアブラハム、イサク、ヤコブ、この三人は「族長」と呼ばれます。ヤコブの家族がカナン地方の飢饉によってエジプトへ移住し、ヤコブと息子12人とその家族だったのが、そこで男だけで60万人になり、やがて12部族に分かれるイスラエル民族となったからです。それで、族長と呼ばれます。
族長とその家族は約束の地カナンに住みました。(創世記12章から物語が始まる)しかし、そこで所有した土地は、アブラハムが妻サラの墓ために取得したマクペラの小さな土地のみでした。ですから、彼らがカナンにいた時には仮住まいでした。ということは、その時はまだ、神さまからの約束の土地は受け取っていません。そして、エジプトへ移住したのです。
エジプトで430年の年月を過ごし、モーセによってエジプトの奴隷の生活から脱出しました。神さまは、荒れ野の旅の初めは雲の柱・火の柱の中に共にいてくださいましたが、シナイ半島のシナイ山の麓で幕屋を作らせると、その幕屋に住んでくださり、民の真ん中にいて下さるようになりました。そして、シナイ山の麓に一年近くいて、その間にイスラエルを礼拝者として育てられたことを、先週確認しましたね。この後、39年の年月を荒れ野で信仰の旅をいたします。
つまり、荒れ野に40年間いました。
さて、この荒れ野での40年間の信仰の旅路ですが、聖書はこの40年間のことを出エジプト記、レビ記、民数記、申命記と四書に亘って語っています。イスラエルの信仰の旅路を族長時代から始まったとしますと、2000年近い信仰の歴史になります。その中の40年(1/50)のことを、聖書はこれほどのスペースを使っています。それほど重要な内容だということです。
このことに、改めて気づかされ、この四書の重要性を教えられます。出エジプト記の幕屋建設の記事辺りから、レビ記、民数記というのは私たちにとっては本当に読みにくいですね。申命記は同じことが再び出て来たというように感じるかもしれませんね。しかし、そこには神の民の失敗を通して私たちが学ぶべき多くのことが示されています。
さて、先週1章でイスラエルの民の人口調査を行いましたね。その目的は神さまの祝福を持ち運ぶ神の軍隊として、前進して行くためでした。2章では神の軍隊は幕屋を真ん中にして宿営する夜と、前進して行くときの12部族の配置が示されています。それは現代の神輿を中心にする日本のお祭りの行列の形と大変よく似ています。
教会は現代のイスラエルと言われますが、その中心は幕屋ではなくて、イエス・キリストですね。今日、神さまはいよいよ与えると言われた約束の地カナンを偵察するようにと命じられ、12部族の族長を遣わすようにと命じられます。12人がその道のりを往復するのに40日掛かりました。さて、どんな土地だったのでしょうか。
23節、「エシュコルの谷に着くと、彼らは一房のぶどうの付いた枝を切り取り、棒に下げ、二人で担いだ。また、ざくろやいちじくも取った。」その土地は、ぶどうの一房を二人でかつぐ程の大きなぶどうの取れる豊かな土地です。
27節の「そこは乳と蜜が流れる所でした。」という報告、これは、出エジプトが目指す土地でしたね。出エジプト記13章5節「主があなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき」とあります。また、この約束の地が与えられることはアブラハムの時からのものです。創世記13章14節「主はアブラムに仰せられた。『さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしはあなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう』」と、ありました。
今や、それが実現しようとしています。
しかし、それと共に28節以下も現実です。「しかし、その土地の住民は強く、町という町は、城壁に囲まれ、大層大きく、しかも・・」と報告しています。先住民がいることは出エジプト13章でも触れられていましたので、偵察隊の報告は、かつてから聞かされていた通りです。
けれどもこの時、神の民の中には果てしなく大きな恐れが生じます。31節「いや、あの民に向かって上って行くのは不可能だ。彼らは我々よりも強い」と言いだし、14章4節では「さあ、一人の頭を立てて、エジプトへ帰ろう。」と言って、モーセとアロンという指導者を捨ててエジプトへ帰ろうとします。神が約束を実行しようとする、まさにその時であるのに、彼らは神への信頼を拒絶したのです。この民は、後には神から送られた救い主を拒絶し、キリストが十字架に至るという出来事が起こります。しかし、これは他人ごとではありません。私たちの内にもこのような恐れがありませんでしょうか。
でも、皆さんそんな時私たちは何をすべきでしょうか。
詩編46編10節(口語訳)に「静まって、わたしが神であることを知れ」とあります。
皆さん、民たちには幕屋に主が共におられます。その認識は彼らの中でどうなっていたのでしょうか?民たちの宿営の中心に幕屋があります。そこに主はおられます。その主への信頼はどうなっていたのでしょうか? これは、私たちのことですね。私たちには御言葉による約束が与えられています。嵐を沈められた主の言葉を思い出しましょう。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」マルコ4:40。
14章5節「モーセとアロンは、イスラエルの人々の共同体の全会衆の前でひれ伏していた。」6節「土地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブは衣を引き裂き」ます・・民のあまりの不信頼の姿に、モーセとアロンそしてヨシュアとカレブは、主の怒りが燃え上がらないようにひれ伏しています。
彼らの行動は、ローマ8:34を思い起こさせます。「死んだ方、否、むしろ復活させられた方であるキリスト・イエスがわたしたちのために取り成してくださるのです。」14:13以下、モーセ達は民の赦しのために、必死に取り成します。
皆さん、神さまは何のために偵察に行かせたのでしょうか。神さまの祝福を見るためではないでしょうか。与えると約束されたカナンの地は「乳と蜜の流れる地でした」。その祝福を見ないで、他のものを見て恐れました。このことは私たちの前に生じる現実をどのように見るべきかを示します。自分にはマイナスに見えるもの。しかし、主はそこに祝福を置いておられるのです。主の十字架はまさにこのことです。主の十字架の苦しみが、私たちの救いとなったからです。
ルカ14章16節以下に、天国の宴会に招かれた人が、この地上の用事のためにその食卓を断った例え話があります。その人は、神さまの祝福の食卓はあるかどうか分からない。それなら、この地上の事を確実にした方が良いと考えたのでしょうか。折角備えられた神さまが用意してくださった祝福への招きを断ってしまいます。これは、礼拝への招きのことですね。
今朝の記事は、恐れないで、あなたの現実に用意されている神さまの祝福を見よと言います。
14章7節ヨシュアとカレブは「我々が偵察してきた土地は、とても素晴らしい土地だった」9節「主が我々と共におられる。彼らを恐れてはならない」と若い二人が言っています。これは、希望です。
神さまは、あなたたちが約束の地に入るために、すなわち祝福に入るために「私が先立って行くのだ」と宣言されます。今朝、私たちは主を信頼し、主の祝福を受け取る者とさせていただきましょう。
2024.06.23
「未来に向かって進め」民数記1章1~4節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
モーセに率いられた神の民・イスラエルは多くの困難に遭遇しました。思い出してみましょう。エジプトの奴隷の生活から救い出され、三日の道のりを終えたときに、葦の海を前にしてエジプト軍が迫った時には雲がエジプト軍の行く手を阻み、神さまが海の真ん中に道を通してイスラエルの民を渡らせ、エジプト軍から守られました。そして、海沿いを進もうとすると強敵のペリシテ軍がいるので、神さまはシナイ半島の方向に南下するルートへと導かれ、シナイ山にやって来ました。そこで十戒をもらうわけです。
ところが、シナイ山の麓で民はシナイ山に登ったモーセの帰りが待てず、金の子牛を作って、それを神として拝み、下山してきたモーセから激しい叱責を受けるという失敗を経験し、「神さまに従います」という約束を改めて誓い直します。
今朝の民数記1章1節で、イスラエルがエジプトを出て翌年の第二の月の一日とあります。シナイ山に着いたのが三か月目(出エジプト記19章)でしたので、一年近くそこにいたことになります。神さまの命令によって幕屋の建設を行った民が、神さまと共に歩む民となるためにその時間が必要だったのです。レビ記にあることは、「神さまを礼拝する民」として育てられる期間だったのです。
今、祈り会でレビ記を学んでいます。私たちもまた、礼拝する民として、神さまは育ててくださっています。この地上での時間も空間も経験も財産も全て神さまから与えられたものであり、預けられているものですから、私たちは礼拝者として神さまにも人にも謙遜であるようにということを、レビ記を通して聞いていくわけです。
そして、翌年の第二の月の一日を迎えました。神さまはいよいよシナイ山からの出発を考えられます。民が未来に向かって出発するのです。そのために人口調査が行われます。神さまはこの世界をお造りになった時に、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と祝福されました。つまり、この世界を造られた目的は祝福するためなのです。
今、この人口調査によって、ばらばらだったイスラエルの民を12部族とレビと祭司というまとまりのあるグループに分けられ、人類の祝福という神の計画のために整えられます。例えば、空港で搭乗を待っているときは皆ばらばらに待っています。しかし、乗り込むときにはチケットの内容(プラチナ会員、赤ちゃん連れ等)や席順でグループに分けられます。そして、グループごとにまとまって乗り込むわけです。そのことによって、非常にスムーズに席に着き効率が良いですね。
イスラエルの民がまとまりのあるグループに分けられたというのは、出エジプト前の無秩序なばらばらの60万人ではなくて、12部族に分かれた秩序ある共同体という形に成長しています。それだけではなくて、未来に向かっての役割を与えられた集団として成長して欲しいのです。このことは、神さまの祝福の力、約束の成就を現しています。
2節と3節で、数えるようにと指示されているのは、20歳以上の男子で軍務につくことのできる者です。つまり、神さまの軍隊ということですね。神さまの軍隊ですから、その役割はこの世の軍隊とは全く違います。神の軍隊の働きは軍事行動ではありません。幕屋が中心にある集団、神さまが中心に宿られる集団が、この世に向かって出て行くのです。その目的の中心は、アブラハムに神さまが約束(12:3)された「地上の全ての民族は、あなたによって祝福される」、とある祝福のことです。
12と言う数字は神の祝福を持ち運ぶという役割を担う集団の数となりました。ところでこの12部族の12という数はどこから来ているのでしょうか。イスラエルの民が飢饉の為にエジプトに逃れたのは、ヨセフが先にエジプトにおり、父ヤコブと兄弟11人をエジプトに呼び寄せたからです。ヤコブの子どもは合わせて12人。彼らの子孫がエジプトで神の祝福によって増えました。民数記で12部族とされたのは、レビ人が別にされて、ヨセフの子ども(創世記41章)のマナセとエフライムが部族に加わって12部族となります。そして12部族とレビ人の役割は、12弟子とイエスさまによって新しいステージに入ります。イエスさまがレビ・祭司・幕屋の役割を担われます。
伝統のある12部族は12弟子に引き継がれ、神さまのグループ作りは一から改められました。12弟子は、伝統ある12部族から見ると、ガリラヤの田舎者、取税人など罪深い人々でした。これは神の救いに与ることに関して全ての制約が取り除かれたということです。しかし、何と言ってもイエスさまがレビ人・祭司・幕屋の役割を担われた変化は大きいです。レビ記から聞く中で、神を礼拝する者として歩むためには、まず民の罪を取り除く必要があります。なぜなら、神が聖なるお方だからです。
ですから、礼拝を始める前に礼拝の進行係であるレビ人、祭司の罪を取り除く行為が行われます。贖罪のささげもの、焼き尽くすささげもの、和解のささげものをささげ、これらによって神との関係を回復させます。次に、民のためにもそれを行います。それから礼拝がささげられます。20日の祈り会のレビ記9章の内容がその箇所です。
しかし、皆さん、今はその必要がありません。イエスさまが、全ての者のための捧げものとなって下さったからです。私たちの罪の許し、汚れの清め、永遠のいのちの約束、御国に入る希望を実現してくださったからです。イエスさまの十字架と復活において、レビ記のささげものが何一つ必要ではなくなったのです。先週も聞きました。イエスさまのゆえに、ただで恵みが受けられるのですね。
今は、更に新たなステージに入りました。12弟子は、「イエス・キリストの教会」という形に変わりました。教会と聖霊によって、神さまの祝福の計画は続けられます。教会は歴史を重ね、神さまの計画は今も続いています。再びイエスさまがこの世にいらっしゃる時まで教会の歩みは続きます。
12部族が12弟子にバトンを渡し、12弟子から教会にバトンが渡されて来たように、教会の歴史の中で後に残されるものは、先に召された方からバトンを受け取っているのです。そして、神さまの祝福を持ち運ぶという役割が、私たちに与えられていることを忘れてはなりません。シナイ山での人口調査は神の民イスラエルが整えられて未来に向かって進むために行われたのでした。私たちも礼拝において、自分たちの役割が何であるかを確認し、毎週整えられて、未来へ向かって進んで行きましょう。
024.06.16
「ただで恵を受けよ」イザヤ書55章1~2章
説教:鈴木龍生 師
2024.06.09
「永遠に立つ主のみことば」ペテロ第一の手紙1章23~25節
説教:大山ゆきの 宣教師
2024.06.02
「神様の献身」出エジプト記19章
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
イスラエルの民はエジプトを出て三か月目になりました。シナイ山に到着してテントを張り終わるのを待って、神はすぐにモーセを山に登らせて、民に対するメッセージを伝えました(3-4)。神はエジプト人にしたことを民に見せました。それから、ここまでの旅の中での奇跡を見せました。天からのパンであるマナやうずらの肉を食べましたね。神はそれを「あなたたちを鷲の翼に載せて、わたしのもとに連れて来た」と表現して、驚くべき神のみ業を民に見せて来た目的を明らかにされました。
つまり、彼らを神のもとに連れて来るためでした。「契約を守る」「わたしの宝」「祭司の王国」「聖なる国民となる」と言う言葉(5-6)は、神のもとに来て神と深い関係を結ぶという神の目的を示しています。そのために、神は民に目で見るのではなくて、聞く事を求められました。
21節では神を見ることに越境と言う言葉を付けています。越境と言えば何を思い出しますか?天まで届く塔のある町バベルの塔の建設を神が阻止させた物語を思い出します。『見る』という行為の奥には、神との深い関係を結びたいという思いではなくて、神と対抗する思いがあります。
私たちも「見て把握する」と言います。見るとは相手を握り、自分の理解下に置く行為です。33:20で、主はモーセに「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見てなお生きていることはできないからである」と言われました。新約聖書でヨハネが「いまだかつて、神を見た者はいない(福音書1:18、1手紙4:12)。父を見た者はひとりもいない(6:46)」と記しました。使徒パウロも「神は、だれ一人見たことがなく、見ることのできない方(1テモテ6:16)」と記しています。
それに対して聞くと言うのは、眼の様にはっきり把握できませんが、信頼して聞くと言う関係を結ばせます。この関係を結ぶ為に神が待っているシナイに、民を鷲の翼に載せて連れて来られました。ですから厚い濃い雲や、雷鳴、稲妻、噴火や地震と言う自然現象でご自分を表されましたが、ご自身は見せておられません。
関係と言うのは自分を相手に差し出す事から始まります。例えば、「わたしは末吉と言います。三人の子どもがいます」と自分の一部を相手に差し出します。それから「ではあなたは?」と会話が進み関係が始まりますね。神さまも民との関係作りを始められます。
6節に「これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である」とありますから、シナイに着いた民に、十戒を与える前に語られた大切な言葉に注目しましょう。1ペトロ2:9に、聖なる国民、神のものとなった民とクリスチャンのことを言っていますので、5節6節の言葉を私たちに語られている言葉として受け止めましょう。
5節、神は今、神の声(御言葉)、神の契約(約束)を私たちに差し出されます。私たちからではなくて、神の方からまずご自分を差し出されます。『わたしはこう言う者です。わたしはあなたに対してこんな事を考えています』と。
皆さん、自分を差し出すというのは、献身のことですね。私たちが聖書を読む時、神がご自分をまず私に差し出されている、この事が起こっているのです。ですから驚きを持って私たちは聖書と向き合いましょう。
出エジプト記20章から、シナイ山で神さまと一緒に歩む歩み方の詳しい内容と幕屋の作り方が、次のレビ記まで続きます。レビ記では礼拝のやり方が指示され、そして民数記10:11でやっとシナイ山を出発します。その日は、第二年の第二の月の二十日のことであった、とありますからシナイ山に着いて約二年間、神さまはご自分と民との関係づくりをされたことになります。
10節14節の聖別や衣服を洗う事、15節の性生活の中断、これらは身の清めや禁欲の戒めではなくて、神の献身に対して人はどう応えるのかを示しています。神の声(御言葉)は規則や教えではなくて、神がご自分を差し出して示された愛です。私たちは知らされていますよ。後に神の愛は、イエス・キリストにおいて言葉ではなくて人間と成って、溢れるばかりに差し出されました。ですから、5節の「わたしの声に聞き従い、わたしの契約を守る」とは神の献身に対する応答としての人の献身です。信仰は自分の成長や向上のためにする行為ではなくて、ズバリ神に対する献身です。
最後に「境」「境界」「越境」と言う言葉がこの19章で繰り返されています。神と人には越えてはならない境があることが強調されています。これは大変重要です。それは創造者と被造物の境です。これは絶対に越えてはならない境です。禁断の実に手を伸ばしたり、弟の命の血を大地に流したり、天に届く建造物を構築したり、創世記では人が越境する問題が語られました。にもかかわらず、思いも寄らないことが起こりました。神の方から人の所に来て関係を結ばれるのです。シナイ山での御言葉と契約はその初めの出来事です。この後、神は人との境を越えて新しい関係を造り始められます。神は人との間にある境をハッキリさせ、それを打ちこわし、新しく造り直す御業をこのシナイから始められたのでした。
その御業の延長線上には、イエスが人となられ、十字架という苦難に会い、そして復活があります。24節で祭司も越境できないと言われている、シナイ山の麓に造られた囲いは、後に建てられる神殿の聖所と至聖所の境としての垂れ幕と重なります。キリストの十字架の死によって垂れ幕が真二つに裂けたと言うのは、まさに神の新しい御業、神の献身の出来事でした。
皆さん、今夜はカニ尽くしの夕食です、と聞いたら、ヤッターと思いますよね。私たちは、毎日、神の献身尽くしを受けています。神が人と共に住み、人が神の民となり、人の目から涙をことごとくぬぐい取って、死も悲しみも嘆きも労苦もない新しい天と新しい地が来るまで、神の聖なる霊がクリスチャンの身体に住むという、神の献身づくしを受けています。
先日5か月ぶりに三歳の孫に会って来ました。どういういきさつだったのか、「なんて素晴らしいことがあるんだ」と言ったんです。私たちは毎日神の献身づくしを受けるという、なんという素晴らしい時代に生かされているでしょうか。私たちは与えられた生涯を通じて、神の献身に応え続けさせていただきましょう。
2024.05.26
「オメル升はキリスト」出エジプト記16章1~18節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★信頼すべき方
葦の海まで追いかけて来たエジプトの軍勢を神は倒され、奴隷となっていたイスラエルの人々は完全にエジプトから解放されました。これからは神に導かれて荒れ野を旅する神の民と成ります。昔から私たち教会員も神の民と呼ばれてきました。葦の海の中を通る代わりに、洗礼という水の中を通ります。そして、罪から完全に解放されて神に導かれる神の民の一員となります。それがクリスチャンです。
エジプトの奴隷から解放されて神の民に成ったものの、まだ神様の事は何にも知りませんでした。葦の海の中に乾いた道を通すことの出来る力あるお方が、自分たちを導いておられる神様であることは分かりました。しかし、それは神様のほんの一部の事です。まだ何も分かっていないと言って良いですね。
洗礼を受けてクリスチャン、教会の一員に成った時も同じです。神様の事はだんだんと分かって来ます。洗礼は分かって受けるものではなくて、信じて受けるものなのです。
さて、神はご自分の事を示す場所として、町や畑、森や山、川や海を選ばずに、荒れ野を選ばれました。荒れ野とはどんなところですか。町も店もありません、そもそも人が住んでいません。水も食料も得られない所です。何故こんな所を選ばれるのでしょうか。荒れ野は神様に頼るしかない所だからです。神が荒れ野に導かれたのは、神の民が神さまを全く信頼する事を学ばせるためだったのです。
クリスチャンになったら、まず、この事を知らされます。聖書の地理や歴史というような事が分からなくても、神さまが信頼すべきお方であるという事が分かること、それが最も肝心なのです。神様は私たちが全信頼すべきお方です。それは心の持ち様とか、考え方と言う、精神性というような、実生活からかけ離れた所での事ではありません。具体的に実生活の全てにおいて信頼すべきお方です。このことを今日の神の民の出来事が教えてくれます。
★神さまが養われる
荒れ野を旅するのには、具体的にまず水と食料が必要です。今朝の箇所は、その食料が無くなってしまったというのです。神様に頼るしかありません。出エジプト記は神様が必要な水と食料を用意して下さった事を伝えています。4節で「天からパンを降らせる」と言われました。これはクリスチャンになったら生活の為に働かなくても神様が養ってくれると言うことではありません。次を読んでみましょう。「民は出て行って、毎日、必要な分だけ集める。」じっとしていては食べられません。集めなければ成りません。丁度、鳥と同じですね。イエス様もこう言われました。「空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる」鳥は早起きして餌を捜し回ります。遠賀川に行きますと沢山の鳥たちが草むらの中に巣を作っているらしく、餌も沢山あるようです。鳥は種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしません。しかし、彼らを眺めていると餌を集める事がどんなに大変なのか分かります。
「民は出て行って、毎日、必要な分を集める。」これはれっきとした仕事です。さて、人の仕事は鳥と違います。人は収穫の為に多くのことをしなければなりません。畝づくり、種まき、除草、肥料や水やり、と人は鳥がやらないことをします。しかし、作物が成長するのは人間の業ではありません。それを促進させることが出来ても、成長は神様が為さることです。ですから仕事とは基本的に神様が為さった事を人が集める事です。都会では自然と関わる仕事以外のものが多いですね。ですから、仕事が神様と全然関わりの無いものだという錯覚に陥ります。しかし、オフィスでの仕事はエネルギーで成り立っています。電気、ガス、化石燃料が無くなればストップしてしまいます。この様に都会での仕事は、エネルギーによって成り立っているものを集める事です。そして、そのエネルギーは、神様が造られた太陽や化石燃料や化学反応から得ています。
ですから今日読みました「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる。」とは、モーセの時代の事だけではなくて、現代の事でもあります。このように現代も神が人を養っておられます。
★いのちのパン
31節、モーセの時代の人々は神さまが与えるパンを「マナ」と呼びました。新約聖書にイエスさまが5000人の人々を二匹の魚と五つのパンで養われた記事があります。空腹の人々を実際に養われた後で、こうおっしゃいました。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」するとそれを聞いた人々が尋ねました「神の業を行うためには、何をしたら良いでしょうか」と。働くということを、神の業と聞いたのですね。するとイエスさまは「神が遣わされた者を信じること、それが神の業です」と答えられ、更にご自分の事を「わたしがいのちのパンです。わたしは、天から下って来たパンです」とおっしゃいました。つまり現代の「天からのマナ」は、教会が信じるイエスさまです。イエスさまは私たちに永遠の命を与えられる「いのちのパン」なのです。
★必要な分で養われる神
さて、出て行って、どの様にするのでしょうか。「毎日必要な分だけ集める」とありますね。「必要な分」これは、理想的な養いです。私たちの実生活がこの様であったなら、人類はどんなに平安であろうかと思います。
これは持分とか、分け前とか、の意味です。神様が決められた一人一人に与えられた分と言う意味の言葉です。詩編にもそう言う意味の言葉があります。「測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました。」(16編)測り縄は神様が手に持っているもので、私たち一人一人に与える分の大きさ、重さ、数をそれで決めます。他にも箴言30章8節にこう言う言葉があります。「貧しくもせず、金持ちにもせず、わたしに定められたパンで私を養ってください。」これは神様の御計画通りの事が、私に行われるようにと言う祈りです。神様が定められる分、神さまのご計画(御心)が、私たちにとって無くて成らない「必要な分」なのです。
16章16-18節を読みましょう。「主が命じられたことは次のことである。『あなたたちはそれぞれ必要な分、つまり一人当たり一オメルを集めよ。』イスラエルの人々はその通りにした。ある者は多く、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた。」
必要な分を集めるのに基準となるオメル升と言うのがあったのですね。それでは、現代の私たちが日々生るために、与えられている基準、オメル升とは何でしょうか。それは主イエス・キリストです。キリストは神の独り子でしたが、私たちの為に私たちの罪を背負って十字架で死んでくださいました。このキリストこそ一番惨めで、最も損をした人です。世の中の基準から見たら最も馬鹿な道を歩んだ人と言われるでしょう。しかし神様はそのキリストを復活させて、イエスさまの歩まれた道が人間の誰も通ったことの無い「命に通じる道」すなわち永遠のいのちを与える「いのちのパン」であることを明らかにされました。
みなさん、聖書は私たちに必要な分を示しています。必要な分、それはキリストを基準にして決まります。神様はキリストによって私たちに必要な分を示してくださるからです。
神様の指示通りにするのは不安でしょうか。いいえ、神様は信頼すべきお方です。5節はそれを示しています。明日の分を余分に集めた時それは腐ってしまいました。天からのパンは次の日には腐りました。七日目は休みの日で天からのパンはありません。でも神様は心配ないと言われます。六日目には二倍のパンを集めても腐らなかったからです。
キリストは言われました。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」マタイ6:32,33。神の国と神の義とは、キリストのことです。ひとり分のマナの必要量を計るのはオメル升でした。現代のオメル升は主イエス・キリストです。今週もこのキリストを信頼して進んで行きましょう。
2024.05.19
「突破口を開く神」出エジプト記14章1~18節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★信仰はアドベンチャーな旅です
「神さま、なぜこんなことが起こるのですか?この現実と神さまとは関係ないのですか?」、と思うのは私たちだけではありません。今日読んでもらいました中に登場する、神に導かれてエジプトの奴隷から解放され、逃げて来た人々も同じでした。4月から読まれて来ました旧約聖書はそんな彼らの歩みの記録で、私たちと重なる所があります。
信仰は戦いと言われますが、信仰は旅とも言われます。信仰の旅は冒険の旅、アドベンチャーです。ですから、しかめ面はふさわしくありませんね。『神は私の今日一日をどの様に導いてくださるのだろうか』。「どうなるこっちゃ」ということでドキドキしますが、期待してチョッピリワクワク感を持って歩みましょう。私たちの信仰生活はアドベンチャーです。
さて彼らの旅はどんな歩みだったのでしょうか。聖書の真ん中をパっと開くと詩編があります。詩編は現代の賛美歌です。彼らは歌を口ずさんで旅しました。その一つ、詩編66編5-6節を紹介します。「来て、神の御業を仰げ、人の子らになされた恐るべき御業を。神は海を変えて乾いた地とされた。人は大河であったところを歩いて渡った。それゆえ、我々は神を喜び祝った」。神が導かれた彼らの旅の中で、忘れられない、忘れてはならない経験を彼らは歌にしました。その伝統を受け継ぎ、私たちも歌集を持っています。例えば新聖歌325番は「歌いつつ歩まん、この世の旅路を」を繰り返す歌です。
★恐れてはならない・落ち着いて・救いを見なさい・静かにしていなさい
さて詩編66で歌い継がれた経験は、出エジプト記14章での経験でした。エジプトから脱出する時、「早く逃げなければならない」と皆は考えていました。ところが神の考えは違っていました。 ①近道ではなくてまわり道をする。
②来た道を引き返す。
③海辺に宿営する。
神はわざとエジプトの王に『彼らが道に迷っているぞ。そして、海辺に宿営したぞ。これはチャンスだ。追い掛けよう』と思わせられました。
9・10節「エジプト軍は彼らの後を追い、ファラオの馬と戦車、騎兵と歩兵は、ピ・ハヒロトの傍らで、バアル・ツェフォンの前の海辺に宿営している彼らに追いついた。ファラオは既に間近に迫り、イスラエル人々が目を上げて見ると、エジプト軍は既に背後に襲いかかろうとしていた」。絶体絶命のピンチでした。
11-12節の彼らがモーセに言った言葉に注目して下さい。これはまさに「神さま、なぜこんな事になるのですか。この現実と神さまとは関係ないのですか?」、という内容でした。私たちもピンチに立たされる時、また日々入って来る世の中の情報に接する時、そう思わされる事件が多いですね。しかし、神は言われます。
13-14節に注目して下さい。神はこの現実と決して無関係ではない。だから、『恐れるな!落ち着け!救いを見なさい!静まれ!』 と言われます。
新約聖書で、生まれつき目の見えない人が聖書に登場します。『彼は罪を犯したから神と無関係になっている。では、誰が罪を犯したのか』、と言う議論が弟子たちに起こり、イエスに質問しました。すると、イエスは意外な答えをなさいました。「この人が生まれつき目が見えないのは、本人が罪を犯し、あるいは両親が罪を犯して神と無関係になっているからではありません。この人が生まれつき目が見えないのは、神の業がこの人に現れるためです。この現実は決して神と無関係の現実ではない」。
神の民の歴史はエジプトを脱出してキリスト誕生まで約1200年程あります。その間に大国が興り、そして、消えて行き、世界は変動しました。小さな集団だった彼らはその影響をもろに受けました。その中で神を信じるという事は、「神さま、なぜこんなことになるのでしょうか?この現実と神さまとは関係ないのですか?」と、絶えずその思いとの対決でした。そんな中でも彼らは歌いつつ歩みました。もう一つ歌を紹介します。詩編22編です。この歌は「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか。」で始まります。しかし、23節あたりから、主を賛美せよ、に変化します。そして、皆さんはもうお気づきですね。イエスもこの22編を歌われました。
★神はあなたの身と体に関わられる
私たちの主イエスは、十字架に磔にされて約6時間後、死ぬ間際に、この歌の冒頭だけ口にされました。余りに苦しいのでそれは歌ではなくて叫び声になりました。ヘブライ語です。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」。そこに残っていた人が勘違いをして「この人はエリヤを呼んでいる」と言いました。という事は、この信仰の歌を歌い続けて来たユダヤ人は既に去っていませんでした。もうイエスには希望が無いと思ったのでしょう。しかし、神は三日目にこのイエスを死人の中から甦らせられたのでありました。キリストの復活はあの詩編22編の歌の続きとなりました。
皆さん、私たちはこの身と体を持って生きています。「神さま、なぜこんなことが起こるのですか?この現実と神さまとは関係ないのですか?」、と問いつつ生きています。しかし、イエス・キリストによって、この私の今の現実は決して神と無関係の現実ではない、と信じます。使徒パウロは私たち教会が次のことを信じると記しています。「死者の中から復活されたイエスの命が、死ぬはずのこの身にこの体に、現れる」2コリント4:10.11。ですから私たちの命はイエス・キリストによって、全く新しい命です。
私たちは今日、それを聞いて、また以前からそしてこれからも、何回も聞いて、この新しい命の故に、命の大切さ、精一杯生きること、命を傷つけないことに関して、今までと同じではいけない、変わるべき所は変えなければならない、と気付き続かせられます。
あなたも、このイエス・キリストによる新しい命に招かれています。もし、あなたが今の現実に突破口が開かれるのを望まれるのであるなら、このイエス・キリストによる新しい命に与りましょう。
2024.05.12
「あなたは誰のもの」出エジプト記13章3~10節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
「あなたは誰のものですか?」、と突然質問されたら、「わたしは誰のものでもありません。わたしは自分のものです。わたしは自由です」と答えるでしょう。では、なぜ自分の思い通りにならない事が多いのでしょうか。
例えば、病気になる時、熱や痛みや吐き気に襲われ、それに支配されます。風邪をひいた時は、その支配から早く出られるように、薬や注射をしてもらっても、三日間ぐらいはお布団に入って不自由な生活をしますね。事故や災害に遭ったり、死と隣り合わせになる時、尚更私たちはそれらから大きな支配を受け自由を奪われ、奴隷のようになっている事に気付かされます。ですから、私達は自分のものではありません。
病気や事故などの災難を避ける為にと、人はお守りやお札を持ったり、ご利益のある場所へお参りしたり、お賽銭をしたり、念仏を唱えたり、色々します。厄除けというのもありますが、これらは根本の解決になりません。その解決は、私たち自身が何に支配されるかに、また誰のものになるかに、があります。悪いものではなくて良いものに支配されたいですね。愛のある方の支配に入りたいですね。今読まれた聖書はその答えを伝えています。
今から約3300年前の話です。毎日毎日苦しい辛い仕事を無理やりやらされていたエジプト王の奴隷がいました。彼らは思っていました。
「この悪い王様の支配のもとでは、生きる希望が無い。でも、自分ではここから自由になれない。助けてくれる人もいない。もしも、力ある良いお方がこのエジプト王から私たちを助けて、そのお方の支配下に入れて頂けるなら、その御方のものになるのなら、それが一番幸せです。しかし、そんなお方がいるのだろうか?」
ある日、つらい仕事を終えて家に帰って来たら、何やらいい匂いがします。
「パパ、お帰りなさい。今日の夕食は御馳走なんだ、羊の丸焼きだよ。それにいつものパンと違って、今晩はペッタンコのパンなんだ」
「へー、そうなんだ」
「ただいまー。ママ、どうしたんだ、この料理は?」。
「子どもたちも、みんな集まってこれからするママの話を聞いて」
家族みんなが集まりました。
「実は今日、モーセというお方が来て話されたの。明日の朝、私たちの先祖アブラハムとイサクとヤコブを導かれた神が、私たちの苦しみを知って、エジプトから脱出させてくださるの。その為に、今晩各家で子羊一頭を料理して、朝までに食べなければ成りません。また、パンはゆっくりと発酵させている時間が無いので、酵母無しで焼きます。脱出する明日の分もコネ鉢に作っておかなくてはなりません。今晩はホームウエアーに着替えてゆっくりとくつろぐ暇はありません。旅支度をして、食事をします。そして、家の入り口の右と左と上に料理した羊の血を塗らなければなりません。何が起こるのか、どうなるのか分かりません。でも奴隷はお金を払って買い取らなくては主人の下から連れ出せません。だから神は奴隷である私たちをエジブトから買い取って、神のものにして下さるのです。神がいくらのお金を払われるのかわからないけどね」。
その夜、神はお金ではなくて、エジプト中にいる人と家畜の初子の命を取り上げ、その数え切れない尊い命を、神にとってもかけがえのない大切な命を買取り代金となさました。エジプト中から悲しみの声が上がりました。王様の長男も死にました。それで王様は今まで苦しめて来た奴隷たちに、自由になって早くエジプトから出て行くように命じました。このようにして、彼らは神のものとなりました。
神はこの経験を後世の人に伝えるために命じられました。毎年、3月半ばから4月半ばの間で、7日間、各家庭のママは酵母を入れないペッチャンコのパンを焼きます。その時に「いつもフワフワパンを食べるのにどうして?」と、子どもはママに聞かなければなりません。そしてその答えを代表してパパがします。「神は昔エジプトで奴隷であった私たちの先祖を、力強い御手を持って、導き出され、神のものとなさいました。私たちは誰のものでもありません。自分のものでもありません。私たちは神のものです。ここに自由が希望が幸せがあります」。
あなたは誰のものになりますか?何に支配されますか?
今、ガザとウクライナで戦争が行われています。皆さん、戦争で人は何にされると思いますか。戦争では人の命はどうなっても良い、という考え方が支配します。日本でも15年間戦争をしました。今から79年前にそれが終わった時に、もう戦争をしない、戦争に手を貸さない、と決めました。戦争は勝っても負けてもそこには幸せが絶対あり得ないからです。例えば、戦争に使う武器を輸出しないと法律で決めました。ところが、日本の国はだんだんその法律を緩めて、先日、戦争で使う最新鋭の飛行機を共同開発して、それを輸出する事を決めました。私たちはその様な中に今います。だから、あなたは誰のものですか、あなたは何に支配されますか、という質問は大切な質問なのです。
今日は母の日ですが、家族の日でもあります。親は子どもの幸せを願い産み育てます。皆さん全員、大人も子供も、それぞれの親から見たら子どもです。しかし、子どもは親のものではありません。子どもは子ども自身のものでもありませんね。では誰のものでしょうか?子どもは天からの授かりものです。皆さんは誰のものになりますか?約3300年前にエジプトで苦しむ奴隷を、全ての初子の命という代価で買い取られた愛の神がいます。そして、その同じ神は約それから1300年程して、丁度今から約2000年前に、全ての人をあらゆる悪い支配から買い取って神の支配の中に入れる為、神のものとする為、それも神の子とする為に、愛する独り子の命という代価を払われました。この神は本当に愛の神です。このイエス・キリストの神のものになり、そのご支配の中を歩ませていただきましょう。そこに本当の自由と、本当の希望があります。ここに本当の幸せがあります。今日、幸せを願って産み育ててくれた母を思い出す母の日は、この幸せに与りたい、と願うのに相応しい日です。どうか皆さん、この幸せに与って下さい。
2024.05.05
「遣わされた者」出エジプト記3章1~12節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
「おギャーおギャー」「弟が生まれた!」お姉ちゃんミリアムと、お兄ちゃんアロンがお母さんのいる部屋へ急いで入って行きました。するとお父さんが「シーッ」と言いました。エジプトの王様はヘブライ人がエジプトの国を奪い取ろうとしている、と思い込み、ヘブライ人に男の子が生れたら、一人残らずナイル川に放り込め、と命令していたからでした。ヘブライ人は誰もそんなことを考えていませんでした。でも王様の言うことは聞かなければ苦しめられます。しかし、赤ちゃんを放り込むなんてできません。少しの時間でも生きていて欲しい。それでお母さんとお父さんは考えました。大きな籠を作ってそこに赤ちゃんを入れてナイル川に浮かべました。お父さんとお母さんは悲しくて赤ちゃんを最後まで見届けることはできません。それを見ていたミリアムお姉ちゃんが「パパママ、わたしが最後まで見届けます」と言ってくれました。
するとそこへ王女様が家来を連れて水浴びに来ました。そして、女王がその籠を見つけて拾い上げ、中にいる赤ん坊を抱きあげました。「まあー、可愛い赤ちゃん。王様は悪いお方だね。あなたをナイルに放り込めなんて命令して。もう大丈夫よ。わたしがあなたを育てましょう。水の中からわたしが引き上げたのですから、あなたの名前をモーセにしましょう」。それを見ていたミリアムが急いで王女様のそばに走り寄り言いました。「王女様、この赤ん坊にお乳を飲ませて、お母さんの役目を果たせる人を知っています。お呼びしましょうか?」 「そうしておくれ」。ミリアムは急いで家に帰り、お母さんを連れて来ました。女王はモーセとそのお母さんを連れてお城に帰って行きました。これは神さまのお導きでした。
モーセはエジプト人として育てられました。大人になったある日、自分はエジプト人ではなくてヘブライ人の子であることを知りました。そして、一つの事件を起こします。苦しめられているヘブライ人を助ける為にエジプト人を殺してしまったのです。それで、モーセはエジプトから遠く遠く離れたミディアンまで逃げました。もう、エジプトには帰れませんから、エジプトで苦しめられているヘブライ人の事は忘れて、そこで知り合ったエトロの娘チッポラと結婚して、エテロの家族として新しい人生を歩み始めました。モーセは羊飼いの仕事をして、家族に見守られて、自分の人生はここで終わる、と思っていました。チッポラもエテロも子どもたちも家族みんなもそう思っていました。
皆さん、人生って自分の思い通りになる時もあるし、そうでない時もあります。いずれにしましても、人は自分が主導権を握って人生を進めている、進めてどこが悪い、と思っています。しかし、一人ひとりの人生には神の計画が用意されています。
モーセの人生を続けてみてまいりましょう。モーセが思っていた人生と、神の計画は違っていました。ある日、羊を連れて野原を歩いていると、柴が燃えていました。柴とは芝生の芝ではありません。それは乾燥した所に生える棘のある茨の様な植物のことです。乾燥地帯では植物カラカラに乾燥し、自然発火することがあるそうです。そう言う光景は羊飼いで野外にいる機会の多いモーセにとって珍しいことではありませんでした。柴は一時的には燃え灰になって消えて無くなります。「自分の人生も、もう終わりが近い。いずれはあの芝の様に燃えて無くなる、はかない人生だ」。そんなことをモーセは考えながら柴を見ていたでしょうね。すると、燃えている柴が燃え尽きないでいるのに気付きました。「あれー、どうしてあの柴は燃え尽きないのだろうか」。モーセは道からそれて、その柴に近づきました。そしたら、神が「モーセよ、モーセよ」と声を掛けられました。この神との出会いによって、彼の人生に変化が起きました。
これと良く似たことが教会でも起こります。皆さん、私たちも教会に来てイエス・キリストと出会い、私たちの人生は神と共に歩む人生に大きく変化します。去年、信者の皆さんに「わたしのストーリー」という、教会に来た切っ掛けを書いて頂きました。それで分かったことがあります。大部分の人がクリスチャンに誘われて教会に来ています。
クリスチャンも燃えてしまう柴と同じで,弱さはかなさ空しさを背負って生きています。しかし、イエス・キリストが共にいて下さるので、聖霊が住まわれるので、そこに燃え尽きないものが現れます。新約聖書でそのことを使徒パウロは次のように伝えています。死ぬはずのこの身にイエスの命があらわれる(2コリント4:11)。キリストの力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ(12:9)。燃え尽きない柴はクリスチャンのシンボルマークです。教会のみなさん、私たちは燃え尽きる柴のように無くなってしまう存在ですが、しっかりとキリストと結ば、聖霊の導きに従うなら、燃え尽きない柴の働きのために、つまり、人を神のもとに、キリストのもとに導くのに用いられます。今年の教会の目標聖句はイエスの言葉で「沖へ出て、漁をしなさい」です。イエスはその後、「あなたがたは人間をとる漁師になるのだ」と言われました。燃え尽きない柴と同じ働きに召されているクリスチャンは、神の目から見たらまさに人間をとる漁師です。
モーセは知らないけど、エジプトの女王によってナイル川に沈む所を引き上げられたのも、ミディアンのエトロの所に逃げられたのも、神の導きでした。エトロの家族として生きて来れたのも、神の御計画でした。皆さんも知らないけれど、神の御計画があります。
神はモーセにその計画を告げました。3章10節「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす」。しかし、モーセは「わたしの言うこと等信用されない。わたしは口が重い。わたしは相応しくない、だれか他の人にしてください」と色々な理由を付けて断り続けました。
皆さん、私たちの手元にあるこの聖書は、あなたを成長させたり励ましたり慰めたり教えたり戒めたりする単なる教典ではありません。神があなたに声を掛け、神の御計画を告げ、あなたを遣わす、書です。
4節20節、モーセはエジプトの国を目指しました。何がそうさせたとのでしょうか。3章12節の神の約束があるからです。「わたしは必ずあなたたち共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」。
モーセは神によってエジプトへ遣わされ、ヘブライ人を助け、エジプトから脱出させただけではなくて、彼らの先頭に立って、40年間の旅をしました。その旅が終わる前に、モーセは言いました。申命記2章7節「あなたの神、主は、あなたの手の業をすべて祝福し、この広大な荒れ野の旅路を守り、この四十年の間、あなたの神、主はあなたと共におられたので、何一つ不足しなかった」。
皆さん、神はあなたとも共におられます。そして、あなたを遣わされます。礼拝の最後、祝祷の前に牧師はイエスの派遣の言葉を朗読しています。マルコ16章15節、イエスは言われた「全世界に出て行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」。マタイ28章20節「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
神はわたしたちの罪のためにキリストを十字架にかけ、その命を犠牲にされました。だから、罪ある私たちと必ず共にいて下さるお方です。神は十字架で死んだキリストを三日目に死人の中から甦らせ、死に打ち勝たれた体を弟子たちにお示しになられました。だから、私たちの体が死を迎える時も、神は必ず共にいてお下さる方です。この約束そこ、神がわたしたちを遣わされているしるしです。私たちの場合は、どこですか、それぞれの生活の場ですね。私たちだけではありません。キリストは全ての人の為に死に、全ての人のために甦られました。私たちは、それに気付かされた、ただそれが周りの人との違いです。これによって全ての人がそれぞれの国でそれぞれの場所に遣わされている掛け替えのない存在です。すなわち、一人一人の命は奪われては成らない神に大切な遣わされた命です。しかし、それに気付かず、異なる道を進んでいます。でも神はどこまでも追跡されます。
戦争は防衛であろうが、正当な報復であろうが、どんな理由があるにせよ、この大切な命を公に奪って良い殺人にならない、とする最悪の行為です。今の時、今の場所、今の立場に私たちは神から遣わされた者です。
神は皆さんにも言われます。「今、行きなさい。わたしはあなたを遣わす。わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである」。
2024.04.28
「人を未来に向かわせる神」創世記45章1~15節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
おはようございます。創世記の初めでも、アダムとエバが心に大きな傷を負った話しがありました。長男カインが次男アベルを殺害すると言うショッキングな事件に遭った話しです。そして、今日創世記は最後にもう一度この問題をヤコブの子どもたち12名において取り上げます。
皆さん兄弟同士でのバトルは今も昔もありますね。私自身五人兄弟の下から二番目としてそれを経験しましたし、三人の子どもを育てる中でそれを見て来ました。ある日兄たちが日頃のうっ憤を晴らすために、下から二番目のヨセフを懲らしめました。彼らは結果的にヨセフを商人の手に渡し、その商人がエジプトでヨセフを売りました。彼らは助けを求めるヨセフを見捨てました。その経験によって、ヨセフは心に消えない傷を負いました。その傷は自分ではどうしても消せない、また誰にも知られない、言えない傷となりました。
しかし、神はその傷のことをご存じであり、ヨセフと関わり続け、目に見えない形で、人の思いも寄らない方法で、彼を導かれました。朗読されなかった37-44章はその内容を詳しく綴っていますので、是非今週読み返してみてください。礼拝前にわたしが朗読しました詩編37:23は告げます。神は人の一歩一歩を定め、み旨にかなう道を備えて下さいます。神は皆さんに対しても、目に見えない形で、予想外の方法で導いておられるお方です。
神は身売りされたヨセフをエジプトの大臣にならせてから、飢饉のためエジプトに助けを求めに来た兄たちと、第一回目の再会をさせられました。その時ヨセフは大臣として兄たちに「回し者だ、国の手薄な所を探りに来たスパイダ」と言って、兄シメオンを人質にして弟ベニヤミンを連れて来るように命じて、兄たちを懲らしめました。それは彼の心に刻まれた傷のゆえの仕返しでした。
神はこの大臣の命令を、兄たちが過去にヨセフに侵した罪を思い出させる切っ掛けとなさいました。彼らは父に対して『ヨセフは野獣に襲われて死んだ』と嘘をついていました。父はそれ以来、末っ子のベニヤミンを自分の手元から決して離しませんでした。そんなベニヤミンを連れて来いと言う大臣の命令は兄たちを困らせただけではなく、過去の罪に対する後悔で彼らを悩ませました。実はヨセフを見捨てた罪の件で、兄たちの心にも傷を負っていました。42章21-22節を読みます。
それを目の前で聞いていたヨセフが泣き出します。もちろん兄たちに気付かれない様に席を外して泣きました。ヨセフの傷が癒え始め、ヨセフにも変化が起こりました。兄たちが支払った穀物代金の銀と、帰りの道で食べる食料を彼らの袋に入れさせる、という愛の配慮をヨセフが行いました。また、兄たちにも変化が起こりました。家に帰ってから、代表してルベンやユダが、ヨセフの弟ベニヤミンの身に何か起こった場合、自分たちが犠牲を払う、と父に申し出ました。
第二回目の出会いでは、ヨセフはもう兄たちを懲らしめませんでした。弟ベニヤミンとの再会に感動し、兄弟全員で昼食を共にし、兄たちとの和解をヨセフは決断します。この様にお互いに変化が起こって来ました。ヨセフは再び出来る限りの配慮をして兄たちを帰らせましたが、もう一度兄たちが本当に変わったのか確認する為に、銀の杯をベニヤミンの荷物に忍ばせ、濡れ衣を着せられたベニヤミンを兄たちはどうするだろうか、昔自分にした様にベニヤミンを見捨てないだろうか、と試しました。
すると、兄たちはますます過去に犯した罪の事で心を痛め、とうとうユダがヨセフに「神が僕どもの罪をあばかれたのです」と、かつての罪を告白しました。そして、ベニヤミンと共に兄たちも奴隷になる事を申し出ました。ヨセフはその必要は無いと言って、兄たちを帰らせようとします。しかし、兄たちを代表してユダが18節以下44章の終わりまで、延々と事情を説明し、ユダがベニヤミンの身代わりを申し出ました。また、父がベニヤミン無しには生きて行けない事も告げました。ヨセフはこのユダの言葉を聞いて、兄たちが本当に変えられている事と、父の事をも考えている事が分かりました。
ヨセフはとうとう我慢できなくなって今日朗読された45章で自分の身を明かしました。4節「私はあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです」。この言葉はヨセフ自らの心の傷を明らかにすることでもありました。しかし、ヨセフの心の傷を神は癒してくださいました。5節「しかし、今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。」「命を救うために、神がわたしをあなたがたより先にお遣わしになったのです。」と、5節7節8節と繰り返しヨセフは兄たちに告げました。
神はヨセフを過去に受けた傷から解放し、『自分は家族から深い傷を受けたが、それは家族の未来のためだった、神がそのようにされた』と、告白する新しいヨセフに造りかえられました。このヨセフの言葉によって、兄たちも過去から解き放たれて未来が与えられました。12人の兄弟が神によってここで全く新しく造られていることが分かります。この後、神の導きによって家族全員エジプトに移住し、彼らの未来が開かれました。
さて皆さん、創世記1章で神は人を創造されました。しかし、神は6章6節で、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められ、大洪水を起こされました。ノアの箱舟と言われる話です。その後、人はバベルの塔を築き、限界を超えて天に手を広げようとしました。神はそれを阻止して下さいましたが、そんな人の未来は大丈夫なのでしょうか。けれども、創世記の終わりの所で、神に導かれて人が新たに造りかえられる話を今日私たちは聞きました。神はエデンから出て行った人間を新しく造りかえる為に働き続けて来られたのです。そして、人を未来へ向かわせる希望を示して、創世記は筆をおきます。必ず希望があるから前に進め、それが創世記の伝える神からのメッセージです。
最後に44章32-33節のユダの言葉に注目して下さい。32節「わたしが父に対して生涯その罪を負い続けます」。33節「何とぞ、この子の代わりに、この僕を・・・」。新約聖書の冒頭マタイ1章のイエス・キリストの系図は、罪を負い、身代わりを申し出た、このユダの子孫として、イエス・キリストが生れたと告げています。なぜかヤコブの長男ルベンではなくて、四男のユダの名前だけ取り上げられています。不思議です。ユダの遠い子孫イエス・キリストも十字架で私たちの罪を負い、その身代わりとなって、私たちに和解を平和を新しく造りかえられることを、もたらして下さったからです。44章32-33節のユダの言葉はその前触れとなっています。
「しかし、私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」ローマ5:8。皆さん、たとえ罪人であっても、神は愛する独り子イエス・キリストにその罪を負わせ、命を身代わりに献げて下さいました。それは、あなたを癒し、新しく造り変え、未来へと向かわせるためです。これは人に出来る事ではありませんが、神には出来ます。神はこの世界の初めからそうする事を求め続けて来られたお方です。
今日、神は皆さんにもおっしゃいます。わたしと共に私の愛する独り子イエスと共に、今日からあなたも未来に向かいましょう。わたしにはあなたに対しても、このヨセフとその家族に対して立てた計画と同じ計画を立てている。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。
それでは、お祈りしましょう。神は今皆さんを招いておられます。「わたしと共に、イエスと共に、目に進んでみませんか。未来に向かって行きましょう」
2024.04.21
「ここも天と繋がっている」創世記28章10~17節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
4月から新しい年度が始まりました。今年度も神の救いの歴史の流れに沿って過去現在未来のお話しをします。神の救いの流れの中にこの世界は存在し、私たちも存在している、と言う目には見えない事を信じて教会は2000以上歩んでまいりました。私たちもその歩みに加えられていることを、ここに集まる時に思い起こし、歩み続けましょう。今日で三回目ですが皆さんお気づきでしょうか。アダムの家族、アブラハムの家族、そして今日はイサクの家族の話です。家族の話は人間にとって命を次世代につなげると言う、重要な使命と関係します。そして、私たちに非常に身近な話です。
イサクに与えられた二人の子どもが次の世代に命をつなぐ中で、長男エサウと次男ヤコブの間にバトルが起こります。これは今も起こりますね。年上であること、体力も上であることによって、長男はいつの時代も優位な立場ですね。ヤコブは策略を持って一時逆転に成功します。しかし兄に命を狙われる結果となり、とうとう、家を出て行かねばならなくなりました。
神はそんな次男ヤコブに目を留められたというのは、長男次男そして長女もいて上から四番目になる私にとりましても、ちょっと興味を引く話しです。しかし、長男次男に関係なく、人はいずれ親から離れ、独りになって前に進まなければなりません。学生さんはこれからその時が来ますね。子育て終えた親御さんたちは、お子さんたちにその時が来ます。お年寄りの方は可愛いお孫さんたちにその時が来ます。ですから、ここはちょっと皆さんにとっても無関係な話しではありません。ベエル・シェバを立ってハランに向かったヤコブに注目しましょう。
「ラバン叔父さんって、どんな人なのだろうか?そこでの生活はどうなるのだろうか?」。ヤコブには不安があり、歩調は遅く、どちらかと言えば元に戻りたい思いでしたが、戻ればそこでは兄エサウが命を狙っています。前に進む、それをヤコブは独りで決めなければなりませんでした。
人生で決断しなければならない事が三つある、と言われています。①自分の職業を決める。②結婚を決める。する、しない。するならどの人とするのか。③自分の宗教を決める。この三つの決断は色々アドバイスを受けることが出来ますが、最終的にはこれも独りでします。
病気に陥る時も、人は独りになります。案外気付かないのが医療を受ける時です。例えばレントゲン検査、短い時間ですが独りになります。
私たちも独りになる事があります。そんな時非常に不安になります。今日の聖書は「そんなあなたにも伝えたいことがある。ヤコブに注目せよ」、と告げています。
ヤコブは二つの経験をしました。
① は天と彼がいる所を結ぶ梯子と、その梯子を天使たちが忙しく上り下りしている、という夢を見ました。それによって、彼は今自分が居る場所が天と繋がっている、ということに気付きました。16節「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」。
神はわたしたちにもおっしゃいます。『あなたが立っているその場所と天は繋がっている。そこは私が働いている場である』。
② はその神から約束を頂いたことでした。15節「見よ、わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしはあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを捨てない」。神はヤコブにおっしゃりたかったのです。「ヤコブ、わたしがついているから、安心して、あなたは未来に向かって進みなさい」。
神はわたしたちにもおっしゃいます。『わたしがついているから、安心して、あなたは未来に向かって進みなさい』。
『タイタニック』という豪華客船が大西洋を横断中、氷山に接触して沈没し、思いも寄らず多くの人が死亡しました。それが映画化され、船と一緒に沈んで行く人々の様子が描かれました。その中に牧師と信者さんたちのグループが登場します。彼らは讃美歌を歌っていました。新聖歌510番「主よ御許に」という歌でした。その二番の歌詞に今日のヤコブのことが入っています。「さすらう間に、日は暮れ、石の上の 仮寝の 夢にもなお、天を望み、主よ 御許に 近づかん」。甲板が傾き、船全体が垂直に立って一直線に沈んで行く中、彼らは最後の最後まで歌い続けます。そこは修羅場と言われる場面でしたが、天とその場が繋がっている。死は主の御許に近づくことだと、彼らは信じて船と共に沈んでゆきました。彼らは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎました。
私たちは厳しい現実を見た時に思います。「イエスさま、こんな汚い穢れた所が天と繋っているのでしょうか。こんな悲惨な場所がどうして天と繋がっているのでしょうか」。
しかし、教会はイエス・キリストのゆえに宣言します。「天と地は確かにつながっている。だから、あなたは前に向かって進みなさい」。
天におられた神の愛する独り子イエス・キリストが、確かに女から生まれ、人として私たちと同じ様にこの地球の空気を吸い、飲み食いし、汗をかき、涙を流し、悲しみ、怒り、疲れ、痛みを覚え、苦しめられ、裏切られ、虐げられ、そして死なれました。そして、復活して天に帰られ、神の右の座に着かれ、確かに天と地を繋ぐ梯子となって下さいました。
それからもう一つ大切なことがあります。ヤコブは天と地を繋ぐ階段を神の天使が上ったり下りたりしているのを見ました。イエスも「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが、人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と言われました。つまり、天と繋がっていると言うことは、神が天使を通して働く場である、ということです。
1コリント10章31節。コロサイ3章17節。食べるにしろ飲むにしろ話すにしろ何を行うにしろ、全ての日常は天と繫がっている、イエスが命を懸けて繋げて下さった。だからこの日常生活に相応しいのは、悪から離れ、改めるべき所は改め、神の栄光を表す事、感謝を表す事だ、と言うことです。天と繋がっていると信じて未来に向かって進む時、神は働いて私達を愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制を追い求める者に造り変えて下さいます。そして、私たちの人生は、イエス様によって天と地が繋がっている故に、希望がある、事を証しする人生になります。皆さんの周りにいる人に希望があることを証しする人生って、本当に幸せな人生ですね。どうか皆さん、その幸せを目指してあなたも進みましょう。
2024.04.14
「神は真実なお方です」創世記22章1~14節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★1節「アブラハムよ」という神の呼びかけと、アブラハムの「はい」という応答は、神とアブラハムとの関係の根底を探り、そこを確り整える、そんな物語の始まりを予告しています。私たちもここを読んで、「わたしと神さま」の関係の根底部分はどうなっているのか、探られます。そして、そこを神に確り整えていただきましょう。
★2節の神の命令は、念願の子イサクを与えられたアブラハムにとって、余りにも唐突で、何の準備もなく、予想外のことでした。私たちも、同じようなことを人生で体験します。その時に、悲しみ、苦しみ、悩み、嘆き、落胆が、アブラハムにも襲いました。しかし、聖書はその事に一切触れません。いきなり3節4節「次の朝早く、アブラハムは、ろばに鞍を置き、献げ物に用いる薪を割り、二人の若者と息子イサクを連れ、神の命じられた所に向かって行った。三日目になって、アブラハムが目を凝らすと、遠くにその場所が見えた・・・」と、淡々と事を進めるアブラハムの姿を綴ります。
妻のサラ、二人の若者、イサク、彼らに対して今回の神の命令を、どのように話したのかも、分かりません。三日の道程の間、どんな会話をしたのかも、分かりません。丁度映画でカメラが、アブラハムの周りのものを全てぼやかせて、彼だけに焦点を合わせる、そのような表現となっています。
★さて神が命じる焼き尽くす献げ物とは、今までに一回だけ出て来ました。創世記8章20節で、ノアの家族が無事箱舟から出た時に献げられました。その時の焼肉の香りは主が嗅がれる宥めの香りの献げ物となりました。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけではなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」と以前言われた神と、こうして生き残った私たちとの関係の根底部分はどうなっているのだろうか。今、神はどう思われているのだろうか。
この献げ物には「神さま、これから再出発する人間を、これからも憐れみ顧みたまえ」との祈りが込められていました。そして、神からその答えが返って来ました。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい・・・」。
★5節「わたしと息子はあそこへ行って、礼拝をして、また戻ってくる。」8節「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる」。このアブラハムの言葉を繰り返し読むとき、彼が一つのことだけに注目しているのに気付かされます。「神は真実な方です。」という一点です。この神に集中しています。私達も試練を受けます。そのとき私たちも色々と心騒ぐと思います。しかし問題は何か。
コリントの信徒への手紙一、10章13節「神は真実なお方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」。全ては神の真実に懸かっているということです。
キリストが捕らえられ弟子たちが逃げる、それも予想外の事でした。しかし、最後の夕食の中でキリストは「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」と言われました。神を信じるとは、神が真実なお方で、最後まであなたを確り支えてくださるお方である、と信じることですね。
★当然アブラハムは息子イサクに神の命令が何であったのかを伝えられませんでした。しかし、イサクはなんか変だなと気付いていました。だから7節で献げ物の小羊について質問しました。そして、9節、縛られて祭壇のたきぎの上に載せられた時、彼は絶対に変だと思ったでしょう。しかし、イサクの抵抗について何も書かれていません。「これは絶対におかしい、しかし、お父さんは真実である。そしてお父さんの神様も真実なお方である。」このイサクの姿は、神の前のアブラハムの姿を鏡のように映しています。
子の親に対する信頼関係がなかったら、子も親が信じる神は真実なお方であると、思わなかったでしょう。家族との信頼関係を抜きにして、信仰の継承は、考えられない事ですね。
★10節、アブラハムは刃物を執ってイサクを殺そうとします。神はなぜアブラハムにここまでさせたのでしょうか。12節、「あなたが神を畏れる者であることが、今、分かった」と主は言われました。「神を畏れる」とは自分の今持っているものを支えとしないで、全く神の真実に任せることですね。
旧約聖書の箴言3章5‐7節を思い出します。「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず、常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。自分自身を知恵ある者と見るな。主を畏れ、悪を避けよ」。
クリスチャン自身の信仰は弱く、小さい。しかし、確かな一点、「神は真実である」に私たちは支えられます。神はかつて神の民が試練の連続だった荒れ野の旅を終える時に、「あなたは知らねばならない。あなたの神、主が神であり、信頼すべき神であることを(申命記7章9節)」と、信仰の要を告げられました。
★焼き尽くす献げ物にする小羊と神の愛する独り子キリストが重なります。神は刃物を握ったアブラハムの手を止められたが、キリストの十字架は止められませんでした。「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫んでキリストは息を引き取り墓に葬られ陰府に下られました。神に敵対する罪は勝利宣言をしました。
それを神はお許しになられました。
なぜそこまでしなければならなかったのでしょうか。
神には私たちの思いを遥かに超えた計画がありました。
罪と死に支配されているという、人の最悪の状態に陥っているキリストを、死人の中から復活させ、『私たちの人生に何が起こっても、神は真実なお方となってくださる。信頼すべきお方である』と、私たちと神との関係がこのキリストによって、根底において確かなものとされている、という福音を神は示されました。
皆さん、あなたと神の関係は、イエス・キリストによって確かなものとされています。キリストが示された神は真実なお方である。だから、これからもこの神に信頼をおいて、この神と共に歩みましょう。この神との関係を大切にしましょう。深めましょう。そして、与えられた人生を最後まで希望を持って生抜かせていただきましょう。
2024.04.07
「完成を目指して」創世記2章18~24節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
昨年度同様、今年度も天地創造からこの世界の終末に至るまでの神の救いの流れの中を私たちが歩んでいる事を、この礼拝で確かめ、神から与えられた希望を持って、使命を担って、感謝して、それぞれが与えられた人生を歩ませていただきましょう。
神がこの世界のあらゆるものをお造りなって、最後に人を御自分にかたどって御自分に似せて造られたのは、人と深い関係を持って、共に歩むためでした。丁度、神と人がキャッチボールするような関係です。相手のコンディションまでしっかり見て、相手の事を考えてキャッチしやすい所に投げると共に、自分のコンディションにも目を向けます。ただ投げるだけではありません。そこには関係が生まれ関係が築かれます。
それで、神は人を丁度陶芸家が土をこね、そこにアートのいのちを吹き込んで作品をかたち作る様に、人を土の塵でかたち造り、命の息をその鼻に吹き入れて人を生きる者、すなわち神との深い関係によって生かされる者に造られました。神は既に人と共に生活する場所、エデンの園の準備もしておられました。アダムに一言、エデンでの生活で注意すべきことを伝えてスタートしたところで、突然何か忘れていたことに気付かれた様に言われました。それが今日読んでいただいた創世記2章18節の「人が独りでいるのは良くない」です。
しかし、神は何かを忘れていたのではありませんでした。神は初めから人を未完成に造られた、ということです。神は人に合う助ける者造って、それを人の所に連れて来られました。それと出会い、共に生きる中で、人は完成されて行きます。神が人の所に連れて来られたものは三つありました。それは①メンバー(仲間)、次に ②ヘルパー、最後に ③パートナーでした。それは人がどの様に完成して行くのかを表しています。
①メンバー(仲間)と共に生きる。メンバーになる
19節、神は野の獣と空の鳥を、人と同じ材料「土」で造り、それを人の所に連れて来て、その全てにどんな名前を付けるのか見ておられました。名付けは仲間である印です。例えば、幼児にぬいぐるみを与えるのは、最初の仲間づくりですね。その時ママは「はい、これはあなたのぬいぐるみだよ」なんて言いませんね。ちゃんと名前を教えます。例えば新しい仲間が加わった時に、仲間のしるしとしてニックネーム(あだ名)を付けますね。人は仲間と共に生きることで完成を目指します。動物も植物も同じ土から造られた仲間です。この基本を忘れてしまうと、人は自然のバランスを乱す過ちを犯してしまいます。
②ヘルパーと共に生きる。ヘルパーになる
完成を目指す次の段階はヘルパーと共にヘルパーとして生きることです。19節で名前が付けられると20節で家畜という新しい存在が生れます。家畜は野生の動物と違って、同じ土で造られた仲間より関係の深い人のヘルパーに成ってくれましいた。鳥、豚、牛、羊は、私たちの食生活を大きくヘルプしてくれています。今度スーパーの肉売り場で彼らに会ったら、100gの値段や分量や消費期限を見ながら彼らがヘルパーであることを思い出して下さい。現代は家畜以上にヘルパーとして私たちを助けてくれているペットのことも忘れてはいけませんね。
③パートナーと共に生きる。パートナーとなる
次の段階は20節です。人は仲間とヘルパーに囲まれましたが、自分に合う助ける者は見つけることが出来ませんでした。人は全く利害関係を越えて、対等に向かい合う、一方的でなく双方向的な関係を持つパートナーが必要です。それは野球のキャッチボールに似ています。自分と相手の両方に目を留めてボールを投げます。人生のキャッチボールは、仲間であるだけでは出来ません。ヘルパーにも限界があります。パートナーでないと続きません。神がアダムの心臓と肺を守る非常に大切なあばら骨の一つを取って女を造られたのは、この特別なパートナーと言う関係を表しています。
23節のアダムの叫びは信頼と感動と決断を伴う決定的出会いを表現しています。そしてこの決定的出会いによる特別な関係の頂点として、24-25節で徹底的にパートナーとして生涯歩み続け、キャッチボールをし続けることを目指す結婚生活の事を取り上げています。24節の「父母を離れる」は、このパートナーとしての夫婦関係が親子関係を凌駕する事を表しています。
神は今も日々、私たちに人と人の出会いを起こされます。メンバー、ヘルパー、そしてパートナーへと関係を深め完成を目指しましょう。しかし、それはなかなか難しい面がありますね。聖書もその現実を真正面から綴っています。アダムとエバはエデンでお互いの責任のなすり合いをしました。長男カインが弟アベルを殺しました。創世記の最後ではヤコブの子どもたちの間での虐待事件も取り上げられます。人が完成を目指す時に大きな壁も立ちはだかります。聖書は最後までこの壁を前にする人間の歴史を綴ります。それは、神がその現実をご存じであることを伝えています。そして、神はその為にとうとう愛する独り子イエスを人として遣わすという行動をとられました。
人がイエスに対して投げたボールは最悪のボール、十字架でした。十字架というボールは神の裁きであり、受けると苦しんで死にます。しかし、イエスはそれをキャッチされました。「これでキャッチボールは終わった」と誰もが思いました。しかし、神はイエスを復活させ、キャチボールが続きました。イエスは弟子たちの所に来て「あなたがたに平和があるように」、と言って和解のボールを投げられました。この時、創世記2章23節でアダムが叫んだ様に、信頼と感動を持ってパートナーと成って投げて来られたイエスのボールを受け取り、イエスを信じイエスを模範として、自分もパートナーとしてキャッチボールし続け完成を目指して歩む者になる決断をいたしました。
人は独りでいるのは良くない。彼に合う助け手を造ろう。これは神の独り言ではありませんでした。これはあなたに語られている言葉です。創造の神はあなたが完成を目指して歩むことを願い、今も働いておられます。まずキリストからのボールを受取りましょう。キリストを模範として下さい。キリストこそあなたを罪(神のあなたに対する計画から的を外すこと)から救い、神があなたに計画されている完成を目指す者に造り変えて下さいます。
二つのキャチボールをしましょう。第一は神とのキャッチボールです。神はみ言葉というボールをあなたに投げて来られます。それを受けて今度は神に投げ返しましょう。どんなボールを投げ返しましょうか。祈り、賛美、献金、時間、能力、・・・これらは神に向かって捧げる事ですね。次に人とのキャチボールです。父母、兄弟、息子娘、孫、叔父叔母、従妹・・・順調な時も難しい時もキャッチボールし続けましょう。完成を目指して!
2023年4月~2024年3月
2024.03.31
「御言葉を信じる者に」ヨハネによる福音書20章19~29節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
「見ないで信じる者になりなさい」と主は言われます。しかし、週の初めの夕方、弟子達のところに来られた時、ご自分から手とわき腹の傷跡を見せられた。見ないで信じる者の方が幸いだと言われるのに、何故、主は傷跡を見せられたのでしょうか。何故、見ないで信じる信仰を求められなかったのでしょうか。弟子達は、主が十字架にかけられた後、ユダヤ人達を恐れ、家の戸に鍵をかけていた。ここ数年間自分達が追い求めてきた信仰、それが何だったのか弟子達は分からなくなっていた。集まっている者の中に、ペトロともう一人の弟子もいました。彼らは、主が葬られた墓が空になっていたのを見たのです。それなのに、主が復活されたなんて事は考えもしなかった。主が語られた言葉を、全く忘れてしまっていた。というよりも、本当は分かっていなかったと言った方がいいかもしれません。
9節に、「イエスは必ず死者の中から復活される事になっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」とあります。また、18節で、マグダラのマリヤが「わたしは主を見ました」と言うのを聞いたのに、信じられなかった。自分達が追い求めてきたものは、只の自分の理想だった。信じていた方が殺されてしまうなんて、とんでもない信仰を追い求めてしまった。だから今、同胞のユダヤ人たちからさえ隠れていなければならなくなってしまった。彼らは自分の信仰に失望落胆し、その失望が体も心も覆い尽くしてしまったのです。そんな弟子達に「見ないで信じる信仰を持て」なんて主は言えなかった。今の彼らは、それを要求できるような状況に無い本当に憐れな状況だったのです。飼い主のいない羊と同じでした。
そんな彼らに、主は手とわき腹をお見せになります。弟子達は今こそ見なければなりませんでした。それは、何でしょうか。主の肉体的な傷跡ではありません。見なければならないことは、二つありました。一つは、復活の主です。主は甦られた、そのことです。主は事実、甦られた、これを見なければなりませんでした。ここには書かれていませんが、主が手とわき腹をお見せになった時、十字架のもとにいたあの弟子が、叫んだのではないかと思うのです。弟子の中であの弟子だけが、主がわき腹を刺された事を知っているのです。彼は、主の手とわき腹を見て、「あの時、兵士が槍でついた傷だ」「この方は主だ。確かに主だ」と叫んだと思うのです。その叫びを聞いた弟子達は、十字架で死なれた主が、目の前に確かに復活されたことを見たのです。「イエスは必ず死者の中から復活される」と言う聖書の言葉が現実となっていることを、今、経験したのです。
復活の主を見た彼らは、目からうろこが落ちるように、我に帰ります。彼らの中に、主が復活された喜びが溢れます。その時、主から聞いたことが、一つ一つ甦ったのです。「わたしはあなたがたを孤児にはしておかない。あなた方のところに戻ってくる」と主は言われた。本当にそうなった。彼らは、復活の主を見る事によって、御言葉が彼らのうちに甦ってくる経験をしたのです。主の復活は、主が語られた事が必ず実現すると言う保証なのです。
そしてもう一つの事を、その傷に見なければなりませんでした。それは、何故主が十字架で死ななければならなかったのか、今はっきりと見なければならなかった。彼らは神の愛は、主が死ななくても人々に伝えられると考えていた。彼らは主と共に生活したけれども、神のご計画が分かっていなかった。今彼らははっきりと見なければなりません。「主の死が、わたしのためだった」ことを。「神はその独り子をお与えになるほどにわたしを愛してくださった」ことを、その傷に見なければならなかったのです。この事を見たとき、喜びが満ち溢れたのです。その時、彼らは、一つの間違いに気付きます。自分達の信仰が、自分に根拠を置いた信仰であった事です。主から聞いた、「御言葉を信じる信仰」ではなかったことに気付かされるのです。
主は再び「平和があるように」と言われます。この言葉を聞いて、彼らは、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(16:20)と言われた主の言葉を思い出します。主が十字架にかかられる前に聞いた事が、今現実となっている。主のお言葉の確かさを重ねて経験したのです。主の言葉を信じる、主の言葉に依り頼む。それが、主が求められる信仰だと、気付かされます。復活の主によって、真実な信仰へと導かれたのです。御言葉を信じる信仰、そこにこそ主からの喜びがあるのです。その事に気付きなさいと、主は重ねて「あなた方に平和があるように」と、言われたのです。御言葉を信じるもの、その事を飛び越して「見ないで信じる者」にはなれないのです。
さて、この時12弟子の一人であるトマスはいませんでした。彼は、主の群れから離れていたのです。他の弟子達とトマス。ここに一つの対比を見る事が出来ます。復活の主が、弟子達のもとにおいでになった時、そこにいた者と、いなかった者。こういう違いを表しているのかなと思います。
主の群れにいる者は、復活の主に出会っている。その群れから離れるなら、復活の主に会えない。その事を告げているのではないかと思うのです。復活の主との出会いの中にいなかったトマスは、「見なければ、わたしは決して信じない」と断言します。自分が納得しなければ信じないというのです。しかし、このトマスを、誰も、不信仰だと言えません。他の弟子達も、復活の主を見たから信じたのです。わたしたちも、自分が納得しなければ信じられない存在なのです。だからこそ、主は、信じる者となるために、傷跡を見せられたのです。
主は、八日の後、もう一度、弟子達のもとに入ってこられました。八日の後と言うのですから、次の週の初め、すなわち日曜日です。トマスは主の群れに戻っていました。教会の礼拝の交わりの中にいたのです。礼拝の場に、復活の主は、必ずいてくださる。八日の後というのは、そのことを言っているのだと思います。教会の礼拝の交わりにおいてこそ、復活の主はおられるのです。
トマスは主の群れに戻ってくる事によって、復活の主を見ます。トマスも自分の信仰に失望していたでしょう。このトマスに対する主の態度。憐れみに満ちています。「先週あなたは、何故この群れの中にいなかったのですか」なんておっしゃいません。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。あなたの手を伸ばし、わたしの脇腹に入れなさい」と静かに言われたのです。わたし達が信じられなくなるとき、弟子達の様に復活の主を見る事は出来ません。でも、御言葉を下さるのです。このトマスに語られた同じ言葉を持って、わたしたちにも言われます。「信じられないのですね。あなたの指をここに当てて、あなたの手をわたしの脇腹にいれなさい」。わたし達が信じられなくなるとき、この聖書の言葉を聞きましょう。そして、トマスの事を思い起こしましょう。その時、今のわたしはトマスになっている。いろいろな理由をつけて、主よ信じられませんと言っている、と気付かされるのです。わたしたちが、トマスである事を、主は良くご存じです。しかし、そんなわたしたちに、「信じる者になりなさい」と言われます。トマスは復活の主のお言葉を聞いて、「わたしの主、わたしの神よ」と信仰を告白しました。復活の主の言葉が、トマスを信じる者に造り変えたのです。それが、復活の主の御言葉の力です。人間として歩まれた主の言葉が、今や、復活の主の言葉となったのです。復活の主は、信じられないわたし達を、信じるものにして下さるのです。見ないで信じる信仰。御言葉を信じる信仰を下さるのです。
21節で、「あなたがたを遣わす」と、主は弟子達を伝道に派遣します。主はもう父のもとに帰られます。もう見えなくなります。弟子達は、見ないで信じる信仰が無ければ、伝道に出て行けません。ですから、御言葉を信じる信仰を持って、出かけていきなさい、と主は言われたのです。22節で、息を吹きかけられます。弟子達に、聖霊を与えられたのです。御言葉と聖霊は、見えません。信じるしかないのです。わたしたちに与えられているのは、御言葉と聖霊です。見ないで信じる信仰によらなければ、信仰生活も、伝道の業も進んで行かないのです。だから、見ないのに信じる人は、幸いなのです。わたしたちは、復活の主を心からお迎えしましょう。
2024.03.24
「成し遂げられた」ヨハネによる福音書19章16~30節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
主イエスは、ご自分から十字架を背負いゴルゴダへと向かって行かれます。他の福音書には、無理矢理主イエスの十字架を背負わされたキレネ人シモンという人が出てきます。でも、ここでは、シモンは出てきません。ヨハネ福音書は、ここでも十字架にご自分から進んでいかれる主の姿を、わたし達に伝えたいのです。それは、主イエスの十字架の死が、神様の御計画だからです。十字架は、神様が、神様の独り子である主イエスをこの地上に送られた目的の一つだからです。十字架は、主イエスが、この地上で神様の御計画を完成される最後の時だからです。ですから、自ら十字架を背負い、ゴルゴダという処刑場へ、ご自分から向かって行かれる主が、ここにおられるのです。
ゴルゴダの丘に、三本の十字架が立てられます。主イエスは、その真中の十字架につけられました。罪人の真中につけられました。その直ぐ側には四人の兵士がいます。祭司長たちがいます。イエスの母と他に三人の女性がいます。罪状書きを読んだという事ですから、十字架の周りに、多くのユダヤ人もそこにいたということでしょう。主イエスは、その真中におられます。そこには、主イエスを妬んだ者、嘲った者がいます。そういう者だけではなく、主を愛して悲しんでいる者もそこにいます。どこかで主イエスの言葉を喜んで聞いた人もいたでしょう。主に対して様々な立場の人々がそこにいます。主は、そのような人々の真中におられるのです。すなわち、主イエスを愛した者だけではなく、全ての人を愛するために、十字架の上におられるのです。
3章16節の「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」。主イエスは、その様に神様からお言葉を頂かれ、それを私たちに語られた。そして、神様は御自分の独り子の命とわたし達の命とを取り替えるほどに、わたし達を愛しておられる。この神様の愛を成し遂げるために、主イエスは、十字架に架かって下さっている。今、十字架の上で、神様の愛を実現しておられるのです。
主イエスは、兵士達に服を脱がされ、裸にされます。マタイでは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と主イエスは叫ばれました。このヨハネでも、その主の姿が目に浮かんできます。ここは、無言のままですが、兵士達が「主イエスの衣服を分け合い、くじを引いた」という、彼らの行為の中で、詩編22編の聖書の言葉が実現した、と聖書は告げます。兵士達は自分の貪欲に我を忘れていたのでしょうけれど、そこで御言葉が実現されているというのです。これはどういうことでしょうか。ここでヨハネも、人に捨てられ、裸にされて、絶望の死の中に赴いていかれる主イエスの姿を見ていたのだと思います。この主イエスの死。それは、どのような死なのでしょうか。わたし達にとってどのようなものなのでしょうか。
十字架の上で、神は死なれた。なぜ死なれたのか。私たちが死ぬべきものだったからです。わたし達が死ぬからです。世界が闇に支配され死んでしまうからです。しかし、主イエスが死んでくださった今は、そうではありません。人間となられた神が死んでくださり、その死によって、死に勝利してくださったからです。
16章33節「あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」と主イエスは以前弟子たちに呼びかけました。「安心しなさい。わたしがこの世に打ち勝っているのだ。」と呼びかけられます。受難も屈辱的な十字架の死も、それは同時に主イエスの勝利なのです。そして、13章1節に「イエスはこの世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り」とありますように、十字架の死は、神の下に帰る栄光の「時」を表わしています。
つまり、わたし達が死を迎える時、一人ぼっちではないのです。死に勝利された、神の栄光をいただかれた主イエス・キリストが、死に向かう時も一緒にいてくださるのです。
教会学校の生徒に、「地獄ってどんな所」という質問をさたことがあります。私は「神様がおられないところじゃないかな」と答えました。主イエスの死によって、わたし達は神のおられないところに行くことはありません。主イエスがわたし達の死に勝利してくださったからです。
兵士達が、詩編22編の聖書の言葉どおりにした後で、主イエスは十字架のもとにいる母と愛する弟子に声をかけられます。ここで、不思議に思うのは、「愛する弟子」とありますね。この「愛する」という言葉が「愛する」母ではなく、弟子の方に言われているところです。13章1節で、「世にいる弟子達を愛して、この上なく愛しぬかれた」とありました。この弟子は、主イエスの愛を十字架の下においても、なお受け続けた。
つまり、最後の最後まで主の愛を受けた弟子です。この上なく愛しぬかれる主の愛を、最後まで受けた弟子です。主は、限りなく愛されたこの弟子に、御自分の母を委ねられたのです。主イエスの救いを信じて、ひたすら、従ってきた母。彼女を主イエスの愛を満ち溢れるほど受けた弟子に委ねられたのです。わたしの愛を知っているこの弟子、彼なら必ず母に愛を注いでくれるという主の思いだったのでしょう。この二人はどう言う関係だったのでしょうか。それは、はっきりしません。しかし、この世の関係よりも、主イエスの愛に支えられた関係の中に母が置かれる事の幸いをここで示しているのではないでしょうか。
ここには、主にある教会の神の家族という、主イエスの愛を受け継いでいる者の新しい関係を、どんなに信頼しておられるかが分かります。それは、主イエスが教会を最後まで愛し通されるからだとも言えます。今わたし達がつながっている教会。この教会の中での神の家族の交わり。そこで愛の交わりを築いて行く事。それが、主イエスが、この地上で行われた最後の仕事だったのです。
「わたしは教会を、わたしの者達を、最後まで愛し通している。だからあなた達はわたしの愛の中で、その交わりを育み続けて欲しい」そう、十字架の上から言われたのではないでしょうか。この弟子は、主イエスの母を連れて、立ち去ります。教会に、主イエスの愛の業が託されたのです。教会が2000年の歴史を歩みつづけていると言う事は、ヨハネのみ言葉が今も、実現しつづけていると言う事です。
主イエスは、すべてのことが今や「成し遂げられた」と言われます。この地上に来られ、まことの人間イエスとして、父なる神から委ねられた地上での任務が、十字架の死によって、今、完成した、と言われます。この福音書が、最初からここまで書きつづけてきた、主イエスの全てのみ業が、ここに完成したのです。
2024.03.17
「それでもなお主は愛される」ヨハネによる福音書18章12~27節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
主がこの世に来られて2000年の間、多くの人々は受難の御言葉をどのように聞いてきたのだろうかと思います。
古代の神学者であるアウグスティヌスは、12節の「イエスを捕らえて縛り」という御言葉から、このように話しています。イエスを捕らえて縛る。それをした者は、今主イエスに近づいている。こんなに近づくことが出来ないと思うほど近くにいる。主を殺すためではなく、この方を心から受け入れるために近づくのであれば、どんなに良かったことであろうか。主を殺すために近づく者は、主から遥かに遠くにいる。この方によって、自分が解き放たれるべきであるのに、この方を縛り上げている。しかし、もしかすると、この人たちの中で、後になって主イエスに解き放たれる喜びにあずかった人がいるかもしれない。」
アウグスティヌスは、ここで、このように考えながら、自分自身のことを告白しているのです。今日の箇所の主イエスの歩みとお言葉は、わたしたちの心の中に、わたしたちの死と罪の現実の中に、踏み込んでくる御言葉です。
さて、聖書には四つの福音書がありますが、どの福音書も皆大変よく似た形で、主の御受難を伝えます。しかし、このヨハネ福音書の今日の箇所には一つの特長があります。それは、主イエスの裁判と並行して、ペトロの姿を描いているところです。もしこの箇所を、劇にするとするならば、舞台の半分で主イエスが尋問を受けられており、一方の半分で大祭司の中庭でのペトロの姿を同時に演じているというような感じに描かれています。
このことを頭に入れて、もう一度皆さんの頭の中の舞台に、主イエスの場面と、ペトロの場面を、描いて見てください。皆さんの頭の中の舞台には、主イエスの姿とペトロの姿の違いが、はっきりと描かれているでしょうか。
先週もお話しましたが、主イエスは捕らえに来た人々に対して、自ら進み出てご自分の命をお任せになりました。そして、まず、アンナスのところに連れて行かれます。このアンナスは、その年の大祭司カイアファのしゅうとだと書かれています。主イエスを裁くのは、カイアファであるのに、何故アンナスの事がここに書かれてあるのか。それは、その時のユダヤ社会においてしゅうとアンナスが大祭司カイアファ以上に権限を持っていたということなのです。そのアンナスのところにまず、連れてこられた。アンナスの存在は、この世の権力の象徴です。人々の心を凍らせるような権力を持つ存在。そのアンナスのところに、主イエスは連れてこられた。アンナスは、「おまえが、このわたしに勝てるのか」という目を主イエスに向けたのではないでしょうか。主イエスは、ご自身を神が遣わされたことを否定する、この世の権力の前に、立っておられます。ただそれだけではなく、神から遣わされた神の子として、立ち向かっておられるのです。
さて、ペトロはどうでしょうか。彼は、もう一人の弟子と一緒に、大祭司の屋敷の所までは、主イエスに従ってきました。しかし、もう一人の弟子は中に入ったけれども、ペトロは中に入ることが出来ません。16節門の外に立っています。もう一人の弟子が、もう一度出てきて、ペトロを呼び入れます。そして彼は、門番の女中の前に立たされることになります。ここで門番が何故女性なのだろうかと思わされるのですが、とにかく、彼女はただの女性ではありません。大祭司の権力の側にある女性です。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」
ペトロも、主イエスが神の子であることを否定する権力の前に、立たされているのです。屋敷の中庭までは恐る恐る入って来たけれども、しかし、彼は、立ち向かうことが出来ませんでした。主イエスを捕らえている権力が、恐ろしくなったのです。
ある方が、わたしたちの人生において、恐ろしさと戦うということは、もしかすると一番困難なことではないだろうか、と言っておられます。人生において、戦わなければならないことはいろいろあります。試験前の学生であれば、眠気と戦って勉強しなければなりません。また充実した人生を送ろうと思えば、自分の怠惰さと戦わなければならないでしょう。
しかし、わたしたちの力が、一番問われるのは、恐ろしさと戦うときではないでしょうか。恐ろしさと戦うことは、わたしたちの姿が明らさまにされることです。しかし、わたしたちは恐ろしさに勝てない者ではないでしょうか。そして、自分の情けなさに失望するものではないでしょうか。ペトロも「違う」と否定します。「あなたのためなら、命を捨てます。」と言った彼も、恐ろしさに勝てなかったのです。
このペトロの姿に対抗して、ヨハネ福音書は再び主イエスを描きます。大祭司の尋問に対して、「わたしは、世に向かって公然と話した。ひそかに話したことは何もない。」と、きっぱりとお答えになります。この主の言葉に対して、権力に従順でない態度だと、大祭司の下役が主を平手で打ちます。しかし、主はご自分の正しさを示され、「なぜわたしを打つのか。」と、権力の横暴さと卑劣さという罪に、正面から立ち向かっておられます。このように、主イエスは今裁かれているのですが、実は、主イエスの方が主動権を持って戦っておられるのです。
しかし、その主の姿を見ているはずのペトロは、それでも恐ろしさに勝つことが出来ず、再び弟子であることを打ち消すのです。更に、主を守ろうとしてゲッセマネの園で耳を切り落とした男の、身内の者の前に立たされるのです。もう一つ興味深いことに、25節でペトロが「違う」と言った言葉は、直訳しますと、「わたしではない」「I am not」となっています。主イエスは捕らえに来た人々に、「わたしである」と言われました。それに対して、ペトロは「わたしではない」と言ったのです。
主イエスの姿と、ペトロの姿は、全く対照的です。しかし、ペトロは自分の情けない姿を見せられると同時に、主の戦われる姿を見せられているのです。ペトロは、主の弟子であることを否定するという自分の罪を見せられると同時に、主がそんな罪深い自分のために、命をかけて戦っておられる姿をも見せられているのです。
このヨハネ福音書の受難物語は、栄光の主イエスが、弱く愚かで罪深いペトロを包み込むかのように描いています。詩編に「あなたの翼の陰に隠してください」(17:8)とうたわれているのを思い出します。
主の受難が語られる時に、必ずペトロの主を裏切った罪も語られます。しかし、そのことは同時に、主の恵みがペトロを覆い包んでくださったことをも示しているのです。わたしも弱く愚かで罪深いペトロです。自分を威圧してくる権力に負けそうになるものです。恐ろしさの前に、自分の素顔を暴かれてしまう者です。しかし、主はそのわたしのところで戦っていてくださる。勝利していてくださる。わたしたちがどんなに深い裏切りの罪を犯しても、それでもなお主でありつづけてくださる。なお愛しつづけてくださるのです。
初めに、アウグスティヌスの告白を紹介しました。彼は、主イエスの戦いが、わたしたちを死と罪から解放するものとして、そのような深い恵みとして受け取っていたのだと思います。
2024.03.10
「主イエスの力 栄光 権威」ヨハネによる福音書18章1~11節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
イエス様は、弟子たちすなわち教会のためのとりなしの祈りを捧げられた後、受難へと向かわれます。6節に「彼らは後ずさりして、地に倒れた」とあります。イエス様が逮捕される記事は、福音書全てに書かれておりますが、捕まえに来た人々の方が「後ずさりして、地に倒れた」と伝えているのは、ヨハネ福音書だけです。人々はイエス様と弟子たちのグループと対面した時、何故「後ずさりし、地に倒れ」てしまったのでしょうか。弟子たちの中に、旧約聖書のダビデ物語に出てくるゴリアトのような巨人でもいたのでしょうか。そんな人物はいません。
4節5節6節を注意深く見て見ますと、4節で、「進み出て」という言葉があります。イエス様は捕らえに来た人々の前に、ご自分の方から「進み出て」おられます。5節では、ユダが先に接吻したというようには告げられず、イエス様ご自身が人々の捜している本人であることを表明しておられます。そして6節では、イエス様が「わたしである」と語られた時、人々は「後ずさりし、地に倒れた」のです。「わたしである」という御言葉が、人々を圧倒し、人々を引き下がらせたのです。このように、ヨハネ福音書が示すイエス様の姿。それは、力ある、栄光の、権威ある姿です。
わたしが青年時代に、教会で読書会というのがありました。選ばれた一冊の同じ本を読んできた者が集まります。そこには青年も中年も高齢の者も一緒に集まって、お互いにディスカッションをします。その時は、遠藤周作の「おばかさん」という本が選ばれていました。「おばかさん」というイエス様は、弱弱しい、貧しくなられたイエス様の姿が印象付けられていたように思います。そこには確かにイエス様の一面が描かれています。またそれは、その本を書いたときの遠藤周作の好んだイエス様の姿であったのかもしれません。
しかし、わたしは、「おばかさん」がイエス様の全てを現していないと感じました。イエス様は、弱い者、貧しい者、虐げられている者、の側に立ってくださいます。しかし、それだけではないと青年時代のわたしは納得がいかなかったことを覚えています。確かに弱弱しく、貧しいイエス様は、本当にわたしの事を分かってくださる身近な存在になります。わたし自身が弱く、人間として物質的にではなく精神的にという意味で、とても貧しい者だからです。しかし、ヨハネ福音書は、イエス様がただ近くにいてくださる存在というだけのお方ではないと伝えます。
8節で、「わたしを捜しているのなら、この人々は去らせなさい」と言われて、弟子たちの身の安全を守っておられます。わたしたちを、肉体的、精神的弱さから守ってくださるお方でもあるのです。
イエス様が捕らえられる時、ゲッセマネの園には11人の弟子たち全員が一緒にいたはずです。弟子たちも、イエス様の仲間だということで、人々は捕らえることもできたのではないかと思うのです。3節を見ますと、ローマの一隊の兵士がユダと一緒にいます。その当時、祭りの時には治安維持のために、かなりの兵士がいたようです。一隊と言いますのは、600人或いは200人の部隊を意味したそうです。ローマ兵以外の者も武器を手にしていたとありますから、弟子たちを捕らえることは簡単にできたはずです。しかし、弟子たちは捕らえられなかった。イエス様が彼らを守っておられたのです。しかし、弟子たちはそこでイエス様に守られていたことに気付いていません。10節で、ペトロは大祭司の手下に打ってかかっています。相手は大勢、とてもペトロの手におえる人数ではありません。4節イエス様が「進み出て」弟子たちを守っておられることに、彼は気付いていないのです。
小さな群れは、大海の中の小舟です。大海には、しばしば嵐が起こります。小さな群れにとって、この世の力は嵐と同じほどの威力があります。ガリラヤ湖で弟子たちが乗り込んだ船が、嵐に会った記事を思い起こします。その時の弟子たちは、あまりの恐ろしさに舟が転覆し、溺れ死ぬのではないかと考えました。イエス様が一緒に乗っておられることすら、その瞬間、忘れてしまったのです。力と栄光と権威を持っておられる主に守られていることに気付かなかったのです。
この状況を思い浮かべながら、わたし自身もイエス様の守りを気付かずに、多くのことを通り過ごしてきた者であることを思わされました。今、イエス様の守りを信じなさいと、示されております。主イエスの力と、栄光と、権威に、全てを委ねなさいと、示されています。
ヨハネ福音書は、「イエス様は、十字架に向かわれる時、力ある、栄光の、権威あるお方であること」を伝えます。どうしてもこのことを、わたしたちに伝えたいのです。何故でしょうか。それが、ヨハネ教会の信仰告白だからです。弱くなる必要がない方が、弱くなってくださった。それがイエス様の十字架の苦しみです。わたしたちが弱いからです。弱いわたしたちのために、弱くなってくださったのです。わたしたちに恵みを示すために、弱くなる必要の無いお方が、弱くなられた。これは、哀れみ以外の何ものでもありません。パウロも「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」という主の言葉を聞いております。
あなたの主は、ただ弱弱しく、貧しくなれただけではない。あなたが到底立つことの出来ない、弱い所にまで立つことの出来る、「わたしである」と主は言われます。なぜなら、力ある、栄光の、権威ある「わたしだからである」と主は言われます。そのわたしの守りを信じなさいと示されています。
9節の御言葉は、イエス様の守りが確かなものであることを保証しています。「『あなたが与えてくださった人を、わたしは一人も失いませんでした』と言われたイエスの言葉が実現するためであった。」この言葉は、イエス様を信じるものを、必ず守られると言う約束の御言葉です。
さて、ヨハネ福音書は、イエス様が息を引き取られる時、ゴルゴダの丘一帯が真っ暗になったことを伝えていません。他の三つの福音書は、そのことを伝えています。三つの福音書の伝える暗闇は、この世界の悪の支配を象徴していると考えられます。ヨハネ福音書では、イエス様が捕らえられる時に、この暗闇を伝えているように思います。それは、1節のキドロンの谷について告げているからです。キドロンとは、暗いと言う意味です。この谷は、地理的には、西にあるエルサレムの町と東にあるオリーブ山の間にある谷です。そのオリーブ山のふもとにゲッセマネの園があります。
ですから、イエス様は、とりなしの祈りをされた後、暗い谷を通って、向こうのゲッセマネの園へと「出て行かれた」とヨハネは告げていることになります。すなわち、ご自分から進んで悪の支配する所に向かって出て行かれた。ゲッセマネの園に向かって出て行かれた。イエス様は、園にはたびたび弟子たちと集まっておられました。イエス様を裏切ろうとしているユダが良く知っている場所に向かって、出て行かれたのです。
そして、ヨハネ福音書は、ゲッセマネの園で苦しみもだえて祈られるイエス様も告げていません。11節で、「父がお与えになった杯は、飲むべきではないか」と、ご自分の受難に対して大変積極的な姿が伝えられています。ここにも、力強さと栄光と権威ある主イエスの姿を見るのです。
このお方が、わたしたちの主なのです。わたしたちが信じるお方は、力ある栄光の、権威ある主なのです。
2024.03.03
「互いに愛し合いなさい」ヨハネによる福音書13章31~38節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
ヨハネの福音書を残した信仰共同体は、初めはパレスチナで活動していましたが、その後エフェソに活動を移したようです。使徒パウロの手紙が沢山ありますが、それらはキリストの教会が迫害の中に置かれていたことを伝えています。その手紙の中にエフェソ人への手紙もあります。つまりヨハネの教会もまた迫害の中にあったのです。この福音書はそういう社会背景の中で書かれまし。また、福音書の中で一番後に書かれたものです。ですので、この福音書はイエスの命令に対するとらえ方が他の三つの福音書とはちょっと違います。
他の福音書はイエスの命令を「神を愛すること」と「自分を愛する様に隣人を愛すること」と受け取っています。しかしヨハネは「神を愛すること」と「信仰共同体の中で互いに愛し合うこと」これがイエスの新しい命令だと言います。ですからヨハネ福音書は明らかに教会というものを前提に書いています。
1コリントの手紙13章1節に「たとい、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」とあります。世界を驚かせる凄いことができたとしても、そこに愛がないなら無駄だといいます。教会をこのパウロ流で言うなら、イエス様の愛を知っていると告白する教会であるのに、集まるもの同士に愛が無ければ、その教会はやかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。それらは美しいハーモニーを生み出せません。教会の中に互いに愛し合うことが実現していることこそ福音を前進させる最も大きな力だと言います。
何故、ヨハネは教会自身が互いに愛し合うことを最重要テーマとして掲げたのでしょうか。それには先ほどの教会を取り巻く迫害と言う巨大な壁があったからです。
私たちの教会の置かれている状況も良く似ています。日本ではクリスチャン人口は1パーセント未満という状況がずーと続いています。キリスト教は外国の宗教という認識がいつまでも根強いですね。
けれども、Ⅱテモテ4:2のみことばは「御言葉を宣べ伝えなさい。折りが良くても悪くても励みなさい。」と勧めます。その時に、力になるのは教会の内にある互いに愛し合う力です。「愛は一つに結ぶ帯です」という御言葉もありますように、キリストの弟子のひとりひとりが一つに結ばれるときに、一人ひとりは小さく弱くても大きな力が発揮できるからです。
ヨハネ福音書はわたしと父とが一つであるように、あなたがたも一つと成れと何度も何度も語ります。愛の関係を確り結び一つと成れと言います。一つとなるところに主イエスの力が働くからです。
スポーツ界を考えるとこのことがよく解りますね。チームで戦うスポーツはもちろんお互いが気持ちを一つにしなければ力を発揮できません。けれども、現在は一人で行うスポーツもチームプレーが鍵となっています。コーチやトレーナーや食事の管理など多くのスタッフの協力のもとで練習する時、選手の力は飛躍的に伸びます。強い所はもちろん更に伸ばしますが、弱点をどう改善するのかどうカバーするのかはもっと重要です。一つひとつの積み重ねが選手に力を与え、メンタルが強くされ、練習どおりの力を本番で発揮できます。今年の卓球女子団体の世界選手権、惜しかったですね。実際に試合をしている選手と試合をしないベンチの選手の気持ちが一つになっていましたね。
教会生活もこれと同じです。一夜にして急に信仰が成長するということはありません。毎週毎週のみことばに一心に耳を傾ける、しかしそれだけでは、知識だけの信仰になります。まず教会生活の中で聞いたみことばにしっかり向き合う。そして自分の置かれた生活の場で御言葉に向き合う。この取り組みによって信仰の喜びが生まれます。その毎日毎日の積み重ねによって信仰の力が与えられます。折角聞いたのに、聞き捨てていたのではみことばは身に付きません。中年を過ぎると、食べたものが非常に良く身に付きますね。これは実感です。それぐらいみことばが身に付くといいなあと思います。けれども、みことばにマンネリになり、上手に聞き流してしまっているということはないでしょうか。そこには信仰の喜びも力も与えられません。
みなさん、ディズニーランドに行ってチケットを切ってもらい中に入りました。それからどうしますか。いろいろなアトラクションに行って実際に楽しみますね。みことばに向き合わないというのは、ディズニーに行ったけれど入口を入った所に立ったままで、実際にディズニーの楽しさを経験しないのと同じです。癒されると聞いた温泉に行って、温泉に入らないで帰ってくる人がいるでしょうか。
ヨハネはみことばの醍醐味をまず教会生活に於いて実践しましょうと言います。主イエスが弟子の足を洗われた関係を、教会員同士の関係において実践しましょうと勧めます。そこから、外に向かって行く力が与えられるからです。ヨハネの教会はその力で周囲の迫害に立ち向かい、主の福音を前進させて行きました。その実践があるからこそ、この福音書でそれを伝えています。
34節「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを皆が知るようになる」。
主イエスの弟子であることを皆が知るようになるとは、教会員が愛し合っている所にこそ証しが立つのです。主の弟子だと自覚する者たちが集まる教会の中で愛し合うことが実践出来ずに、どうして家庭や地域で愛の実践ができるでしょうか。
教会員同士だからこそ、気を付けなければならないと思います。それぞれ置かれている所が違います。立場が異なる時、考え方や価値観は、皆が同じとは言えません。聖書は、人の見方に寛容であることを求めます。特に見劣りのするところにこそ寛容さを求められます。
コリントの手紙は教会を人の体に例えていますね。
1コリント12章24節以下「しかし、神は劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それは、からだのなかに分裂が無く、各部分が互いにいたわり合うためです。あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです」この先を読んでいきますと、これは奉仕においてそれぞれ一人ひとりがいたわり合うことを教えていることが分かります。
飯塚教会の見劣りのするところ、つまり以前と同じようにできない所を、マイナスと考える必要はないと今朝のみ言葉は示します。教会員同士が互いに愛し合い、互いのことを祈りあう、そこでは必ず福音は前進していくというのです。
最後に、今日の聖書の箇所で、ヨハネの教会が最も励まされた言葉を紹介します。それは、33節冒頭の「子たちよ」という言葉です。私はこの言葉にはっとさせられました。イエス様の子どもたちには元気な子、病弱な子、臆病な子、引っ込み思案な子、活発な子、のんびりやさん、といろいろです。でも、みんなイエス様の子どもです。個性が違って当たり前。出来ることが違って当たりまえ。でもみんなイエス様の子どもです。このことを喜びましょう。「わたしの子たちよ」と呼ばれている仲間です。
「スイミー」という絵本をご存知でしょうか。小さい魚のお話です。皆は赤い体をしているのですが、スイミーだけは黒色です。ある日、大マグロが来てみんな食べられてしまいます。スイミーは何とか助かりました。その後海の中を旅し、ある日赤い体の小さい魚たちに出会います。でも彼らは大きな魚を怖がって岩に隠れて出て来ません。スイミーは僕が目になるからみんなで固まって大きな魚になろう、そうすれば大マグロも怖くない、と励まします。スイミーに励まされて赤い小さな魚たちは岩から出て行くことができた、というストーリーです。教会が互いに愛し合い一つになる力は、主の福音のために出ていく力となるのです。
2024.02.25
「愛し抜かれる主」ヨハネによる福音書13章1~20節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
12章でベタニヤのマリヤが、イエス様の足に高価なナルドの香油を塗り、彼女は自分の髪の毛でその足をぬぐいました。すると家はいい香りでいっぱいになりました。その香りはマリヤのイエス様への愛でいっぱいの香りでした。救い主イエス様にふさわしい香りがその家いっぱいに広がりました。それはまるで、イエス様の愛で包まれているようでした。マリヤの行動は十字架を前にしているイエス様に対する、時に適った麗しいものです。ヨハネの福音書は女性たちのイエス様に対する信頼と愛をとても強調しますね。
さて、今朝の13章は12章とは逆にイエス様が弟子たちの足を洗う「洗足」の記事です。そして、13章は山に例えるならこの福音書の頂上になる箇所です。神さまの愛が最も現されているのが、今日の箇所です。
1節でイエス様は「御自分の時が来たことを悟り」とあります。イエス様の十字架の時が来たのです。それは過ぎ越しの祭りの前でした。
過ぎ越しの祭りとは、イスラエルの民が神さまによってエジプトを脱出させてくださった神の救いを忘れないために行なわれる祭りです。エジプトを出る時時間がないので、種入れぬパンと苦菜を食べて出発しました。ですからこの祭りの時はごちそうではなく膨らんでいないパンと苦い菜っ葉を食べるのです。その時、子どもたちが不思議に思って聞きます。「お父さん、お祭りなのにどうしてこんなおいしくない食事をするの?」それに答えて「それはね、私たちは昔むかし、エジプトの奴隷だったんだよ。・・」とエジプト脱出が神さまの愛の業であったことを子どもに教えます。つまり、過ぎ越しの祭りは、神さまがエジプトの奴隷であった者を解放されたという、神さまの愛の業を覚えるお祭りです。
このお祭りの時に、神さまはイエス様の十字架を計画されるのです。イエス様の十字架の死と復活は、神の愛そのものなのです。
他の福音書は過ぎ越しの祭りの前日の最後の晩餐だけを伝えていますが、この福音書は洗足の記事も記しています。
洗足は神さまの最高の愛を示す行為です。なぜなら、イエス様の死の準備だからです。神の子が死ぬ準備です。みなさん、神の子が死ぬことは神さまにとってどれ程の屈辱でしょうか。11章のラザロの復活はイエス様の死に対する勝利を現しています。
死に勝利する為に来られたイエス様が十字架の上で死に打ち負かされるのですから、それは耐え難い屈辱を受けられるということです。誰のためにその屈辱を受けて下さるのでしょうか。それは私たちのためです。神さまとの関係に背を向けて歩いてきた私たちのためです。
1節後半、「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」とあります。他の聖書では「イエスはご自分の者たちを愛し抜かれた」と翻訳しています。
洗足は、謙遜を伝えているのではありません。神さまの最高の愛を伝えるのです。
イエス様は食事の席を立って、上着を脱ぎ、手拭いを取られます。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、手拭いで弟子の足を拭かれます。その順番は一番弟子のペトロからではありませんでした。このこともこの福音書の特徴です。弟子の中で一番頼りないと皆から見られていたものからイエス様に足を洗われたのかもしれません。その人にこそ、イエス様の沢山の愛が必要だからです。
旧約聖書を見ますと、ユダヤ社会には奴隷制度が存在したことが分かりますが、主人が奴隷に自分の足を洗わせることはなかったようです。奴隷であっても主人の足は洗わないのです。ところが、イエス様は弟子たちの足を洗われます。たらいに水を汲むことも自分でなさいました。カナの婚礼では瓶に水を汲んだのは僕たちでしたが、この洗足ではイエス様自ら水を汲んでおられます。ユダヤの奴隷でさえしないことを、どうして主はなさるのでしょうか。弟子たちを深く愛しておられるからです。僕の姿を取るほどに弟子たちを愛されます。この主の姿を1節は「世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」と伝えます。ここは「いとおしむ」という言い方もできるのではないでしょうか。
娘に男の子が生まれたときに、父親が言った言葉をわたしは思い出しました。退院の日に車で自宅まで連れて帰る時の気持ちを話してくれました。「あまりにも小さくて弱弱しくて、とてもいつもと同じ速度で運転できませんでした。車の振動で壊れるのではないかという気持ちで、ドキドキして運転して帰ってきた」というのです。それ程、息子をいとおしく思えたと。
イエスさまの弟子たちに対する思いはこのような思いだったのではないでしょうか。弟子たちは今はまだ赤子のような弱弱しい存在です。彼らの前には大きな権力が待ち構えています。弟子たちの存在は赤子の手をひねるごとく弱弱しいのです。
そんな彼らに、「おまえたちはこの先どんなに大変な事が起きても、私に愛されていることを決して忘れるなよ!私とおまえたちとの関係は何ものにも引き離されることの無い関係なんだよ!」との思いを込めて足を洗われたのです。
順番がペトロに回って来ました。彼はイエス様のされることの意味が分からなくて「私の足など、決して洗わないでください」と断ります。それはイエス様の権威に傷が付くことだ、と思ったのです。
「もし、わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる。」と主は答えられます。洗足を受けることは、主との関係を深めることです。この「かかわり」とは、「遺産」とか「分け前にあずかる」とか「パートナーとなる」という言葉です。つまり、イエス様と共にあることを、愛することをペトロは求められていたのです。
7節、「わたしがしていることは、今あなたには分かるまいが、後で分かるようになる」と仰います。彼は主イエスの復活の後に洗足の意味を知ることになります。
また、「後で」とは、イエスの死と復活が差し迫っていることを示しています。洗足を受け入れることは、神の子であり、先生であるイエスの苦しみを受け入れることです。主イエスの十字架の出来事を受け入れることです。人の目にはもう負けだと思われるような仕方で、神さまは勝利を現されるのです。一粒の麦が落ちて死ななければ、神の愛は完成されないのです。洗足を受けるとは、その方法で示された神さまの愛を受け入れることです。イエス様は白馬に乗って英雄ナポレオンのようにエルサレムに入場されたのではありません。人の荷物を背負う、柔和な子ロバに乗って入場されました。神さまの愛は、このような仕方で現される愛です。白馬に乗ったイエス様には誰でも近づくことはできません。でも、子ロバに乗ったイエス様なら子どもも近づけます。
ペトロは主イエスの復活の後に洗足の意味を知りました。イエス様に「あなたはわたしを愛するか」と三度尋ねられたときです。あの洗足は、自分が主を裏切ることを知っておられたのに、主は自分を信頼し愛し抜いてくださった出来事だったと気づくのです。
今朝、わたしたちも主の洗足を受けましょう。そして主は私たちにも言われます。「わたしはあなたをこの上なく愛している」と。そして「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。主であり師であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」と。
15章12節にもこうあります。「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」
2024.02.18
「主の名によって来られる方」ヨハネによる福音書12章12~19節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
今年はイースター(復活祭)を3月31日に迎えます。いつもより随分早いです。今日からイエスさまの受難に向かってみ言葉から聞き、復活祭へと向かいたいと思います。
ひとつ前の11章を見ますと、イエスさまがベタニヤ村でラザロを復活させたということで、大勢の群衆がやってきます。7章で、イエスさまは「わたしのとき」はまだ来ていない、と言われました。しかし、今や、イエスさまの時が来たのです。それは、過ぎ越しの祭りの始まろうとする時でした。
この過ぎ越しの祭りというのは、出エジプト記が伝える出来事を記念して、神さまの救いの恵みを忘れないために行われる祭りです。
さて、人々は祭りの始まる何日か前にエルサレムに来ていました。そこは、大勢の群衆でごった返しています。イエスさまが来られると聞いて、大歓声を上げて迎えました。「ホサナ、ホサナ」と叫んで迎えたのです。ここで、人々が叫んでいるのは、詩編118編25-26節の言葉です。
「ホサナ」これはヘブル語で、「どうぞ、お助けください」という意味です。何から助けてください、と言っているのでしょうか。当時イスラエルは、大帝国ローマの支配のもとにありました。彼らは、政治的な解放者として、イエスさまを迎えようとします。ラザロを復活させるほどの力ある方なら、自分たちを苦しめている外国の支配から救うことができると、考えたのです。
「主の名によって来られる方」と人々が呼ぶイエスさまとは、どんなお方でしょうか。
14節、イエスさまは、ろばの子を見つけてお乗りに成ります。すると人々は、ゼカリヤ書の言葉を思い出します。ヨハネでは、大変短くされていますが、ゼカリヤ書の方を見ると、意味がよくわかると思いますので、開いてみましょう。ゼカリヤ9章9節です。p1489
「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者
高ぶることなく、ろばに乗ってくる 雌ろばの子である ろばに乗って。」
これは、とても美しい表現になっていますね。もう一つ、七十人訳という、旧約聖書をギリシャ語で書かれた聖書があります。こちらの訳の方が、更に分かりやすいと思いますので、紹介します。
「大いに喜べ、娘シオンよ。大声で告げよ、娘イスラエルよ。
見よ、おまえの王が来る。彼こそ、正義の救い主。
柔和な方で、ろばに乗ってくる。若い子ろばに乗って。」
この訳で分かりますように、イエスさまがろばの子に乗ってエルサレムに入られたということは、「自分は、人々の求めている王ではない」という事を示されたのです。ローマ帝国から解放するという、政治的な王ではなくて、あらゆる憎しみと争いを終わらせ、平和の国を創られる、平和の君であることを明らかにされたのです。
詩編の詩人も、33篇でこのように言っています。
「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。
馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。
見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に。
彼らの魂を死から救い、飢えから救い、命を得させてくださる。」
詩人の語る王というのは、主なる神さまのことです。主なる神さまの支配される国の平和は、兵や馬車によって守るのではないと言っています。軍隊や軍事兵器によっては、人々を死や飢えから守ることはできない。軍隊や軍事兵器が人々を苦しめています。武力によっては世界に本当の命を与えることはできないのです。
主イエスは、憎しみを燃やし争うための軍馬ではなく、人の荷物を背に負う、ろばの子に乗られたのです。人の荷物、それは様々なものが考えられますね。また、わたしたちを支配しようとする悪の力は、わたしたちの中に闇の部分をつくります。それはわたしたち自身の力ではどうにもできない暗い部分です。その全てを主イエスは、ご自分の背に負って十字架に向かわれたのです。神さまは、その悪を闇の部分をキリストと共に十字架につけられたのです。そしてその悪を、闇を滅ぼされたのです。
しかし、それなら何故今も世界に争いが止まず、わたしたちの内側にも闇の部分が起こってくるのでしょうか。ヨハネ福音書は、何度もわたしたちに言います。神さまとイエスさまが一つであるように、わたしたちもイエスさまとつながり一つであるようにと。イエスさまと離れる時、それは自分が自分の人生の主人になっています。全てのものは神さまから預かっているものであるのに、そのことを忘れてしまうのです。そこには人と人との間に憎しみや対立が生まれます。
また国という集団においても、エゴイズムが主人となって、その国だけの利益追求のみが生じてくるのです。イエスさまとわたしたちが一つであるならば、主は平和の支配者ですから、わたしたちの闇の部分を、柔和で憐れみ深いという、主ご自身の光に導いてくださいます。ナザレン教団の言う聖化とはこのことです。国という集団においても、相互の利益となる道を、お互いに長い時間をかけて話し合うという、忍耐の光に神さまは、導くことがおできになるのです。それが現実とならないのは、そのことが出来るという信頼を、神さまに対して持っていないからです。神さまの全能を信頼していないからです。
1950年代、アメリカのマルチン・ル-サ-・キングという牧師は、聖書の伝える福音は、どんなことがあったとしても非暴力主義だと考えました。南北戦争の後、アメリカでは黒人は奴隷ではなく自由人になりました。しかし、アメリカ社会は依然として白人が黒人を差別していたのです。一つの事件から、キングは非暴力という方法を黒人たちに訴え、彼らは381日間、非暴力で差別と戦いました。その間、彼らは暴力を受けました。それでも、非暴力という方法を貫いたのです。彼らのこの運動は、法律改正にまでつながりました。彼らは、イエスさまの平和の力が、必ず自分たちを導き忍耐を与え、支える力であると、その全能を信頼したのです。力は平和を生み出しません。かえって、争いを生み出すのです。神さまは弱いところに働かれるのです。
さて、16節を見ますと、弟子たちは、人々がゼカリヤ書の言葉を叫んだ意味を、「主が復活され天に帰られた後に、気付いた」と告げています。弟子たちは、主がおられなくなった後、会堂で聞いた預言者たちの言葉をひとつひとつ思い出していたのではないでしょうか。そして聖霊が与えられた後に、預言者たちが言っていた救い主とはイエスさまのことだったという事を、はっきりと知ることができたのです。弟子たちは、聖霊の働きによって、イエスさまが平和の君であることを、明確に知ることができたのです。
大群衆は、イエスさまに向かって、「お救いください、主の名によって来られる方」と叫んでエルサレムに迎えました。それを見て、イエスさまを殺そうと計画していたファリサイ派の人々も、何をしても無駄だと諦めてしまうほど、イエスさまは人々の人気を博していました。
しかし、神様はイエスの人気を利用して事を進められません。イエスさまの不思議な奇蹟によって神を信じることを求められません。自分が暗闇の中を歩んでいる者だという事に人々が気付き、イエスさまがその暗闇から救い出してくださるお方であることに気づくこと、それを求められるのです。主の名によって来られたイエスさまは、そのことに気づかせるために来られたのです。
わたしたちにも今、言われます。自分が直ぐに暗闇の中に迷い込んでしまう者であることを自覚し、いつも光であり平和である主イエスと共にあるようにと。お祈りいたしましょう。
2024.02.11
「良い牧者」ヨハネによる福音書10章1~18節
説教:末吉百合香 師(代読:上野美智子姉)
礼拝メッセージ(Youtube)
今朝のヨハネ10章は「善い牧者なるイエス様を知る」がキーワードです。
羊と羊飼いの関係を通して、イエス様とイエス様を信じる者との関係を話されます。1節の「羊の囲い」は皆さんの家と考えて下さい。自分の家に門から入らないで別の場所から入るのは、その家の住民ではありません。
2節に「門から入る者が羊飼い」とありますから、その家の主人です。つまり、イエス様は確かに自分が神さまのもとから来た、と言われます。
3節、門番と羊は主人の声を知っていてちゃんと聞き分けます。羊飼いが「自分の羊の名」を呼ぶというのは、自分のこどもの名を呼ぶと言う感じで、ファーストネームで呼びます。いとおしい関係ですね。また結婚前の男女が、ファーストネームで呼ぶような愛の関係です。夫婦はこどもができるとお父さんお母さんと呼び合いますが、ファーストネームで呼ぶ方が二人の愛が深まるそうですよ。年齢は関係ありません。是非ご夫妻おそろいの方はファーストネームで呼び合いましょう。羊と羊飼いの関係は、そのように深い関係であり愛の関係にあります。
羊を連れ出して、先頭に立って行かれるのは、羊を導く姿ですね。すると羊は、羊飼いの声を知っているので、羊飼いについて行きます。羊は羊飼いを疑いません。
羊飼いは一匹一匹の顔を見分けるとありますが、なかなか見分けられるものではありませんよ。六甲牧場に行ったときに、みんな同じに見えました。そして羊の餌の時間に遭遇しました。その時はお客さんが餌の合図の鐘を鳴らすというイベントになっていました。羊たちはその鐘の音を聞くと食事の時間と言うことを知っています。鐘がなると羊の群れが一斉に小屋の中になだれ込みました。それは凄い勢いでしたよ。羊たちは鐘の音で小屋に入れば、お腹いっぱい食べられると知っています。しかし、他の人には決してついて行きません。知らない声の人には決して付いて行かないのです。羊はそういう性質を持っているのです。羊飼いは自分の羊を、羊は自分の主人を良く知っているのです。
イエス様はもう一つ例えを話されます。
9節、ご自分の事を「羊の門です」と。ユダヤの町は周囲が高い塀で囲まれていました。町に入るには幾つかの門があってそこを通らなければ入れません。イエス様がここで話しておられる町とは、神の国です。その門であるとは、イエス様を通らなければ神の国に入れないのです。この門を通って入る者は神の国に入るのです。門であるイエス様を通る、つまりイエス様を信じる者は救われて神の国に入るのです。そして、安らかに出入りし、牧草を見つけます。主が共におられる人生は安らかです。これは、人生に困難が何一つないと言うことではありません。困難な時に、より頼むことのできる主がいてくださるので、安らかなのです。ある姉妹の口癖「みことばが無かったら、ただ毎日がぐちばかりの高齢者だったでしょう」と
牧草を見つける、とは、羊にとって牧草は無くてはならないものです。旅行をする時に地図なしで出発する人はいません。地図は旅行者が目的地を見つけるのに無くてならないものです。神を信じる者にはイエス様は無くてはならないお方です。イエス様は信仰の旅路を導き目的地を示すお方だからです。
11節、「わたしは、良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てる。」羊飼いは自分の羊を守るために、クマやオオカミといのちをかけて戦います。旧約聖書のダビデ王の少年時代に、イスラエルに挑んで来るペリシテ人の大男を倒したときに使った石投げは家畜を猛獣から守る時に使う道具でした。そのように羊たちは毎日が危険と隣り合わせで自分では自分のいのちを守れない弱い生き物です。その羊を守るのが羊飼いです。つまり私たち人間は自分の罪から自分を救えない存在です。「わたしは、良い羊飼いです。良い羊飼いは羊のためにいのちを捨てます。」イエス様は罪人である私たちを救うために、十字架に架かっていのちを捨てることを予告しておられます。
また牧場をしている方は、ほとんどが家族経営ですね。家畜に毎日餌と水やりがあります。家畜に今日はちょっと外食に行って来て、とは言えません。乳搾りに、健康管理、衛生管理にと気を付けなければならないことがたくさんあります。
「わたしは良い羊飼いです」とご自分を羊飼いに例えられたのは、一時もあなたのことを忘れることはないと言うことです。
14節に「わたしは自分の羊を知っており」とあります。ここは優先順位が問題です。
まず先に、イエス様が私を知っていて下さる。それは父なる神様と子なるイエス様とが一つの関係であるのと同じようにです。これは本当にうれしいことですね。
父なる神様と子なるイエス様と私たちが一つの関係にある、つまり神の国の住民であり、神の家族です。家族とはお互いの事をいとおしく思う関係です。イエス様は信じる者をいとおしんで下さるお方です。と同様に私たちもまたイエス様をいとおしく思う者でありたいですね。
私たちもイエス様の思いを、与えられた限られた時間の中で「どんだけ」知ることが出来るか、これは信仰者のアドベンチャーです。スポーツ選手で言えば、伸びしろ。匠の技で言えば、醍醐味です。イエス様を知れば知るほど信仰の醍醐味を味わうのではないでしょうか。
私は今日の箇所から、ふと、おおかみと七匹の子山羊の童話を思い出しました。子山羊たちが偽お母さんに成りすましたオオカミを見破れなかった失敗のお話ですが、結末はおかあさんと末っ子の小山羊によって救い出されます。小さい子どもたちは観客席で、オオカミが「お母さんだよ」というセリフの時に、「ちがう、ちがう、そいつはオオカミだ!」と叫びます。観客席にいる子どもたちは偽物と知っているからですね。いつの時代も成りすましオオカミの存在があります。子山羊たちがオオカミを見抜けなかった失敗は、時代への警告でもあると思います。イエス様を確り知ることは、時代を見抜く力も養ってくれます。
また、イエス様はヨハネ福音書の中で、ご自分は父なる神様の願われている通りに行動していると何度も証しておられます。これは、イエス様と一つである私たちが、神さまの願われる生き方をするようにと招かれているということでもあります。主に招かれている教会の私たちに与えられている使命は、良い牧者であるイエスさまを家族に周囲の人々に伝えることです。16節「わたしにはまた、この囲いに入っていないほかの羊もいる。その羊をも導かなければならない」この使命は、今、教会に委ねられています。
ヨハネ福音書は21章17節で、ペテロに対する使命をこう伝えています「わたしの羊を飼いなさい」と。彼は教会のカギを委ねられた弟子と言い伝えられています。ローマの教会には、どの教会でも彼がカギを持った像がありました。「わたしの羊を飼いなさい」教会は主の羊を飼う事、つまり、互いにいとおしんで愛し合う事、また、囲いにいない羊をも覚えて主を伝えることを委ねられています。役員会は今、2024年度の教会活動、また伝道をどう進めるのか話し合っています。どうぞ覚えてお祈りください。派手なことはできません。私たちの力に見合った方法で良いアイデアが主から与えられるようお祈りください。父と子がひとつであるように、というのは私たちが主から与えられた使命に一つになることでもあります。
2024.02.04
「神の豊かさ」ルカによる福音書15章11~32節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★15章4-7節は失われた羊の話、8-10節は失われた銀貨の話です。
そこで伝えられているのは、失われたものを取り戻すときの神さまの熱い思いです。
今朝の11節以下は、ふたりの息子を失った父親の物語です。人生に迷った息子と父の下に留まった息子ですが、実は二人とも父の愛を理解できなかったのです。
前の二つの話と異なる点は、ふたりの息子は自分の意思で父と子の関係を拒んだことです。
それでは、弟の方から見てみましょう。
弟息子の間違いは、相続した財産を浪費したことではありません。
彼は子どもとしての関係を断ち、父(神)から離れて生きることを選択します。
それが彼の行動の根っこのところに有るものです。★父親の意思から離れ、自分の思い通りにしようとした所です。
家庭や保護の力を必要のないもの、自分の自由に邪魔なものとしてそれらを払いのけ、自分の深い欲望に従ったことに、彼の間違いがあります。
創世記3章に、現代にまで続く物語があります。
★神に造られた人間が(5節)へび(誘惑するもの)の言った「あなたがたは神のようになる」この言葉にそそのかされ、禁断の実を食べました。★コヘㇾトの書12章1節に「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」(新改訳)とあります。人間は神に造られた者です。その人間が神になって立場を逆転させるとは、自分を造られた方を拒絶する行為です。
弟息子は自由になろうとして却って、欲望の奴隷となってしまいます。
彼は欠乏し、友達にも見放され、悲惨な状態となり、ユダヤ人が最も卑しいと考える仕事に着く他ありませんでした。
彼の間違いは、事業に失敗したことではありません。そのことよりも、造り主である神さまに背を向け、自分勝手に生きようとしたことです。
★コヘㇾトの書12章13節には「神を恐れ、神の命令を守れ。これが人間にとって全てである」とあります。
父親は、失われた羊の飼い主や、銀貨の持ち主である女性と同じように、失った息子を熱心に探しました。
★コヘㇾトの書3章に「全ての事に時があり」とあります。
彼が見出された時は、17節彼が「我に返ったとき」です。そして18節「私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました」この罪の告白は、21節でもう一度繰り返されています。
★これは、自分の意思で神さまと共に歩きますという、彼の決意です。
父は彼を見出し、抱き寄せ、口づけをします。★最上の着物を着せ、指輪をはめ、くつを履かせます。これは関係が回復したしるしです。彼は雇人ではなく、父の子どもとして迎えられます。
★さて、兄は父の所に留まっていました。しかし、本心はどうだったのでしょうか。弟が帰って来たことも、父と弟の関係が回復したことも喜べません。弟の行動は兄の行動基準と大きく隔たっていたからです。兄の基準は愛にではなく、自分よがりな正しさにありました。兄の心は父と遠く離れていたのです。兄と父との関係にも回復が必要でした。
★31節、父は「子よ。」と呼び掛けます。「おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは、全部おまえのものだ」と語り掛けます。
12章に主人の全財産を与えられた忠実な僕がいますね。
父は兄を否定していません。彼が父に忠実だったことを認めています。
この後、兄の態度がどうなったかは語られません。
兄はパリサイ人を代表しているとも言われます。
パリサイ人は神さまとの関係を、人間の考えた宗教規範に基準を置くからです。
★コヘㇾトの書3章11節に「神のなさることは、時にかなって美しい」とあります。
父が「おまえの弟は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだ」と喜ぶの姿を、兄も共に喜ぶ時がやがて来るでしょう。
★二人の息子は神さまに見いだされた幸いな人たちです。二人の失われた息子が見出された物語は神の豊かさを表すものです。
この幸いは、イエスさまの十字架と復活によって完全な形で実現します。
そのイエスさまを信じて父なる神さまと関係を回復された私たちは、幸いな者の中にいるのです。
しかし、皆さんの中にはイエスさまによって神の国が到来しているのに、地上では何故次々と困難な出来事が起こるのか、という疑問を持たれる方もあるのではないでしょうか。 私たちはイエスさまが来られた時と、再臨の時の間である、中間時代に生きています。イエスさまがもう一度来られた時に、この世界は完全に回復され、神の国は完成します。私たちの生きる中間の時代は、神の国がもう始まっているのですが、まだ完成していない時代です。ですから、コロナや地震津波という危機も起こります。しかし、神の豊かさは何によっても揺るぎません。この恵み豊かな神さまに見いだされている幸いを、何が起ころうとも、忘れず歩ませていただきましょう。
最後にヨハネの御言葉を紹介します。
★ヨハネ福音書16章33節「あなたがたには、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」
2024.01.28
「心を楽にせよ」マタイによる福音書6章19~21節
説教:末吉貞雄 師
2024.01.21
「隣人になろう」ルカによる福音書10章25~37節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
皆から『知恵ある先生、賢い先生』と呼ばれていた一人の律法の専門家が、イエスと弟子たち一行をスパイではありませんが伺っていた様です。彼らが注目されていたという事です。ただし注意人物としてですが。そしたら、彼の頭にカチンと来たんです。二つあります。
①17節七十二人と21節イエスの大喜びです。眉間にしわを寄せてたかどうかは分かりませんが、人のあら捜しと自分の落ち度無さに眼を奪われていた彼にとって、喜ぶ者と共に喜べと聖書にありますが、彼はその反対でした。
②「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者に隠して、幼子の様な者にお示しになりました」と言うイエスの言葉です。イエスはありのままの現実をほめたたえられたのですが、彼には自分に対する批判に聞こえました。
それで彼はイエスを試みて困らせてやろうと思い25節の質問をしました。するとイエスはその答えを彼に振りました。その答えは律法の専門家である、あなたこそがその解答をなさるべきではありませんか。そしたら彼はイエスを困らせることを忘れ、律法学者のスイッチが入った様に、正確な回答をしました。皆さん、人というのは、まず受け入れられる事が大切なんです。そして、次にイエスは彼の心が開きかけたのを見て、彼自身が問われることになる28節の言葉を掛けられました。それは彼を困らせるためではなくて、彼が自分の誤りに気付き、彼自身が永遠の命を受け継ぐためでした。これは私たちも興味深いですね。
彼の誤りは彼の弁解の言葉に示されています。29節「わたしの隣人とはだれですか」の『私の隣人』という言葉に現れていました。私が隣人になるのに、この人は相応しいかどうか。私がこの人の隣人になることで、どんな価値が生まれるのか。どんなに評価を受けるのか。これらを総合的に検討して私の隣人を私が決める、そういう隣人を『私の隣人』と言います。30節以下のたとえ話に出てくる、祭司とレビ人も追いはぎに襲われた人を見て、素早く自分の隣人とした場合のことを検討し、その結果この人は私の隣人としては不適当だと決定して、向こう側を通って行きました。
皆さん、隣人とは自分で決めるものではありません。隣人とはただ『隣の人』と書きますね。これは、人は一人でいるのは良くない、と言われた神があなたの隣に、あなたの隣人として置かれた人のことです。ですから、29節の律法の専門家の「私の隣人とは誰か」という言い方は、「この人は私の隣人ではない、と私は見ます。隣人は私が決めます。神さまは関係ありません」ということになります。
皆さん、世の中はそんな甘いものではなく厳しい、とよく言います。何が厳しいのでしょうか。これじゃないでしょうか。世の中では自分の立場や利益から隣人を見ます。世の中では自分自身もそのようにしか他人からは見られていません。そんなことが一番身近な家庭の中でも起こっています。ですから、私たちはこの追いはぎに襲われた人に自分を見ることができます。そして、この世の中に真実に自分の隣人となってくれる人がいるのだろうか、と言う重要な問題を思い起こします。
今日の説教題は「隣人になりましょう」ですが、皆さん、私たちには自分が誰かの隣人になる前に、自分の隣人になってくれる人がいないという問題があります。だから、イエスはこのサマリヤ人の話をされました。
サマリヤ人はこの追いはぎに襲われた人ユダヤ人から日ごろ苦しめられていました。だのに彼が隣人になりました。そんな人がいるのでしょうか。いるのです。実はこのサマリヤ人のたとえでイエスはご自分のことを話されています。
神の子イエスも旅の途中でした。その旅とは天から始まりました。そこから人となってこの地に来られました。目的は真に人の隣人になるためでした。しかし、反対に人から苦しみを受け、十字架につけられ、殺され、葬られました。神はそのイエスを死人の中から甦らせました。甦ったイエスはまず自分を見捨てて逃げた弟子たちの所へ行かれました。文句を言う為ではありません。失望の中にいる彼らの隣人になるために。それからイエスは聖霊に一つのことを頼んで天に帰られました。「私がもう一度帰るまで、あなたが彼らの隣人になって、彼らを助け導いて下さい。費用はいくらかかっても良いです。最善を尽くしてください。足りない分は帰ってきた時に払いますから」。
皆さん、永遠の命とは、どんなときにもいつまでも私たちの隣人になってくださるイエスさまを、心にお迎えすることから始まります。人はいつまでもその人の隣人になれません。限界があります。最終的には死という限界があります。しかし、十字架の苦しみを受けてまで「父よ,彼らをお赦しください」と祈って、徹底的に人の隣人となられたイエス、死人の中から甦って生きておられるイエスには限界はありません。
神は、その独り子をお与えになったほどに世を愛されました。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
皆さん、私たちも傷を追っているのではないでしょうか。
イエスにあなたの傷をお見せて祈りましょう。
『私の傷にも油とぶどう酒を注ぎ、包帯をしてください。』
弱り果てているところをお見せて祈りましょう。『介抱してください。』
イエスがいつまでもどこまでもあなたの隣人です。死を前にした時もイエスがあなたの隣りにいます。その為にイエスは来られました。
さて最後に、弟子たちも、この律法の専門家も、生涯忘れられない言葉があります。それが37節の「行って、あなたも同じようにしなさい。」です。わたしはできるのであろうか?難しいですね。しかし、イエスがあなたの隣人になられたのなら、事態は変わります。イエスには人を新しく造り変える力があります。
イエスはもう一度来られる時の事を語られた時に、永遠の命に与る人たちの話を為さいました。最も小さい人たちの一人で飢えていた人に食べさせ、喉が渇いていた人に飲ませ、旅をしていた人に宿を貸し、裸の人に着せ、病気の人を見舞い、牢に入れられた人を尋ねた、人たちが永遠の命にあずかりました。そして、その一人がご自分だった、その行為はイエスに行なったのと同じだ、と言われました。隣人になりましょう。それは自分の評価、価値、利益によってではなくて、あるいは、その点でガンバッテ行なうのではありません。ただただイエスから受けた恵みに応えるという行為です。これがあなたの隣人にまずなられたイエスのあなたへのメッセージです。
世界中の一人ひとりに隣人を置かれる神は今叫んでおられます。「この人の隣人は誰れですか」「どこに行ったのですか」。お祈りしましょう。
2024.01.14
「空の鳥と野の花を見なさい」マタイによる福音書6章25~34節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★イエスさまは、2024年と言う新しい一年を歩み始めた皆さんに伝えたいことは皆さんが如何なる時と状況にありましても平安の内を歩む事です。「空の鳥と野の花を見なさい」もキーワードですが、一番のキーワードは33節の「何よりもまず」です。イエスは何を第一にしたら良いのかを伝えておられます。
★さて、「何を食べようか、飲もうか」と言われるのは、レストランでメニューのどれを選ぼうか、という事ではありません。「何を着ようか」と言われるのは、ファッション売り場で色やデザインやサイズをどれにしようかと迷う事でもありません。
★そこで紹介したいのが新聖歌99番です。この歌はイエスの生涯を歌います。その一番は、『馬槽(まぶね)の中に、産声(うぶごえ)あげ、大工(たくみ)の家に、人となりて、貧しき憂い、生きる悩み、つぶさになめし、この人を見よ』です。
★イエスは生きる悩みを知っておられました。食べる為に種を蒔き、耕し、刈り取ります。家畜の世話をします。飲む為に井戸を掘り、水を汲み、家畜の乳を、栽培したブドウの果汁を搾ります。着るために糸を紡ぎ、布を織ります。これらが聖書の時代の生活の全てでした。つまり、何を食べようか、飲もうか。何を着ようかとは、生きる悩み苦労のことです。現代の私たちにも内容は様々ですが生きる悩みがあります。今日朗読された聖書の最後の34節で、イエスは、その日その日の生きる悩み労苦だけに集中する事を勧めるのであって、その悩み労苦を取り除く、とは言われませんでした。
★また、教会の看板にもよく引用されるイエスの言葉にマタイ11章28節があります。それは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」です。『疲れた者、重荷を負う者』という言葉から生きる悩みと労苦を連想します。しかし、その続き29節には、今負う重荷の代わりにイエスの軛を負うことを命じています。今度は独りで負うのではなくてイエスと一緒に負うわけですが、30節、そのイエスの軛によって依然重荷を負うことになります。しかし、その荷は軽いのです。いつか、この聖句から詳しくお話ししたいと思います。 今は、明らかになる一つのことだけを取り上げたいと思います。
★それは、イエスの後に着いて行っても、クリスチャンになっても、生きる悩み労苦は無くならない、という事です。この世で生きる事には悩みと労苦は付きものなのです。しかし、イエスは思い悩むな心配するなとおっしゃり、一つ問い掛けを為さいます。25節の最後、「命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか」。命が無かったら幾ら美味しい食べ物が沢山あってもしょうがないですね。体が無かったら幾ら綺麗な衣服があってもしょうがないですね。だから命と体の方が大切である。確かにその通りです。しかし、そんなことは分かり切ったことです。なぜイエスはこの様な問い掛けを為さるのでしょうか。私たちの間で、命と体があるというのが当たり前になっているからです。
★実はこの『大切』と翻訳されている言葉ですが、イエスは「より大い」と言う言葉を使われています。イエスが言いたいのはこう言うことです。『皆さん、あなたのその命があなたに与えられている事、あなたのその体があなたに与えられている事、その事の大きさがどんなに大きいか、奇跡と言っていい程の大いなることであるのを知っていますか』。『あなたのその命と、あなたのその体のために、神がどんなに関わって下さっているか分かっていますか。愛する独り子の命を犠牲にしても良い程に関わって下さっています。その大きさは、あなたが心奪われている生きる悩みと労苦と比べて、全く比べ物にならない程に圧倒的に大きいのです。この大きさのゆえに、生きるや闇と労苦に対する思いが変わります。人生が変わる、と言っても良い程にです。それ程に大きいのです』。教会はその大きさを伝えて来ました。ローマ8章37節「これら全てのことにおいて、私たちを愛して下さった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です」改訳。
★牧師夫婦は毎晩飯塚の町中をウォーキングしていましたが、寒い冬は場所を夕方の遠賀川のサイクリングロードに変更しています。サギ、カモ、セキレイ、トンビ、カラス、沢山の空の鳥と出会います。出会う野の花は土手で小さな黄色い花を咲かせている雑草です。彼らの生きる環境はわたしたち以上に過酷です。しかし、神の養いを信じて食べる事と飲むことに関して思い悩まない空の鳥や、神が装ってくださることを信じて着る事に関して思い悩まない野の花は、神が関わられる大きさがどんなに大きいかを証しています。神は彼ら以上にもっともっと大きく私たち人間と関わられます。ですから、32節、神はあなたに必要なものを全て知っておられます。この神を愛する者には「万事が益となるように共に働く」ローマ8:28ことを教会は見て来ました。
★33節の『神の国と神の義』はイエスによって起こる最大の神のあなたに対する関りのことです。イエスは十字架で死に葬られ三日目に死人の中から甦る事によって、あなたを神の国の国籍を持つ者にし、いつどこに居ようとも神は守り導かれます。また、あなたと神の関りを邪魔する全てのものを取り除き、その関係を義すなわち正しく保って下さいます。イエスによって実現している神の国と神の義と言う神の最大の関りを、まず第一に求め、その大きさを確認して一日をスタートしましょう。これが今日イエスが皆さんにおっしゃりたいことです。
お祈りしましょう。
2024.01.07
「イエスさまの後に着いて行こう」マタイによる福音書3章16節~4章11節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
神の子であったのに生まれる場所が与えられず、飼い葉桶に寝かされた幼子イエスは、マリアとヨセフによって育てられ成人し、父ヨセフの大工仕事を手伝いながら、時を伺いっていました。それはキリストとして世の中に出て行く時でした。ヨハネが荒れ野で洗礼活動を始めた時、イエスは決めました。『今だ!あの荒れ野でヨハネから洗礼を受けてスタートとする、それがキリストに相応しい』と。
イエスはヨハネから洗礼を受けてキリストとしてスタートされました。それから約三年間、弟子達と共に歩まれた後、イエスは十字架で苦しみを受けて死に、墓に葬られました。しかし、三日目にイエスは神によって死人の中から甦らされ、キリストとしての救いの業を終えられました。そして、天に昇り、父なる神の右の座に就かれ、正真正銘の父なる神から遣わされた神の子、私たちの救い主イエス・キリストであることを明らかにされました。
さて、天に昇られる前にキリストは、残された11人の弟子に近付き、彼らに二つの指示を与えられました。第一は、天に帰った後、残された弟子たちでキリストの事を伝え、その結果「わたしもキリストの後に着いて行きます」、と告白した人をキリストの弟子にすることでした。弟子たちはその指示に従い、新らしく弟子になる人が起こされ、教会が生まれました。
第二の指示は、新しく弟子になった人たちを、キリストと同じ様に洗礼によって弟子としての歩みをスタートさせなさい、という内容でした。エルサレムで最後の晩餐をした夜に、イエスは弟子たちに「わたしは道である」と言われたことがありました。また、ガリラヤで「わたしの後に着いて来たいと思う人は、自分の十字架を背負って着いて来なさい」と言われたこともありました。
ですから、もう一つの指示とは、12弟子のように実際にキリストの後に着いて行く事ができない新しい弟子・キリスト者・クリスチャンは、キリストが歩まれた道やその足跡を模範とすることで、キリストの後についてきなさい、ということだったのでした。
それで12弟子のひとり、ペテロがアジアの各地で信仰生活に励んでいる弟子たちを励ます為に書いた手紙の2:21でも、次のように書いています。「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。
教会はキリストの指示に従って伝えます。「わたしについてきなさい。そして、わたしの弟子になりなさい。そしてわたしの弟子としてスタートしませんか」。
これは難しいことはありません。習字に似ています。習字教室は今3歳から入会できるそうです。習字はお手本(下書き)を上からなどることの繰り返しです。最初は当然お手本から外れます。字に癖がある人もいるでしょう。なかなかお手本通りには行きません。それでいいのです。しかし、繰り返すことが大切です。少しづつ整えられて行きます。
キリストが私たちの進むべき道を示しておられます。模範であり、お手本です。でもキリストと全く同じになりなさい、というのではありません。
先程習字の話しをしました。習字の次があります。書道です。習字の目的はお手本で訓練を受けた自分が、今度は自分の字を書きます。自分の心とか思いを込めて他の人では書けない自分の字を書きます。それが書道です。
キリストの弟子もキリストと全く同じになるのではありません。実際そんな事はできませんが。そうではなくてキリストに訓練され導かれた自分として自分の道を進むのです。それは不自由ではなく冒険です。アドベンチャーです。
洗礼を受けた後、キリストはどうなったのでしょうか。キリストの後について行く人も、今はまだの人も注目しましょう。
洗礼を受けられた後、天から声が聞こえました。「これは私の愛する子、わたしの心に適う者」。この声は、キリストの後に着いて行って弟子になる事を決心して、洗礼を受けてスタートした人に対して、いつの時代においても与えられている天からの声です。「これは私の愛する子」。この言い方は神があなたのことを紹介する言い方ですね。神は正式に私たちのことを「わたしの愛する子なんですよ」、と紹介して下さいます。今日、私たちは改めてこの言葉を神のラブコールとして受け止めましょう。でも皆さんが気になるのは、「わたしの心に適う者」という言葉ではないでしょうか。この箇所の翻訳は新改訳の方が原語に近いので紹介します。「わたしはこれを喜ぶ(期待する喜び)」。これもラブコールですね。
今日もキリストは招かれます。「わたしに着いて来なさい」。皆さん、応えて下さい。「こんな私でもついて行っていいんですか」「こんな私でも着いて行けるのでしょうか」という、神への問い掛けでも良いです。「私も着いて行きたいと思います」「着いて行くと思います」というハッキリしない返事でも良いです。この礼拝の中で祈って神に伝えて下さい。
さて、この様に天からの声を受けてイエスのキリストとしての公の生涯が始まりました。この後どうなったのでしょうか。4章に進みましょう。ここを読んで、皆さん疑問に思われたのではないでしょうか。神はラブコールを送ったイエスを荒れ野へ連れて行かれました。そこは人間が生活するのには余りにも厳しい環境でした。そしてわざわざ40日間、何も食べさせないで、お腹がペコペコになった時に、神は誘惑する者をイエスに遣わされました。なぜ神はイエスにこの様な事をなさるのでしょうか?
皆さん、神は愛する子を鍛えられる父なる神です。もし鍛えられなかったら、実の子ではありません。40日間とは「神様もう限界です」、「どうしてこんな目にわたしを合わせるのですか」と、神の愛を受け取っているのかどうかが試される時です。キリストの後に着いて行く時、私たちも日常生活でこの事を経験します。そんな時に神への不満を感じ、神の愛への疑いも起こって来ます。この様な時に大切なことは、私たちの進むべき道であり、私たちの模範であり、お手本であるイエスを思い出す事です。
悪魔は三つの誘惑をしました。誘惑と言うのは神の愛を受け取るのを邪魔することです。イエスが受けられた誘惑を、簡単に言い換えるとだいたいこんな内容です。
『神に愛されている神の子なのに何故食べ物が無いんだ。』
『神に愛されている神の子だったら、困った時に天使が助けてくれるのではないか。』
『神はお前のことを愛していない。それよりも私を神としないか。ご利益があるよ。』
皆さん、この三つの誘惑を聞いて改めて思いますね、この誘惑は私たちの現実によくある事です。
この誘惑に対してイエスは申命記と言う旧約聖書から神の言葉に耳を傾け、そこから神の愛のメッセージを聞き、それを受け止めて対抗されました。マタイ4:6で悪魔も申命記の聖書の言葉を持ち出して来ました。しかし、悪魔はそこから神の愛のメッセージを聞き、それを受け止めませんでした。結局11節で悪魔は離れ去って、天使たちが来てイエスに仕えました。
私達も今、申命記7:7、8:2-9から神からの愛のメッセージを聞きましょう。
あなたがたがどの民よりも数が多かったから、主があなたがたに心引かれて選んだのではない。むしろ、あなたがたは、どの民よりも少なかった。ただ、あなたがたに対する主の愛のゆえに、
お気づきでしょうか。聖書の言葉の中に神の愛が溢れています。キリストはそこから神の愛を受け取りました。私たちもこの2024年、聖書のみ言葉から神の愛を受け続けましょう。2024年も毎週の礼拝で、あなたの御言葉は、私の道の光、私の歩みを照らす灯、と皆さんで声を合わせましょう。この光と灯は神の愛のことです。キリストに倣って模範としてキリストの後に着いて行きましょう。
2023.12.31
「主は私の羊飼い」詩篇23篇
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
皆さん、人間はエデンの園に大切なものを置いて来ました。忘れて来ました。その大切なものとは神との深い関係と、その中で与えられる本当の自由と幸せです。ヘビが唆した、禁断の実を食べても良い自由は、人間に自由と幸せの反対をもたらせ、洪水による絶滅寸前まで行き着き、神の憐れみによって洪水が止められ、人間の再出発と言う結果になりました。神はそんな人間に「ちょっと、そこのあなた。そう、あなたです。大切なものを忘れていませんか」と追い掛け続けて来られました。
2024年も神は追い掛け続けられます。今日、その声に耳を傾けて、立ち止まり、神の方に目を向けましょう。既に神からその大切なものを受け取られた皆さんは、それを今も確り握っておられることを、今日確認いたしましょう。
神は人間追跡大計画を立てられました。それは具体的に一人の人を選び、その人から一つの民族を生み出し、彼らを神の民とし、彼らと共に歩まれ、彼らを通して全人類を追い掛ける、とい計画です。神はその神の民を結成する時に特別の方法を取られました。神はまず彼らを当時最強の国であったエジプトの奴隷にして苦しむ経験をさせられました。それからそのエジプト王の支配から彼らを救い、自由になる経験をさせられました。『ああ、もう強制労働に就かなくていい、自由だ』と彼らは喜びました。しかし、その自由だけで終わっていたら、彼らはエジプトの追っ手に捕まるか、荒れ野で飢え死にするかのどちらかでした。
神は自由になった彼らに御自身のことを示し、シナイ山の麓で、今までエジプトの支配の中で奴隷として歩んで来た彼らに、神の支配の中を歩む神の民になるよう招かれました。それは口だけのことではなくて、契約を伴う正式な招きでした。彼らはそれに応え、神と共に荒れ野の旅に出発しました。彼らはその旅で、神の支配の中を歩む時に与えられる本当の自由と幸せを経験しました。その様にして彼らは神の民として育てられました。
荒れ野の旅が終わり、神は約束していた土地に彼らを住まわせ祝福し、王を立て、神の民の国を築かせられました。今日朗読された詩編23編はその国の王ダビデが作った詩で、人間が忘れている大切なもの、神が下さる本当の自由と幸いを歌っています。
1節、神は天国にいてこの地上を眺めている方ではありません。ダビデは歌います「主はわたしの羊飼い」。実は原文では「わたし」という言葉が付いています。クリスマスの夜、寝ずの番をして羊を見守っていたのは羊飼いでした。羊飼いは羊から決して離れません。イエスは神を、一匹の迷子の羊を見つけるまで探す羊飼いに譬えられました。「わたしの羊飼い」、とあります。皆さん一人ひとりと関わられる羊飼いです。
「あれもこれも手に入る自由」は欲望の支配下にあるのであって、いつも「これでは足りないのではないか」、と不安が付きまとい自由ではありません。「わたしには何も欠けることがない」。「わたしは豊かに与えられている」のではありません。必要なものは必ず与えられる。だから欠けることがない。ここには手に入れるものの内容に左右されない本当の自由がありますね。そして、そこには、安心がありますね。来年もこの安心を頂いて歩みましょう。
2節は歌います。その安心は羊飼いに対する信頼から来ます。青草の原は栄養ある牧草です。そこで休むとはお腹いっぱいになって安心して居眠りをすることです。羊飼いに信頼し切っているから出来ることです。特に水を飲む所には他の動物も来ます。ですから周りを警戒しなければなりません。しかし、そこが憩いの水のほとりになるという事は、見守る羊飼いに信頼し切っている、という事になります。神はこの信頼関係を通して、安心を与え、その安心によって人には出来ない魂の生き返り、すなわち人間の回復と再生をして下さいます。
3節羊を正しい道に導かれる羊飼いは、丁度パラリンピックのランナーの伴走者に似ています。ランナーはコースに関しては全面的に伴走者に委ね、ただ一歩一歩のランニングに専念します。神は私たちの伴走者ですから、私たちは明日のことはお任せして、一日一日の歩みに集中しましょう。
4節では、そのものずばり「あなたがわたしと共にいてくださる」とありますが、そのことに疑問を待たざるを得ない現実、例えば災いや死に瀕する場に立たされる時があります。たといそうであっても、神が私と共におられるから恐れる必要はありません。神の民とダビデはそれを経験しました。そして、私たちもそれが約束されています。
神は王ダビデに預言者を遣わして進む方向を示しました。時には色々な試練や懲らしめを与えて、進む方向を正しました。ダビデは王になる前、羊飼いをしていましたから、『ああ神は私の羊飼いでわたしは神の羊なんだなあ』と思いこの詩を作りました。羊は羊飼いが側にいることを、羊飼いがいつも持っている鞭と杖で確認します。羊飼いが鞭や杖を使って、羊が進む方向を示し正しました。今、私たちは御言葉によって、何をしたら良いのか示され、どの様に進むべきか正されます。それが神が共におられるしるしです。
4節の終わりに「力づける」とある言葉は「慰める」という言葉です。今から約450年前、ドイツのハイデルベルグという町で、教会の皆さんの為に信仰問答集が作られました。129問あります。その第一問は「生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか」でした。そして、その答えは「わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることです」。羊のために命を捨てて下さる、99匹を置いても一匹を捜し続けて下さる良い羊飼い、イエス・キリストの羊であるところに慰めがあります。キリストのものとして、私たちは来年も歩ませていただきましょう。
5節「あなたはわたしに食卓を整えてくださる」。ある有名な料理家が言っておられます。「食卓に用意される料理が追求するのは、グルメでも美食でもなく、愛の表現です」。食卓に着く人の頭に良い匂いのする油を注ぐのは、その食卓への正式な招待のしるしです。杯は歓迎と喜びを表します。皆さん、私たちの人生の中で苦しみを受ける時があります。どのような時にも共におられる神の僕は幸せです。苦しみの只中にあるのにまるで整えられた食卓に招かれ、その席に着いているがごとくに、神は私たちを取り扱ってくださるからです。杯は人の人生をも表します。新しい年、苦しめる者を前にする時、羊飼いである主、良い羊飼いであるイエス・キリストは、如何なる時、如何なる状況においても、わたしたちの人生を溢れさせて下さるお方です。皆さん人生の杯で大切なのは、その大きさでも、美しさでもありません。その盃を溢れさせられることです。神はそれをして下さるお方です。
6節人自らが神さまから離れようとしても、神の方が追い掛けて来られます。命のあるかぎり、終わりの日までです。そして、最後に行きつく所は主の家です。明日から始まる2024年、「主はわたしの羊飼い」と、私たちは歌って進みます。この後新聖歌255番を選びました。これは今年亡くなられた英国の女王の愛唱賛美歌で、葬儀の中だ歌われた三曲の真ん中で歌われ世界中に響きました。それを歌いましょう。お祈りします。
2023.12.24
「深い深い喜び」ルカによる福音書2章1~11節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
メリークリスマス、そして、神さま、教会を代表いたしまして、あなたの独り子、主イエス・キリストの誕生を、この2023年も思い起こし、遅ればせながらですが心からの歓迎とお喜びを申し上げます。
世の中ではメリークリスマス、と賑やかに言われています。しかし教会は、メリークリスマスだけでは不十分であることを知っています。その賑やかさではまだまだクリスマスの喜びが十分に表されていない、という事です。もっと騒げと言うのではありません。
皆さん、喜びはプラスで悲しみや苦しみはマイナス、としましょう。大学入試の合格発表掲示板の前で喜びに溢れている人達がいます。彼らは同じプラス10の喜びを受けました。しかし、その中に他の人とどこか違う喜び方をしている人がいました。その人は他の人よりもさらにマイナス10の悲しみとか苦しみを経験しての合格でした。併せて20という深さのある喜びだったのでした。皆さん、クリスマスの喜びは、これなんです。
今日読んでいただきました聖書の中心は6-7節です。1-5節は6-7節に至った理由が書いてあります。6-7節をもう一度読みます。
『ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである』。
ここにクリスマスのマイナスの部分が綴られています。皆さん、私たちは今日、ここを通ってからクリスマスを喜びましょう。
神は世界の初めの時から人間に寄り添って来られました。神は世界が出来上がる前、一番最初に何と言われたと思いますか。開口一番に言われたのは「光あれ」でした。これは太陽の光でも月や星の光でもありません。この世界でこれから生きるあらゆる生きもの、そして人間に対して、「あなたがたには失望に終わらない希望がある!それを私が与える!」という宣言でした。旧約聖書は神が人間に寄り添い続けられたことと、その神を拒み続けた人間の物語です。人間はしょうがないですね。でも神は諦めませんでした。
とうとう神はご自分の身分を捨てて人間になるという、一大決心を為さいました。それもご自分ではなくて、愛する独り子イエス・キリストを代わりに遣わされました。父なる神の子に対する心配や心の葛藤は如何ばかりかです。
神が選ばれた時は、皇帝アウグストォスの住民登録の勅令が出る時でした。住民登録とは、自分が獲得した領土の人口は何人なのかを調べ、それによってその領土から幾らの収入が見込め、ローマ帝国の経済を支えることが出来るか、それが目的でした。住民に対する考慮等は一切ありませんでした。それでお腹の大きいマリアはナザレからベツレヘムまでの約150キロの危険な旅を強制させられました。やっとの思いでベツレヘムに到着しましたが、出産という緊急優先の状態であるのにも関わらず、誰もその場所を提供できませんでした。小さな村に人が溢れて混乱していたのでしょう。家畜が休む場所でマリアは出産しました。ですから、ベビーベッドは飼い葉桶でした。
彼らを歓迎する者も、目を留める者さえいませんでした。出産を喜び祝う人もいませんでした。今でいうなら戦禍の中や難民キャンプの混乱の中で、キリストがお生まれになられた様なものです。ウクライナやガザの状況を思い出してください。神はキリストをその様な所に生まれさせられました。こんなことはあってはならない、そう言うことが私たちの社会の中で起こりますね。ニュースでも取り上げられています。そんな時に皆さん、思い出してください。イエス・キリストはその様な所に生まれて下さいました。それはその様な暗闇をなくすため、そこに光を照らす為です。ですから、私たちもそのような所に無関心であってはなりません。主がそこに関わられたのですから。このお方は後に不当な裁判にかけられ、当時の極刑であった十字架につけられ、苦しんで絶望の死を遂げ、葬られます。人間の暗闇をなくすため、そこに光を照らす為です。
皆さん、もし、わたしたちが2000年前のベツレヘムにいたら、どうしたでしょうか。私たちも自分のことで頭が一杯で、聖家族に目を留めることはなかったでしょう。キリストの誕生でさえ気付かなかったでしょう。このクリスマスのマイナスの部分を私たちは忘れてはなりません。
この悲しい出来事を通った後で、神はクリスマスの喜び、プラスの部分を宣言するように天使に命じられました。10-11節はその時にベツレヘムの町外れにいた羊飼いに語られた言葉です。彼らは距離的にベツレヘムから離れていただけではありません。皇帝の住民登録という事から全く外されていた人たちでした。この羊飼いたちと私たちは重なる所があります。ですから10-11節の言葉は、ベツレヘムで起こっている事や、皇帝の住民登録勅令と、時間においても空間においても、この羊飼いたちよりもズーッとズーッと外れにいる私たちへのことばでもあります。聞いて下さい。「恐れるな、わたしは民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」。あなたがたにはあなたが含まれています。
本来なら、恐れなければなりません。神の子に居場所を与えず、歓迎せず、目も止めない、気付きもしない、それが私たちの現実なのですから。しかし、神は宣言されます。恐れるな。大きな喜びをあなたにも告げる。あなたのために救い主、主イエス・キリストがお生まれになったのだ。これはあなたにとって大きな喜びです。それは「メリークリスマス」だけでは言い足りない、深い深い、本当に深い喜びなのです。お祈りしましょう。
2023.12.17
「神と共に第一歩」マタイによる福音書1章18~25節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
19節で言われている様に、ヨセフは正しい人としての行動をとりました。しかし、皆さん、この正しい人とは、どういう人のことでしょうか。
ヨセフは将来の夫として、婚約中のマリアと始める結婚生活の準備をしていました。新居、生活費、・・・その他にも色々ありました。その頃は当然結納金持参金のこともあったでしょうね。そんな彼がマリアから聖霊によって身ごもっていることを聞いて、どう思ったでしょうか。もしそれが本当だとしたら、その結婚生活は自分の思いとは違う、問題のある関わりたくない大変な結婚生活になるだろうな、と思えたのではないでしょうか。
しかし、ヨセフはそれ以前に聖霊による妊娠自体を信じることが出来なかったでしょう。『マリアはそんなことを言っているが、私以外の男性と関係を持ったとしか考えられない。どんな事情があるにせよ、マリアは過ちを犯した、が私は正しい、何の落ち度もない』。もし、ヨセフが、自分の正しさをもって相手を裁く、そう言う正しい人だったら、彼はマリアのことを表ざたにして、訴えたに違いありません。しかし、ヨセフはその様な正しい人ではありませんでした。
彼はマリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切る決心をする、という人でした。マリアを本当に愛していたんですね。ですから、その時ヨセフは本当の意味でマリアとの結婚の準備が出来ていたんですね。ヨセフはいい人ですね!
神にはその様な愛がベースにある正しさを持ったヨセフに対して、もう一つの大切なものを持たせる計画がありました。皆さん、皆さんにもこのもう一つ大切なものをもって頂きたいのです。20節、神は天使を遣わして「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その名をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。天使が告げる神に従うのか、それとも従わないか。ここが大切ですね。神の存在を信じるだけではありません。今日の説教題「神と共に、第一歩」には、神の存在を信じるだけで終わらず、もう一歩進む、という意味が込められています。神に従うとは、神を主とし自分は僕となるという事です。どうする、ヨセフ! 24節でヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎え入れました。
どうして、彼はそうしたのでしょうか。ヨセフはマリアと違って終始無言でした。22-23節の解説にそのヒントが隠されています。預言者イザヤが既に預言していました。マリアが生む子によって「神が共におられる」という事が本当である、確かであることが明らかになります。預言者イザヤは、巨大な帝国、エジプトとアッシリアとバビロニアとペルシャの支配下で、大海の中の小舟のごとく翻弄された人々に、神が共にいます故に、恐れず最後まで神に従え、とのメッセージを語った預言者でした。
ヨセフには自信がありませんでした。そうです皆さん、神に従う自信がある人は一人もいません。神が共におられる、それは苦しい時の神頼みではありません。天使が伝えた21節の言葉の最後に注目してください。「この子は自分の民を罪から救うからである」。罪というのは神と人の間にある壁の様なものです。神が共におられるとは、神との間にもはやじゃまするものは何もなく、神が寄り添い、神が確り繋がることです。
この関係をキリストはぶどうの木に譬えられました「私はぶどうの木あなたがたはその枝である。私とつながっていなさい。そうすれば私はあなたがたとつながっていよう。その人は実を豊かに結ぶようになる。ヨハネ15章」。ぶどうの木の幹と枝は繋がっているから養分が枝に届き実を結びます。もし、その間に邪魔するものが入るなら実は結びません。
しかし、私たち人間と神との接点が神以外のものによって覆われています。身分、能力、財産等色々な物がそこを覆います。敵意、争い、嫉妬、高慢、分裂分派等の思いがそこを覆います。この接点の覆いの全てを操って、何とか神が人間と繋がらない様に邪魔しているのが罪です。
この神と人の接点の覆いを取り除かなければ、「神、共にいます」は実現いたしません。神がイエス・キリストをマリアから生まれさせた目的は、この神と人間との接点にある覆いを取り除いて、接点の明け渡しを受けることです。接点を罪から買い取る為に、神は明け渡し代金としてキリストの命を支払われます。イエス・キリストを信じるとは、キリストが私を罪から買い取られた、という内容の領収書を受け取ることです。その領収書の宛名には、あなたの名前が記されます。金額欄には神の子イエス・キリストの命、と記されます。但し書きには、神と人の接点買取代金、と記されます。そして、日付欄には、このイエス・キリストの救いを信じて神に従う事を決心した日が記されます。一番下に罪本人の住所と署名と印。
ヨセフは22-23節に記されている説明を受けたのではありません。しかし、彼は天使から確かに聞きました。マリアから生まれる子は罪から救うお方になる。正しいヨセフは罪に支配されている人間の現実を知る人でもありました。彼は罪からの救いを求め、神を信じてマリアを妻に迎え、イエスの父親になる第一歩を踏み出しました。
皆さんはどうでしょうか。私たちも罪からの救いが必要です。神はあなたとの接点を取り戻してくださいます。そして神と共に今日、第一歩を踏み出しませんか。すでに踏み出されている方々、神との接点を点検しましょう。そして新たな一歩を踏み出しましょう。主と共に一歩踏み出す方々と主は共にいて下さいます。身分、能力、財産、敵意、争い、嫉妬、高慢、分裂分派が大きな顔をして、今もこの世界の隅々まで横行しています。その覆いからその支配から解放してくださるイエス・キリストを迎えましょう。そして、イエス・キリストの喜ばれる平和の実を、それぞれの遣わされた所で結ぶために歩ませて頂きましょう。教会は神と共に第一歩を世界中の人が踏み出すことを祈ります。
2023.12.10
「わたしは主のはしため」ルカによる福音書1章26~38節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★広い視野からクリスマスを眺めよう
クリスマスとは何なのか、それは、この世界の始まりから終わりまでを見渡す程の、広い視野に立たなければ分かりません。アドベント待降節という期間は、一年の中で特にその広い視野に立つ期間です。
★世界の初め
神はこの世界を造り、そして人間を造った時に、人間と共に生活する場所を用意されました。エデンの園です。神は人間と共に歩む形でこの世界をスタートさせました。「アダム―」「はーい」。「エバー」「はーい」。アダムとエバが呼べば「何だい」と神は答えて下さる。エデンの園は、親子の関係の様、決して見捨てない、という深い関係を育むための場所でした。この様にして人間は始まった、先週はそれが人間の原点だと聞きました。
★洪水
しかし、人間は神からどんどん離れて行きました。それで神は心を痛め、とうとう人間を造ったことを後悔し、洪水でこの地上から人間もろとも生き物をぬぐい去られました。しかし、最後に思い止まり、箱舟の中のノアと生き物たちが生き残りました。再出発です。その時に神はもうこの様な事は二度としないと誓われ、神は人間との関係回復のために新たな計画を立てられたのでありました。
★召命
今度は召命という形で神の方から人間に近付かれました。神の方から具体的に人を選び、招き、神の計画に加わる使命を与える、それが召命です。アブラハム・イサク・ヤコブ・そしてヤコブの子どもから生まれた12部族と共に神は歩まれ、エジブトの奴隷の中から贖う形で彼らを神の民に召されます。そして、彼らの中に住まい、彼らに国土を与え、彼らを通して他の人間を祝福して関係を深める、と言う計画を神は進められました。ところが富と権力を手にした彼らは、だんだん神から離れて行きました。エデンの園の時のようになってはいけないので、神は沢山の預言者を立てて、彼らの歩みを正そうとされましたが、とうとう彼らは神の神殿に他の神を持ち込むようになりました。それで神自身彼らの中に住めなくなり離れて行かざるを得なくなりました。
★崩壊
その結果、国は滅び神殿は破壊され彼らは流浪の民となりました。しかし憐れみ深い神は彼らを帰還させますが、彼らと神との関係は回復できませんでした。神はそれでも彼らと寄り添い続け、第三の計画、最後の計画をお立てになり、それを実行する機会を伺っておられました。
★神は最後の計画
その計画とは神が神の身分を捨てて人間と同じになり、神と人間の関係を完全に回復させる計画でした。神の独り子イエス・キリストがそれを実行されました。このような流れでクリスマスが起こりました。クリスマスは神が人間との関係を回復させるために実行に移された最後の計画の最初の出来事であることが分かりました。最後の計画ですから、イエス・キリストの誕生において世界は終末期に入ったとも言うことができます。イエスが公に活動を開始した時、一番最初に「時は満ちた、神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」と言われたのは、この終末期に入ったからでした。この神の最後の計画に、あなたも招かれています。この招きを受けて下さい。受入れ応じて下さい。だからクリスマスを祝うんです。喜ぶんです。どの様に受入ればよいのでしょうか。それを世界で最初に経験したマリアに注目して下さい。
★聖霊が降る
35節で天使がマリアに告げました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。神がマリアに大接近されます。「だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」。神は神の子イエス・キリストをマリアの体の中に置かれます。この後、胎盤とへその緒でマリアとイエスが繋がります。そして何が起こるのでしょうか。調べました。小川クリニック委員長、小川博康先生のホームページを参考にして紹介します。五つの事が起こっているそうです。
①赤ちゃんへ酸素を送る②栄養を送る③赤ちゃんから二酸化炭素を受け取る④老廃物を受け取る⑤最近の研究で分かったことで、母の胎盤と赤ちゃんの間をメッセージ物質が行き来している。
これを読んで思いましたね、母子は一体である。神の人間の関係回復のために実行に移された最後の手段とは、この様に人間と一体になる事でした。旧約聖書で神は、契約を結び、律法を与え、テントや神殿の至聖所に臨在し、力強い御手を伸べて助け、預言者を遣わして諭し、神の民と具体的に関わられましたが、この様な事は未だかつてありませんでしたし、これからもありません。
★主のはしため、主の下僕
その頃、マリアは婚約者ヨセフと今後の結婚生活について色々と計画していたに違いありません。自分の思い通りに人生を進める、と言うのは一見良いように見えますが、その結果が良いか悪いかは分かりません。明日はどうなるか分からない。非常に不安定ですね。それで占いをしたりおみくじを引いたり厄除けをしたりするんですね。自分の思い通りにするのか、それとも・・・・。どうするマリア!。
その時にガブリエルがマリアの背中を押す言葉を掛けてくれました。「神に出来ない事は何一つない」。聖書を読むとこう言うことが他にも出てきます。旧約聖書でイサクを出産する90歳のサラの背中を押した天使の言葉「主に不可能なことがあろうか」。自分の救いを疑った人々にイエスは言われた「人には出来ないが神には出来る」。
マリアは全能の神に任せました。神に任せるとは、神のはしため、神の僕になることです。マリアは主のはしためとなりお腹の中に主を迎えました。私たちの場合、生活の具体的な場面にキリストを主人として迎え、自分をそのはしため僕として、主と共に一体となって生活しましょう。イエスさまならどうなさるだろうか?神さまはどう思われるだろうか?すると不思議ですが必ず神が確かに共にいて下さる事を体験します。神の使いガブリエルは今日の皆さんにも伝えます。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとも共におられます。」
2023.12.03
「闇の中で輝く光」ヨハネによる福音書1章1~5節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
アイススケートのジャンプで必要なのは回転軸が振れないことです。私達の人生も振れない軸が必要です。今から約2000年前、誕生したばかりの教会はローマ帝国とユダヤ人から猛烈な迫害を受けていました。その様な非常に厳しい状況の中で、何があっても何が起こっても、振れない軸を持って生き抜く為に、このヨハネ福音書は綴られました。
ヨハネは筆を取って祈りました。「神さま、これから福音書を書いて行きますが、どうか私を導いてください」。そして、『初めに』と筆を進めました。聖書で、この言葉で始まる書がもう一つだけあります。1頁を開けて下さい。創世記1章1節「初めに、神は天地を創造された」。この創世記はヨハネ福音書より約600年以上前、同様に神に祈って書かれました。その時の状況は、神の民がこれまで築いて来た、国家、神殿、国土、家族、財産、全てのものが壊され、全く希望の光が見えない暗闇の状況でした。その中で内があっても何が起こっても振れない軸を持って生き抜く為に、この創世記も綴られました。
皆さん、物事に行き詰まった時に「原点に返れ」とよく言われますね。ヨハネ福音書も創世記も『初めに…』と綴り出したのは、原点に返るためでした。創世記は伝えます。人間もこの世界も神から始まった。それが原点だ。だから、この世には神と無関係のものは何一つない。讃美歌集である詩編46は歌います。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない。地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」。たとい天地がひっくり返ろうとも、この神を信じて進もう。
ヨハネもその神を信じて進むのですが、あまりにも厳しい状況の中、どうしても希望が見えなくなって、神にもう一度尋ねました。『神さま、原点を教えてください。それが私たちの軸になります』。神からの答えがありました。1節2節「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった」。この『言』とは私たちの救い主イエス・キリストのことです。「初めにイエスがあった。イエスは神と共にあった。イエスは神であった。イエスは、初めに神と共にあった」。この方が分かりやすいです。なぜ神は『言』とわざわざ言い換え、分かりにくくされたのでしょうか。不思議です。二つ理由があります。
①使徒パウロは訪問した教会に沢山の手紙を出しました。新約聖書に13もあります。その手紙中でパウロは、イエス・キリストのことを、繰り返し同じ言葉で説明しています。『イエスのことは神の秘密の計画です』。神の秘密、それはミステリー、奥義、という特別の言葉が使われています。本当に重要なことは簡単に話すものではありません。ですから神はヨハネに対して、イエス・キリストという言葉を17節まで使いませんでした。
②『言』が人間特有のコミュニケーションそのものだからです。『言』は話し言葉だけではありません。ローア部の兄弟姉妹方が使われる手話も『言』です。視力に不自由さを持つ方が使う点字も『言』です。その他のコミュニケーションツールもこの『言』に含まれます。神が初めに願われたことは、人間とのコミュニケーションを、深い深い関係を持つことでした。その為に神は少々誤解が生じても良いから大胆な行動をとられました。神はただお一人なのですが、人間との深い深い関係を持つために、もう一人の神、『言』という神となられました。それで天地創造の神が『言』である神でもあることを、3節は伝えています。それ程に神は、人間と深い深い関係を持つことを第一とされるお方です。それで神をイエス・キリストを『言』と表現しました。
神はイエス・キリストを通してあなたと非常に深い深い関係を持つことを願っておられます。それはあなたにとって非常に重要なことです。なぜなら神とあなたとの関係が、人間としての軸を、生活の軸を、信仰の軸を、何があっても何が起こっても振れない軸をうみだすからです。
4節「言葉の内に命があった。命は人間を照らす光であった」。イエス自身がご自分のことを命だと言っておられます。例えば、死んだ友人ラザロを訪問して復活させた時に『わたしは復活であり、命である』とおっしゃいました。過越し祭の前日、その夜が最後の夜になるのを知らない弟子たちに『わたしは道であり、真理であり、命である』とおっしゃいました。その命であるキリストが人間を照らす光なのです。例えば皆さん、月はそれ自体光りません。だから月は死んでいます。しかし、太陽の光を受けて月は生きるのです。それと似ています。イエス・キリストは人間を照らす光、人間を生かすお方です。
イエス自身が「わたしは世の光である」と言われた時がありました。それは不倫の罪を犯した女性をイエスの前に引っ張って来た人々が、「先生、モーセは律法の中でこういう罪人は石で打ち殺せと命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」と質問した時でした。イエスは答えられました。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」この言葉は、真っ暗な部屋で電気をパッとつけた様に、赦さない、赦せないと言う思いを持って集った人全員を照らす光の様でした。このイエスの言葉で『私は罪を犯したことがある』と全員思い出しました。それから『今自分が生かされているのは、赦されているからだ』という事にも気付かされました。それで石を投げる者は一人もいませんでした。今、ミサイルや大砲や空爆を支持する人にこのイエスの言葉を聞いて欲しい。この言葉を思い出して欲しい、皆さん、そんな思い湧いてきますね。
5節「光は暗闇の中で輝いている」。光は今も輝いています。このイエス・キリストの光は、人間の中にある『赦せない』『赦さない』という思いを照らすために、『そう思う前に自分自身が赦されている』ということに気付かせるために、今も輝いています。私たち、そして世界中の人がこのイエスの光によって暗闇を照らされる必要があります。5節の続きの言葉「暗闇は光を理解しなかった」は伝えます。私たちの中にある暗闇は私たちに光を避けさせよう、光から遠ざけようとします。しかし、皆さん勇気を出して光に向かいましょう。暗闇がいかに大きく深く強くとも、イエス・キリストという光は決して消えません。世界中で輝き続けます。『赦せない赦さないとする以前に赦されていることに気付かせて下さい』と祈りつつイエス・キリストの光に向かいましょう。そこで皆さん、祈りには二種類あります。ご存知でしょうか。鯛と鱒です。「神さま、わたしはイエス・キリストの光に向かい鯛(たい)、ではなくて、光に向かい鱒(ます)、導いて下さい、と祈りましょう。
2023.11.19
「父の祝福」マタイによる福音書25章31~46節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く。」31節のこの御言葉は私たちにとって希望の言葉ですね。地上の悪しき力が全て滅ぼされ、キリストが神の栄光の座におられます。柔和で平和を実現されるキリストが全てのことを決定される日です。それは最後の審判の日です。ウクライナ戦争の終息は見えず、イスラエルとパレスチナの戦争も始まり、地上はいつまで神さまを悲しませているのでしょうか。私たちは、主の来られるその日を待ちわびます。最後の審判と聞くと恐ろしい日のように思いますが、実はその日は父なる神さまの憐みの日です。今朝はそのことを聞きましょう。
32節、イエス様は全世界の人々を羊と山羊に例えて話されます。聖書の舞台イスラエルでは羊や山羊が飼われることは日常の事でした。もし、その時代に雑誌があったとしたら、「あなたの羊が美味しくなる情報誌」「コクの深いミルクを出す山羊の育て方」なんてタイトルの本が出版されたら、買う人が殺到したことでしょう。羊と山羊の価値が上がりますからね。羊と山羊はそれぐらい身近な動物でした。羊飼いは、昼間は羊と山羊を一緒に放牧し、夜になると別々に眠らせました。イエス様は、人々がもっとも情景が良く浮かぶ事柄を通して最後の審判を語られます。33節「羊を自分の右に、山羊を左に置きます」と言う風にです。
王は右にいる者たちに言います。34節「さあ、わたしの父に祝福された人たち。天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」
そして、その理由として35節の言葉が続きます。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、・・牢にいた時に訪ねてくれたからだ。」
しかし、王に褒められた人々は、38、39節で「何時、私たちはそんなことをして差し上げたのでしょうか」と王の指摘に、自分は何も知らなかったと告白します。この人たちは自分の行動を王が言うようには自覚していませんでした。きっと、自分が特別な事をしたというのではなくて、そういう状況に置かれたから、ごく自然にそうしただけ、という事だったのでしょう。ことさらそれは特別なことをしたとは思っていなかったのです。自然にしていることですから、わざわざ他の人にそれを言いもしませんし、王が何時の事を言っているのか、自覚さえないと答えます。私たちはなかなかこうはなれませんね。
次に王にお叱りを受けた人々が答えます。「何時、わたしたちがそんな態度をとったのでしょうか」と、何も気付かなかったと告白します。
自分はどちらに属するのかと心に手を当ててみれば、何もしなかったという42、43節の言葉は自分の姿に他ならないことを思います。
私たちはここで、自分の怠慢や弱さや限界を示されます。しかし、イエス様はあなたのハードルを一つ上げなさいと言われているのでしょうか。そうではありません。自然体できない自分の足りなさを覚えると共に、今朝の御言葉がイエス様の憐みであることを覚えたいのです。
41節と46節を読みますと神の審判の判断が、人の行いによるように聞こえます。しかし、ロマ3:28にはこうあります「人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるのです。」
王に褒められた人とは、イエス様ご自身のことではないでしょうか。
飢え、渇き、裸、病、獄にある(犯罪ではなく迫害で投獄された人)人とは、困窮の中にある人々です。その立場の人々を、イエス様は深く心に留められます。心に留めるだけではなく、困窮にある人とご自分を同じ所に置かれます。ここの「最も小さい者とは実は私です」とおっしゃるのです。飢え、渇き、裸、病、獄にある人とは私ですとおっしゃるのです。困窮の中にある人と自分を同じ所に置かれます。イエス様は最も小さい者となられたのです。
皆さん、最後の審判の日に右に置かれるのは、飢え、渇き、裸、病、獄にある人(犯罪ではなく迫害で投獄された人)なのです。イエス様はその人と共に歩まれます。イエス様の憐みは、私たちが他者を憐れむのと全く異なります。これは、人間の常識を超えています。私たちの内にある同情や親切とは異質のものです。私たちは、「最も小さい者のひとりにしたのは、私にしたのです」と聞くときに、自分を「親切ないい人だ」などと、とてもうぬぼれられるものではありません。私たちの出来る愛の業は、本当に多少なのです。
今朝、私たちが聞くべきことは、神様の前にあっては自分が飢えており、渇いており、裸であり、病人であり、獄にある者(犯罪ではなく迫害で投獄された人)、みじめな者だと言う事です。神さまの憐みが無ければ救われない者、自分をそういう者だと認める時、イエス様は宣言してくださいます。
34節「さあ、わたしの父に祝福された人たち。天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい」と宣言してくださいます。
マタイ5章3節の「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから」との宣言を思い出しますね。20章の二人の盲人の叫びが聞こえます。「主よ、わたしたちを憐れんでください」。
「人の子」であるイエス様は、困窮の中にある、周囲が気にもかけないひとりひとりに深い愛を注がれます。実は、私たちこそが深い困窮の中にある者のひとりなのです。
このことを深く覚えることこそ、父の祝福に与っていると言えます。にぶく、高慢な私たちですが、そのように造り変えていただきましょう。
2023.11.12
「予想外の恵み」マタイによる福音書20章1~16節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
先週、日曜日の午後から貞雄牧師の機構委員会の出張に合わせて、二人で孫の所に行って来ました。5日は三連休の最終日とあって全ての羽田便が満席でした。息子がキャンセル便に「トライしてみて」というので、最終便まで待つのを覚悟でトライしました。最初のトライは夕方の5時の便でした。キャンセルカウンターに行くとすでに8人の人が待っていました。これは難しいなあと諦め気分でした。ところが、名前が呼ばれたのです。「普通席は1席だけ空いてます。もう一人はファーストクラスに1万円追加で乗れます。どうされますか。」ということでした。それで別々の便で行くことにしました。すると次に待っている最後の二人がファーストクラスに乗って下さったんです。それで普通席が2席空き、二人一緒にファーストトライで飛ぶことができました。最終便まで待っても乗れないかもしれないとの覚悟でいたので、これは、予想外の展開でした。神さま感謝します!と祈って搭乗しました。
皆さん、イエス・キリストが伝える救いは、私たちの予想外の恵みです。
今日の聖書を聞いて『おかしいな』と思いますよね。普通、賃金は朝一番から働いた人に「ご苦労さまでした」と言って支払い始めるものです。どうしてこの主人は夕方5時頃、最後にぶどう園に来た人から支払ったのでしょうか。早朝から働いた人が12節で言っている不平に、わたし達も同情しますね。アルバイトは時給、正社員は月給が支払われます。どれだけの時間働いたかによって賃金が決まります。セールスマンは販売成績によって給料が決まります。学校では、試験の点数で評価されます。偏差値と言う数字でその人の可能性が判断され、受験大学が決まります。人間の価値は何が出来るか能力で全てが決まる能力主義という大変な社会に私達はいます。
また、能力主義は人間に対して偏った見方だと批判していたにもかかわらず、その人の口から「わたしは、年を取って役に立たない、人に世話ばかり掛けるダメな人間です」と言う声を聞いたりします。老人になるとはダメな人間になる事なのでしょうか。点数が低いということだけで、ダメな人間なのでしょうか。実はこの箇所は、前の章の最後の節である30節にも「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」とあります。なぜ今日の話は19章30節と20章16節の「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」という、不思議な言葉でサンドウィッチされているのです。何故でしょうか。私は後にいると思っていたら先にいたり、先にいると思っていたら後にいたりする。キリストの救いの予想外な所に気付く為です。
ぶどう園の主人はキリストの事です。14節「わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。」キリストの皆さんに対する関心は、能力があるかどうかにあるのではありません。「わたしのぶどう園に来なさい」と言う主人の招きに従うかどうかにあるのです。朝の人は「よし、今日も頑張るぞ」と希望をもって主人の招きに従いました。しかし、夕方5時の人は違います。彼らは能力が無いと見られたのでしょうか。この夕方の5時とは希望の無さを表しています。5時から働いてどれだけの収入になるでしょうか。それなのに彼らは招きに従いました。その夕方5時の人に対して、主人は心から感激したのです。皆さん、キリストの関心は、私たちが招きに従う事です。
この例えを話されるに至ったきっかけは、19章13節以下で親たちがイエス様のところに子どもたちを連れて来た事でした。子どもとありますが、実は赤ん坊のことです。赤ん坊こそは従う人です。皆さん、今日私達も神様から招きを受けています。「あなたもわたしのぶどう園に行きなさい。」ただ、幼子の様にその招きに従う事が信仰です。
一般に「キリスト教は難しい」と言う人は、自分で難しくしているのです。「先生、幼子の様に成るのが難しいんです。」と言われた方がいました。その通りです。わたし達には成れません。このぶどう園の労働者のたとえは、キリストが招き続けて下さる愛を伝えています。キリストの愛が注がれる時、幼子が親に全てを任せるのと同じ様に私たちも変えられていくのです。
その事を頭に入れて、もう一度今日の聖書を読んで行くと、ぶどう園の主人は、今日も夜明けに出かけて行った、わたし達の所へ出かけて行った、と聞こえて来ます。「主人は一日につき1デナリオンの約束で」とあります。皆さん、これは日雇いであるということです。明日キリストは夜明けにまた出かけます。信仰は終身雇用ではなくて日雇いの様なものです。日々神様は招かれます。これはあなたの予想外の事ではないでしょうか。
予想外の恵みはキリストの十字架と復活において、神と人の関係が回復され、復活の命をいただくことにおいて頂点に達しました。神の独り子のいのちを人のために与えてもいい、というような愛の神が他にいるでしょうか。そんな神さまはこの神さまだけです。このようにしてイエス・キリストを通して予想外の恵みが示されました。『それを今日も受け取りなさい』これがあなたへのメッセージです。すると変わります。何が変わるのでしょうか。わたしたちは自分の周りが変わることを求めやすいです。しかし神様はあなた自身が変わる事を求めておられます。神様の愛があなたを新らしくします。あなたが今日ここに来たのは新らしくされるためです。大事なのはこの事です(2コリ5章17節)。
神様の視点で物事を見るようになって来ます。神様の目は、学校や会社や社会や国が見る目と違います。偉い人、善人、立派な人が見る目とも違います。神様はその様な目が見逃している所、その様な目が注がれない所こそ見られます。例えば弱い立場にある者、役に立たない落伍者と見られている者に目を注がれます。私たちの視点がその様に変わる時に、私たち自身も変わり新らしくされます。この視点が世界に広がって行くとき、世界は変わります。地上では順番が重視されますが、「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くのものが先になる」この法則は、神の国のしるしなのです。神の愛は予想外の恵みなのです。
2023.11.05
「天に通じる道」ヨハネによる福音書14章1~6節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
人生は、よく道に譬えられます。スタートがあり、ゴールがあります。私は引退されたマラソンランナーの高橋直子さんのことを素晴らしいランナーだったなあと思っています。彼女は約42.7キロの距離を走り抜きます。選手というのは、コースによって状況や、他の選手の事などいろいろと気になるものですね。しかし彼女はそれらに一切左右されず、迷わず自分のイメージどおりに走り抜きます。その姿は、まさにマラソンを楽しんでいる姿です。勝ち負けの事も、他の一切のことにも捕らわれないで、ただひたすら、ゴールを目指して自分のマラソンを走り抜きます。そんな彼女の姿は、見ている者にすがすがしさを与えます。彼女にははっきりとしたゴールが見えていたからです。
聖書は、人生にもはっきりとしたゴールがあるといいます。
皆さんは、はっきりとしたゴールをもっておられるでしょうか。私たちは、今、聖書を通してこのゴールがあることを聞くことができます。それは、「父の家に迎えられる」ということです。すなわち、天の父の住まい、天国の住まいに迎えられるのです。これは、全ての人に備えられている住まいです。父の家には住まいが沢山あるからです。これで、ゴールははっきりしました。
さて、問題はゴールまでの道のりです。
人生には二つの道があります。
聖書にコヘㇾトという人物の書物があります。彼は一本目の道を突き進みました。自分の人生がこうありたいと考える事全てを経験しました。良い事も悪い事も、全ての道の極意を歩み極めてみたのです。とてもうらやましいですよね。しかし、その結果はどうだったのでしょうか。「空の空。すべては空」でした。地上での事柄はすべて空しかったのです。
その経験を経て、彼は二本目の道を歩み出します。「神を恐れ神の命令を守る。」という道です。それは、人生の全てのところで神さまを認めて歩む生き方です。初めに高橋選手のことを紹介しましたが、彼女は自分のイメージした走りが自分を導いてくれると確信して走りました。神さまを認めて歩む人生も良く似ています。人生はマラソンのように山あり谷ありです。そこを進む中で、神さまが共におられることを覚えるのです。神さまが共におられますから、山にある時は高ぶらず、谷にある時も失望しないのです。神さまが自分の人生を導いていてくださるという確信があるからです。
でも、皆さんは思われるのではないでしょうか。自分の人生を神さまが導いておられるなんて、どうやって知ることができるのでしょうかと。教会には仏像やご神体のようなものは無いですよね。
それで、神さまはイエス・キリストという姿を取って来てくださったのです。私たちに見える姿を取って、私たちと同じ体をもって来てくださったのです。それが、約二千年前のクリスマスの出来事です。でも、折角来てくださったのに何故十字架の上で死んでしまったのでしょうか。それには二つの理由があります。聖書は私たちを罪人呼ばわりします。そこが、日本人の私たちには最も理解できないところです。しかし、聖書の言う罪というのは、神さまに背を向けて歩んでいる人生のことです。その人生は、神さまを最も悲しませる行為です。神さまは共に歩むために私たちを造ってくださったからです。その罪から救うためにキリストを身代わりにしてくださったのです。これが一つ目の理由です。
キリストは三日目に復活されました。死は私たちにとって最大の恐怖です。キリストの復活は死に勝利されたということです。復活は死で終わってしまう「空の空である」私たちの人生に、死は終わりではないという希望を与えるものです。これが二つ目の理由です。ですから、キリストの十字架は、神さまの愛そのものです。
そして、キリストは復活されましたから、今も生きて私たちを愛してくださっています。
そのキリストが言われます。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」キリストの十字架と復活を信じる者に、神さまはイエス・キリストを「天に通じる道」として、与えてくださいました。
キリストは真理・いのち
このキリストを信じて歩む人生は、全く新しい人生です。なぜなら、キリストが真理だからです。「真理」とは何でしょうか。「愛」と言い換えると良く分かると思います。高橋選手はただひたすら、ゴールを目指して走りました。その姿は、人々にすがすがしさを与えましたね。キリストはただひたすら私たちを愛して下さるのです。聖書には福音書というのがありますね。これは、ひたすら私たちを愛してくださるキリストを示しています。
皆さん、魚はどこで生きていますか。水の中ですね。生きた水、命の水の中にいなければ魚は生きる事はできません。それと同じように、私たちは神さまの愛の中に生きています。何故ならこの世界は神が創られたからです。天に通じる道となってくださったキリストは、神の愛に通じる道でもあります。このキリストを信じて生きる日々は、神の愛の中を生かされているという真理を知って歩む素晴らしい人生なのです。
先に天国に召された方がたは、キリストを信じて素晴らしい人生を走りぬかれた方々です。私たちは先輩方の信仰の足跡の後について行きましょう。まだ、キリストをご存じない方は、是非教会につながってくださって、キリストが通してくださった真理の道を、天に通じる道をご一緒に歩んでくださることを切望いたします。キリストを信じて召された方がたの切なる願いは、ご家族がこの道を歩んでくださることです。
ご遺族の皆さんも、キリストの道をわたしたちと一緒に歩み出しませんか。是非、神さまの愛に通じる道を歩んでいただきたいと願って止みません。
2023.10.29
「しっかりつながっていなさい」イザヤ書5章1~2節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
詩編80:8「あなたはぶどうの木をエジプトから移し、これを植えられました」とあります。エジプトで奴隷として苦しい生活をしていたイスラエルの人たちを、神さまはモーセによって救い出されました。このように神さまは「イスラエルの人たち」を「ぶどうの木」と言っています。また、イザヤ書5:1-2にも、ぶどう畑の歌があります。「わたしは歌おう、わたしの愛する者のために、そのぶどう畑の愛の歌を。わたしの愛する者は、肥沃な丘にぶどう畑を持っていた。よく耕して石をのぞき良いぶどうを植えた。」そして「良いぶどうが実るのを待った」。神さまは、畑を良く耕して、そこに、良いぶどうを植えられたんです。この「良いぶどう」も神さまが愛された「イスラエルの人たち」のことです。パレスチナのぶどうの木は直径が40センチにもなって、とても大きな実をつけるそうです。皆さん、ぶどうというのは昔から「神さまの祝福」をあらわすものであり、「命」を表す言葉なんです。神さまは、イスラエルの人たちが「祝福」を受けて、「神さまの命」を受け継ぐ者となってほしいと「良いぶどう」と呼ばれました。
さて、良いぶどうは、良い実をつけたでしょうか。イザヤ書の続きをみますと、「実ったのは酸っぱいぶどう」でした。甘い実をつけられなかったんですね。酸っぱいぶどうなんて、食べられませんね。ところで、聖書の言う酸っぱいぶどうって、何のことでしょうか。神さまは人に、嬉しい時にも悲しい時にも、苦しい時にも普通の時にも、自分につながり続けて欲しいんです。ところが、人は神さまから離れてしまった。申6章5-9節参照。心を尽くして神様を愛することよりも、自分の思い通りに生きたい。時には悪いこともしてみたい。そんな時に神様がいるとちょっと困る。この世界はそんな思いでいっぱいの世界です。それを毎日ニュースで見ますね。わたし達の心の中にもそんな思いがあります。そのことを「酸っぱいぶどう」と言っているんです。
次に、ヨハネ福音書に注目しましょう。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。今度は、イエス様が「ぶどうの木」だと言われます。神さまは、人が良い実を結べない、酸っぱい実を結んでしまう者だということに気がつかれました。人は木になれない。人には木が必要なんだ。それで、イエス様を送ってくださったのです。神さまは、人がいつも神さまとつながっていることができるように、イエス様を送ってくださったのです。そのことを4節で言っています。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたもわたしにつながっていなければ、実を結ぶことはできない」。
木と枝は元々離れているものでしょうか。つながっているものですね。今日の聖書の段落には、「つながって」という言葉が9回も、出てきます。また、「とどまる」という言葉も原文では同じ言葉が使われています。どうしてイエス様は「つながって」と何度も言われるのでしょうか。
一つは自分が枝だと思わない人がいるからです。枝だと考えている人は、木から一生懸命栄養をもらおうとしますね。しかし、枝だと気付いていないので木からの栄養が必要だと思わないのです。
二つ目は1節に書かれています。「わたしはまことのぶどうの木」。この木は「普通のぶどうの木」ではありません。「まことのぶどうの木」です。「まことのぶどうの木」につながらないで、「普通のぶどうの木」につながる人がいるからです。ですから、何度も「つながっていなさい」といわれるのです。確かに、普通の木も枝にいろんな栄養を与えることができます。頑張る力、親切にする心、正しさを追い求める心、イエス様につながっていなくても、立派な実を結ぶ人は沢山います。それなら、普通の木でもいいのでしょうか。そうではありません。それでは、どうして「まことのぶどうの木」につながるようにいわれるのでしょうか。「まことの木」は「普通の木」と違う栄養を与えるからです。人に命を与える栄養だからです。神さまにつながる栄養です。その栄養とは「み言葉」です。
この世の価値観は時代と共に変化します。しかし「み言葉」は変わることはありません。1ペテロ1:25、イザヤ40:8に「主の言葉は永遠に変わることがない。」とあります。
そして、イエス様は「み言葉」と言う栄養を与える働きを教会に委ねられました。ですから、イエス様にしっかりつながるとは、教会にしっかりつながることです。
神さまがこの世界を造られた最終目的は、「一人の羊飼いに導かれ、一つの群れになる」ことです。群れとは、一人で聖書を読んで自分で信仰するのではなく、教会に集まって共にみ言葉を聞き、恵みを分かち合い、共に祈り、共に賛美し、共に感謝を献げる。そのようにして信仰を養う群れです。また、群れの中で、共に励ましあい、祈りあい、仕えあうこと(奉仕ですね)、み言葉はそういう交わりを生み出すものです。この群れの中で神さまは「枝」に栄養を与えられるのです。一人でイエス様を信じている。それでは、その枝は栄養失調になってしまいます。だから「しっかりつながっていなさい」と言われるのです。
この栄養をもらう枝は、豊かな実を結びます。立派な実を結べとは言ってないですね。豊かな実です。イエス様の愛がいっぱい詰まった実です。イエス様の喜びがいっぱい詰まった実です。つまり、イエス様が愛と喜びを、あなたの結ぶ実の中にいっぱい詰めてくださるというんです。愛というのは十字架の愛ですね。喜びとは復活の喜びです。ですからあなたが努力して、苦労して、作る実ではないのです。ただ、イエス様にしっかりつながっていなさいと言われます。イエス様は気前がいいですよ。詰め放題に入れてくださいます。
わたしはもう年寄りだから大した実は結べません、という人がありますか。そう言える人は一人もいませんよ。実はこの「枝」という言葉、調べてみますと「若枝」となっています。神さまより長生きしている方、いらっしゃいますか。いませんね。神さまから御覧になると、つながっている枝は、みんな若枝なんです。
さて、もう一度、1節に注目して下さい。「わたしの父は農夫である」。これは、ぶどう園には農夫の神さまがおられるということです。実は、この農夫は、大きな剪定バサミを持っておられます。2節に、「豊かに実を結ぶように手入れをなさる」とありますね。神さまは、わたしたちの手入れまでしてくださいます。皆さんの家はお庭があるでしょうか。木が植わっているところでは、これから庭木を手入れするシ-ズンになります。大きな剪定バサミで、ぱちぱちと庭木が綺麗にされていくのを見かけると思います。剪定された後の庭木は、まるで見違えるように、芸術作品のように美しいものになります。大きな剪定バサミを(持った農夫を)見たときにはドキッとしましたけれども、これは、神さまの愛のハサミなんですね。神様は農夫となって、イエス様の愛を発見することを邪魔するものを取り除き、手入れしてくださいます。そして、いよいよ豊かな実を結ぶものにしてくださるのです。
2023.10.22
「開かれた門」ヨハネ黙示録3章7~8節
説教:鈴木龍生 師
2023.10.15
「見失った羊」ルカによる福音書15章1~7節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
百匹の羊を飼うなんてことは、私も、皆さんも経験のないことですし、話しを聞いたこともありません。しかし、イエスさまの時代はそれがどういう事なのか、誰もが知っていました。羊飼いは毎朝、羊の群れを連れて、広い広い野原をあちらことら歩き回り、夕方に帰って来ます。羊飼いの仕事は大体三つあります。
①朝、出発前にまず百匹いるか数えます。一匹一匹には名前があります。メーコ、大郎、花子、正夫、秋子、一郎・・・・・・。みんな揃ってるね、さあ出発だ・・・
②お腹が空く頃には美味しい草が生えている所に連れて行きます。喉が渇く頃には水の飲める所に連れて行きます。羊が草を食べたり水を飲んだりしている間も、羊飼いは羊が百匹いるか数えます。
③太陽が沈んで寒くなる前に帰ります。帰ったらまた、百匹いるか数えます。そして、寝
る前に一匹一匹の首を抱いておでことおでこをくっつけて羊の状態を確認します。「メーコ、今日は楽しかったね」「調子はどう?」「さあ、おやすみ」まるで家族みたいです。
さてある日、羊が一匹足りませんでした。メーコです。迷子になったんです。見つかる可能性は小さいです。名前を呼んでももう返事が返って来ません。首を抱いて顔をくっつけて、お話しも出来ません。一緒に朝まで寝ることも出来ません。あなたなら、どうしますか?。百匹もいるから一匹ぐらい、いなくなっても平気ですか。そうじゃないですね。もう一匹代わりにどこかで買ってきたら百匹になります。そんなことしませんね。他のどんな羊であってもメーコの代わりは出来ません。掛け替えのない存在だからです。羊飼いは九十九匹を残して、メーコを見つけるまで捜し続け、見つけて「見つかって良かった」と大喜びして、メーコを思い切り抱きしめ、担いで帰って来ました。羊飼いは友達や近所の人を呼び集めて、「見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください」と言う程に、その喜びは大きかった。
羊はその様子を見て思いました。本当は羊飼いが見失ったのではなくて、わたしが迷子になったのに、『見失ったんだ』と言って羊飼いは一切の責任を負い、その代わりに私を喜んで抱きしめてくれる。羊の心がだんだん熱くなりました。羊飼いの愛に気付いたからです。迷子になるとか、ならないとかに関係なく、羊飼いの一番の願いは羊が自分の愛に気付くことでした。
さて、皆さん、どうしてイエスさまは、こんな話しをされるのでしょうか。・・・イエスさまには皆さんにも気付いて欲しいことがあります。皆さん一人ひとりも神さまにとってイエスさまにとって、かけがえのない、大切な一人ひとりである、ということを。7節に「悔い改める」というチョト難しい言葉がありますね。悔い改めるは、愛に気付く、と言い換えても良いです。神とイエスさまが一番願っておられる事は、皆さんが「こんな自分でも神に愛されているんだ」、と気付くことです。
十字架に向かわれらイエスさまは、たとえ、苦しみを受けても、命をささげる事になっても、皆さんの正しさとか真面目さとか、そんな条件は一切関係なく、皆さん一人ひとりが大切な、掛け替えのない一人ひとりであるとされる、神の愛のしるしです。嬉しいですね。
死人の中から復活したイエスさまは、皆さん一人ひとりに対する愛だけではなくて、希望がある、たとえ死んでも希望があるしるしです。嬉しいですね。
5節を見て下さい。「見つけたら、喜んでその羊を担いで」とあります。次の「無くした銀貨のたとえ」では9節に「見つけたら」とあります。そこには書いてないのですが、きっと見つけた銀貨をしっかりと手の中に握ったことでしょう。次の「放蕩息子のたとえ」では、20節を読んで行くと、「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」とあります。
「担いだ」「握った」「抱いた」この三つは、私達にも必要なんです。イエス・キリストに担いでいただきましょう、叱り握って頂きましょう、抱きしめていただきましょう。
これは本当に嬉しいことなんです。裸の自分を愛してもらう程に嬉しいことはないのです。色々なものでカバーしている、罪深い自分を、しかし、それが本当の自分。それを愛して下さる、家族の様に受け止めて下さる、これが大きな喜びです。ですから、クリスチャンは、父よ、と祈り、神の子と呼ばれのを喜びます。
掛替えの無さとは、この喜びから来ています。この喜びには人を造り変える力があります。人を悔い改めへと導きます。この喜びがクリスチャンを聖化して行くのです。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、この喜びを忘れていたのです。
人間に生きる権利、人権があるから、人は掛替えが無いのでしょうか。十字架のキリストは生きる権利が無いとされる死刑囚の一人に成られてそのことも問われたのです。そして、人が死刑囚と言うレッテルを貼ったキリストを神は復活させて、その問いに答えられたのです。人は人権と言う様なヒューマニズムの故に掛替えの無い一人なのではない、神の独り子の命を献げる神の愛のゆえに、羊飼いが羊を担ぎ、失った銀貨一枚を握りしめる様に、父が子を抱きしめる様なその深い深い愛の絆の故に、人は掛替えの無い一人一人なのです。
イエス・キリストの十字架と復活はその確かさです。7節、このイエス・キリストによって失われた人間の一人にこの確かさが伝わる時に、大きな喜びが天にあるのです。この様に天に大きな喜びがあると記されているのは、聖書に於て、ここしかないと思います。どうして、一人のために喜ばれるのでしょうか。あなたも、そしてあなたの隣人も、神にとって確かに掛替えの無い一人だ、と言うことです。
2023.10.08
「招きに応えて」ルカによる福音書5章27~32節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
主の言葉の内にある偉大な神の力
27節、今朝は徴税人のレビに目を留められます。直ぐに声をかけられたように聖書にはありますが、声を掛けられるまでに暫くの時間があったのではないでしょうか。イエス様はレビの生い立ち、子ども時代、青年時代、そして今に至るまでの彼の生涯に目を留めておられたのです。
レビは徴税人です。税金を取り立てる仕事です。30節で「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」とファリサイ派や律法学者たちがイエス様の弟子たちを非難しています。
つまり、徴税人はユダヤ社会の中では正しい市民として受け入れられていない人々でした。現代の税務署の職員とは違って、ここの徴税人とはユダヤ社会を支配しているローマ帝国から仕事をもらうという立場にありました。ですから、同胞からは敵に媚を売って生きているというように見られたのです。そんな仕事ですから決して自分で望んだ仕事ではなかったでしょう。彼らにはこのような仕事に就く他はない事情があったのです。イエスさまは、そんなレビの人生を心に留めて言われました。「わたしに従いなさい」と。
彼はイエス様の言葉に立ち上がります。この「立ち上がる」という言葉は、前の記事で中風の人が癒されたときに、その人がみんなの前で立ち上がった、とあるのと同じ言葉です。このギリシャ語には、他に「復活させる」という意味があります。
レビは立ち上がり従います。ユダヤ人の生活の規範となっている律法の下では、彼はまともな人間として扱われず、社会の隅っこに追いやられており、人として死んでいたような状態でした。しかし、イエス様に出会って生き返り、イエス様に従ったのです。
方向転換をしたレビ
彼は何もかも捨ててイエス様に従いました。彼は何を捨てたのでしょうか。自分の過去を全て捨ててイエスさまに従ったのです。29節以下は彼の変身振りを示しています。自分の家でイエスさまのために盛大な宴会を催します。彼が誰かの為に宴会を開くなんて初めてのことです。彼は社会の隅っこに追いやられていましたから、必ずしも人として正しい生活をしていなかったかもしれません。それどころか、やけっぱちの人生だったかも知れません。
ルカの福音書にはザアカイの話(19章)があります。そこではザアカイのことを「徴税人の頭、罪人」と言っています。ザアカイも周囲から冷たい目で見られていたのです。それでその憂さ晴らしに大酒を飲み、贅沢三昧をしていました。レビも彼と同じだったのではないでしょうか。レビはその過去を全部捨てたのです。そして、今はイエスさまのために盛大な宴会を開いています。自分を受け止め受け入れてくださったイエス様は、彼にはかけがえのない存在となりました。ㇾビは喜びのあまり大通りに出てこう叫んだのではないでしょうか。
「みんな、私は生まれ変ったぞ。イエスさまはこんな私を弟子にしてくれたんだ。神の子どもと呼んでくれたんだ。私なんか神の子にしてもらえるはずはないのに。あなたは生まれ変わったのだから神の子ですと言ってくださった。だから、俺は大酒を飲んだり、やけになったり、人を困らせるようなことはもうしない。これからは誰かのために自分のできることをするよ。俺は生まれ変わったんだ。さあ、皆もイエスさまのところに来て生まれ変わっておくれよ。おいしいぶどう酒とご馳走で一緒にお祝いしよう!」こう言って、招いたのではないでしょうか。 レビの生き方はすっかり変えられました。彼はイエス様によって過去をすべて捨てて、招きに応えたのです。彼に起こった大きな変化は何でしょうか。「ただ憐れみによって弟子にしてくださった」という感謝の思いが与えられたことです。
このレビとは誰のことでしょうか。私たちの事です。
長くクリスチャンをしていると、知らず知らずの間にクリスチャンにしていただいたことが当たり前になり、初めから自分はこんな自分だったと、感謝を忘れてしまうことがあります。
イエス様は「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」と言われました。
そうです。私たちも以前は、神なんか要らない、イエス様なんてどうでもいいと言って、神さまに背を向けて、暗闇の中を歩んでいたのです。暗闇を歩いていることにすら気づいていなかった。それが、今は神の子、光の子とされています。本当に不思議ですね。ですから、わたしたちは「こんなわたしをイエスさまは招いてくださり、神の子にしてくださった。」この感謝の思いを忘れてはなりませんね。
エフェソの手紙5章8節「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は、主に結ばれて光となっています。光の子どもとして歩みなさい」とあります。医者であるイエスさまがいてくださること、毎日を光の子として歩めることを感謝したいですね。ㇾビのように光の子として招かれていることに応えて行きたいですね。
まだ光の子となっておられない方は、是非、主の招きに応えて、光の子としてスタートしてください。
最後にもう一つのことをお話します。イエス様は招いた者を「悔い改めさせるために来た」と言っています。マタイ9章とマルコ2章にも同じ記事がありますが、この言葉は、ルカだけがここに付け加えています。「悔い改める」という言葉は、「後で」という言葉と「考えを変える」という二つの言葉がつながってできている言葉です。
つまり、心からイエスさまの招きに従おうとする者は、その後に必ず考えを変えるという事が起こってくるのです。生活の方向転換が起こるのです。生き方が変わるということが起こるのです。それが、従うということです。そのためにイエスさまはわたしたちを招かれたのです。生き方の方向転換は、自分でするのではありません。自分ですると高慢になります。そうではなく、神さまにしていただくのです。つまり、自分を神さまに造り変えていただくのです。
2コリント3:18「私たちはみな、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造り変えられて行きます。これは主の働きによることです」とあります。説教を聞く、聖書を読むというのはこのためです。また、「わたしの間違っているところ、変えるべきところを今日も教えてください。そこを改めます」と主の前に祈り求めて行きましょう。
そして、この悔い改めるという言葉は現在形です。つまり、ギリシャ語では現在形は現在進行形です。ですから、悔い改めは日々行うことです。
内なる人を日々新たにしていただきましょう。わたしたちが造り変えられていくならば、そこには必ず福音が前進していきます。そこにこそ、神さまの栄光が表されていくからです。
説教要旨
イエス様は徴税人レビに目を留められます。彼の孤独でみじめな人生を深く憐れまれるのです。主の愛の深さは、言葉に偉大な力を発揮させます。「わたしに従いなさい」この主の言葉に過去の自分を捨てて従ったレビ。深く愛してくださる主との出会いは、それまで経験したことのない喜びの瞬間となりました。過去のつらい経験は全て拭い去られました。主の言葉は彼を立ち上がらせ、悔い改めに導かれます。暗闇の子から光の子へと。彼は感謝に溢れて人々を愛し、多くの人々に主の愛を伝える人に変えられたのです。今朝、主は言われます。「あなたはレビだ、私の招きに応えよ」と。
2023.10.01
「福音の始め」マルコによる福音書1章1~13節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
本には題が付けられますね。題というのは、本の内容を一言で表すものです。
1節に「神の子イエス・キリストの福音の初め。」とありますのは、実は、この福音書の表題なんです。この表題には二つの意味があります。一つは「イエス・キリストが神の子だ」ということ。11節の「あなたは私の愛する子、わたしの心に適う者」という天からの声がそのことを伝えています。二つ目は「マルコ福音書が伝える全ての内容が『福音の初め』だ」ということです。
原語の聖書では、「初め」という言葉で書き始められています。「初め」と聞きますと、皆さんは聖書の別の言葉も思い出されると思います。
「初めに、言があった。」「初めに、神は天地を創造された」ヨハネ福音書と創世記の1章1節のみ言葉ですね。この二つは、歴史の始まる以前から神さま、すなわちイエス・キリストがおられたこと、世界の歴史がこの方によって始められたことを伝えるものです。
マルコは「福音の初め」と、福音という言葉を付けます。「福音」とは何ですか。「悪い知らせ」を福音とは言いません。「良い知らせ」「喜ばしい知らせ」です。「知らせ」というのは、実際に起こったことについて語るものです。そして、「良い・喜ばしい知らせ」というのは、その出来事がその人に途方もない程の、大きな変化をもたらす知らせです。これが福音です。使徒パウロはこの福音のことを、ローマ1:16で「わたしは福音を恥じとしない。福音はユダヤ人をはじめ、ギリシャ人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです」と言っています。このように福音は「救いをもたら」します。この神さまの救いは、信じる者に途方もない程の、大きな良い変化をもたらすのです。この福音を実現してくださったのが、イエス・キリストです。
そして、イザヤ書61章はキリストの実現してくださった福音がどういうものかを次のように言います。「打ち砕かれた心を包み、捕われ人には自由を、つながれている人には解放を告知させる。」これがキリストの実現してくださった福音だと言います。
「捕われ人、つながれている人」とは誰でしょうか。私のことであり、皆さんのことです。「えっ、私のことですか」と思われるかもしれません。しかし、聖書は「福音はすべての人のためのものだ」と言います。ですから、捕われ人、つながれている人とは私のことであり、皆さんのことなのです。
いったい何に捕われ、つながれているのでしょうか。
マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書は、イエスさまが宣教活動に入られる前に、荒れ野での誘惑を受けられたことを伝えています。イエス・キリストは神の子です。神の子であるイエスさまが、受ける誘惑、それは何でしょうか。先ほど紹介しましたパウロの言葉に「福音には、神の義が啓示されています」と続けられています。イエスさまが荒れ野で受けられた誘惑とは、神さまの正義に対して受けられる誘惑です。何があっても信頼できる、永遠に変わらない約束である神さまの正義・まこと・慈しみ、それを捨てて、悪の支配、悪の力に従えと誘惑されたのです。そうすれば、お前は十字架に架けられなくて済む、と誘惑されたのです。それは、神さまの義しい支配に身を任せるのではなく、悪の支配に身を任せよ、というものです。つまり、神の恵みを必要としないようにさせようとする誘惑です。それが、イザヤ書のいう、私や皆さんを捕えるもの、つなぐものです。イエスさまは、まず最初に、私や皆さんを捕えるものに立ち向かってくださったのです。
しかし、現代社会は矛盾に満ちています。定規を置いて、まっすぐに線を引けば、こちらは神の正義で、こちらは悪の支配と簡単に判断できない、そんな中に私たちは生きています。私たちが良く祈って、神さまの判断の方を選んだと思ったのに、振り返ればそうではなかったということもあります。マルコ福音書は他の福音書のように、イエスさまが誘惑とどのようにして戦われたのかを伝えません。それよりも、ただ、誘惑を受けられる間、野獣と一緒におられたとあります。野獣とは動物のことです。この地上の生き物です。そして、それと同時に天使たちが仕えていたのです。天使は天国の存在です。地上と天国が、イエス様によってつながっているのです。誘惑が続きながら、そこに野獣と天使が共にいるのです。これは、矛盾の現実の中で、イエスさまがそこで戦っておられるということです。私たちは難しい時代の中を生きています。生きていかなければなりません。北朝鮮の核拉致問題、イランとアメリカの対立、イスラエル情勢、ウクライナ戦争、アフリカ諸国の紛争などなど。世界は対話と寄り添うことがより一層必要な時代であるにも関わらず、自国中心の歩みを強行しています。キリストは、矛盾の多い世界であっても、地上と天国がつながって行くように、今も戦っていてくださいます。私たちも、諦めてはなりません。次の世代に平和を残せるように、私たちも日々祈り努力しなければなりません。
イザヤ書は、主の恵みを求める人のことを貧しい人と言います。この世のもので満足している人は主の恵みを求めないからです。主の恵みを求める人に神さまはどう応えてくださるでしょうか。「灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせる。」と約束されます。イスラエルでは悲しい事が起こると灰を被る習慣がありました。イザヤ書の約束は、嘆きや暗い心が、喜びと賛美に代えられるという約束です。
そしてイザヤは「彼らは主が輝きを現すために植えられた、正義の樫の木と呼ばれる」といいます。神さまの栄光を現すものとされるというのです。どんなに貧弱に見える木に見えても、「あなたは私が植えた木だ」と宣言してくださるのです。これはなんと幸いなことではないでしょうか。
このことは、イエスさまを信じる信仰によって確かに実現されます。
パウロも言っています「それは、初めから終りまで信仰を通して実現されるのです。「正しい者は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです」と。
ユダヤの全地方とエルサレムの全ての人々が、洗礼者ヨハネの所に来て、悔い改めの洗礼を受けます。それ程に彼の預言者としての評判は良かったのです。しかし、そのヨハネが、イエスさまのことを「自分はイエスさまの履物の紐を解く値打ちもないものだ」といいます。8節でヨハネが「わたしは水で洗礼を授けたが、イエスさまは聖霊で洗礼をお授けになる」と言います。この洗礼という言葉が、ヨハネの洗礼は過去形で書かれ、イエスさまの洗礼は未来形で書かれています。これは、イエスさまこそ、まことの救いをお与えになる方だということです。イエスさまこそ、「救いをもたらす神の力」なのです、とヨハネも宣言しているのです。イエスさまこそ、福音そのものなんです。
初めに、この福音書全体が「福音の初めです」と言いました。マルコ福音書は16章まであります。ちょっと16章を開けてみましょう(p97)。「結び」と太字で書かれていますが、この結び以下は、後になって加えられたと考えられる部分です。ということは、6節に、キリストの復活を告げる若者は出てきますが、「復活のキリスト」が出てきません。そして、それを聞いた婦人たちは8節で、恐ろしさのあまり、誰にも何も言わなかったとあります。キリストの復活は、彼女たちにとって思いも及ばないことであり、信じられない程の、途方もない出来事だったのです。私たちはあまりに驚いた時に、「腰を抜かす」という言い方をします。しかし、キリストの復活は、そんなものではないのです。表現できない程に、途方もない信じられない出来事だったのです。神さまの救いとは、私たちの知識や知恵で認識できるものではないのです。
マルコ福音書は、こんな途方もない、信じがたいこと、しかし、確かにそのことが実現しました。確かに「神さまの福音」がキリストによってもたらされた、これが、福音の初めですと、1章1節で宣言いたします。
皆さんの中で、神さまの救いが「大いなる知らせ、大きな喜びをもたらすもの」と成っていますでしょうか。マルコ福音書を書いた人たちも、直ぐにそのことを認識できませんでした。しかし、後に復活のキリストを書きしるし、このキリストを宣べ伝えました。私たちも、キリストが大いなる喜びをもたらしてくださる方であることを信じて、秋の伝道の時、共に進んで行きましょう。この福音を一人でも多くの人々に証しして行きましょう。
2023.09.24
「飼い葉桶に眠る王」ルカによる福音書2章1~7節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
天地の初めから人と寄り添って来られた神の業の完成者イエス
自分が愛されている、このことを知った時、人は幸せになります。わたしは外出中に出会う、見知らぬ初対面の赤ん坊に最高の笑顔を見せることにしています。最高の笑顔とは、赤ん坊が『自分は愛されているんだ』と分かる様な笑顔の事です。そしたら必ず笑顔が帰って来ます。『幸せを感じとるんやなー』と自己満足しています。しかし、以前赤ん坊だった皆さんに対しては、同じようなわけにはいきませんね。皆さんは、赤ん坊の時から無数の色々なもので覆い続けて、大きく成って今に至っていますから、『せんせい、どうしたんですか。大丈夫ですか』なんて言われるでしょう。しかし、皆さん私たちのその覆いの一番奥、一番芯のところは赤ん坊なんです。
老いるとは覆って来たものがはがれて行く事と言えましょう。例えば体力が一枚はがれたり、記憶力が一枚はがれたり、と言う様にはがれて行く事にたとえられますね。私たちも全員赤ん坊でした。今違うのは、その上を色々なもので覆っている、と言うことです。イエスさまが言われましたね。「誰でも、幼な子の様にならなければ、新たに生まれなければ、神の国(神の愛と言ってもいいでしょう)を見ることはできない」。神は私たちの覆いを通り越して、私たちの一番奥、一番芯に、最高の笑顔を、愛を届け、『ああ、自分は愛されているんだ』と言うことに気付かせて、私たちを幸せにする働きをなさるお方です。
聖書は伝えています。この神の愛は教理や思想ではなく具体的な態度で示された愛です。今年の五月から旧約聖書を通してその愛を語ってまいりました。先週からは新約聖書に入りました。今から約2000年前に神はイエスの誕生において、それまでとは比べられない程に徹底的な態度でご自分の私たちに対する愛を示されました。
先週をお話ししましたが、キリスト教の神は外国の神ではありません。外国から伝わった全ての人の神です。神は天国や極楽で眺めているのではなくて、人と寄り添い続けると言う具体的な態度でご自分の愛を示して来られました。ですから、神は漠然と人を愛するのではなくて、具体的に独りの人を選ばれました。それが日本人でも韓国人でも中国人でもないユダヤ人でした。しかし折角選ばれたのに、彼らは神に背を向けて離れて行きました。しかし、神は彼らに寄り添い続けられました。
例えば、神は彼らにとっては王でした。しかし、彼らが他の国の様に王を立てて欲しいと願った時がありました。それは王である神を退けることです。預言者サムエルは彼らを叱ります。しかし、神は御自分の怒りを抑えて、彼らの願いを聞き入れ、彼らと寄り添う道を選ばれました。しかし、歴代の王はだんだん神に背を向け神から離れて行きました。
また、神はユダヤ人を選んだ時に、神との人の関係をいつも良好にして、神が人と寄り添い続けられる様にするために、神と人の間に立つ役目をする祭司を立てました。初代の祭司はアロンでした。しかし、彼の子孫は結局その役目を果たせませんでした。
その時の神の様子を預言者ホセアは書き記しました。神は「ああ、お前を見捨てることが出来ようか。お前を引き渡すことが出来ようか」と叫ばれ、心動かされ、憐れみに胸が焼かれました。しかし、神に背を向ける彼らに対して神は遠くで見守るしかありませんでした。国も王も滅ぼされて行きました。そして、神の沈黙が続きました。神はどうされたのでしょうか。時至って夫ヨセフと妻マリアの長男として、神の子イエスが誕生し、神は寄り添い続けておられた事を明らかにされました。
ヨセフは王の家系子孫。マリアは祭司の家系と親戚関係。ここには、神に背を向けた王の歴史と、役目を果たせなかった祭司の歴史を、神が切り捨てたのではなくて、神の人と寄り添い続ける歴史が途切れず続いている事を表わしています。神は本当の王として、本当の祭司として、イエスを遣わし、その愛を究極的な態度で示されました。
この世界の支配者としてのイエス
先週お話ししました、イエスの誕生場所を尋ねにエルサレムにやって来た占星術の学者は、今から約2000年前の当時において、最先端の科学者の様な立場でしたので、各国の王は彼らに星の観測を依頼しました。諸国の支配関係の動向が星の異常によって分かると信じていたからです。現代の天文学者によって、イエスが誕生する頃に土星と金星、木星と金星の大接近が起こった事が分かっています。きっと当時の占星術の学者たちもそれを観察していたでしょう。それをどう解釈するかは学者たちに委ねられていた。多くの学者はローマ帝国皇帝アウグストォスの星だと予測しました。そして、当時の諸国の王もそう考えていました。実際に初代皇帝アウグストォスによって、ローマ帝国はアフリカ、中東、ヨーロッパを支配する大帝国が始まりました。しかし、その星はユダヤ人の王の星だと予測して、黄金乳香没薬を持ってエルサレムに向かった学者たちがいました。もし当時、占星術学者組合なるものがあれば、彼らの事は組合員の誰からも注目されなかったでしょうね。
ここで皆さんに注目して頂きたいのは、ローマ皇帝アウグストォスが世界の支配者として歩み出した、ちょうどその頃に、まるで世界の支配者はどちらであるかを比較させる様なかたちで、神がイエスをユダヤ人の王として誕生させられた、と言うことです。それは、ユダヤ人と深く具体的に関わって来られた神が、実はこの世界の始めから終わりまでを支配するお方である事を、公に明らかにする出来事でありました。
さて、皆さん、この二人の支配者は非常に対照的立場ですね。皇帝アウグストゥスは最強最大です。それに対して皇帝の勅令ゆえに、ベツレヘムで誰からも手を差し伸べてもらえない中で生まれて、布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされましたイエスは、最弱で最小です。神は御自分よりも大切な愛する独り子イエスに、最弱で最小の人間として、最後はその日同じく十字架に磔にされた強盗からも罵られ、この私たちの生きる場で生き抜かせられました。全ての人と寄り添うためです。その為にイエスは全ての人の罪を一身に引き受けて「わが神わが神どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれました。全く神に見捨てられると言う完全な滅びという罰を受けて、息を引き取られました。この十字架の死に神の愛が究極の形で現されました。
このイエス・キリストによって私は今日も宣言します。みなさん、今、そのままの皆さんは、神に愛されています。皆さんは色々な覆いで覆っておられます。しかし、神はその内容は今はどうでもいい、そのお覆いを越えて、私はあなたの一番奥、あなたの芯、あなたの本質、あなたの存在、何と言いましょうか、あなたの深く深くに、十字架で死んだイエス・キリストを通して、愛を届けられます。お祈りしましょう。
2023.09.17
「ユダヤ人の王イエス」マタイによる福音書2章1~12節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
2節「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来ました」。
「ユダヤ人の王」のユダヤ人とはアブラハムの子孫のことです。教会が伝えている神は祀られたり、安置して拝まれたりする神仏ではありません。人と寄り添う神です。それも具体的に寄り添われる神です。それで神は具体的にアブラハムというひとりの人を選びました。皆さん、教会が伝えている神は外国の神ではありません。神は誰か一人を選ばなくてはなりませんでした。それが日本人でも韓国人でも中国人でもなかった、と言うことです。神はすべての人の神です。神は具体的にアブラハムの子孫からユダヤ人という民族を生み出し、ユダヤ人の国を築かせ、彼らを通して全ての国民を祝福するという、壮大な救いの計画をお立てになりました。
神がユダヤ人に国を築くための土地を与えられた時に、彼らが一つの事を願い出ました。「周りの国と同じ様に、自分たちにも王を立てて欲しい」。その頃、神の預言者として立てられ、彼らに指導的な働きをしていたサムエルが最初にそれを聞いて、それは悪だと判断しました。サムエルは神にその件を相談しました。神は答えられました『彼らが周りの国と同じ様に、自分たちにも王を立てて欲しいと願うのは、彼らの上にわたしが王として君臨することを拒否しているからだ』。
つまり、皆さん!ユダヤ人の王とは神ご自身のことなのです。しかし、神はユダヤ人に寄り添いその願いを聞くことにし、初代サウル王、二代目ダビデ王を直接選ばれました。しかし、サムエルは気がかりでした。それで彼は全ユダヤ人に対する告別の言葉の最後を次のように締めくくりました。「主を畏れ、心を尽くし、まことをもって主に仕えなさい。・・・悪を重ねるなら、主はあなたたちもあなたたちの王も滅ぼし去られるであろう」。
ところがサウル王もダビデ王も悪に負けて神に背を向けてしまいました。彼の子どもたちは王位継承の争いを始めました。次の王位に就いたソロモンの子どもたちも互いに争い国を北と南に分裂させました。そしてその後の王たちも神に背を向け、それぞれの道を進みました。結果サムエルが最後に言い残した様に、ユダヤ人の国も王も滅ぼし去られました。そして、アッシリア、バビロニア、ペルシャ、ローマと、巨大帝国に占領され続けました。しかし、神は人と、すなわち罪人と寄り添い続けられます。
占星術の学者たちが知らせた、ユダヤ人の王の誕生、すなわちイエス・キリストの誕生は、神ご自身がとうとう人となってお生まれになった、究極の寄り添う形を取られた、神の救いの計画が再開した、と言うグッドニュースでした。しかし、それを聞いたヘロデもエルサレムの人々も不安を抱きました。それには理由がありました。
ヘロデの場合、遠い遠い東の国から、それも占星術の学者が、現代で言うなら最先端の研究をする学者たちがやって来て、わざわざ皇帝からユダヤ人の王に任命されていたヘロデの所に尋ねに来たのですから、驚きました。
『ユダヤ人の王はこのヘロデだ。しかし、遠方からわざわざ偉い学者が新しい王の誕生とその証拠となる星も発見した、と言っている。わしもユダヤ人の王になるのだからユダヤ人に関する知識を蓄えている。うわさにはきいていたがまさかメシアが生まれているとは。メシアであろうが何であろうが、わしの地位を狙うものは生かしては置けない』。ヘロデの不安は自分の地位を失う不安でした。調査させると、メシアはベツレヘムに生まれることが分かりました。
ヘロデは不安な自分を隠すため密かに学者たちを呼びました。「ユダヤ人の王はベツレヘムに生まれる。ところで、その星はいつ頃から現れたのか?」「ヘロデ王様、それは二年程前でございました」と答えが返って来ました。それを聞いてヘロデはホッとしたのではないでしょうか。『なんだ、まだ赤ん坊じゃないか。それなら殺せばいい』。ヘロデは学者たちに言いました。「行って、その子の事を詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ、わしも行って拝もう」。神は夢で学者たちにヘロデの所へ戻らないよう指示し、イエス家族にはエジプトへ避難するよう指示しました。それを知らないヘロデは自分の地位を失う不安を解消する為に、ベツレヘム周辺の二歳以下の男子を一人残らず殺させました。
さて、エルサレムのユダヤ人も不安を抱きました。彼らの不安は何だったのでしょうか。ヘロデの不安とは違います。彼らは神の救いの計画を受けて来たユダヤ人の子孫でしたが、もはや神に対する期待はなく、神の事は横に置いて今のローマ帝国の支配の中で生きる事にだけ目を注いでいました。ですから、彼らも驚きました。『もしこの学者たちの言うことが本当なら、神の事を横に置いて生活している私たちはどうなるのだろうか?』 神と自分たちとの関係が非常に悪い、それゆえの不安を彼らは抱きました。
約30年後、エルサレムのゴルゴダの丘でイエスは十字架に磔にされました。そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしりました。彼らは見物に来たエルサレムの住民だったと思います。また、エルサレムにいた祭司長たちと律法学者たちと長老たちも、イエスを侮辱してののしりました。イエスはそれまで彼等に対して、その信仰や神との関りや生き方を問い続けて来ましたから、彼らにとって目の上のたん瘤、邪魔な存在でした。彼らはイエスを十字架に磔にすることを願いました。そしてイエスが十字架の上で弱く小さくなったのを見て、今まで口に出して来なかったののしりの言葉をイエスにあびせました。彼らを救うために神は愛する独り子イエスを、ユダヤ人の王としてお遣わしになったのに、取り返しのつかない事を彼らはしてしまいました。
聖書は伝えています。神は徹底的に人と寄り添おうとされる、しかし、人は背を向け続ける。皆さん、ヘロデとエルサレムの人々が行った事は他人事ではありません。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか?」聖書は今の私たちにも問い掛けます。私たちも含めて人と神との関係は、これ程に最悪の状態なのです。しかし私たちは不安を抱く必要はありません。
イエスには十字架に付ける罪は見当たらない、それが裁判長のポンテオピラトの結論でした。しかし、この最悪の状態に対する神の怒りと裁きの全てをイエスは背負って十字架という極刑を受けられました。それは単なる極刑ではなくて、神に完全に見捨てられるという永遠の滅びでした。神はイエスが苦しんで死に墓に葬られるまで沈黙しておられましたが、三日目にそのイエスを死人の中から甦らせて、再び人間にイエスを遣わされました。不安の中にあった弟子たちにイエスは「平安あれ」と言って、神と人の関係回復の道、和解の道が一本通された事を告げられました。皆さんに対しても神はイエスを通して宣言なさいます。平安あれ! 神との和解から真の平安が生まれます。
今は天にある神の右の座、世界の審判者の座、最高の座からイエスは、神との和解の道を進むクリスチャン一人ひとりを導いておられます。だから信者の皆さん、希望を持って進みましょう。今日、イエスが通された神との和解の道に、私も立とう、そして私も皆さんと一緒にその道を進んでみたい、そう思われる方はいますか。共に進んでまいりましょう。
2023.09.10
「憐みに胸を焼く神」ホセア書11章
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
今から約2000年前に、私たちを救うために、神がイエスを遣わされました。先週はそのイエスの十字架と復活によって、『神の究極の愛と希望』という土台の上に、私たちの人生が既に乗っかっている、と聞きました。『確りした土台は私たちの努力や熱心な信仰によって築くものであって、私なんかはまだまだ・・・』なんて思いがちな私たちにとって予想外のグッドニュースでした。確りした土台の上に今のわたしがある、これに気付くと人生観や価値観や生き方が変わります(コリント第一3章10節以下参照)。この気付きと、この変化をひっくるめてが、神の人間に対する救いの計画です。
さて、この救いの計画はイエスにおいて突然起こったことではありませんでした。神はそれ以前の大昔から私たち人間と関わり、その救いの計画を進め続けて来られました。その救いの歴史の流れを知る時に、私たちが受けている救いがどんなに高価なものであるかに気付かされます。このことを念頭において、創世記から本日のホセア書まで19回説教してまいりました。
皆さん、聖書が伝えている神は決心する神です。第一の書創世記は、その11章までで、人間のゆえに心を痛める神の姿を伝えています。神は人間を造ったことを後悔し洪水を起こして滅ぼそうとされましたが、途中で中止され、決心して言われました。「わたしは、このたびしたように、生き物をことごとく打つことは二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」(8章21節)。その後、洪水から生き延びた僅かな人間や動物を祝福されました。そしてそれを見守りながら、神は新たな決心をされていました。『この増えて行く人間の中から具体的に関わる一人を選び、その一人から一つの民族を生み、その者たちと共に歩み、もっと具体的に人間と関わり何が起こっても永久に関わり続けて行くんだ』、という一大決心でした。
さて、今日読んでいただきましたホセア書は大変な時代に書かれた書です。神が一大決心によって生んだ神の民イスラエルが今や滅ぼされる、という時代にホセアは預言者として立てられました。神は滅ぼされようとしている彼らへの言葉をホセアに託しました。その内容は神が彼らを神の民とされた思い出から始まりました。
神はアブラハムというひとりの人間を選び、その子孫を祝福し、順調に民族を形成させ、神の民イスラエルとされたのではありませんでした。神は彼の子孫をエジプトへ連れて行き、そこでその子孫を祝福し人口を増やされました。その結果、エジプトは彼らの勢いを恐れ、彼らを奴隷にして苦しめました。神はあえてそうさせました。そして、その苦しみの中から救い出してから、彼らを神の民イスラエルとなさいました。
1節、まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した。3節、ここでエフライムという名が出てくるので説明します。神の民イスラエルは北と南に国が分裂しました。北王国を別名エフライムと呼びました。預言者ホセアはその北王国が滅ぼされそうになる時に神から遣わされました。「エフライムの腕を支え、歩くことを教えたのは、わたしだ」。4節「わたしは人間の綱、愛のきずなで彼らを導き、彼らの顎から軛を取り去り、身をかがめて食べさせた」。幼かった、歩くことを教えた、愛のきづなで導き、彼らを悩ます軛を取り去り、身をかがめて食べさせた、これらの言葉からも分かる様に、神は親が子を育てる様にイスラエルを育て養って来られた事を思い出されます。しかし、彼らはこの神の愛を無視し、背を向けて2節、去って行き、他のものを神とし、3節、彼らは神の愛に気付きませんでした。
結果5節、彼らは以前奴隷だったエジプトへ助けを求めましたが、アッシリアという大国が彼らを支配し、6節、剣に悩まされます。7節、神に背を向けたままでは天からの助けを起こそうと思っても起こせません。8節、天から彼らを見守っておられた神が、恥も外聞も無く、ご自分の心の呻きを大胆に吐き出されました。前代未聞です。
8節のアドマの様にツボイムの様にとは、どういう意味でしょうか。昔神が彼らの先祖をエジプトから救い出し、40年の荒れ野の旅を終え、彼らが後に国を築くことになる土地に導き入れる直前、モアブという所で神はモーセにご自分の今の思いを伝えられました。『これからヨルダン川を渡って約束の土地に入るが、私はあなたがたの神としてこれからもあなたがたを必ず祝福する。だから、あなたがたは安心しなさい。私から離れないでわたしに従って共に進みなさい。これはお互いの約束だ。シナイ山で契約を結んだが、ここでもう一回みんなと契約を結んで、この約束を堅くしたい(申命記29章)』。それで神は『もしこの契約を破ったら、ソドムやゴモラやアドマやツェボイムの様に滅ぼす』とまでおっしゃいました。
ところが、イスラエルの民はこの約束を破りました。しかし、神は約束通りにイスラエルを見捨て、敵に引き渡し、アドマやツェボイムのようにはどうしてもできない、と葛藤され、この様な前代未聞な叫び声をあげられました。8節の叫びは、この大地に響いたのではないかと、思う程に私たち大地に住むものにとって重大な叫びだと思います。。この時から約600年後にエルサレムのゴルゴダの丘でなされた、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と、人間の叫びを自分の叫びとされた神の独り子イエスの前代未聞の叫び、全ての人が聞き逃してはならない叫びが、私には重なって聞こえるからです。ホセア11章8節も、全ての人が聞き逃してはならない神の叫びです。
9節以下の言葉は神の新たな決心を表わしています。先程紹介しました「わたしは、このたびしたように、生き物をことごとく打つことは二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも、寒さも暑さも、夏も冬も、昼も夜も、やむことはない」という神の決心の言葉と似ています。もはや怒りに燃えることなく、再び滅ぼすことはしない、怒りを持って臨みはしない。
そして、神は10-11節で未来の事を語られます。その子らは海のかなたから恐れつつやって来る。小鳥の様に鳩の様に恐れつつ飛んで来る。『わたしは彼らが立ち返る日を待つ。彼らを住まわせる家を用意して待つ』。ここにも神の新たな決意が現れています。後にイエスは、この神の決意が今も変わらないことを、帰って来る放蕩息子を待ち続け、彼との新たな生活を始める計画を立てている父親の例え話をされました。皆さん、神は皆さん一人ひとりに対しても、応答を待っておられます。皆さんとの計画を立てて待っておられます。それはどんな計画なのでしょうか。それは平和の計画で会って、将来と希望を与える計画です(エレミヤ29:11)。イエス・キリストの恵みがどんなに高価なものであるか。今、心に確り刻み、この人生で精一杯この神に応え続けましょう。
2023.09.03
「人生の土台」イザヤ書43章4節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
人生は積木に例えられます。どんな積木を積むのか、どの様に積むのか、どれだけ積むのか、私たちには色々考えなければならない事があります。しかし、これらの積木を積んで行く自分の人生の土台がどうなっているのかを、考える人は少ないです。その大きな理由は、忙しいということです。
『それでは今から、わたくし、末吉貞雄の人生を始めます』と言う様に、始めた人は一人もいません。私たちが気付いた時には既に人生は始まっていました。もうその時の事は忘れています。最初にしたことは泣く事ですね、それからお乳を飲む事、眠る事、見つめられたら笑顔での応答、手足を動かし、ハイハイ・・・、この様に私たちは赤ん坊の時からやることが一杯ありました。まるでベルトコンベアーの様に次から次に、今日に至るまで、そしてこれからも積み続けるわけですが、ここで一つ大切なことがあります。
最初の積木はどこに据えたのでしょうか。私たちが最初にしたことは?泣くことでしたね。つまり肺呼吸を始める事でした。しかしそんな時に自分で『わたしの人生の最初の積木は、どこに据えようかな』なんて考えたり選んだりできるはずがありません。ではどうだったのでしょうか。もう既に最初の積木は積んでありました。私たちはその上に積んで来ましたし、今もそしてこれからも積みます。だから人生の土台の事はベールに包まれています。
時間は一刻一刻と刻み続けられます。周りの環境も動き変わります。地球は自転し、月は地球を回り、地球は太陽の周りを回ります。全てが動いています。止まらない、その様な中に私たちはいます。最初の積木はどこに据えたのでしょうか。つまり、私たちの人生の土台はどうなっているのでしょうか。それは棚上げにして日々忙しくしています。忙しくない人も動いています。
ですから、まず思い切って立ち止まる事が大切ですね。立ち止まる場所は沢山あります。山や海など自然の中に身を置いたり、旅行に行って日常生活から解放されたりする時に、立ち止まる機会が与えられます。スポーツマンだってシーズンオフが定められています。ストレスの多い現代社会では休暇を取る事が義務付けられています。しかし、これらの立ち止まりは次の積木を積む為のものであって、人生の土台がどうなっているのか考える為のものではありません。教会の礼拝は、人生の土台がどうなっているのかを確かめる為に立ち止まる唯一の場所です。今回と次回10/15の礼拝は、信者以外の方々にも立ち止まって頂く機会になればとの願いをもって計画しました。
さて、今日の聖書「わたしの目には、あなたは高価で尊い」。短いでしょ。ですから、是非覚えて帰って下さい。ちょっと声を合わせて言ってみましょう。・・・
これは神が預言者イザヤを通して語られた言葉です。皆さん、神はこの言葉を誰に伝えたのでしょうか。人の目で見たら、内容からしてこの言葉は、神を信じて、神に従って、神を畏れて、人から愛され信頼されている人に言われたのだ、ときっと見るでしょう。しかし、そうではありませんでした。神は、この言葉を神を信じない人、神に従がわない人、神を畏れない人、人から良く思われてない人、信頼を失っている人、つまり神の前に出られない人、また自分でそう思っている人に言われたんです。驚きです。予想外ですね!
『わたしの目には』。この言葉は非常に重要です。この言葉は私たちの人生の土台を指さしています。神は皆さん一人ひとりに宣言されます。
あなたの目と他の人の目、全ての人の目がどの様に見て評価しようが、わたしの目は違います。わたしの目は、あなたが人生で積んで来た積木の内容や大きさや数に拘りません。わたしの目は、あなたの人生がスタートする前からあなたのことを見ていた。あなたの人生の最初の積木を据えたのは、この私だ。それをどこに据えたのか、その土台を知っているのは私だけである。
たといあなたが人生の積木を一枚も積めないと言うはかないものであっても、また、たとえあなたが積み上げたものがどんどん崩れていって、世の中から最悪の人生だと評価され様とも、「わたしの目には、あなたは高価で尊い」とわたしは宣言し続ける。このわたしのあなたに対する絶大な愛が、あなたの人生の土台である。
しかし、人はこの神の事を知らず、あるいは聞いてはいるが横に置いて、あるいは無視して、人生の積木を積み上げることに忙しくしています。皆さんの人生は最高の土台の上に積み上げられています。それは神の絶大な愛です。だから希望を持って欲しい。それに何とか気付いて欲しい為に、神は昔々から人間と実際に寄り添って来られました。聖書はその記録です。そして、神は一大決心をされ、御自分の愛する独り子イエスに、神の身分を捨てさせ、私たちと同じ肉体を持つ人間として遣わし、十字架でその命を私たちのために犠牲とさせて、その絶大な愛を究極的に表して下さいました。また、神は死人の中からそのイエスを復活させて、確かな生きる希望を表わして下さいました。
皆さんの人生の土台は神の絶大な愛です。だから、心配はいりません。どんなに辛い積み木を積むことになりましても生きる希望があります。今はその愛に応える貴重な期間です。いつか皆さんの積まれたものが全て取り去られる時がやってまいります。それは全員免れられない死ですね。死んだ後どうなりますか。色々想像されていますが、死んだ後、一人ひとりの人生の土台がなんであったのかが、一人ひとりの前に明らかにされます。もし、それが初体験であるなら、それは丁度最高に素晴らしい方からラブレターを頂いていたが、一回も返事を出さなかった時に似ています。残念ですね。皆さん、今は神の愛に応答する貴重な期間です。
神は今日皆さん一人ひとりに言われます。『わたしの目には、あなたは高価で尊い』。今はこの神の愛に応答する貴重な期間です。お祈りしましょう。
2023.08.27
「神が造る神殿」Ⅱサムエル記7章1~8節,イザヤ66章1~2節,Ⅰコリント6章19~20節(新306)
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★ただ、神の恵みによっている
ダビデ王が神のために神殿を造りたい思いを預言者ナタンに伝えたところ、神からの返事は良い返事ではありませんでした。5‐7節参照。神はなぜこの様な返事をされたのでしょうか。ダビデが神との関係において、忘れてはならない重要なことを忘れていたからでした。それは私たちにとっても、神との関係において忘れてはならない重要なことです。
神は8節でこの忘れてはならない事が何なのかを示しておられます。8節に注目して下さい。「わたしは牧場の羊の群れの後ろからあなたを取って、わたしの民イスラエルの指導者にした」。これはどういうことなのでしょうか。まずお話しします。
先週聞きました少年ダビデが巨人ゴリアトと一対一で戦った事件が起こる前、野原で父エッサイの羊の世話をしていたある日、神が預言者サムエルに命じました。「お前はベツレヘムへ行って、いけにえの会食を開き、そこにエッサイとその息子たちを招待しなさい。その息子たちの中から私が指名する者を、サウル王の次の王としなさい」。サムエルに言われてエッサイは七人の息子たちを連れて来ました。しかし、神は「人はうわべを見るが、主は心を見る(16:7)」、と言って誰も選ばれませんでした。それでサムエルは「エッサイ、お前の息子はこれで全員か?」と聞いてみると、「サムエル様、まだ末っ子のダビデがおりますが、あれはまだ少年に過ぎません。今は野原で羊の番をしております」と答えが返って来ました。「彼を連れて来なさい」。ダビデが連れて来られた時、「この子だ」と、神はサムエルに告げられました。 8節が伝えているのは、ダビデが王に選ばれた時のこのエピソードの事で、ダビデが忘れていた重要な事とは『彼が自分の力で王になったのではない』という事でした。
また7章1節に「王は王宮に住むようになり、主は周囲の敵をすべて退けて彼に安らぎを与えられた」とあります。最高級の材料レバノン杉で造られた王宮に住み、そこでのんびり外を眺める安らぎの時間を過ごせていたのも、ただ主なる神の恵みによりました。「今あるは、ただ神の恵みによる」、このことをダビデは忘れていました。人はこの事を忘れてしまいやすいので、神は既に注意されていました。それは彼らがエジプトの奴隷の中から救われ、神が用意しておられた土地に到着する前でした。「あなたが食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が殖え、金や銀が増し、財産が豊かになって、心おごり、あなたの神、主を忘れることのないようにしなさい。・・・あなたは『自分の力と手の働きで、この富を築いた』などと考えてはならない。むしろ、あなたの神、主を思い起こしなさい。富を築く力をあなたに与えられたのは主である・・・」申命記8章13-18節。皆さん、神は私たちにも注意されます。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」新約聖書エフェソ2章8節。私たちもこの事を忘れてはなりません。
★神を神とせよ
さて皆さん、次にサムエル記下7章2節のダビデの言葉に注目して下さい。「見なさい。わたしはレバノン杉の家に住んでいるが、神の箱は天幕を張った中に置いたままだ」。自分は豪華な宮殿に住んでいるのに、神の家は未だにテントだ、これでは神に申し訳ない、とダビデは思ったのでしょう。あるいは、神へのお礼感謝のつもりで豪華な神の家、神殿を建てる事を申し出たのでしょう。しかし、ここには気付かない間違いがありました。
神はそれに気付かせるために、一つの質問をされました。5節「あなたがわたしのために住むべき家を建てようと言うのか」。人が礼拝堂を建てたり、教会を建てるのは問題ありません。しかし、人が神の住むべき家を建てるのは間違いです。それは神が建てるべきものです。それは人が越えてはならない越境行為です。それは神を神としない行為です。エジプトから救って神の民とした彼らにそんなことがあっては、人と共に歩むと言う神の計画が台無しになってしまいます。それで神は5節後半から7節にかけて、熱情の神らしく非常に感情を露にされました。しかし、愛に溢れる神は怒らずダビデを諭されました。ダビデが神の家を建てるのではなくて、11節「主があなたのために家を興す」とナタンに告げさせました。これは、あなたは主のために家を建てる立場にはない。わたしがあなたのために家を建てるのである、というメッセージであり、また、あなたの子孫が代々王位継承し王国が続く約束でもありました。ダビデはそれに応えて祈りました。27節「万軍の主、イスラエルの神よ、あなたは僕の耳を開き『あなたのために家を建てる』と言われました。それゆえ、僕はこの祈りをささげる勇気を得ました。」結局神はダビデに神殿を建てさせませんでした。しかし彼が準備した建築材料で息子のソロモン王が建てました。「あなたがわたしのために住むべき家を建てようというのか」。これは人が行ってはならない神に対する越境行為、神を神としない行為に対する警告でした。
ここで一つ押さえておきたいことがあります。現代の私たちも人として神に対して越えてはならない一線があります。生命に関して核に関して、そしてまだ出会っていない事柄に関して、越えてはならない一線があることを忘れてはなりません。
さて、ダビデは二代目の王でした。サウルが最初の王になった時、同じような越境行為が指摘されました。サムエル記上8章4-9節参照。他の国と同じように王を立てて欲しいと言う民全員の願いを、長老たちがサムエルに伝えた時、サムエルの目に、それは悪と見えました。なぜなら、民の上に王として君臨する方は、エジプトから彼らを救ってくださった主なる神だからです。だのに別に王を立てるというのですから、これも神に対する越権行為でした。サムエルは最後まで反対でした。しかし、神は彼らの声に従い王を立てさせました。サムエルは国民も王も、もし神に従わないなら滅ぼされる事を彼らに言い渡しました。彼は王を立てて欲しいと言った民たちの背後にある彼らの神に対する高慢な思いを見抜いました。私たちも高ぶらないよう要注意です。
★神が造る神殿
サムエルが見抜いた通り、王も国民も神に従わなくなり、ソロモンの子どもは国を南北に分裂させ、北では19の王が立てられ、南は20の王がたてられましたが、それぞれ異国の侵略によって滅ぼされました。ソロモンが建てた神殿は約370年後に破壊されました。そして神は預言者イザヤを通して、人が神のために神殿を建てることを改めて問われました。イザヤ66:1-2参照。370年間わたしはあなたたちと寄り添って来たが、あなたがたはまだ分からないのか?私が顧みて注目するのは、荘厳な神殿ではない。苦しんでいる人、霊が砕かれ謙った人、御言葉におののく神を畏れる人と寄り添い続けることだ。現代社会の中で私たちクリスチャンは、この神が顧み注目されるこれらの人々と共に歩むことが求められている。
さてこの時から、神は神が造る神殿の計画を進められました。皆さん、この神がその独り子イエスを私たちに遣わされました。その目的は私たちがイエスによって神と和解し、聖なる霊の形で、目に見えない形で私たち一人一人の体に神が宿り、徹底的に寄り添ためです。そして、私たちにある高慢を謙りに、不安を平安に、私たち自身を造り変えるためです。何千年も前から神が目指して来られた計画がこの事で実現しました。私たちクリスチャンの体が聖なる霊として神が宿り住まわれる神殿である事に対して、私たちはもっと驚かなければならない。そして、畏れを覚えなければならない。そして、何よりも私たちは、この聖霊が宿る神殿である体を生き抜くという希望、すなわち、外なる人は衰えて行くとも、日なる人は日々新たにされていく、という希望を見ます。
2023.08.20
「石投げ紐と石一つという信仰」Ⅰサムエル記17章31~50節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
全ての人がゴリヤテを前にして落胆していた時に、32節「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。この僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」と言ってゴリヤテに向って行ったダビデには、勇気があったのではなくて、神に対する深い信仰(信頼と言った方が良いでしょう)がありました。
私たちも主イエスから「心を騒がしてはならない。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい(ヨハネ14:1)、と勧められています。私たちの場合は信頼できるお方として、ダビデには与えられなかった主イエスさまも与えられています。この恵みに感謝しましょう。
使徒パウロもその信仰を受継ぎ、2コリント4章1節と16節で、この信頼できるお方のゆえに落胆しない、と二回繰り返しています。そして、この二つの「落胆しない」の間の8節9節で、自分の体験からでしょう、四方から苦しめられても行き詰らない。途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打倒されても滅ぼされない、と書いて信頼すべきお方の事を証しています。そして、5章では私たちにもう一人の信頼すべきお方、聖霊の事を伝えて、6節と8節で「わたしたちは心強い」と二回繰り返しています。ダビデにとって信頼すべき方はシングルでしたが、私たちは神、イエス、聖霊のトリプリです。ですから、私たちは尚更、これらのお方に対して信頼を深くいたしましょう。
さて、4-11節サウル王とイスラエルの全軍が非常に恐れた理由はゴリヤテの大きさ強さです。身長6キュビト半とは約2メートル90センチです。全身青銅で覆われた完全装備です。その装備の重さは5000シェケル、約57キロです。投げやりの刃の重さが600シェケル、約6.8キロです。棒は1キロ以上あるでしょう。だから投げ槍の重さは7.8キロです。陸上の砲丸投げは7.3キロだそうです。ゴリヤテの怪力が分かります。
その格好を見るだけで恐れおののきます。さらに彼が一対一で戦うのを求めましたから、イスラエルの陣営は恐れおののき出しました。誰がゴリヤテと戦うのか。イスラエルは千人以上います。誰かが戦うだろう。最初はみなそう思っていました。ゴリアテは40日間朝夕やって来ては「誰が一対一で戦うのか、出て来い」と言い続けていました。結局「私が戦います」と言う人は一人もいませんでした。
みなさん私達は日頃ひとりぼっちではありませんね。家族や友人や近所の人、誰かが一緒にいます。しかし、一対一の挑戦を受ける時があります。例えば病気がそれです。戦うのはその人自身です。医療や看病は戦うための準備を提供してくれます。この薬でこの手術で勝てる、それを使って病気と戦うわけですが、いつもそうとは限りません。ゴリヤテを前にしたイスラエルとは、丁度医者から「この薬でもこの手術でも勝てる希望はわずかです」と言われて落胆することに例えられます。
ダビデも同じ状況の中にいました。しかし、彼は32節で「あの男のことで、だれも気を落としてはなりません。この僕が行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」と言いました。勝てる希望はありません。勇気が湧く状況でもありません。ではなぜそう言えたのでしょうか。ここでちょっと注目して欲しいことがあります。ゴリヤテは一対一の対決を挑戦して来ました。そして、サウル王さまと、イスラエルの全員は自分に対する挑戦として受け止めました。自分とゴリヤテを比較すれば当然落胆します。王は何とか誰かに勇気を出させて出て行かそうとして、褒美を約束します。その褒美とゴリヤテと比較させようとしたのです。25節、それはお金と王女と、特別な地位でした。しかし、その褒美によって勇気を出す者は誰もいませんでした。ここで注目しなければならない事は、全員基本的にゴリヤテの挑戦を自分に対する、つまり人に対する挑戦、と捉えていることです。
しかし、ダビデはゴリヤテの挑戦を人に対する挑戦として捉えていませんでした。26節「生ける神の戦列に挑戦する」事と捉えています。人に対する挑戦ではなくて神に対する挑戦と捉えたから32節の言葉が言えました。ゴリヤテ自身はイスラエル人に対して挑戦しているつもりだったでしょうが、ダビデはそれをイスラエルと共におられる神に対する挑戦と見ました。これはただ神がイスラエルの味方であるということではありません。イスラエルにすることは神にすることである、という神とイスラエルの緊密な一体性を信じていたから、その様に捉えました。このダビデの信仰が彼を落胆させず、心強くしました。
神が戦われる聖戦と言って、現代でも戦争がなされていますが、それは大きな誤りです。このダビデが戦った聖戦のかたちと比較するなら、その誤りがはっきりします。37節サウルはダビデに「行くがよい。主があなたと共におられるように。」と言います。聖戦は神が一緒にいて助けてくださる戦いのことだという認識で、サウルは王の武具を身に付けてゴリヤテと戦うように指示します。しかし、それは誤りでした。40節ダビデは滑らかな石5つと石投げ紐という、戦争の武器ではなくて日常仕事で使う道具を持って向かって行きました。そして、50節、聖戦は羊飼いの少年の投げた一つの石で終了します。神の戦い、聖戦は剣や槍という武器による強さによらず、弱さという形で行われました。47節、機関銃や戦車やミサイルや化学兵器や核開発は聖戦では必要ありません。石ころ一つで神は勝利されます。これは武器ではなくて生活用具です。人は戦争に神を持ち出す過ちをしてきた歴史を持っています。イスラム教の神、キリスト教の神、78年前に終わった日本の戦争でも。
神と人が一つである、ダビデと同じようにこの信仰に私たちも招かれています。神はかつてイエス・キリストによって人間になられました。人間と深い関係を築くためです。最後の夜にキリストは神・キリスト・私達が一つになる事を祈られました(ヨハネ17章11節、21-23節参照)。しかし、それに反対する働きが起こりました。人は悪と罪と死に支配されています。だから、神に来られては困ると思います。悪と罪と死は人を神から遠ざけ自分の支配下に置き続けようとします。しかしイエス・キリストは最後まで、十字架の死と墓の中に至るまで、人として歩まれました。私達人間と一つになるためです。
死、それは人間を一番強く支配しているものです。人間は死と鎖で繋がれています。神は最後にイエス・キリストを死人の中から復活させてこの死の鎖を切断してくださいました。そして、今度は神がイエスの十字架でお示しになった愛の帯で、人としっかりと繋がって下さることになりました。このイエス・キリストの十字架と復活によって、神と人が一つになる道が開かれました。クリスチャンとはこの道を信じて進む者のことです。神と一つになろうとする時に戦いを挑む者はもはや私に挑むのではなくて、むしろ私と愛の帯で繋がって一つになっている神に戦いを挑むことになります。ですから、恐れおののかず、落胆せず、挑戦してくる者に向かいましょう。これが『石投げ紐と石一つ、という信仰』です。神に対する戦い、神の戦いには剣や槍という世の武器はいりません。詩篇33:16-19も歌います。
神が戦われるなら私達は何をすればよいのでしょうか。そこで新約聖書エフェソ6章13-18節はそんな私たちに大変興味あることをつたえています。それは神の武具のことです。真理、正義、平和の福音、信仰、神の言葉、祈り。これらは神との関係が前提となっています。石投げ紐と石一つの信仰とは、これらの神の武具を身に着けることです。神はイエス・キリストにおいて、あなたと死との間にある鎖をちぎり、その代わりに十字架で示した愛の帯であなたをご自分と繋いで一つにして下さいました。神が戦われます。それを信じる私たちは、神の武具を着けて、ダビデの『石投げ紐と石一つ、という信仰』の道を歩みましょう。
2023.08.13
「私たちの現実に神が関わられる」Ⅰサムエル記3章1~4章1節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
私たちは先週神からの大きな励ましを受けてそれぞれの生活の場へ出発しました。そして、またここに帰って来ました。生活の場は良いことばかりではありません。不満や不安が起こってまいります。少年サムエルの生活の場『エリのもと』も同じでした。
ここでサムエルの生活の場についてお話しします。彼は祭司という仕事をするために、シロにある神殿に住んで、引退していたベテラン祭司エリがサムエルの先生になって、色々と教わりながら、神殿での仕事をしていました。ですから、仕事場と生活の場が同じでした。しかし、その職場の環境は最悪でした。父エリの後を引き継いで神殿のトップの地位に就いた、二人の息子ホフニとピネハスは「トップである私の言うことを聞きなさい。さもないと大変なことになるぞ」と、脅してパワハラとセクハラと横領をしていました。特にこの横領とは神さまのものを自分のものにするという、非常に悪いことでした。
父エリが二人に注意するのですが、二人はその注意を無視していました。エリは引退していましたが祭司の中で一番年上で一番経験のある、最長老でしたのでこの二人を最悪、神殿から追い出すことも出来ました。しかし、エリは親であるがゆえに二人の息子に対してその最悪の対応を取れませんでした。神殿を追い出されたら二人は住む家も収入も無くなります。きっと二人には妻も子供もいたでしょう。それで聖書には登場しませんが、エリは妻から「あなた、何とかそれだけは赦してやってください」とでも言われていたのかも知れません。神はそんなエリに遣いを送って伝えました。「あなたはなぜ、自分の息子をわたしよりも大事にするのか?」。
この様な最悪の生活の場を選んだのは、サムエル自身ではなくて、お母さんハンナです。だから、『自分が悪いんじゃない、お母さんがこんな所に連れて来たのが悪い』と、 サムエルは不平と不満を言っても良いわけです。ところが、少年サムエルはエリのもとで主に仕えていました。サムエルは我慢強い子なんでしょうか。いいえ。では、なぜそんな悪い現実の中で彼は主に仕えていたのでしょう?。お母さんハンナの信仰が影響しています。
聖書は2章にハンナの祈りを載せています。これは祈りというよりも賛美に近い内容です。ちょっと見て下さい。ハンナは3-8節で、自分の生活の場がどんな場なのかを伝えています。驕り高ぶり、思い上がった言葉が聞こえ、人の行いが正されず、勇士の弓と言う戦争のための武器が無くならない。食料が一方では不足しているのに、他方では有り余って捨てられるという矛盾があり、弱い者と貧しい者が顧みられず、生きる価値が認められていません。
皆さん、これは今の私たちの生活の場でも起こっている現実ですね。ハンナはそれに対して不満や不安を口にするのではなくて、この現実にこの世界の全ての支配者、審判者である主なる神が関わっておられると信じ、期待してこの賛美を歌いました。このハンナさんの信仰は誰から受け継いだのか分かりません。しかし、夫エルカナが毎年主が定めた所であるシロで礼拝を捧げているので、ハンナも礼拝者の家庭で育ったのでしょう。かつてモーセは、約束の地に着いて土地を与えられて生活が始まったら、主が定められた方法で礼拝を捧げなさい、決して自分の目に正しいとすること、すなわち他の神を礼拝してはならない事を告げていました。しかし、約束の地での生活が始まると、それぞれ自分の目に正しいとすることを行っていた、と士師記の最後は伝えています。しかし、士師記の次ぎの書、ルツ記のナオミや、このハンナの様に主なる神を礼拝する女性たちが登場します。
聖書が記した時代は男性中心の社会でした。しかし、主なる神に対する礼拝が小さき女性たちによって続けられたことを聖書は伝えます。神ご自身が小さき者の神であることは喜びだ、と思われたからです。イエス・キリストも、そして、私たちキリストの教会も同じ思いです。
さて、サムエルはお母ちゃんハンナのお乳を飲み、抱かれ、見つめられ、彼女から言葉を覚え、遊びを覚え、歩き方食べ方を教わり、大きな影響を受けて育てられました。ハンナは、少年サムエルの生涯を主にゆだねるために、シロにある主なる神の家に連れて行き、祭司エリの手にその子を渡して帰って行きました。彼女は年一回主なる神の家に礼拝に来た時に必ず縫い上げた祭服をエリに手渡して帰りました。成長するサムエルの体を想像しながら縫い上げた母の愛とそれを喜ぶ子の姿。
お母ちゃんハンナの賛美と、ラブラブの親子を天から見ていた主なる神は、もう居ても立ってもおれなくなったでしょうね。天地創造の時、アダムとエバがエデンから出て行って以来、人を見守り、人と寄り添い続けて来られた神は、ここで大きな行動を起こされました。神が人の名前を呼ばれます。かつて神はアブラハムとモーセの名を呼ばれました。サムエルは三人目です。今回神がサムエルを呼ばれた目的は19-21節に示されています。それは彼に主の御言葉を預けることでした。預けるの『預』と、主の言葉の『言』を合わせて、サムエルが初めて預言者と呼ばれます。主の御言葉は一つたりとも地に落ちることはなかった。地に落ちて役に立たない、当てにならない、だから踏まれて忘れられてしまう、そんな言葉は一つもなかった。御言葉をもって主は御自身を示された。すなわち、預言者を生み、彼をこの世界に遣わす目的は、そこに主が共におられる、関わっておられる事を示すことでした。
サムエルの後ナタン、エリア、エリシャ、そして16人の預言者が続きます。彼らは現在で言うなら政治経済福祉の現場へ遣わされ、神から預かった御言葉を伝え、そこに主なる神が共におられる、その問題にかかわっておられる、主と無関係な事柄はこの世界には無いことを伝えました。しかし、彼らは迫害を受け拒絶されました。そんな歴史があって神は大きな決断を今から2000年前にされました。御言葉ではなくて、愛する独りごイエスを肉体を持って、肉体を生きて、肉体の死にまで至らせ、復活させて天に帰らせて、本当に神はこの世界と関わられる事を証されました。また、イエスの十字架の死は私達のための死でした。神から離れて神と無関係に生きるという罪の支配下にある私たちを神の支配に移し、神と共に歩む道を神は開いてくださいました。
神は、皆さんの全ての現実と関わるお方です。皆さんとその生涯を共に歩むことを心から願って手を差し伸べておられます。皆さん、神を信じるとは、その神の手に皆さんの手を差し伸べ、確り握りるようなものです。イエス・キリストの父なる神はあなたのすべてのことと関わられます。だから大丈夫です。あなたの生活の場全てと関わっておられます。だから神を神として歩みましょう。その歩みを勧めている聖句を最後に読みます。箴言3章。
2023.08.06
「あなたの神、主は共にいる」ヨシュア記1章1~9節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
神を信じてこの人生を歩むというのは、冒険の様なものです。アドベンチャーです。ただ何とかなる、と思ってするのは向こう見ずとか無鉄砲とか無謀です。『大丈夫だよ』とか『わたしが一緒だよ、共にいるよ』と、一言語ってくれる信頼する存在に頼って行うのが冒険です。
私も『大丈夫』と語る存在によって冒険をしたことがあります。京都の有名な観光地の嵐山にある教会に赴任した34歳の時、月曜日に4歳の次男と3歳の長女の二人の子どもを連れて、私たちは嵐山に流れ着く保津川の上流にある保津峡と言う渓谷へハイキングに行きました。JR山陰本線の保津峡駅を降りたら一軒の古い茶店があり、その前の吊り橋を渡って、川向こうの道を歩いて嵐山迄戻るコースでした。ところが、その日の吊り橋は床板の取り換え工事中でした。他の道はありませんでしたので、次の電車が来るまで待って、引き返してハイキングを断念するしかありません。諦めて電車が来るまで茶店の椅子に座らせてもらっていると、工事している人が手招きしながら叫びました。渓谷に『大丈夫、大丈夫』という声が響きました。
今読んでいただきました聖書の2節に「立ってヨルダン川を渡り」とありました。私たちも、茶店の椅子から立ち上がって、保津川を渡りました。川面まで20mはあったと思います。橋の中央に床板が無い所がありました。子どもたちは作業員に抱かれてそこを通過、無事渡ることができました。私たちは『大丈夫』と言われる作業員をじっと見て、彼らを信じて渡りました。しかし、もしもの事が起こったらどうするのか。などと考えたら、きっと渡れなかったでしょう。あの時、作業員も私たちも冒険をしました。ヨルダン川を渡ることを決断したヨシュアも、その時冒険をしました。
今、神を信じてこの人生を歩む私たちとヨシュアは重なります。ヨルダン川を渡る前にモアブという所で、人口調査が行われました。兵役に就くことのできる20歳以上の男子が601730人でした(民数記26:51)。女性や子どもや老人等の数えられなかった人々を合わせると百万人を超える大集団でした。立って彼らを率いてヨルダン川を渡れと神が言われた時、川の水は堤防を越えんばかりに満ちていました(3:15)。
しかし、神は言われます(3:13)。先頭を行く祭司たちの足がヨルダン川の水に入ると、川上から流れてくる水がせき止められ、ヨルダン川の水は壁のように立つ。だから『大丈夫だよ』。この神の言葉も川の岸で響きました。ヨシュアは水が堤防を越えんばかりに満ちていた川に向かって行きました。『大丈夫だよ』と言ってくださる方によって、冒険をしました。アドベンチャーです。アド:向かって、ベェンチャー:行く、または来る。と言う語源通り。
ここでイエスの言葉を思い出します。従いたいが、この問題やあの問題があると、考えて躊躇している人にイエスは言われました。「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない(ルカ9:62)」。神に導かれてイエスに従いたいという思いが与えられ信仰という鋤に手をかけたんだから、もう心配はいらない、わたしがついているから、アドベンチャーしなさい、と。
使徒パウロはフィリピの信徒に奨めました。「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです(フィリピ3:13-14)」。アドベンチャーしなさい。
皆さんの信仰生活もアドベンチャーの様なものです。その土台は『大丈夫、わたしがついている、わたしに任せなない』と言ってくださる方です。もう少しヨシュアのことを詳しく見て、今日そのお方のことを確認して私たちも信仰と言うアドベンチャーへ出発いたしましょう。
1ページ前の申命記34章でモーセが死にました。30日間喪に服し、代わりにヨシュアが民のリーダーとなりました。モーセは生前ヨシュアの上に手を置いて、公に彼が後継者であることを示し、民もヨシュアに従う事を約束しました。モーセの助手として常に身近にいたヨシュアは、100万もの民を指揮する術を学んできました。また、神から預言する霊の賜物も与えられていました。この様に引き継ぎは順調に行われましたが、申命記34:10は記しています。
イスラエルには、再びモーセのような預言者は現れなかった。ヨシュアはモーセのようにはなれません。ここに不安がありました。自分には約束の土地を目指して行けるだろうか、そしてその土地を受継げるだろうか。無理ではないか。考えれば考えるほど不安になりました。神はそんなヨシュアのことを知っておられ、五つもの励ましの言葉を繰り返し語られました。こんなにも神に励まされた人は聖書の中に他にいませんでした。この激励の言葉は、同じくキリストがもう一度来られ天に備えられている約束の家を目指しそれを受継ごうとする、私たちに対する激励の言葉でもあります。しっかり聞いて心に刻んでおきましょう。
①行く手に立ちはだかるものはない。
②共にいる。特にモーセと共にいた様にと言われたのは神がヨシュ
アの気持ちを良く知っていたからですね。
③見放つことも見捨てることもない。
④従うものはどこへ行っても、行く先々で栄え成功する。
⑤どこへ行っても共にいる。
それからもう一つ三回繰り返されている言葉「強く、雄々しくあれ」も私たちへの言葉として聞きましょう。この「強く」とは「固く」という言葉に近いです。信仰は大きさではありません。海辺の岩にフジツボが固くくっついていますね。あれは少々たたいても取れません。それと同じく小さくても神に確り固くくっつく、その様な信頼が大切です。「雄々しくあれ」とは勇敢であることですが、大胆であるという意味に近いです。信仰とは石橋をたたいて渡ることではないが、目暗めっぽうではなくて、石橋をしっかり見据えて、神を信頼してまず神の御心に目を向けることです。イエスさまもおっしゃいました、まず神の国と神の義を求めよ。
神の御心とか神の国と神の義、皆さん、これを説明せよと言われても難しいですね。私たちの信仰は手探りです。言葉ではなかなか説明できないけど、手探りで分かっています。私たちが神に固くくっついていたら、神の御心とか、神の国と神の義の方向は分かるんです。その方向に自分の向きを合わせること、それはできます。方向さえ正しければ、あとは神さまに任せたらいいのです。それが信仰の大胆さです。今、世界各国の指導者にこの大胆さを、主が与えられることを切に祈ります。核兵器による抑止力依存という川を乗り越えて、新しい共存の世界という地を目指す大胆さを。その為にどうかあらゆる不安を乗り越えさせてください。そのために教会に与えられている主にある平安が用いられるように、助けて下さい。
皆さん、神のヨシュアに与えた激励の言葉の背後には、愛がありますね。その愛を神は私たちに対して、イエス・キリストの体とそこから流された血によって現されました。神に対する罪は全て背負う為に、キリストの体は裂かれ血が流されました。神との和解、神がわたしたちの内に住んでくださるという恵みに私たちが預かる為です。この恵みはヨシュアに注がれた恵みを遥かに超えて大きいものです。だから感謝し、神に対する信頼をフジツボのように固くし、手さぐりでいいから確り方向を確かめ大胆に進みましょう。私たちも一番身近な所でまず平和を作らせていただきましょう。そのためにアドベンチャーさせていただきましょう。 お祈りします。
2023.07.30
「あなたの心を知りたい」申命記8章2~18節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
昔「神さまはイスラエルを地の面にいるすべての民の中から選ばれて宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、主の愛のゆえだった」と、7章6節以下にあります。エジプトの奴隷から解放して、主は彼らの神となり、彼らは主の民となりました。シナイ山での契約はそのような関係を結ぶ契約でした。それはちょうど結婚式をして夫婦の関係を結ぶのに似ています。厳粛な時でした。それから荒れ野に出発します。これはちょうど結婚生活を始めるのに似ています。お互いは本当の意味でまだ知らない部分が多くある中で結婚生活は始まります。ですから結婚の本質は「相手を信じる」ということです。
神さまとイスラエルもこれとよく似ています。エジプトとの関係の中にいたイスラエルは、そこから離れて神さまとの関係に入りました。これからお互いに関係を深めてゆくのです。そこで神さまは荒れ野の旅を共にすることにしました。2節「こうして主はあなたを苦しめて試し、あなたの心にあることを、知ろうとされた」と、モーセは40年の荒れ野の旅を振り返って語っています。それは苦しい旅となります。しかし、そこがお互いに深く知り合える場所だったのです。この旅とは、信仰の旅ですね。
神さまがまず自分の心を打ち明けました。荒れ野ですから何もありません。しかし、パンと水と着物のこと、健康のこと、安全のことなど、神さまはすべて必要な物を与えて、御自分が父の様に信頼できる方であることを示されました。
それに対してイスラエルの心もこの荒れ野で明らかになりました。イスラエルは心から神さまを信頼できませんでした。何度も不平不満を言いました。反抗しました。「もう別れたい」何てことまで言い出した時もありました。これは、私たち自身ではないでしょうか。神さまはとても悲しかったと思います。しかし、神さまはイスラエルの心にあることが分ったのでそれで良しとされました。裏切られても神さまの愛は変わらなかったのです。反抗するイスラエルのためにこそ愛を注ぐべきだ、と思われたのです。
40年間で荒れ野の旅は終わりました。しかし、神とイスラエルの旅は続きます。神さまはイスラエルに愛を注ぎ続けられました。申命記という書はこの最初の旅が終わった所で語られています。この最初の旅の失敗を思い出して、これからの旅を進めて欲しいという意図があります。神は共に旅する者に御自分の心を表し、それと同時に人の心にあることをも知りたいのです。ですから、この書は、今神と共に旅をする者のためにも書かれたと言えます。神はイスラエルだけではなくて、今も人を選び、その人の神となり、その人は神の民となる。そういう関係を結ばれる方なのです。クリスチャンとはその関係を結ぶ者と言えます。そして、神は互いに深く知り合うことを求められます。
8章11節以下は、もはや荒れ野の旅ではありません。12節「あなたがたは食べて満足し、立派な家を建てて住み、牛や羊が増え、銀や金が増し、財産が豊になって」とあります。17節「自分の力と手の働きで、この富を築いた。」とあります。これは現在私たちが営んでいる人生と同じですね。この人生という旅にも、あの40年間の荒れ野の旅と同じく神の愛は注がれています。現在、必要な物が備えられているのは神さまのお陰なのです。そして、わたしに信頼しなさいと御自分のことを今も表しておられる神なのです。
それと共に神は私たちの心にあることを知ろうとされます。私たちの心にあるのは何でしょうか。14節の「心おごり」とは、神に対して無関心、わたしの人生は神とは無関係だと考えることです。17節の「自分の力と手の働きで、この富を築いた」というのもそのことを表しています。私たちの心にあるのは何でしょうか。神は私たちを裁いて罰したいのではなくて、私たちの本当の心を知りたいのです。
神さまがイエスさまを遣わされた目的もそのためでした。イエスさまのお宮参りの日、神殿にいたシメオンが赤ん坊のイエスさまを抱いて預言をしました。「この子は、多くの人の心にある思いをあらわにされるために定められた子です。」イエスさまが十字架につけられたのは、多くの人の心にある思いの表れだったのです。みなさん、わたしたちの心にあるのは何でしょうか。イエスさまの十字架はそれを問うています。
イエスさまが十字架につけられた丘は、エルサレムの城壁の外でした。現代の私たちの生活の場は世界中に広がっていますが、昔は城壁の中がそれでした。イエスさまは生活の場から追い出されて十字架につけられたのです。神から遣わされたイエスさま、神さまの代わりに来られたイエスさまです。そのイエスさまを十字架につけるということは、「そんな神さまは私たちの生活の場に必要無い」という意味でもあります。神殿を壊して三日で建てると言った方を祭司達は必要としませんでした。すなわち復活して信じる者の内に住む者となる方を必要としなかったのです。
また、教えのことではいつも頭が上がらず、自分たちの上辺の信仰を指摘され、民に人気のあった方を律法学者は邪魔でしょうがありませんでした。祭司や律法学者やローマ帝国など、威張っているみんなをやっつけて革命を起こして、自分たち貧しい者が大切にされる国を建設してくれる方と期待していたのに、なにやらそうじゃなさそうで自ら苦しみを受けようとなさる、そんな方は期待外れ、そんな思いが弟子たちの心にも芽生え始めていました。十字架につけたポンテオピラトは、自分の立場から見て、イエスの側に着く事には利益を見いだせず、かえって害を被る恐れがあると判断し、処刑執行の兵隊の手に渡しました。群集は時の権力者の声に従う者でした。これらの思いは今紹介した人々だけではなくて、多くの人の心にある思いなのです。
これは神さまにとって悲しいことです。神さまはきっと昔イスラエルと共にした40年間の荒れ野の旅のことを思い出されたでしょう。十字架で多くの人の心の中の本当のことが分りました。でもそれで良かったのです。そんな心を持っている者にこそ、ご自分の愛が必要なんだと神さまはお考えになったのです。神は愛し続けるために、イエスさまを死人の中から復活させられました。ローマ7章16節「あなたがたは罪に従って死に至るか、神に従順に従って義に至るか、どちらかなのです。」とあります。「わたしは神とは無関係、神は必要無い」そう言う者は死に至ります。しかし、神はその人に愛の力を溢れるばかりに注ぎ続けてくださるのです。イエスさまを死人の中から復活させた神は、死に至るしかない者に、その力をもって働いてくださいます。
みなさん、神は私たちに何を望んでおられるでしょうか。あなたの心にあることをお知りになりたいのです。私たちの心にあるのはなんでしょうか。イエスさまを十字架につけたことは私たちにも関係があるのではないでしょうか。神は人の心を見られます。
神に本当のところをお知らせしましょう。わたしは神がどうしても必要かどうかはっきりしません。わたしは神と関係を持たなくても生活はできると考えています。わたしはわたしの益になるならと思って神を信仰しています。しかし、神を信じることによって、わたしが損をしたり苦しむならやめるかもしれません。色々とわたしたちの心の中にはあると思います。今、このような思いのある方は、そのありのままを神に知らせましょう。
神さまはおっしゃいます。『そんなあなただからこそ、わたしは愛を注ぎつづけます。あなたの内に私への信頼を確かなものにするために、わたしは愛を注ぎつづけます。』と。
また、過去にそういう思いの時もありました。しかし、今は神さまが深く関係をもってくださったので、あなたを深く愛し、深く感謝しています、という方もあるでしょう。そのことをお伝えしましょう。
みなさん、私たちは「私の神への信頼を確かなものにしてください。そして私の内に愛を育んでください」と祈り続けましょう。
2023.07.23
「私たちは神の住まい」出エジプト25章8節、40章34~38節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
皆さんはどんな家に住んでおられるでしょうか。先週、聖地旅行中に宿泊したアパートホテルを紹介しました。洗濯乾燥機や食洗器と便利なものが整っていましたが、靴を脱ぐという習慣の日本人としては、素足になれないのでちょっとストレスがありました。今朝は「私たちは神の住まい」という説教題ですが、初めに「神の住まい」のことを考えてみたいと思います。
8節で「わたしのための聖なる所を彼らに造らせなさい。」と、モーセに要求された神の住まいは幕屋でした。言い換えると、持ち運び可能な豪華なテントという感じのものです。その材料は、3節以下にあります。金、銀、青銅、青・紫・緋色の毛糸、亜麻糸などとラピス・ラズリやその他の宝石類、というように大変高価な材料です。惜しまない心で神の住まいをつくりなさい、ということでしょうか。
20章でモーセの率いるイスラエルの人々がシナイ山まで来ると、契約を結びましたね。十の命令、十戒です。それを具体的にどのように守るべきかと言うことが、24章まで書かれています。その後に、神様は、モーセに幕屋の建設を命じられます。幕屋の作り方について、25章から出エジプト記の最後の章である40章まで、何と15章も長々と書かれています。どうして、こんなに沢山のページを使っているのでしょうか。それは、民が神の指示に忠実に従うかどうかを見たいからです。このことは神さまにとって大変、重要だったのです。そして、8節で「わたしは彼らの中に住むであろう。」「わたしは彼らの中に住む」と神様が言われたことは、驚くべきことなのです。
モーセの時代の人々にとって、神様はどんな存在だったのでしょうか。33章20節にこうあります。「人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである」。人は神を見ると死ぬと考えられていたのです。ですから、人々の只中に、幕屋を建てさせて、そこに住まわれるということは、日常生活のまん中に来られるということで、驚くべき事なのです。そこまでして、神様は人と共に生きることを、望まれるのです。
シナイ山までの荒野の旅はどんな旅だったでしょうか。苦い水を甘くし、メリバでは岩から水を出し、天からマナを降らせ、夕方にはウズラを飛んでこさせ、食糧も飲み水も、足りなくなることも余ることもなく、神の「至れり、つくせり」と言えるほどの心配りの中で、守られて来たのでした。それは、神様が本当に信頼できる方だという事を、生活の中で体験させられたのです。このことは、私たちにも生活の只中で神を信頼することを学べと伝えています。私たちにも必要なものを備えてくださる神です。「空の鳥、野の花を見なさい。神は小さな彼らさえちゃんと養われている」というマタイの御言葉を思い出しますね。
しかし、神様は、それだけでは無く、「あなた方の中に住む」と言われるのです。
ところが、このような熱い思いで、モーセに幕屋建設の細かい指示を与えている間に、山のふもとでモーセの帰りを待つ人々は、彼の帰りを待てません。32章を見てください。1節、「あのモーセがどうなってしまったのか分からない」と言って、金の子牛の像をアロンが作り、その像を自分たちの神としたのです。何と言うことでしょうか。彼らは、24章3節で「神様との約束を守ります」と皆で声を一つにして約束しています。また、モーセは今神様の所にいます。そこでいったいどんな悪いこと起こるというのでしょうか。
しかし、民は不安で心が支配されてしまいます。そして、金の子牛を神とするという大失敗をしたのです。こんな失敗にも関わらず、神様は幕屋建設を中止されませんでした。出エジプト記最終章の40章を見ますと、「主が命じられたとおり」に、幕屋は完成され、モーセはその仕事を終えた、とあります。40章38節で、「イスラエルの家のすべての人に見えた」とありますのは、主が共におられるしるしを、全ての人が見た、ということです。
ただ見たのではなく主が共におられることを経験した、ということです。彼らは、幕屋と共に、シナイ山を出て、約束の地へと再出発したのです。
今日のキーワード、「彼らの中に住む」、この神様の言葉は、わたしたちにクリスマスの出来事を思い起こさせます。ヨハネ1章14節、「言葉は肉となって、私たちの間に宿られた」。イスラエルの人々には、幕屋の中に住まわれる方として、神様は天から降られました。二千年前のクリスマスの出来事は、神様が人間の肉体を持って、イエスという人となって、わたしたちのところに降られました。そして、イエス・キリストを信じる者に、聖霊をお与えになり、私たちと共にいてくださいます。
コリントの信徒への手紙6章19節を見てみましょう。(p306)「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿である」。このように、わたしたち自身の中に、直接、神様が住んでくださるのです。わたしたちは神の住まいなのです。この約束は、神様が聖霊という神様として、いつも皆さんと一緒にいて、導いておられるという約束です。自分で聖霊を感じようが、感じなかろうが、神様の約束なのです。キリストを信じるわたしたちへの、神様の確かな約束です。
この確かな約束を信じて書かれた詩があります。有名な詩です。
足あと
ある夜 わたしは 夢を見た 神さまと二人並んで わたしは砂浜を歩いていた
砂の上に 二組の足あとが見えていた
一つは神さまの そして一つは わたしのだった
しかし最後に わたしが振り返って見たとき
ところどころで 足あとが 一組だけしか見えなかった
「わたしの愛する子どもよ わたしは けっして お前のそばを 離れたことは
ない お前が もっとも苦しんでいたとき 砂の上に一組の足あとしかなかったのは わたしがお前を抱いていたからなんだよ」
M.パワーズ
私たちは神の住まいです。その聖霊なる神さまが一番いごこちのいい住まいとは、どんな住まいでしょうか。最新式の便利さを追求した住まいでしょうか。
私たちが最も苦しい時に、抱き上げてくださるこの神さまを信頼する心をもった住民の住む住まいではないでしょうか。神さまのいごこちのいい住まいとしていただけるよう願いつつ今週も前進して行きましょう。
2023.07.16
「幸あれ」出エジプト20章1節~21節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
神様が「わたしは主、あなたの神。あなたには、わたしをおいて他に神があってはならない。」とそこまで私たちに要求されるのは、私たちに「幸あれ」と願われてのことです。丁度、結婚の決心をする様に、全てを捧げる用意をして私たちの前に立ってくださるのです。十戒は、神様の愛の告白なのです。
みなさん、神様はなぜ私たちに愛を告白されるのでしょうか。それは、愛が、人を生かすからです。神様が望まれるのは、十戒を守って信仰深そうになることではなく、生きることです。どのような状況にあっても未来に向かって希望をもって生きることです。
未来に生きる
今朝、読んでもらいました十戒の後ろ半分はこのことを私たちに伝えています。そして、十の戒めの真ん中はおへそです。よく聖書を見てください。おへそのマークがついています。いえいえそれは嘘です(笑)。前の5つの戒めと後ろの5つの戒めの間が丁度真ん中、だからおへそなのです。それは12節にある第5の戒めの「あなたの父と母を敬え」の次の言葉です。「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」この言葉が十戒のおへそです。
みなさんのおへそは、今は何の役目もないものに見えます。しかし、みなさんが生まれるまで、お母さんのお腹にいる時、おへそはみなさんの中心でした。その時、生きるのに必要なもの全てがおへそから入って来ました。今日お風呂に入った時におへそを眺めて今日のメッセージを思い出して下さい。昔の昔のことを、自分が生まれた時のことを頭に浮かべて眺めて見て下さい。
以前、沖縄を訪れた時、平和資料館を見学した後、アメリカ軍との激戦地跡に立ちました。その場所は、戦争を放棄しなければならないこと、平和を造り出さなければならないことを訪れる者に伝えています。それと同じくおへそは「命」とか「生きる」と言うことを私たちに伝えてくれます。十戒の第五戒は「命」また「生きる」ことを伝えています。今夜、そのことを思っておへそを訪れて見てください。
未来に押し出す約束
さて、十戒のおへそである「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」この戒めは何を伝えているのでしょうか。
使徒パウロはエフェソ6章2節でこう言っています。「これは約束を伴う、最初の掟です。」つまり、神様の命令には約束が伴っているのです。「あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。」と言う約束は、わたし達にとってどんな約束なのでしょうか。約束は英語でプロミスと言います。プロとは「前に」、ミスとは「押し出す」と言う語源があります。つまり約束とは私たちを未来に押し出すものです。約束を伴う神様の掟である十戒は、私たちに「未来に向かって生きよ」と言っているのです。
十戒はシナイ山でいただいたのですが、もう一度聖書に出てきます。それはヨルダン川を渡る前でした。「この川を渡ったら神様が与えると約束された土地に入る」と言われたその時に、モーセはこの十戒をもう一度語りました。「約束された土地」とは何でしょうか。小学校に入学する子どもには学校生活です。新社会人成る人には職場でしょう。新婚さんであれば新家庭。定年を迎える人には第二の人生。一日を終えたときは、次の日ということです。「約束された土地」に困難も予想されます。しかし、神さまは私たちが未来に向かって進むために希望の約束として十戒を与えられました。
神を信頼せよ
さて、おへその前の「父と母を敬う。」これはお世話になったから御礼をするのではありません。ただ「父と母」とあります。どんな父でも、どんな母でもと言うことです。それから「あなたの」父と母とあります。すなわち、父と母とは自分の命と直接関わっている父母のことです。父も母も完璧ではありません。欠点や不足があります。しかし、世界でただこの父と母だけが、自分の命と直接関わっている者であると言うことに比べたら欠点や不足は小さなことだ、と神様は言われます。「あなたの父と母を敬え」とは、単なる一般的な命ではなくて、この父と母の子供としてこの命があると言う認識をしっかりと持つ事です。この、「人の命」と言う掛け替えの無さを尊ぶようにと十戒は強く勧めます。
何があっても、人が未来に向かってこの命を生きる事を軽んじられては成りません。なぜなら、神様がそれを重んじられるからです。ですから、差別や偏見を無くそうという働きは、社会派というようなものではなく、神さまを信じる者として出て来た働きです。神様は言われます。イザヤ43章3、4節「わたしが、あなたの神、主、・・わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」あなたも、あなたの父と母も、神さまはこのようにご覧になっています。
ですから、十戒は次に「殺してはならない」と続いて行きます。次の姦淫とは、人を物の様に扱って軽んじることです。盗みと偽証は、神様が他者に与えたものを奪うことです。つまり、神さまのものを奪うことになります。物を奪うのが盗みで、相手の立場を奪うのが偽証です。これらの行為の背後には、自分は軽んじられていると言う思いがあります。それで重んじられている他人を見て、それを奪いたくなるのです。他人の幸せを見て、不幸になる事を願う思いが起こるのです。これは大変悲しい事です。
しかし、神様は誰をも決して軽んじられません。「あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と言われます。だから、どんなに貧しくても盗んではならないのです。また、どんなに悪い立場に立たされても偽証してはならないのです。
隣人のものを欲しがるとは、むさぼりとも言われます。この行為の背後には、神様から自分に与えられていることに対して、満足できないと言う思いがあります。あの人は2タラントン、あの人には5タラントン,しかし私には1タラントンしか下さらない、そう思って人生を希望なく後ろ向きに生きた人の話が新約聖書にあります。「神様、私にはこれだけしか下さらないのですか、こんなんじゃ、私の未来には希望がありません。」と私たちも神様に不信を持つことがあります。十戒は伝えています。心配するな、与えられているもので満足しなさい。他人と比較してはならない。神様はあなたにとって必要なものを、最善なものをお与えになっています。だから、殺さず、姦淫せず、盗まず、偽証せず、隣人のものを欲せず、神様に信頼を置きましょう。
モーセがこの十戒を、ヨルダン川を渡る前にどうしても語りたかったのは、神様に信頼を置いて、川の向こうへ、未来に向かって進むためでした。私たちもヨルダン川を渡りましょう。ヨルダン川とは何でしょうか。それは洗礼を象徴しています。それは罪に死にキリストと共に生きる事を象徴しています。モーセは十戒を伝えた後(申命記5章―8章)こう言いました。「あなたは、人がその子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを知らなければならない。あなたの神、主の命令を守って、その道に歩み、彼を恐れなさい。あなたの神、主があなたを良い地に導き入れようとしておられるからである。」 私たちの神さまは、みなさんを良い土地に導き入れようとしておられます。ヨルダン川とは私たちにとって死の川であるとも言われています。しかし、その川も主と共にあるなら平気です。その向こう岸は約束の地です。私たちに対する、未来の約束を主イエス・キリストが、十字架の苦しみと死からの復活を通して、示してくださいました。日常生活の中にこの主がいてくださいます。また、良い地とは私たちに与えられる復活の命です。この命には、もはや死も病もなく、悲しみ、叫び、苦しみもありません。全く新しい命です。
京都の教会でキャンプをした時に、野外でのゲームをしました。そのゲームは5つの指令を行うというゲームです。大変な暑さの中にも関わらず、子どもたちは大人を置き去りにして、その指令を一番に達成しようと走り出しました。上り下りのきつい道を、全員指令を達成しました。子どもたちは達成感に満足していました。一方、大人たちは子どもたちを追いかけるだけで精一杯でした(笑)。景品も何もないのですが、「何々せよ!」という指令にはそんな力があるのですね。5つの指令を達成すると、「かみはあい」という5つの言葉になりました。子どもたち全員、神の愛を受け取りました。
6節、「わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」と主は約束されます。十戒は私たちに対する「幸あれ」という神様の指令の十の言葉です。
2023.07.09
「神を畏れる」出エジプト1章8節~2章10節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
アブラハム、イサク、ヤコブの神様は、ご自分の民であるイスラエルをヨセフによってエジプトへと導かれました。ナイル川下流のゴシェンという所で、彼らは神様の祝福の中おびただしく増えました。エジプトで過ごした年月は430年だったと「出エジプト12:40」にあります。しかし、今朝8節を読んでいただきましたように、時の経過と共にエジプトに対するヨセフの貢献は忘れられ、強大になったイスラエル人たちは今やエジプトの脅威となっていました。そのために、虐待が起こります。
ここを読む時に、現代も同じことが行われていることを思います。世界で難民となっている人々は9000万人に上るそうです。出エジプトの出来事は昔の事ではなく、現代の私たちにも大きなメッセージを送っていると言えます。
イスラエルはエジプトの国と敵対するつもりは全くありません。国を乗っ取ること等、毛頭考えていません。ただ、神様が彼らをエジプト人よりも祝福されたということです。これには悪はありません。
悪の発端は「不安」です。エジプトの王を見ると良く分かります。彼は国民に警告しました。イスラエル人に注意せよ。もし戦争が起こって敵側に付いたら大変なことになる。
みなさん、現在のロシアの指導者達も同様です。彼らは国際社会で優位に立てないことへの不安と不満に駆り立てられているのです。ですから、国際社会は正しい知恵を働かせ、諦めずに何度も何度も和解に向かうようにアプローチが必要です。
イスラエルの代表者とエジプトの王が会談をして、不安の解消に努力していたら事態は変わっていたでしょう。しかし、それは行われませんでした。
悪はどんどん連鎖反応を起こして膨らんで行きます。強制労働による虐待が始まり、労働内容が重くなり、男児殺害、男子撲滅。不安は、とうとう殺人へと連鎖して行きます。
「神を畏れる」とは、神を信じてこの悪の連鎖をストップさせることです。
エジプトにいるヘブライ人の助産婦はシフラとプアと言う名前です。祈り会で学びました。この二人の助産婦を日本名にするなら美子と光子。つまり、この二人は普通の平凡な女性です。最近はもっとおしゃれな字が使われますが・・。エジプトの王という強大な権力者の前では、本当に小さな存在です。その彼女達が悪の連鎖をストップしたのです。蛇の様に賢く、鳩の様に素直な善をもって悪に勝ったのです。このことは、彼女たちがすごく勇敢であったというよりも、神様が彼女たちに働いて、知恵を授けたのです。
しかし同時に、彼女たちには悪を否定するという確かな意思が働いていました。17節に、「助産婦たちは神を畏れていた」とありますから、神様の意思に従います、という信仰をもっていたので、神様からの知恵に気づかされたのです。
彼女たちが、男の子を生かしておいたので、王は問い詰めます。美子と光子は、「へブライ人の女は、エジプト人の女と違います。私たちが行く前に生まれているのです」と言って、王に賢く答えます。この二人は神様へのアンテナの周波数をいつも合わせていたのです。神様の心にアンテナを合わせていたのです。自分がどんな行動をすることが神様に従うことなのか、そこにアンテナを合わせていたのです。二人は、NHKの大河ドラマの主役になれない、それどころか画面の端っこのただ通り過ぎるエキストラの一人というような、平凡な小さな存在が、神を畏れて歩むなら悪をストップさせる存在になりうることを私たちに証しています。自分が何者であるかよりも、神様の心をどれ程知っているか、それが重要だということを教えてくれます。小さな私には、何だか元気が湧いてきます。
さて、2章に出て来ます赤ん坊を3ヶ月間隠していた母親もこの善をもって悪と戦います。彼女も神様を信じて悪と戦いました。最後まで諦めないで戦い続けました。防水を施した籠に赤ん坊を入れてナイルに浮かべたのです。命を最後まで大切にしたのです。
よく考えますと、この時生まれて来る子どもは、苦しむために生まれて来る様なものです。この子は生まれない方が良いと言う考えも、出て来て当然の状況だったと思います。ここにも悪が連鎖する機会がありました。しかし、どんな命も生きることを大切にしたのです。これが神を畏れることです。
現代は医学が進歩して、受精卵が着床して数か月でしょうか、赤ん坊に異常がある場合発見できます。お医者さまは親にそのことを告げ、出産するかどうか尋ねるそうです。異常を持って誕生することは困難や差別が予想できます。しかし、その命を親が決定していいのでしょうか。この赤ん坊の母の取った行動は、神を畏れるとは、困難に立ち向かう力も神様が備えて下さるという信仰であることを感じます。
さて、私たちはナイルに浮かべられた赤ん坊の姉にも注目しましょう。この子は、神を畏れる大人の後姿を見て育ちました。とうとう親の手では守りきれなくなった弟を、彼女は最後まで諦めませんでした。王女がふびんに思った時、つかさず「その子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んでまいりましょうか」と申し出ます。悪の連鎖はぎりぎりの所でこの姉によってストップしました。
詩篇33:18(新改訳)に「見よ、主の目は、主を畏れる者に注がれる」とあります。
神様は後にエジプトの王女の子になったモーセを、イスラエルの指導者として立て、神の民イスラエルを生み出します。神様は、悪の連鎖をストップさせるだけではなく、更に積極的に「善の連鎖」を作り出す人として、この民を選ばれます。
私たちキリスト教会は、この神の民の流れに属する集団です。キリストがもう一度来られる時、世界にある全ての悪を完全に消滅させられます。ですから、私たちはキリストが地上での最後の夜に、弟子たちに伝えた言葉を忘れないようにしましょう。「あなたがたは、世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。ヨハネ16章33節」また、使徒パウロがローマ教会信徒に伝えた「悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。ローマ12章21節」とあります。
今、求められているのは、神様を畏れて行動することです。そして、悪は連鎖するものであることを、私たちは覚えなければなりません。旧約聖書の知恵は伝えます。「主を畏れることは、悪を憎むこと。箴言8章13節」と。人を憎むのではなくて、神様を信じて悪を憎むのです。人を憎む時、悪の望み通り悪は連鎖するからです。キリストこそ悪の連鎖をストップされた方です。私たちには出来ない十字架によって完全に悪をストップされました。敵を愛し迫害する者のために祈られます。悪が最高潮に達し、もう止めることの出来ない勢いとなって、罪のないイエスに向かって、人々は「殺せ、殺せ」と叫びました。しかし、キリストはその全てをご自分の身に引き受けて悪をストップされたのです。
また、このキリストの十字架は、その愛の力によって「善の連鎖」を作り出す力を持っています。キリストによって人は、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制と言う善の連鎖を作る者とされます。私たちもこれを願い求めましょう。
最近のニュースは暗いものが多いです。そして、同じ様な事件が次々と起こっています。このような状況の中で私たちの使命は大です。それは、それぞれの置かれた立場で、悪の連鎖をストップさせる終点になり、善の連鎖をスタートさせる起点となることです。それぞれの立場によってその点の大きさは違います。政治の指導者は世界に直接影響を与える大きな点に立っています。私たちはこの世界の中で小さな一点です。しかし、家庭の中では重要な一点ではないでしょうか。この事は全ての人に与えられている神様からの使命です。悪が連鎖しています。その発端は不安でした。神様を知らない所から不安が生じます。神様を畏れ、神様を深く知りましょう。
2023.07.02
「新しき事をなさる主」創世記45章1~15節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
「見よ、新しい事をわたしは行う」イザヤ43章19節にこうあります。
先週は兄エサウの怒りを買って、叔父ラバンのもとに逃げたヤコブでした。20年後、二人の妻と二人の側めと11人の子どもを連れて叔父さんのもとを出ます。33章で兄弟の和解が語られます。しかし、エサウとヤコブの和解はお互いがハグできるところまでの和解とはなりませんでした。今回のヨセフと兄たちとの和解はそれとは比較にならないほど感動的です。ですからここは「和解、第二弾」という感じです。
ヤコブにはカナンの地に来て12人目の子ベニヤミンが生まれます。11番目がヨセフです。父ヤコブは彼を猫かわいがりし、ヨセフは10人の兄たちから憎まれます。父ヤコブ自身もお兄さんとの関係で大変な人生となりました。にも拘わらず、どうしてこんな子育てになるのでしょうねー。人間って本当に未熟です。お父さんの特別扱いが原因で、ヨセフはエジプトに売り飛ばされる羽目になりました。
ヨセフと兄たちの変化
ところが、神さまのなさることは不思議です。ヨセフはエジプトの権力者となったのです。家庭を持ち二人の子が与えられ、苦しみの二十代のことも癒されていく日々でした。そんな中、ヨセフの前に伏し拝んだのはヨセフのその後を知らない10人の兄たちです。飢饉が起こり食料を求めてエジプトに来たのです。ヨセフは一目見て直に兄たちだと分かりました。彼はかつて見た夢を思い出します。(42:9)その夢とは「太陽と月、11の星が自分にひれ伏す」ものでした。神様はどういう意図があってこの夢をヨセフに見せたのでしょうか?
ヨセフの心の中は怒りが爆発します。「あなたがたはスパイだ!」と叫びます。兄たちは自分を穴につき落とし、その後どうなったのか不明となった事態を父ヤコブにどのように弁明し、長い年月その事をどう思いながらこれまで過ごしてきたのか・・との思いがこみ上げ、怒りが爆発したのです。
これは人として当然の怒りです。また、兄たちの犯した大罪は見過ごされてはならないものです。妬みから弟の命を奪おうとしたのですから。スパイ扱いされ驚いた兄たちは、自分たちは正直者だと弁明するために家族構成を伝えます。「末の弟は父と一緒にいますが、もうひとりはいなくなりました」と。いなくなったのではなく、自分たちがあの日、深い穴に突き落とし、ヨセフをどうしようかと相談している間に、行方不明になったのです。
ヨセフは、スパイ容疑を晴らしたいのなら、兄たちの一人が故郷に帰り、末の弟を連れてくるようにと言って、三日間全員を監禁します。三日後、ヨセフの要求が変わります。一人を残して九人で故郷に帰り、末の弟を連れてくるようにと言います。
神様はまずヨセフに「新しき事」を行われました。九人で帰らせる事にしたのは、故郷の家族に沢山の食料を持って行かせるためです。三日間という時間は、ヨセフの怒りを静め、しみじみ故郷の家族の事に思いを馳せる時となりました。
一方兄たちはどうだったでしょうか。「私たちは弟のことで罰を受けているのだ。あれが穴の中から『ここから出して!助けて!兄さん』と叫んだのに、われわれは聞き入れなかった」と互いに悔います。神様は兄たちにも「新しき事」を行なわれました。兄たちは新しい人に変えられていました。その様子を見ていたヨセフはもうすっかり赦しています。
神様は、ヨセフの内に燃え上がった怒りに愛の注ぎを与えて静め、兄たちには自分の罪と真っ直ぐに向き合うための愛を注がれました。彼らは、主の愛によって新しき人とされます。しかし、ヨセフはまだ自分の身を兄たちに明かしません。
神様には更なるご計画があるからです。
神の更なる計画
九人の兄たちが父ヤコブのもとに帰りました。事の経緯を父に報告した彼らは、ベニヤミンを連れてエジプトに引き返す事を父に願いますが父は許しません。しかし、飢饉はますますひどくなり、もう一度食料を買いに行かなければならない事態となります。43章14節、父ヤコブは「私も失う時には、失うのだ」と全能の神に子どもたちを委ねます。ヨセフを失ったとき、兄たちではなく何故最愛のヨセフなのだ!と思ったでしょう。自分がヨセフを使いに出した事をどれほど悔やんだことでしょう。お前たちが仲良くしてくれていたらヨセフを使いに出さなかったのにと自分の偏愛を棚に上げ、兄たちを責め、心しおれていました。神様はそんな父ヤコブにも「新しき事」を行われたのです。「私も失う時には、失うのだ」と、一切を神に委ねます。父ヤコブも新しい人に変えられます。彼は兄たちと共に最愛のベニヤミンをエジプトへと送り出します。
ベニヤミンと共にエジプトに再びやってきた兄たちは、ヨセフの屋敷に招き入れられ、食卓に着きます。その時、兄弟の順番に座らされたものですから、兄たちはいかなる面持ちだったでしょうか。そして、ヨセフの弟のベニヤミンには他の兄弟の五倍のご馳走が置かれました。
さて、彼らが父のもとに帰る時に、ヨセフはもう一つ確かめたい事がありました。それは、自分が兄弟の中からいなくなった後、兄たちと弟ベニヤミンとの関係はどうだったのかということです。自分が兄弟と一緒にいたときには、妬まれていました。自分の弟であるベニヤミンです。父ヤコブの偏愛に端を発している兄弟関係の悪さ、自分がいなくなった後父が尚更ベニヤミンを大切にした事が予想されます。兄たちとベニヤミンの関係はどうなのか、それを確かめたかったのです。ヨセフは自分の杯をベニヤミンの袋に入れ、帰路に着かせ、あなたがたはそれを盗んだと言って試し、ベニヤミンが残るようにと言います。44章16‐34節。すると、三男のユダが必死に懇願します。33節、「どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなたさまの奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと帰らせてください」。彼の懇願は、父への愛と弟ベニヤミンへの優しさに溢れていました。
ヨセフは確認したかった全てを確かめる事が出来ました。兄たちがすっかり新しい人になったことです。ヨセフの兄たちに行った策略の背後に、神さまの働きを感じます。
自分の身を明かした時、ヨセフの兄弟たちへの思いが堰切って溢れます。
和解の喜びは、今日読んでいただいた箇所にあるとおりです。
45章15節「ヨセフは兄弟たち皆に口づけし、彼らを抱いて泣いた。その後、兄弟たちはヨセフと語り合った。」
ヨセフにあの夢を見せられた神さまの意図、それは、彼らの内に新しい事をなさんため!それは、私たちの内に新しいことを行うため。一羽のすずめのごときヨセフ。そのヨセフをめぐって神様は新しきことを行われました。それは和解の喜びが与えられた事です。私たちにはどうでしょうか。神様は主イエスによって、私たちの中に新しいことを起こしてくださいます。それは十字架の血による私たちと神様との和解です。また、洗礼によって神様との和解の喜びが生まれます。ヨセフの和解の喜びが感動的であったのと同様に、神様との和解の喜びは、それは素晴らしいものです。この喜びは感情ではなく、理性で深く受け取りたいですね。
「見よ、新しい事をわたしは行う」神さまは私たちを新しい人に造り変えてくださいます。私たちもそのことを願いつつ歩みましょう。そして、私たちの日常において、互いの愛の輪が広がって行くことを祈り求めて行きましょう。
2023.06.25
「天の門」創世記28章10~17節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
ヤコブとは誰なのでしょうか。先週はアブラハムが一人息子イサクを神に捧げた箇所から聞きましたね。そのイサクには、双子が生まれます。兄がエサウといい弟がヤコブです。
10節はヤコブがベエル・シェバからハランへの旅の途中だということを伝えています。危険な長旅に出なければならなくなった原因は、ヤコブが兄の受けるはずだった祝福を奪ったからです。ヤコブはお母さんの言われた通りに従うママ大好きっ子でした。兄が受けるはずの祝福を受ける事が出来たのもママの作戦のお陰です。けれどもその結果はというと、兄のエサウから恨みを買うことになり、家を出なければならなくなりました。「ラバン叔父さんの所へ逃げなさい」27:43。ママの言う通りに旅立ちました。ヤコブはどんな思いで家を出たのでしょうか。
「神様の計画ってどうなってんのかなー。」「ラバン叔父さんってどんな人なんかなー」「そこでの生活どうなるんやろ?」ママから離れて初めて「ひとり」に成ったヤコブでした。ひとりになる事は重要ですね。ひとりになれないと本当の意味で他者と共に歩めない、と言われた方があります。含蓄のある言葉ですね。
ヤコブはボヤキ・心配し・不安で・悩みながらハランへ旅立ったに違いありません。これが私たちの日常の姿ですね。私たちは日常を軽視して、特別な事を重要視します。しかし、この日常が人生の99%以上です。私たちは日常に注目しましょう。そこが変わったら人生も変わります。
11節、「とある場所」に着きました。そこは地名がありません。特別の場所ではない、日常のありふれた場所です。時間も特別に決めたものではありません。たまたま丁度その場所に着いた時に日が沈んだのです。
お腹が減ったらご飯を食べるのと同じで、日が沈んだら一日の活動の終わり、旅の足を止めて休む。これは自然な成り行きです。私たちの日常もこの連続ですね。
ヤコブはその所にあった石一つを取って枕にしました。たまたま足元にあった石の中から枕に成りそうなのを一つ選んだのです。ヤコブがしたのもそれと同じで、特別な事ではありませんでした。平凡な事なのです。イスラエルを訪れて、その地質が全く異なることに気づきました。起伏の非常に多い、緑ではなく石がゴロゴロした土地です。
12節今日も一日疲れました。横になりそのうちに眠りに入り、夢を見ます。これも、私たちがしていることですね。そこは、いつもの特別でない本当に日常生活の場なんです。聖なる、恐れ多い、厳粛な、神聖な、そう言う場ではなくて、私たちの日常生活の場が天と繫がっている。すなわち、そこに主がおられるのです。
これから未来に向かって出発するヤコブに。そして今日のあなたにも、この礼拝で神様はこの事を話しておきたいのです。
そして、16節の御言葉をあなたの心に刻んでください。「まことに主がこの場所におられるのに、私は知らなかった」。日常の一つひとつの場面、そこも天と繋がっています。時にはボヤク事もあります。心配することもあるでしょう。でも、思い出しましょう。心に刻んだものを。「そうだ、ここも天と繫がっている、ここにも主がおられる。」その主が約束されます15節「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、・・・決して見捨てない。」この神の言葉があるので何の問題もありません。何の心配もいりません。皆さんこの15節の御言葉も心に刻んで下さい。讃美歌90番「ここも神の御国なれば」は、悪魔の力が世に満ちても、ここも天と繋がっているんだから、主こそがこの世を治められるのですから、我が心には迷い無しと、元気を出してクリスチャンライフを進めようではありませんか、と歌います。この賛美歌が新聖歌に載っていないのが残念です。
船に乗って向こう岸へ渡る途中、激しい風の為に波をかぶって船が沈みかけ、弟子たちが死にそうになった時がありましたね。その時、この船にイエス様が一緒におられる事を弟子たちは思い出して「イエス様、起きて下さい。助けて下さい。溺れそうです。」「おぼれ死んでも何とも思われないのですか」と言いました。するとイエス様が「なぜ怖がるのか」と言われました。わたしがいるじゃないか。この沈みそうな船、ここも天と繫がっているよ、怖がる必要はないんだよ。
生粋のユダヤ人と言っていたナタナエルは、今日のヤコブ物語を子どもの頃から聞いていました。そんな彼を弟子にする時、イエス様は「神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見る事になります」と言われました。イエス様は天と地を繋ぐ生きた梯子となられたのです。
「イエス様、こんな汚い穢れた所と天とを繋げるのですか。」「そうだ、繋ぐんだ。神様、そうする事に問題があるなら、その問題を全て私が背負います。」十字架は天と地を繋ぐ梯子です。イエス様はその為に命を捧げて下さいました。天との繋がりの可能性の無い所、それは不幸な死を遂げる事です。犯罪人の一人として死刑になる事は最も救いようがありません。イエス様はその死を受けられました。しかし、そこに神様が働かれ、最悪の所も天と繋がったのです。イエス様が復活して弟子たちに現れたのは、単なる生き返りではありません。天と繋がらない所はもはやどこにも無い、と言う宣言です。教会は今日まで約2000年に渡って、この事を代わりに宣言して来ましたし、これからも宣言していく使命を持っています。
私達がイエス様と繋がるなら、そこは天と繋がっています。先月のイスラエル旅行はツアーではなくて、フリートラベルでしたので二つの問題がありました。それは言葉と移動手段です。でも次男が一緒に行きましたので、通訳兼ナビを彼が担当してくれました。ですから路線バスで旅行ができました。彼はスマホのナビをフル活用して、どの路線のバスに乗るのか、発車時間や乗り継ぎ路線等すべて調べてくれました。聖書に出てくる場所には、だいたいバス路線が繋がっていました。ナビのおかげで、毎日ちゃんとホテルまで帰ることができ、無事旅行を終えました。皆さん、今日は、イエス様のナビを是非受け取って帰って下さい。どんなナビなのでしょうね。天国ボタンが付いているナビなのです。それを押してください。そうしたら、皆さんと天が繋がります。
17節でヤコブは「ここは天の門だ」と言っています。ヨハネ10章9節には「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。」と主は語られました。天と地が繋がりましたが、入口はただ一つ、イエス・キリストを信じるという門です。この門をくぐる者には、豊かないのちをお与えになります。イエス・キリストと共に歩む人生だからです。
2023.06.18
「神の小羊」創世記22章1~18節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
我が家の長男は私の父にとって初孫でした。実家で出産をしましたので、その喜びようは半端ではありませんでした。爺バカそのものです。笑えば「いい顔してる」と言って喜び、初めてのしぐさを見ると今日はこんな事をしたと言って喜びました。長男はお風呂が大好きで本当に気持ちよさそうにするので、父がその役割を買って出ました。その様子を横で見ていましたら、またまた爺バカで「友ちゃんのこの顔この顔ほら見て、まるで王子様だよ。」と言うのです。鼻が高いとか頭のかたちがいいとか、かわいくて仕方がないのが分かります。3,4歳の時に、父と自動車で出かけようとした時です。父がエンジンをかけました。すると「おじいちゃん、まだお祈りしてないよ」と言ったというのです。父はいつもお祈りをしてからエンジンをかけていたからです。この事は耳にタコができるぐらい父から聞かされました。よほどそれが嬉しかったのでしょう。
アブラハムにイサクが生まれたのは100歳でした。祝福の源となると神の召しを受けた時から、イサク誕生まで25年も待ったのです。老夫婦にとって待望の独り子でした。私の父に初孫ができたのは57歳ですが、あれほどかわいかったのですから、アブラハムにとって年寄子のイサクはどんなにか、かわいいことでしょう。
そんな親子の日々に神様はイサクを捧げるようにと求められます。
2節「あなたの息子、あなたの愛するひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい」。あなたの愛するひとり子イサク、と言われていますので、アブラハムがどんなにイサクをいとおしく思っているかを神はよくよくご存じです。それなのに、どうしてこんな事を要求されるのでしょうか。
イサクはこれまで神さまに捧げ物をするために、何度もお父さんと一緒に出掛けたでしょうね。彼は何が必要か良く分かっています。ですから、家を出る時から今日はどうして献げ物の羊がいないんだろう、と思っていました。
山を登る父は険しい顔つきです。いつもは、鼻歌と言いますか、讃美が自然に出て来て、アブラハム親子には本当に喜びの日なのです。何故なら焼き尽くす献げ物と言うのは、神様との関係を回復するために行われるものだからです。前回献げ物をした日から次の献げ物の日まで、神さまを悲しませることを私たちはしてしまいますね。それをゆるしてもらうために焼き尽くす献げ物をするのです。しかし今日は何時もと様子が違います。一言も話さず、父の顔から血の気が引いています。アブラハムは一足一足踏みしめながら、神様に問うていました。「あなたは全ての時をお定めになるお方だと、私は信じております。そして全てを委ねております。しかし私たち老夫婦から、かけがえのない、いとおしいこの子を取り上げられるのですか」と。アブラハムの足は重く、できることなら麓に引き返したい思いでいっぱいでした。
しかし、神様の返答はありません。祭壇を築く頂上は目の前に迫って来ます。7節「火と薪はありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊は、どこにいるのですか」イサクも父の様子に決死の覚悟で尋ねます。8節「わたしの子よ、小羊はきっと神が備えてくださる」。父と子は共に全てを神様にお任せすることを決意します。父と子は信仰によってお互いの信頼を与えられました。神様への信頼は、親子の間に信頼関係を築くものなんですね。
この出来事の約2000年後、神様はご自分の独り子イエスを人類全てのための一回限りの、最後のいけにえとして十字架に架けることを計画されます。しかし、その計画はたんたんとなされたのではありません。
「父の涙」という賛美歌があります。父なる神の胸の内を歌っています。
こころに迫る 父の悲しみ 愛する独り子を十字架につけた
人の罪は燃える火のよう 愛を知らずに今日も過ぎて行く
父がしずかに見つめていたのは 愛する独り子の傷ついた姿
人の罪をその身に背負い 父よ彼らを赦して欲しいと
十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙
十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛
アブラハムがイサクを捧げる時の胸の内は、そのまま父なる神さまが独り子イエス様を十字架に架けるとお決めになった時と重なります。神様はアブラハム親子の覚悟をご覧になった時、ご自分も将来のキリストの時を覚悟されたのではないでしょうか。
イエス様は十字架に架かられる夜ゲッセマネの園で、「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのようになさってください。」と祈られました。イエス様ご自身もアブラハムが告白した「小羊はきっと神が備えてくださる」、この信頼に力づけられておられたのではないでしょうか。私の信頼する父なる神は、私のいのちを父のご計画のために最善に使ってくださる、とお任せになったのです。
アブラハムの時と違うのは、イエス様は実際にいのちを捨ててくださったことです。神様はご自分がお造りになった者たちが、滅んでいくことを何としても食い止めたいとお考えになりました。そのために独り子イエス様を人の罪を取り除く「神の小羊」となさったのです。まだ洗礼を受けておられない方は、是非この神様の御愛を受け取ってください。それによって神さまがどんなに恵み豊かな方であるかを知ってください。
ヨハネ福音書3章16節にこうあります。
「神は、実に、その独り子をお与えになったほどに、世(あなた)を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。神が御子を遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」
私たちはこの恵みによって何時も支えられ生かされています。
2023.06.11
「祝福の源となる」創世記11章27~12章4節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
創世記12章からアブラハムの物語が始まります。1節にはアブラムとありますが、17章でアブラハ(ハモーン、多いの意、この語をほのめかしている)ムに名前を変えるように神から支持されます。それは、一家族の父アブラムが諸国民の父へと高められ、神の祝福の源となるとの約束の確かさを表わすものです。
この物語は25章まで続いて行きます。神さまが初めに彼に語り掛けられたのは75歳(4節)の時です。彼の生涯は175歳(25章)ですので、彼は生涯の内100年間神さまに導かれる道を歩んだことになります。
まず、11:27から32節を注目して下さい。これはアブラムの家族の紹介です。それも、かなり詳しく紹介されています。
アブラムはテラの息子です。男三人兄弟の長男。カルデア人のウル(現在のイラク)という場所で三人とも家庭を持ちます。お父さんのテラは三人の息子に子どもが与えられ、大家族になることを楽しみにしていたと思うのですね。
ところが一番下の弟ハランがお父さんより先にウルで亡くなります。ハランにはロトと言う男の子がいました。アブラムはサライという女性と結婚しますが子どもがいません。31節、お父さんのテラは何か理由があって、ウルではなく他の場所で暮らそうとします。その時に連れて行くのは孫のロトと長男アブラムとその妻サライです。
ロトのお母さんはどうしたのでしょうか。アブラムのお母さんもいませんね。この家族は沢山の悲しい出来事に希望を失っていたんですね。
ですからこの紹介は、アブラム家族の単なる紹介ではないのです。でも、テラは何とか前を向いて生きようとしました。しかし、目的地のカナンにはたどり着けずに、ハランに住み着きます。32節、父テラはハランで死んでしまいます。長男アブラムはどれ程寂しく、心細かったでしょうか。弟ナホルのいるウルにもう一度帰ろうと考えたかもしれません。
しかし、この家族紹介は、決して特別不運な家族ということではなく、私たちの日常を現しているのだと思います。何も問題のない家庭というのは、稀なことではないでしょうか。
さてもう少し戻って、11章前半でバベルの塔の物語があります。ノアの家族に「生めよ、増えよ、地に満ちよ」と言う祝福によって、神様の計画は人間が地上に増え広がることでした。でも、11章4節人間は「全地に散らされないようにしよう」と考えました。バベルの塔の物語は人間が神さまの計画を阻止しようとした、神さまのとの関係が再び壊される事件でした。その結果、異なる言葉を使うようになったことも伝えます。
この神への反抗の出来事の後に生まれたテラとアブラムたちです。出身地であるカルデアのウルというのは、メソポタミヤ文明で栄えたユーフラテス川の下流の町で、現在のイラクであり、異教の神々を信仰する町です。ですから、テラ家族もそういう神々を信仰していたことでしょう。しかし、異教の神を信仰していたアブラムを神さまは召されたのです。神さまの恵みは、いつも神さまの方から与えられます。ノアの洪水の後の虹も、人間を戒めるためではなく、神さまが人間を再び滅ぼさないと決意された、ご自分を戒めるもので、私たちは神さまの憐みを知りましたね。
12章1節「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように』」
「生まれ故郷、父の家」とは、その人が今まで頼りにしてきたものです。「わたしが示す地へ行く」とは、それを手放して、神の祝福を頼りにする人生へ歩み出すことです。「あなたは、新しい道を歩め、つまり、神に敵対する道ではなく、神と共に歩む道に一歩踏み出せ。アブラムよ、あなたの一歩から全人類への神の祝福が広がるのだ。」と言われています。神さまと共に歩む、これが神の祝福です。
失意の中にあるアブラムに、「祝福の源となる」という大きなミッション(使命)を聞いた時、聖書には書かれていませんが、この新しい出発に、目の前の霧が晴れていくような感覚を経験したのではないでしょうか。4節「アブラムは主の言葉に従って旅立った」。「私は、くよくよしている場合じゃない」と、神さまを信頼し踏み出します。失意の中のアブラムに、大きな希望が与えられたのです。先週、福岡教会の矢野先生の就任式に行きまして、幸いな召命の証を聞いてきました。先生は心臓の病気をもっておられます。別府ナザレン教会に導かれたことによって牧師から献身を勧められたのですが、病気のゆえにそれは無理だと断ってこられたそうです。しかし、ある日、「私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」2コリ12:9の御言葉が迫り、今のあなたのままで踏み出しなさい、という声を聞いて決心されたそうです。矢野先生も困難を神にお任せして、アブラムのように出発されました。聞きながら、自分の献身の時を思い起こし、新たな思いにさせて頂きました。
「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて信じた」とロマ4:18にもあります。
祝福の根拠はあなたにあるのではありません。(ヨハネ15:16、ロマ3:23.24)神さまがあなたの一歩を祝福されます。私たちは神さまの祝福を唯信頼いたしましょう。
「祝福の源となる」との神の約束をお聞きになった皆さん、アブラハムに与えられたミッションを、今朝、皆さんが受け継いでくださいと神さまは言われます。あなたを通して祝福を増え広がらせると言われます。私たちの人生も時にはつらい経験や悲しい現実に遭遇します。アブラハムと同じように困難があります。この出発の後も彼はさまざまな困難に遭遇します。是非25章まで創世記を読んでください。でも、神さまはそこに祝福を用意しておられます。私たちはこのことを疑わないで信じましょう。神さまの祝福は目には見えない時もあります。でも、信頼することによって気付かせてくださいます。
キリストは十字架と復活において、神さまが全面的に信頼できるお方であり、全ての人に祝福を約束できるお方であることを証明されました。
祝福の約束は、今、キリストを信頼して一歩を踏み出す一人ひとりに、信仰の旅立ちに出発する者に引き渡されます。アブラハムに約束された祝福は、今、キリスト者に引き継がれています。この素晴らしい神の祝福を持ち運ぶミッションに加えられていることを喜び応えて行きましょう。
2023.06.04
「神の契約の虹」創世記9章1~17節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
ノアの家族と箱舟に残った生き物たちは、再び現れた大地の上に立って新しい歩みが始まりました。8章21節で「人は心に思う事が幼いときから悪いのだ」と言われた神は、そんな罪あるままの人間を再び祝福してくださるのでしょうか。これはとても気がかりなところですが、神は1章と同様に「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と言って祝福して下さいました。
神が造られた地と空と海の生き物たちは「あなたたちの前に恐れおののく」と、神は最初の様な人と生き物の間の信頼関係が失われたことを指摘されます。しかし、命ある生き物を全て人の手に委ね、引き続き神は人に対する信頼を示しておられます。
そして、神は被造物全体の食の秩序を変更されます。以前は血を流さない草や木の実を食糧としていました。しかし今度は命の犠牲が伴う肉食が許されます。しかし、神が動物の命の主であることには変わりはありません。
6節の「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される」という、殺人禁止の理由は、法律や倫理や生命の畏敬にあるのではありません。「人が神にかたどって造られたからだ」とありますように、人間が神にかたどって造られた、神と共に生きるパートナーであるという理由です。神は罪ある人の命を、洪水以前よりも更に心に留め、尊厳あるものだと宣言し、もう一度7節で祝福を宣言されます。「あなたたちは産めよ、増えよ、地に群がり、地に増えよ」と。
8節以下、神は世界の基として人間と全ての生き物との間に、契約を立てられます。「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる。二度と洪水によってことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。世々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわちわたしは雲の中にわたしの虹を置く。これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。」と。
皆さん、この契約の注目すべき点は、神からの一方的な約束、つまり神が今後世界を滅ぼすことは決してないと保障する契約です。そのしるしである虹は、人間にこの契約を思い出せと言われているしるしではありません。そうではなくて、神の方が、虹を見て、この契約を思い出す、そういうしるしなのです。16節「雲の中に虹が現れると、わたしはそれを見て、神と地上のすべての生き物、すべての肉なるものとの間に立てた永遠の契約に心を留める。」と、神ご自身がその約束を思い起こすと言われているからです。
そして、神は自分が創ったものが生きることを永遠に願われます。
この「神の契約の虹」に関するエッセイを紹介します。
父の遺言、という題です。「聖書が好きだ。聖書といっても小説とか漫画とかじゃなくて、聖書を読むのが好きだ。朝から聖書を読んでいると『なんだ、試験勉強じゃないのか』ガックリと肩を落とす母の残念そうな顔が好きだ。途中トイレに行けば「門をたたきなさい。そうすれば開かれる」と兄がマタイによる福音書の一節を引用する。そんなお茶目なところも好きだ。メイク中の姉に「今日も目がキレイだね」と言うと「人の長所ばかり見ているからね。目が澄んでいれば全身が明るいんだよ」と聖書の一節を引用しつつ、アイラインをグッと引く。あの得意顔も好きだ。そんな我が家も十一年前、震災ですべてを失った。家は津波で流され、大切な父も流された。いくら探したかもわからない。いくら泣き叫んだかも。あの時の津波のしょっぱさは、きっと、涙の味だった。だけど、奇跡は起きた。震災から二週間後、瓦礫の中から父の聖書が見つかった。これは父が生前良く読んでいたもの。何だか父の里帰りみたいで胸が熱くなった。「ノアの洪水の後、もうしないよって約束のしるしに神さまが虹をかけたんだよ」父は私によく聖書の話をした。私が「じゃあ虹は笑顔のしるし何だね」と言うと、優しく微笑んだ。いま、懐かしい思い出を胸に、どうしても父を奪った津波が「ノアの洪水と重なってしまう。怒りや哀しみ。どうしようもない気持ち。もちろん、ある。それでもここに父の聖書が残る意味は、きっと、ある。これは父の遺言であり、愛のメッセージ。「何かあったら聖書を読んでごらん。きっとチカラが湧いてくるよ」天国からささやく父の声が聴こえた気がした。
6章から始まった洪水物語ですが、人の悪が増大するのをご覧になった神は、ご自分が人間を造ったことを後悔し、心を痛められ、全てを滅ぼそうと決意されました。ところが、この物語は、今後は世界を滅ぼさないという神の決意で終結します。「この地のある限り」虹によって示された「神の契約」はすべてのいのちに向けられた神の肯定であり、世界の歴史のうちに起こるどのような破局も、人間の腐敗や反抗も、この神の肯定をいささかも揺るがすことはできません。洪水と「神の契約の虹」の出来事は、キリスト・イエスの十字架と復活によって表された、神の義(裁き)と愛の究極の出来事を指し示しています。この素晴らしい神様と今週も共に生きて行きましょう。
2023.05.28
「心を痛める神」創世記6章5~8節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
今日の聖書を読んで新聖歌の230番の歌詞が浮かびました。「十字架のもとぞ、いと安けき、神の義と愛の会えるところ」という歌詞です。今朝のノアの洪水物語は6章9節から9章17節までです。その内容は「神の義と愛の会えるところ」と言うことができます。
この物語は、神さまが天から地上の様子をご覧になり、大雨を四十日間降らせ、大洪水を起こされ、「悪いことはしてはいけない」という教訓を後世に伝えることでも良いのです。しかし、聖書のメッセージは教訓ではありません。6節、神は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められました。神さまは自分の心の内を伝えておられるのです。悔み、心を痛め、残念に思う事は、私たちが日ごろ体験していることですね。それをここで神様が体験しておられます。つまり、神さまがここで私たち人間に非常に近づいておられるのです。
最初の人アダムとエバを造った時も非常に近づかれました。創世記2章6節土をこね、人を形作り、鼻に口をつけて命の息を吹き込まれました。これは、アーティストが素材に触れ、素材と一つになって作品を作るのに似ています。また、エデンの園では、まるで家族のように暮らされました。しかし、6章では触れたり、声を掛けたりする外面的なことから、内面的なことに変わっています。
7節「主は言われた」とあります。神は誰に告げようとしておられるのでしょうか。
1章3節の「光あれ」も同じでした。太陽や月は後でつくられますから、この光は光線ではなくて、この世界に対する神さまの祝福の思いが爆発した言葉でした。今回も同じなんです。「わたしは人を創造したが、これを地上から拭い去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも、空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する」。神の心の内の思いです。
創世記は伝えますね。人間は、神との契約を破って禁断の実を食べ、カインの弟殺しという殺人事件があり、4章では復讐心を燃やすㇾメクがいます。神との関係が壊れたことから人間の罪は雪だるまが転がってどんどん大きくなるように増大して行きました。世界の現実はひどい状態です。しかし、神さまは世界を滅ぼしたいのではありません。
この世界を造られるとき、大きな決心をされ、燃える思いで創造された世界です。神はなお祝福したいのです。しかし、それを妨げる現実のゆえに、神は悔み、心を痛め、残念に思われるのです。神の祝福を妨げる悪に対する怒り、これらすべての思いを、私はねたむ神である、と聖書は伝えます。その神の思いが爆発しました。その結果が大洪水なのです。
神は初めに「ことば」で天地を創造されました。第二の創造である洪水では、そうではありません。6章6,7節の後半にもう一度注目してください。後悔し、心を痛める、とあります。神さまは言葉ではなくて「思い」を注いで二度目の創造をされました。洪水は、自分を造ってくださった神を神としない人間に対する怒りの現れです。ここに、不正を見逃せない義なる神がおられます。人はこの怒りを忘れて神を畏れない者になってはなりませんね。
私たちの神さまは義なる方であると同時に、忘れてならないのは、人を我が子として見ておられることです。我が子の為に、悔み、心を痛め、残念に思う神さまです。ホセア11章8節にこうあります。「ああ、エフライム(イスラエルの民、神の民のこと)よ。お前を見捨てることができようか」と嘆き悲しんでご自分の愛を示される神さまです。ですから、この洪水は、神の義と愛が出会うところなのです。
8節で新しい人間ノアが登場します。「ノアは主の好意を得た」となっています。ここは原文では「ノアは神の目に恵みを見つけた」という言葉に成っています。みなさん、ノアはどんな恵みを見つけたのでしょうか。
ルカ2章30節のクリスマスの記事の中で、シメオンがこう言っています。「わたしはこの目であなたの救いを見た」シメオンは赤ん坊のキリストに救いを見ました。ノアもまた、創造者である神による救いを見たのではないでしょうか。悪に満ちた世界から救われ、神の祝福の中を歩むという恵みを見つけたのではないでしょうか。シメオンが見た救いは、人の罪によって神と人との壊れた関係をキリストが修復してくださるという救いです。キリストの十字架と復活は、神の義と愛の究極の形です。
神の救いを見つけたノアは神の指示通り働きます。洪水に備えて箱舟を造りましたね。神に従順であることの幸いを彼は知ったのです。このように、神は人を造り変えることのできるお方です。
皆さん家が汚くなったり傷んできたら、リホームして綺麗にしますね。すると見違えるように良くなります。しかし、第二の天地創造といわれる洪水の後、人が完全な人とはなりませんでした。最初の人とは見違えるような人間にならなかったのです。今の社会の現実を見れば良く分かりますね。8章21節「人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。」とあるように、相変わらず人は悪いままでした。にもかかわらず、二度と洪水を起こさないと神は約束されたのです。世界を滅ぼそうとされた神は、決して滅ぼさないと決心する神となってくださったのです。『私は人間を丸ごと受け入れよう』と決心する神となられました。
こころを痛められる神は、ご自分の決心さえも変えてくださる神なのです。
ノアのように私たちが神に出会う時、神の創造の業が起こります。新たに造り変えられるのです。ノアのように神の目に恵みを見つける時、私たちの場合はキリストの十字架と復活に恵みを見つける時、他者を愛する人へと造り変えてくださいます。2コリント5:17にこうあります。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」。この恵みの中を今週も歩ませていただきましょう。
2023.05.21
「命の木」黙示録22章14節
説教:鈴木龍生 師
礼拝メッセージ(音声のみ)はこちら
「命の木」
黙示録22章14節
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
創世記2章9節
主なる神は、見るからに好ましく、食べるに良いものをもたらす、あらゆる木を地に生えいでさせ、また園の中央には、命の木と善悪の知識の木を生えいでさせられた。
神は愛の対象として人を創造されました。彼らが生きていく上で必要一切が備えられたエデンの園は楽園そのものであったのです。命の木」は人間が神と共にあって、神の命に満ち溢れた自由の中にあることを象徴しています。天地万物を創造された偉大な神は、大自然の中で得られる安らぎに私たちは「神」の臨在を覚えることが出来きるのではないでしょうか。
創世記3章22節
主なる神は言われた。「人は我々の一人のように、善悪を知る者となった。今は、手を伸ばして命の木からも取って食べ、永遠に生きる者となるおそれがある。」
禁断の木の実を食べた人間、さらにエスカレートする反逆に対する危惧。神の苦しみと悲しみが表現されています。
人がそれ(命の木の実)を取って食べることは、罪を負った人間がそのまま永遠に生きることを意味しています。罪をはらんだままに永遠に生きることは決して幸いではありません。
そこで、神は命の木に至る道を守るためケルビム(智天使)と炎の剣を置かれたのであります。
アダムとエバは、「命の木の実」を食べませんでした。
命の木の実を食べることは、おそらく永遠に生きることを意味することになったかもしれません。
罪の性質をはらんだままに永遠に生きることは、彼ら人間にとって決して幸いなことではなく、大変不幸なことであり神の心を痛めることであります。
この命の木の近くにいる。その意味は、神の臨在の近くにいると言う事であります。
「命の木」は人間が神と共にあって、神の命に満ち溢れた自由の中にあることを表しています。
しかし、命の木から離れさせられたことは、人間と神との関係が壊れ、神と永遠に生きられなくなったことを意味しています。
しかし、新約聖書には、神が人々に新しい命及び命の木の実を与えることが言明されています。
「裁きの神」は「救いの神」でもある。愛する人間に対する神の壮大な誰も思いつかない計画が実行されていくのであります。エデンにあった命の木とは別に、聖書の中には「命の木」という表現が他にも何度か出ており、常に比喩的もしくは象徴的な意味で用いられています。
箴言3章18節
彼女をとらえる人には、命の木となり保つ人は幸いを得る
「命の木」は神が与えてくださる霊的生命と祝福の象徴的表現であります。
もともとこの命の木は善悪の知識の木と共にエデンの園の中央にありました。
また黙示22章2節に見られるように都の川の両側にこの木があります。
このことから、これは救いによって与えられる「永遠の生命」の象徴と考えることができます。
箴言11章30節
神に従う人の結ぶ実は命の木となる。知恵ある人は多くの魂をとらえる。
箴言13章12節
待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。
箴言15章4節
癒しをもたらす舌は命の木。
このように、神が与えてくださる「霊的な生命」「祝福」すなわち「永遠の命」を「命の木」と表現している訳です。
黙示録2章7節
耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。勝利を得る者には、神の楽園にある命の木の実を食べさせよう。
創世記3章24節によれば、アダムの堕落以後、命の木はケルビムと炎の剣にとによって、人間が近づけないようにされました。しかし、勝利を得る者は、(これはキリスト者を表しています。)再びその木の実を取って食べることが許されると宣言されています。いのちの木の実を食べさせていただく時、罪の結果、人の内に入ってきた死の力は無力なものとなるのであります。
ヨハネ15章5節
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
その新しいイスラエル(教会)は、霊的な命を神からのみ受けていく贖われた人々の群れなのです。
主イエスを信じる者たちは、主イエスの体(木)につながれた器官(枝)であり、主イエスの体が十字架上に犠牲としてささげられることによって与えられる「真の命」にあずかっているのです。
「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。」ということばは、6章56節で「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」と語られたことばであります。
実を結ばないぶどうの枝は、切り落され、乾燥させた後に燃やされた。(15:6)
このように投げ捨てられないために、わたしたちは主イエスに堅く結びつき続けましょう。
黙示録22章14節
命の木に対する権利を与えられ、門を通って都に入れるように、自分の衣を洗い清める者は幸いである。
新しいエルサレム(教会)では、罪の呪いが永遠に取り去られているので、神の民は命の木の実を食べることが出来きます。「衣を洗う」との表現は、キリストによる罪の赦しを意味しています。
これは小羊の血で、自分の衣を洗って白くする者(7:24)と解釈することができます。
「幸いである」と言われる者は、命の木に対する権利を与えられている者であり、門を通って都に入れる者であります。
私たち教会は、私たちが主イエスに心を向け、主イエスの助けを求める時、主イエスが私たちに「命の実」を結ばせてくださることを信じます。
「命の実」とは?→「愛の実」であります。
ガラテヤ5章22、23節
これに対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、 05:23柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
キリスト者としての確信
ヨハネ5章14節
はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。
「命の木」すなわち神の臨在がこの時代、この瞬間、この場所におられるキリスト者お一人ひとりと共にあることを確認し確信し、不穏な状況の中でも平安と感謝をもって共に歩んでまいりましょう。
2023.05.14
「あなたはどこにいるのか」創世記3章8~10節、20~24節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
この世界の全てを造られた神が、木の間に隠れているアダムとエバを見つけることが出来ないはずがありません。神の目はどこに注がれているのでしょうか?コリントの教会の信徒の間で幾つかの合言葉があったと思います。『あなたは何に目を注ぎますか?』きっとこの合言葉があったと思います。『わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます』。神が目に見えるものではなくて、見えないものに目を注がれるから、教会もそうしました。目に見えないものとは、何でしょうか?。例えば人間同士なら『心と心の繋がり』ですね。神もアダムたちとの繋がりに目を注いでおられました。
神は人との繋がりを深くするために、人を神のかたちに、神に似せて造られました。しかし、その繋がりが無くなっているのに気付いたので、「あなたはどこにいるのか」と呼ばれました。
除菌・抗菌・殺菌、という言葉が今、世の中で流行っていますが、神はエデンの園をその様な無菌で無害の環境とはなさいませんでした。その反対でした。食べはいけない実のなる木を、神はわざわざ一番目立つ所に植えられました。誘惑するヘビを造ったのは神です。ですからエデンの園は誘惑に囲まれていました。その様な中でこそ、神と人の繋がりが深められます。『わんぱくでもいい、たくましく育って欲しい』というキャッチフレーズで、昔、ハムの宣伝が行われていました。親が子を鍛え、子は親を信頼して鍛えられる。母の日の今日、皆さんが思い出す母はいつも優しい母でしょうか。違いますね。優しい言葉であっても間違いを指摘してくれました。その様にして親と子の繋がりが深められて行きます。エデンもそういう関係が深まる所でした。ところがヘビがそれを壊そうと誘惑します。神の人に対する特別さを妬んだのかも知れませんね。
ヘビは人に対して自信たっぷりに言い切りました。「決して死ぬことはない」。それは、『食べても大した問題にはならないよ』という誘惑でした。ヘビの最後の殺し文句「目が開け、神の様に善悪を知るものとなることを神は御存じなのだ」は、『神はあなたに対して隠しごとをしている。それでも神を信頼するの』という誘惑でした。アダムとエバの神に対する信頼がぐらつきました。彼らは初めて神との繋がりを失いました。すると、裸の発見と恥じるという体験をしました。何が起こったのか彼らは分かりませんでした。彼らはとりあえずイチジクの葉を綴り合わせて裸を覆い、恥をしのぎましたが、神の声を聞いて初めて現実を知らされました。人にとって最も大切な神との繋がり、信頼関係を失っていたのです。
そして、全てが狂い出しました。①かつて神は人を助ける者として野のあらゆる獣と、空のあらゆる鳥を造って人の所に連れて来られました。ところが今回、蛇と人は敵対関係に変わり、動物と人の関係が変わりました。②男性に相応しい助け手として造られた女性でしたが、男女の間に不理解やすれ違いという矛盾が起こりました。例えば、出産の苦しみは男性には理解してもらえません。女性は男性の愛を求めるのに、男性は女性に支配を下します。人と人の関係もこのように変化しました。③人が土を耕し守り、土がそれに答える、そう言う良い関係も変わります。人は汗を流して苦労しますが、土はそれに報いてくれなくなりました。
この三つの変化は禁断の実を食べた罰ではありません。罰とは食べて死ぬことです。この三つの変化は私たち人間の現実を表わしています。その原因に気付かずアダムたちがイチジクの葉で取りあえず繕った様に、私達もその原因に気付かないで、人生を歩んできました。信仰を持つとは、それに気付かされることですね。
朗読されなかった11-19節で、弁解の余地は無いアダムとエバに対して、神は言い訳をする機会を与えられました。ところが、彼らは弁解ではなくて神を批判しました。しかし神は忍耐して聞かれました。禁断の実を食べたら結果は死です。ところが結果はエデン追放でした。蛇と今回の事件には直接関係のない大地は呪われましたが、アダムとエバだけは呪われませんでした。
4章1-2節を読むと、神はエバに子を産んだ後の喜びを与えられました。アダムに対して神は、労苦が永遠に続くのではなくて、死でもって終わることを告げられました。神は裸の二人に皮の衣をプレゼントされました。命の木の実を食べて永遠に生きるとは、永遠に誘惑と矛盾の中を労苦して生きて行くことになります。ですから命の木に至る道を閉鎖されました。これらは全て神の配慮でした。
この様に、人は一番大切な神との繋がり、信頼関係を失いましたが、神はそんな人と何とか関わって行こうとされました。ここに神の愛が示されています。旧約聖書を読むと、この神の愛が貫かれていることが分かります。人の一番大切なものを回復する方法はただ一つしかありませんでした。神の愛です。神は後に神の独り子の私たちの主イエス・キリストを、神の子という身分を捨てさせ、ナザレのイエスとして、徹底的に人とならせ、それも神との繋がり、信頼関係を失った人と同じにならせ、十字架で苦しい空しい悲しい人生を閉じさせ、死なせられました。愛する独り子イエスの死によって、かみは人に対する愛の極みを示されました。そして、神は見捨てられたとしか言いようがなかったイエスを三日目に死人の中から甦らせて、目には見えないが神が人となられたこのイエスと共におられた。神はわたしたち人間の真ん中に来て下さった。それが明らかになりました。
このイエスが私たちのキリストとして言われます。「神はあなたに言われます。あなたはどこにいるのか」「わたしを信じなさい。神は私と共におられるように、あなたとも共におられます。まずわたしをあなたの主、救い主、キリストとして、迎えて、私と繋がりましょう。わたしに繋がるということは神と繋がるということです。」キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものが過ぎ、新しいものが生じる。何が生じるのでしょうか。それを為さるのは天地を造られた全能の父なる神です。期待しましょう。出発前に、祈りましょう。まず、イエスによって、皆さんで叫びましょう「わたしは、ここにおります」。神は言われます「あなたがいるそこは、どんな所なんだ?」それぞれ神に打ち明けましょう。「わたしがいる所は、神さま、この様な所です。」そして願いや思いを伝えましょう。その様にして、それぞれ祈りましょう。
皆さんの上に、神のお導きとお守りがありますように。
2023.05.07
「神・人間・世界」創世記1章26~31節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
アンパンマンで有名になった、漫画作家のヤナセタカシさんは、有名になる前、思うように仕事が進まず落ち込んでいた中で、童謡『手のひらを太陽に』を作詞したそうです。『僕らはみんな生きている、生きているから、楽しいんだ、悲しいんだ、歌うんだ』をそれぞれ二回繰り返し、他の生き物、『ミミズだって、オケラ、アメンボ、トンボ、カエル、ミツバチ、スズメ、イナゴ、カゲロウだって、みんなみんな生きているんだ、友達なんだ』、と歌います。これは人が世界中の生き物の中の頂点にいるとか、人が高等(複雑)で、ミミズは下等(単純)だとか、そういう考え方に反対する歌です。いい歌です。その通りです。人は他の生きものと共に生きています。『しかし、人はそれだけではない、』それにプラスアルファーして欲しいことがある』と、神は皆さんに言われます。
★神の人に対する燃える思い
神は特別に人だけ他の生きものと違うものに造られました。神は人を造る前に26節「我々にかたどり、我々に似せて人を造ろう」と言われました。他の翻訳の聖書はこの26節の頭に「さあ、」を付けています。これは誰に言っているのでしょうか。独り言でしょうか。他の生きものを造る時に、こんな事をおっしゃったことがありませんでした。考えて、考えて『よし、そうしよう』と何か大きな決心をされた、神の人に対する燃える思いがここに現れています。この事を知って綴った歌が詩篇8編です。4-5節を紹介します。は「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは 人間は何者なのでしょう。人の子とは何者なのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」。神の燃える思いが人に注がれています。その人にあなたも含まれています。
★私たちは神と深い関係を結び、人と人の関係を育むように造られている。
神は人を神にかたどり、神に似せて造られました。これは神に向かい合える存
在に、コミュニケーション出来る存在に、神が語り人が聞き、そして応える存在
に、神と人格的な深い関係を持つように造られた、ということです。また、神は
この基本的な神との関係から、人と人の関係も深められて行くようにされました。しかし、今この関係がおかしくなっている現実がありますね。私たちの救い主
イエス・キリストが来られたのは、この神と人、人と人の関係を回復させる為で
す。イエスはそれを父と二人の息子のたとえで話しておられます。それは勤勉
でまじめな兄が、父に赦され関係を回復してもらった弟を、どうしても受け入れ
られなかった、という話しです。父が二人の息子に求めたのは、まじめに勤
勉に父に仕える事よりも、まず父との関係と、その関係がベースになって生
まれる兄弟同士の関係が深められる事でした。
★私たちは全ての生きものとその住みかの地球という星のお世話係です。
それから神はもう一つの決心をなさいました。「そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう」。この支配するという言葉は特別な言葉で、神に油注がれて選ばれた王様が行う支配の事です。神はこの王様のことを牧者、羊飼いと呼ばれました。ですから、この支配とは頂点に立つ支配のことではありません。羊飼いが羊にする様に、お世話をすることです。神は人の生き甲斐のことも考えて人を造られました。『そうだ、わたしが造った全ての生きものの、この地球という星のお世話係をしてもらおう。これはやり甲斐があるぞー』。しかし、今この地球という星は病気になりかけています。
私たちの救い主イエス・キリストが来られたのは、人だけではなくて全ての生きものも(皆さんのペットも含まれます)、共に解放されて、神の子どもの栄光に輝く自由にあずかるためです。ですから、地球というこの星にいる全ての生きもののお世話係は、何とやり甲斐のある務めでしょうか。音楽グループ『いきものがかり』の名前はメンバー結成時の男子二人が同級生で、クラスの生きものの係をしていた事に由来するそうです。私たちはこの地球という星の「生きもの係」です。キリストは人も含めてすべての生きものの救いの為に来られました。
★私たちは違いを受け入れ認め合って共に生きるように造られている
さて、神は27節で人を「男と女に創造された」。男か女かのどちらかに限定するなら「男か女に創造された」となるでしょう。『男と女』これは違いを表現しています。違う者が集まり、その違いを受け入れ合い、すれ違いを赦し合い、感じ方考え方の違いを忍耐し合い、謙遜、寛容、柔和、節制が育まれる、神は人を共に生きるように創造されました。ですから、キリストが来られ、天に帰られた後、聖霊がこの地上に遣わされ、教会が生まれました。神はこの教会に属する者に、聖霊を通して働き、今言いました、忍耐、謙遜、寛容、柔和、節制という実を結ばせて下さっています。
★神は被造物の私たちと丸ごとの受容、関わり続ける覚悟を最後に示された。
31節「神はお造りになった全てのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」。皆さん、私たちはそうは思えない現実の中で生きています。しかし、神は極めて良かった、と言われる。なぜでしょうか。人間を含めてすべての生きものに対して、そしてその住みかであるこの世界に対して、心から受け止め、関わり続ける覚悟を、つまり愛とはこの覚悟で進むことですね、神は最後にそれを示されました。後にイエスはニコデモにこの神の覚悟を「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」と伝えました。今この神との関係を確り結ばせていただきましょう。洗礼をまだ受けていない人は是非、洗礼を受けてこの神と正式に結ばれましょう。では、ここからそれぞれの世界に出てまいりましょう。皆さんの上に神のお導きがありますように。
説教後の祈り、
天地を造り、私たち人間を特別に造って下さった神さま。イエス・キリストによってご自分の事を、天の父と呼んで良い、とまでおっしゃって下さった神さま。この礼拝を感謝します。
あなたとの特別な関係を、今日もう一度結び直します。
全ての生き物と、その住みかであるこの地球という星のお世話係という甲斐ある務めを、忠実に果たさせて下さい。
違いを認め合い、尊重しつつ、一致点も見つけ、共に生きる幸いを味わう者として下さい。
今日、私たちに対するあなたの決意と覚悟の真実に出会いました。私たちもそんなあなたに応答して歩みます。どうか私たちの信仰の歩みを導いて下さい。
2023.04.30
「光あれ!」創世記1章3節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
神は言われた。「光あれ。」 皆さん、この光は何でしょうか。今、外に出たら太陽の光がありますね。夜に外に出たら真っ暗な空で光る月や星が見えます。神はそれらの光を放つ太陽や月や星を、この「光あれ」と言われたズーと後に造られました。ですから、この「光あれ」と言われた光は、太陽の光でも、月の光でも、星の光でもありません。では、この光とは何でしょうか。
その答えは創世記がどの様にして生まれたかを知った時に分かります。
旧約聖書の内容の中心は、私たちの救い主イエス・キリストが来られる前に、神が神の民イスラエルと共にこの地上で、どのように働いて下さったのかにあります。神の民のスタートは、エジプトで奴隷として苦しんでいた人たちを、神が脱出させて神の民とされたことです。そして、その最後は築いた国が滅ぼされ、神の民が散々ばらばらになってしまったことです。ですから、出エジプト記がスタートです。
国が滅ぼされ、神の民が散々ばらばらになった時、彼らの指導的立場にあった人たちがバビロニア帝国へ奴隷の様に連れて行かれました。「お前たちの神は何をしているのだ」と笑われ、バビロンの神を拝むように命じられました。帰る国はありませんし、いつ帰れるのかもわかりません。家は壊されたのではないでしょうか。その内に信仰の拠り所だったエルサレムの神殿も破壊されたという知らせが伝わって来ました。
この様な希望が全く見えない時 に、神は創世記から始まって、続いて出エジプト記・・・と聖書を整える作業ができるように、導いて下さいました。ですから、創世記1章は、地球がどの様にして誕生したのかを皆さんに伝えたいのではありません。そうではなくて、皆さんに神さまからのメッセージを伝えたいのです。
神は言われた「光あれ」。この光とは「希望がある」と言う光です。
すると、今日読んでもらいました創世記1:3の前の2節も何のことなのかが分かって来ます。混沌とか闇とか深淵とか、非常に暗い言葉を使って、希望が見えない、予想が全くつかない、非常に不安な状態のことを表わしています。これは神の民が味わった希望が全く見えない現実を表わしています。そして、私たちが今住んでいるこの地球も、私たち自身の人生も、希望が見えず、予想も全くつかないことがありますね。皆さんも、思い当たるでしょう。
そのような暗い現実の中で、神が一番におっしゃった言葉、それが「光あれ」です。これは結婚披露宴で結婚生活をスタートされた新郎新婦に掛ける激励と祝福の言葉「幸あれ」と似ています。今、教会に帰って来た私たちも礼拝後にそれぞれの生活の場へとスタートします。そこに希望が見えなくても、そこは3節の「光あれ」と言う神の力ある言葉が響き渡る場です。そして、それは夢ではありません。「こうして、光があった。」のです。私たちの生活の場は本当に神が関わっておられる、ということです。希望を持つとは期待することです。神に期待しましょう。礼拝後の総会で教会は新たなスタートをします。そこにも「光あれ」が響きます。
イエス・キリストは十字架で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と、叫ばれたのは詩編22編の1節でした。この詩編は苦難の中でもなお神に期待する、という歌ですから、「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、成し遂げて下さった恵みの御業を、民の末に告げ知らせるでしょう」と結んでいます。十字架のキリストは「神に期待しても無駄だ」と言う現実に見えました。しかし、神はキリストを死人の中から甦らせ「それでもなお期待するように」とのメッセージを発信されました。「十字架のキリストが復活した」。これは創世記の「光あれ」と同じ力強い言葉です。これは人間に対するだけではありません。全ての肉体を持つ生けるものへの希望の言葉です。
信仰とは『それでもなお神に期待することです』。今日一日に期待する。結果が期待通りでなかっても次を期待する。新約聖書ヘブライ11章13節「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住いの者であることを公に言い表したのです」。創世記と同時代に記されたと言われているイザヤ40章31節も同じ信仰に立っています。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。私たちも神に期待して進みましょう。
2023.04.23
「αでありωである神」ヨハネ黙示録21章3~7節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
「わたしはαでありωであり、はじめであり、終わりである」。これは神の力強い宣言です。すなわち、あなたのはじめから終わりまで、あなたの愛する人のはじめから終わりまで、この世界のはじめから終わりまで、わたしが神である、心配いらない、全てをわたしに任せなさい。昔、ローマ兵の百人隊長が、自分の大切な部下が病気で苦しんでいた時に、イエスに「ただ一言おっしゃって下さい」と言いました。その時のイエスの一言と、この神に宣言は同じです。それ程に力強い言葉です。
神が聖書を通して一番伝えたいことは、神が皆さん一人ひとりを愛しておられる、という事です。聖書の最後にこの黙示録がある、という事もその愛を示しています。旧約聖書にまだ預言者がいない時に神は士師という人物をお立てになりました。その一人のサムソンが愛するデリラに自分の秘密を明かしました。秘密を明かすことは愛の証明でした。黙示と翻訳されていますが、原文の意味は『隠されたことを明かす』です。黙示録が書かれた時代は、『クリスチャンになるという事は、苦しみに会う事と言うことだよ』と言われる程に迫害の激しい時代でした。それで神は迫害下のクリスチャンに隠して来られたことを明らかにして、御自分の愛の本気度を示し、クリスチャンが希望を持って生きるようにして下さいました。ヨハネがそれを神から聞いて書き残したのが、このヨハネの黙示録です。この黙示録の1章1節を見て下さい。「イエス・キリストの黙示」とあります。イエス・キリストに関してまだ明らかになっていない、もう一度この地上に戻って来られた後のことがヨハネの黙示録に記録されています。
先週、私たちはイエスが最後の夜に弟子たちに話された言葉を聞きました。思い出しましょう。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある」。それから言われましたね。「行ってあなたがたの場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうしてわたしのいる所に、あなたがたもいることになる」。これは、イエスが戻って来て、私たちは天国に迎え入れられる、という約束の言葉でした。
しかし、もう2000年以上も経ちましたが、未だに戻って来られません。最初は数年で戻って来られると思い、弟子たちはその日を待ち望んでおりました。ところが、いくら待っても戻って来られません。それで教会は自らの今後の歩みについて決断が求められました。ペトロもパウロも亡くなりました。迫害がより激しくなって来ました。それで祈りの内に示されたのが新約聖書をつくることでした。キリストによって明らかになった救いとは何か、キリストによって救われたクリスチャンの目指すべきものは何か、それを次の世代へ正しく伝えなければなりません。その結果私たちの手元にあるこの聖書が生まれました。
パウロがマケドニアにあるフィリピの教会に宛てた手紙が新約聖書に入れられました。その手紙の3章20節を紹介します。「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています」。皆さん、私たち現代のクリスチャンにとりましても、キリストが再び戻られる事に希望があります。これが新約聖書のメッセージです。
さて、神はイエスを復活させただけではなくて、天に帰らせ、神の右の座、審判者の座、メシア、キリストの座に就かせられました。ですから、そのキリストが再び戻られるときは裁きの時になります。アメリカの映画の「地獄の黙示録」が日本で話題になり、その影響もあると思うのですが、日本の多くの人は黙示録がこの世が終わる、人類が滅びる日の事を預言する書であるかのように誤解しています。黙示録は、私たちクリスチャンに今を生きる希望を伝える書です。イエスは裁く方として戻って来られますが、私たちのために十字架で命を犠牲にして愛を示されたお方でもある、と私たちは信じます。今日読んでいただきました黙示録21章は、イエスが戻られた後の秘密を明かしています。すなわち、天国の事です。最初の天と最初の地は去って行き、新しい天と新しい地が現れ、神の住まわれる新しい都エルサレムも現れます。そして、何が起こるのか3節-4節が告げます。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとく拭い取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」。
皆さん、天国を場所の事としてだけで捉えていませんでしょうか。ヨハネは明かします。天国とは、神と人が一緒に生活する、そのような時代の始まりのことです。これらの言葉が玉座の方から聞こえた、とヨハネは言っていますが、5節では、更にその玉座に座っておられる方がヨハネに直接語られました。「見よ、わたしは万物を新しくする」「書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である」。神は嘘をつきません。神の言葉はひと言で十分です。ところが神は尚言われました。21世紀の科学的な思考で物事を判断する様に教育された、疑い深い私たちのために神は言われます。「これらの言葉は信頼でき、また真実である」。
そして、もう一言6節以下の言葉を付け加えられました。「事は成就した」。神は更にダメ押しの言葉を付け加えられて、このことが空想でも作り話でもない事を強調されました。英語の聖書はこの言葉をIt is done!と、翻訳しています。丁度ドミノの最初の一枚が倒されたのと同じです。皆さん、私たちはこの新しい時代に向かってといます。何ものもそれを止められません。だから、私たちのライフプランもおのずとかわります。死で終わるプランになっていませんでしょうか。人の命や人権はいつまでも問われる事柄です。だのにそれを無視して戦争をしたり虐待をしたりするのは、死んだら終わりという考えから来ています。人類最初の殺人を聖書は創世記4章で伝えています。誰もいない所で弟を殺したカインに神さまが言われました。「お前に弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる」。これは、人の命が死で終わるライフプランに対する警告ですね。
私たちのゴールは死ではありません。私たちは十字架にかかって死んだイエスに自分自身を重ね、イエスが私たちに代わって私たちの罪のために裁きを受けられた、と気付かされ、私たちの罪を赦す神の愛に触れます。しかし、神の計画は続きます。実はイエスを十字架につけられた最終目的がもう一つありました。息を引き取って三日経って完全に死んだイエスの肉体に、人を支配し、人に死をもたす罪の頭が登場し、我が物顔で勝利宣言をしたその時でした。神は天からその罪の頭目がけて大きな力注ぎ、我が物顔でいる罪の頭を処断し致命傷を与えました。その結果、死んでいたイエスの肉体が罪から解き放たれ甦えりました。私たちは死にます。しかし、それで終わりではありません。神はイエスを死人の中から甦らせ、私たちをも罪の支配から解放し、私たちが死を乗り越えて前に進む道を通してくださいました。私たちのゴールはその先にある、神と共に生活する時代です。
「わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである」。これは永遠の昔から永遠の未来に至るまでの、神の支配の時の流れを表わしています。何が起こりましょうとも、どんな結果になりましょうとも、どんな状態でありましょうとも、たとえ神を否定しようとも、他宗教に属していようとも、死刑囚でありましても、この神の支配の中から逃れ得る人間は一人もいません。教会の象徴となっているαとωは、そういう神の支配の流れの中に私たちがいることを象徴しています。天地が始まった時から、次の新しい天地の時代に至るまで、そういう超ロングな神が支配される時の流れの中に私たちはいます。教会は十字架と共にこのαとωの文字も象徴として大切にして来ました。二つの教会を紹介します。一つはドイツのシュパイアーにある大聖堂の祭壇上に吊られている大きな十字架です。もう一つは私たちの教会に近い、北九州にある日本基督教団八幡西教会のマークです。
私たち人間は高慢になりやすいです。戦争をして神をたたえるのはいかがなものでしょうか。神を畏れて今を生きなければなりません。そして、私たちは、神を畏れるだけではありません。イエス・キリストのゆえに、神の愛の支配の中にあることに感謝します。
ローマ8章38節「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主、キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。
今日もわたしたちは礼拝後、それぞれの生活に戻りますが、そこはαでありωである神の支配、イエス・キリストによって示されたその愛の支配の中です。だから、それに相応しく歩みましょう。神を畏れ、その戒めを守りましょう。特に隣人を、共に神の愛の中に置かれている一人ひとりとして、自分自身の様に愛しましょう。高ぶってはなりません、謙って、この神の支配と神の愛の中に置かれていることに、先に気付かされた者として、この神を伝えましょう。
2023.04.16
「父の家・・あなたは独りじゃない」ヨハネによる福音書14章1~3節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
心を騒がせるな、と言われるイエスの言葉を聞く前に、もう一つ注目して頂きたい箇所があります。ヨハネ13章の33節です。「わたしが行く所にあなたたちは来ることができない」。弟子達にとりましても、また、私達にとりましてもこの言葉は大変ショッキングな言葉だと思います。この言葉は私達一人一人が身近な者から必ず聞くことになる言葉ですし、私達一人一人もいつかは必ず語らねばならない言葉でもあります。人間は独りなんですね。私たちは一人じゃないですね。家族や友人や、そして教会に来たら皆さんと会えます。しかし、事が起こった時に独りであることに気付かされます。
多くの人が同感するから何年たっても歌い続けられている美空ひばりの、ひとり酒場で飲む酒は・・・と歌う演歌は、人間が独りである事の悲しみ、はかなさ、そして最後は怨みへと変わる思いを歌うところで終わっています。しかし、聖書はそれだけで終わらないで、もっと人間が独りであることを掘り下げて見つめます。
明日十字架でイエスは死ぬのですから、死を越えてペトロはもはやイエスに着いて行けません。しかし、その前に、彼はイエスの事を知らないと三度否定して、自らイエスを独り残して捨てて逃げ去ることになります。死ではなくて、人自身が人を独りへと追いやる、という現実が、私たちの周りでも起こりますね。ですから皆さん、「心を騒がせてはならない」と弟子たちに言われ言葉は、私たちに言われている言葉なのです。。
さて神は当初「人は一人でいるのは良くない」ともおっしゃって人間を独りではない者として造られました。神は人間を神にかたどって神と向かい合う者、コミュニケーションする者、神と共に歩む者として造られました。また男と女に、すなわち人間同志も独りではなくて互いに支え合い寄り添いあって生きる者に造られました。
私たち人間の最初の人アダムに神が最初に語られた言葉があります。これは私たちが忘れてはならない言葉ですね。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪を知る知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。神は単に命じたのではありません。神の命令、神の戒め、そこには神の思いが込められています。「あなたは絶対に死んではならない」。
しかし、蛇は誘惑します。「神の言うことなんか大した問題ではない」。誘惑ってこれなんですね「大した問題ではない」。禁断の実を食べて以来、二人は互いに自分自身を蔽って隠すようになりました。お互いが裸だから恥ずかしいから隠したのですが、もう一つの事がここで起こっています。それは、共にいた二人の間に覆いを置くことで、お互いが独りになる方向へと向かい出した、ということです。そして、彼らは神からも自分自身を隠して、自分から独りになる道をも進んで行きました。そして最終的に独りであることが明確になる、死へと向かって行く事になりました。あのエデンで起こった事件は、私たち人間が、死によって誰もついて来れない、全くの独りという闇の中に追いやられ、また、生きていてもこの死の働きによって病気や障害や老い等の中で、独りである事を味わわされ心騒がせられるようになった事を伝えています。
それで人間は色々な宗教を作ってまいりました。悟りを開いたり、優れた教えを確立したり、神秘的な境地に自分を置いたりしました。しかし、どんなに立派な偉人や聖人であっても、死はやって来ます。そして死は最後に宣言します「神なんかいない。仏もいない。救いもない。そんな教えは全く役立たない。お前は独りだ、誰もついて来れない、全く希望が無いんだ」。死の影響は全ての人生に及び、全ての人の心を騒がせます。皆さん!これが私達の日常の現実です。しかし、そこに救いをもたらす為に私達のイエス・キリストは来て下さいました。特に、イエスが私たちと同じになられた、すなわち、人間は独りであるという重大問題をイエスも担われたから、私たちに救いをもたらすことが出来ました。
イエスが弟子たちと共にエルサレムに着いた時に、大勢の群衆がホサナホサナと言って歓迎しました。しかし、このエルサレムで十字架につけられて殺されるイエスは「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください。』と言おうか。ヨハネ12:27」とおっしゃいました。神の子なのに本当に私達と同じ人間になられ、私達の問題を担っておられるからイエスは「今、わたしは心騒ぐ」と言われました。
4月2日に聞きました。イエスが十字架の上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれたことも、十字架のイエスが全く私達と同じ人間になられた、独りになられたという事を証ししています。
ヨハネ14:1「心を騒がせるな。神を信じ、またわたしを信じなさい」。信じるとは、イエス・キリストが私達に代わって十字架で死んで下さって、私たちと同じく独りになられたことと、神がそのイエスを復活させて、イエスが独りではない、私達も独りじゃない、神にかたどって、神に向かい合い、神と共に歩む、神との関係を回復させて頂いた者である、そして、その神によって私たち人間もたがいに寄り添い、共に生きる様に造られている。このことを信じて、今を生きる。それが神を信じ、イエス・キリストを信じることですね。
2-3節でイエスは父の家にある住まいの事を話されました。『父の家にあなたがたのための場所の用意ができたら私は戻って来る。今度は私と一緒に父の家へ行こう』。天にある父の家に私達の住む場所があるとは、そこに私たちの実家がある、故郷がある、今は離れているが、私達がこの世界を創造された神の家族である、独りじゃないということです。これが福音です。だから全世界に出て行って全ての造られたものに宣べ伝えます。戦争は人を独りにすることですね。私たちは戦争反対です。あなたは独りじゃない、それを私たちは伝えましょう。まず、近くにいる人に。どうすればいいのでしょうか。声を掛けるんです。手を差し出すんです。傍に寄り添うんです。言葉でも態度でも伝えられますね。こでも、私たちには限界があります。それでいいんです。その時に伝えるんです。ここから先は私は着いて行けませんが、最後まで共におられる方がおられます。主です。これが福音ですね。お祈りしましょう。
父なる神さま、御言葉をありがとうございます。主が共におられ、こうして主にある兄弟姉妹とも共に礼拝しています。感謝します。福音を携えて、これからそれぞれの生活の場へ遣わされる私たちを助けて下さい。イエス・キリストのみ名によって、祈ります。
2023.04.09
「空の墓」マルコによる福音書16章1~8節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
私たちが愛する者と最後のお別れをする様に、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメも最後のお別れに墓を訪れました。三人が買った香料は、液体か粉なのかはっきりしませんが、いい匂いのする非常に高価なものでした。それと混ぜる油も、ゴミや不純物を取り除いた高価な油だったと思います。私の想像では、きっと母マリアが彼女たちに頼んだのでしょう。「最高の香料と最高の油で最高の香油を作って、せめて最後に、私の息子に塗ってやっておくれ」。
昔、赤ちゃんイエスを抱いて神殿に行った時に、年寄りのシメオンが近づいて来てマリアにイエスの十字架の預言を言った時に「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」とも預言をしました。その通りに、息子イエスの処刑という余りにも大きなショックのため、母マリアは立ち上がれなかったようです。三人の女性たちは母マリアの代わりにそれを持って、朝ごく早くに墓に向かいました。これが、今から2000年前、先日地震の被害を受けたシリア近辺にある、イエスが生まれた地方での、葬りの習慣でした。しかし、それが叶わず、三人は香油を持って帰って来ました。
手元に戻って来た香油を見て母マリアは、思い巡らしたでしょうね。少女の頃に天使から受け取ったイエス誕生のお告げ。「この子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」。それから、東の国から変わった来客があったことも思い出したでしょうね。あの時、今手元にある香油の材料となる乳香と没薬を彼らから受け取りました。今生まれた子に、葬りの時に遺体に塗る香油の原料となる乳香や没薬は必要ありません。不思議でした。今その子が十字架にかかって死に、墓に納められたのにその香油が塗れません。それで彼らは乳香と没薬を葬りの先駆けとしてイエスに捧げて帰って行ったのでしょうか。マリアは知っていたでしょうか。数日前にベタニア村でイエスが食事の席に着いておられた時に、一人の女性が葬りの準備として、ナルドの香油をイエスに注いだことを。この戻って来た香油は何なんだろう?
三人の女性たちが正気を取り戻してその疑問が明かされました。「実は、墓は空っぽだったんです。誰かが盗んだのでも隠したのでもありません。天使が私たちに告げました。『十字架につけられたナザレのイエスは復活なさって、ここにはおられない』。私たちは空っぽになった墓の中を確認してきました。そして天使は言いました『このことを弟子たちとペトロに告げなさい』」。マリアは驚いたでしょうね。そして、イエス誕生の予告を天使から聞いて信じた時の様に、信じたでしょう。「あなたたち、急いで弟子たちとペトロに知らせてきなさい」。
「空の墓」という説教題を予告しましたが、「戻って来た香油」という題でも良かったかなと、今は思っています。十字架につけられたナザレのイエスが復活したということは、その墓が空っぽだったということは、最後に塗る予定だった香油が不要になったということは、私たちの人生の最終ゴールである死に大変化が起ったということです。そして、それ向かって進んでいる私たちの歩みにも変化が起こるということです。
この大変化とは何でしょうか。人間しか行わない『葬る』という行為は、人間とは何かを示しています。人間とは一人になることに(特にその究極の死において)非常に不安を持つ生き物です。だから葬るという行為をします。飯塚、嘉麻、田川、宮若、各市に点在する古墳から、身に着ける装飾品や生活用品が墓から出土されるのは、死者が死後も不安なく過ごして欲しいという願いが込められています。日本の仏教が進めて来た供養も、この不安から来ています。今、社会問題になっている先祖の霊をこの不安から解放する為に、献金を強制する宗教は、まさにこの不安を利用する悪質な宗教です。生きている人が死んだ人のために何を行っても、死んだ本人に届くわけがありません。
詩編90編3節に「あなたは人を塵に返し『人の子よ、帰れ』と仰せになります」とあります。あなたに命を授けて下さった方が、あなたの命を取られます。だから、人間の不安はこのお方との関係に原因があります。権力ある王様は、金や宝石の装飾品や生活用具等を墓の中に入れて葬むられました。決して裕福でないマリアたちであったが、最後に非常に高価な香油を塗ってイエスを葬ろうとしました。何とか死後の不安から逃れられるように、出来る限りのことを尽くして葬ります。理由はこのお方との関係が正常ではないからそうするのです。
しかし、十字架にかかって死んだナザレのイエスは、復活してこの人間の現実に大変化をもたらしました。その大変化とは、命を授けて下さった神と、命を授かった人間との関係の回復です。その方を天の父と呼んで良い、その様な非常に親しい関係になった、それがこの大変化です。それは心や精神や魂との単なる関係だけではありません。イエスが取られた私たちと同じ肉体に、病んだり、老いたり、弱さを持つ、この肉体に神が関わられているということです。イエスの復活において起こったこの大変化は、私たちにおいても起こっています。
皆さん、信仰するとはイエスの復活によって、私たちの人生のゴールにもこの大変化が起こった、と信じることです。結果、ゴールに向かって進む私たちの歩みも変わります。皆さんがこの聖堂を出られ、生活の場へ戻れば、そこには家族がいて、友がいて、隣人がいます。そして、そこに神が加わります。あなたの心や精神や魂だけではなく、あなたの肉体にも神が関わって下さいます。だから、私たちの生活も変わるのです。もはや、死後の不安はありません。私たちの教会の墓は栄光の家と命名されました。そこは供養やお参りをする所ではなく、眠りに就いた人たちと共に、この大変化を起こしてくださった神に、栄光を帰して讃える所です。今日の礼拝は栄光の家で神に栄光を帰し讃えることでフルコースとなっております。体調の整ったお方は是非フルコースに与って下さい。
2023.04.02
「イエスの叫びは人間の叫び」マタイによる福音書27章41~46節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
復活祭の驚きと喜びは、十字架で苦しまれたイエス・キリストを通して、自分の姿に目が開かれる時に生まれます。新聖歌103番は、イエスさまは私のために傷を負われた、私のために十字架で死なれた、私のために墓に葬られた、その結果わたしは、こうなった。すなわち私の目が開かれて自分の本当の姿に気付かされた、という歌です。エルサレムでの十字架に向かってイエスが進まれる途中、エリコという町を通った時に、目が不自由なバルテマイという名の人がイエスに向かって叫びました。「ダビデの子、イエスよ、憐れんでください」。イエスが彼を呼んで「何をして欲しいのか」と尋ねると、彼は「主よ、見えるようになりたいのです」と答えました。今週の金曜日に受難日を迎える私たちにもイエスは尋ねられます。『これからわたしは十字架に向かうが、皆さんは何をして欲しいのか』。私たちも答えましょう『主よ、見えるようになりたいのです。十字架のあなたを通して、私の本当の姿を見させてください』。今日、もう一曲歌います新聖歌119も『十字架のイエスを通して私の本当の姿に気付かせて下さい』という歌です。
さて、イエスの十字架は数えきれない彫刻や絵画で表現されていますが、最も究極に表現しているのは、十字架の上からイエスが大声で叫ばれた言葉です。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」。この叫びは昔ダビデ王が歌った詩編22編の冒頭の言葉と一致します。詩編は神に対する歌(讃美歌)です。歌と言うよりも神に対する人間の叫びです。イエスは十字架で、私たち人間の叫びを、代わりに、私たちを代表して叫んで下さいました。
この詩編22編を作詞したダビデにソロモンが生まれました。彼は父ダビデの遺志を継いでエルサレムに神殿を建てました。記念セレモニーの最後に彼が民を代表して祈った祈りの中にも、その叫びが入れられています。「わたしたちの神、主は先祖と共にいてくださった。またわたしたちと共にいてくださるように。わたしたちを見捨てることも、見放すこともなさらないように」列王記上8章57節。しかし、約400年弱の年月を経て、バビロニア帝国によって国も神殿も破壊され、捕虜としてバビロンへ連行され、約40年間神殿での礼拝ができない生活をしました。その時、彼らを支えたのは書き写されたみ言葉と、心に記憶されたみ言葉でした。そして、それをまとめる作業、旧約聖書作りが本格的に始まりました。その内容は神の物語であると共に、人間の神への声なき叫びも含められています。2022年度は『聖書は語る、一年12回で聖書を読む』というテキストをベースにして礼拝後に、聖書全体の流れを学び始め、創世記から預言書まで進みました。ちょっと思い出しながら聞いて下さい。
彼らは綴りました。神と共に生活していたエデンを去るアダムとエバを。それから、住んでいたエデンの東から去って行く彼らの息子カインのこと。水の勢いが治まらず風前の灯火状態の箱舟の中のノアの家族のこと。子宝を与えられないまま人生を終えようとするアブラハムとサラのこと。兄エサウから命を狙われたヤコブのこと。エジプトに売られたヨセフのこと。ナイルに流されたモーセのこと。エジプト王の軍隊に追い着かれ絶対絶命に追い込まれた民のこと。荒れ野で反抗した民のこと。彼らが綴った神の物語の中に、「神さま、見捨てないで下さい。見放さないで下さい」という人間の叫びが常に上がりました。そして、神も彼らを見て「どうしてお前を見捨てることができようか、わたしは激しく心を動かされ、憐れみに胸が焼かれる」と叫びながら、寄り添い続けて下さいました。
しかし、バビロニア帝国の後は、ペルシャ帝国、アレキサンダー大王、エジプト帝国の、プトレマイオス王朝、シリアのセレウコス王朝、ローマ帝国と、彼らは幾多の大国に支配されました。そして、彼らの心にメシア救い主を求める思いが高まり、神はそれに答えて、メシア、イエス・キリストを今から約2000年前にお遣わしになりました。これらの話は、中東地域で起こったことであって、この東アジアの日本人には関係ない、そう思われる方が多いでしょう。また、こんな小さな私には関係ないと思われるかもしれません。しかし、皆さん私たちもこの同じ人間の叫びを叫んでいるのではありませんか。
私の父は長男で、五人の弟の内4人は同じ稼業ののれん分けをして製めん所、うどんの玉を作る仕事をしました。その為に叔父さんたちは同居して仕事を覚え結婚し、順番に独立して行きました。私は叔母さんたちから『貞雄ちゃん貞雄ちゃん』と呼ばれて可愛がられていました。三男だった叔父さんの妻、すなわち私の叔母さんが子どもを残して若くしてガンで亡くなる前に、最後のお見舞いに病院に連れてもらい、やせ細って顔が変わってしまった叔母を見て、私は生まれて初めて心で祈りました。「神さま、助けて下さい、見捨てないで下さい」。
この叫びは誰もがその人生の中で経験しているはずです。そして、世界中の人もそうです。日々のニュースでその叫びが伝えられていますね。「神さま、見捨てないで下さい。見放さないで下さい」。この人間の叫びに答えて神はその独り子イエスを人間として遣わし、私たちの叫びを、御自分の叫びとなさいました。
もし、絶望に度合いがあるなら、その落差の大きさで絶望の大小が決まります。確かに人間が経験する絶望には、私たちの予想を超えた絶望があります。しかし、イエスは神の子という最高の位置から人間が辿る最低の所へと落ちて行かれます。ですから、イエスの十字架での叫びは究極の絶望から来る叫びです。私たちはこの世界で人間の絶望を目の当たりにします。また、私たち自身も絶望します。しかし、天におられる私たちの父なる神は、この十字架で叫ばれ、死んで、埋葬されたイエスを、死人の中から甦らせて、宣言されます。
『皆さん、あなたがたと同じになった、十字架の私の愛する独り子イエスを見よ!彼は見捨てられたのではない。だから、あなたも決して見捨てられるのではない。あなたの絶望はどんな絶望ですか。どんな絶望であっても大丈夫です。究極の最高の絶望の中にある、完全に神に見捨てられた状態のイエスを、私は死人の中から甦らせました。それは私がイエスの味わった究極の絶望に希望を与える者であることをあなたに見せるためである。だから、希望の見えない時、希望を失った時、どんな絶望にあなたが陥った時でも、まったく大丈夫です。罪に支配される人間であるが、私は決して見捨てない者である。この私を信じなさい、この私が差し出す手に、言っておくが私は最後の最後まであなたに手を差し伸べます。あなたもあなたの手を差し出しなさい。もう大丈夫、私がついている。わたしと共に行きましょう。そして、このことをあなたの愛する人に伝えて欲しい。あなたに平安があるように!』
2022年4月~2023年3月
2023.03.26
「私たちの近き神」ルカによる福音書11章14~32節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
20節、「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」とあります。救いの業を「神の指」によって行っていると信じる者には、神の国はあなたがたに来ている、神は近くにおられるといわれます。しかし、悪霊の頭によって行っていると言う人には、あなたがたは悪霊の頭によって裁かれことになる、とイエス様を受け入れず、自分の立場をはっきりさせない人々に、警告されます。
24節以下、救いの業が神の指によって行われていると信じた人というのは、イエス様を自分の救い主と信じる人のことです。その人に、信仰を持ち続ける秘訣を教えられます。25節「家は、掃除をして整えられていた」とあります。救いを信じた人の魂は、きちんと掃除をした家のように綺麗になります。イエス様がその人の罪を十字架の上で全部引き受けてくださったからです。ところが、出て行ったはずの汚れた霊が戻って来てしまいました。これはどういうことでしょうか。綺麗になった家に、主人がいなかったからです。主を信じた後、この人は礼拝生活や祈りの生活をしなかったのでしょうか。28節「むしろ、幸いなのは、神の言葉を聞き、それを守る人です」とあります。綺麗になった家に聖霊なる神さまを主人として迎えることがとても重要です。信仰者は聖霊の住まいになるのです。聖霊は、イエス様が私たちの救い主でおられるだけでなく、どんな時にも共に生きてくださる方であることを教えてくださる方だからです。
汚れた霊の働きというのは、神から私たちを引き離そうとする力ですね。生活の中でその力は何度も働いてきます。また信仰者同士の間でも起こります。意見の違いとか、感じ方の違いとか、それによる相手との溝ができてしまったりするようなことがありますね。しかし、私たちの内に聖霊が住んでおられるなら、そこでふさわしい対処の仕方を示してくださいます。けれども、礼拝生活や祈りの生活をおろそかにして、私の信仰は大丈夫と過信している人に「その人の後の状態は、前よりもさらに悪くなる」と警告しておられます。ですから28節「幸いなのは、神の言葉を聞いてその言葉に従う人」なのです。3節で「私たちに必要な糧を毎日与えてください」と祈りなさいと、主は教えられました。これは、健康を保つための食事と、もう一つ、信仰の養いのことです。信仰の養いは何でしょうか。み言葉ですね。信仰の日毎の糧であるみ言葉を聖日ごとに、また毎日、頂くのです。それによって、主との結びつきが強くされます。結びつきが強くされると、そこから私たちに喜びがやってきます。この生活が聖霊の住まいになることです。ガラテヤ5章22節以下にこうあります。「しかし、聖霊が生活を支配してくださる時、私たちの内に次のような実を結びます。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。キリストに属する者は、生まれながらの自分が持つ肉の欲望を十字架につけてしまったのです。もし私たちが聖霊の力を受けて生きているなら、すべてにわたって、その導きに従おうではありませんか。そうすれば、互いに妬みあったり、いがみ合ったりすることはないでしょう」
つぎに、29節以下は、「天からのしるし」についてです。
ヨナは、神様にニネベという町に神の救いを伝えに行けと命じられます。ところが、これまで神を無視し、好き勝手をしていたニネベの人が救われる事に納得がいきません。それで、ニネベ行ではなく、行き先の違う船に乗ります。しかし、神さまはその船を暴風に会わせ、再びヨナをニネベに向かわせられます。彼は気持ちを入れ替えてニネベに向かい、人々に神に立ち返るよう伝えます。しかし心の中では、ニネベの人たちは決して神を信じないだろうと考えていました。その思いに反してニネベの人々が神に立返ったのです。ユダヤ人が救いに最も必要だと考える律法を、守ろうとしたことも守ったことも一度もない人々が神の救いに入れられました。その時、ニネベは大変熱い季節でした。神の気前の良さに納得のいかないヨナに、猛暑をしのぐためのトウゴマの木を神は与えられ、次にその木を枯らされます。ヨナはトウゴマによってあんなに涼しかったのにと、その木が枯らされたことに怒ります。すると「お前は植物のトウゴマをそんなに惜しむのなら、私がニネベの人々の命を惜しむのは当然のことではないのか」と神さまは諭されました。彼の思いに反して、ヨナはニネベの人々の「救いのしるし」となりました。それが「ヨナのしるし」です。この出来事は、ヨナが期待していたこととは、反対の結果でした。
32節「ここに、ヨナにまさるものがある」とあります。
あなたがたが期待しているのとは全く違う、天からのしるし、救いのしるしが私なのだ、とイエス様は言われます。
ユダヤ人たちは律法を守って救われると考えたからです。しかし、イエス様は救い主を信じる信仰によって救われることを示されたのです。
「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためです」と5章32節にあります。「ヨナよりもまさった者がいる」とは、主イエスは神の救いを完成された方だ、ということです。エフェソ1章10節「時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます」とあります。
私たちは受難節の中を歩んでいますが、神の時が満ち、イエス様は十字架に死んでくださいました。それによって、神の救いの業が完成されました。
救いを完成してくださったイエス様は、私たちの近き神です。その神は聖霊として私たちのうちに住んで下さっています。私たちは聖霊の住まいであり続けましょう。聖霊の住まいである私たちはいつも主から喜びをいただいて、生活の場に出て行きましょう。
2022年度は、「み言葉の種を蒔きに出て行こう」との目標をもって始めました。今日は22年度最後の聖日ですが、今もこの目標の途上です。3月の役員会で23年度の活動案を協議しました。「み言葉の種を蒔きに出て行こう」Ⅱということで、スタートします。
役員も皆さんお一人お一人も、心を一つにして、主のご愛にいつも感謝して、主のご愛を伝えられる恵みをかみしめながら、新たな年度を主に信頼し、主が私達を更に成長させてくださると期待して前進していきましょう。
2023.03.19
「喜びにあふれて」ルカによる福音書10章21~24節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
1節、イエス様は12弟子に加えて72人を任命され、「ご自分が行くつもりのすべての町や村へ」彼らを遣わされます。福音が全世界に伝えられることが神さまの目的だからです。2節の「働き手が少ない」「足りない」とあるのも、全世界の人に神からの良い知らせが伝えられなければならないからです。
イザヤ49章6節に、神の計画は主の救いが地の果てまで届くことを言っています。「わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」これはイエス様の事ですが、この働きを共に担うために弟子たちは招かれました。
遣わされた弟子たちは、野球の先発ピッチャーのようなものです。先発ピッチャーというのはその試合を引き締まった良い試合にするために、最初にマウンドに上がります。ですから先発ピッチャーはとても重要なんです。それ程重要ですから、すごく緊張するわけですね。それで、イエス様は72人を遣わすときに、3節で「狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」と言われたんです。72人は二人組になって出かけました。どういうことになるんだろうと、ドキドキしながら出かけたでしょうね。この弟子たちの気持ちは私もとても良く分かります。遣わされたところで、どういう結果を残せるのか緊張を覚えます。しかし、主は宣教の責任を与えられますが、結果を出す事の重荷からは弟子たちを解放しておられます。神様ご自身が収穫の保障をされます。「収穫は多い」と。(リビングバイブル)1コリント15:58「愛する皆さん、このように将来の勝利は確実なのですから、しっかり立って、動揺することなく、いつも、主の働きに熱心に励みなさい。なぜなら、復活は確かであり、主のための働きが決してむだに終わらないことを、あなたがたは知っているからです」。ですから、私たちは忠実に福音を伝え続けましょう。
さて、5、6節は「神の平和があるように」と挨拶する事がクリスチャン同士の合言葉だったんですね。弟子たちを迎える家というのはキリストを迎える集まりです。救い主を迎え入れた集まりです。7、8節で食事の事が言われていますが、この食事は主の十字架と復活の恵みを覚える、聖餐の食卓となって行きます。
17節以下、遣わされた72人が帰ってきました。「あなたのお名前を使うと、悪霊どもでさえいうことを聞きました」と言って、この世のどんな力も、イエス様の力よりも強いものはありません、と、イエス様の力はすごいと喜び勇んで帰って来ました。
「しかし」と20節、たとえ伝道が上手くいかない苦労があったとしても、それとは比べ物にならない「喜び」を教えられます。それは「あなたがたの名が天にしるされていること」です。つまり「神に受け入れられている事、いのちの書に名前が書き込まれている事」です。つまり、天国に名前がある、永遠のいのちが約束されているのです。これは何物にも代えられない喜びです。この喜びには、宣教の苦労を乗り越えさせる力があるのです。
(リビングバイブル)ピリピ3章20‐21節にも、次のように記されています。「私たちの本当のふるさとは天にあるのです。そこには救い主である主イエス・キリストがおられます。私たちは、キリストがそこから迎えに帰ってこられるのを、ひたすら待ち望んでいるのです。その時、キリストは、あらゆるものを従わせることのできる超自然的な力で、私たちの死ぬべき体を、ご自身と同じ栄光の体に変えてくださるのです。」とあります。これに勝る喜びはありません。
このことを話されている時、イエス様に喜びが溢れました。聖霊によってとあります。聖霊がイエス様に満ち溢れました。この喜びと言うのは、どんな喜びだったのでしょうか。
21節の「」の中をもう一度読んでみましょう。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを、知恵のある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これはみこころに適うことでした」。幼子というのは弟子たちのことです。彼らは教養のない人々でした。1コリ1章26、28節にこうあります。「愛する皆さん、自分たちの仲間を見回してごらんなさい。キリストに従うあなたがたの中には、知者や権力者や地位の高い人はほとんどいません。それどころか、神様はこの世では愚かな者、弱いと思われている人々をあえてお選びになりました。神さまはこの世で見下されている者、取るに足りないものを選び、そういう人々を役立てることによって、力を持っている人を無きに等しい者とされたのです。」(リビングバイブル)
弟子たちは、ユダヤ社会で本当に小さな存在でした。その彼らが、今、神の素晴らしい福音を伝えることに用いられた、このことがイエス様の中で大きな喜びとなってあふれたんです。
神さまはこの世で小さい存在と見られている人々によってご自分の計画を進められます。
23節、弟子たちに「あなたがたの見ているものを見る目は幸いだ」と言われます。
3月5日の聖日に鈴木先生が1ヨハネからメッセージしてくださいました。「わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、手で触れたものを伝えます」とありました。
まさに、弟子たちは今、自分の目で、救い主キリストを見ているのです。救い主を目で見、救い主の声を聴き、救い主のご人格に触れているのです。それは、救いの言葉を預かった預言者ですら、またユダヤの民の王となった人々ですら、できなかったことです。
小さな存在である弟子たちが、救い主の証人とされたのです。この世界を造られた神の支配は、力によってなされるのではなく、小さき弱い者たちによって進められるのです。
先週のWBCの順々決勝の後の監督の言葉が私には印象的でした。大谷選手のプレーを「野球小僧に彼はなった」と表現されました。「世界の大谷」が野球小僧になって、
チームの一員に徹したのです。彼が小さくなることによって、皆を一つにしたのです。
キリストは使徒パウロにこう言われました。2コリント12:9「わたしの力は弱い人にこそ、最もよく現れるのだから」と。キリストの十字架の死は、弱さの最たるものでした。私たちがキリストの一員として働く時、イエス様の内には喜びがあふれています。このことを忘れないで、新しいこの週を、キリストの一員としての働きをさせていただきましょう。
2023.03.12
「弟子の訓練」ルカによる福音書9章57~62節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
受難節第3主日を迎えました。51節に「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」とありますように、イエス様は重大な決意をされます。それは、十字架に向かう決意です。
そして、9章で初めてご自分が苦難に会い殺されること、三日目に復活することをお話になります。その箇所を見てみましょう21,22節参照。
それで、イエス様は弟子たちの訓練を始められます。1節、「イエスは、12人を呼び集め、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための力と権威をお授けに」なり、彼らを宣教へと送り出します。そして3節で「旅には何も持って行ってはならない」と命じておられます。カトリック教会の司祭さんは普段着以外何も持たれないそうです。これはシンプルで理にかなった制度なのでしょう。また、結婚もしないですね。ですから、家族の事に患わされないで専念できますね。しかしイエス様はこの世の事は必要ないと言っておられるのではありません。何も持って行くなとの命令は「主にのみ依り頼め」と言う意味です。6節、「12人は出かけて行って、村から村へと回りながら、至る所で福音を宣べ伝え」ます。
12節から17節に、5千人の人にパンを食べさせる記事があります。12人の手元には5つのパンと2匹の魚のほか何もありませんでした。彼らの目の前には男が5千人、そのほか女と子どもたちがいます。つまり1万人以上の人々がいます。5つのパンと2匹の魚では、足りるはずはありません。しかし、イエス様は何と言われたでしょうか。13節「あなたがたが彼らに食べ物をあげなさい」。それで、彼らが思い浮かべたのは、近くの村々に行って、人々が食事をしてくるという事でした。
12人は、自分たちの先祖が荒れ野の40年の旅をした時、天からのマナが与えられたことを聞いていなかったのでしょうか。そんなはずはありません。何度も聞いていました。しかし彼らは、近くの村々にあるパンのこと以外に、思い浮かばなかったのです。荒れ野では60万人以上の人々が、神が与えられたマナを食べました。イエス様はその神の子です。イエス様のパンの出来事は、12人に「イエス様が確かに神の子である」ということをはっきりと分からせる出来事となりました。
20節、この経験の後主は彼らに尋ねています「では、あなたがたは、わたしをだれと言いますか」。するとペトロが12人を代表して答えます「神からのメシアです」つまり「神の子救い主です」という意味です。5000人の給食の経験をした12人は模範的解答、はなまる回答ができました。
彼らは沢山の経験をする中で、失敗もしているんですね。37節以下、息子が悪霊に取りつかれているお父さんが12人に助けを求めます。12人は悪霊を追い出す力を主から頂いています。しかし、追い出せなかったのです。失敗の理由をマルコ9章29節でこう伝えています。「この種のものは、祈りによらなければ、決して追い出すことはできない」。これは弟子たちの反省点でした。先生であるイエス様はどうされているでしょうか。ルカ9章10節「それからイエスは彼らを連れてベトサイダという町へひそかに退かれた。」退くのは祈るためです。そして18節「イエスがひとりで祈っておられた」28節「イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために山に登られた」とあります。
イエス様はどんな時にも行動する前に、祈っておられます。群集が詰めかけて来る前のほんの僅かな時間でも祈りに当てられます。マザーテレサは祈りの人で知られていますね。
12人は伝道が上手く行くものですから、祈りを少し疎かにしたのでしょう。この失敗もとても大切な訓練となりました。ルカの福音書はイエス様の祈る姿を、特に伝える福音書です。主は祈りの力によって立ち向かわれます。祈りは恐れや、焦りや、失望や未熟さに対して、冷静さと、安定と、立ち向かう力を与えます。私たちの前に立ちはだかるのは、41節「信仰のない、よこしまな時代です」「救い主を迎えない心の時代です」祈りによって主から力をいただかなければ、自分の力で立ち向かうことはできません。12人は祈りの訓練を受けたのです。
さて、9章は「弟子の訓練」と共に「弟子の覚悟」を語ります。
28節以下、主イエスの姿が変わったことが伝えられています。29節「祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、衣は真っ白に輝いた」。
31節でモーセとエリヤが「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最後について話して」います。これはイエス様がすべての人の救い主として、エルサレムで十字架にかかられ、私たちと神との関係を回復するために罰を受けてくださるということです。12人はイエス様が殺されるのを覚悟しなければなりません。
23節「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」とあります。自分の十字架とは、この世で起こる苦労のことではありません。この世の苦労は信仰者でなくてもあります。私たちが日々負う十字架は、福音の前進のために負う苦労です。この覚悟をもってついて来なさいと言われます。他の人が救いに与るための労苦を、主と共にして欲しいのです。
58節もう一度見てください。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。人々はイエスの奇跡にばかり感心して、イエスを評価しています。しかし、人目を惹く功績の方にではなく、受難の道にある主イエスにしっかり繋がる覚悟を持つよう12人には要請されます。
「わたしに従いなさい」と招かれた人が、「お父さんのお葬式が終わるまで待ってください」と答えると、「死人たちに彼らの中の死人たちを葬らせなさい」と言われました。
これは、死の力は、主イエスと共にあるなら消えてなくなると言う意味です。死、それを覆い尽くす喜ばしい知らせが主イエスによって告げられています。1コリ15章20節以下(リビングバイブル)「しかし、事実、キリストは死者の中から復活しました。そして、復活が約束されているすべての人の初穂となられたのです。一人の人(アダム)の行為によって、死がこの世に入ってきました。そして、もう一人の人(キリスト)によって死者の復活が入ってきたのです。罪深いアダムによってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるのです」とあります。復活の命の力は、すべての力に勝るのです。
62節「だれでも、手を鋤につけてから、うしろを見る者は、神の国に相応しくありません。」これは、自分が神に仕えていると考えているその目的が、主イエスの目的と一致しているかを確認せよということです。
弟子たちにとってこの地上の生涯は、主から訓練を受け、弟子としての覚悟が与えられ強められるための日々だったのです。私たちもその後に続きましょう。
2023.03.05
「命の啓示」第一ヨハネの手紙1章1~4節
説教:鈴木龍生 師
2023.02.26
「輝かしい勝利」ルカによる福音書8章22~25節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
「だれがキリストの愛から引き離すことができましょう。患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」35「これら全ての事に於いて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」(新共同訳)ロマ8:37最後の所を新改訳は「圧倒的な勝利者となるのです」口語訳「勝ち得て余りがある」とあります。
今月私たちは、5章からキリスト・イエスと共にあるとは全く新しい命を生きること、6章では新しい命を確かな土台であるキリスト・イエスに据えよ、それは神が与える幸いはこの世が与える幸いとは異なるからです。そして7章で神が与える幸いを生きる道には「つまずき」があるから要注意!だから、私と思いを一つにして欲しいと神は求められました。私たちの歩みは神のホロアーとしての歩みです。
8章でイエス様に新たなホロアーが現れます。それは女性たちです。(2,3節のマグダラのマリヤとヘロデの家令クザの妻ヨハナ、スサンナその他大勢の女性です。彼女たちは「自分の財産をもって仕えた」とありますから、自分の恵まれた環境を用いてイエス様に仕えました。マグダラのマリヤとヨハナはキリストの復活の朝に墓に行った女性です。ルカ24:10)彼女たちはその後も主の復活の証人として福音の前進のために12弟子を助け、その生涯を尽くしました。
さて、次に「種を蒔く人」(四つの種)の例えと、「救いの灯火を掲げよう」という例えが続いて行きます。(5節「種を蒔く人が種を蒔きに出かけた」種蒔く人は既に出かけました。もう種がまかれています。)11節に「種は神の言葉です」とあります。創世記1章を見ますと神の言葉によって世界は造られました。旧約聖書は神が人間を導かれる歴史です。アダムから始まりノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、イスラエル民族、と続きます。彼らもいつも良い地であったのではありません。特にイスラエル民族となった後は、岩地やいばらの地のように神の前に素直になれませんでした。それでも、神さまは種を蒔き続けたのです。そして、最後の種としてイエス様が地に蒔かれました。
イエス様は地に落ちてこられました。すなわち人間となって生まれてくださいました。「あなたがたは良い地になれ」と、ご自分の生涯を通してお手本を示されました。そして地上の生涯の最後に一粒の麦となったのです。ヨハネ12:23,24「人の子が栄光を受ける時が来ました。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、一つのままである。だが、もし死ねば、多くの実を結ぶ」。イエス様の十字架の死によって、全ての人に救いの道が開かれました。でも、このことを「聞いたことの無い方をどうして信じることが出来るでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう」(ロマ10:14)にあります。
アイススケートのフィギアーでは、選手が演技を始める時に、コーチは「行ってらっしゃーい」と選手の背中を押します。そのように、次は皆さんが御言葉の種を蒔きに出て行く番ですよ、と主は私たちの背中を押されます。
22節以下、背中を押された私たちに厳しい現実が立ちふさがって来ます。向こう岸に渡ろうとした弟子たちの船が嵐にあったのです。
嵐と言えば、ナザレン教団の教会員の現状はどうなのかなと思い、今年の年会の資料が届いていますので2021年度の現状を確かめました。69教会で教会員が3449人、礼拝出席平均が1560人でした。10年前は5千人を超えていたと思います。高齢化の波がかなりのスピードで教会にも押し寄せています。本当に厳しい状況になっています。「突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった。」このような現実です。飯塚教会も例外ではありません。これは教会全体で共有しなければならない現実ですね。
慌てた弟子たちに「あなたの信仰はどこにあるのか」とイエス様はお叱りになります。
けれども、この事によって弟子たちは、自分の信じるイエス様がどのようなお方なのか気付かされる大切な経験だったと思います。
24節「先生、先生、おぼれて死にそうです」と弟子たちはイエス様に寄りすがります。大の男の、たくましい漁師の弟子達が、まるで小さな子どもがお父さんに助けを求めているようです。漁師としてのプライドも何もかも捨ててイエス様に寄りすがります。
この弟子たちに、私はとても親近感を覚えます。主は必ず最善の結果を与えて下さると信じてはいるのですが、そのことを待つ時間と言うのは、疑っていると言うのではないのですが、やはり涙が出ますし、はらはらしてしまいます。
イエス様は弟子たちをお叱りになりながらも、求めに応じておられます。この姿は教育者イエスですね。主の言葉によって風と波は静まりました。弟子たちは大自然がイエス様の敵ではないことを経験します。そのことよりも、人生の嵐に立ち向かう時、自分たちの信仰が試されていることを経験したのです。イエス様は頼りない信仰ではだめだ、とは言われません。そもそも、私たちの信仰って頼りないのです。ローマカトリック教会では、殉教した司祭は聖人として扱われますが、殉教した人々に勇気を与えられたのは神なのです。神の支えがなければ彼らは殉教できなかったのです。
私たちが人生の嵐を乗り越えようとするとき、イエス様は「おまえの信仰は何処にあるのか」つまり「おまえの信仰を私が支えている!」とエールを送ってくださるのです。
皆さん、「そだねー」という言葉で話題になった、カーリングというスポーツを知っておられると思います。ピンチになった時、一回だけコーチのアドバイスを貰うことが出来ます。コーチのアドバイスは本当に適切です。その解説を聞くと、さすがコーチという感じです。でも、それまでも小さなピンチが幾つもやってきます。選手たちはその度にコーチに聞くことはできません。ですから選手同士でコミュニケーションを確りとって、「そだねー」というのはみんなが状況をちゃんと把握して、どうすべきか確認したという合図です。飯塚教会も役員会任せではなくて、皆さん全員の認識が必要です。選手たちは、それまでのピンチに立ち向かった経験を生かして乗り越えます。小さなピンチを乗り越えた経験が、大きなピンチを迎えた時の力になります。
弟子たちがイエス様と過ごした日々はこれと同じでした。失敗した時に何度もイエス様からお叱りを受けました。でもそれが神を愛する力になって行きました。彼らは育てられたのです。そして、イエス様の十字架の死は最大の試練でした。大好きで、尊敬し、本当に頼りにして来たイエス様です。そのお方を失うことは、弟子たちには耐えがたい不安と悲しみでした。最も悪いことをした人が受ける十字架と言う死に方、これも弟子たちにとってどんなに悔しくみじめな思いだったでしょうか。しかし、日々の信仰の訓練が彼らを育てていました。そして、イエス様が天の父の下に帰られた後の伝道に於いて激しい迫害を受けましたが、厳しい信仰の道を最後まで行くことが出来ました。すなわち彼らは「輝かしい勝利」への道を歩みとおしたのです。
「だれがキリストの愛から引き離すことができましょう。患難か、苦しみか、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か。」35「これら全ての事に於いて、私たちは、私たちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」
主と共にある人生の道は輝かしい勝利への道です。このロマ8章の冒頭には「こういうわけで、今は、キリスト・イエスに結ばれている人は、罪の宣告を受けることはありません。なぜなら、命を与える神の霊の力が、罪と死の悪循環から、あなたを解放したからです。」とあるからです。
2023.02.19
「神の知恵」ルカによる福音書7章18~35節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
スポーツ選手は、ランクを上げるために自分の何処を修正すればいいのか、その為に向き合って来た姿勢が見る人に勇気と感動を与えます。今注目されているのはWBCに出場する大リーグの大谷選手です。試合の無いオフシーズンの準備は試合が始まる本番に向けて大切な時です。信仰も同じだなあと思います。信仰の本番はイエス様がもう一度来られる時ですね。この地上の生活はオフシーズンのようなものです。イエス様が来られるその日があることを覚える人生と、そうではない人生には、大きな違いが出ますね。
「主の言葉は神の力」
イエス様はイスラエルの北の町カファルナウムに来られます。ガリラヤ湖畔の町です。その町のローマ兵百人の部下を持つ百人隊長の、頼りにしている部下が病気で死にそうになります。彼は町の人にとても親切で信頼されていました。それで町の代表が隊長の部下を助けて欲しいとイエスと一緒に町に向かいます。
しかし百人隊長は「ただ、おことばをください。そうすれば、私のしもべは必ず癒されます。」と伝えます。ここには、百人隊長の「イエス様の言葉は神の力」という信仰があります。
「寄り添われる主」
次にイエス様はカファルナウムから30キロ南下してタボル山の麓にあるナインの町に来られます。町の門に入ると、母と息子の二人暮らしだったその息子が亡くなり、お棺が外に担ぎ出される所でした。町の人たちもこの悲しい出来事に打ちのめされていました。息子が死んだということは、これまで母と子で支えあってきた日々は無くなりました。それに加えて彼女はもう生活できないということです。現代のような女性の健全な仕事場が無かったからです。そんな彼女の深い悲しみと失望に主は寄り添われます。そして、息子を甦らされます。16節、人々はこの出来事を見て「大預言者の現れ」とか「神は心にかけて下さった」と言いました。ここで、イエス様の奇跡が強調されているのではありません。6章21節の言葉が実現しています。「今、泣いている人々は幸いである。あなたがたは笑うようになる」。今日の出来事は嘆き悲しむ者に寄り添われる主を伝えています。私たちが嘆き悲しむ、その時にこそ主に信頼せよと伝えています。
「イエス様は救い主」
この出来事がユダヤの全てと周辺一帯に広まります。
洗礼者ヨハネはカファルナウムとナインの町での出来事を聞き「私たちの救い主は、あなたですか。それとも他の方ですか」と尋ねます。3章でイエス様に洗礼を授けた彼が、この質問をするというのはとても不思議です。
「今あなたの周りで起こっている事は、誰が行ったことなのか」とイエス様は逆に質問されます。そして、預言者イザヤが救い主について伝えた内容を示されます。それが22節の「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返る」です。これは今まさにイエス様がなさっている出来事ですね。そして23節「わたしに躓かない者は幸いです」と言われました。
実は洗礼者ヨハネは今、獄中にいます。人の妬みによって牢屋に入れられました。この後、(領主ヘロデ・アンティパスによって斬首)彼には処刑の日が待っています。その試練を前にしている彼に、「最後まで神を信頼せよ」とエールを送られたのです。それで「わたしに躓かない者は幸いです」と言われたのです。「わたしを救い主と信頼する者は幸いです」という意味です。イエスを信じる者には、地上の命が終わっても、永遠の命が備えられているからです。
「救いの業は神の知恵」
さて、24節以下は大変興味深い内容です。
まず、33.34節に注目して下さい。参照。洗礼者ヨハネは神に近づくために悪いことから遠ざかるように勧めました。次にイエス様は神に近づくなら自由の道が待っていることを示されました。ところが人々(24節、群集)は、どちらの道も受け入れませんでした。それで、31節「では、あなたたちはどういう人なんでしょう。何に似ているでしょう。互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。『結婚ごっこして遊ぼうって言ったのに、ちっとも喜んでくれなくて、それで葬式ごっこにしたら、今度はぜんぜん悲しがってくれない』とわめいている」と例えられました。
人々は、ヨハネのこともイエスさまのことも、遠くから眺めている見物人でした。救いの道への呼びかけに参加しないで、観客席に座り込んでいました。しかし、それではいけないとイエス様は呼びかけられます。ここで言われている見物人は今のホロアーとは違います。ホロアーは選手の事を大変よく知っていて選手たちと気持ちを一つにする人たちです。
ヨハネとイエス様の呼びかけに答えた人がいます。人々から罪人と見られている人たちです。29節、彼らは神の正しさを認めヨハネから洗礼を受けます。神を信じるとは、神を正しいとすることです。神を正しいとするその人を神さまは正しいとされます。ロマ3:23「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義(正しい者)とされるのです」とあります。
35節「神の知恵の正しいことは、神のすべての子どもたちが証明します」とあります。
「神さまの正しさ」というのは、イエス様を通して行われた十字架と復活による救いの業です。キリストはご自分の死によって私たちと神との壊れた関係を回復してくださり、キリストを信じる者には永遠の命があることをご自分の復活によって証明されました。このようにして、神の方から救いの手が差し伸べられたのです。これが、神の知恵です。人が努力し、修行し、下から登って極めるのではありません。神の方から人へ救いの手が差し伸べられたのです。これは人には考えもよらないやり方です。ですから、「わたしに躓かない者は幸いです」と仰るのです。
さて、神の救いの正しさを証明するのは子どもたちです。すなわち、神の子どもたちです。救いに与った信仰者たちです。ホセア14:10「知恵ある者はこれらのことをわきまえよ。わきまえある者はそれを悟れ。主の道は正しい。神に従う者はその道に歩む」とあります。
救いの恵みに与った私たちは、神の知恵、神の正しさを証明するようにと、召されています。
どのようにして証明すればいいのでしょうか。自分の事を証明する必要がある場合、免許証、健康保険証、住民票などを提出します。更に詳しい証明が必要になる時があります。履歴書の提出などの場合です。学歴、職歴、取得している資格(例えば、教員免許、運転免許、英検証明書、公的機関が出す証明書)などです。履歴書には応募理由を詳しく書いて提出することもあります。これらは、自分の事を詳しく証明する物です。
先ほどのホロアーになる人たちは自分の応援する選手のことを良く調べ、大変詳しく知っています。選手の出身地、何歳で競技を始めたのか、過去にどの大会でどんな成績だったのか、実に良く調べています。同じユニホームを身に着けて応援するというのは、自分がその選手(チーム)と一体になって応援したいと言う現れではないでしょうか。実に熱心ですね。
イエス様はご自分があなたの信頼に応えうる者である事を詳しく知って欲しいと願っておられます。体験して気づいて欲しいと願っておられます。見物人ではなく、ホロアーのようであって欲しいと求めておられます。あなたが神の知恵、神の正しさを証明するために、もっともっとご自分の事を知って欲しい。気持ちをご自分と一つにして欲しいと願っておられます。そして、人々に、あなたの家族に知人に、証明してほしいと願っておられます。イエス様がもう一度来られる信仰の本番のために、この地上で神の知恵、神の正しさを証して行きましょう。
2023.02.12
「確かな土台」ルカによる福音書6章46~49節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
コヘㇾトの書に「なんと空しいことか、すべては空しい」12:8と、この地上の出来事は全て空しいと言います。そして、結論として「神を畏れ、その戒めを守れ。これこそ人間のすべて」12:13と言い、神と共に歩む人生にこそ確かな土台があると結論します。つまり、神と共に歩む人生には全ての事に意味が生じるのです。その人は神の配慮、神の愛を知るからです。
今朝は、6章全体から人生の「確かな土台」を知りたいと思います。1段落目と2段落目は、安息日の事です。安息日は何のためにあるのか、安息日は誰のためのものか、が問われています。これは、信仰は何のためにあるのかと言い換えることができます。3段落目は12弟子が選ばれ、信仰者として大切なことを教えられます。その内容は20節「貧しい者は幸いです」と始まり、幸いと不幸というテーマで語られます。マタイ福音書では山の上での説教(5〜7章)で有名な箇所ですね。
「信仰の落とし穴に注意」
まず6章の初めでは「信仰の落とし穴に注意」という看板がかかっています。
安息日に麦の穂を摘んで食べるイエスの弟子達を見て、批判が起こります。安息日は神を礼拝する日なので、そのことを大切にするために働いてはいけないと決められていたからです。でも弟子たちは2,3本の麦を摘んだだけです。それが仕事といえるでしょうか。マルコの同じ箇所で「安息日は人のためのものだ。人が安息日のためにあるのではない」とあります。また別の安息日に、イエス様が手の不自由な人を治されます。その日もまた、批判が起こりました。それに対して9節で「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、相手が喜ぶことを行うことか、無関心でいることか。いのちを救うことか、滅ぼすことか」と言われます。イエス様は、何が神に喜ばれることなのかを、見失っている人の目が開かれることを願われます。
この大切なことを見失っている人たちは、私たちと無関係でしょうか。無関係であれば聖書に記す必要はありませんね。この出来事は「信仰の落とし穴に注意」という看板なんです。「心を燃やして主を愛すること」と「信仰者としての冷静さ」という二つの重りをバランスさせることの大切さを教えてくれると思います。熱心な信仰に、人を盲目にする危険が潜んでいることへの忠告です。
エフェソ1:23「教会はキリストのからだであり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」とあります。5節の「人の子は安息日の主です」とは、この事ですね。人生の主人は自分ではなくキリストです。
「近くにおられる神」
イエス様は宣教の前進のために弟子の中から12人を選んで、13節使徒と名前を付けられます。20節、弟子たちを見つめてとても大切なことを語られます。
「貧しい人々は、幸いです」と始まる、幸いと不幸の段落で語られることは、ご利益とは正反対ですね。貧しさ、空腹、悲しみ、キリストを愛したことによってつらい目に合う人が何故、幸いなのでしょうか。豊で、いつも満腹で、問題の無い人生が幸いなのではないでしょうか。人はそれを求めますが、現実はそうではないですね。理想を追い求めてもそうならない人生。しかし、がっかりすることはありません。望みどおりにならない人生ですが幸いがあります。それは、貧しさ、空腹、悲しみ、問題を抱える人の隣にキリストはいて下さるからです。
では何故キリストが隣にいて下さることが幸いなのでしょうか。
以前NHKで『人体』という放送をしていました。それまでの人間科学の知識が覆される内容でした。人類の映像技術が飛躍的に進歩し、人体の仕組みがミクロの世界まで見える化され、より精巧に人体の仕組みを知ることのできるものでした。これまで、人体のメカニズムは脳からすべて指示命令が出ていると考えられていました。ところが、臓器同士で信号が行き来していて、健康バランスを取っているということが分かったのです。何という精巧さでしょうか。その精巧さに圧倒されました。神がどれ程の愛を注いで人を造ってくださったのかということを感じないではおれませんでした。貧しさ、飢え、悲しみ、迫害の中に置かれた時、或いは思い通りに行かない時、人は「全ては空しい」と感じますよね。でも違うのです。
私達をこんなに精巧に造ってくださった神様ですから、貧しさ、飢え、悲しみ、迫害の中にある人に、深く心を寄せておられます。貧しさ、飢え、悲しみ、迫害の中にある時、私たちは最も神の近くに置かれています。順風の時の何倍も神を呼び求めるからです。詩編145:18「まことをもって主を呼び求める者すべてに主は近くおられる」(新改訳)とあります。また、ヨブ記40章で、大きな試練に打ちのめされたヨブに、138億年もの間この宇宙を愛をもって保たれている神にお前は口答えできるのか、と諭されました。神が、直接、言葉をもって、彼の問題と向き合ってくださったのです。私たちの神様はそういうお方です。
さて、マタイには「平和をつくる者は幸い」とありますが、ルカにはありません。こんな大切な御言葉が何故ないのかと思いますが、27節以下で平和をつくる者を具体的にどういう人か伝えています。
35節「敵を愛しなさい。」36節「あなたがたの父が憐み深いように、あなたがたも憐み深い者となりなさい。」37節「人を裁くな」38節「与えなさい」
このように生きるなら、争いは起こりませんね。新聖歌の318番の3番に「あなたの前にて、むしろをひらき、みたまの油(聖霊による支え)注ぎ給う」とあります。私たちの依り頼む神は、このようなお方です。(詩編23:5)。ですから、やり返す必要はありません。やられた時、主はその人に宴会を用意し、その人の頭に油(聖霊の力)を注いでおられるからです。やり返してしまえば、用意されたこれらは消えてしまいます。ロマ12:19「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる。」この主が終わりの日に勝利の冠を持ってあなたを待っておられます。
信仰の落とし穴に注意、そして神は近くにおられること、今聞きましたが私たちはすぐ忘れる存在です。以前の教会で良く言われました。「教会の玄関を出ると今日の説教を忘れるんです」と。
皆さんはどうですか?そうならない秘訣を6章の最後で語られています。
47節です「私のもとに来て、わたしのことばを聞きなさい」イエス様のところに戻ってくることが重要です。繰り返し繰り返し戻って来ます。礼拝、祈り会の出席や日々聖書を開き祈ることですね。すると、御言葉によって信仰の歪みが整えられ、謙った人が造り上げられ、御言葉を行う人へと造り上げられていきます。
48節「岩の上に土台を置いて家を建てた人」とは、「神を畏れ、その戒めを守る人」です。キリストの言葉、神の言葉という確かなお方の上に、自分の土台を置いて新しい命を生きる人です。キリストという確かな土台に、しっかり建てられるので、びくともしません。皆さんの命をキリストという確かな土台に据え続けましょう。まだこの確かな土台に据えておられない方は、是非据え治してください。
2023.02.05
「信仰とは従うこと」ルカによる福音書5章1~11節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
失望の中の漁師たち
イエスさまはゲネサレト湖畔に立っておられます。皆さんの聖書の新約時代の地図には、ガリラヤ湖となっています。対岸が見えない大きな湖です。湖畔に立って何を見ておられたのでしょうか。目の前に広がる湖でしょうか。押し寄せてくる大勢の人でしょうか。
イエスさまは、二そうの舟を見ておられました。その舟は陸に上げられ、朝早くからそこに立ててある舟でした。それは大漁の喜びが響いてくるような舟ではありません。
イエスさまはそこにいる漁師たちをじっと見ておられます。どんな漁師たちだったのでしょうか。5節「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」とありますように、前日何も獲れなかった漁師たちの姿でした。彼らはしょんぼりと網を洗っていました。私たちもそんな経験を何度となくするのではないでしょうか。しかし、漁師たちはイエスさまの存在に気付きません。イエスさまはじっと見つめておられるのに、気付きません。
漁師たちよりも先にイエスさまを見つけた人たちがいます。群集です。今日の個所の前のところを見ますと、イエスさまが伝道を始められるとすぐにうわさが広まり、群集に追い回されているのが分かります。1節にあるように、人々はイエスの話される神のみ言葉を聞こうとして来ています。人々がそんなに大騒ぎをしているにも関らず、漁師たちは、網を洗っています。
彼らの失望が、どんなに大きかったかが分かります。また、4章38節で、シモンのしゅうとめが高熱のときにイエスさまに癒していただいているのですから、真っ先にイエスさまのところに来てもおかしくありません。しかし、イエスさまは彼らがどんなに失望しているのか、その心情を受け止めておられました。
イエスは私たちの生活の場に
イエスさまは、シモンの舟に乗り込まれます。そして、腰を下ろされました。シモンにもう一度舟に戻るようになさったのです。
みなさん、シモンにとって舟とは、どんな意味を持つでしょうか。それは、生活の場です。イエスさまはシモンの生活の場で語られたのです。何を話されたのでしょうか。マルコ6章の5千人に食事を食べさせられた箇所で、「羊飼いのいない羊のような人々を深く哀れんで」人々に教えられたとあります。きっとシモンたちにも、残念だったねー、がっかりするよねー、でもだいじょうぶ、と言葉をかけられたのではないでしょうか。そして4節で「もう一度舟を出して、魚を獲りましょう」と言われます。「舟に戻り、海に戻りなさい。」つまり、「あなたの生活の場に、もう一度戻りなさい。何も獲れなかった同じ生活の場に戻り、もう一度、挑戦してみなさい。」と言われたのです。
失望した場所に戻るのは気が重いですね。戻りたくありません。そこから逃げ出したいですよね。
しかしみなさん、ここに、違うことが一つあります。「あなた一人で戻りなさい」と言われているのではありません。イエスさまが一緒に舟に乗り込まれるのです。そして、「わたしと一緒に魚を獲りましょう」と言われるのです。
この舟というのは、あなたのいつもの生活の場であり、あなた自身です。そこに、イエスさまは乗り込んで、腰を下ろしてくださるのです。どっしりと!そして、「私と一緒に、もう一度挑戦しよう」と言われます。戻っていくのは今までと全く変わらない場所です。でも、今度はイエスさまと一緒です。ここが大切ですね。
お言葉どおりに
彼は、このことがどういうことなのか分かりませんでした。イエスさまは何を考えているのだろう、魚なんて獲れない昼間のこんな時間に漁をしようなんて、と思っていました。しかし「お言葉ですから」と、しぶしぶ?イエスの言葉に従いました。すると、網が破れそうになるほどの沢山の魚がとれます。彼は「主よ!」と叫びました。この叫びは、どういう叫びだったのでしょうか。シモンはこのとき、イエスさまが自分の礼拝すべきお方だとはっきり分かたったのです。彼の信仰の目が開かれたのです。彼は「私のような者から離れてください。私は罪深い人間ですから」と告白します。これは「私は神さまの救いが必要な存在です。あなたこそ、わたしの救い主です」という告白です。そしてもう一つ、主が共におられることの幸いも経験します。彼の中に、清い方への恐れと同時に、救い主が来てくださったという喜びが沸き上がりました。私たちが従うときに分からせてくださるのですね。信仰とは従うことです。
私にもこんな経験があります。私は19歳で洗礼を受けました。すごく期待をして受けました。クリスチャンになると180度変えられると何度も聞いていたからです。ところが、受ける前と受けた後で何の変化もありませんでした。私はとてもがっかりしました。そして私の信仰を足踏みさせているものが一つありました。それは「聖霊の神さまが私と一緒にいてくださる」ということが理解できなかったことです。でも、あやふやのままにしなかったのです。「聖霊の神さまを分からせてください」と祈り続けました。教会に行くこともやめませんでした。4年を過ぎたある日、何か特別なことが起きたわけではないのに、不思議に私の中に喜びが湧き上がってくるという経験を、神さまがさせてくださいました。そのときに、聖霊を分からせてくださった、と信じることが出来ました。それからは、イエスさまが約束してくださっていることは信頼できることで、自分がどんな状況におかれてもイエスさまに従うことが大切なんだと分からせていただきました。聖書の言葉を正しく理解し、それに従うということでした。そして、焦らず諦めず、わからせていただくまで祈ることの大切さを教えられました。
今朝のペトロも主のお考えが分からなかったのですが、お言葉に従って分るようになりました。
宣教の業への参加者として
そんな彼に「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と弟子として招かれます。
人間をとる漁師になるというのは、宣教の業への参加者になることですね。これは、大変な招きです。しかし、「恐れることはない」とイエスさまは言われます。何故恐れなくていいのでしょうか。イエスさまが一緒だからです。
漁師たちは、全てを捨ててイエスに従いました。全てを捨てても惜しくない、それ以上の大きな喜びがイエスの中にあります。失望、落胆の中でイエスに出会った時の喜びを知った彼らだったからです。私たちもまた、私たちの内にイエスさまにどっしりと腰を下ろしていただきましょう。そして、イエスさまに従って歩んで行きましょう。問題のある日々です。高齢になると問題に見えることが増えてきますね。しかし、私たちの主は、私たちと同じ人間となって、先頭に立って苦難の道を歩んでくださいました。私たちのためです。地上の歩みは苦労の多い道ですが、しかし、イエスを信じて従う者には喜びを下さいます。宣教には、神からの喜びがセットだからです。
2023.01.29
「神の支配の中で」ルカによる福音書4章31~43節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
わたしたちの神は、父が子を鍛えるように、わたしたちが将来、神と共に住む時のために、鍛え訓練なさるかたです。だから、人生で色々な苦労や困難に会う時、この事を思い出しましょう。イエスも「あなたがたは世で苦難があるが、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」「見よ、わたしは世の終わりまであなたがたと共にいる」と言って励ましておられます。今日、私たちはイエスからもう一つ確かな約束を今から聞きます。それは、イエスを信じる人、すなわちイエスと繋がる人は神の支配の中にいる、という約束です。ですから、何がありましても力を落してはなりません。
さて、イエスが神さまからのお話しを伝えるのに、最初にカファルナウムへ行かれました。エルサレムには神殿がありましたが、他の町には必ず会堂があり、礼拝が行われていました。イエスはそこに行ってお話しをされました。神の独り子が神に代わって話すのですから、聞いた人はその内容に非常に驚いただけではなく、予想外の事が起こりました。
一人の男がイエスに向かって大声で叫び出しました。集まった人々は何が起こったのか、最初は分からなかったと思います。「どうしたんだ、どうしたんだ」と、一同がざわめきました。そして分かったんです。この男は汚れた悪霊に取りつかれていて、その悪霊がイエスに叫びました。「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ」。イエスが「黙れ。この人から出て行け」と叱ったら、悪霊はその男を投げ倒して、出て行きました。
よく似たことがシモンの家に行った日の夜にも起こりました。色々な病気で苦しむ人と、その人を抱えている家族が大勢イエスのもとに来ました。イエスはその一人ひとりに手を置いて癒されました。その時に悪霊「お前は神の子だ」と叫んで、多くの人々から出て行きました。また、シモンのしゅうとめの熱もイエスに叱られて去って行きました。
悪霊が叫んで出て行ったり、熱が去って行ったり、これって何が起こっているのでしょうか。子どもが、道で躓いてこけて、大泣きしています。皆さん、どうしますか?「痛いの痛いの、飛んで行け」。これよくやりますよね。これは小さな声でしても効き目はありません。痛みに支配されていた子どもが反対に「どうしたの?」と不思議がる程に、大声で勢いよく言うと、子どもはいつの間にか痛みの支配から解放される、というからくりです。
2000年のキリスト教会の歴史の中には、悪霊払いや癒しの集会を開き、キリストの福音ではなくて、指導者のカリスマ性が強調された事がありました。しかし、それは教会の歩むべき道から外れていました。イエスが福音を語ると、それまで支配していた神以外のものが出て行きました。熱や悪霊だけではありません。それはほんの一部です。私たち人間には神以外に支配されているものが沢山ありますね。例えば、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ。聖書はここで伝えたいことは、イエスが超能力者や霊能者であることではなく、イエスによって神の支配が近付き、今まで支配していたものが出て行かざるを得なくなった、ということです。
イエス・キリストはあなたがこの神の支配の中に入れるようにして下さいました。入りましょう。是非あなたに入って欲しいのです。あなたに入ってもらう為に神はその独り子イエスの命を犠牲にして下さいました。これは和解の為の犠牲です。神との和解無しには、神の支配の中に入れないからです。神は罪を知らないイエスを、私たちに代わって罪とされ、十字架でその罪の処罰を受けて死なれました。バプテスマはこのイエス・キリストの死によって、神と和解し、神の支配の中に入れて頂く、喜びの時です。聖餐式のパンと杯で、神と和解して神の支配の中に私たちを入れて下さったキリストの死を身体で覚えます。
イエス・キリストによって神の支配が来ました。それは私たちの目には見えませんが、確かです。飯塚教会の産みの親は誰か知っていますか? 創立50周年記念誌の6ページに記録されています。宣教師のエコール先生です。先生の妻が大阪にもう一つ教会を立てる為に準備された献金が基になって、楠葉台教会が建ちました。私たちは飯塚に来る前の前、2年間牧師をしました。車で教会に着くと、ナビが毎回「大阪府に入りました」と告げます。教会の敷地の右側が大阪と京都の境だったからです。この境は目には見えません。神の支配も同じです。
バプテスマを前と後、わたしには変化が見えませんでした。相変わらず風邪を引いて熱を出したりします。涙を流します。悲しみます。苦しみます。痛みを覚えることがあります。時には叫びたくなります。しかし、神の支配の中に入っていることは確かです。私たちは病気が癒されたり、悪霊祓いが為されるのを見なくても信じます。御言葉によって信じます。使徒パウロはこの神の支配をイエス・キリストにおいて示された神の愛の支配だ、と伝えています。ローマ8章39節。神の支配から私たちを引き離すものは一切ありません。この力ある一言で私たちは十分です。
皆さん、イエス・キリストによって示された神の愛の中に入りましょう。イエスには計画があります。皆さんがキリストの弟子、すなわち人間をとる漁師になる事です。漁師は海の中に生きていた魚をとってすぐに舟の水槽の中に入れ、水槽の中で生きる魚とします。神以外のものの支配の中に生きいた人間を、水槽ではなくて、神の愛の支配の中に入れ、その中で生きる人間とする、これが人間をとる漁師です。
神は、反抗し続ける人間、すなわち敵対する人間と、平和な関係を結ぶために何をなさったのでしょうか。神は天罰の恐ろしさで抑止することも出来ます。しかし、神は御自分の独り子に、神の身分を捨てさせて、敵対する人間になられ、人間の只中に入って行く方法を取られました。そこにはリスクがあります。しかし神は人間を愛し抜かれました。ここに示された愛とは、相手の立場に立ってものごとを判断する愛です。人間をとる漁師は、この愛で漁をします。だから、皆さん、私たちは祈りましょう。その愛を下さい、と。
2023.01.22
「子を訓練される神」ルカによる福音書4章1~10節、申命記8章2~10節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★聖霊によって、誘惑が待っている荒れ野にイエスを導かれた神の真意とは?
さて、私たちのイエス・キリストがバプテスマを受けた時に、鳩のような目に見える形で天から聖なる霊が降りました。私たちもバプテスマを受けクリスチャンになった時に、目には見えない形ですが聖なる霊を受けます。聖霊は私たちの信仰生活を助け導いてくれます。ところが、聖なる霊はイエスを荒れ野へ連れて行き、40日間悪魔の誘惑を受けさせられました。えっ!神さまはどうしてそんなことをなさるのですか?聖なる霊は私たち信仰者を助け導いてくれるのではないのですか?あーあー、神の思いが分かりません!
★禁断の実を結ぶ木と誘惑するヘビを置かれた神の真意とは?
昔、神は同じようなことをなさっていました。最初の人アダムと、彼のパートナーのエバを造り、二人が幸せに暮らせるようにエデンの園に連れ行った時でした。中央の一番目立つ所に善悪を知る木と言う、食べたら死んでしまう実のなる木を植えられました。それから、それを食べるように誘惑するヘビも、彼らと一緒にいるようにされました。そのうえで神はアダムたちに命令しました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。今日読んだ聖書に出て来た、聖なる霊がイエスを荒れ野へ連れて行って悪魔の誘惑に遭わせられたのと似ていますね。
とうとう事件が起こりました。エバがヘビに誘惑されて、その実を食べてしまいました。ところが、食べても死にませんでした。それでアダムも食べました。神は嘘をつかれたのでしょうか。違いました。神はアダムとエバの心を見ようとされたのでした。神が探される時にアダムたちは神の前に出て行った正直に謝まるのではなくて隠れていました。
神はアダムに「取って食べるなと命じておいた木から取って食べたのか」と聞きました。するとアダムは「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」と答えました。その答えには『この女を私のパートナーにしたあなたが悪い』と言う思いが込められていました。
次に神はエバに言いました。「何と言うことをしたのか」。するとエバは「蛇がだましたので、食べてしまいました」と答えました。この答えには『蛇を造ったあなたが悪い』と言う思いが込められていました。
神は人と互いに信じ合い、愛し合って、このエデンで幸せな生活を送ろうと計画していたのですが、神を信じて神を愛する心が人には育っていない事が、この誘惑によって明らかになりました。もうエデンでの共同生活はできなくなりましたが、この日から神は人が神を信じ愛する心を持って、神と共に歩めるように、人を養い育てる働きを始められました。神は聖霊によってイエスを、誘惑が待っている荒れ野へ連れて行かれたのは、この神の働きが続いている事を示す為でした。ヘブライ12章10節『霊の父は私たちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです』。
★三つの誘惑
①この身体を生きる事に対する誘惑: 悪魔はここでイエスに、石をパンに変える奇跡ができるかどうかを試しているのではありません。悪魔は問いかけているのです。イエスよ、お腹がペコペコだろ。人に必要なのは神でも信仰でもない。パンでしょ。食べることでしょ。この問い掛けの反対は、人間に必要なのはパンじゃない、信仰だ、神だ。それである宗教では、信仰のゆえに神のゆえに、禁欲的な食事制限をします。皆さん教会はそんなことをしませんから安心して下さい。イエスは答えられました(4節)。「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」。悪魔さん、あなたの言う通り、人が生きて行くのに必要なのはパンです。だから、わたしは、お祝いの宴会や歓迎の宴会に招かれたら喜んで出席して楽しみます。人はパンを食べて生きる。しかし、それと共に神さまとの親密な関係によって生かされなければならない。パンと神が生きるのに必要なのです。
わたしの使っている接着剤は接着剤AとBの二つのチューブでワンセットになっていて、AとBを同量混ぜ合わせて使います。人が生きるのも、それと似ています。パンと神との密接な関係、この二つを混ぜる時に人は生かされます。
だから、神に愛された者として食べたり飲んだり、この身体を動かして生きましょう。
②見えない神の非現実性に対する誘惑: 次に悪魔は一瞬のうちに世界のすべての国々を見せて問いかけました。イエスよ、今見せたものは全部現実のものだ。それをお前に与える、だから目に見えない神なんか捨てて、私を拝め。イエスは答えられました。「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」と書いてある」。たとい私たちが神を見たとしても、はたしてそれは神なのでしょうか。目の錯覚なのか、幻覚なのか、はっきりしません。しかし、神の方から言われるのです「わたしはあなたの神」と。わたしの方が目で見えることよりも、わたしの目には見えませんが神の方が「わたしはあなたの神だよ」と言ってくださる方が確かなのです。だから、その神を拝みただ仕える、そちらの方が確かなのです。私たちは見えるものではなくて、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
③宗教的満足への誘惑:
それ程に見えない神を信じるのなら、聖書に「神が天使を遣わしてあなたをしっかり守らせる」と書いてあるから、試しにエルサレムの神殿の屋根の端から飛び降りたらどうだ。巡礼に来た人々はそれを見て、信仰を強くするだろう。宗教的満足に浸るだろう。イエスは答えられました。『そうではない。神を試してはならない。祈りが聞かれても聞かれなくても、願い通りになってもならなくても、いずれの時にも、神は信頼するべきお方である』。
★イエス・キリストは三つの誘惑を受けて、神と共に歩む成熟した人となる為に三つ大切な事を教えて下さいました。
①人はパンだけで生きるのではありません。神に愛された者として神と共に食べたり飲んだり、この身体を動かして生きましょう。
②わたしが見えるものではなくて、見えないけれど神がおっしゃることに目を注ぎましょう。それが一番確か。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。
③祈りが聞かれても聞かれなくても、願い通りになってもならなくても、いずれの時にも、神は相変わらず神なのです。だから神に信頼しましょう。
新約聖書のヘブライ人への手紙12章10節に、『霊の父は私たちの益となるように、ご自分の神聖にあずからせる目的で、わたしたちを鍛えられるのです』とあります。この一年、神の子として、この父なる神に鍛えていただきましょう。
★おさらい
ヤコブの手紙1章21節に『心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます』とあります。来月からは百合香牧師がみ言葉を皆さんにお伝えします。期待いたしましょう。一年52回の礼拝で、御言葉の光が私たちの心に植え付けられます。2023年になって既に三つ植え付けられました。
1/1、老人のシメオンが幼子イエスを抱いて気付きました。『主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます』。私たちのイエス・キリストは、私たちが神さまの圧倒的な愛の中に包まれていることを示してくださいました。だから、私たちもこの一年を安心して進みましょう。
1/8、私たちの目標は、『神と人とに愛された』私たちのイエス・キリストに倣って、『神と人とに』に目を留めて、成熟した人を目指すことです。この一年成熟を目指しましょう。
1/15、バプテスマを受けられた私たちのイエス・キリストは、私たちがバプテスマを受ける時に、神が私たちに対しても『わたしの愛する子』と宣言して下さり、私たちを全く新しい世界、すなわち神の御支配の中に、圧倒的な神の愛の中に入れて下さる、という大きな大きな恵みを受けます。だから洗礼には希望があります。そこから私たちを引き離すものは何一つありません。この一年希望を持って進みましょう。
2023.01.15
「洗礼は希望」ルカによる福音書3章1~22節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
洗礼・入会希望者は牧師までお知らせ下さい、と週報の右下に毎週印刷されています。教会にとって洗礼が非常に重要だからです。花は花瓶に生けます。洗礼の水は洗礼盤に入れます。今日は飯塚教会の洗礼盤を聖餐の食卓の上に置きました。古い教会は石で洗礼盤を造り、それを聖堂に入ってすぐの所に置きました。色々な思いを持って人々は教会に集います。聖堂のドアを開けて、目の前にある洗礼盤を見て、まず洗礼を受けて神から頂いた大きな恵みを思い出すためでした。洗礼は私たちが努力したり、頑張った結果として受けるものではありません。だから洗礼はゴールではなくてスタートです。神があなたも洗礼の恵みを受けなさい、と言って下さるから受けます。ですから、洗礼は恵みです。今日のみ言葉は皆さんに、この洗礼の恵みの大きさを伝えています。
洗礼は「神の言葉が、荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」ことによって始まりました。神の言葉が降る事には長い歴史があります。最初はアダムに降りました。「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」。アダムがエデンから出て行った後も、神の言葉は数えきれない人に降りました。例えばカイン、ノア、アブラハム、イサク、ヤコブ、モーセ、ヨシュア、士師たち、サムエル、そして沢山の預言者たちに神の言葉が降りました。預言者たちは神からのメッセージを言葉で伝えました。その続きで預言者としてザカリアの子ヨハネにも神の言葉が降りました。ところがヨハネは今までにない方法で神からのメッセージを伝えました。それが洗礼という方法です。漢字を使う日本語や中国語の聖書は『洗礼』と翻訳しましたが、他の国の聖書は殆ど原語のギリシャ語バプテスマをそのまま使っています。バプテスマは足の先から頭の天辺まで水に浸(ひた)すことです。ヨハネは人を水に浸すバプテスマで神からのメッセージを伝えました。どんなメッセージなんでしょうか。
そこで、春雨のバプテスマの話しをこれからします。百合香牧師と二人三脚で牧会伝道していますので、私も料理を担当することがあります。皆さん、野菜炒めを食べ終わったら、最後に野菜等から出た美味しい汁が残りますね。そこにはきっと栄養も溶けているでしょう。もったいないですね。私は春雨を最後に入れてその美味しい汁を吸わせています。春雨は1mm位の細長くてカチカチに乾燥してチョット曲げるだけでポキポキと折れる食材です。私は野菜を準備する前に、まず春雨全体を水(お湯)の中に沈めます。これが春雨のバプテスマです。野菜が炒め終わった頃には、あのカチカチでポキポキだった春雨が、半透明の綺麗な素麺の様になっています。それをフライパンの中の炒めた野菜と混ぜて、ひと炒めして出来上がりです。春雨は、美味しい汁を吸って色が変わり、野菜たちと一体になって綺麗な皿に盛られます。
皆さん、袋の中に入って干しシイタケや、だし昆布や、いりこと一緒に棚の中にいた春雨がバプテスマを受けて何が起こったのか分かりますね。春雨が柔らかく変化しましたが、そんな変化は小さなもので、もっと根本的に大きな変化が起こりました。春雨が全く新しい世界の中に入れられました。人のバプテスマも同じです。ヨハネは人を水に浸すバプテスマで神からのメッセージを伝えました。それは、神が私たちを全く新しい世界に入れて下さる、と言う福音です。それに伴って人は徐々に変えられて行くでしょうが、最も重要なことは、全く新しい世界に入れられることです。ではどんな世界なのでしょうか。
預言者イザヤはずーと前から、全く新しい世界の始まりを預言していました。彼はそれを道路に例えていました。3-6節です。神と人を結ぶ道路は、谷に向かう急な下り坂や、山や丘を越える急な上り坂や、曲がりくねった道や、でこぼこ道で、通行止めの状態です。ヨハネはバプテスマを受けようとした人々に、この神と人を結ぶ道が通行止めの状態になっていることを、言葉と体で示しました。つまり、人は神さまの怒りを受けるしかない状態です。「神さまが願っている良い実を結んでいますか」と問われると、私たち自身も答えられない状態です。神さまと私たちの関係が良くありません。ところが、その道が綺麗に真っすぐに通されて、誰でも通れるようになる時が始まる。ヨハネがバプテスマを授けて伝えたかった、神が私たちを入れて下さる、全く新しい世界とは、神と私たちの悪い関係が良い関係になる、そういう世界のことでした。イエスさまは示してくださいました。「この事は本当である」。
その為に、イエスさまは私たちと同じ人間になられました。多くの人と共に、イエスさまもヨハネからバプテスマを受けた時のことです。天から神が言われました。「あなたはわたしの愛する子。わたしの心にかなう者」。バプテスマを受けるとは、神の子、神に喜ばれる、神との関係が良くなる、ということです。そして、この福音書は人となられたイエスさまのファミリーヒストリーを続けて書いています。イエスさまはヨセフの子、ヨセフはエリの子、それからさかのぼると、エリはマタトの子。長く続くので、・・・の子は省略して名前だけが続きます。最後はセツの子、そしてセツはアダムの子、アダムは神の子。つまり私たち人間はもともと神の子、神と良い関係だったのです。しかし、今の現実は悪い関係になっています。
イエスさまは神との良い関係、今と全く違う新しい世界に私たちを入れて下さいます。そのためにイエスさまは私たちに聖霊と火によってバプテスマを授けられます。聖霊は神の愛を表わし、火は神の裁きを表わす言葉です。教会が授けるバプテスマは、水を使いますが、神の愛と裁きの中に受洗者のつま先から頭の天辺までを沈めて浸します。神の愛と裁きは、イエス・キリストの十字架に現れました。バプテスマによってあなたの全てがキリストの十字架の中に沈められました。
春雨は水のバプテスマを受けた後どうなりましたか。全く新しい世界の中に入いりましたね。教会が授けるバプテスマは、キリストの十字架に示された神の愛と裁きによって、あなたを全く新しい世界に、神との関係が良い、神と和解した、人生の中で何が起こりましても神の御支配の中にあるという、全く新しい世界に入れてくださるのです。ここに洗礼のバプテスマの揺るぎない希望があります。あなたはわたしの愛する子!
2023.01.08
「神と人とに」ルカによる福音書2章41~52節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
年末年始に子どもと共に過ごす時間が与えられました。色々話しましたが、親として子どもたちが心配を掛けた思い出話しが長くなりました。私もお正月に実家に帰った時に、父の酔いが回って来ると、五人の子どもが親に心配を掛けた思い出話しが、終わりなく続いた事を思い出します。親は子どものことをいつまでも心配します。
ですから、迷子になったと思って、イエスを捜しに神殿に戻って来た母マリアが「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい、お父さんも私も心配して捜していたのです」と言った気持ち、よ~く分かります。
しかし、イエスは「お母さん、お父さん、心配を掛けて、ごめんなさい」とはおっしゃいませんでした。反対に「なんで心配して捜したのですか」と言わんばかりの内容で答えました。私はここを読んで、『イエス、ナザレに帰ってからの親子関係を考えたら、ここは取り合えず謝っといた方が良いのでは』、と思いました。ところが聖書は全く違う所に目を留めています。
今から約2000年前、ユダヤ人の間では12歳から大人の仲間入りをします。赤ちゃん、幼児、子ども、大人。明日は成人の日。大人の事を成人とも言います。イエスも両親と一緒に神殿に行って成人式の様な記念の時を持たれたでしょう。では皆さん、大人の次は?それで終わりなのでしょうか。
終わりではありません。新約聖書エフェソの信徒への手紙の4章13節は、キリストの体である教会に繋がる皆さんに伝えています。『皆さんの目指すべき目標は、成熟した人になることです』。これは私たちにとって非常に重要なことです。
イエス、大人の仲間入りをした日、この重要なことを伝えるのを第一に優先されました。それで、「お母さん、お父さん、心配を掛けて、ごめんなさい」と言われませんでした。でも、51節に「両親に仕えてお暮しになった」とありますから、きっと心配かけたことを謝ったのだと思います。
49節に注目してください。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」。イエスは神殿を自分の父の家だと、両親に言いました。成熟した人には、生みの親と天におられる父がいます。
それを聞いたマリアとヨセフは、その意味が分かりませんでした。「イエス、おかしなことを言っていないで、さあ、帰るのよ」。「マリア、そんなに怒らないで、無事に見つかったんだから。さあ、一緒に帰ろう」。
皆さん、私たちには生みの親と天の父がおられます。天の父は、イエス・キリストを死人の中から甦らせる事の出来るお方ですから、死後も私たちの親として働かれるお方です。ところで、成熟した人を目指す私たちのライフプランはロングプランになっているでしょうか。
死んだ人に対して「天国で安らかに」とか、「天国で私達を見守って下さい」とかよく言うのを聞きます。しかし、殆どの人はお墓までの事しか考えず、天国へ行ってからのプランを考えていません。天の父は、イエス・キリストを、眠りに就いた人たちの初穂として、死人の中から甦らせて下さって、私たちが死で終わりではない事をはっきりさせて下さいました。死は神のもとに帰ることです。それから神と一緒の時が永遠に続きます。
①成熟した人を目指す私たちには、生みの親と天の父が与えられています。
天の父はキリストを死より復活させ、私たちのライフプランを超ロングに変えられました。
私たちの今の人生は、天国での超ロングな生活の為の準備期間です。
この準備期間を過ごしている皆さんにとって大切な事は一つです。52節にイエスが「神と人とに愛された」とあります。人にだけではなくて「神と人とに」と言う所がポイントです。キリストは家族を愛され、家族に愛されました。と同時に神を愛し、神に愛されました。
ナザレでの日常生活で、イエスはお父さん、お母さん、妹、弟を見る時に、天の父なる神の事も忘れずに生活しました。これが「神と人とに」です。これが善い準備になります。これがあなたを成熟した人に成長させます。
②神は目には見えません。しかし、イエス・キリストを通して神が現されました。そしてキリストが天に帰られた後、残された教会に聖霊の働きと、み言葉を与えて、神の事を現し続けて下さっています。今年もみ言葉に養われ、神と人とに目を留めて成熟を目指しましょう。
ローマ8章28節302ページ神は「全ての事を働かせて益としてくださる」。
マタイ5章3-12節6ページでイエス様は、地上で苦労する人のことを取り上げて、天での報いの大きさのゆえに喜べ、喜び踊れ、と励まして、将来の良き準備としておられます。(貧しい者・悲しむ者・柔和な者・義に飢え渇く者・あわれみ深い者・聖い者・平和をつくる者・迫害される者)。
へブル12章5節-12節441ページでは、地上の苦労は天の父の訓練。
ローマ14章15節、1コリント8章11節は、教会内での私たちの歩みで重要な視点を示しています。その兄弟の為にも天の父はキリストの命をささげられた、という視点です。
お祈りしましょう。
2023.01.01
「安らかに進め」ルカによる福音書2章21~40節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★新年のお喜びを申し上げます。2023年が今日から始まります。登山に例えるなら、これから登山口に入るところですね。そこから先はスーパーもコンビニもホームセンターもありません。ですから、入る前に忘れ物が無いか、持ち物の最終チェックが必要です。新年を安らかに安心して進むために、私たちも今から最終のチェックをいたしましょう。さて、何をチェックいたしましょうか。ヨセフとマリアとイエスの聖家族もナザレに帰って、新しい生活を始める前に①割礼と②聖別という二つのチェックを行いました。ここにヒントが。
①割礼。今から約3500年前に、神はアブラハムに「あなたと家族を祝福するから、わたしと一緒に人生を歩もう」と招かれ、彼は信じてそうしました。しかし、その人生は順調ではありませんでしたから、神の約束を疑う時がありました。不安な時がありました。それで神が言われました。「あなたたちの男子はすべて、割礼を受ける。包皮の部分を切り取りなさい。これが、わたしとあなたたちとの間の契約のしるしとなる」。「それによって、わたしの契約はあなたの体に記されて永遠の契約となる」(創世記17章10節13節)。
★子育てに不安を覚えるマリアとヨセフでしたが、この割礼によって、「心配は要らない。何があっても、わたしが永遠にこの子の神なのだから」という神さまからの確かな約束を頂きました。割礼は男性のプライベートゾーンに消えない傷を印として付けます。痛いから赤ん坊は大声をあげて泣くでしょう。しかし、両親は、この神からの確かな約束を彼も受け取っていることを、生涯思い起こし続ける為にする割礼を、喜んで行いました。
★皆さんも、今日、神からの確かな約束を受け取って下さい。私たちは体に傷をつける必要はありません。イエス・キリストを皆さんの心に救い主として迎えてください。そうしたら、イエス・キリストが皆さんの心に刻まれます(2コリント3章3節)。キリストは十字架で苦しんで全く希望の無い死に方で死にましたが、神はその希望の無いキリストを死人の中から甦らされ希望を示されました。「心配は要らない。何があっても、わたしが永遠にあなたの神なのでから」と言う、神の確かな約束を私たちに示すためでした。それどころか、私たちにはそれ以上の約束が与えられています。キリストは言われました。「あなたがたは神に祈る時に、天の父と呼びなさい」と。皆さん、私たちは神の子です。神は我が子の様に、私たちを見守り,養い、育て、諭し、鍛えられます。だから、新年を安らかに進みましょう。コロサイ2章11-12節、ローマ2章29節、ヨハネ1章12節、ガラテヤ3章26節。
②聖別。献げる。アブラハムの約200年後、彼の子孫がエジプトで奴隷として苦しめられた時代がありました。彼らの叫びを聞いて、神は力強い御手によってエジプト中の初子を、パロの初子から始まって家畜の初子まで、膨大な数の命を取り上げられました。但し、アブラハムの子孫の初子だけが助かりました。その結果パロは奴隷の解放を許し、神は彼らをエジプトから連れ出し、遠く離れた所へと導かれました。
★命の神である神にとって、エジプトで亡くなったその膨大な数の命は心痛める犠牲でもありました。それで神は救われた彼らに対して言われました。「私は膨大な命の犠牲を払って、あなたがたをエジプトの奴隷から買い取った。私はあなた方の神である。あなたがたは私のものである。そのことを決して忘れないために、一つ命令する。あなた方の間で初めて生まれる子はすべて私のものだから聖別、すなわちその命を献げなさい。ただし、人は、その子の命の代わりに他の動物の命を献げなさい (出エジプト記13章12-16節)。
★聖家族が神殿に行ったのは、この子が元気に育ちますようにと、お願いしに行ったのではありません。悪いものがつきませんようにと、お祓いをしてもらいに行ったのでもありません。また、お守りをもらいに行ったのではありません。神に献げるためでした。定めに従って、その子の命の代わりに山鳩一つがいと家鳩の雛二羽をいけにえとして献げました。両親はこの儀式によって、この子は昔、強いみ手を持って、エジプトの初子を全ち、パロの手からイスラエルを救った、あの神のものである、神に聖別された者であることを確認しました。だからもはや心配は要りません。それよりも、畏れおののきました。なぜなら、この子は神からの大切な預かりものだからです。彼らは安心して家路につきます。
★皆さん、皆さんのイエス・キリストは十字架につけられる前の晩に祈られました。「彼らのためにお願いします。・・・彼らはあなたのものだからです」。「彼らの為に、わたしは自分自身をささげて聖別します。彼らも、真理によってささげられた者、聖別された者になるためです」(ヨハネ17章9節、19節)。イエス・キリストを心に受け入れる者は新年を安らかに進みましょう。神によって聖別(特別に扱われている)されているからです。そのために、イエス・キリストは私たちを聖別する為にご自身の命を聖別して献げられました。
★さて、神殿には聖家族と正反対の、これから人生を終えようとする二人の老人シメオンとアンナがいました。彼らは人生で、苦労や誤解や迫害や悩みなどを経験して来ましたが、その信仰生活を終えるにあたって、そこに慰めが救いがはっきり見出せていませんでした。信仰が無駄な事だった様に見える現実を彼らは多く見ていたに違いありません。それで、信仰して来て良かったと言う確信を与えられるのを彼らは待ち望んでいました。二人の五感は衰えていました。しかし、霊の感覚は研ぎ澄まされていました。幼子イエスを発見し、救い主キリストであることを見抜き、シメオンは「主よ、今こそあなたは、お言葉通り、この僕を安らかに去らせて下さいます」と詠い、アンナも神を賛美しました。
★シメオンの歌は就寝の祈りとして祈られて来た伝統があります。眠りに就く事は単なる休息だけではなくて、いつか永眠する事を思い起こす時でもある、と言う事なのでしょう。そこで救いの確信を握っているかどうかが問われます。シメオンは29-32節の歌の解説として34-35節でマリアに言った言葉に注目して下さい。これはキリストの十字架を預言しています。人間は神を畏れず神に反抗し、キリストを剣にかける。しかし、神はその人間に対して独り子の命を献げると言う、圧倒的な愛の応答をなさるのでありました。シメオンはそれを霊の目で見せて頂き、安心して先へ進みました。
★皆さん、振り返ると私たちにも二人の老人の様に信仰が揺らぐ色々な出来事がありました。しかし、キリストを通して示された、圧倒的に大きな神の愛が皆さんに注がれています。だから、安らかに進みましょう。「しかし、わたしたちを愛して下さった方によって、わたしたちは、これら全ての事において勝ち得て余りがある。わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことは出来ないのである。」口語訳聖書ローマ8章37-39節
最終チェックは4つありました。
①神が永遠にあなたの神となって下さいます。万一あなたが神の事を忘れても、神はあなたの神であり続けて下さいます。
②神はあなたを我が子とされています。
③あなたは神に聖別されています。特別な存在とされています。
④圧倒的な神の愛と支配の中に、あなたはいます。
さて、2023年を進んでください。安らかに進んでください。
2022.12.25
「あなたの救い主イエスキリスト」ルカによる福音書2章1~20節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
今からもう2000年以上前のことですが、クリスマスのイエス・キリストの誕生が私たち人間にとって、どんなに大きな喜びであるかを、どのように表したらよいのでしょうか。皆さんメリーゴーランドってご存じですよね。チョット高い舞台の様な高さに上ると、お馬さんが待っています。好きな馬に乗って、奇麗な音楽に合わせて、キラキラ光る色とりどりのライトに当たって回る、すなわちGo Roundします。嫌な事や心配な事を全て忘れて、うつ向いた顔を上げて、しかめっ面はもう止めて、元気を出して楽しく、このメリーゴーランドの上ではチョット騒いでもいい、そんなmerryな時を過ごしましょう。これがメリーゴーランドです。メリークリスマスも同じで、嫌な事心配な事を忘れて、うつ向いた顔を上げて、しかめっ面はもう止めて、元気を出して楽しく、チョット騒いでもいい、今日はキリストの誕生日、その喜びはそれ程に大きいんだから。今年も世界中の色々な場で、メリークリスマスと言われるでしょう。私も皆さんに言います。メリークリスマス!しかし、クリスマスの喜びの本当の大きさは、クリスマスの前と後の事を知らなければ分かりません。
神は私たちの世界に三度来られます。一度目はキリストが生まれるズーと前、旧約聖書の時代でした。神はこの世界と人を造った時から、一つの願いを持っておられました。その願いとは、神と人が共に歩む事でした。しかし、人は神からどんどん離れて行きました。神は寄り添い続け、一つの行動に移られました。ざっと約4000年程前のことでした。神は、当ても無くさ迷っていたアラム人(申26:5)アブラハムを選び、彼の子孫を、神の民とし、彼等と共に歩み、彼らを祝福の源にする計画を進められました。
神が助けを求める彼らを、モーセによってエジプトの奴隷状態から脱出させテント生活を始めた時に、神は彼等のテントの只中に、ご自分のテントを造らせ、彼らと共に住み、共に旅をされました。神は彼らを祝福されたので、彼等は土地が与えられ、王を立て、国を興し、神のためにエルサレムに壮大な神殿を建てる程、豊になりました。大きくなりました。幸せをつかみました。
そしたら、彼らは神が邪魔になって来て、追い出しにかかりました。神は預言者を何回も彼らに遣わして警告しました。しかし、彼等は預言者の言う事に耳を傾けず、とうとう神は神殿から去って行かざるをえなくなりました。神がいなくなると、彼らが持っていた豊さや大きさや幸せがどんどん奪われて行きました。そしてとうとう大きな国に呑み込まれ、世界中にちりじりばらばらになりました。
しかし、神は諦めませんでした。二度目に来られたのが今から約2000年前のクリスマスです。神は次のような思いを持って、クリスマスにイエス・キリストを誕生させられました。
『今度は私が行くのではなくて、私の愛する独り子イエス・キリストに行かせよう。そうだ、息子には神の身分を捨てさせ、女から赤ん坊として生まれさ、人間の労苦を負う肉体を取らせ、神が人間をどんなに愛しているか、共に歩みたいと、どんなに願っているかを、示そう。きっと歓迎してくれるに違いない。さて、いつ、どこの誰から生まれさせようか』。
神が選んだのは、ローマ皇帝アウグストォスがローマの皇帝だった時代に、彼が植民地の人口調査の為に住民登録を命じた時で、キリニウスがシリヤの総督であった時に行われた最初の住民登録の時でした。非常に詳しく聖書が伝えているのは、これが作り話ではないからです。場所はユダヤ、ヨセフと婚約中のマリアの子として生まれました。マリアの親戚には祭司のザカリヤがいました。彼らはナザレに住んでいましたが、この住民登録の為に約110キロ離れたヨセフの故郷ベツレヘムまで上り道を歩いて行かなければなりませんでした。途中で体調を壊したらお腹の子どもにも影響があります。
しかし、皇帝の命令は絶対でした。時間は掛かりましたが何とかベツレヘムの町に到着しました。するとマリアは子を産みそうな状態になっていました。ヨセフは急いで宿を探しました。しかし、どこの宿屋を訪ねても住民登録をしに帰って来た人々で満室でした。
聖書は伝えています。2章6節「ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」。
神が折角二度目に来て下さったのに、神の居場所がありませんでした。しかし神は天から怒りを発せられたのではありませんでした。それから約30年後、イエス・キリストが無実なのに十字架刑に処せられ殺された時も同じでした。神は天からじっと黙って見ておられました。神はクリスマスの時、既にこの結果になる事を予想されておられました。この結果は神と人の関係、神とあなたの関係、その現実を表しています。神がその独り子イエス・キリストをご自分の代わりに遣わされたのは、この関係を回復する為でした。
罪のない神の独り子が十字架につけられて処罰されたのは、全ての人の罪を独り子に背負わせるためでした。キリストは死んで葬られ、神から離れてしまった人間が最後に行きつく所まで突き落とされたのでありました。愛する独り子をここまで否定されたのですから、神の猛烈な怒りが人間に下されても仕方がない状態でした。
死んで三日目に神はそのキリストを死人の中から甦らせました。ああ、神の復讐が始まる。ところが甦ったキリストが和解の手を差し伸べられ、神と人が共に歩み祝福の基とならせて頂く幸いな道を救いの道を開いて下さいました。
神は言われます『あなたの救い主としてイエス・キリストが生まれました』。
人は言うでしょう『神さま、私の家は仏教です。私は無神論者です、信仰心の無 い者です。だから、わたしには無関係』。
しかし、神は言われます『いえ、違います。あなたは人間ですよね。キリストは全ての人間の救い主として生まれたのです。この全ての人間の中にあなたは確かに含まれています』。
昔、迫害されたキリシタンは、キリストが十字架で祈られた祈り、「父よ彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」を祈りました。キリストは彼らの救い主でもあるからそう祈りました。この神さまの愛の大きさ、それがクリスマスの喜びの大きさです。
さて神はもう一回来られます。その日、天からキリストが来られます。その日には人の目の涙をことごとくぬぐい取られ、死も、悲しみも、嘆きも、労苦も無くなります。その日まで、神は天から神の霊が信じる者と共にいる、と言う方法で導き守って下さいます。聖書の最後にキリストの言葉が記されています(ヨハネ黙示録)。「然り、私はすぐに来る」。そして教会はクリスマスにこのキリストの言葉を思いお越して言います。「アーメン。主イエスよ、来て下さい」。その日まで、この地上での生活を、主を仰ぎ見て、神と共に歩み続けましょう。
教会の暦は、このクリスマス、降誕祭から新しくなります。
私たち一人ひとりは、今神さまからの愛のメッセージを頂きました。その愛に答えて祈りを捧げましょう。今日までの守りと導きを感謝し、「今日からわたしは、僕は・・・」、と新しい一年に向かっての思いを、神に伝えましょう。暫く祈って下さい。
2022.12.18
「マリアの賛歌」ルカによる福音書1章46~56節
説教:末吉百合香 師
礼拝メッセージ(Youtube)
(主を迎える備え)
教会とは、クリスマスにお生まれになったイエス・キリストがもう一度来られるのを迎える、その備えをする、そう言う群れです。
皆さん、こんな経験したことありませんか。自動車を運転していて、初めて走る片側二車線の道を快適にドライブしていました。その内に左の車線が混み出したので、車線変更をして空いている右車線を走りました。しばらく走って見ると予想外の事に左車線が長く続く渋滞であることに気付きました。後1キロ先の交差点で左に曲がらなくてはなりません。その交差点を左に曲がる車が2キロも渋滞していたのです。割り込もうと思いましたが割り込ませて貰えません。とうとう曲がれずに直進という結果になりました。振り返って見ると、混み出す以前から前の車が1台また1台と左斜線に寄っていたのです。その車は、あの交差点の混雑の事を知っていて、その備えを早目にしていたのです。ある時私も人生の車線変更をする必要を感じ教会に来ました。既に車線変更した沢山の人の列に割り込みさせて頂きました。後のものが先になり先のものが後になりますが、みんな喜んで下さいました。樹木の紅葉と落ち葉の中を歩く時、私達は彼らの着実な備えに目を留めましょう。樹木は冬備えですが、私達はもう一度来られるキリストを迎えるために着実な備えをいたしましょう。
(本当の幸い)
マリアとエリサベトの対面はミュージカルの様に歌でやり取りしているように見えます。エリサベトは最後に次の言葉をマリアに投げかけました。45節「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」それに答えてマリアは有名な「マリアの讃歌」で答えます。
47節の「わたしの魂は主をあがめ」あがめとは「大きくする」と言う意味の言葉です。それまでマリアの人生で神の占める大きさはどれくらいだったのか分かりませんが、「わたしは、今回の体験で、自分の人生の中で神が占める大きさを、もっと大きくします」と、まず歌ったのでした。次の行の「喜びたたえます」と言うのも、同じ様な意味です。マリアは「わたしの魂と霊はそのことをします」と歌いました。これは内面だけではなくて、生活の総ての面で神が占める大きさを大きくします、と言うことです。つまり自分を小さくして神を大きくする、と言うことです。38節でマリアは「わたしは主のはしためです。」と信仰告白しました。これは「信じます」と言うよりも「従います」と言う信仰だと聞きました。人生の中で神の占める大きさを大きくし自分を小さくするのは、従う、お任せするという事だと思います。
「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、何と幸いでしょう。」というエリサベトの歌にマリアは「いいえ、私の信仰は取るに足りないです。幸いなのは私の全てをお任せできる主と出会えたことです。」と答えたのだと思うのです。マリアがこの信仰に導かれた理由を次の48-49節で歌います。「身分の低い主のはしためにも目を留めて下さった」からです、と。マリアは田舎の村の貧しい娘で、本当はこの様な世界中で読まれる聖書に載る女の子ではありません。浜辺にある一粒の砂粒の様なもので、特別に誰の目にも留まらない平凡な存在でした。そんなマリアを神は選び、神の子イエス・キリストの母とされました。「神はわたしに目を留める事などあり得ない」と思っていたマリアは驚きました。彼女の人生は変わります。お金や健康や力や能力や美しさ等を得る事も幸いです。しかし、それはいずれ無くなります。しかし、みなさん「神がこのわたしに目を留めておられる。」これはいつまでも無くならない幸いです。この事をマリアはイエス様を宿して知ったのでした。このマリアと、聖霊が宿られる私たちクリスチャンは共通しています。
この出来事はマリアの人生にとって一番大きな事でした。彼女の夫ヨセフはイエスが12歳の時エルサレムへ一緒に旅した後、もはや聖書に出て来ません。どうしたのでしょうか。先立たれたとも考えられます。マリアが家族を養うのは本当に大変だった事でしょう。
イエスは長男として家族を養う働き手となってマリアを助けた事でしょう。しかし、そんなイエスが十字架で苦しみ死んで行くのを母として目の当たりにします。人の目には「さいわいな女」とは見えませんね。しかし、復活させられたイエス・キリストと会ってマリアは「どの様な所でも、どの様な時にも、神が目を留めて下さっている、ここに本当の幸いがある」と信じ続けたのです。マリアは教会で大切な歌としてこの讃歌を歌い続けたと思います。それで、こうして、キリストが天に昇られた何十年も後に完成したルカ福音書に載っているのです。
(神の側に立つ幸い)
50節の「主を畏れる者」とは、このマリアの様に人生の中を神に大きく占めていただく者、神に任せ、期待し、信頼し、神に希望を置く者の事です。主を迎える備えをする者のことです。51-55節は身分の逆転の事が歌われています。これは「今に見ていろ」と言う意味ではありません。思い上がる事なく神を畏れ続ける者、主を迎える備えをする者に神は目を留め、その者の側に立って助けて下さると言う歌です。
マリアの人生は人の目には祝福されたとは映らないでしょう。しかし、神が目を留め、マリアの側に立って下さいました。つまり、マリアは神の側に立っていた、と言うことです。それで希望に満ちていました。だから、48節「今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。」と歌い続けました。このマリアの讃歌は、2000年間教会で晩祷に歌われ続けて来た伝統があります。一日の労苦に疲れを覚えた時、信仰する故に悩む時、迫害の時、試練の時、この歌は歌われ続けて来ました。
この様にマリアの讃歌はみなさんに着実に備える必要を伝えています。それは再び天から来られるイエス・キリストを迎える備えです。第一の備えは、人生で神が占める部分を大きくすることです。第二の備えは、神が第一の備えをする者に目を留めて下さっている事を幸いとすることです。神の側に立つ幸いです。今、あなたが立っている所はどこですか。神が立たれるところですか。神だったらどこに立たれるのか考えて行動しましょう。この二つの備えの為に、キリストとの交わり、つまりキリストの身体なる教会と確り繋がって、聖書のみ言葉と聖礼典に養われることは欠かせません。 最初にした人生の車線変更の話しを思い出して下さい。皆さんの前に割り込んでくる人が必ず起こります。その喜びを味わいたいですね。今日確り信仰のハンドルを握り直しましょう。
2022.12.11
「譲って任せよ」ルカによる福音書1章39~45節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★クリスマスの喜びの大きさ
天使ガブリエルは全ての任務を終えて、天に帰って行きました。さてマリアの年齢は十代半ばと思われます。こんな大きな出来事を自分一人で負いきれませんね。両親や婚約者のヨセフに黙ったままにはできません。皆さんならどうされますか。また、皆さんが親としてこの事を聞かされたら、どうされますか。ここは非常に気になる所ですが、聖書は何も伝えていません。また、もう一つ気になる所があります。今回、神さまによって子どもを産むことになった二人の女性が出会うわけですから、年の差がありますが、きっと話が尽きなかったと思います。ですからマリアは三か月間エリサベツのところに滞在しています。小説家ならこの三か月間の事を色々書くでしょうね。しかし聖書はそうしません。不思議ですね。
「喜び踊れ」という説教題を読んで、皆さん思いませんでしたか『クリスマスを喜ぶのは分かりますが、先生、クリスマスに踊るんですか?』。エリサベトが聞いたマリアの挨拶は、胎内にいるヨハネにも聞こえました。それを聞いてヨハネが踊りました。そしたらお母さんエリサベツがまるで胎内を見えるかのように、『喜んで踊りました』と言っています。先週、お母さんと胎内にいる赤ちゃんは一体である、と聞きましたね。それがここで起こっています。ヨハネはマリアの声で主の母親が来た、イエスさまがそこに居るマリアの胎内におられることを感じ取ったようです。それで彼は喜び踊りました。その時より約1000年前、ダビデがエルサレムに住んだ時に、神にも住んでいただくために、テントを張り、そこに神の箱が運ばれた日、神が来てくださった事の喜びのあまり、ダビデは裸になって踊りました。
ですから皆さん、神の独り子が私たちと同じ人間になってお生まれになり、私たちのこの大地に来て下さったクリスマスの喜びは、踊る程なんです。皆さん、今年のクリスマス、どう喜びを表現しますか?
★キリストは必ず来られる
さて、マリアは天使ガブリエルから「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている」と聞きましたから、きっとその事を確かめるつもりでエリサベトを訪問しましたのだと思います。ところがそこで予想外の出来事に遭遇しました。マリアがエリサベトに挨拶をした時にその出来事が起きました。44節「あなたの挨拶の声をわたしが耳にした時、胎内の子は喜んでおどりました」。39節の前に「マリア、エリサベトを訪ねる」と題がついていますが、その内容は「イエス・キリスト、ヨハネを訪ねる」です。
ヨハネの人生には一つの使命が与えられていました。それは救い主イエス・キリストが自分の後から必ず来られる事を告げ知らせ、人々を神に立ち返らせ、キリストを迎える準備をさせることでした。もうすぐ、その人生がスタートします。ヨハネは成人してその使命を遂行している時に、群衆に紛れておられるキリストと出会うのですが、ヨハネには隠されていました。キリストが必ず来られる、この約束は信じるしかありませんでした。ところがお互い母の胎内にいる時でしたが、そのキリストがヨハネを訪問して下さったのですから、キリストは本当に来ておられるという太鼓判を頂いたようなものですから、ヨハネは感激して喜び踊りました。これは15節でガブリエルが告げた『既に、母の胎にいる時から聖霊に満たされている』から起こりました。
クリスチャンの場合はどうでしょうか。私たちはキリストの教会から伝え聞いています。今から2000年前にキリストは生まれました。成人して天国の話をされましたが十字架につけられ殺されます。しかし、死人の中から甦り、天国への道を一本通して、天に帰られました。その時に天国での住まいの準備が出来たら、必ず迎えに来る、と約束されました。その時、目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もありません。天国はそれだけではありません。新約聖書の黙示録はキリストの言葉を伝えています。「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである」。最後に全ての事に対して正しい審判が下されます。私たちの心を痛めるような不正がまかり通され様とも、厳しい現実を前にしてどうしようもない時も、主は必ず来て正される、これが天国です。これが最後まで無くならない希望です。
ヨハネと同じではありませんが、クリスチャンはキリストの教会に集まり、礼拝の恵み、洗礼や聖餐の恵みに与り、聖書の言葉を通してみ言葉の恵みに与り、キリストが必ず来られる約束を頂いています。2000年前のクリスマスの時、キリストは私たちの世界に訪れて下さいました。しかし、そこに居た人々は誰も歓迎しませんでした。喜び踊る人なんかいませんでした。しかし、キリストは必ずもう一度来られるという約束を聞いています。私たちはそれを信じて今を生きる人間です。クリスマスは、もう一度来られるキリストを迎える予行演習です。ですから、もっと大きな喜びをもって去年よりも大きな喜びをもって迎えましょう。
★キリスト再臨までの生活
エリサベトが最後に言いました「主がおっしゃったことは(これは約束の事ですね。それが)必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」。これはマリアに対する言葉でしたが、胎内のヨハネはこれを聞いて思ったでしょうね「ママ、その通りだね」。私たちの人生は、登山隊に例えられます。過去が入ったリュックをそれぞれが背負っています。その重さはどのくらいでしょうか。単独ではありません。登山隊です。だから何とか助け合って登ります。しかし、どうしても必要なものがあります。それは、確かな頂上が見えることです。一番確かな頂上、それはキリストがもう一度必ず来られるという約束のことです。それを信じて登山する、これこそ最後まで残る幸いであり、希望です。これを確り握って下さい。新聖歌81番「諸人声上げ」を午後のコンサートと、25日の礼拝でも歌います。新聖歌に載っている一番古いキャロルです。原歌詩の最後はアルファ・エス・エ・オ「汝はアルファでありオメガ」で終わっています。救い主であり審判者であるアルファでありオメガであるキリストが必ず来られます。それを前提にして今を見、今を生きるのです。エリサベトは皆さんにも声高らかに言います「主の約束が必ず実現すると信じる人は、なんと幸いでしょう」。
2022.12.04
「神の民のいこい」イザヤ書32章15~20節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★キリストの誕生日として、世の中に知れ渡っているクリスマスですが、キリスト教の教祖の誕生日だ、なんて思う人もいるでしょう。教会は正確にクリスマスを伝えなければならないですね。神のひとり子がマリアの胎に宿られた前代未聞の、これから先もあり得ない出来事が約2000年前に起こりました。それを記念する日がクリスマスです。しかし、私たちはこの出来事と今の自分とを重ね合わせる日でもあります。私たちの場合は、洗礼を受けた時に神からの賜物として、聖なる神の霊がこの身体に宿られます。使徒パウロがコリントの教会の信徒にこのことを重ね重ね伝えています。1コリント3:16と6:19と2コリント6:16参照。ですから、私たちはマリアに私たち自身を重ね合わせます。
★さて、この前代未聞の出来事が起こる前に、マリアに受胎告知がなされます。ダヴィンチが絵にしていますね。それが今日の聖書箇所です。この任務遂行に抜擢されたのが天使長ガブリエルでした。ミカエルと共にその時より約500年前に二人は預言者ダニエルの所に遣わされていました。ここからは私の想像なのですが聞いて下さい。
★「神さま。ガブリエル、まいりました」。神の招きに答えガブリエルはお傍に近づいて、今回の任務を聞きます。彼はその内容を聞いて驚きました。「独り子のイエスさまを人間として地上に生まれさせる。神さま、とうとう、その時がまいりましたか。あなたさまの長い間の念願が叶うのですね。かしこまりました。行ってまいります」。
★まずは祭司ザカリアの所に現れました。いつもの様に天使の決まり文句の言葉「恐れることはない、ザカリア」をもって、任務を果たしました。次に、マリアの所に現れました。一番重要な任務、受胎告知をする時、ガブリエルは天使の決まり文句ではなく「おめでとう」と言ってしまいました。おめでとうなんて言った天使は他にいません。受胎告知することがいかに、緊張と興奮と感動と喜びに満ちていたかが分かります。以上、私の想像でしたが、神の独り子を胎に宿す、という事が後にも先にも無い、どえらい出来事であったことを、今日まず皆さん、知って下さい。
★では、皆さんマリアの受胎で何が起こっているのでしょうか。31節「あなたは身ごもって、男の子を産みます」とのお告げに、マリアは34節「どうして、そのようなことがありえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と答えました。受胎はマリアが考える単なる妊娠ではないので、ガブリエルはもう一度言い直して説明しました。35節「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」。言い直してもらっても私たちにはまだピンときませんね。それでこの表現と大変似ていることを、神は以前行なわれておられますので、そのお話をしましょう。
★昔、神は自分が選んだ特別の人々と一緒に住むために、神の家(テント)を造らせました。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」様に、そのテントに天から神が降られると、その周りを雲が包みました(出エジプト記40章34-35節参照169ページ)。この様にして神はテントの中に宿られ、彼らと共に旅を続けられました。神が下さった土地に住み国を築いた時、ソロモン王がテントの代わりに神殿を建てました。神は神殿に宿られ彼らと共におられました。しかし、彼らが神から離れ他のものを神とし始めたので、神は神殿から出ざるをえなくなりました。神の居られない彼らのその後は、国の滅亡、神殿の破壊、指導者たちの他国での捕虜生活でした。しかし、神は彼らを見捨てず、異国の地で預言者エゼキエルを立て、神は幻で彼らが神に立ち帰るなら神殿を再建し、そこに神が降り、いと高き方の力が包み、神が再び神殿に宿られる幻を現わされました。しかし、それは実現しませんでした。
★胎内に子を宿すということは、真にその子と母がお腹の中で一つになることですね。妊娠中の母と子の関係が大変密接であること、いわゆる一心同体であることを現代の医学は証明しています。胎内とは、赤ちゃんがお母さんの影響をもろに受ける場所です。そこに宿るとは正に私たち人間と一つになられると言う事です。
★神が私たちと一つになってくださったら鬼に金棒、なんてまず思っちゃいますが、しかし、もう一つ思うことがありますね。こちらの方が気掛かりじゃありませんか。それは、神にどんなにご迷惑をお掛けする事か、ということです。私たちは神を尊ばず、神に逆らい無視し、自分が神になって、我を通して神を端に追いやり、神を悲しませ、苦しめるでしょう。イエスさまが十字架につけられて殺された、それと同じことを私は私と一緒におられる神に対して行なうに違いありません。
★しかし神はそれも分った上で「わたしはわたしの子イエスを人間の子として生まれさせよう、この子にその全ての罪が覆い被さってもいいから、人間と共にいたい一つになりたいのだ」と決断されたのでした。それも特別な人に対してではありません。マリアは祭司でも賢者でも霊能力者でも宗教家でもありません。無名で普通の平凡な娘です。神の子が人間の子としてそのマリアのお腹に宿られたとは、神が無名の普通の平凡な私たち一人一人と一つとなって下さる、そのことが始まった記念日がクリスマスです。私たちはクリスマスに一番何をすべきでしょうか。38節のマリアの言葉に注目してください。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
★マリアの人生は自分の思い通りに行かなくなります。その頃婚約者ヨセフと今後の二人のことについて色々と計画していたに違いありません。今回のことが実現したらヨセフとの関係自体が終わりになるでしょう。これは絶対に納得できないことです。しかし、マリアは全能の神に任せました。任せるとは自分は何もしない無関心でよいということではありません。神に任せるとは、神の僕になることです。具体的には私が主となっている所に神を主として迎えることです。そして、私がへりくだって、主の僕になることです。
★マリアは自らを低くして具体的に自分のお腹の中に主を迎えました。これは頭で主を信じ迎えるのではない事を意味します。心でもない。この身体で迎えるのです。私たちの場合、生活の具体的な場面にキリストを迎える事です。僕となって、その指示に従って、生活しましょう。これが、もう一度天から来られるキリストを迎える備えになります。
★へりくだって自らを低くしましょう。そしたら必ず神が確かに共にいて下さる事を体験します。マリアが最初にそれを体験しました。マリアに倣って自らを低くする者がこの重大事に気付かされます。ですから心の思いの高ぶりは無いか、吟味する事がクリスマスを迎える備えです。へりくだりましょう、神があなたと共にいて下さいます、これは確実な約束です。神の使いガブリエルは今日の皆さんにも伝えます。「おめでとう、恵まれた方、主があなたとも共におられます。」
2022.11.27
「信じて前へ」ルカによる福音書1章1~25節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
★人生は飛行機に例えられます。高度0mの滑走路から離陸したのが誕生日です。そして高度が上がります。穏やかな天候の時は順調に上昇しますが、風や乱れた気流の中の時は上がったり下がったり揺れます。幼児期から少年期と成長し、思春期や青年期に至る、これに当たるでしょう。そして巡航高度約10000mまで上昇して落ち着きます。これが壮年期に当たりますね。シートベルトサインが消えます。客室アテンダントさんの色々なサービスが始まります。途中、チョコチョコ乱気流通過の為に、シートベルト着用サインが出ることもありますが、この快適な空の旅が人生最高の時を表しています。しかし、目的地に近づいたら降下して行きます。熟年期です。
★もし、人生を上下方向だけでとらえるなら、飛行機の降下は人生の後退になります。例えば老いることがそれに当たります。今までできたことが出来なくなります。そして高度0m着陸が死です。それで終わりです。しかし、教会に集まる皆さんは、イエス・キリストによって、人生を上下方向だけではなくて、前後方向で捉える人に変えられました。
★飛行機の高度が変化する様に、私たちの人生でも上がり下がりがあり、それによって一喜一憂します。しかし、その高度の数値に関係なく、飛行機は出発地から目的地へ着実に前進し続けています。決して後退していません。私たちの人生も同じです。前に進んでいます。
★富岡ぬいさんが作詞した子ども讃美歌の一曲を紹介します。「生まれる前から神様に、守られて来た友達の、誕生日です、おめでとう」。この歌の背後には、『生まれる前から』前に進んでいるという、前後方向の人生観があります。誕生日の歌ですから、死んだ後の事は歌われていませんが、当然死んだ後も前に進むということも、視野に入っています。
★修道院で一日の最後にラテン語で「メメント・モリ(覚えよ死を)」と挨拶を交わす伝統があるそうです。今日一日が終わり、眠りに就くのは明日へ進むためなのですが、いつか最後の日、すなわち死ぬ日が来ます。その現実を忘れないためにこの挨拶をします。そして、その日も眠りに就きます。死を超えてさらに進むためです。死という現実から目をそらしたり、忘れたりして生活している町の人は、修道士たちの生活が非現実的な生活に見えるでしょうが、彼らこそ非常に現実的な生活を送っています。
★この様に上下方向に左右されないで、前後方向に人生を捉えて進む、ここに真の希望があります。神はイエス・キリストを死人の中から甦らせ、眠りに就いた人たちの初穂となさって、この希望を私たちに与えて下さいました。聖書にこんな言葉があります。1コリント15章32節「もし、死者が復活しないとしたら『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」。皆さん、神がその独り子イエス・キリストを、クリスマスに人間として誕生させられたのは、私たちが上下方向に左右されない前後方向に人生を捉え、希望を持って前に進み続けるためです。これが福音です。
★今日朗読されたルカ福音書は、キリストの教会に繋げられこの福音と接し、今までは神に敵対し、神と無関係に歩み続けて来た自分から、神を愛する者に変わったテオフィロに、その福音が確実なものであることを伝えています。テオは神、フィロは愛する意味です。私たちもキリストの教会に今繋がり、神を愛する者テオフィロに、変えられました。変えられている所、現在進行中です。また、これからも変えられ続けるでしょう。ですから、テオフィロは私たちでもあります。今日から来年のイースターまでルカ福音書を読んで行きましょう。
★さて、最初に登場するのは、当時のユダヤ教の祭司で宗教者で、代々続く宗教者の家柄で、6節で紹介されています様に、神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非の打ちどころがありませんでした。ザカリアとは「神は思い起こされる」、エリサベトとは「神は豊かである」という意味だそうです。エリート的、優等生的存在であった彼らでしたが、7節「しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子どもがなく、二人とも既に年をとっていた」、とあります。正に降下の一途を辿る人生でした。信仰生活をしていましたが、現実は希望の見えない人生でした。
★私は今日最初に、人生を上下方向だけではなくて、前後方向に捉えましょう、とお勧めしましたが、この夫婦同様、私たちの現実は厳しいです。エリサベトが最後に一言口にしました25節の言葉にはその現実が伺われます。「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間から私の恥を取り去って下さいました」。彼女は子どもが与えられない事を自分の恥と思う心をズーッと抱え、神はわたしに目を留めて下さっていないのでは、と言う思いに悩まされていた様です。人間の奥には、人生をどうしても上下方向で捉え、神への不信を生み出す根が張っているのですね。その根は自分がいくら頑張ってもどうすることも出来ません。天使ガブリエルのお告げを信じなかったザカリアも、その根底には神への不信を生み出す根が張っていました。エリートであり優等生的存在として、この夫婦は装っていましたが、この様な現実がありました。それでは私たちはどうでしょうか。凡人の現実はなおさらですね。
★しかし、ルカ福音書は神からの福音を語る一番最初に、人間のこの厳しい現実を取り上げ、そこに神が働かれる事を私たちに伝えています。ザカリアもそれを体験し、口が開けて預言しました。1章78節「あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの道を平和の道に導く」。非常に希望溢れる内容です。彼はこの希望の出所を、高い所から、神の方から来たことを強調しています。
★神はこの夫婦に対して沈黙をし続けられました。しかし、ザカリアが聞いた20節の天使の言葉「時が来れば実現する」に注目して下さい。その沈黙は時が来るまでの沈黙でした。皆さん、沈黙には二つの意味が含まれています。全く目を留めていないか。その反対のじっと目を留めておられるかのどちらかです。私は住宅建設販売を一貫して行う会社で働いていた時に、現地販売事務所の営業マンからこの事を聞きました。神の沈黙は後者の方、じっと私たちに目を留めて下さっています。
★聖餐式の中で新聖歌50番「心を高く上げよう」を歌っていますのは、私たちの厳しい現実に神からの上からの働きを求める歌だからです。皆さん、上下方向のことが気になりますが、神を信じて進むのです。キリストはその先頭に立って確かに進んでくださいました。死を乗り越え、前へ進まれ、私たちはその跡を辿ります。どのような時にも神に信頼して、御前に心を注ぎ出せ、神は我らの避けどころ。心を高く上げて、神の働き守り導きを信じて私たちも進みましょう。
2022.11.20
「ゴールは天国だよ」ヨハネによる福音書3章3節節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
みなさん、チョットこれを見て下さい。
博多駅に電車が停まっています。
みなさん、知っていますか。電車の正面には必ず最後に停まる駅の名前が書いてあります。
チョット大きくしましょう。なんて書いていますか。門司港。
この電車が最後に停まる駅、つまりゴールは門司港駅です。
さて、神さまはお母さんのお腹の中でみなさんに、命を与えられ、そして神の守りと導きの中で、みなさんは生まれました。大人の人は詩編の139篇13-18節を読んでください。
神さまから命を与えられ神さまに守られ導かれることは、ちょうど神さまの電車に乗っているようなものです。
お母さんのお腹の中にいる時から、私たち全員は目には見えませんが、神さまの電車に乗り、生まれたようなものです。
その電車が最後に停まる駅、ゴールはどこでしょか。
チョットこれを見て下さい。天国です。私たちのゴールは天国です。
でも、誰一人お母さんのお腹の中で、神さまの電車に乗たことは、覚えていません。神さまの電車に乗って生まれたことも分かりません。
それで神さまは困りました。何とかそれに気付いて人生を歩んで欲しい。苦しみ、悲しみ、悩みの中に置かれる時があるでしょう。しかし、私の電車に乗っているのだから心配はいりません。大丈夫です。それに気付いて欲しい。そして言われたんです。『私の愛する独り息子イエス、その事を知らせに、お前がみんなの所に行ってくれないか。神としてではなくて、人間に成って行ってくれないか』。『はい、分かりました』。今から約2000年前にイエスさまは生まれました。それがクリスマスです。
イエスさまが大人になった時、ニコデモというおじいさんが、イエスさまの所に来ました。コンコン『イエスさま、わたしは子どもの時から今まで、天国を目指して来たのですが、今もどうしたらいいのか分かりません。教えて下さい』。
イエスさまはニコデモに教えてあげました。『はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない』天国に行くことはできない。新たに生まれるとはどういうことなのでしょうか。私たちは既に生まれた後です。その時には神さまの電車に乗っていることに気付かないで生まれました。そして今に至っています。新たに生まれる時とは、それに気付く時です。
イエスさまが、気付かせて下さいます。チョット見て下さい。
イエスさまは言われます『あなたは神さまの電車に乗っています。そのゴールは天国です。わたしは、そのために命を失ってもいいです。喜んであなたのために命をささげます。神さまはそれほどにあなたのことを愛しておられます。あなたに命を与えたのは神さまだからです。あなたは神さまにとって大切な人です』。大人の人は思い出すでしょ。ヨハネ3:16の聖句を。
私は愛されている。私に命を下さったのは神さま。だからこの命は神の守りと導きの中にあります。どんな時にも、どんな所でも、神さまが一緒です。だから大丈夫です。この命は素晴らしい。希望がある。そう信じて神さまの愛を受け取る、それが新たに生まれることです。丁度それは神さまの愛、という目に見えませんが天国行きの切符を受け取るようなものです。みなさんのゴールは天国です。
さて、大人の人にお話しします。今はペーパーレスの時代です。新幹線はE-ticket ヨーロッパの鉄道はOnline-ticketです。車掌は車内で乗客のチケットに印字されているQRコードを読み取りすべての情報を把握します。そこには列車に関する情報だけではなくて、運賃支払額、支払日、決済方法まで記されています。
イエスさまの教会に来たら、改めてその切符を確認しましょう。そこには、切符代を支払った名は神です。金額の項に『神に愛する独り子イエスの命』とあります。支払った日は信じた日ではなくて、あなたの誕生日になっています。信じる前から神はあなたのためにチャンと切符を用意しておられたのです。なぜなら、お母さんのお腹に存在した時から神の電車に乗っているのですから。この切符は恵みです。これを先行の恵みといいます。これこそamazing graceです。私たちは神さまの電車に乗っています、運転手はイエス様です。だから何があっても大丈夫、ゴールは天国です。皆さん、子どもたちと共に感謝して希望を持って進みましょう。
2022.11.13
「単なる希望ではない」Ⅰコリント15章3~8節、19~20節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
最後の晩餐をした夜に、イエスがなさった約束を先週聞きました。父の家、すなわち神の家、天国に、私たちの住む場所の用意ができたなら、私たちを天国に迎えるために、わたしは戻って来る。これは再臨、Second Comingの事です。
あと6回目の日曜日、12/25が降誕、First Comingのお祭り、クリスマスです。First Comingの時、イエスが生まれた町ベツレヘム、いやエルサレムを含めたすべての町で、イエスを歓迎する人は一人もいませんでした。歓迎したのはホームレスの羊飼いと外国から来た星占いの人たちでした。皆さん、Second Comingの時、そんなことは絶対にあってはならないですね。ですから、今年もこの季節、イエス・キリストを迎える備えをいたしましょう。来週20日は子どもに天国の話をします。次の週27日はアドベントに入り、First Comingの経緯からお話しします。今日は、イエス迎える準備をする私たちの信仰の拠り所についてお話をします。
私たちの拠り所、それは、私たちが死んだ後、キリストの再臨、Second Comingの時に私たちも甦って、必ず天国に行って、新しい生活を始めることです。それは単なる希望ではありません。さて、広島で小児科医だったが27歳で僧侶になり、そして再び小児科医に戻り、48歳で洗礼を受け、信徒巡回伝道者として、仏教からキリスト教に導かれた証しを長年行われ、現在86歳になられる藤井圭子さんの「悟りと救い」という本があります。是非皆さんにも読んでいただきたい本で、1コリント15章19節「この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちは全ての人の中で最も惨めな者です」を引用されて、藤井さんは次のように証しされておられます。
「ああ、あの虚しさは、私が阿弥陀仏に単なる希望を置いていただけだったからだ。何の実態もない、単なる希望に過ぎなかったからなのだ」と、若かりし日の尼僧時代を振り返り、涙がこぼれそうになりました。そして、今私に与えられている信仰は、昔ある時、と言うような観念の中の単なる希望ではなく、イエス・キリストの十字架と復活と言う、実質実態のある確かな希望であることを知り、次の20節のみ言葉「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」と、喜びの声を発しているパウロに負けない位、わたしは大きな喜びに満たされたのです。
皆さん、私たちクリスチャンに与えられている希望は、単なる人の願望や、観念の中での単なる希望ではなくて、イエス・キリストの十字架と復活という実質実態のある確かな希望である。ここに私たちの信仰の拠り所があります。この拠り所は信仰の世界だけのことではありません。キリスト教の信仰は、今を生きる事と切っても切れないものですから、信仰の拠り所が確りするという事は、生きる拠り所も確りするのですから、人間が作った宗教と言うという世界を乗り越え、今を人間として生きる、つまり共に生きる事に目を向けましょう。
私の父は、大阪の生野区にある浄土真宗西本願寺派の光明寺という新しいお寺の創建当時から関り、檀家総代をしていました。長男でしたので法事の時は親族が沢山家に集まりました。クリスチャンに成ったら法事はどうしようか、と最初は心配しましたが、信仰の拠り所がしっかりしているなら、心配無用なのです。末吉家の法事は、住職の声が聞こえない程、皆で元気にお経をあげる家でした。兄や叔父さんは民謡を習っていたので良い声なんです。住職も私が牧師であることを知っておられました。しかし、宴席で一度もキリスト教と仏教の宗教批判や対抗のようなことをなさらない方でした。お経をあげた後の宴席を皆が楽しみにして集まっていたものですから。住職もお酒をたしまれるので、長々とお説教はなさいませんでした。末吉家の法事に行ったら早く帰るようと寺の方からというか、奥様から言われていたようです。
その住職の言葉で忘れられない言葉があります。「お経のことは分からんでいい。法事の一番重要なことは、亡くなった人が一番喜んでくれること、すなわち、こうして親族皆が集まることです。仲が悪く集まれない、これこそ故人が一番悲しむことです」。先祖を大切にするとは、供養よりも今の私たちがどう生きているのか、ですね。そして、何よりも生きている間に大切にすることですね。そんなことを教えられました。
さて、法事であげるお経のことなんですが、無とか空という漢字が多いです。この二つの字が日本人の心に共鳴するのではないでしょうか。「貞雄くん、何で外国の宗教を信じるんや」と祖母から言われた事があります。仏教も元々は日本に入って来た外国の宗教であるという認識の無い人が多いと思います。藤井さんの先程紹介した本の中で詳しく説明されているのですが、今風に言うなら、日本の仏教は、日本人の古来からの宗教と仏教と時の為政者がコラボして作った宗教のようです。
仏教は元々、生きている人間が悟ることに目的があり、死後のことは扱っていませんでした。しかし、日本古来の宗教は、死者が土に返るまで、生き残った者に害を加えると言う自然な考えで、宗教的な行事を行い、土に返る頃死者の霊は個性を失い、家や郷土を守る祖霊、氏神へ加えられ、子孫を守ってくれる、そんな宗教観だそうです。なる程と思い当たる事が私たちの周りにありますね。この強い宗教観とコラボして今の日本の仏教が生まれたそうです。ですから、死後の供養が必要になります。旅装束でお棺に入ります。三途の川を渡って冥土へ向かいます。途中迷ってはいけないので、仏壇のお灯明はその足元を照らす為、絶やしてはなりません。そして仏のいる所に行きついて成仏する、そんな仏教となったそうです。以上、私の不十分で、もしかしたら訂正する必要がある、そんな説明ですが、いずれにしましても、死後は私たち人間にとって無であり、空であり、分からいから色々と詮索し、願望する、それが現実です。
ところが、私たちの救い主イエス・キリストは、クリスマスに人間として生まれ、十字架で死に、復活して、死の壁に実際に突破口を開けられました。今日読んでいただきました15章3-8節でそれが実質実態のある、この星で起こった出来事であることを伝えています。その後、300年程して教会が信条をまとめる時に、歴史的に証明できるローマ帝国の総督ポンテオピラトの名前を使徒信条に加えました。そして21節、キリストは眠りについた人たちの初穂となられたことが伝えられています。ここに揺るがない拠り所があります。イエス・キリストの再臨Second Comingの時、私たちも復活して天国に行って新しい生活を始めます。死後は無でも空でもありません。単なる希望があるのでもありません。神は確かな計画を立てて下さっています。だから私たちは心配ないのです。
さて、最後に聖句を紹介します。テモテ第一の手紙1章15節「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」。2章4-6節「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。神は唯一であり、神と人の間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身をささげられました」。この「罪人」「全ての人々」には、既に眠りについた私たちの愛する人たちが含まれる、と信じて私たちはその人達のこともこの神様に委ね切りましょう。
皆さんはどこを拠り所にして生きておられますか。イエスは信仰心を極め天国を目指そうと考えていた老人ニコデモに、彼の人生の土台を拠り所をキリストの上に据え代えて、新たに生まれよ、と命じられました。まだ据え代えていない方は今日、考えていただきたいのです。教会を運転手がキリストの乗り合いバスに例えましょう。あなたが合図をするなら、キリストはいつでもどこでも止まって下さいます。そして乗って下さい。
2022.11.06
「全能の父なる神に委ねよ」ヨハネによる福音書14章1~3節
説教:末吉貞雄 師
礼拝メッセージ(Youtube)
9/19にエリザベス女王の葬儀がロンドンにあるウェストミンスター教会で行われました。その時にトラス首相が朗読した聖書が、今読まれましたヨハネ福音書14章です。葬儀当日は9節まで朗読されました。柩が礼拝堂の祭壇の前に置かれ、葬儀の冒頭デヴィット・ホイル司祭が「我々は確信を持って、女王を我々の創造者で救い主である神に委ねます」と言われました。キリスト教の葬儀の中心は、故人を天地の造り主全能の父なる神に委ねることです。司祭が最初に宣言されたのが、私にとって非常に印象に残っています。
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。この言葉は十字架につけられる前夜、弟子たちと最後の晩餐をした時に、イエスが語られた最後の言葉の一つです。大切な言葉です。「心を騒がせるな」、それは澄んだ水とその底に土が溜まっているコップに例えられます。それは安らかな状態です。私たち人間は不安を感じてそのコップをすぐにかき混ぜてしまう者です。すると澄んだ水が濁った水に変化し、それを見て益々不安になります。これが心を騒がせることです。
先週、私たち牧師は休暇をいただいて、10/13に生まれました孫の桃寧ちゃんの所へ行ってまいりました。お乳を飲んでいる時や、すやすや寝ている時の桃ちゃんの姿を見て、まさに澄んだ水の状態のコップを見ている様でした。私もお乳を飲ませました。百合香牧師から桃ちゃんを受け取りました。首が座っていないので抱くのが非常に難しいですね。桃ちゃんも危険を感じたのでしょうか、真っ赤になってもがき、泣き出しそうになりました。桃ちゃんのコップにも、澄んだ水の底にチャンと土があるのです。澄んでいた水が濁ってしまいました。
この様な幸いな体験をさせていただいて帰って来たのですが、いきなり北朝鮮のミサイル発射のニュースに接し驚きました。私の下手な抱き方ではなくて、爆発音や悲鳴や泣き声やお母さんの不安の中に置かれたウクライナの赤ちゃんのコップは如何ばかりか、と思わされました。武器は敵の攻撃という不安を取り除くものだと言って、今この地球にどんどん増えていますが、武器は、不安を最も大量生産するものであることを忘れてはなりません。人間は底に土が溜まった水の入ったコップのような者です。人間の問題、それは不安です。
実はイエス自身も心を騒がせられました。ヨハネ福音書に三回あります。①11章33節。愛するラザロが病気で死んだ時、喪に服し家族との別離に悲嘆する姿を見て、心を騒がせられました。②12章27節。エルサレムに到着して、ご自分の死期の迫りを感じた時に、心を騒がせられ「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言うしかない状態に陥られました。③13章21節。12弟子の一人ユダが裏切ろうとする時に、心を騒がせられました。皆さん、私たちも別離、死、裏切りによって心が騒がせられますね。特に、先に召された方々との別離と、自分もいつかは死ぬという究極の問題に対して、私たちも心が騒ぎますね。神の独り子であったイエスが私たちと同じく心を騒がせられたことは、本当に私たちと同じ人間に成られたことを、人間の問題、不安を担われたことを表しています。
そして、死ぬ間際、イエスは十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と叫ばれました。神がその独り子お見捨てになるわけがありません。十字架のイエスは、神の子と言う身分を捨てて、私たち人間と同じになっておられるのです。つまり、イエスは十字架につけられる必要がないお方なのですが、私たちに代わって十字架につけられておられるのです。だからイエスの十字架は私たちのための十字架です。先に亡くなられた方々のための十字架です。そして、今ここにおられるあなたのための十字架です。ここが一番大切なところです。
神はこの十字架のイエスを、葬られてから三日目に、死人の中から甦らせ
、天に帰らせられました。これも私たちのためであり、先に亡くなられた方々のためであり、今ここにおられるあなたのためです。神は私たちを、先に亡くなられた方々を、そして今ここにおられるあなたを、お見捨てになったのではありません。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。これがイエス・キリストの福音です。
そして、続き2-3節を読んでから、話の続きをいたします。イエスは天地の造り主全能の父なる神の所に私たちのための住まいを準備し、準備完了後もう一度私たちの所に迎えに来られます。そして、天国での生活が始まります。天国では、神、イエス・キリスト、先に召された人々、これから召される人々、皆が共に集い、新しい歩みが始まります。人生は死で終わりません。死後の天国での生活の方が遥かに長いのです。多くの人は死んだら天国に行くと考えておられるのですが、その準備は全くされていません。今、生きている間に神とイエス・キリストを信じる、これが必須の準備です。そして、これは恵みです。信じるとは大人が信仰心を持つことではなくて、幼子のように神に信頼を置いて任せる、委ねることです。だから恵みです。
死に対する不安という究極の問題に対して、イエス・キリストは安心せよと、約束なさいます。だから、皆さん、確信を持って、この神にあなたのすべてを委ねましょう。神は全能の神であり、その独り子イエス・キリストの命を献げるほどに、私たちを愛して止まない神です。ご自分のことを父と呼んでいい、とおっしゃるお方です。「心を騒がせるな。